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2020.03.16
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カテゴリ: 宇宙意識など



そもそも人間とは何でしょうか。 姿と名前、それだけである。
人間から名前と姿を取り上げたら、何が残るでしょうか。残るのは根幹をなす本質、すなわち実在。つまり霊と総意識体である。
これに気がつかない人間は、どんなに微弱な風にさえあちらこちらと吹き飛ばされて、拠り所もなく絶望のうちにさ迷いながら、それでもどこかにすがれるものを見つけようともがく。
でも、根本的な真理を探し見つけなければ、すがれるものが与えられることはないでしょう。

地球やその他の世界の何十億という人間は、空の星を見上げてもそこから何らかの成果や認識を得ることはない。
しかし、天文学に通じた者なら空を見上げて新しい世界を発見し、それについて書物を記したりもする。
しかし、彼らに見えるものや認識できるものが、他の人間にはたとえ空を見上げることができたとしても、見ることも認識することもできない。目は見えていても、盲目同然なのである。これと同じことが、意識的に未熟な普通の人間や意識的な自覚のない人間に当てはまる。
霊的な創造の法則に従って真実に生きる人間は、周囲のあらゆる生命体、あらゆる事物、あらゆる思考と行動、あらゆる人間、あらゆる自然作用、そして考えられる限りのすべての状況と現象の中に創造的なるものを見出し、それを認識できる。

しかし、創造の法則に従う人間は、幸福に満ちた、恐怖を全く知らない存在となる。そのような人間の意志は決して屈することがなく、その献身は計り知れないほど無限であり、その英知と愛は永続的で完全で、宗教その他の誤った教えに惑わされた人間のように、気まぐれに変転することも懐疑にさいなまれることもない。そのような人間の感覚は果てしない大海に等しく、決して平静を失うことがない。不安に震えることもない。
だから、もはやどんな堕落した否定的な力も届かなくなるほどに、彼の霊的感覚を伸ばす。
その感覚は、負の方向に逸脱した思考が宿ることも許さなければ、あらゆる正の方向に逸脱した思考や行動も退ける。
本当に価値があり、意識と霊の発展に寄与するのは調和のとれた感覚だけ。それは創造的なるもの、つまり創造的な働き、創造的な英知、創造の知識と愛と喜びに根差している。創造的なるものは、周囲をぐるりと取り囲む物質的壁面や人間的生活環境よりも、現実的なのである。だから、意識的に常に大きく、建設的でありなさい。

霊すなわち、あらゆる無限の創造的構造の源となるものは、人間の内奥の本質そのものなのである。
人間の外的な本質は、あらゆる面で制限されている。なぜならそれは、本質そのものではなく、その外皮、つまり物質的な肉体または境界に過ぎないから。それは惑いの元であり、苦難と苦痛の源をなし、認識や意志、献身、隣人を単に外面的、物質的に見るならば、この特定の人間の形と姿、すなわち物質的なものしか見えない。
しかし同じ人間を、意識的で霊的な認識の目で見るならば、自分と同じように他のすべての人の中にも、たとえ本人が自覚していなくても、すべてを表明するこの意識が宿っていることがわかる。そうすると、周囲の人間を見る見方が根本的に違ってくる。
そうすれば彼はもはや、単に一人の男や女や少女や子供を見るのではなく、創造的な霊の担い手として隣人を見るようになる。その霊は自分と自分の実在を自覚し、機会さえ与えられれば、誰を通してでも自分を示したいと望んでいる。
人間という存在は、霊と意識の面である程度完全な状態になって、それに相応する健全で高度な生活様式に達すれば、数百年、それどころか数千年までも生きることができる。
しかし、この四千万年から六千万年の段階を超えると霊は、純物質的な肉体を必要としなくなって半霊体となる。
その後、さらに六百億年から八百億年の間、いよいよ半物質的な形態で生きることになる。その境域は非常に高いので、純物質的・人間的な立場からは接触できなくなる。ただし、意識と霊が非常に高い進化水準に達している場合は接触できる。


他の事柄について話す前に、霊の教えを続けたいと思う。それはあらゆる事柄の中で最も重要なものだから。
人間は、創造という言葉もしくは名称に対して、非常に美しいものや善いものが話題にされるときのように反応しなければならない。
そうすることによって、自分の感覚の中に変化が生じるように心掛けなければならない。それが為されない限り、創造を真にあるがままの姿で認識したとは言えない。
しかしもし人間が、絶えず繰り返し創造の本質について考えることがなかったなら、創造という言葉や名称が人間にとって非常に深い意味を獲得し、人間の精神的な全行動様式、情緒的な知覚、生命感情、そして反応の仕方に変化が生じるなどということがどうしてあり得るでしょうか?
だから、創造の本質に当てはまる特定の属性名称、たとえば全能、偏在、全知などを、そのまますぐに創造という言葉もしくは名称と結び付けるように心がけなさい。

彼らは創造とは本来何であるか知らないし、見当もつかないからである。非常に多くの人々にとって創造という概念はそんなものである。宗教によって惑わされた何十億という人々は、創造という言葉を理解しない。彼らが神という非現実的な宗教的な呼称を口に出すとき、それによって創造を呼んでいると錯覚している。でもそれは、なんとひどい誤った教えでしょう。
だからこそ、創造の本質についてできるだけ多くのことを知り、経験することが非常に大切なのである。それによってこの言葉は意味に満ちて、その言葉を耳にするや否や、内面的に高められ強い印象を受けるようになる。
経験が明らかにするところによれば、創造とは限りない美であり、あらゆる美に勝る美であり、限りなく永遠に続く至福であり、英知、知識、能力、真理、そして絶対的な確実さである。
このことを認識したなら人間は、直ちにそのすべての喜びをそれらの起源へと、すなわち果てしない創造の喜びへと立ち戻らせる。
花であれ、動物であれ、人間やその他なんであれ、およそ美しいものを見るとき、人間は直ちにそれを創造自体の無限の美と結び付ける。
あれやこれやの認識が印象深い厳かな形式で表現されるのを見るとき、彼はその認識が無限の認識、すなわち創造に根差していることを知る。
どんなちっぽけな生き物の中であれ、たとえば微生物のような被造物の中でさえ生命が動くのを見るとき、彼はこの生命の背後に無限なもの、永遠なもの、創造的なものを認める。
それに基づいて人間は、創造的なものの本質について考えることによって、この本質が日々の生活や体験においてあらゆる時間、あらゆる空間に様々に現存していることを知ることによって、自分の理解と感情を深め、拡大するよう心がけるのである。

創造はすべての人間の中に、創造そのものの一部として存在している。
この考えが一度でも、人間の内面深く浸透して経験されると、彼の中で恐れや疑いはすべて消え去る。創造が全知、全能であることを知ると人間は、その内面において平穏と自信を獲得し、馬鹿げた想念や倒錯した感情に対する抵抗力を得る。
永遠に存続するものであり、尊厳および価値である創造の遍在、真理、英知、能力および知識について繰り返し考えると、人間の中で創造という言葉や名称は非常に意味豊かなものとなり、その感情や考え方に変化を引き起こす。人間の知性がこのような方向で働くようになればなるほど、知性は明るい輝きを増し、人格は力強くなり、その人生と活動のすべてが祝福されるようになる。
明晰な意識をもって生きる人間は、創造的なるものが自分の肉体を感じるよりはるかに現実であるという強い感覚を、いつも新たに自らの内に生み出す。このような感覚が霊に生きる人を絶えず支配している。そのような人の意識は、創造的なものによって所有されるため、その感覚は平和と強さと喜びに、知識と英知に、そして真理と希望にあふれている。
物質的知性で思考する普通の人間が、平和や幸福や強さを手に入れるために講じるすべての手段は常にまやかしにすぎないが、霊に生きる人を支配する感覚は創造の躍動的な力によって脈動している。霊に生きる人はあらゆる点で非常に躍動的である。そのような人は常にできるだけ速く目標を達成するよう努める。だから彼は、生きている限り時間を活かし、持てるすべての力を発揮して創造的な能力へと向かう。彼はこの企てを、放棄することはない。
時間の流れの中では、どのようなことでも起こり得るが、彼の中で創造的なものを求める欲求だけは決して消滅しない。
障害物に出くわしたり、不可欠な物質的事物への感性や愛好を突然失うことがあっても、創造に対する感性や愛好が失われることは決してない。なぜなら彼は、創造が真の存在を体現していることを知っているから。
巨大な霊的および意識的な実を摘み取ることができるのは、意識的および霊的な財産、前進、知識、真理、論理、英知、そして愛を求めて戦う人々だけ。なぜならこれらのものが、労せずして懐に転がり込むことはないから。
最初の成果を達成できるためには、まず霊的知性で考えること、つまり創造的に思考する方法を体得し、その絶対的な正しさと確実さを認識することが必要である。
この最初の成果が現れると、認識する人は大きな前進を遂げ、その霊と意識が拡大して力の因子となる。そうして初めてすでに認識されている事実、知識、英知、論理真理および愛が自明のものとなる。けれどもそれらは、最初に必死の努力によって獲得しなければならない。
しかし道は、この地点で果てるわけではない。さらなる探索と探求、さらなる発展と認識は限りない時間が続くから。
およそ可能なものは、すべて時間の流れの中で起きるものであり、人が決意しても果たせないことがあるでしょう。
しかし、霊に生きる人は限界というものを知らず、何事が起きようと、たとえ未来の見通しが悪くても、目標に固執する。
彼にとって未来は、すでに現在に存在している。だから、霊と意識の最高度の状態を達成するために、すべてのことを今ここで為さなければならない。彼は未来の不安も知らなければ、未来に対して不安を抱くこともない。なぜなら不安というものは、物質的知性で考える場合のみ存在するものであり、霊的知性によって思考する場合には決して存在しないからである。その場合には未来は、現在そのものと同じように現存しているから。
そのため霊に生きる人は、明日や明後日の問題を今ここで解決して、望ましい軌道に導くことができる。
霊について考え、霊で考えることは、すべての生命体に利益のみをもたらす。
だから、徹底的な探索と探求によってますます自らを高めて、霊的思考のレベルに、創造の真理と英知に関する知識に到達しなさい。自分に計り知れない力を与え、自分を非現実的な受容から解放してくれる何かが、すなわち創造の真理が存在するという強い感覚を、自らの内に繰り返し生み出しなさい。
自分が創造の光、その英知、その知識、真理、論理および愛という海の中にいること、そしてそれらが全体として初めて生命の存在を可能にしているという強い感覚を、自らの内に何度も繰り返し生み出しなさい。

創造と向き合う人間の喜びは、創造的なものと創造に対して、尊敬の念を表明することにある。
そのためには全能の意志が、創造の法則の内にあることを受け入れ、法則の絶対的な確実さを自分自身の使命とし、それを有益に評価する。
彼はこれらの法則に献身していることを、霊と意識に関するすべての事実を学んで活用することによって表現する。信仰や受容、奉仕や卑下によって表現するのでは決してない。このことを体得するための唯一の方法は、より高い霊的意識的な認識を獲得し、それによって展開される能力を活用すべく絶えず懸命に努力すること。
その場合に決定的意味を持つのは、忍耐と耐久力を始め、より高度な理解を発達させること、宇宙的、普遍的な愛を認識して活かすこと、霊的意識的な知識と能力を深化させること、利己主義、物質主義、高慢、羨望、欲望、嫉妬などの物質的知性による思考の可能性を遮ること。このようにすることによってのみ、創造の法則を認識し遵守することが保証されるから。
霊的に考える人は、創造を自分のほうに導き、自らの内で認識できるようにしようと絶えず努力する。彼は、普通の人間には不可能なことを可能にしようと努力し、しかもそれに成功する。
霊を慈しむ人は、毎日、毎月、毎年、創造的なものに呼びかけ、そうすることによって知識と英知、愛と論理、そして真理と力を獲得する。そしてついに創造的なものを自らの内に経験し、評価することができるようになる。それによって創造的なものは、自分の体を感じるより現実的なものとなる。
他の人々と付き合って話したりしている間、彼が目の前に見ているのは創造的なものに他ならない。他の人々を見ているとき、彼はその人々の内に創造的なものだけを見る。それというのも彼にとって創造的なものが常に第一義であるから。彼にとって創造的なものは、あらゆる事物の中で最大のものである。だから彼の内では、すべてが創造的なものと直面していて、物質的事物が彼の内部に欲望を引き起こすことはもはやない。物質的な誘惑にさらされることもない。
霊的意識的な知識および能力として自らの内に宿しているものこそ、彼の話し相手であり、案内人だから。彼はこの相手と話し、歓談し、共に創造の法則に生きる。こうした生き方は存在することを意味し、このような存在はこの宇宙の最も美しい現象よりもはるかに美しい。
これほど発達した人間をなおも誘惑に陥れることは、何ものもできない。世界最大の富も、悪意ある連中による死の脅しも。
創造的なものに囲まれた彼の内面的な豊かさは無尽蔵、不滅であり、何ものも彼の内に恐怖を呼び起こすことはできない。彼は無限の力と共に生きていて、それが彼の存在に活力を与えるから。
だから、何ものも彼を虚偽や誤謬に誘うことはできない。なぜなら、創造を認識している彼の存在全体が無限の真理だから。何ものも彼を、外部勢力の誤謬に満ちた想念の闇の中で惑わすことはできない。なぜなら彼の霊的知性による思考の一瞬一瞬が、無限の光だから。何ものも彼の、真理の存在感覚を変えたり、彼を不幸にしたりできない。なぜなら彼は、創造の存在と感覚の中で、したがって無限の喜びの中で生きているからである。
けれども人間が、生命の霊的な事物に対して、自分自身に対して、そして創造に対して、悪意ある態度や否定的な態度を取るならば、彼の内にはおよそ何も生まれない。
もし彼の態度が、物質的知性だけに支配されていて、その想念と感情がそのような形で環境に影響を与えるなら、通常であれば非常に価値のある大いに好都合な状況でさえも、彼にとっては不幸と不和の源となる。その場合、たとえこの人間が良い意図を追求したとしても、結果は全く否定的なものとなるでしょう。
けれども霊に生きる人間にとっては、常にすべてが、内面的成長のために相応しい状況となり、あらゆる形で創造的なものに配慮する絶好の機会となる。
真に偉大なのは、自らの内に絶えず高度で気高い霊的思考と霊的感情とを抱き、維持している人間だけ。
創造的と呼べるのは、常に自らの内に創造的なものを意識して生き、かつ考える人間だけである。つまり、物質的知性に優れた人間は全く創造的ではなく、霊的には絶対的に無価値だと言える。たとえば、調停者や宗教の聖人、非常時や災害時または病人の支援者、とりわけ戦争などで最前線に立ったり、衛生班の仕事をしたりする人についても同じことが言える。
そのような人間は、たいてい冒険心や同情や自己憐憫、さらには物質的知性による誤った想念とそこから生じる感情によって動かされていて、自らの内に創造的なものの認識をみじんも持つことはない。彼らは誤った隣人愛を説き、同じく誤った神に関する教義や卑屈な決まり文句を唱える非現実的な宗教にしょっちゅう惑わされている。
では、そのような生命体と霊に生きる人間との間の違いはどこにあるのでしょうか?
普通の人間は、一般的に低次の物質的知性の刺激によって導かれ支配される。一時良い感情を抱いたとしても、それは決して不変なものではなく、まもなく消滅して、再び低次の刺激に場所を譲る。
これに対して霊に生きる人間は、どんなに小さな創造的刺激さえも消失させることは決してなく、それらを把握して無限に拡大させる。
彼の内に低次の刺激が錨を下ろすことはない。なぜなら、彼の中にある英知と知識の水はあまりに深いため、錨をつなぐ低次の短い鎖では水底に届かないから。
霊に生きる人間は、絶えずいついかなる状況にあっても創造的な刺激の波動領域に居続けようとする。万一その領域が何らかの影響で危険に瀕したら、彼は最大限に創造に依拠し、その最高度の波動力によって否定的なものから身を守る。彼は自らの内で、創造の本質が否定的なものに対する絶対確実な防御を生み出すまで、そうし続ける。

人間はいつも何らかのものを担っている。多くの人々は自らの内に抑圧的な感情を担い、他の人々は悲しみや心配事、いろいろな問題や希望、その他物質的知性に根差した想念を担っている。不安も、美醜を問わずあらゆる種類のイメージの想像も、物質的知性による思考に属している。
しかし霊に生きる人は、創造的なもの、すなわち霊的なものを担っている。彼は創造の担い手、意識的な霊の担い手である。なぜなら彼は、いつも創造の法則の知識と能力を自らの内に担っているから。そして、物質的知性による思考の古い本性が彼を非論理の担い手にしようとすればするほど、彼は自らの内で創造的なものを優勢にして、しっかり定着させることに真剣に取り組む。たとえ極めて否定的な想念がやってきて、霊的知性による思考を破壊しようとしても、彼はそれさえも直ちに創造的な力と英知に変えてしまう。こうして彼は、すべてを創造的なものとし、それを自らの内に担う。そうすることによって彼は、動く創造の寺院となる。
創造に生きる人の知性は、ますます霊化され次第に霊意識の奥深く進んでいく。霊に生きる人はその認識能力によって、あらゆる事物の中にますます深く分け入り、万物に遍在する創造の炎の熱を捉える。
そうすることによって霊的に考える人は、遍在する創造の力と真理を至るところで認識および意識する。そのため、日常感覚では認識されないものも、創造に生きる人にはより霊的、意識的に知覚される。つまり彼は、常にすべての事物と生命体の内に創造が遍在し、創造の法則が適用されているのを見る。
彼は創造の遍在の力について、霊的なイメージを持っている。彼の生命と存在の貴重なエネルギーを、すべて創造の知識、その真理、力、英知、したがってまた自らの内に宿る創造の一部、すなわち霊の能力に捧げるのである。





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最終更新日  2023.04.04 17:01:26


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