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2008年08月10日
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カテゴリ: 天璋院篤姫
 今夜(8月10日)のNHK大河ドラマ「篤姫」の32回目「桜田門外の変」では、天璋院(宮崎あおい)が「安政の大獄」で多数の人が捕らえられ苛酷な処分を受けたことを知り、井伊直弼(中村梅雀)に会って直接そのことを問いただしますが、それに対し直弼は、朝廷の密勅(戊午の密勅のことですね)を得て不可能な攘夷を唱え、幕府が米国と条約締結を締結したことを責め立てる卑怯な連中から国を守るために「おのれの役割を果たしたまで」であると天璋院に語ります。そんな国を思っての直弼の真剣な使命感に天璋院は心を打たれます。しかしその数日後に直弼が桜田門外で襲われて落命し、彼の首をあげたのは薩摩の者であると知らされます……。

 ところで、桜田門外の変が起こる直前、薩摩では井伊直弼の政治弾圧に怒りを募らせていた有馬新七(的場浩司)、伊地知正治(三宅弘城)、有村俊斎(平山広行)ら若き藩士たちが脱藩の計画(それを「突出」と称していましたね)を立てていました。これまで冷静だった大久保正助(原田泰造)も、島津忠教(山口祐一郎)に出していた建白書がなしのつぶてだったこともあり、この「突出」計画に賛同し、そのことを小松帯刀(瑛太)に伝えます。小松帯刀は、「突出」計画によって有為な人材を多数失うことを危惧し、薩摩藩主の忠義(中川真吾)とその父親の忠教に会って相談します。その結果、「突出」決行の日に町はずれの庵に旅支度を整えて結集した若き藩士たちの許に藩主からの書状が届きます。その書状は「世の中はいま容易ならざる時節に候……」で始まり、「当家の柱となり礎となって余の至らぬところを支え助けてくれるようひとえに頼みたい」とあり、最後に「誠忠士の面々へ」という呼びかけで結ばれいるものでした。若き藩士たちはこの藩主からの書状に感激して「突出」を思い止まるのでした。

 この「突出」計画の藩士たちに島津藩主自らが書状を届けて計画を思い止まらせたのは実際にあったことです。芳即正『島津久光と明治維新』(新人物往来社、2002年12月)によりますと、安政の大獄という政治弾圧の嵐が全国を吹き荒れていた頃、薩摩藩の新藩主は島津忠義でしたが、実権は先々代の藩主だった島津斉興が握っていました。しかし、その斉興も安政6年9月12日(1859年10月7日)に死去し、新藩主の島津忠義の実父である島津久光がようやく実質的実権を握るようになります。そんなときに大久保正助ら約40名の藩士たちが「 京都に突出して所司代酒井忠義らを倒そうと計画、海路脱藩のため町人出身の森山新蔵が資金を出して鰹船(かつおぶね)二艘」を準備、田中新兵衛を船長ときめるなど着々と準備を進め」 ていることを藩主忠義の小姓である谷村昌武が知ります。この情報は忠義に伝えられ、驚いた忠義は父親の忠教(後の久光ですね)に相談します。その結果、つぎのような忠義直筆の諭書が書かれて「突出」を計画していた藩士たちに与えられます。

「方今世上一統動揺容易ならざる時節に候、万一時変到来の節は、第一順聖院様(島津斉彬)御深意をつらぬき、国家を以て天朝を守りたてまつり、忠勤をぬきんずべき心得に候、各有志の面々深く相心得、国家の柱石に相立ち、我らの不肖を輔け、国名を汚さず誠忠を尽くし呉れ候様、偏に頼み存じ候、仍(よ)って件の如し。
 安政六年 己未(つちのとひつじ)十一月五日
                   源 茂 久 花押(手書きの判)
 精忠士の面々へ」


 この忠義直筆の諭書について、芳即正『島津久光と明治維新』はさらにつぎのような解説を加えています。

「本来ならば厳罰に処すべき脱藩計画者たちを、忠義の者と呼んでいるのである。この諭書には三本の柱がある。
 一、いざという時は、国家(藩)が一つにまとまり、藩主を先頭に行動する。
 二、そして斉彬様のお考えを引きついで、皇国(天皇の国)をお守りする。
 三、その時はお前たちは大黒柱となり中心となって、自分を支え助けてくれ。
というもので、これ以来、薩摩藩の行動の基本方針となったのである。しかも殿様が若い藩士たちに頼んでいるのである。感激した彼らは、ここに突出を中止して、以後、藩自体を動かして、その意思の実現を図ることにし、血判の請書(承諾書)を出した。その時、最初に『大島渡海 菊池源吾』と西郷の名を書いたという。こうして以後、彼らを誠(精)忠組と呼ぶようになる。
 この事件は薩摩藩今後の動きに大変重大な意味を持った。もし、この突出が実現していたら、藩の立場も非常に困難なものになったと思われる。それを思いとどまらせたのは、藩主が直筆の諭書を与え、しかも彼らを精忠の士と呼んで、その趣旨に理解を示し、いずれ藩をあげて立ち上がるので、その際は中心となって働けと呼びかけたことである。いわば大久保らのゲリラ的突出論に対して挙藩統一出兵論を展開し、彼らをその中心的メンバーとして期待したのである。薩摩藩は以後、多少の曲折はありながらも、常に一貫して藩としての統一行動をとって動く。これが例えば水戸藩や長州藩、特に水戸藩と大きく違う点で、維新実現の過程で薩摩藩が常に中軸的役割を演ずることができた大きな原因である。この事件はそれへの出発点であったし、そして藩主忠義に、その決意をさせたのは、久光の発想とアドバイスであったと思われる。藩主になりたての若い忠義にできる芸当ではないように思う。」





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最終更新日  2008年08月12日 10時11分46秒
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