だいたいの流れ


戦前からたくさんの日系人が住んでいました。

日本から渡ってきた人、その子孫。。。


第二次世界大戦が始まったとき

敵国人として、

カナダ国籍を持っていたとしても『日系人』というくくりで
財産は没収され、内陸におしやられ自由を奪われたのです。


その流れを私がわかる範囲でメモしておこうと思います。





1941年 11月7日 日本軍の真珠湾攻撃により 第2次世界大戦がはじまる。
     (カナダ時間)


      12月16日 西海岸における 日系人所有の船舶運行禁止
             (漁で生計を立てている人がたくさんいたのに、船を出すことを禁じられたってわけだね。)


             日系人の家宅捜索が始められ、夜間の外出が禁止になる。


1942年 3月4日  海岸から100マイル(約166キロ ホープ市付近まで)の保護地域から
             すべての日系人を移動させるための保安委員会の設立。

             日本から一番近い海岸沿いに日系人(敵国人)を置いておくのは危ない。という理由で
             海沿いから追い出したわけだね。



     10月15日までに ホープ市から西側に住んでいた日系人 約2万1000人の追い出しが完了。




州北部やバンクーバー島などに住んでいた人など
ヘイスティングパークの家畜小屋を改造したバラックにいったん集められてから
それぞれのキャンプへ移動させられた。

(どういうふうに 行き先を決められたんだろう?
 サンドンの人やカズローの人は「宗教別」って言ってたけど、ちょっとわからない)

(今、PNEの入り口に小さい碑があるんだって)  

DSCF0224.JPG
ヘイスティングパークの様子:日系センターの展示より



移動先は  成人男子はオンタリオ州やアルバータ州の道路建設と砂糖農園での強制労働
      一応賃金はもらえたらしいけど、生活費として没収された。 


      その他老人や女、子供は内陸部の街(次のページ)

      家族で一緒に住みたい人は アルバータ州やマニトバ州(かなり裕福でないと無理)

      あとは、道路建設キャンプ行きを拒否した人など
      政府の命令に従わない人は捕虜収容所にて監禁された。


1945年 4~5月 各収容所などで 「宣言」という名目の日系人の調査が行われる。

      戦後、      
      日本に帰るかカナダに留まるかという内容の調査?のようで、
      日本人なのかカナダ人なのかはっきりしろという調査? 

      カナダに留まるなら
      ロッキー山脈の東部(なにもない所)へ移動しなければいけない。
      カルガリー、トロント、BC州リッチモンドなどは日系人の定住を拒否。



1945年 12月7日~
1947年  1月24日までに 3646人の日系人が日本に帰る。


戦後 ニューデンバー以外の全てのキャンプはすぐに閉鎖された。

お金もない、住んでた家も没収され、元いた場所にも帰れない。
キャンプが閉鎖されたときの様子がよくわからない。


1949年 3月31日 バンクーバー防衛地域指定解除法により
       4月1日から日系人のみなさん、やっとBC州に帰ることができた。


1988年 9月22日 補償問題の解決。




まだまだわからないことが多いな~



参考資料(バンクーバー中央図書館より)

「失われた風景 -日系カナダ漁民の記録から-」 山形孝夫
(宮城県からの密航船 小安丸でやって来た人々の入国からカナダでの生活の様子) 


「囚われの身 -ある日系二世の戦時中日記」 トム・サンドー・クワバラ
(サブタイトル通り、著者の戦時中の日記)


「日系カナダ人の追放」 鹿毛達雄
(戦中戦後の日系人の様子。表や地図、個人のインタビューなどあってわかりやすかった)


戦争とか歴史とかの本って
厚くて小さい文字、わざと難しい日本語(?)の読みたくなくなる本が多い中
読みやすかった↑この3冊のお陰で、だんだん歴史が見えてきました。

非常に参考になりました。ありがとうございました~



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