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マグカップの中に小人がいた。 私は夜中に仕事をしていた。仕事をするときにはPCのすぐ脇にコーヒーを置いておく。飲み残したそのコーヒーの中に、一人の小人がいた。はじめてみる小人だった。何食わぬ顔で足を茶色い液に浸し、白磁の壁に寄りかかっている。 のぞき込むと、あ、どーも、というように手を上げて、ちょっとお腹が痛くてね、悪いわね、と言った。悪いわね、の屈託のない調子に、人が飲んでいるものに足を突っ込むなんて無礼じゃないかと言いそびれた。虚を突かれたということもある。「お腹が痛いとコーヒーに浸かるんですか?」おずおずとわたしは訊いた。 あったまるから。肌にもいいのよ、ほらね、と、小人は竹細工のような足を持ち上げて見せた。艶やかな足の先にミュールを履いている。コーヒーに土足で入るなんてと悲しくなったが、小人のすることなので我慢した。 それにしても、きめの細かな美しい足である。じっと見とれていると、持ち上げた足をくねくねとくねらせた。自分の身体が相手に与える影響を知りつくした所作である。顔が小さすぎてよくわからないが、若い女であるらしかった。「このコーヒー、資生堂のコラーゲンが入ってるでしょう。アミノ酸入りのやつ」 ちゃぷんちゃぷんとつま先でコーヒーをかきまわしながら、小人が言った。ミュールの甲に星型の飾りが光っている。「資生堂のって、どうしてわかったの?」 匂い、かな、と小人はそつのない調子で答えた。 そのコーヒーにはまさしく、資生堂の缶入り粉末コラーゲンが入っていた。二週間ほど前に駅前の恵比寿薬局で求めたものだ。 その日、ヨードチンキを買いに行った私は恵比寿薬局のおじさんとの戦いに敗れ、コラーゲンを買い求めたのだった。 探していたヨードチンキは棚になく、おじさんに出してくれるように頼んだら、いつまでたってもヨードチンキを出してくれずに、当のコラーゲンを強く推奨してきた。 あたしなんかも飲んでるんだけどね。そう言っておじさんは、こんがりと日に焼けたあごから額、頭頂部から後頭部にかけて、一筆書きにつるんと撫で上げ、撫で下げた。その一連のつるんを見ていたら無性に煮卵が食べたくなって、矢も盾もたまらずに千円札を二枚投げつけて、コラーゲン缶の入った買い物袋を引っつかんで店を飛び出した。まいどー、というおじさんの声が信号を無視して横断歩道を渡るところで聞こえたが、煮卵のことで頭がいっぱいだったので無視した。 家に戻った私はゆきひら鍋に冷蔵庫の卵を残らず入れて、水を注ぎ、優しくかき回しながら沸騰を待ち、きっかり十五分経ったところで冷水につけ、卵の殻をむきはじめたところで、しまった、またやられたと思った。 恵比寿薬局ではいつも余計なものを買わされる。先だってはバンドエイドを買いに行って海苔を買って帰ったし、その前は宇津救命丸を買いにいってウコンを持ち帰った。他の客の動向を見ていると、なにやら法則があるに違いないのだが、この街に引っ越して日が浅いので未だ読みきれていない。 悔しかったので、ゆでた卵は煮卵にせずにコラーゲンをかけて一気に食べた。ひどくまずかったが、かまわずに飲み込んだ。これで案外、私も負けず嫌いである。 コラーゲン入りコーヒーに足先を浸した小人は、光江と名乗った。年はと訊くと、当ててみて、などとウィンクするので、バカらしくなって質問を引っ込めた。光江が何歳でもわたしには関係ない。合コンしているわけではないのだ。 コーヒーを諦めて再び仕事に戻ると、ぬるいんだけどお、と光江が言った。カップを触ってみると、なるほど冷え切っている。一時間も前に淹れたコーヒーだから当たり前である。少しばかり不憫になって、お湯を足す? と訊くと、いいねい、と言う。 私はカップをわしづかみにして台所に行き、電気ポットの湯を足してやった。火傷をしないかと気がかりだったが、八十度くらいの湯では平気であるらしかった。小人とはそういうものかもしれない。 二十から二十五までともに暮らした、同じく小人の正夫もまた、熱い湯を好んだ。正夫はコーヒーカップに入り込むようなことはしなかったが、真っ裸で味噌汁の椀の真ん中に座っているので往生した。なめこの味噌汁が気に入りで、両の脇の下に箸を差し込むと、くすぐったがってうひゃうひゃと笑ったものだった。 ちょっとお、コラーゲンは? と光江が声を上げた。上目遣いでしなしなと腰を振っている。慌てて粉末コラーゲンをふり入れると、光江はごほごほとむせた。熱い湯は大丈夫でも、粉ものは苦手であるらしい。割り箸を立てかけてやるとよじ登ってきたので、再度コラーゲンをふり入れて、薄くなったコーヒーを人指し指でかき混ぜてやった。 光江は割り箸によじ登ったまま、器用に服を脱いだ。足湯では飽き足らず、風呂に入るつもりであるようだ。とさっ、とさっ、と着ていたものをカップの縁から外に放り投げ、素裸になってカップの底に降りていった。そして、うす茶色の湯に身を沈めると、ふうとため息をついた。 湯はちょうど、座った光江の胸ほどの高さまで来ており、いくらのように丸い胸が湯の上に盛り上がっていた。半透明のコーヒーに透けて見えるウエストはきれいにくびれており、小人ながら均整の取れた見事な体である。 じろじろと見ても特に気にもしていないようで、生理痛にはお風呂が一番よね、などと言いながら、溶け残ったコラーゲンのダマを全身に塗りたくった。 お腹が痛いといっていたのは、あれは生理痛だったのか。少しばかり気の毒になって、風呂上りには温めた牛乳を飲ませてやると決めた。ブランデーをひとしずく垂らしてやろう。体が温まる。 光江が風呂に入っている間に仕事を片付けてしまおうとPCの前に戻ったが、どうにも手につかない。久しぶりの小人であるので、恥ずかしながら興奮しているようだ。 私は仕事をあきらめて、昔、正夫が使っていたバスタオルを探すことにした。しかし、もうずいぶんと昔のことなので、どこにしまいこんだかがわからない。ちょうどいい大きさのやわらかい布を考えあぐねて、恵比寿薬局のおじさんを起こしてガーゼをわけてもらおうと財布をつかんだが、行けばまた何を買わされるのかわかったものではないと思いなおした。こんな夜中にゴキブリホイホイなど買わされたら悲しみが募る。 仕方がないので古いハンカチをはさみで切って代用することにした。裁ちばさみでハンカチを四つに切って、ひとつはバスタオル、ひとつはインドのサリーのように体に巻いて洋服がわりに使ってもらって、残りの二枚は替えということにしよう。仕事が一段落したら、正夫にしてやったようにじんべえを縫ってやってもいい。なんだか、楽しくなってきた。 そろそろ、光江が湯から上がる頃だ。わたしインターネットでサリーの巻き方指南のページを探してプリントアウトすると、いそいそと台所に戻った。 台所の床にキッチンペーパーのロールが転がっていた。それを拾い上げて、光江の脱ぎ捨てた服がないことに気づいた。 光江が、いない。 キッチンペーパーで体を拭いて、脱いだ服を再度着込んで出て行ったに違いなかった。正夫は一度来た服は、洗濯しない限り、絶対に袖を通そうとしなかったが、小人にもいろいろいるのだろう。 カップの縁に立てかけたままになっていた割り箸で、うすく垢の浮いたコーヒーをかき回した。からんと小さな音がして、割り箸を持ち上げると、光る星の飾りが先端に引っかかっていた。光江のミュールについていた飾りだ。 光江、光江、光江、と三回呼んだ。 それから、仕事に戻った。仕事は朝までかかっても終わらなかった。
2006.08.04
「趣味でやってると見せかけて、本当はそれがおじさんの仕事なのよ」 わたしは言った。おじさんが雇われているのは郵政公社だね。郵政公社はコンピュータの普及による郵便事業衰退を懸念して、鳩を使った新通信事業を立ち上げようとしている。鳩を使えば人件費輸送費の削減も可能となる。「しかし」みどりは言った。従来の鳩では郵便事故の多発が予想されるため、日本全国に研究所を置いて優秀な鳩を観察、選別し、さらにはクローン技術を導入して優秀な鳩を量産、世界に先駆けた鳩事業の立ち上げを狙っている。「これまで研究は秘密裏に進められてきた。組合の突き上げ、あるいは動物愛護協会からの非難が予想されるからだ」「そこへバス会社と商店街からの苦情が舞い込む。鳩に餌をやらないで欲しい」「おじさんは苦悩する。事業立ち上げが発案されてから十年、鳩おじさんと呼ばれ、地元の人たちにも親しまれてきた。今までうまくやってきたのに、仕事のせいで社会から隔離されようとしている」「日がな一日鳩と向き合う仕事はそれでなくとも孤独だというのに。おじさんは上司に相談する」「上司の反応は冷たかった。地元の下らない評判と研究とどっちが大事なのかね。そり残したひげを親指と中指でつまみながら上司は言った」「家の二階を餌場にしたらいいじゃないか。家の中でやってることまでとやかく言わんだろ、あん?」「そんな言い方はないんじゃないすか。おじさんは激怒する。しかし言えるわけがない。プロジェクトから降ろされるのがおちだ」「鳩の研究を取ったら、おじさんには何も残らない。おじさんは宙を仰いだ」「自分はこの十年何をしてきたんだろう。おじさんは……」「おじさんは?」「だめ。これ以上続かない」わたしはがっくりと肩を落とした。「弱いなあ」とみどりが笑った。 この手の遊びはいつもわたしが負ける。「鳩おじさんはだめよ。男だもん」 わたしはすたすたと歩き出した。登場人物は女のみ、と決めたばかりだった。「公演はいつがいい?」わたしの後を追って、みどりが横に並んだ。 駅はもうすぐそこだ。その後わたしはバイトがあって、みどりは所属している劇団の演出部に顔を出すといっていた。「あったかくなってからにしない?」わたしは言った。「そのほうが客足が伸びる」「じゃ、三月。四月のほうがいいか」みどりは紙袋を抱えなおした。よいしょ、手提げ袋に入れてもらえばよかった。「四月は忙しいかも」わたしは言った。 それまで三年働いてきたバイト先への社員としての就職話が出ていた。もし社員になるなら四月からになるはずだった。社員になりたいと思っていたわけではないが、このまま今の暮らしを続けていく自信もなかった。いずれはプロにといって芝居中心に暮らしている先輩たちはバイトで食いつないでいる。公務員になって芝居を続けている先輩もいるが、彼らは趣味と割り切っている。どっちに寄ることもできず、宙ぶらりんのまま、大学の卒業を控えていた。「じゃあ、三月にしよう」みどりが言った。「なら、そろそろ劇場を押さえたほうが……」「あっ!」 みどりが駆け出した。
2006.07.10
「これ、衣装に使おうよ」 激安洋品店に入るなりそう言って、みどりは白Tシャツをほいほいと買い物かごに投げ入れた。大道具を全部真っ白にしつらえてさ、小道具も白、衣装も白、出てくる人出てくる人みんな白くて、で、ねじれてんの。白ってストイックだよね。「ストイックって、わかってて言ってんの?」将来性の高いTシャツの見分けがつかなくて、わたしはまだワゴンの中をひっくり返していた。服は将来性が大事だ。百五十円の作業着でも。 キンヨク・テキってことでしょう? みどりはそう言って、山盛りのかごをレジ台に乗せた。どん。 レジで本を読んでいた若い女の子が――といっても、同い年ぐらいだったはずだ――けだるそうに、しかし、ていねいにTシャツを一枚一枚畳んでくれた。きっちりと畳まれた白いTシャツはキンヨク・テキに見えないこともなかった。 結局、将来性のあるTシャツは見つからなくて、わたしは手ぶらで店を出た。みどりは紙袋を二つ抱えていた。「ねえねえ、見た?」店を出るなりみどりが言った。「何を?」「あの子の読んでた本、『O嬢の物語』だった」みどりは嬉しそうに言った。耽美派エロ小説よ。白昼堂々あんなの読んで、そりゃ、アンニュイにもなっちゃうよね。「アンニュイ」という言葉がまだ市民権を得ていた時代だった。 激安洋品店の隣は鳩おじさんの家だ。 鳩おじさんというのは、鳩好きのおじさんである。二階の窓からえさを撒いて、近くの神社の鳩を自宅まで呼び寄せていたのだけれど、おじさんの家は大通り商店街の真ん中に位置していて、しかも目の前にバス停があったものだから、糞害がひどいから鳩にえさをやらないでくれとバス会社と商店街から苦情が出た。 おじさんは激怒した。二階の窓からえさを撒くのがいけないなら部屋の中で撒く、と自宅の二階部分を鳩に開放してしまった。自宅の部屋の中でやってることまで文句は言えないから、バス会社はバス停の上に屋根をつけてその場をしのぎ、商店街はただため息をついた。 タイラーメンを食べた帰りには、みどりと並んで鳩おじさん家の二階の窓を見上げるのが習いだった。二階の窓は黒くぽっかりと開いて、見ているまに鳩がしゅうしゅうと吸い込まれていく。部屋の中はきっと糞だらけだ。「鳩おじさんのこと、書こうかな」みどりは言った。鳩おじさんは鳩の固体識別ができるのよ。訓練を受けたエキスパートだから。やってくる鳩にそれぞれ名前をつけていて、その食事量排泄量飛行距離を事細かにノートに記録している。
2006.07.09
「それで、どんなのがやりたいの?」 トムヤムクン・ラーメンを食べながらわたしは訊いた。気に入りのタイラーメンの店にいた。トムヤムクンの中にラーメンが入っていて、泣きそうになるほど辛い。でもうまい。えび入りか肉入りか太麺か細麺か選べて、わたしが「クン、細麺」で、みどりが「クン、太麺」だ。タイ語でえびはクンだ。この店で覚えた。「日常の覗き見をテーマに」みどりが涙をにじませながら言った。「のぞきみぃ?」同じく涙をにじませながら、わたしは答えた。その日のラーメンは特別に辛かった。「普通の人の普通の暮らしをね、お客さんに覗いてもらうの。微妙なずれとか、ゆらゆらした気持ちとか、そういうのをね、見せたいのよ」「ドラマ性を切り捨てたところに残るなにか、とかそういうやつ? あ、だめだって!」 わたしは声を上げた。みどりが水を飲んだからだ。水を飲むと死にかけていた味蕾が生き返って辛さ倍増、本気涙が出る。「そんな小難しいのじゃなくて、覗き見って言ったらホントに覗き見よ。くーっ」 みどりの灰色の右目からぽたぽたと涙が落ちた。だから言ったのに。「客席と舞台の間に覗き穴を作るとか?」「そういうんじゃなくて、んー、うまく言えないから、あたし、書いてくるわ」「え、みどりが書くの?」「うん、だめ?」「わたしだって書きたいよ。あ、すいませーん、小ライス――」「二つ」みどりがVサインを作ってカウンターの向こうに突き出した。麺を食べ終わったらご飯を入れて雑炊にする。それがこの店での作法だった。「じゃあさ」みどりは言った。「それぞれ書いてみる、ということで」 会計を済ませたわたしたちは、駅に向かってぷらぷらと歩いた。トムヤムクンの余韻で、口から火を噴きながら歩いているようだった。 店は大通りに面していて、その二、三軒隣に激安カジュアル洋品店がある。どのくらい激安かというと、Tシャツ一枚が当時で百五十円だった。トムヤムクン・ラーメンが六百三十円だったから、Tシャツ四枚は買える計算になる。何の変哲もない無地の白Tシャツで、一度でも洗濯すると不思議なねじれが出る。左のわきの下の縫い目が腹に回り、右のわきの下の縫い目が背中に回る。前身ごろがぐるりと回転して、腹の辺りで後ろ身ごろになってしまうこともあった。 わたしはこのTシャツを作業着として使っていた。釘をひっかけたりペンキが飛んだり、とにかく汚れることが多かったから。 汚れるのは下手な証拠。当時の先輩達がよく言っていた。
2006.07.08
みどりなら行ける。それはわたしが一番よく知っている。わたしたちは、そこからはじまったんだ。 みどりに会ったのはまだ学生の頃、知り合いの劇団の公演だった。受付を頼まれて行ってみると行った先にみどりがいた。原色を重ねたような独特の色彩のゆったりした服を着て、きょろきょろと周りを見回していた。今にも笑い出しそうな口角の上がった口元を覚えている。「はじめまして、水野です」わたしがぴょこんと頭を下げると、みどりは右手を差し出してきた。「はじめまして、みどりです」 初対面でいきなり下の名前かよ。わたしは少し鼻白んで、差し出された右手を軽くつかんだ。みどりはその手をがっちりと握り返して、シャベルですくうようにわたしの目をじっと覗き込んできた。 出たよ、不思議ちゃん。わたしはそう思った。舞台の世界には変わった人が多い。いや、本当はフツーなんだけど、自分は人とは違うんだと思うあまり奇行に走る人がたくさんいた。自己顕示欲が強くなければ、舞台になんて関わらない。 そういう人たちとうまくやっていくコツは、徹底的にフツーに振舞うことだ。奇行に反応しない。見なかったことにする。 ことさらさりげなくみどりを見返して、あれ、と思った。みどりの左右の目の色が明らかに違っていた。左は黒いのに右の色がやけに薄い。灰色と黄土色の中間くらいの色だった。 むかし、そんな犬を見たことがある。シベリアン・ハスキーだったか、近所の子どもにバットで殴られて青い目が灰色になってしまったとかなんとか、犬の飼い主が言っていた。「あの」わたしは言った。「殴られたんですか?」「え?」「右目。誰かに殴られたのかなって」「どうして?」「瞳の色が、違うから」 わたしはわたしで今よりもっと率直だった。今なら初めて会う人間にあんな直球を投げやしない。 わたしが犬の話をして、みどりが大笑いをして、それがわたしたちのきっかけだった。その後ゆっくりと、やがて加速して、わたしたちは親しくなっていった。 みどりは当時、ある劇団の演出部に研究生として所属していた。つまり、脚本家、演出家の卵ということになる。当時人気のあった劇団で、十何人の研究生を取る俳優部門と違って、演出部の採用枠は一年にたったひとり。みどりはその難関を突破したのだった。 わたしはわたしで、やはり脚本を書いていた。といっても、そんなたいそうなものではない。書きたいものを書きたいときに書いて、たまには上演できることもあったけど、劇団に売り込んでも相手にされないことが多かった。請われれば役者として舞台に立つこともあったし、舞台監督のような仕事もした。スポンサーを探して頭を下げて回ったり、DMを書いたり、製作を担当することもあった。つまりは何でも屋だ。有象無象あるアマチュア劇団の、有象無象いる何でも屋のひとりだった。 わたしと会った当時、みどりは退屈していたようだった。難関を突破して研究生になったものの、すぐに書かせてもらえるわけではない。会うたびに、書きたい、公演を打ちたいと愚痴のように聞かされた。 一緒にやろうよ、とわたしが言うのに、そんなに時間はかからなかった。
2006.07.07
とはいえ、すべてはみどりが選んだことだ。外野がとやかく言うことではない。みどりは騙されているわけではない。条件はあらかじめ提示されていた。そういう意味では彼は誠実だった。 いま人に頼るのがどんなに危険なことか、みどりだってわかっていたはずだ。だからこそ誰の世話にもならずに、体を壊してまでひとりでがんばってきたんだから。 なんで、ここでくじけちゃうかなあ。奥さんにばれて慰謝料とか請求されちゃったら、また借金が増えちゃうのになあ、あのばか女。 ばか女、と思わず口に出てしまって、電話の向こうの男がけらけらと笑った。「あなたはそう言うだろうって、あいつが言ってましたよ」 こっちだって笑うしかない。心配してくれって頼まれたわけではないのである。生きていると確認できたではないか。自分の取り越し苦労を笑っておしまいだ。「あいつ、また書いてるみたいですよ」ふいに男が言った。「書いてる?」「ええ。知りませんか? あいつ、脚本を書くんです」「みどりがそう言ったんですか?」「いえ、見ちゃっただけなんだけど」 わたしは少し驚いた。みどりが書くということをこの人が知っていると思わなかったし、状況が状況だから、書くことはもうあきらめたのだと思っていた。 みどりが舞台の脚本を書くようになって十五年になる。その間、メジャーになることはなかった。働きながら子どもを育てながらでは劇団の座付作家になることは難しい。細々とコンクールに応募し続けて、運がよければ最終選考までは残るものの、そこを突破することはなかった。それでも書き続けてきたものの強みで、全国区の演劇祭に作品が乗ったともあった。「書くことは、辞めないでほしいんですよ」男は言った。「何があっても書きつづけてほしい」「みどりの芝居を観たことがあるんですか?」「ええ、何度か。山形の演劇祭からこっちは全部観ています」 わたしは観ていない。山形の演劇祭にみどりの脚本がかかったのは三年くらい前だった。連絡をもらったものの、仕事が忙しくてどうにも休みが取れなかった。いや、それは言い訳だ。休みを取れなかったのではなく取らなかった。自分のことで手いっぱいだったから。 そうか、この人は観てるんだ。電話の向こうの男に負けたような気がして、でもすぐに勝ち負けってなんだよと苦笑した。 勝ち負けの問題じゃない。問題じゃないけれど、実際に足を運んで観てきたという事実は大きい。結婚している間、みどりの芝居は主に関西で上演されてきたはずだから、毎回仙台から出てくるのはかなりの労力だ。きっと、みどりの書くものが本当に好きなのだ。 しゅるんと寂しくなって、自分が嫉妬していることに気がついた。なのに、嫉妬の矛先がみどりなのかこの人なのかが自分でもよくわからない。「うちの会社、山形の演劇祭のスポンサーだったんです」男は言った。聞いて欲しくて仕方がないという感じだった。スポンサーっていっても一口十万とか、そういう世界っすよ。うちみたいなちんけな会社がなれるんだから。それで、招待券をもらって観にいったんです。そこに、みどりの芝居がかかってた。ショーゲキでした。 ショーゲキ、と片仮名で発音して、男はくっくっと笑った。暖かな笑い声だった。 あいつの世界観のようなものにはまってしまったんすねえ。行けると思うんですよ、あいつだったら。こんなところでつぶれてる場合じゃない。
2006.07.06
「みどりが自分で荷物をまとめたんですね」わたしは言った。「誰かに持っていかれたとかではなく」 ええ、私も少し手伝いました。男は言った。私って言うんだよね、この年の男の人は。 みどりが仙台にいるとわかってほっとした。ほっとしたけれど、怒りもこみ上げてきた。何やってんだよ、あいつは。 男は抑揚なく話し続けた。一度こっちに来ちゃうとなかなか戻れないでしょう。交通費もバカにならないしね。急に決まったんです。それで、うっかり連絡しそびれたんじゃないかな。 ありえない、とわたしは思った。みどりに限ってそれはない。連絡しなかったのは明らかにみどりの意思だろう。「一緒に暮らしてるんですか?」声が冷たくなるのを抑えられなかった。「うーん」男は言いよどんだ。知っててもらったほうがいいのかなあ。私、別に家があるんです。「家が」と強調するように男は言った。 知ってるよ、妻子持ちだもんね、と思うけど言わない。 男は続けた。ただ、家とは別に借りている仕事場があるんです。事務所というか、倉庫みたいな場所なんですけどね。一応キッチンとシャワーがついていて、やろうと思えば自炊も出来るし。そこにあいつを間借りさせてるんです。やけにのんびりとした口調だった。「ここだったら家賃を払わなくてすむし、稼いだ分は全額返済にまわせるわけだし、だから、そうさせたんです」 そうさせた。使役動詞。「みどりは元気なんですか?」「うん、まあ、元気で働いてはいるんだけど、時々どうしようもなく感情的になることがあって。気持ちのコントロールが効かないというか」 それはそうだろう。そんな暮らしで平静を保てるわけがない。癇の強い女だと以前の電話でも言ったはずだ。「おれもどうしていいかわからないことがあって、それで、もしよければ相談相手になってもらえないかと思って」一人称が私からおれに変わった。 どうなのかな、この人。わたしは思った。最後までみどりとつきあっていく覚悟があるんだろうか。みどりを思う気持ちが嘘だとは言わない。仙台まで呼び寄せたのも、この人なりの優しさ、あるいは愛情から出た行為だろう。少しでもみどりの経済的負担を軽くしたかった。しかし、男の世話になっての暮らしがみどりの心にどんな影響を与えるかはカウントしていない。いや、わかってて知らない振りをしているのかもしれない。手練れの不倫男とはそういうものかもしれない。 そんな暮らしが長く続くはずがないのにな。わたしは小さくため息をついた。 遠くない将来、みどりの存在は男の妻にも知れるだろう。そのときに両立する目算があるのか。あるいは、「家」を切り捨ててみどりとやり直すか。いや、それはないだろう。その覚悟があったらみどりを呼び寄せる前にとっくにそうしている。いざというときに切り捨てるのは、やっぱりみどりだろうな。 いま現在、みどりはこの人に少なくない体重を預けているだろう。でなければ、わざわざ仙台まで行くわけがない。その状況で、いったん手に入れた支えを失ったらどうなる。 途中で手を引く残酷さを、この人はわかっているんだろうか。
2006.07.05
男の連絡先は簡単に知れた。仙台で個人輸入代行の会社をやっていると聞いていたからだ。本拠地は仙台だけれど東京にも出張にくることが多く、そのときにみどりを訪ねると聞いていた。男の名前、「個人輸入」「仙台」をgoogleに突っ込んだら、男の名前を冠した会社のホームページが引っかかった。ネット社会万歳だ。 男とは、みどりを通じて一度だけ電話で話したことがある。みどりと遊んでいるときに、ちょうど電話がかかってきたのだった。 男は開口一番、あやさんですか、と言った。「なんでわたしの名前知ってんの?」と振り返ると、あたしが話したから、とみどりは鼻を膨らませた。 結婚してからは隠居してしまっていたけれど、みどりは本来、男あしらいが非常にうまい。特別に美人というわけでもないが、わたしの知る限り、男が切れることはなかった。相手をものすごく褒めるということ以外に理由はわからない。 みどりは人を必要以上に褒めた。聞いてるわたしが気恥ずかしくなるような褒め方だ。もっとも、必要以上だと思うのはわたしだけで、本当は過不足なく褒めているのかもしれない。 みどりの新しい男は腰の低い男だった。声を聞く限りみどりに心底ほれ込んでいるという風で、しばらくはみどりさんの近くに漂っていたいんです、とおどおどと言った。しかし、腰の低い男は用心した方がいい。案の定、妻子持ちだった。 あの人ね、不倫が趣味なの。みどりは言った。あたしの前にも何人か恋人がいたみたいよ。中の一人はあたしも知ってる人。最近結婚したんだけど。「愛人っていうこと?」 ううん、違う。そんな甲斐性はないよ。お金は全部奥さんが管理してるから。だから恋人。恋人と愛人は違うっしょ。 でね。みどりは愉快そうに目を輝かせた。結婚しちゃった不倫相手っつう女がすごいのよ。彼のかわいがってた部下と結婚したんだけどさ。その部下も既婚者だったのよ。で、部下は妻と別れて彼女と一緒になったんだけど、式の前の二人で彼を訪ねてきて結婚報告したんだって。わたしたち、結婚しますって二人並んで頭を下げて。本人はあっけに取られちゃって、あいつら、何考えてんのかなって。かなりショックだったみたいよ。かわいいよね。「かわいいかなあ。見せつけたかっただけじゃない」「女が? 部下が?」 「両方でしょう、そりゃ」 わたしはホームページに乗っていた大代表の番号に、仕事の依頼を装って電話をかけた。会社の規模がどれくらいだかわからないけど、名前を冠しているということは男が社長なのだろう。奥さんと二人で切り盛りしているような会社だったら面倒なことになる。みどりがそれをする分にはいいけど、わたしじゃあね。男も浮かばれないでしょうよ。 電話に出たのは本人だった。わたしが誰だかすぐにわかったようで、勢い込むように男は言った。「連絡をくれて良かった。私もあなたを探していたんです」 変わらず気の弱そうな声で男は言った。しかし、どうにも連絡先がわからなくて。 それはそうだ。こっちはしがない派遣社員だから。「みどりはどうしてるんですか?」「ほっとほと、手を焼いているんです」 ほっとほと、と強調して男は発音した。日常会話でほっとほとなんて言う人がいるんだな。わたしは言った。手を焼いてるということは、みどりの行方を知ってるんですね。「え?」 男はわたしの質問に躊躇したようで、「どこまで知ってるんですか?」と疑わしげに訊いた。 わたしはかいつまんで説明した。部屋が空になっていたこと。以降、連絡が取れないこと。まずいことになっているのではないかと気になって、あなたなら何か知ってるのではないかと電話をしていること。「あいつ、なにも言ってなかったのか」と男は笑った。柔らかな笑い声だった。 その柔らかさにむっとして、しかし、声に出さないように気をつけてわたしは言った。みどりはそっちにいるんですか?「ええ、呼び寄せたんです」 いつ?「ゴールデンウィークのすぐ後です。部屋は六月いっぱい借りてあったんですけどね」 とすると、わたしが部屋に行ったときにはすでに、みどりは仙台にいたということになる。
2006.07.04
翌朝目を覚ましたのは六時前だった。明け方の冷え込みに耐えられなかったのである。重い体を起こして顔を洗い、昨日のハンカチで水気を拭いた。借りるつもりでいたのでタオルを持っていなかった。 宿代の代わりに置いていくつもりだったリポDを開けて、二本続けて流し込んだ。ふつふつと可笑しさがこみ上げてくる。こんなところで何やってるんだろな。無事にひと晩過ごしたことで恐怖感が薄らいでいた。 きっとこれは笑い話だ。今月は家賃が払えなくてさ。ひどいことするよね、大家も。とかなんとか、みどりは笑い飛ばすだろう。 化粧水をパタパタと叩いて、髪をまとめて部屋を出た。外は雨が降っていた。 駅前で朝食のドーナツをかじりながら、みどりにメールを打った。部屋を使わせてもらった。ありがとう。ねえ、部屋が空っぽだよ。今度は何をやらかしたの? 少し迷って(笑)と文末につけて送信ボタンを押した。 みどりからの返信はなかった。 それからずっと心配していたわけではない。わたしにはわたしの生活がある。金にならない翻訳バイトの締め切りとか、その程度のものであるが。 それでもふとした拍子にみどりの顔が浮かんで、そのたびにメールを打った。どうしてる? 元気? そんな短い文面でのメールだ。相変わらず返信はなかった。 たまには電話もした。呼び出し音が鳴ることもあったし、電波の届かないところにあるか電源が入っていないため……というメッセージが流れた。 そろそろ本気でまずいかもしれないと思いはじめたのは、三週間が経つ頃だった。 みどりの意思で連絡を絶っているのだったら、それはそれでいい。しかし、何らかの理由があって連絡が取れないのだとしたら、最悪の事態も考えられる。 最悪の事態とはなんだろう。監禁されて働かされている。まぐろ漁船。臓器売買。クスリ。そもそも生きているのか。 みどりのお母さんに訊いてみようかとも思った。しかし、もし行方を知らなかったら、余計な心配をさせることになる。半年前のみどりの離婚でみどり以上に参っていると聞いている。離婚して東京に戻ってきたという知らせも、自分の母親よりわたしのほうが早かったくらいだ。余計なことはしないほうがいいだろう。 わたしはみどりの男に連絡をとることにした。趣味の悪い黄色いカーテンを選んだ、妻子持ちの新しい男だ。反則は承知の上だった。まずは生きているか死んでいるかわかればいい。
2006.07.03
灯りのつかない蛍光灯の下にぺたりと座り込んで、わたしは以前の部屋の様子を思い浮かべた。 玄関を入ってすぐ右手にはテレビ。四方の鴨居には所狭しと洋服がかけてあって、西の窓際には木製の鏡がある。鏡にはS字フックで藤の籠、中には化粧品が入っている。乾燥がひどくてさ。そう言いながら塗りつけていた保湿クリーム。ピンク色のキャップ。 鏡の後ろから部屋を横切るように紐を渡して洗濯物がかかっていた。実家においてきた子どもの名前の入った虫キングのバスタオル。わたしが泊まるときに寝巻きとして借りるジャージの上下。仕事着だと言っていた襟ぐりの大きく開いた、ミニのワンピース。貸してもくれるけど11号はないのよ。失礼しちゃうよね。そう言ってブラシをかけていた。 流しには一組のマグカップ。ご飯を炊くのにもカフェオレを作るのにも使うゆきひら鍋。茶碗。コップ。買い置きのつぶつぶみかんジュース。……みかんジュース? 思い立って、唯一残されていた缶ごみの袋を開けた。きれいに洗われたみかんジュースの缶がごろごろと入っている。 間違いない。ここはみどりの部屋だ。 一気に疲れが出た。座っていられないほど眠くなって、畳の上にごろんと転がった。 いったい何が起こっているのだ。みどりに。あるいはこの部屋に。 隣の部屋からテレビの音がかすかに聞こえてくる。深夜放送特有の若い女の声。声の主が女だということはわかるけれど、意味を取れるほどの音量ではない。気ぃ、使うよね、集合住宅は。 こんこん、とわたしは咳をした。ゴールデンウィークから持ち越した風邪がまだ治っていない。布団のないこの部屋で寝たらまた悪化するだろう。六月の初旬。暖かくなったとはいえ、夜はまだ冷え込む。 みどりはこの部屋の状況を知っているのだろうか。もし知っていたなら、なぜ昨日のメールで知らせなかったのだろう。 借金の取立てがやってきて、家財道具を根こぞぎ持っていったとか? 公的な金融機関からしか借りていないと聞いていたが、もしかしたら町金に手を出したのかもしれない。それが返せなくて……。まさかね。町金がどんな取立てをするのか想像もつかないけどカーテンまでは持っていかないだろう。使いかけの保湿クリームなんか売り物にならないんだし。 本人に確認したいけれど、連絡を入れるには時間が遅すぎた。朝から晩まで働くみどりの貴重な睡眠時間を奪いたくはない。今晩はここで夜を明かして、明日、朝一番で連絡を入れてみよう。 畳がひっそりと体温を奪ってゆく。震えながら、わたしは眠った。 隣の住人が立てる小さな物音に何度も目を覚ました。みどりの知らないところで誰かが荷物を運んだとしたら、その誰かはこの部屋の鍵を持っているということになる。 怖い、と思った。背骨にひたひたと滲みこんでくるような怖さだった。
2006.07.02
みどりが消えた。 メールも電話もつながらない。どこで何をしているのかさっぱりわからない。ある日を境に、ぱっと消えてしまったのだった。 最後に連絡があったのはひと月前のことだ。東京に用事があって、ついでにみどりの顔を見て帰ろうと、わたしからメールを入れた。「明日、そっちに行ってもいい? 岩盤浴に行こうよ」「あたしはいないけど」みどりは即座に返信してきた。「部屋は自由に使ってよ。岩盤はまた今度」 岩盤、で止めるなよ。わたしは苦笑して、それから少しがっかりした。翻訳バイトの給料が入ったので、ぱあっと使ってしまおうと思っていた。ぱあっと使ってしまえるような額だったし。 用事を終えたわたしは、二人で行くつもりだった駅前の岩盤浴に一人で行ってから、みどりの部屋を訪ねた。もとより鍵は預かっている。セカンドハウスに使ってよ、とみどりが渡してくれたものだ。 時刻はまもなく午前二時になろうとしている。同じアパートの住人を起こしてはいけない。わたしは足音を忍ばせてアパートの外階段を上がり、鍵穴に鍵を差し込んだ。みどりのいないときに部屋に上がるのははじめてだ。かちりと音がしたのを確認してドアを開ける。 部屋はもぬけの殻だった。 手作りだと自慢していた蛍光灯の傘も、所狭しと壁にかかっていた服も、布団も鍋も鏡も時計も蚊取り線香も、きれいさっぱりなくなっていた。残されていたのは缶ごみの袋が一つと空のダンボール箱が二つだけだった。 ドアを開けたまま、わたしは玄関に立ち尽くした。 部屋を間違ったのだろうか。 階段を上がって右手奥の突き当たり。いや、間違っているはずがない。部屋が違うならこの鍵でドアは開かない。 ことことと音がして、廊下に人が出てくる気配がした。わたしは息を殺してドアを閉めた。自分がここにいると知られてはいけないような気がする。 カン、カン、という靴音に耳を澄まし、階段を降りきったのを確認して、わたしは蛍光灯のスイッチに手を伸ばした。 つかない。 ガスは? つかない。 水は? 出た。 ジャジャッとシンクに水が跳ねて、空っぽの部屋にびっくりするような音量で響いた。あわてて蛇口をひねり戻し六畳間を振り返った。窓から入った街灯の光が、まだ新しい畳にくっきりと線を引いている。 街灯の光? そうか、カーテンもなくなっているのだ。 妻子持ちの新しい男と選んだといっていた黄色い遮光カーテン。梨だか林檎だかよくわからない果物の絵が描いてあって、黄色いカーテンは金運を上げるのよ、果物もね、とかなんとか、自分で自分を笑うみたいに、みどりは鼻を鳴らしたのだった。
2006.07.01
休憩室にてA「村上さんってさ、ジョーユーさんに似てるよね」B「ジョーユーサン?」C「ああ、上祐さん。オウムの」A「似てない?」C「どうだろ」A「似てるよ。しゃべり方とか。胡散臭いじゃない。質問に真っ向から答えないで、ちょっとずらして相 手を煙に巻く、みたいなさ。ニヤニヤ笑いながらしゃべるところとか」B「しゃべってるの、見たことないからな」A「よくテレビに出てるじゃない」C「そう? 最近はあんまり見ないんじゃない?」A「今朝、ちらっとニュースで見たけど」B「ノーベル賞受賞決定とか?」C「ノーベル賞? なんでまた」 Dがやってくる。D「おつかれー」B「おつかれさまでーす。あれ、課長、今からお昼ですか?」D「うん、会議長引いちゃってさ」A「お、ブタキムですね」D「匂うかな」B「いんじゃないすか。午後は内勤でしたよね」D「だよな。よし、いただきまっす」C「そういえば、課長こそ似てない?」A「あー、似てるかも」D「なによ」C「三柴さんがね、村上さんが上祐に似てるって言うんですよ」A「似てますよね。あのちょっと胡散臭い話し方とか。人を小ばかにしたような笑顔とか」B「小ばかにしてる? わたし結構ファンなんだけど」C「うわっ、趣味わるっ」D「え、その人を小ばかにした趣味の悪い人にオレが似てるの?」C「あ、いやそういう意味じゃなくて。ギャグのセンスとか」A「上祐さんはギャグなんか言わないよ」C「上祐は言わないけど村上さんは言うでしょう」B「そうかな。あんまりそういうキャラじゃないけど」C「いや、けっこう言うって。ほら、村上さんって深夜に番組持ってたじゃん。けっこう前だけど」B「え、知らない」A「わたしもー。ゲストで出てるのしか見たことない。自分の番組なんて持ってたの?」C「毎週有名人をひとり呼んで、お酒飲みながら話すの。トークショーっつうの?」B「うっわー、見たかったなぁ。動いてる村上さんなんて見たことないよ」C「けっこう面白かったよ。ちょっと脂ぎってたけど」A「脂ぎってたの? どっちかって言うとさっぱり系に見えるのにね」B「あ、わたし、エッセイで読んだことある。村上さんの主食はサラダなんだって。奥さんと二人で、毎 食ボウルいっぱいのサラダを平らげるって」C「意外。肉ばっか食べてそうなのに」A「つきあいで何でも食べるんじゃないの? あの辺の人たちっていいもの食べてそうじゃない」C「確かに。だから太っちゃうのかも」B「えー、全然太ってないじゃん。あれで太ってるなんて言ったら世の中の半分以上がデブだよ」C「そう。じゃ、痩せたんだ。昔は太ってたのよ。講演会とかも行ったことあるけど」A「趣味悪いとか言って、けっこう追いかけてるじゃん。隠れファンだったりして」C「書くものは好きだよ。見た目はタイプじゃないけどね」B「わたしも! 村上さんの書くものはとりあえず全部追いかけてる」A「へえ、二人ともすごいね。もしかして日経とってるとか?」B「日経? なんで?」A「日経だったら、村上さんがいかにも書きそうじゃない」C「いやいや、日経には書かないでしょう。だって、村上さんだよ?」B「そうだよ。あ、そういえばこの間の文芸春秋の記事読んだ? 生原稿流出のやつ」C「へえ、書いてるんだ。やっぱ他人事じゃないんだろうね。同じ作家として」AB「ん?」A「村上さんって、昔は作家だったの?」BC「え?」A「生え抜きの株屋だと思ってた」BC「株屋?」C「……あのさ、村上さんって」A「うん、村上ファンドの村上さん」BC「えっ」 BC、顔を見合わせる。B「……春樹だと思ってたよ」AC「えっ」C「……わたしは龍だと思ってた」AB「えっ」D「……俺はしょうじかと思った」 ABC、じっとDを見る。 D、三人を見返す。D「どぅーん」
2006.06.01
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