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モダン・ジャズ・ピアノの父と称されているジャズ・ピアニストのバド・パウエルは、酒や麻薬におぼれた破滅型ジャズ・ミュージシャンとして語られていますが、精神障害により、精神病患者として入退院を繰り返していたことでも知られています。当時の映像の中には、うつろな目をした精神異常者のようなバド・パウエルの姿があります。ある神経生理学者によると、バド・パウエルの精神障害は心理的なものではなく、神経的なもの、つまり、外傷的な原因によるもので神経発作を起こしていたのではないかと言います。バドは、1945年、フィラデルフィアで黒人人種差別から警官に暴行を受けるという事件があり、頭を強く打ち入院しますが、このとき、脳に永久的な損傷を受け、神経に異常をきたすことになったのではないかということです。このころから精神病院の入退院を繰り返すことになりますが、歴史的名作が創造されたのもこの時期で、『バド・パウエルの芸術』や『アメイジング・バド・パウエル』などの傑作を残しています。その神経生理学者は、レコード上のバドの演奏と、彼がうつろな目で、時おり、じっと一点を見つめていたという証言から、演奏中の倍音によって、それが発作として出現したもので、初めは軽度なものだったのが、しだいに強い発作になっていったのではないかと言います。それを精神分裂病(統合失調症)患者として扱われたため、入院させられたバドは、長期に渡って電気ショック療法をされるのですが、ついに正しい治療を受けることなく終わったのだと論じています。バド・パウエルは黒人故の差別により暴行を受け、それが原因の脳障害により精神病患者にされ、自らの奏でる音楽によって症状を悪化するという悲劇に見まわれたという見方があります。このような不幸な経過が、酒や麻薬にも依存する一因であったのではないかとも思えますが、いずれにしても、バド・パウエルは暗い不幸の影がつきまとう人生を送った人であったということです。
January 12, 2007
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今、『au』のCMソングがいい。宇多田ヒカルの「Keep Tryin’」も耳に残る魅力的な曲だが、『ジョン・コルトレーン&ジョニー・ハートマン』の「ユー・アー・トゥー・ビューティフル」を使っているのが、うれしくなってしまう。----------■アルバム『John Coltrane And Johnny Hartman(ジョン・コルトレーン&ジョーニー・ハートマン)』1.They Say It's Wonderful2.Dedicated To You3.My One And Only Love4.Lush Life5.You Are Too Beautiful6.Autumn Serenade録音:1963年「バラード」、「コルトレーン&エリントン」、「コルトレーン&ジョニー・ハートマン」という、インパルス・レーベル時代のコルトレーンの3大傑作の一つ。CMソングの「ユー・アー・トゥー・ビューティフル」のほかにも、「マイ・ワン・アンド・オンリー・ラヴ」、「ラッシュ・ライフ」などの名曲をジョニー・ハートマンが独特の甘い声で歌っています。ハートマンにとっても傑作の一枚と言えます。1963年録音なので40年以上も前のアルバムですが、少しも輝きがにぶらない名盤です。 『ユー・アー・トゥー・ビューティフル(You Are Too Beautiful)』は、リチャード・ロジャース作曲、ロレンツ・ハート作詞の曲で、1932年に作られたものです。
March 17, 2006
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●朝わたしはひとりI'm Gonna Miss You In The Morning作詞・作曲:クインシー・ジョーンズ(Quincy Jones)、トム・バーラー(Tom Bahler)、ラルフ・マクドナルド(Ralph MacDonald)1978年僕たちはこうして二人とも理由なんてかまっちゃいないこんなにも強い愛が間違っているはずなんてない今二人が一緒にいるとこんなにもうれしいんだから私たちはこうして分かち合う時間がほとんどないじきにあなたは彼女のもとに帰り私は彼のもとへ帰っていくのだから今夜はもっとしっかりだきしめてちょうだい朝になったらあなたが恋しくなるから朝になったらあなたが恋しくなるから朝になったらあなたが恋しくなるからだからあなた今夜は私を愛してちょうだい二人はこうしてあまりの気持ち良さに言葉も出ない時を戻してしまいたい偽りの人生を送っていてもじきにあなたがそばにいなくなれば落ち込むことになるのだから*****この曲は、クインシー・ジョーンズ、トム・バーラー、ラルフ・マクドナルドの作品です。クインシー・ジョーンズの1978年のアルバム『スタッフ・ライク・ザット(Sounds...And Stuff Like That!!)』に収録されました。そこでは、ルーサー・ヴァンドロスとパティ・オースティンによって歌われています。●スタッフ・ライク・ザット
November 3, 2006
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『It Ain't Necessarily So』(イット・エイント・ネセサラリー・ソー)なんでもそうとは限らないジョージ・ガーシュウィンが1935年に書いたフォーク・オペラ「ポーギーとベス」の中の曲です。作詞は兄のアイラ・ガーシュウィンです。地元の教会主催のピクニックの中で、スポーティング・ライフが酒に酔って歌い出します。歌の内容は、旧約聖書に出てくる話しを持ち出し、「この聖書に書かれていることだって、必ずしもそうじゃないぜ」と、女たらしの麻薬密売人が敬虔なクリスチャンに対して説教し出すという皮肉に満ちた内容ですが、小柄で足が不自由なポーギーが大男のクラウンを倒してベスを完全に自分のものにしてしまうという、これから起きるストーリーを暗示する歌でもあります。映画ではスポーティング・ライフ役で出演したサミー・デイヴィス・ジュニアがこれを歌いヒットしました。*****●イット・エイント・ネセサラリー・ソーIt Ain't Necessarily Soなんでもそうとは限らない作詞:アイラ・ガーシュウィン作曲:ジョージ・ガーシュウィン1935年なんでもそうとは限らないぜそれは、必ずしもそうじゃないってことだよ聖書に書いてあることだって正しいと決まっているわけじゃないんだぜダビデはチビだった、それなのにさ!ダビデはチビで可愛い男だったのに!バカでかいゴリアテと戦って、ゴリアテが倒れて死んだって言うだろダビデはチビだったのにさ、おやまあ何てこったい!ワドゥー、ズィン、バン、ボドゥルー、ウーッ!・・・ (スキャット)あのヨナはさ、鯨の中で生き続けたろヨナは鯨の中で行き続けたって言うじゃないか鯨の腹の中を住みかにしてたのさあのヨナは鯨の中で生き続けたんだぜモーゼは川の流れの中で見つけられたんだ赤ん坊のモーゼは川で見つかったんだぜファラオの娘が見つけるまで川の流れに浮いていたのさ娘がその川から吊り上げたんだよそんなことってあるのかいワドゥー、ズィン、バン、ボドゥルー、ウーッ!・・・ (スキャット)なんでもそうとは限らないぜそれは、必ずしもそうじゃないってことだよ悪魔のサタンは悪いやつだってみんなによく言われるだろけどそれだって必ずしも悪いやつとは限らないんだぜ天国に行きたいのなら「サイコロの7が出ろ」なんてわめいてちゃだめさ清く生きろよ!過ちを犯すな!俺だってそういう教えを守れるときは守るよただしテキトーに割り引いてなメトセラは900年も生きたって言うじゃないかメトセラは900年も生きたそうだがどんな女にも相手にされなかったというのに900年も生きたって何の意味があるんだい?だから俺様がお前らに説教してえのはなあものごとってえのは、いつも決まって必ずしもそうとは限らないんだってことなんだ!《アンコール用歌詞》紀元前五千年くらい前あのアダムとイヴは逃げなきゃならなかったそりゃそうさ、あいつらエデンの園であれをやっちまったんだからななのに、何でお前や俺たちが、それで罰せられなくちゃならないのさ?注)「ダビデ」「ゴリアテ」「ヨナ」「モーゼ」「メトセラ」は聖書の中の登場人物
July 25, 2005
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若くして死んだ、伝説の天才ジャズ・トランペット奏者、ブラウニー。 ●クリフォード・ブラウン(Clifford Brown)1930年10月30日、アメリカ、デラウェア州ウィルミントン生まれ。1956年6月26日、ペンシルヴァニア州ベッドフォードで、自動車事故により死去。25歳。愛称:ブラウニー----------13歳からトランペットを始め、学生時代にフィラデルフィアのジャズ・シーンで注目を集める。1952年からタッド・ダメロンやライオネル・ハンプトンのバンドで活動。1954年にアート・ブレイキーのグループを経て、マックス・ローチと双頭コンボを結成、ハードバップ時代の最盛期の幕開けを象徴する名演奏を残した。クリフォード・ブラウンのテクニックと才能は、モダン・ジャズと呼ばれるビバップ以降、並ぶ者は皆無と言われるほどであり、その才能はマイルス・デイヴィスも認めていたそうで、マイルスはアート・ファーマーに彼を聴くよう薦めたと言う。マイルスがドラッグから立ち直れたのも、クリフォードの演奏を聴いてショックを受けたためだと言う。クリフォードは、黒人ジャズ・ミュージシャンの中ではめずらしく麻薬、酒、タバコを一切やらず、人格的にも優れた存在として、生き様の面でもソニー・ロリンズなどにも大きな影響を与えた。テクニックはもとより、あふれる歌心と、ふくよかで明るい音色に秀でていて、短期間にエマーシー・レーベルに多くの秀作を残すが、1956年6月26日未明、自動車事故により25歳の若さで他界。----------モダン・ジャズと呼ばれるビバップ以降で、ジャズ・トランペットの世界をリードしてきたミュージシャンと言えば、“帝王”マイルス・デイヴィスでしょう。彼は、ある程度長生きをし、さまざまな新しいジャズのスタイルを作り上げていったことで、ジャズ・トランペット奏者というだけでなく、ジャズ・シーン全体を引っぱってきたと言えますが、後世に影響をおよぼしたジャズ・トランペット奏者ということで考えると、マイルス以上に、ジャズ・シーンに影響を与え続けてきた人がクリフォード・ブラウンです。それは、彼は、いまだに数多くのトランペット奏者から目標とされている、まさに不世出の天才であるからです。 クリフォード・ブラウンの演奏の特徴は、「すべてのアドリブが歌になっている」とまで言われる、歌心にあふれるプレイですが、歌心を持ちながらも、常に自分の限界ぎりぎりの演奏に挑んでおり、その度胸と自信に満ちあふれた、思い切りのいいスリリングな熱い演奏は爽快そのものです。 クリフォード・ブラウンが極めて高度なテクニックの持ち主だったことは確かですが、彼のすばらしさは、そのテクニックにおぼれることなく、黒人としてのエモーション(感情)の表現を追求していったことにあります。そういった面から、「うまさ(テクニック)」と「気持ち(エモーション)」の両方を兼ね備えている彼は、まさに「完璧」という言葉がピッタリな、唯一無二、不世出のトランペット奏者と言えるでしょう。しかし、悲劇はあまりにも早く訪れました。1956年6月26日未明、クリフォードは、ピアノのリッチー・パウエル(バド・パウエルの弟)と、パウエル夫人の三人で、フィラデルフィアからエルクハートという町に車で向かいました。しかし、その途中で、三人の人生は断ち切られてしまいます。運転に不慣れなパウエル夫人がハンドルを握っていたため、雨が降っていて視界が悪い山道で、車は、山岳地帯のカーブを曲がり切れずにガードレールを突き破って谷底へ転落し、全員が即死したということです。クリフォード・ブラウンの死は、ジャズ・シーンと、ジャズを愛する人々にとって、とても大きな悲しみをもたらしました。まだ25歳という若さで、しかもこれからのジャズ界を確実にリードしていくであろう、未知の才能をかかえたまま、クリフォード・ブラウンは、この世を去ってしまったのです。それゆえに、いまだに「もし、ブラウニー(クリフォード・ブラウンの愛称)が生きていたら・・・」と、誰しもが思うのは当然のことでしょう。彼がジャズ・シ-ンで活動していた期間は5年にも満たないわずかなものでしかありませんでしたが、そのわずかな活動期間のうちに、彼は後世のトランペット奏者の多くが目標とする、最高のジャズ・トランペット・スタイルを作り上げていました。リー・モーガン、ドナルド・バード、ウィントン・マルサリスなど、彼らはみな、クリフォード・ブラウンの音楽と演奏スタイルを目標とし、そこを出発点にして、独自の音楽を発展させていきました。しかし、いまだに彼と同じところにまでたどり着いたミュージシャンはいませんが、それでも、現在までに多くの才能あるトランペット奏者が生まれたのも、まさにクリフォード・ブラウンの功績によるものが大きいと言えるでしょう。クリフォード・ブラウンの死後、生前彼と親交のあったサックス奏者のベニー・ゴルソンは、彼への哀悼をこめて、『クリフォードの想い出(I Remember Clifford)』という曲を作りました。シンプルで美しいメロディーのこの曲は、瞬(またた)く間に多くのミュージシャンによって演奏され、永遠のジャズ・スタンダード・ナンバーなりました。【ジャズ】人気blogランキングへ
October 30, 2007
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『The First Time Ever I Saw Your Face』(ザ・ファースト・タイム・エヴァー・アイ・ソウ・ユア・フェイス)【愛は面影の中に】この曲は、ロバータ・フラックが最初にミリオン・セラーを記録し、グラミー賞を受賞した歴史的な曲です。ロバータ・フラックは、「やさしく歌って(Killing Me Softly With His Song)」という曲が最もよく知られていて、日本での、この曲の知名度は、それほど高いものではないようですが、私は、ロバータ・フラックの歌った曲の中で、この曲が何よりも一番好きな曲です。ある評論家は、「ロバータ・フラックが歌ったこの曲は、ポップスの最も忘れがたく重要な作品であり、真に卓越した大傑作である。」と語っていますが、私もその通りだと思います。この曲は、イワン・マッコール(Ewan MacCOLL)の作詞、作曲で、1962年に登録されている曲です。1969年1月リリースのロバータ・フラックのデヴュー・アルバム、『ファースト・テイク(First Take)』の中に収められました。このアルバムは、チャートの1位になりますが、この曲自体はさほど話題になりませんでした。しかし、1972年にクリント・イーストウッドが彼の主演監督映画『恐怖のメロディー(Play Misty For Me)』の中で、この曲を起用し、その後、大ブレイクを果たすことになりました。発表から3年経ってからの、1972年4月15日から6週間にわたって全米チャート1位になり、ミリオン・セラーを記録。そして、同年の1972年度のグラミー賞で、ベスト・レコード(最優秀レコード)賞、ベスト・ソング(最優秀楽曲)賞を受賞しました。初めてあなたの顔を見たときから、素敵なときが始まるというラヴソングです。ジャズ・ミュージシャンにも取り上げられつつあり、多くの人に歌い、演奏してもらいたい、ニュー・スタンダード・ナンバーです。*****●ザ・ファースト・タイム・エヴァー・アイ・ソウ・ユア・フェイスThe First Time Ever I Saw Your Face【愛は面影の中に】作詞・作曲:イワン・マッコール(Ewan MacCOLL)1962年 初めてあなたの顔を見たときあなたの瞳の中で太陽が昇ったように思えたわそして、月と星たちはあなたからの贈り物暗く広がる果てしない空に、私のいとしい人暗く広がる果てしない空に初めてあなたの唇にキスをしたとき私は手の中に世界が動くのを感じたわ捕らわれた小鳥が震える心のようにそれは私の思うがままにそこにあった、私の愛する人それは私の思うがままにそこにあった、私のいとしい人初めてあなたと横になったとき私は、あなたの心が私のものにとても近づいているように感じたわ私たちの喜びが世界中に満ち溢れるのがわかるわそして、それはこの世が終るまで続くのよ、私の愛する人初めてあなたの顔を見たときあなたの顔をあなたの顔をあなたの顔を・・・
April 3, 2006
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●静岡県三島市で2002年1月、帰宅途中の女子短大生(当時19)が焼殺された事件で、殺人や逮捕監禁などの罪に問われた同県沼津市大塚、元建設作業員 服部純也被告(33)に対する控訴審判決が29日、東京高裁であった。判決によると、服部被告は2002年1月22日午後11時すぎ、三島市青木の国道で、たまたま自転車で通り掛かった短大生を乗用車に押し込んで監禁。乗用車で連れ回し、翌23日午前2時ごろ、工事現場で粘着テープを使って縛り、車外に連れ出して頭から灯油をかけて殺害した。田尾健二郎裁判長は「犯行は残虐で更生の意欲も乏しい。地域住民に与えた影響も大きく、極刑をもって臨むほかない」と述べ、無期懲役とした一審・静岡地裁沼津支部の判決を破棄し、死刑を言い渡した。判決理由で田尾裁判長は、「生きた人間に灯油をかけて殺害するという犯行には慄然(りつぜん)とせざるを得ない。残虐極まりなく、人間性のかけらもない」と指摘。「ポリタンクの灯油で焼殺するため殺害場所を探すなど手際よく動いており、犯行には計画性が認められる」と断定。服部被告に殺人などの前科がなく、反省していることを最大限考慮しても極刑はやむを得ないと結論づけた。一審の判決を受けて、検察、被告、両者が控訴していたが、今回の死刑判決は異例といえる。普通は、複数殺さなければ死刑にはならない。1人殺しただけでは死刑にはならないという。この判決を受けて、被告は「まいったな」といったという。被告は上告する方針。
March 30, 2005
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新しいキーボードがきた。「Roland V-Combo VR-09」とにかく軽い(5.5kg、軽いことはかなり重要)のはいいが、はたしてステージで使い物になるかどうか。----------【ジャズ】人気blogランキングへ
March 20, 2014
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アメリカを代表するエンターテイナー、フランク・シナトラ誕生。(1915~1998)「マイ・ウェイ」の大ヒットで知られ、アメリカのポピュラー音楽史上、もっとも偉大なシンガーのひとりといわれる。2008年11月15日公開の矢口史靖監督の映画、『ハッピーフライト』の主題歌に、フランク・シナトラの歌う「カム・フライ・ウィズ・ミー」が使われている。●フランク・シナトラ(Frank Sinatra)本名:Francis Albert Sinatra(フランシス・アルバート・シナトラ)1915年12月12日、アメリカ、ニュージャージー州ホーボーケン生まれ。1998年5月14日、アメリカ、カリフォルニア州ロサンゼルスで、多臓器不全により死去。82歳。----------フランク・シナトラは、アメリカを代表するシンガーで、その卓越した歌唱力によって「ザ・ヴォイス」と称されました。映画俳優としても活躍したエンターテイナーです。フランク・シナトラは「マイ・ウェイ」の大ヒットで知られ、エルヴィス・プレスリーやビートルズなどと並び、アメリカのポピュラー音楽史上もっとも偉大なシンガーのひとりと言われています。しかし彼は、まぎれもなく偉大なジャズ・シンガーであったと言えます。1940年代から1960年代にかけてのフランク・シナトラは数々のスタンダードの名唱を残していて、そこにはトップ・ジャズ・シンガーとしてのシナトラがあります。1940年、トミー・ドーシー楽団に入団したシナトラは、トミー・ドーシーのトロンボーンのフレージングや息継ぎ(ブレス)のタイミングなどの影響を受けました。そして、もうひとつ、トミー・ドーシー楽団のアレンジャーをしていたサイ・オリヴァーの、2ビートを重視した当時としては革新的なサウンドに大きく影響を受けたようです。シナトラのすごいところは、ただ声量があるとか音程がいいということだけではなく、その抜群のスウィング感、ノリにあると言えます。それが、スローでのメロディーをゆったりと長く歌うときも、速い曲を歌うときも、2ビートと4ビートを微妙に正確に使い分けてスウィングできたことで、ほかのだれもできなかったノリをだしています。これは、ちょっと聴いただけではわからないかもしれませんが、深く聴いていくと、スウィングするとはどういうものかということを、表しているものであるというのに気がつきます。マイルス・デイヴィスのスウィング感もシナトラと共通したところがありますが、これはマイルスも、シナトラの歌い方を研究したのだと言います。カウント・ベイシーやデューク・エリントンといったトップ・ジャズ・バンドとの共演でも、よりすばらしい歌を聴かせることができるシナトラのスウィング感、声量、音程、表現力は、ジャズからポピュラー・ヴォーカル界全体を見渡してみてもひときわ秀でています。そして、フランク・シナトラは、ジャズ・シンガーのわくにとどまらないエンターテイナーであり、彼こそが「Mr.エンターテイナー」と言えるでしょう。【ジャズ】人気blogランキングへ
December 12, 2008
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『My Funny Valentine』(マイ・ファニー・ヴァレンタイン)この曲は、リチャード・ロジャス&ロレンツ・ハーツのコンビの作で、1937年のミュージカル「ベイブス・イン・アームス(Babes in arms)」に挿入され、舞台ではミッツィ・グリーンが歌いました。1939年に「Babes in arms(邦題:青春一座)」で、このミュージカルが映画化され、その中ではジュディー・ガーランドが歌いました。この曲は今まで多くのミュージシャンによって演奏、または、歌われ続けてきており、誰もが耳にしたことがあるであろう、大変有名なスタンダード・ナンバーになっています。そして、ロジャース&ハーツの曲の中で、最も有名な曲と言えるでしょう。「ヴァレンタイン(Valentine)」とはキリスト教カトリックの聖人ヴァレンチノの英語読みのことで、聖ヴァレンタインが殉教した2月14日は、「Saint Vaientine's Day(聖ヴァレンタインの日)」として、クリスマスとともにキリスト教の祝日となっています。ところで、聖ヴァレンタインという人は同名の人が何人かいるという説があり、どのような人か本当のところはわかりませんが、一般的に言われているのはこういうことです。西暦3世紀のローマでのことで、時の皇帝クラウディウス二世(在位268-270)は、若者たちがなかなか戦争に出たがらないので、手を焼いていました。その理由は、彼らが自分の家族や愛する人の下を離れたくないからだと考え、クラウディウスは、ついに結婚を禁止してしまったのです。ところが、インテラムナ(イタリア中部にある町で、現在のテラモ)のキリスト教司祭であるヴァレンチノ(英語読みではヴァレンタイン)は、そんな兵士たちを見かねて、内緒で結婚をさせていました。それを皇帝に知られてしまったことから投獄され、ついには西暦270年2月14日に、処刑されてしまったということです。また、自ら禁忌を破って結婚をしたために処刑されたという説もあるようです。いずれにしても、ヴァレンタインという人は愛を称賛した人として、のちにキリスト教の聖者に列せられ、2月14日は、イギリスとアメリカではクリスマスと同じように祝日となりました。しだいに、その日に男性が好きな女性に愛の気持ちをつづった手紙を出すようになり、現在では男女とも、お互いにヴァレンタイン・カードを出すようになりました。そこには「あなたのヴァレンタインより」と書いたり、「わたしのヴァレンタインになって」と書いたりすることもあると言います。女性が、好きな男性にチョコレートを渡すという日本の「ヴァレンタインズ・デイ」は、チョコレート会社の策略にすぎませんね。遊び人で皮肉屋のハートは、ヴァレンタインの名を使って、こんなラヴ・ソングを書きました。「私のへんてこなヴァレンタイン、可愛くて、こっけいなヴァレンタイン、こっけいなあなたの顔は、私を死ぬほど笑わせてくれる。笑える顔、写真写りの悪い顔、ギリシャ彫刻とは全く違う容姿、しまりのない口元」と、ぼろくそに言っていますが、「でも、そんなあなたが私のお気に入り。いつまでも、そのままのヴァレンタインでいてちょうだい!そうすれば、毎日がヴァレンタインズ・デイになるから」ヴァレンタインはそうとうのブサイク?「でも、私は、そんな今のままのあなたが好き」ということを言っています。映画での主人公、ジュディー・ガーランドがお熱をあげている恋人役がミッキー・ルーニーという人で、彼は小柄でずんぐりした俳優で、そのルックスは歌のとおりだったようです。まあ、そんな歌です。ラヴ・ソングには違いないのですが、こんな歌詞の内容なので、結婚式でこの曲をやると、新郎新婦がブサイクだと言っているようなものなのでどうですかね。それに、愛の告白をするときに、この曲を使う場合は、「私のへんてこなヴァレンタイン」なんて、相手がシャレのわかる人でないと、逆に気分を悪くしてしまいますかね?また、この曲はバラードで、しっとりと歌われたり演奏されることが多い曲ですが、歌詞の内容を知らずに、あまりにも切なそうに、しんみりと歌うのは、ちょっと変な気がします。なんてことを考えていたら、私の音楽パートナー、シンガー「かおりん」は自分のホームページで、この曲を語っていました。下記は、かおりんの「My Funny Valentine」の解説から勝手に拝借してきたものです。 『要するに、この曲、『Stay little Valentine Stay!』 ポイントは最後のハイトーン&ロングトーン「STAY!」 お願いだから、ずっと、そのままで・・・・。 きっと、容姿の事をとやかく云っているんじゃないんです。 ずっと、そのまま、、わたしを愛して下さい・・と。 強がりを云う女の、本当はとっても、繊細で弱い部分を、 こんなにストレートにさらけだしている訳ですから、、、、。 だから、この曲は、とっても素敵な愛の告白。 マイナーキィで、ムーディーな曲調ですから、歌い手によって、 辛気くさくなりがちです。 こうして、詞をひも解いて行くと、やさしい気持ちで明るく歌いたいですね。』う~ん、納得、そういうことですね。奥が深いですよ。この曲が書かれた年は、日本は昭和12年です。★「かおりん・うさこ」のページは、↓こちら【Kaorin's Website】 *****●マイ・ファニー・ヴァレンタインMy Funny Valentine作詞:ロレンツ・ハート作曲:リチャード・ロジャース1937年《ヴァース》きらびやかに着飾りし、調子良き友の、これみよがしのさまを見よそれにひきかえ、わがウスノロなる友、そなたそなたは、おのが姿も知らずうつろな眉、くしゃくしゃの髪に良き意図も隠すそなたは気高く実直で正直で、マヌケな紳士なりあなたは・・・《コーラス》私のへんてこなヴァレンタイン 可愛くて、こっけいなヴァレンタインあなたの顔は、私を死ぬほど笑わせてくれるわあなたの顔を見ていると、ふきだしちゃうし写真写りもひどいものだわねでも、そんなあなたは、私のお気に入りのアートなのよあなたの姿は、ギリシャ彫刻のように端正ではないでしょう?あなたの口元はしまりがなくてその口から出る言葉は、ちっともスマートではないでしょう?でも、髪の毛一本たりとも変えないでねもし私のことを想うのならいつまでも、そのままのヴァレンタインでいてちょうだい!そうすれば、毎日がヴァレンタインズ・デイになるのですもの
September 3, 2005
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『Let's Fall In Love』(レッツ・フォール・イン・ラヴ)【恋をしましょう】この曲は、ハロルド・アーレンの作曲、テッド・ケーラーの作詞で、1934年の映画「Let's fall in love(レッツ・フォール・イン・ラヴ)」の主題歌になりました。この映画の中で、アーサー・ジャレットとアン・サザーンによって歌われました。また、この曲は、このあとも多くの映画に使われてきています。これは、アーレンにとっては初めての映画音楽の仕事で、この映画のために、この曲のほかに4曲書いたのですが、そのうち2曲は、落とされて使われなかったと言います。ブロードウェイのミュージカルでも、脚本、演出、振り付けの変更にともなって曲が追加されたり、削られたりするものですが、作詞作曲者は、たいていその場に立ち会って自分の意見を言って、みんなで話し合いながら進んでいくものです。しかし、ハリウッドの映画では、作詞作曲者は曲が完成したら渡すだけで仕事は終わりで、あとは一切立ち会うことも、意見を言うこともできないので、映画ができあがってみたら、このように2曲削られていたということになるわけです。これをアーレンはカリフォルニア・メソッドと呼び、「まったく理解できない」と不満をもらしていたそうです。このことはジョージ・ガーシュウィンも同じようなことを感じていて、「ハリウッドの仕事は曲を作って渡すだけで終ってしまうので、ブロードウェイと違って、なんとも面白くないものだ」と言っていたそうです。さあ、恋に落ちましょう。恋をしてはいけないという理由はないでしょう?私たちが若い今が、恋をするとき。さあ、恋に落ちましょう。」と、ウキウキムードの歌です。「Let's Fall In Love」を日本語に訳すと「恋に落ちましょう」となりますが、「落ちる」というと、ちょっと陰湿なイメージがありますが、この場合、全体の歌詞の内容からは、「さあさあ、私たち、恋をしましょう!」言い換えると「私たち、愛し合いましょう!」と、ウキウキ気分で明るく言っている雰囲気をイメージしたほうがいいようです。*****●レッツ・フォール・イン・ラヴ Let's Fall In Love【恋をしましょう】作詞:テッド・ケーラー作曲:ハロルド・アーレン1934年さあ、恋に落ちましょう恋をしてはいけないという理由はないでしょう?心は恋からつくられるのだし、恋をするチャンスを逃す手はないわどうしてそれを恐れるの?目を閉じましょう、そして私たちのパラダイスをつくりましょうそれがどんなものかわからなくても、やってみることはできるわなんとかうまくやりましょうもともと私たちは一緒になるように決まっていたのかもしれないわ決まっていたかどうかは心が答えを見つけるわさあ、恋に落ちましょう恋をしてはいけないという理由はないでしょう?私たちが若い今が、恋をするときさあ、恋に落ちましょう
September 17, 2005
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“December 17”(その3)からの続き【引退~再カムバック~終焉(しゅうえん)】1964年~1998年アメリカ国民最高の栄誉である『自由勲章』を授与フランク・シナトラは、1964年あたりから、ヤング・マーケットを意識して、親子ほど歳の違う若いプロデューサーを起用したり、ロックビートのきいた編曲を得意とするアレンジャーを指名したりと、シナトラ・サウンドは若返りを見せました。そして、それが本格的に成功したのが、1966年4月11日にレコーディングした「夜のストレンジャー」の大ブレイクでした。7月2日にシナトラにとって21年ぶりの全米ヒットチャート1位になり、さらに、ミリオンセラーになりました。そして、1966年度のグラミー賞で最優秀レコード賞、最優秀アルバム賞、最優秀男性歌唱賞を獲得しました。この曲は、シナトラとしては、特に興味があったものではなく、勧めらたからレコーディングしただけだったようで、本人は、この曲をレコーディングしたことすらきれいさっぱり忘れていました。それが、ステージでこの曲を繰り返しリクエストされるので、もう「そんな曲知らないよ」と無視していられなくなったと言います。そんななか1968年12月30日にレコーディングされた「マイ・ウェイ」が、シナトラ健在を強く印象付ける一曲になりました。1971年3月23日、カリフォルニア州パームスプリングスの自宅からシナトラの引退宣言が発表され、全世界に驚きと衝撃を与えました。その年の6月13日にロサンゼルスのミュージック・センターで行われた、映画テレビ界主催のコンサートのトリとしての出演が、シナトラの引退公演になりました。シナトラのもとに、カムバックを促すもの、あるいは「せめてレコーディングだけでも」という3万通を超えるファンレターが世界中から殺到しました。シナトラは現役中にはできなかった読書やゴルフ、油絵、旅行などに時間をあてるなど、悠々自適の生活を求めました。しかし、彼をよく知る人々は、いつまでもこのような生活に満足できるはずはないと確信していました。1973年4月17日、シナトラはホワイトハウスに招かれ、イタリアのアンドレオッチ首相の歓迎晩餐会で歌いました。ニクソン大統領は、「今宵この館は、イタリア生れの両親を持ち、貧しい環境からスタートして、ついにはエンターテインメント界の頂点をきわめたひとりの男性を迎える栄誉に浴しております。」とシナトラを紹介しました。米軍海兵隊バンドの伴奏で10曲を歌い終えたシナトラは、晩餐会のあとニクソン大統領のプライベート・ルームに招かれ、熱心にカムバックを促されたと言います。1973年9月30日、引退公演と同じロサンゼルスのミュージック・センターで行われたコンサートで、フランク・シナトラが姿を現しました。シナトラの名前は、アルファベット順の出演者リストのなかに埋もれていたため、多くの人は気づかなかったし、気がついた人も半信半疑でした。しかし、本当にシナトラがステージに現れると、観客は感極まって総立ちになりました。体は少々太めになりましたが声は衰えていませんでした。むしろ2年半の休養が引退前の疲れた声を蘇らせ、力強いスウィング感が、そして何よりも圧倒的な歌心がホールに響きわたりました。4曲を歌い終えてステージの袖にひきあげてきたシナトラは、自分に向かって何度となく「ヤー・ベイビー・ヤー」と繰り返し、充実感に満ちた安堵の表情を浮かべました。1973念10月にリリースされた、カムバック第一作のアルバム『オール・ブルー・アイズ・イズ・バック』は、予約だけですでに15万枚を超え、フランク・シナトラは、またもカンバックを果たしました。そしていつのまにかシナトラは、ショウ・ビジネス界の帝王と呼ばれる存在になっていました。1985年4月、11年ぶり3度目の来日公演を行いました。もう歌えるはずがないと来日前まで斜に構えていたマスコミは、年齢を超えた豊かな歌声に圧倒され、手のひらを返したように褒めちぎりました。コンサート初日17日の晩は、フジテレビの『夜のヒットスタジオ・デラックス』に生出演し、「ニューヨーク・ニューヨーク」を歌いこの1曲で1千万円を手にしたと報じられました。また、22日に東京の帝国ホテルで行われたディナーショウは、チケットがひとり15万円と13万円という信じられないような値段にもかかわらず、700席のテーブルは埋め尽くされました。1985年5月23日、フランク・シナトラは、ホワイトハウスでレーガン大統領から、アメリカ国民にとって最高の栄誉である『自由勲章』を授与されました。*****アルバム『デュエッツ』と『デュエッツII』1993年と1994年にアルバム『デュエッツ』と『デュエッツII』がレコーディングされました。これは、シナトラの最重要レパートリー曲をいろいろなシンガーとデュエットするというものでした。トニー・ベネットやバーブラ・ストライザンドあたりは、素晴らしさが想像できる組み合わせですが、U2のボノやグロリア・エステファン、そしてソウルの女王アレサ・フランクリンなどとのデュエットは、ちょっと意外で想像がつかないものでした。ボノはシナトラの孫娘からの強力なリクエストがあったと言いますが、ボノとのデュエット曲、「アイヴ・ガット・ユー・アンダー・マイ・スキン」は新鮮なものになりました。シナトラ側が希望したシンガーたちはいずれも各々の分野のトップスターなので、契約的にもスケジュール的にも調整が難航することが予想されました。しかし、全員がシナトラに指名されたことに感激し感謝しました。契約の問題は、相手シンガーのレーベルからもリリースしてよいという、互恵(ごけい)契約で解決しました。そして、レコーディングは最新の科学技術を駆使することによって、スケジュールの問題も解決しました。それは、まず、シナトラがオーケストラと同時録音したあと、デュエットの相手が歌う部分を消しておきます。デュエットの相手は、好きなときに好きな場所で、光ファイバーを通して送られてくるデジタル信号をスタジオに引き込み、シナトラの歌とオーケストラを聴きながら録音する方法で行われました。パリにいるシャルル・アズナヴールが、「ユー・メイク・ミー・フィール・ソー・ヤング」を録音したときは、シナトラの声は太平洋を渡りました。ライザ・ミネリは、「アイヴ・ガット・ザ・ワールド・オン・ア・ストリング」を南米で録音したと言います。バーブラ・ストライザンドとは、「アイヴ・ガット・ア・クラッシュ・オン・ユー」をデュエットしましたが、いつも妥協を許さない彼女が、シナトラのキーで歌うことに同意し、わざわざシナトラのレコーディングを見学しに行ったと言います。『デュエッツ』の第一弾は1993年11月2日に、キャピトル・レコードからリリースされ、11月20日のビルボード誌アルバム・チャートで、いきなり2位に登場して、3週間この位置をキープしました。セールスはわずか2カ月で200万枚に達して、プラチナ・レコードになり、1年間で600万枚を、全世界で売り上げました。翌1994年11月に第二段『デュエッツII』がリリースされ、これもシナトラは様々なジャンルのシンガーたちと歌っています。同じ趣向の第二段なので、一作目ほどのセンセーションにはなりませんでしたが、それでもビルボード誌のアルバム・チャートで9位を記録しました。そして、1995年度のグラミー賞で、最優秀トラディショナル・ポップ・ヴォーカル賞を受賞しました。*****終焉(しゅうえん)シナトラは1994年に公演中に倒れ、それ以後人前に出ることはなくなりました。1997年から1998年にかけて、シナトラは心臓発作で、ロサンゼルスのシダー・サイナイ・メディカル・センターに入退院を繰り返しました。1998年5月14日の夕方、マリブの自宅で気分が悪くなり、再びメディカル・センターで緊急治療が行われましたが、午後10時30分ごろ心臓発作を起こし、午後10時50分、日本時間では5月15日午後2時50分、この世を去りました。82歳でした。翌15日の夜、ラスヴェガスは1分間すべての照明を消して哀悼の意を表し、黙祷しました。ニューヨークでは、ヤンキー・シタジアムでの試合の前に黙祷が捧げられ、エンパイア・ステート・ビルはライトをブルーに変えました。ロサンゼルスのキャピトル・レコード本社は黒いバナーが掲げられ、シナトラの故郷、ニュージャージー州ホボーケンでは、18日に教会に集まった人々が「マイ・ウェイ」を歌いました。シナトラの葬儀は5月20日、700人にも及ぶ人々が一同に会して正午から2時間にわたって行われました。また、斎場の外では警察が1000人を越えるファンや報道陣たちの規制に追われました。シナトラは生前に、アメリカ国民として最高の栄誉である自由勲章と、アメリカ議会ゴールド・メダルを贈られていたため、棺は埋葬地であるデザート・メモリアル・パークまでアメリカ海軍によってエスコートされ、墓地ではアメリカ国旗がフランク・ジュニアに手渡されました。来年は、このアメリカを代表する伝説的歌手のフランク・シナトラがこの世を去って10年、アメリカ郵便公社(United States Postal Service)は、2008年春フランク・シナトラの記念切手を発行することになりました。つい先日、今年2007年のシナトラ92回目の誕生日である12月12日、切手のデザイン公開セレモニーが行われ、トレードマークのフェドーラ帽をかぶったシナトラの切手デザインがお披露目されました。出席したシナトラの子どもたちは、「父はこの国が大好きでした。これは父にとって幸福な日々の1日になると思います」とコメントしたそうです。アメリカ郵便公社によるとフランク・シナトラの切手はファーストクラス・スタンプ(first-class stamps)として1億2000万枚を発行し、来年春から販売を開始するそうで、日本からもインターネットで注文できるということです。フランク・シナトラは、アメリカを代表する偉大な人物として永遠に歴史に刻まれているのです。アルバム『デュエッツ』→“December 20”参照アルバム『デュエッツII』→“December 21”参照【ジャズ】人気blogランキングへ
December 18, 2007
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バート・バカラックは、1960年代から70年代最大のメロディー・メーカー、ヒット・ソング・メーカーであり、それらの曲の数々は、現在も「ニュー・スタンダード・ナンバー」として愛され続けています。日本においても、彼の曲を聴いたことがないという人は、ほとんどといっていいほどいないでしょう。日本のテレビドラマのテーマソングになり、現在もテレビCMで使われており、ラジオをかければ彼の曲が頻繁に流れてきます。●バート・バカラック(Burt Bacharach)1928年5月12日、アメリカ、ミズーリ州カンザスシティー生まれ。79歳。----------バート・バカラックは、アメリカのポピュラー音楽、映画音楽の専業の作曲家として広く認識されていますが、もともとはピアニストであり、バンドの指揮、アレンジをし、自らも歌うシンガー・ソングライターであり、プロデュースもしています。しかし、自らの歌よりも他のアーティストへ楽曲を提供したものが有名になり、それらは数多くのアーティストによってカヴァーされ、愛され続けています。特に、ディオンヌ・ワーウィック、B・J・トーマス、ダスティ・スプリングフィールド、カーペンターズ、トム・ジョーンズなどへの楽曲提供が有名ですが、多くのシンガーやジャズ・ミュージシャンが、彼の曲を取り上げています。映画音楽でも数々の名曲を提供し、特に『明日に向かって撃て』の主題歌「雨にぬれても」はアカデミー作曲賞を受賞しました。----------バート・バカラックは、母親が歌手を目指していたこともあり、小さな頃からピアノやドラムなどを学んでいましたが、彼にとっての目標はミュージシャンではなくプロ・スポーツ選手だったようです。しかし、彼の家族がニューヨークに引っ越したことによって、その目標は変わることになりました。それは、ジャーナリストの父に連れられて行ったジャズ・クラブで出会った素晴らしいミュージシャンたちの演奏がきっかけでした。ディジー・ガレスピーやチャーリー・パーカー、バド・パウエル、セロニアス・モンクなどの、バップ全盛期のジャズは、彼に大きな衝撃を与えることになったようです。さらに、彼を音楽の世界に導いた人は、近代クラシック音楽の世界においての天才作曲家のドヴュッシーやラヴェルといった人たちでした。この、ジャズの革新者とクラシックの革新者の影響を受けることで、彼は音楽の世界に入ることになったと言います。彼は大学卒業後、ニューヨークのマンズ音学院、カリフォルニアのサンタ・バーバラ音楽アカデミーで学び、ピアニストとして数年間活動、その後ニューヨークに戻り作曲家としての道を歩み始めました。しかし、作曲家としての活動はなかなかうまく行かず、クラブでの伴奏でかろうじて食べて行く状態が続き、最初の妻とはこの苦しい時期に別れることになってしまいました。1958年から、ドイツの大女優で歌手のマレーネ・ディートリッヒのツアー・バンドの指揮者を務めることで、生計をたてることができました。そして、1957年に知り合った作詞家のハル・デヴィッドとコンビを組み、様々な歌手に楽曲を提供します。1962年に黒人女性シンガーのディオンヌ・ワーウィックと出会ってからは、3人のチームで、「ウォーク・オン・バイ(Walk On By)」(1964年)、「小さな願い(I Say A Little Prayer)」 (1967年)、「サン・ホセへの道(Do You Know The Way To San Jose)」(1968年)、「恋よ、さようなら( I'll Never Fall In Love Again)」(1969年)など、数々の名曲をヒット・チャートに送り込みます。さらに、ワーウィック以外に提供した楽曲や、映画音楽にも数々の名曲が生まれていきます。ビートルズの1963年のカヴァーで知られる「ベイビー・イッツ・ユー(Baby It's You )」、1967年の映画『007/カジノ・ロワイヤル』のテーマ曲「カジノ・ロワイヤル(Casino Royale)」、1970年の映画『明日に向かって撃て』の主題歌で、B.J.トーマスが歌った「雨にぬれても(Raindrops Keep Fallin' On My Head)」、1970年に、カーペンターズのヒットで知られる「遙かなる影((They Long To Be) Close To You)」(オリジナルは1963年)、1980年にクリストファー・クロスが歌った映画『ミスター・アーサー』の主題歌、「ニューヨーク・シティ・セレナーデ(Arther's Theme(The Best That You Can Do))」など、どの曲も、まさに新しい時代の“スタンダード・ナンバー”と呼ぶにふさわしいものです。イギリス映画『アルフィー』の主題歌「アルフィー(Alfie)」(1966年)や、映画『007/カジノ・ロワイヤル』からは挿入曲の「ルック・オブ・ラブ(恋の面影)(The Look Of Love)」(1967年)は、すでにジャズのスタンダード・ナンバーとしてもよく知られているものです。*****●代表作Wives And Lovers 【ワイヴス・アンド・ラヴァーズ】【素晴らしき恋人たち】 (1963)Walk On By 【ウォーク・オン・バイ】 (1964)What's New Pussycat? 【何かいいことないか仔猫チャン?】 (1965)What The World Needs Now Is Love 【世界は愛を求めている】【愛を求めて】 (1965)Alfie 【アルフィー】 (1966)The Look Of Love 【愛の面影】【恋のおもかげ】 (1967)I Say A Little Prayer 【小さな願い】 (1967)Do You Know The Way To San Jose 【サン・ホセへの道】 (1967,1968)I'll Never Fall In Love Again 【恋よ、さようなら】 (1968,1969)Raindrops Keep Fallin' On My Head 【雨にぬれても】 (1969)(They Long To Be) Close To You 【クロス・トゥ・ユー】【遥かなる影】 (1963,1969)Arther's Theme(The Best That You Can Do) 【ニューヨーク・シティ・セレナーデ】 (1981)That's What Friends Are For 【愛のハーモニー】 (1982)【ジャズ】人気blogランキングへ
May 12, 2007
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