天の王朝

天の王朝

ハーバード経済日誌(4)


私は象牙の塔に入る(博士課程に進む)つもりもなかったし、それほど勉強の虫ではなかったので、ハーバード大学院時代の週末は、土日のどちらかは朝から遊びまわり、どちらか一日は朝から晩まで勉強した。遊びまわるといっても、中古で買ったトヨタのカローラで、マサチューセッツやその周辺の歴史(といってもせいぜい三百年)のある街々を訪ねて回った。気分転換をしないと、勉強の能率も下がる。モールなどへの買出しも、いい息抜きになった。

実はそうした息抜きとは別に週3回、私の本業(!?)であるテニスもしていた。私のテニス暦は大学時代のテニス部から始まる。その後、イギリスや富山、埼玉など行く先々で地元のテニスクラブに入った。留学前に東京にいるときも、テニスは最低週2回しており、完全に生活の一部になっていた。

アメリカでは、テニスにも「成績」を付ける。正確にはグレード(成績)ではなくレイティング(等級)だ。だいたい、そのクラブのトップクラスで5・0の等級をもらい、プロの選手なら6以上。私をレーティングしたB.J.というコーチは「ピート・サンプラスなら8をやるよ」と話していた。もちろん、サンプラスクラスをレーティングする必要はない。実質的に意味を持つ最高のレーティングはおそらく、6・0前後ではないかと思う。

レーティングの仕方は簡単で、クラブ専属のコーチと数分打ち合うだけ。その間にコーチは、こちらのフォアハンドストロークやバックハンドストローク、ボレーなどの技術を試す。最初は低めにレーティングされるため、私は4・5をもらった。するとクラブ側は、4・5クラスのプレーヤーと私をマッチングする。同じレベル同士がプレーできるように試合を組んでくれるのだ。

私はそれまで、日英7つのテニスクラブに入部・入会したが、数字でレーティングされたのは初めてだった(Aクラス、Bクラスぐらいはあった)。何事も優劣や白黒明確にしたがるアメリカ流の合理主義に出会った感じがした。

●テニスのレーティング2
昨日も書いたように、私はテニスが「本業」なので、六月末にボストンに来てすぐにテニスクラブを探しまわった。10ぐらいのテニスクラブに電話したり、実際にクラブを訪れたりしてリサーチ、私にとって最適のクラブを選んだ。

私が入ったテニスクラブは、ハーバード大学から西に車で30分ほど行ったところにあるウエストン・ラケット・クラブだ。郊外の閑静な場所にあり、周りは森で囲まれていた。

そこには、人工芝のコートが10面ほどあった。このテニスクラブに決めたのは、日本でも慣れ親しんだ人工芝で比較的膝にも優しいコートであること。それに冬場は特殊な覆いを膨らましてドーム状にするため、雪が降ってもプレーができるからだ。ボストンの冬は長いので、運動不足を解消するためにも、インドアのテニスコートが必要絶対条件だった。

人工芝は、日本ではオムニコートと呼ぶが、アメリカではクレイマーコートとメーカー名で呼んでいた。アメリカではハードコートが主流であるため、人工芝のコートを見つけるのは苦労した。

さて、4・5のレーティングをもらった私に対して、次から次へと「マッチング」が行われた。マッチングは、クラブ員同士で、そのレーティングが妥当なものかどうかをチェックする意味合いもある。試合をしてみたが、どうも4・5のレベルではないとわかると、その旨が非公式にコーチに伝えられる。自分のレーティングを維持するためには、おちおち負けてもいられない。

私の場合は最初、4・5レベルのプレーヤーと試合をしていたが、相手は私から1ゲームも取れないケースが続いた。私は別にそれでも構わなかったが、レーティングしたB.J.のところに苦情が殺到した。「あいつは4・5ではない。早く5・0に上げてくれ」という。つまり、私が4・5であり続けると、自分たちの4・5が危うくなるわけだ。

ほどなく私は、5・0に「昇格」した。

●テニスのレーティング3
5・0のレベルでも、私を打ち負かすプレーヤーは出てこなかった。たいていの場合、6-2とか6-1で勝ってしまった。一応、留学する前までの7年間、日本でシングルスのクラブチャンピオンを保持した面目は保ったわけだ。ただし5・0のレベルの選手は、私には十分すぎる相手だった。とにかくアメリカの選手は背が高いし、パワーがある。サーブも速い。

それでも勝てたのは、人工芝コートがハードコートに比べてボールのスピードが落ちるからだ。私は足が速い(今からすると速かった)ので、相手のウイニングショットも返球することができた。すると、向こうが根負けする場合が多かった。多くのアメリカのプレーヤーは、力任せに攻めるばかりで防御が弱い。車社会で足をあまり使わないせいか、上半身は強いが、足腰が弱い人が多かった。

「お前は勝ってばかりいて、つまらないだろう」などとよく言われたが、とんでもない。5・0レベルの選手は、私が気を抜くと負ける相手であるとわかっていたので、本当は暑い炎天下できついシングルスの試合はしたくなかった。

レーティング5・2の選手にも勝った後、あるとき、コーチのB.J.とも2回だけ試合をさせられた。たまたま同じレベルの人がいない場合には、コーチも登場することになる。試合は激しい応酬となった。一回目は6-4、2-1(時間切れ)で私の勝ち、二回目はロングゲーム(タイブレークなしのこと)で行われ、これも9-7で私が辛勝した。紙一重の差だった。

私はいつも、シングルスよりもダブルスをやりたいとリクエストを出していたが、アメリカ人はとにかくシングルスが好きで、なかなかダブルスをやろうとする仲間が集まらない。おそらくアメリカ人は子供の頃から、一対一の勝負ばかりやらされてきたのだろう。ダブルスだと、勝ち負けの責任が分散され、あいまいになる。勝つか負けるか、白黒をはっきりつけたがる国民性や、アメリカ自体が個人主義的勝負社会であるということも、シングルス重視の背景にあるようだ。

リクエストするときは、フロントに何曜日の何時から何時までの間(通常シングルスで一時間。ダブルスで90分間)にテニスをやりたいなどと電話で申し込めばいい。するとフロントの人が、同じレベルの人に電話をかけて人を集めてくれる。私はいつもダブルスをやりたいと申しこんだが、ダブルスをやりたい人が集まらず、9割以上はシングルスをやらされた。

私が強いということがわかると、私を指名してシングルスをやりたいというプレーヤーが殺到した。毎日のようにテニスクラブのフロントから電話がかかってきて、断るのに苦労した。

しかし、連戦連勝だった私も、ついに敗れるときが来た。

●初の敗戦
忘れもしない1996年12月17日。秋学期最後の授業が終わったその日に、実に二週間ぶりにテニスをしたときだ。

とにかく学期の終わりの二週間はペーパーや論文の提出期限、場合によってはファイナル試験が重なるため、非常に濃密なスケジュールになる。どのぐらい濃密かというと、この二週間はひたすら授業が終わるとすぐに家に帰り、勉強する。食事時間も惜しみ、電子レンジで温めて食べる冷凍食品やレトルト食品が急増する。週末の外出も買出しに行く程度で、ほとんど家にこもって勉強。気が狂いそうになるほど忙しい。

当然、今まで週3回やっていたテニスも断念せざるをえなかった。そして、その悪夢の2週間が過ぎて、開放感に浸っていたとき、電話が鳴り、夜テニスをしないかとテニスフロントからリクエストが入った。「久しぶりにテニスでもやるか」と、私はすぐにOKの返事をして、テニスクラブへ。

いつものようにアップをして、試合が始まった。ところが、いつもと感じが全く違う。ちょっと走るとすぐに息切れ。「ゼイゼイ、ハーハー」。私の体力はかなり落ちていた。普段なら取れるはずのボールも、私の脇をただ抜けていく。足が重い。相手のレーティングは4・7と私より低かったが、とてつもなく強く思えた。結果は3-6と惨敗。なすすべもなく、やられた感じだった。二週間、運動をしなかった「つけ」が回ってきたわけだ。

しかし、一年間このクラブで試合をして、負けたのはこの一度だけ。クラブ員の評価も、私がほぼ実力ナンバーワンであるとのことだった(「ほぼ」というのは、ほかにもう一人、5・3クラスのすごく強いプレーヤーがいたらしいのだが、一度も対戦しなかった)。

そのため、新年会だったか何かのパーティーのエクスビションマッチ(模範試合)のダブルスに、クラブ員代表として参加した。相手は、コーチのB.J.と、アルバイトでコーチをしていたボストン大学テニス部の学生(一応、世界ランカー。といっても800位とか、かなり下の方。全仏を制したこともある女子プロ選手ピエルスとは、「かなり親しい仲」だとか、本人は言っていた)。これに対し私のパートナーは、クリスというもう一人の専属コーチだった。

試合は白熱。一進一退の攻防が続き、6-4、3―6、7-5で我々が勝利した。四人の中ではクリスが一番うまいように思った。さすがにこのクラスでは、私もアップアップ。クリスのおかげで勝てたようなものだった。

●テニス仲間
テニスクラブのいいところは、地元の人と知り合え、仲良くなれることだ。イギリスでも富山でも埼玉でも、すぐに友達がつくれた。

ボストンでは、ポーランド系アメリカ人のローマンとよく遊んだ。ローマンは私がこのクラブで最初に試合したプレーヤー(つまり最初の犠牲者。6-1、6-0で私が圧勝した)で、そのとき以来、親しくなり、テニス帰りにはバーでよくおしゃべりをした。ローマンは地元の世界的な音響機器メーカー、ボーズ(本社・マサチューセッツ)の社員で、非常に「チャーミング」なポーランド訛りの英語を話した。

ローマンは、私と最初に対戦したときは、4・3のレーティングだったが、その後、レーティングの見直しがあり、4・5になったと大喜びしていた。憎めないキャラで、クラブの人気者だった。

中国系アメリカ人のピーター・リュウとも仲良くなった。レーティングは4・7。サウスポーで、オーソドックスなテニスをした。ピーターは、ボストンに来る前はニューヨークで金融関係の仕事をしており、ボストンでは郊外の大きな家に住んでいた。何の会社かは忘れたが、もらった名刺によると、アダムズ・ハークネス・ヒル社の副社長という肩書きだった。

ピーターの「邸宅」には食事に呼ばれたこともあった。猫と犬を飼っていたが、近くの森にはコヨーテが出没するので、なるべく家の中で飼うようにしているのだと話していた。ボストン郊外は冬場、豪雪で送電線が切れたりするため停電が多く、私がお邪魔した日も、途中で停電になった。しかし慣れたもので、すぐに幾つかのキャンドルに火をともすと、部屋の中は暮しに支障がないくらいには明るくなった。「暖炉の火もあるし、もう慣れっこになっているよ」と話していた。

●ボストンの冬、富山の冬
冬の停電の話で思い出したが、ボストンの冬の寒さは生半可ではなかった。私は富山で「59豪雪」(昭和59年の豪雪。本当にすごい豪雪は56年だった)を経験したこともあり、雪国の冬には慣れていたつもりだった。だがボストンの冬は、風が強いので体感温度がマイナス30度ぐらいにまで下がる。この寒さは、富山でも、日本やヨーロッパのスキー場でも、味わったことのないものだった(一度だけ、樹氷で有名な山形蔵王でこれに近い温度を体感したことはある)。

ボストンに比べ富山の冬は、雪が降ってしまえば町全体がかまくらのようになり、意外と暖かかった。私の家は富山市芝園町にある一軒家の社宅(本当は支局長宅だったのだが、支局長が嫌がって入らなかった)で、なんと北西の角地にあった。夏は西日で家自体が天然サウナのようになり、冬は太陽が当たらないうえ、隙間風が北から吹き込み、天然の冷凍庫(あるいは、太陽の届かぬ穴蔵のような状態)となった。

冬場の夜間、社宅から外に出たときはホッとした。家の中よりも外のほうがずっと暖かかったのだ! しかし雪が降り積もると、あちこちの隙間が雪で埋まるため、風が入らなくなり、少し寒さが緩んだのを覚えている。それでも、屋根雪下ろしは重労働だった。屋根の雪を下ろさないと、重みで障子が開かなくなるし、夜は天井がミシミシと鳴ることもあった。

さて、ボストンの冬だが、マイナス30度といえば、バナナでクギをたたくこともできる寒さ。車を運転していてもガンガンに暖房でフロントガラスを暖めないと、大気中の水分が凍りついて結晶がフロントガラスにへばりつく。きれいな雪の結晶が見えるなどと悠長なことは言っていられない。雨や雪が降っていなくとも、フロントガラスが凍って、みるみるうちに見えなくなってしまうからだ。

夜間、人気のない田舎道を車で走っていると、すべてが凍り付いているような錯覚に陥る。この寒さの中では、空気も、音も、時間や色彩さえも沈黙する。あたりは深く沈んだ暗闇と静寂に包まれ、まるで異次元世界に迷い込んだようだった。

●ボストンの冬と停電
ボストン郊外だけでなく、都心部でも雪や冬の嵐のせいで送電線が切れたりして停電が起きることがある。ハーバード大学とか、病院など公共の建物は自家発電施設で「自己防衛」しており、私が住んでいた寮も停電したことはなかった。だが困ったのは、信号機も停電で消えてしまうことだ。

街中を走っても、信号機は休業中。すべての交差点では一時停止し、左右の安全を確認しながら注意深く運転しなければならない。それでも交通渋滞や事故・トラブルがほとんど発生しないことには感心した。交差点で4方向から車が鉢合わせになっても、最初に来たドライバーから順々に交差点を渡っていく。交通整理のおまわりさんなどまったく必要ない。誰が自分より先に交差点に到達したかをちゃんと確認して、自発的に道を譲るわけだ。その順番を破る人は、私が経験したかぎり誰もいなかった(日本ではよく見られる)。

写真をお見せできないのが残念だが、道路上に駐車された車が、雪に埋まって団子のようにゴロゴロ転がっている風景も見ものだった。雪が降ると、除雪車が夜中のうちに主要道路の雪を脇へと掻き分けるため、道路わきに停めてあった車はその雪の中にすっぽりと埋まってしまう。そんなところに停めておくほうが悪いというわけだ。とにかく除雪車は有無をいわさず、決められた道路の除雪をする。

この雪で、いちばん落ち込んでいたのは、アフリカのガーナから来た留学生エマニュエルだった。夏季コースやミクロ経済学のコースで一緒のクラスになり、仲良くしていた。

エマニュエルは雪を初めて見たらしく、「雪は好きになれない。早く春にならないかな」と、いつもぼやいていた。コロンビアから来たヘンリーや私は、これでスキーができると喜んでいた。ニューイングランド地方には、サンデーリバーなど日本では考えられないような広大なスキー場もあり、この日記でも紹介していきたい。

●一人きりのクリスマス
クリスマスの日には、それほどいい思い出がない。別にキリスト教徒でもないし、個人的にキリストの誕生日を祝う義理もない(少なくとも今生の記憶にはない)ので構わないのだが、1996年のクリスマスも一人で過ごした。

ボストンに残っていれば、テニス仲間やクラスメートも大勢いたので、ワイワイガヤガヤ騒いでいたと思う。だが個人的な理由で、12月20日ごろから約2週間、友人も誰もいないワシントンDCに一人で滞在しなければならなくなった。とりわけ何かをすることもなかったので、映画館へは足繁く通った。

アメリカでは、映画が安い。午後五時以前の昼間の部(マチネ)だと、新作でも3ドル75セント(当時の料金。今は4ドル50セント以上するらしい。夜の部は当時で7ドル)で見ることができた。日本の約4分の1の料金だ。これも実に「ミクロ経済101」を忠実に守っている現象だ(101については11月30日の日記を参照)。需要が高い夜間は高くなり、人があまり来ない(需要の少ない)昼間は安くする。

当時、何の映画を見たかはよく覚えていないが、マドンナの『エビータ』を見たことだけは覚えている。マドンナの歌唱力にはいつも感嘆させられるが、娼婦のように描かれたエビータはアルゼンチンの人から見れば「国辱もの」だと、アルゼンチンからきた留学生が怒っていた(このテーマについては、いずれまた触れます)。

ハーバード大学ケネディスクールでは、12月中旬に秋学期最後の授業があった後、1月1日まで冬休みに入る。1月2日から13日ごろまでは、リーディング期間といってファイナル試験前最後のレビュー期間がある。そして1月14日ごろから10日間の日程で、秋学期のファイナル試験がある。

私はファイナル試験の準備のため、1月2日にはボストンに戻った。ボストンはワシントンよりはるかに寒く、キーンと凍った空気を吸うと肺の中でチリチリと響いた。チャールズリバーも、一面に氷が張っていた。

●真実のキリスト
キリストの誕生日(本当は誕生日ではない)ということなので、キリストの人種について少し触れたい。キリストは有色人種(今のアラブ人のような褐色)のセム系ユダヤ人であるはずだ。しかし、その後の西洋文化の中に現れるキリストは、まるで白人のように描写される場合が多い。

とくに欧米の絵画などで描かれるキリストは、ヨーロッパ系白人そのもの。しかし、これは全くの間違いだ。ナザレのイエスが生きていた時代には、白人のユダヤ人などいなかった。今のシャロンのような「白いユダヤ人」はアシュケナージ系ユダヤ人と呼ばれ、後の世に政治的に生まれた可能性が強い。そのいきさつは次のようなものだ。

八世紀ごろ、イスラム勢力とビザンチン・キリスト教勢力との板ばさみになった黒海北方のトルコ系白人国家「カザール王国」は、イスラム、キリスト両勢力との争いに巻き込まれないようにするために両宗教の「ルーツ」ともいえるユダヤ教に国家単位で改宗、王国の保身を図った。しかし11世紀になると、うまく立ち回っていたカザール王国も、ビザンチン帝国とモンゴル帝国に相次いで攻められ、13世紀には滅亡。難民となった「白いユダヤ人」は西に逃げ、ヨーロッパ各地でユダヤ人として生き延びた。

これが、現在のユダヤ人に白人が多く存在する最大の理由だとみられている。この説を唱えたのは、ハンガリーで生まれたアーサー・ケストラーというアシュケナージ系ユダヤ人思想家(ニューサイエンスの『ホロン革命』で有名)だった。

現在のイスラエルでは、アシュケナージ系ユダヤ人が大半を占めている。ケストラーが正しいとすると、民族的にはパレスチナの地とは縁もゆかりもない白人のユダヤ教徒人が、「ここは祖先の土地である」などと称して、パレスチナ人を追い出したに等しいことになる。

さて、ご存知のように多くの西洋キリスト教徒は、キリストを殺したのはユダヤ人だと考えているので、ユダヤ人を別の人種とみなす傾向がある。そのためイエスという「神の子」がセム系の有色人種では都合が悪いので、白人のように描いた可能性が強い。同時にアシュケナージ系ユダヤ人にとっても、キリストを白人のように描くことは、自分たちの正当性を主張することでもあったわけだ。

白人は、実際には地球規模でかなり野蛮で残虐なことをしてきた。未開(非キリスト)の地を「侵略」することが神から与えられた使命であると考え、キリスト教布教の名の下に、世界中で数え切れないほどの人命を奪い、言語を含む文化を破壊してきた。ところが歴史小説や芸術を含むさまざまな分野(とくにハリウッド映画)において、白人は多くの場合、「野蛮人に文明をもたらした正義の味方」として描かれてきた。キリストが白人のように描かれるのも、こうしたイメージ戦略上にあるとみるべきだ。

クリスマス・シーズンになると、全米各地の劇場では必ずバレエの「くるみ割り人形」を演じる。日本でいえば、「忠臣蔵」のような定番だ。ボストンの「くるみ割り人形」では、「美しい王子」役をアフリカ系アメリカ人(黒人)が演じることになり、新聞で話題になったことがある。

ハリウッドに代表される白人至上主義的文化に浸りきっている人(洗脳されている人)は、美しい王子様やキリストが有色人種だと、がっかりしたり、違和感を覚えたりするはずだ。「くるみ割り人形」の黒人の抜擢はおそらく、リベラルな風土で比較的まともなアメリカ人が多いボストン(!?)だから可能だったのだろう。有色人種に対する偏見が依然根深く、キリスト教原理主義がはびこる南部では、まずありえないのではないだろうか。

●キリストの嘘、ハーバードの嘘
昨日の日記では、キリストを白人のように描くのは誤りだと書いたが、クリスマスはキリストの誕生日ではないということも、よく知られた「ウソ」だ。

キリストの誕生日には諸説があり、当初定まらなかった。イエスが誕生したとき、羊飼いが野宿していたと新約聖書の「ルカ伝」に書かれていることなどから、本当は冬ではなく、初夏に生まれたのではないかとの説が有力だ。

ところが、ローマ教皇リベリウスは354年、キリストの誕生日を12月25日と決めた。これは当時、イランのゾロアスター教を源流とする民間の太陽信仰(ミトラ教)に基づき、冬至に関係する太陽神の祭りを12月25日に行っていたことと関係がある。この民衆の祭りの日をキリストの誕生日にすりかえることにより、ミトラ教を衰退させ、国教としてキリスト教を民衆に浸透させようとした狙いがあったとみられている。

キリストの話はこれぐらいにして、実はハーバード大学にも「歴史のウソ」がある。ハーバード大学の正門(ジョンストンゲート)から入ってすぐ正面の建物(ユニバーシティホール)の前にある「創設者」ジョン・ハーバードの銅像には、三つのウソが隠されているのだ。

第一に、創立年月日が間違っている。1638年と書かれているが、正しくは1636年(なぜ2年も後になっているかは不明)。

第二に、ジョン・ハーバードは「創設者」ではない。アメリカ最古の大学であるハーバード大学は、マサチューセッツ・ベイコロニーという地域の最上級委員会の評決により創設されており、特定の創設者などいないのだ。しかしジョン・ハーバードは、当時名前もカネもなく困っていた大学に多額のカネと本を寄付した初代後援者でもあった。その貢献を称えて、ハーバードの名前が付けられた。

第三に、なんと銅像の顔が間違っている! ジョン・ハーバードの栄誉を称えて銅像を造ることが決まった時、すでに彼が死んでから長い年月が過ぎていた。17世紀には写真もなく、彼の肖像画も残っていなかったため、誰も彼がどういう顔だったかを知らない。そこで、当時学生(特に女学生)の間で人気があったシャーマン・ホアという男子学生をモデルにして銅像が造られたという。

これらのウソは、別にハーバード大学に在籍したから知っているわけではなく、キャンパス・ツアーに参加した観光客なら誰でもガイドから聞かされる。夏の間、学生はアルバイトでキャンパス・ツアーのガイドを務めて、学費の足しにするのが常になっている。

●ボストンの下町1
ボストンの下町にはワング劇場、シューベルト劇場、コロニアル劇場、ウィルバー劇場といった素晴らしい劇場が建ち並ぶシアター・ディストリクト(劇場地区)があり、よくミュージカルや劇を見に行った。

郷に入れば郷に従えで、私もクリスマス・シーズンにはワング劇場でバレエの「くるみ割り人形」を観た。私はバレエのことはあまり詳しくないが、一緒に見たバレエ経験者によると、何ヵ所か失敗があるなど、それほどトップレベルのダンサーは出ていなかったと話していた。まあ、季節モノということで上演すれば人が集まるので、全米中でダンサーが引っ張りだこになり、どうしても全体のレベルが落ちてしまうのかもしれない。ただ、舞台装置は素晴らしかった。

ワング劇場は、大理石の柱に支えられた大きなホールやその中央に大きなシャンデリアがあるなどフランスの宮殿やオペラ座を思わすようなロココ調装飾を施した、いかにも由緒あるような、つまり格式の高そうな劇場に仕上がっていた。1925年に有名な建築家クラレンス・H・ブラックオールが設計して建てられた。メトロポリタン劇場として親しまれてきたが、1983年に芸術や劇場運営などに多大な貢献をしたドクター・ワングの名前をとって、現在の名称になった。ニューヨークやワシントンDCの劇場に比べても、実に歴史と風格を感じさせる劇場だ。

当時、ワング劇場で大好評を博したのは、ミュージカル『オペラ座の怪人』やアイリッシュ・ダンスの『リバーダンス』。ボストンに限らずアメリカは、貧乏な学生に優しく、劇場のチケットも大幅な学生割引があった。60ドルぐらいのチケットも、空席が出たときには20ドルぐらいで買える場合もあった。

安いこともあり、『オペラ座の怪人』は2度。ワング劇場の斜め向かいにあるシューベルト劇場でやっていた、エイズをテーマにしたロック・ミュージカル『レント』は3度も観に行った。ほかにも新しい演目が上演されるたびに、金曜や土曜の夜は劇場通いをしていた。


●「オペラ座の怪人」
私は学部でフランス文学(しかも不条理劇)を専攻していたこともあり、行く先々で暇さえあれば演劇を観に行った。劇が好きになったのは、はるか昔の高校生のときで、劇団四季のシェークスピアものをよく天井桟敷(いちばん安い最後列の席)から眺めていた。

1975年夏にはロンドンでアンドリュー・ロイド=ウェバーの『ジーザス・クライスト・スパースター』を鑑賞、その迫力に感激し、ますます観劇に浸っていった。

さて、私がボストンで二度観た『オペラ座の怪人』も、アンドリュー・ロイド=ウェバー作曲によるミュージカルだ。ウェバーはご存知のように『ジーザス・クライスト・スーパースター』のほかに『キャッツ』、『エビータ』などの名作ミュージカルを世に出した。

『オペラ座の怪人』の舞台は1880年ごろのパリ・オペラ座。ワシントンDCでも『オペラ座の怪人』を観たが、ケネディセンターというモダンな劇場で観るよりは、ワング劇場の古めかしい雰囲気で観るほうがはるかに感動する。

『オペラ座の怪人』の初演は、1986年10月のロンドン(由緒ある「Her Majesty’s」。イギリスで大ヒットした後、アメリカのブロードウエイでも大好評を博し。今でもロングランを続けている。イギリスの初演で主役のクリスティーヌを演じたのは、ウェバーの二番目の妻(後に離婚)で世界的な歌姫サラ・ブライトマンだ。

『オペラ座の怪人』には、よりミステリアスに描かれたケン・ヒル版があるが、サラがそのオファーを断ったことをきっかけに、ウェバーがサラに合わせてロマンチックなミュージカルに仕立て上げたとされている。私は原作のガストン・ルルーの小説『オペラ座の怪人』は読んでいないが、劇場で配られたパンフレットを読むと、ケン・ヒル版のほうがまだ原作に近いようだ。

これまでこの作品は何度も映画化されており、私が持っているハリウッド初期の映画ビデオでは、登場する「怪人」はフランケンシュタイン扱い。まるでホラー映画に出てくる怪物のように描かれており、ロマンチックな要素など一つもない。しかし、このウェバーのミュージカルでは、「怪人」の苦悩や葛藤を浮き彫りにし、見事なまでに感動的な作品に仕上がっている。

中でも「ミュージック・オブ・ザ・ナイト」「ファントム・オブ・ジ・オペラ」「ザ・ポイント・オブ・ノーリターン」は秀逸。日本でも、ウェバーのロマンチック版を基にした映画が一月に封切られる予定だ(別に宣伝しているわけではありせん。ただ、劇場で観られない人にはお薦めかも)。

●『レント』
『オペラ座の怪人』以上に私が気に入ったのは、ロック・ミュージカル『レント』だ。プッチーニのオペラ『ラ・ボエーム』を下敷きにして、ドラッグやエイズが蔓延するニューヨーク・イーストビレッジで生きる若者の苦悩と希望を描いた。

この作品をより感動的なものにしているのは、皮肉なことに作者ジョナサン・ラーソンの死であった。ラーソンが長年、夢に描いていた「画期的なミュージカル」の舞台初日の前日に、大動脈瘤破裂で35歳の若さで急死したのだ。

ラーソンは1960年生まれ。幼いころから芝居やミュージカルに夢中になり、大学卒業後はニューヨークに渡り、ウェイターや皿洗いのバイトをしながらミュージカルの作曲や脚本を書き、成功するチャンスをうかがった。ラーソンの目指したのは、既存のブロードウェイの枠を打ち破る新しいスタイルのミュージカルの上演だった。

しかし、その夢は一向にかなわない。ラーソンは三〇歳になって苦悩する。このまま夢を追い続けて、皿洗いのバイトを延々と続けるのか、それとも夢を捨て、もっと割りのいい仕事につくか(ラーソン作『チック・チック・ブーム』)。ラーソンは前者を選んだ。彼は一年かけて『レント』の骨格を練り、さらに一年かけて初稿を完成。その後も手直しに手直しを重ねた。おそらくは「レント」(家賃)もちゃんと払えないような貧乏生活に耐え、バイトの回数を減らしてでも時間を捻出、作曲に心血を注いだ。

1996年1月。とうとう、その夢がかなうときが来た。リハーサルを終え、後は初日を迎えるだけだったのに、その前日に、この世を去ってしまった。『レント』に出てくる売れないミュージシャン・ロジャーは歌う。「偉大な曲を書くんだ。ひとつの曲、栄光。たった一曲でいい、死ぬ前に本当の曲を残したいんだ」――。ラーソンは死して『レント』を残した。

産みの親がいないまま、ニューヨークのオフ・ブロードウェイから始まった『レント』は、瞬く間にヒット。3ヵ月後にはブロードウェイに進出、その年のうちにはボストンのウィルバー劇場でも演じられることとなった。『レント』はその年のトニー賞(ミュージカル部門)、ピューリツァー賞(ドラマ部門)、オフ・ブロードウェイ作品を対象としたオビー賞などを総なめにする。

ニューヨークの若者のスラングも混ざっているため、最初は聞き取りづらくわからない部分もあったが、CDを買って聴きこみ、2回、3回と劇場に通ううちに、細部のやり取りもわかるようになってきた。もちろん、それだけ『レント』の魅力は増していった。

シンプルだが胸に迫る歌詞が、小気味良いリズムに乗って高らかに歌われる。同じプッチーニのオペラ『蝶々夫人』を翻案したといわれるミュージカル『ミス・サイゴン』よりも、はるかに切実であり、感動的だ。

●学生割引
日本でも学割はあるが、アメリカほど多くの割引や優遇措置はないように思う。学生証を見せて料金が割引になるのは劇場だけではない。博物館、美術館、運動施設、ケーブルTV契約、それにちょっとした観光ツアーが学生であるという理由だけで安くなった。

特に私が気に入ったのは、新聞購読の大幅割引だ。新聞社にとって若い学生は、将来の大事なお得意様。大出血サービスで安くしても、それは「未来への投資」であるわけだ。

たとえば、ウォールストリート・ジャーナルやフィナンシャル・タイムズといった経済紙が学生特別料金として年間30~40ドルぐらいで購読できたと記憶している。日本の新聞料金の約10分の1。破格の安売りだ。ボストン・グローブなど地元紙も学生に対して50%引きは当たり前。日本でも、学生向けに割引料金を導入すれば、少しは新聞離れ・活字離れが食い止められるのではないだろうか。

このようにアメリカでは、学生証はまるで打出の小槌だ。こまめに学割を使えば、年間でも相当節約できる。提示しないと損をすることが多いので、何かを購入するときは、必ずといっていいほど学生証を提示する癖が付いてしまう。

私の友達でフィリピンから来たお茶目なビクター(実はフィリピン政府の局長クラス)は、銀行に行き、試しに窓口でいきなり学生証を出して見せた。すると、窓口の銀行員はその学生証をしげしげと見つめた後、こう言った。「すみません、お客さん。ハーバードのすばらしいカードであることは認めますが、銀行ではこのカードで何も差し上げることはできません」――。

確かに、銀行にとってハーバードの学生証は一銭の値打ちもない。当然、担保にもなりようはずがない(ビジネススクールの学生ならともかく、ケネディスクールの学生では担保リスクが高すぎる)。打出の小槌にも、多くの例外があるようだ。

●大晦日の思い出
クリスマスと同様、1996年の大晦日はワシントンで一人淋しく過ごしていたから、あまりいい思い出がない。というか、何をしていたかも覚えていない。おそらく、テレビでくだらない番組でも見ていたのだろう。記憶はちょうど、消去されたカラのテープのようになっている。

クリスマスと違って、大晦日に一人でいることのほうが、私には寂しく感じることがある。私は少々、変わった家で育ったので、小学生だったころの正月といえば、決まって家族マージャンをしていた。その年のお年玉も、マージャンの勝敗で決まるという下克上。兄であろうと、負ければ弟よりもお年玉の額が少なくなる。

そのような騒がしい正月に慣れていたため、静かな正月だと正月を迎えた気がしない。しかし、これまで何度か海外で正月を過ごしているが、日本の正月と比べて静かな正月が多いような気がする。

私が初めて日本国外で正月を迎えたのは、1981年。場所はフランス・ボルドーから東に15キロ離れたブリーブという小さな田舎町だった。

当時私は、イギリスのカンタベリーにあるケント大学に在籍していたが、イギリスの冬はあまりにも暗いので、一ヶ月の冬休みを利用して独りで南仏に行くことにした。行きはスイスのジュネーブまでのチケットを買い、帰りはフランスのボルドーからカンタベリーまでのチケットを買った。では、ジュネーブからボルドーまではどうしたのか? なんと無謀なことにヒッチハイクで移動したのだ!

夜行列車で到着したジュネーブから“冒険”を開始。雪が降りしきるスキー場地帯をヒッチハイクしながら進み、フランスのアネシーとラ・クルザでスキーをして1週間過ごした。その後、再びヒッチハイクして南下。スコットランド仕込みのヒッチハイクテクニックを駆使して、並み居る他のハイカーを押しのけ(別に物理的に押しのけたのではありません。念のために)、快調に南仏へと向かった。

南仏ニースは思っていたとおり、夏のように暖かかった。ビーチではなんと、水着姿のお姉ちゃんやお兄ちゃんがビーチバレーをしている。冬の国から南国に来たような雰囲気だ。太陽も日本と同じようにちゃんと午後5時ごろに沈む。午後3時に沈む冬のイギリスとはまるで別世界だった。

気候はよかったが、南仏は金持ちが多いので、ヒッチハイクには苦労した(金持ちは強盗が怖いので、基本的にヒッチハイカーを乗せない)。途中の話は飛ばして、コート・ダジュールのユース・ホステルでクリスマスを過ごした後、ボルドーへ向かった。

ところが、夏のように暖かかった南仏をいきなり寒波が襲い、何十年ぶりという大雪に見舞われ、再び凍えながらのヒッチハイクとなった。寒さや飢えと闘う過酷な環境の中、時々はめげそうになりながら、ようやくブリーブに到着したのは、12月31日だった。

ブリーブでは、ユース・ホステルに泊まれば、誰かほかにもバッグパッカー(貧乏な旅人)がいるだろうと思ったが、午後4時時点で私一人だけ。なんと、ベッドがたくさん並んだ、このだだっ広い宿泊所に一人で泊まるのか、それも大晦日に! そう意気消沈としているところへ、もう一人、チェエクインした女性がいた。

この地方に遊びに来ていたパリジェンヌで、彼女もユース・ホステルならばパーティーなどでにぎやかなのではないかと思っていたという。一人よりも二人のほうが楽しい、ということで、二人で夕食を作り、二人だけのディナー。

夜も10時ごろになり、ちょっとロマンチックな雰囲気になってきたな、と思っていたら、そこへアメリカ人のバックパッカーの団体(5~6人)が入ってきた。彼らは疲労困ばいしているようで、我々がそばで大晦日のディナー中であることには目もくれず、ベッドに寝袋をセットすると、瞬く間に大いびきをかいて寝てしまった。

ロマンチックなムードもこれで台無し。気分直しに二人で外に出て、新年は近くのカフェで迎えた。

元旦には、彼女は公共交通機関を使ってパリに戻り、私はヒッチハイクでボルドーに向かった。しかし、元旦からヒッチハイクをするのは、はたから見れば異常な行動だ。私が郊外に向かって歩いていると、警官が二人やって来て私に職務質問を始めた。私は別にやましいことは何もしていないので、私が英国の大学の学生であることや旅行中であることをちゃんとフランス語で話した。彼らも納得して立ち去ったが、おそらく近所の人が、元日早々から怪しげな東洋人がふらついていると通報したのではないか、と思った。

ボルドーには、その日の午後2時ごろには着いた。ボルドーのような大きな町でもお正月は静かで、お年寄りたちがいつものようにペタンクに興じていた。元旦の緩やかな日差しの中で、時計はゆっくりと時を刻んでいた。

●年明けのファイナル試験
1997年1月2日にワシントンD.C.からボストンのハーバードに戻った後、すぐに映画鑑賞モードから勉強モードに切り替えた。不思議なことに、二週間映画を観る以外ほとんどなにもしなかったので、その反動でボストンに帰ったら、無性に勉強をしたくなった。

私の場合、履修した5科目のうち2科目(統計とメディア論)は12月中旬までに、ファイナル試験に相当するペーパー提出と研究発表、インクラス試験を終えていた。そのため年を越したファイナル試験は、国際金融、マクロ経済、ミクロ経済の3科目だけだった。

授業中に取ったノートを最初から読み直し、一つ一つ大事だと思われるところをマーカーで印を付ける。忘れていたところは、教科書を読んで復習、段々と学んだことがよみがえってきた。2日から13日まではそれぞれのコースで、博士課程の学生や以前同じコースを取った学生が質問に応対したり、復習の授業をしたりしてくれる。

インクラスの試験では、過去の試験問題をすでに履修した学生から手に入れ、対策を練ることも忘れてはいけない。ある程度の成績を上げるためには、とにかく問題に慣れることが必要最低条件だ。

コースにもよるが、ファイナル試験のグレードに締める比率は40~50%程度。すでに中間試験や宿題の提出、発表などで60%ほどは決まっているので、一発勝負よりははるかに気が楽だ。試験の方式も事前にわかっており、マクロ経済とミクロ経済は試験で初めて問題が渡され、その場で解答。国際金融は事前に10問出題され、そのうち4問が試験当日に出された。もちろん、どの4問になるかは学生にはわからないので、学生は10問分の答えを頭に入れて臨む。

こうして1月14日から24日までのファイナル試験期間が終わると、学生たちは本当の冬休みを満喫する。といっても、1月28日には春学期が始まるので、3日ほどのつかの間の休みにすぎなかった。

●ニューイングランドのスキー場
つかの間の休みにすぎなかろうと、それは貴重な休みであることに変わりなかった。私はその貴重な時間を使って、ニューイングランドのスキー場めぐりをした。

いちばん近いスキー場は、ボストンから車で30分のナショバ・バレー(マサチューセッツ州ウエストフォード)だ。なんといっても近いのが便利だが、山は小さくコースも短い。一度行けば飽きてしまい、二度と行かなかった。

ナショバより少しましなのが、ボストンから約一時間、西に車を走らせたところにあるワチューセッツ・マウンテン(マサチューセッツ州プリンストン)。「ポーラー・エクスプレス(急行・北極号)」という高速の4人乗りリフトがあり、難しいコースに分類される「ブラックダイヤモンド」が3コースあった。ソコソコ楽しめるが、規模が小さいのが難点。スキーを始めたばかりの人には、面白いかもしれない。同級生で韓国の放送ジャーナリスト、チャン・ヤン・チョイ(私とほぼ同年齢で、ニュースキャスターを務めたこともある)を一緒に連れて行ったら、すごく気に入っていた。

ワチューセッツでは物足りないという人は、ボストンから車で2時間は飛ばさなければならない。私が行ったのは、ニューハンプシャー州のガンストックとルーン・マウンテン、それにバーモント州のキリングトンだ。規模がワチューセッツより大きく、ダブル・ブラックダイヤモンド(シングルより難しい)のコースもあるため、結構滑った気分になる。いずれも日帰りで十分な距離にあり、晴れた日に滑りに行けば、最高の気分転換だ。私はよく、金曜か土曜日の晴天の日にふらっと出かけた。

だが、なんと言ってもすごいスキー場は、ボストンから車で約3時間かかるメイン州ベセルのサンデーリバーだろう。山が7つもあり、それぞれの山にはブラックダイヤモンドのコースが整備され、距離もすこぶる長い。とにかく豪快な滑りが満喫できる。夜中のうちに圧雪車でスロープを整備しているため、滑りやすい。一週間滞在しても決して飽きることのないコース取りだ。

ただ最大の難点は、ボストンから遠すぎること。日帰りスキーは薦められない。帰りに疲労から事故を起こすのが落ちだ。私も同級生ら八人で、二台の車に分譲して、運転を交代しながらサンデーリバーに行った。もちろん日帰りではなく、向こうのロッジで一泊した。

しかし、前にも書いたようにニューイングランドの寒さは生半可ではない。吹雪の日にスキーをするなど自殺行為だ。おそらくリフトに乗っているうちに、凍り付いてしまうだろう。安らかに眠りたくなければ、天気予報をよく調べて、晴れた日を選んでスキーをすることを強くお薦めする。

●ディシジョン・ツリー(Decision Tree)1
一応「経済日誌」としているからには、たまには経済の話もしなければならない。せっかくニューイングランドのスキー場の話をしたので、私が夏季コースで習った分析手法の宿題から、スキーにまつわる経済の問題を取り上げよう。

問題:スノーファン・スキー場(もちろん架空のスキー場)の経営者ジルは、来シーズンのスキー場経営について決断を迫られていた。ジルのスキー場の利益は、シーズン中にどれだけ雪が積もるかにかかっている。ジルのこれまでの経験から、一シーズンの積雪量と利益、積雪量の確率は次のような関係にあることがわかっていた。

積雪量が120センチ以上の場合:12万ドルの利益。確率40%
積雪量が60~120センチの場合:4万ドルの利益。確率20%
積雪量が60センチ未満の場合:4万ドルの損失。確率40%

ジルは最近、大手ホテルチェーンから一シーズン4万5000ドルでマネージャー契約するオファーがあった。それとは別にジルは、人工雪を作るスノーマシーンを借りることも考えている。マシーンさえあれば、積雪量に関係なく一定の利益を上げることができる。その利益は、一シーズン12万ドルからマシーンのリース代1万2000ドルと操業費用を差し引いた金額だ。操業費用は積雪量が120センチ以上の場合は1万ドル、60~120センチの場合は5万ドル、60センチ未満の場合は9万ドルだ。

さて、ジルはどういう決断をすべきでしょうか。

●ディシジョン・ツリー2
ジルには、いくつかのチョイスがある。雇われマネージャーになれば、4万5000ドルがコンスタントに手に入る。しかし、そのままスノーファン・スキー場を自分で経営すれば、うまく行けば、4万5000ドル以上稼げる可能性もあるわけだ。

こういう場合に、ディシジョン・ツリーを描くとわかりやすくなる。これは選択肢が枝分かれして木のような形になるため、名づけられた(ちょっと見づらいですが、下の写真のような図です)。

図

ここでポイントとなるのは、積雪量の確率だ。積雪量と利益とその確率を再び繰り返すと、
積雪量が120センチ以上の場合:12万ドルの利益。確率40%
積雪量が60~120センチの場合:4万ドルの利益。確率20%
積雪量が60センチ未満の場合:4万ドルの損失。確率40%
である。

ということは、マシーンが無い場合の予想される利益のサンプル情報(Expected Value Sample Information=EVSI)は、12万ドル×0・4+4万ドル×0.2+(-4万ドル×0・4)=4・8+0.8-1・6=4万ドルとなる。

さらにマシーンを借りた場合のEVSIは、予想利益12万ドルからマシーンのリース代と操業費用を引いた額にそれぞれの確率をかければいいから、
(12万-1・2万-1万)×0・4+(12万-1・2万―5万)×0・2+(12万-1・2万-9万)×0・4=5万8000ドルとなる。

お抱えマネージャーとしての予想利益=4万5000ドル
自分で経営するがマシーンを借りない場合の予想利益=4万ドル
自分で経営し、かつマシーンを借りる場合の予想利益=5万8000ドル

ゆえに、もしジルが自分の利益を最大にしようと思うなら、自分で経営し、かつマシーンを借りる選択をするだろう、というのが答えだ。

それでは同じ問題で第二問。もしジルがマシーンの操業費用はわかっていても、リース代がいくらになるかわからない場合は、ジルの決断はどうなるだろう。ただしジルは、リース代が5000~2万ドルぐらいであろうことは知っていたとする(答えはまた明日。ヒント:考え方は同じです。わからないところはXにして答えを出せばいいですよね)。

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