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なんと6年ぶりの友人と東京出張にかこつけて久しぶりに飲んできました。彼は、大阪出身なのに、はやばやと大阪に見切りをつけ、さらにはニポンにも見切りをつけ、中国に行っちゃって、やっと帰国したと思ったらサッサと東京に行っちゃって。高校生の時の親友で、一緒に中国留学したり、ロシア旅行に行った友人で、実に会うのは6年ぶり。どんなふうに変わってるかな~薄くなってたら、ネタにして笑い飛ばすか、触れないほうがいいか、太ってたら、メタボ検診を勧めるか、触れないほうがいいか、など考えてたんですが、ほぼ6年前と変わらぬ姿の友人が。昔の友人というのは不思議なもので、1時間も話をすると、すぐにタイムスリップして、一番楽しかったころの感覚に戻れる。何年会ってなくてもね。大坂を離れて長い彼は、半分以上、大阪のコトバを忘れてしまったのでしょう。タマエ的には、20点以下の大阪弁になってたけど、ボケのキレ、ツッコミはさすがで、高校生の頃、いっしょに腹がよじれるくらい笑い転げてたあのころが、よみがえってきました。彼とタマエの学び舎タマエが卒業してすぐに、大改築があったので、写真の正門はもう今はありません。高校の前を通りかかっても、タマエが通っていたころのきしむ廊下や、睥睨するように生徒たちを見下ろしていたバカでかい校章や意味の分からない小部屋みたいなんはすべてなくなり、近代的な建物になってしまいました。ちょっとさみしい気はするけど。だけど、朝、車を運転していて、通っていた高校の制服を着た学生を見かけると、心の中で、「がんばれよ~」って、つぶやいてしまいます。タマエは、高校の時の友人といえば、昨日会った彼か、所属していた水泳部の仲間ぐらいしか、今は音沙汰がないんだけど、友人の話では、「あの高校を卒業した奴らは、みんな、そうそうたる会社でそうそうたる仕事をしとる」らしい。そういう彼も、大手メーカーで、生産管理を任されるほどの仕事をしているそうで。大坂屈指の進学校やったからっていうのもあるけど、自由だけど、けじめをつける校風やったから、素晴らしい人材を多く輩出しているのかもしれないね。あまりにも自由すぎて、自由とフリーを勘違いしたタマエのような落ちこぼれもいますが…ワハハ~昨日は、童心に帰り、笑い転げたせいで、今日は朝からポカポカ心でした。
February 9, 2012
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ちょっと前の話になるけど、7月31日に、タマエの会社、neelが主催するカートの耐久レース、「neel cup」を開催したんです。実は、去年も開催していて、2回目。耐久レースって、いろんなところで開催されてるけど、レンタルカートやったり、4ストエンジンやったりで、2ストのKTエンジンの耐久レースって、あんまり開催してないんです。理由は、めちゃめちゃしんどいのと、金額がはるところ。だけど、タマエは、いつもKTのスプリントレースに出てるので、KTの耐久レースがあったら出てみたいな~って思ってて。どこも開催してへんねやったら、自分でやったろかいな、ほんで、どうせやるんやったら、最も気候的に厳しい真夏にやったろ。ということで、第1回を開催したんです。優勝賞金10万円2位賞金3万円。エントリー費用が1チーム3万円。優勝したら、10万円って、すごいよさそうやけど、実際には、4時間も耐久レースするので、レース後、エンジンのオーバーホールが必要やし、新品チェーン、スプロケ、エントリー費なんかを考えると、10万もらってようやくトントンなんです。まぁせやけど、タマエもそんなぎょーさん賞金だされへんので、勘弁してもろてます。去年のneel cupでは、途中でチェーンが切れ、その交換に手間取って結果2位。今年は、なんとか優勝しよう、っちゅうことで、レース前から、故障が起きないように、めちゃ気を配ったんです。ほんで、見事、優勝~~~~~!真中がタマエで、右で大金を手にしていやらしい顔してるのが、エースドライバーのシバちゃん、左は、カート仲間でneelの新人スタッフでもあるタナカ君。みんなで勝ち取った優勝でした。今年は、周到に準備したために、トラブルが全くなかったんです。4時間トラブルなしで走り切って、やっと優勝。耐久レースって、ほんまにトラブルが起きるかおきひんかで、結果が決まってくる。neel cupのレギュレーションは、レース終了時に、マシンとドライバーの総重量が145kg以上あること、となっているので、レース中、別の選手が乗っているときに、重量が足りなくても問題ないんです。カートにおいて、重量はめちゃ重要で、1kg軽かったら、コンマ1秒早くなる、っていう世界やから、悪いことたくらむオトナがいてるんですよ。自分一人と、小学生を2人くらい連れてエントリーするわけです。自分の体重は重いから、もちろん最終は自分が乗って、車検を受けるわけやけど、途中は小学生たちに走らせると、あほみたいに速いわけですわ。めちゃ軽いからね。タマエたちが必死で走って27秒4とか5とかのところ、26秒台前半で走り抜けます。当然、レース前の下馬評では、そういうオトナコドモチームが、優勝候補やったわけやけど、ふたを開けてみると、オトナコドモチームは、ことごとくエンジンが焼けついたんです。重量が軽いから、エンジンの回転が上がりすぎて、焼けちゃうんですね。おもしろいな~って思って。リスクとリターンって、ホンマに表裏なんやな~って思うんです。オトナコドモ以外にも、バリバリの速いレーサーをそろえて参戦したら、カリカリのチューンで走るもんやから、やっぱり、トラブりやすい。去年のタマエのチームみたいにチェーンが外れたり、ほかにもブレーキオイルが漏れたりどっかが折れたり、タイヤがバーストしたり。意外と毎年強いのが、エンジョイカートチーム。ラップタイムは、28秒とか29秒なんやけど、黙々と走り続けるチーム。ラップタイムが遅いので、マシンやエンジンに負担がかかりにくいので、トラブルが起きにくいし、自分たちがあまり速くないとわかってるので、速いチームにさっさと道を譲るので、バトルにならず、クラッシュも少ない。っていうわけで、ふたを開けてみると、黙々と積み上げた周回が、けっこう強いんです。なんか、「ウサギとカメ」みたいでしょ。まだ2回しか開催してないけど、ビジネスとか、人生とかによく似てる気がするんです。耐久レースって。毎年開催して、なんか、neel cupが、真夏の定番イベントみたいになっていくのが、タマエの夢です。まだ2回やけど、2回とも、賞金や、サーキットの貸切費用で、赤字なんです。来年は、もっとたくさんのチームに出場してほしい。ブログ読んでくれてはるレーサーの方がいたら、来年は参加して~~最後に、前輪のシャフトが折れて、曲がらないマシンになっても、必死で走り続けてチェッカーを受けた、マキノさん。敢闘賞です。2か月も前の話やけど、出場してくださったミナサン、ありがとうございました。来年も、よろしくです!
September 30, 2011
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ブログを書くのは、実に1年半ぶりぐらいになるかな。アップの方法も忘れてて、アセりましたゎ。実は、2010年の6月30日に、最愛の「ねね」を事故で失い、もともとねねとのラブリーよつあしライフを書こうと思って始めたブログやったので、まったく書く気がなくなってしまったんです。ねねのことは、涙なしでは書けないし、1年以上たった今でも、まだ文章にはできない。また、書けるようになったら書きます。ねねを失って、呆然としてたころに出会った、「市松」くん。ふら~っと、夢遊病者のように訪れたペットショップで、あれ?ねね?と見間違えるほどに似てたんです。これ、ねね。似てないですか?絶対に、うまれかわりや、思いました。店員さんに頼んで、ケージから出してもらって、「おいで」って呼びかけてみたんです。ほなら、トコトコ…って、やってきてね。タマエの腕に抱かれて、やっと迎えに来てくれたん?っていう顔したんですよ。ホンマですよ。ちょっと悩みました。ねねのことが大好きすぎたから、新しい子を迎えたら、その子を、ねねと比較してしまうんちゃうかな、って。どうしても、ダブらせてしまうんちゃうかと、まぁ、2分ぐらい悩んで、その日のうちに、おうちに連れて帰りました。タマエ家に来たころの市松ちっちゃくて、あったかくて、久しぶりの子犬に、ツラくて悲しくて、どうしようもなかった気持ちが、少しずつほぐされていったんです。市松には、お世話になりました。市松がいなかったら、タマエは立ち直れなかったかもしれません。子犬のころは、ねねにそっくりやった市松も、カラダがしっかりしてくると、やっぱり男の子なんですね。顔だちも精悍になって、体つきもがっしりしてきて、そっくりというほどでもなくなってきて。よかったです。心配してた、ねねとダブらすんちゃうか、というのも、取り越し苦労でした。これからは、また、市松とのよつあしライフを中心に、ブログ書いてみよかな、という気になってます。また見に来てくださいな~
September 29, 2011
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タマエは毎朝、車で出勤するんですけど、最近は今年の1月に納車された、「エスティマ号」ってそのままの名前ですが…その日もいつものように、おうちの裏にあるガレージへ。アタッシュケースと、コーヒーと、ねねを連れて。基本的に遅刻気味のタマエは、朝は1秒を争います。で、車の前まで来て。あれ?助手席のドアが半ドアやな…昨日しめわすれたかな?最近の車って高機能で、鍵(といってもすでに鍵の形してませんけど)をポケットに入れておいて、ドアノブに触れたら、カギが開くんです。で、いつものようにドアノブに触れようとして、 ちっちゃくて分かりにくいでしょ。ドアノブに触れようとして、ええ~~~~!!三角窓、割れてるや~~ん!っていうか、割られてるや~~ん!うっすら写ってる人影は、犯人じゃないですよ。警察の方です。車に、ものは置いとかないようにしてるんやけど、なにとられたんやろ…って、見てみたら、 な・・・ナビが・・・なんにしても、とりあえず警察よんでね。鑑識みたいな人らがきて、「指紋採取させてもろてよろしいでっか?」って。ドアの辺りやら、ナビのあたりを、ドラマでよく見るやつでポンポン。 「こら、プロの仕業ですな~おそらく、2分くらいでやってますな。」って。『お巡りさん、プロの仕業やったら、指紋なんか残ってるんですか?手袋ぐらいしてるんじゃ…』「そらしとるでしょ。奴らもあほやないですさかいに」『ほな、なんで指紋とってはるんですか?』「まぁ、一応。」一応って…車、金属粉で汚れたおしてますがな。「区別するために、ご主人の全部の指の指紋とらせてください」って、ワシが犯罪者みたいやがな…。『最近、車上荒らし、多いんですか?』「今日、3件目ですわ。トヨタ車ばっかり」な、、なんじゃそりゃ。こんな身近に、そんな犯罪が横行してるとゎ。『捕まえられへんのですか?』「いやー、なかなか。」なかなかって、捜査しとんのかな、ほんまに。警察の方々は、タマエの愛車を金属粉まつりにして、「ご協力、ありがとうございましたっ!」って、帰って行きました。ご協力って…。トヨタのディーラーに電話して、すぐに、回収に来てもらったんです。『毎日使うもんやから、できるだけはよ直してや。』いうて。あとで、電話かかってきて。「ケーブルとか、結構切断されてるんですわ。これ、6月まで直りまへん。3週間くらいかかりますわ。」って、ちょーーまて。なんでそんなかかるねん。「ナビはあるんやけど、ケーブルを切らしてるんですわ。メーカー欠品で。」なんでそんなもんが欠品すんねんな。「いや~、ここのところ車上荒らしが多くて、ケーブルが欠品してしまいましてね。」って、なんじゃそりゃ。次に、保険会社に電話して。「タマエさん、車両保険入ってはるから、全額保険おりますよ。」「なんやったら、ちょっとええやつにつけかえはったらどないですか~」って。ドロボーさんは、窓たたき割って、ナビをゲット。警察の方は、一応の指紋採取。トヨタディーラーは、ケーブルが欠品するくらいナビとナビ修理が売れとる。タマエはしばらく車入院とはいえ、保険で全部直るから、持ち出しなし。保険会社はと言えば、相互扶助なわけやから、タマエに支払われる保険金は、多くの車上あらしにあってないドライバーから集めたもの。なんか、おかしないか?なんかおかしい気がするのは、タマエだけやろか。どーもしっくりこん。あれから1週間以上考えてるけど、やっぱりしっくりこん。
May 27, 2010
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いや~長いことお休みしました。neelの歴史、途中で終わっちゃってるみたいな感じやな~と思ってらっしゃる方もいらっしゃるかもしれませんが、実は、あれで終わりなんですよ~(終わりにした、といううわさもありますが。)2~3年ほどの近い過去のお話は、なかなかブログでは載せられません。企業秘密的なこともあったりするし、書きにくいんです。しょうじきなところ。また、何年かしたら、ぼちぼち歴史の続き書いていきますよ。というわけで、今日の本題。タマエは、老化防止のために、週に1回、スポーツジムに行ってるんです。一人でモクモク系ではなくて、専属トレーナーをつけて、1時間~2時間ぐらい、みっちり体をいじめ抜く系。マッスル系です。筋肉を疲労させて、乳酸をためていくんですけど、これ、その後の筋肉痛が、ハンパなくきついんです。完璧にナルシストと化して、わけのわからん重さのバーベルに挑戦していくわけで、筋繊維が断裂し、乳酸がたまっていくので、当然、痛むわけです。筋繊維が修復していく過程なのでね。先日来、なんやかんやで、ジムをお休みしてて、3週間、行かなかったんです。ほんで、ちょうどその時、ゴルフのラウンドがあったのね。そのラウンドが、びっくりするくらい調子良かったんです。タマエのゴルフは、明らかに『リキミスライス祭り』なんですけど、その時は、自分でも見たことない球が連発して、まっすぐしか飛ばへん。いつもなら、何度も何度もファ~~~~~~なるわけですけど、その日はゼロファー。しょっちゅう回ってるコースで、ベストスコアやったんです。いや~とうとう、ゴルフ、壁を突き抜けて、上達しだしたんちゃうか~~サナギから蝶になったかも…って。ほんでまぁ、その後、ジムにも復帰し、毎週のジム通いが始まったんですけど、こないだ、またゴルフいってね。おんなじコース。グダグダのぼろぼろ。ファーファー言いっぱなしですわ。で、やっと気付いたんです。筋トレと、ゴルフは、反比例するんちゃうかって。筋トレして、筋肉痛祭りの体やと、どうしても、へんに力が入ってるみたい。妙な力が入ると、間違ってもまっすぐ飛ばないのが、ゴルフ。ブーメランみたいな球しか出ません。散々な結果になってしまいました。タマエの推測なんですけどね。ジムとゴルフ反比例の法則。月末にまたラウンドの予定があるので、その週のジムは、控えてみよか、おもてるんです。そこで、調子がよかったら、仮説が真実になるかも。せやけど、もし、真実になってしまったら、ゴルフの上達をあきらめるか、ジムでの老化防止をあきらめるか、二つに一つの選択を迫られるんやろか…
April 15, 2010
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2004年当時のneelセレクトショップ。ところどころ画像がなくて、見にくいけど、いまとはずいぶん違うな~~neelのロゴが、まだ大文字なのがなつかしい。
January 22, 2010
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2004年。いまだにレコード売り上げを出した年として記憶に残っている 2004年。セイコーウォッチさんとお取引を開始できたことで、ほかの大手メーカーさんの見方も変わってくるんですね~「あ。セイコーさんとやってはるんでっか。ほな、問題ないでしょ」って。2004年中に、たくさんのメーカーさんと、新規のお取引を開始できました。2003年の勢いをそのままに、2004年上半期、オークションも定額販売も、新規ブランドを展開しながらぶっとばしたわけです。人数も山モリいたので、バックヤードも全く問題なく、1月から順調に前年比200%とか、150%とか、そんな数字を叩き出して行きました。2003年から、なんとなくタマエの中に引っかかってたのは、『オークション』。空前のオークションブームで、オークション自体は盛り上がりまくってるんやけど、実際、出店しているタマエから見ると、利益が取れなくなってきてる。大手メーカーさんとの取引が順調で、オークションではない、固定価格での販売が順調に伸びてきてる。だけど、オークションの売り上げは、neel全体のまだ、4割近くあるんです。悩んで悩んで、悩みぬきました。結果、オークションからの撤退を決意したんです。完全撤退したのは、2004年7月。オークションを完全撤退する代わりに、なにか、新規時事業を立ち上げよう。って思ったのね。スタッフも多いし…。neelは、腕時計の販売をしてるわけやけど、腕時計って、単価がはったり、在庫のスペースが少なくて済んだり、いろんな利点がある。だけど、もっとも大きな欠点が、「リピートしにくい」っていうところやと思ったの。腕時計を、1年間に、ポンコラポンコラ買うお客様はなかなかいません。やっぱり、悩んで悩んで、「よっしゃ!これ買う!」って、買って下さるお客様が圧倒的に多い。口コミによるリピートは、確かに期待できます。だけど、食品とか、消耗品のリピートに比べたら、やっぱりケタが違うでしょ。だから、リピート性の高い商材を扱って、別事業部を作ろう!って思い立ったわけです。で、なんにしようか悩んだ挙句、決定したのが「ペットグッズ」。もともとねねのことを溺愛してるタマエなので、ワンコ達が、元気で長生き、幸せに暮らしていける、そのお手伝いができるような仕事、ということで、ペットグッズに目を付けたんです。ペットのお客様もご自身でワンコと一緒に暮らしてはる方ばかり。やったら、タマエと同じ思いの方も多いやろうから、いろんな意味でやりやすいかな、って思ってね。7月にオークション撤退して、オークションに従事してたスタッフを、全員固定販売のスタッフに切り替え、タマエは、ひとり、ペットショップ作りを始めたんです。売上が大きくなりすぎた腕時計事業部。もう一度、ペットショップを一人で作っていく中で、時計事業部のスリム化や、コストカットや、マーケティング戦略が見えてくるんちゃうか、って思って。一人きりでやろう!ってスタートしたんです。商材集めやらなんやらからスタートして、4カ月かかって、やっと「Dog Neel」オープン!!顧客対応も、最初はぜんぶタマエがやりました。ひとりひとりのお客様に、すごく時間をかけてね。このお客様が、来月も、さ来月も買い物してくださる、と思ったら、ひとりのお客様に時間をかけて接客することができる。そういうあったかいお店にしたかった。Dog Neelも、順調に売り上げを伸ばしました。固定販売の部門も、広告をガンガン使うことで、どんどん売り上げを伸ばし、2004年は年商8億を突破!このころ、ウェブの広告って、ものすごく効いたんです。いろんなところにバナー貼ったり、楽天のメルマガに自社の記事さしこんだり、ウェブのマーケティングは、広告戦略一色でした。もともとドンブリなタマエは、いったらんか~~~い!!って、目ん玉飛び出るような金額の広告を買いあさり、ガンガン売り上げを伸ばしました。その結果が、8億です。この間、社員もアルバイトも増加して、ますます大所帯になって行ったんです。実は、neelが入ってるビルの3階に空きができたんで、ペット事業部の倉庫に、と、すぐに借りたのも、2004年。ますます経費が膨らんでいくのでした。空前の売り上げを叩き出した割には、手元にたいしてお金が残ってない。そらそうですわな。広告代ガンガン使うし、コストも人件費も増大の一途やし、売上作るために在庫もどんどん積む。在庫って、帳簿上は利益やけど、カネの利益ではなくて、商品の利益やもんね。儲かったら儲かっただけそのカネで商品を買い、在庫として蓄積させてるみたいなもんやから、そら、おカネは残らんわな、って、いまならすぐにわかるけど、当時のタマエは、8億でこんなもんなんやったら、来年は10億ぢゃ~~!ガォ~~~!!拡大路線は、まだまだ続くのでした。
January 15, 2010
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K崎君の後から入ってきたスタッフで、H口君っていうのがいて。もともと他のネットショップで働いてて、そういう関係で何回かお会いしたんやけど、「タマエさんの下で働かせてください!!」って言われてね。当時、タマエは天狗ちゃんなってたわけやから、そんなん言われたら、「よっしゃ、うち来い。」いわなしゃーないですやんか。H口君が、2003年の1月に、入社しました。ものすごくアグレッシブで、前向きで、どんなことにでもチャレンジして、道を切り開いていく、そういうスタッフやったんです。彼を迎えたことで、neelは、飛躍的に売り上げを伸ばします。楽天市場中心でやっていたneelに、ヤフーショッピングを導入したのも彼。当時、ヤフーショッピングて、セレクトストアっていうてね、千趣会さんとか、HMVさんとか、そうそうたる大手企業じゃないと出店できなかったんです。出店数も、100社ほど。だから、まず絶対無理やろなーって思ってたんです。出店するの。だけど、H口君は、「やってみな分かりませんやん。べつに、あかんかったらあかん言われるだけやし、あたってみますわ」いうて、出店を取り付けてしもたんですな。出店数が少ないから、ヤフーショッピングの腕時計のマーケットは、neel独占みたいなもんです。おもろいように売り上げ伸びました。だけど、摩擦もあってね。H口君が入社してすぐ、一番最初に社員として入社してきた、タマエの古くからの友人が、去って行きました。K崎君とも折り合いが悪く、いつもぶつかってて。当時のタマエ的には、売上伸ばすやつがえらいやつなわけで、H口君の進言をどんどん取り入れたんです。スタッフが足らん。このままやったら売り上げ上げてもバックヤードが追い付かんいうて、2003年の1年だけで、正社員8人アルバイト10人増員しました。さらに、neelの入ってた部屋の隣の部屋(25坪)が、空いたので、間髪いれずに契約。総坪数32坪に増えたんです。売り上げ伸び続けるけど、経費がかさむかさむ。数字的に言うと、2002年の年商が1億5千万やったのに対し、2003年の年商は、3億8千万。3.5倍です。だけど、人件費はそれ以上になってるし、固定経費も増大し続ける。なんとなく不安を覚えだしたのが、2003年後半。このままで、ホンマに大丈夫なんやろか…2003年ごろって、オークション全盛期なんです。一番盛り上がってた。だけど、逆に言うと、出品者も増え、個人やけど業者、いわゆる、2000年創業当時のタマエみたいな出品者が、山ほど出てきてね。思うように値段が伸びなくなってきて。オークション事業部の粗利率が、どんどん落ちていってたんです。それも不安の1要素。H口君は、売り上げ至上主義なので、お客様のベネフィットとか、あんまり考えないのね。売れるもん売りまくるわけです。当然、そういう売り方してたら、クレームも増える。キチンとその商品が間違いないものか、製造は?クオリティは?保証は?そういうことを、考えずに売りまくるので、売上取れても、会社的にホントにそれでいいのか…?って、悩みだしたんです。そもそも、「カネのために会社やっとるんです」ていうてたタマエ。自分以上に、「カネもうけてなにが悪いんですか?」的なスタッフを前にして、はじめて、「ホンマにカネのためだけでええんやろか。ていうか、売上ガンガン伸びてるけど、たいしてカネ残ってないしな…」って。このころから、H口君とも、ぎくしゃくしだしたんですね。オークションも全盛やけど、健康食品が爆発的にヒットしててね。塗るだけで痩せる、とか、飲むだけで肌がピカピカとか、おなかにつけるだけで低周波で腹筋ビッキビキとか。そういう商品が、爆発的に売れてた。テレビ番組で、「あるある大百科」っていうのがあって、そこで紹介された商品は、爆発的ヒットする、っていうロジックで。H口君、当然「健康食品やりましょ!!タマエさん、いま、爆発的に売れてまっせ!」って言うてくるわけです。タマエ的には、健康食品だけはやりたくなかった。もうこのころ、カネ至上主義ではなくなってきてたので、会社をきちっとしたものに、ポリシーある会社にしていくためには、ポリシーのあるものの売り方をしていきたいって思ってたので、健康食品だけは、認めなかったんです。ワシらは、時計屋や。健康食品は、他のやつらに任せとけ。いうてね。大きなメーカーさんと、キチンと商売したかった。「今売れてる」商品より、「昔から売れてる」商品を、どんどん拡充していこう、ポリシーある売り場、ポリシーある商品選択、お客様のほうを向いた顧客サービスそういう会社にしていこう、って思ったんです。最初に連絡したのが、日本で一番大きな時計メーカー、セイコーウォッチさん。最初は、けんもほろろに断られました。「ネット…?は?」みたいな感じで。熱意を語っても聞いてももらえず、門前払い状態でした。悔しくて、「もういい。もう頼まん。うちは今までどおりのやり方でやっていったる」って思って。だけど、なんか、引っかかるものもあってね。もともといまのままのやり方で、すでに不安を感じてるわけで、だからこそ、セイコーさんにコンタクトしたわけで。東京まで行きました。金髪の頭、刈り落として、スーツに慣れないネクタイ結んで、セイコーさんの門たたいたんです。詳しくは、これ読んでね。そういうneelの新しい流れが、H口君には、どうしても添えなかったみたい。2004年、仕事始めの日に、辞表出してきました。その時彼が言った言葉が、「2004年、neelのすべての権利を私に下さい。いまの倍の売り上げにしてみせます。もし、それがかなわないのであれば、辞表を受け取ってください。」一考だにせず、辞表受け取りました。なに言うとんのかな、おもてね。neelは、タマエが創った会社であって、最終的な決定権は、絶対にタマエにあるわけです。それをすべてくれって…。「ほな、自分で会社やったら?」ということで、退職していただきました。いくら力があって、売上を作れるスタッフでも、価値観を共有できなければ、会社としては必要なスタッフとはいえません。最後はよくなかったけど、H口君は、neelにとって、とても大きな貢献をしてくれたスタッフの一人です。そして、なにより、カネ至上主義やったタマエの目を覚ましてくれた。これが一番大きな、彼の仕事やったんかなって、そう思います。
January 14, 2010
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日本中に、大寒波が襲ってきた日、お休みもらってたんで、カートの練習に行ってきたんです。タマエのホームコースは、宝塚カートフィールド。兵庫県は宝塚の、山の上にあるんです。普段から、大阪よりも、2~3度は気温が低い。この日、大阪の最高気温が5度って言われてたんで、どないしよかな~って思ってたんです。めっちゃ寒いでしょ。さむそやな~しんどいな~って。だけど最近忙しくて、なかなか休みも取れなくなってきてるので、せっかくのお休みを無駄にしたらあかん!!と、朝からサーキット向かいました。案の定、さむいだけやなくて、風も強いし、雪降ってくるし、路面凍ってるし、散々なコンディションで。こんなことなっとるわけです。完全に吹雪ですよ。ハンドル握ってる手が、すぐに感覚なくなってくるんです。外気温は、すでに氷点下。空気を入れ続けてあげないと曇ってしまうので、シールドをうっすら開けてるから、ヘルメットの中の体感気温は、氷点下以下。あたまの芯が痛くなってきます。アクセル踏む足の感覚もなくなってくるし。それになにより、路面が冷えすぎて、全然グリップしない。あかん。練習どころやない。こんな、極寒の日にカート乗りに来るのは、あほな奴だけです。タマエ以外にアホが2人。そのうちの一人は、結構速い人なんです。その人のラップをこっそり測ったら、なんと、27秒5。うえ~~~!速っ!!タマエなんて、ええとこ、27秒8です。なにがちゃうんやろ…?グリップせーへんのは、タマエも、彼もおんなじはず。極寒に耐えながら、彼の走りをずーっと研究してたんです。で、気付いたことが。タマエは、基本的に、ハンドル切って曲がろうとするわけです。だけどグリップがきかないから、あったかい日よりも、ガツンって、ハンドル切る。それによって、マシンを若干滑らせながら、曲がっていくわけです。だけど、彼は違った。コーナー手前で、ハンドル切る前に、リアを滑らしてるんです。簡単に言うと、たとえば右コーナーの場合、マシンの後ろの部分を、左に振ることで、先にマシンの向きを変えてしまうんですね。ドリフトみたいな感じかな。なるほど~~!!やってみよ!ということで、タマエもチャレンジ。一朝一夕でなかなかうまくはいかないんやけど、体重移動をうまくすることで、リアのポジション変えられることに、気づきました!!路面が冷えてて、前輪のグリップが低下しとるわけです。逆に言うと、「滑りやすい路面」だから、後輪をうまくスライドさせてあげることで、ハンドル切らんでも、マシンの向きが変えられるわけです。そのカギを握るのが、体重移動。やってるうちに、なんとなくコツがつかめてきて、タイムが上がり始めました。27秒8やったのが、27秒7、27秒6…だんだんおもろなってきてね。ここ最近、カートもなかなか練習できてなくて、レース中心になってたから、ゆっくり走り方を研究することもできてなかった。久しぶりの新しい発見です。最後のセッションで、ようやく、目標の27秒5が出せました!速い彼とおんなじタイム。いや~~楽しかった。吹雪で、やめとこかな、って思ったカート練習やったけど、行ってよかった。厳しい環境の時に練習することが、上達のカギなんやなーって、改めて実感です。あ、そうそう。最近ヘルメットペイントしたんですよ~白ヘル卒業です。メッキ加工して、タマエの大好きなオレンジ基調。お気に入りですゎ~~
January 14, 2010
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大きくしたら、大きくしただけ、モノが入っていく、みたいな経験ないですか~?2002年に、neelは、とうとう事務所を借りたんです。大阪は服部緑地っていうところにね。これは、いまも本社所在地です。大阪市内に、毎日のように仕入れに行かないといけないので、大阪市内に出やすい場所。朝の通勤ラッシュにはまりたくないから、大阪市内じゃないほうがいい。タマエの家から、できるだけ行きやすい場所。で、検討したんですけど、最初の候補地は2つ。・千里中央・江坂両方とも、北摂ではなかなかの繁華街です。とくに千里中央は、モノレールと地下鉄が交差している、ジャンクションみたいな町で、スタッフ募集したときなんかに有利そう。江坂は、東急ハンズがあったり、食べ物屋さんがものすごく多くて、毎日のようにおいしいもんが食べれそう。だけど、両方とも調べてみたら、家賃がものすごく高くてね。坪単価で言うと、15000円くらいしよる。よさげ名物件もなかったし。いまでもそうやけど、不動産関係は、こいつに任せよう、って決めてる友達がいてね。その子にいろいろ調べてもらってたんです。で、彼が提案してきたのが、「緑地公園」江坂の一つ北の駅で、千里中央の2つ南の駅。オフィス街ではなく、どちらかというと住宅街の町で、大阪で一番でかい公園『服部緑地』があるんです。でっかい公園が近所にあったら、ねねのお散歩しやすそうですがな~事務所を借りるにあたって、もっとも重視したのが、その階。何階がいいというのではなく、そのビルの最上階しかイヤやった。そもそも天狗の時期なので、「天井の上を誰かに踏まれてて仕事ができるかい!」みたいなかんじでしょか。ほんま、性格悪い考え方ですな。緑地公園の駅前のビルの、最上階に空きがあります!って、不動産の子がいうてきてね。家賃聞いたら、坪単価7000円ちょっと。で、17坪。坪数もちょうど。ええやないか~いうて、すぐ見に行きました。ほんまに、駅の目の前。雨降ってても、傘もささんと事務所まで走れそう。最上階で、西向き。夕方なったら、いや、いうほど日が入ってくる。すぐに気に入りました。坪単価7000円で、すでにめっちゃ安いのに、6000円台までゴリゴリに値交渉して、ハンコつきました。ずーーっと、実家の畳の上で出荷してたので、いわゆるオフィス、オフィスビルの1室いうたら、もうそれだけで興奮しました。窓から眺める景色も、全然違って見えたし、「やっとここまで来たか~~~」って。で、コーナンで8000円の棚を山ほど買って、事務所にセットしていくわけです。在庫おかなあかんからね。将来、多少在庫が増えるであろうことを見越して、ちょっと多めに棚買って、17坪のぐるりに配しました。人間は、在庫にぐるっと囲まれながら仕事するわけです。あ。タマエだけは別ね。タマエは、窓を背に、ぼかーーんって、でっかい机おいて、アスクルで買った6000円の社長椅子っぽいやつにふんぞり返るっていう予定。この、窓を背にしたことで、パソコンのモニターが反射して、めっちゃ見にくくなって苦労しました。また、窓のすぐそば、いわゆる「窓際」ですな。そこにいてることによって、夏は暑くて冬は寒いみたいな状況になってね。事務所で一番過酷な場所であることは間違いない。しばらくは順調やった。一人スタッフが増えて、タマエと社員が2名。17坪の部屋に3人やから、広々ですわ~なんでやろね。なんでかわからんけど、そうなってくると、なんか、人いれたなってくるんです。いま思えば、まだまだ一人当たりの売り上げをシビアに目標立てて狙っていかなあかん時期やねんけど、「スタッフやとうか…」みたいな。で、まず入社してきたのが以前ブログで紹介したK崎君。もうやめちゃったけど、かなり長い間、統括部長としてneelを支えてくれた。K崎君が入社してから、半年くらいの間に、あと2人くらい入社して、1人辞めて、あっという間にタマエ含めて5人に。狭苦しい所で仕事してたら、在庫も置き場ないし、机もおきにくいから、スタッフって、「物理的に増やされへん」けど、ひろ~~い事務所に移転したら、少ないスタッフの数やと、なんとなく寒々しいし、なんでか知らんけど、「ひとやとおか…」ってなってしまうんやねー。この失敗というか、タマエの癖みたいなもんは、この後、5年以上続きます。ていうか、ついこの間までそのままやったかも。経営のことを学んだこともなければ、財務的なこと、簿記的なことも、独学で習得したから、人件費率がどう、とか、固定経費がどう、とか、流動経費が…損益分岐点は…みたいな考え方が全然できなくて。いっつもドンブリでした。「いかんか~~~売りまくれ~~」みたいなかんじで、売上どんどん伸ばして、経費もガンガンかかるんやけど、最後にカネ残ってたらええか、みたいなね。キャッシュフローマネジメントっていう言葉も知らなかった。売り上げ伸びてんのに、なんでカネのこらへんねやろ…ってよく思ってたんです。いや~怖いなー。いま思い返すと、ネットバブルやったから乗り越えてこれただけで、ホンマに危なっかしい経営やね。
January 14, 2010
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とうとう年末ですね~今年も一年、ありがとうございました。ビジネスの部分では会社創立10周年ということもありましたが、neelにとっては、かけがえのない素晴らしい年になったと思います。会社の体質改善をしていくという、土台作りができた1年でした。また、世の中が不景気だといわれる中で、営業利益、経常利益とも、キチンと黒字を確保することができました。これも、関係業者の皆様のおかげだと思っています。それから、業務が増え続ける中、辛抱強く頑張ってくれているスタッフみんなのおかげです。この場をかりて、深くお礼申しあげます。来年も、この勢いを止めることなく拡大し続けます。neel関係者の皆様が幸せになれるよう、そのお手伝いができるよう、まい進していくつもりです。来年も、どうぞよろしくお願いします。
December 31, 2009
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初めてのスタッフは「基本給+歩合」っていうことにしました。基本給は、スズメの涙ほどの金額にして、歩合で稼げ、と。結果が出たら出た分だけ、歩合としてフィードバックする、その代わり、結果が出なかったら、報酬なし、みたいな契約にしてね。通常販売部門を任せるので、必死でやってみ、いうて。タマエはオークションで必死なので、スタッフは放置してました。それでも、やったらやっただけ報酬がもらえる、っていう雇用契約がよかったのか、そもそもそのスタッフが高い意識を持ってたのか、ものすごく頑張ってくれました。その子の報酬も、ぐんぐん増えて、その分、neelの通常販売部門も、どんどん売り上げを増やしていったんです。通常販売、といっても、オークション商材に毛が生えたようなもので、『通販ウケするもの』をテーマにマーチャンダイジングしていたので、食品以外はなんでも売る、っていうスタイル。当時のショップ名は、「ASR輸入雑貨SHOP」なんでも手掛けるので、腕時計の比率も低くなっていき、「で、なに屋さんなん?」っていう状態やった。お店としてのこだわりとか、タマエ自身のこだわりみたいなもんは全然なくて、売れるもんを売る。それだけでした。あと、どこよりも安いプライスをつける、っていうことを最重要課題にしてた。オリジナル商材ではなく、並行輸入の商材が多く、簡単に言ってしまえば、「どこにでも売っているもの」が多いわけで、すべての商材がすさまじい価格競争に巻き込まれるわけです。特に、ネットショップって、日本全国が商圏である、っていうのがすごくいいところやけど、逆に言うと、日本全国のネットショップが、商売敵になるわけ。遠くのディスカウントショップよりも近くの商店街、っていうわけにいかないので、その価格競争は、ホントにすさまじい。死屍累々というより、屍すら残らないような、そんな戦いになるんです。激戦商品を取り扱っていると、最安値のショップよりも、5%も高い値段つけてたら、絶対に売れません。さらに、「あそこは高い店や」と思われてしまう。そうなると、他の商品も売れない。利益率をとことんまで下げながら勝負していくのは、ホントに体力勝負で、会社の体力がどこまでもつか、っていう戦いになる。タマエは、売値を限りなく安く設定するために、仕入れ値を下げていかなあかん、と思っていて、大量現金購入することで、その仕入れコストを極限まで下げよう、って努力してたのね。そういう商売してると、負のスパイラルに入って行くんです。先に現金で仕入れると、キャッシュフローが悪化します。1個あたりの「ウェブページ制作・検品・出荷」といった業務は、利益率が高かろうが安かろうが、等しくかかるわけで、低い利益率で突っ走ると、この固定経費の償却ができない。なので、大量に売らないと、しっかりした利益を確保できない、っていうことになる。大量現金仕入れ・大量鄭利益率販売これでは、キャッシュフローが回るはずがない。だけど、売るためには利益率を下げていかなあかん。その頃から、無我夢中でフル回転させていくようになります。キャッシュフローが悪いので、売上をどんどん拡大させていって、手元のお金を回していくしかないわけです。大量仕入れの商品が、全部が全部売り抜けるわけでもないので、在庫も山のように膨らんでいく。売上増と在庫増から、とうとう、事務所を移転することを決心しました。neel3年目。2002年あたまごろかな。大阪の服部緑地公園っていうところに、移転しました。
December 28, 2009
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3年目、ようやくスタッフを雇う決意をしました。できれば、どこまでも一人でやりたかったんです。なんでかって言うと、儲けをすべて独り占めできるからね。その頃のタマエの感覚では、スタッフを雇うと、その人件費ばかりが目について、スタッフが生むであろう利益のことが、どうしても想像できなかった。それと、スタッフの人生に責任を持つのがイヤやったんで、「仕事を腰かけ程度に考えている、女の子のアルバイト」を、必死で探したんです。知人に紹介してもらって、初めてのスタッフが入社。20歳過ぎぐらいの若い女性で、おもに、検品・出荷作業を受け持ってもらいました。タマエは、自分のデスクで、目にもとまらぬスピードで受注管理・出品作業をやってるわけです。その横で、絵に描いたようなスローペースで、のんびり検品出荷作業してましたよ。「腰かけ程度の女の子」のつもりなんで、タマエ的にもその女の子を育てて、スキルアップさせる気は全くなく、まぁ、好きにやったらええわ。おらんよりはマシやろ。って思っててね。あっという間に辞めましたよ。半年もってないんじゃないかな。いま思えば、しょうがないね。まったく期待されず、教えられもせず、注意もされず、怒られもせず、褒められもせず。ムリですわな。完全に、見捨ててるわけですから。スタッフを雇うのが、ホントにイヤになって。育て方が分かんないし、指示の仕方もわからない。権限委譲なんてもってのほかやし、どんな仕事にしても、タマエのほうが圧倒的に早いわけで、教える前に、「もうええわ。貸せ。」いうて、タマエがやってしまうわけです。売上・利益は、もっともっと伸ばしていきたいんやけど、人の使い方、育て方がわからんから、うまいこといかん。自分があと2、3人欲しい…って、ずーっと思ってました。「腰かけ程度のアルバイト」が、コロコロ入れ替わっていく中で、とうとう決心するんです。『正社員を雇おう』って。腰かけのアルバイトではなく、じっくり会社を盛り上げていってくれるような、そういう腹心の部下を作っていこう。って思ったのね。その頃、事業の中心は相変わらずオークションで、楽天スーパーオークション楽天フリマオークションヤフーオークションBIDDERSオークションと、オークションと名のつくものにはほとんど出品しててね。あ、あと、エキサイトとか、e-bayもやってたかな。オークションもええけど、固定販売、いわゆる、通常販売をもっと伸ばしていきたい、って思ってて。だけど、タマエにそんな余裕も時間もないので、正社員を雇って、そのスタッフに、通常販売をしっかり展開していってもらおうそう思ったんです。その頃は、両親が淡路島に隠居していたので、戸建の元実家を仕事場にしてたんやけど、もし、普通の求人誌に求人出して、誰か面接に来てね、普通の戸建ての民家で、2階のひと部屋に社長が実際に住んでたら、イヤですわな。得にタマエは、女性の社員を、と思っていたので、(男性やと、一生の面倒を見なあかん気がしててね。)絶対に来てくれへんわな、って思って。普通のオフィスビルに事務所移転するか、もしくは、そういう状況でも来てくれる人を探すか。どーしたもんかなーと思ってた時。神戸で夜の世界に生きてた時の友人の女性が、ひょんなことから連絡してきてね。もののついでに、「うちで働いてみーひんか?」って聞いたら、二つ返事で『OK』やったわけです。創業3年目にして、とうとう正社員を雇うことになるわけですな~
December 26, 2009
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創業時、事務所借りるお金なんかないし、そもそも、スタッフはタマエ一人な訳で、本店所在地は、実家。事務所は、実家のタマエの部屋。6畳の部屋に、デスクに、パソコン(B5ノートでっせ。ちっちゃ…)おいて、電話(これも実家の電話)おいて。振り返ると、タマエのベッドがあるわけです。朝起きて、受注管理して、母が作る朝食食べて、出品作業して母が作る昼食食べて、出荷する。週に2回ほど、大阪市内に出て、仕入れ。タマエは、現金仕入れを原則にしてたんです。宮城社長じゃないけど、やっぱり現金やと値切れるし、ハナシが早い。ていうか、そもそも、ポッと出のネットショップなんて、だーれも信用してなかったから、与信なんかあるわけなく、現金払いが鉄則でしたけど。毎日毎日仕事しました。創業年、いわゆる、2000年は、タマエの休暇は毎週水曜日の午前中だけ。土曜も日曜も、わき目も振らんと仕事しましたよ。先の会社でスタートした時と同じ、基本はオークションで売りあげるわけです。出品したら、出品しただけ売れて、利益が出て、もうかる。面白くてしょうがなかった。タマエが抱えていた膨大な借金、創業してわずか3カ月で完済したんです。やればやるだけ結果が出る。仕入れるだけ、売れる。預金通帳の残高は、みるみる膨れ上がってね。みたこともない数字になっていった。1年目の年商は、3000万円くらい。2年目も、タマエ一人で、同じように営業してね。ますます売り上げが膨らんでいくわけです。すでに、出荷作業は、実家の母に手伝ってもらってたんやけど、「そろそろ、スタッフやとわなあかんか…」って思いだしててね。でも、その前に、自分ひとりで、どれだけ売り上げ作れるか、必死でやってみよ!って。いままで以上に、フル回転して仕事したんです。月によって差はあるけど、だいたい、月商700万円~1000万円売り上げました。2年目の年商は、1億円突破。天狗なったね~~~。めっちゃテングなりました。おれは、商売の天才や、おもてました。着るもんも派手になり、車も派手になり、それでもおカネたまっていくんです。金遣いがめっちゃ荒なって。毎夜毎夜、大阪は北新地に出没して、散財しまくりました。北新地のクラブとか、キャバクラにしょっちゅう行ってて。時間制のそういうお店では、時間がきたら、ボーイとか女の子が、「お時間ですけど、延長されますか?」って、聞きにくるわけです。タマエはいつも、「やかましい、ボケ。ワシは帰りたいときに帰るわい。いちいちそんなもん持ってくんな、アホ。」言うててね。帰るとき、訳のわからん金額の請求書をいっつももらってました。そういう遊び方が、カッコいいとおもてたんやろねー。当時、ある会社にインタビューを受けたことがあってね。そのなかで、「タマエさんは、なんのために会社をされてるんですか?」って聞かれて。なんの躊躇もなく、『カネや。ほかになにがあるねん。』って、答えてたよ。あーー、コワ。いま、当時のこと思い出したら、穴があったら入りたいというか、冬眠したくなるゎ。
December 25, 2009
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昨日、創業10周年です!って、ブログで告知したら、たくさんの方からお祝いのメールをいただきました。ありがとうございます。行きつけのバーでは、シャンパン(なんと、ヴーヴクリコの88年物!!)までおろしていただいて、お祝いしてもらいましたっ!みなさん、本当にありがとうございます。無事に10周年を迎えられたのも、ひとえに、周りの皆様の支えのおかげです。これからもよろしくお願いします!!
December 25, 2009
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わくわくドキドキ過ごした、1999年の年末と、2000年のお正月。懸念されてた2000年問題も、なんのことはなく、21世紀の幕が開けました。法務局の仕事始めの日、ドキドキしながら朝の9時に、法務局行きました。もし、万が一、書類に不備があったら、入口の所に呼び出しがあるんです。その掲示板見ても、タマエの会社名はなく、「よっしゃ。」ということで、窓口へ。待ちに待った、定款と登記簿謄本があがってきました。登記簿謄本の、創業、1999年12月24日。って、あれ?なんで?タマエの緻密な計算では、2000年1月1日と、100年に1回の世紀の変わり目に創業する予定やったんやけど、なんで、1999年?12月24日?って、これ、書類提出した日やーーーん。「もし、決まった日に創業にしたかったら、その申し込みをしとかなあかん。」って、担当の係の人。「君、なんも書いてへんかったから、そら、提出日になるわな。」「ていうか、12月24日創業で、決算が12月末やから、もう、第1期終わったとこやな。いま、第2期や。わはは~~」って。開いた口が、ふさがりませんゎ。ミレニアムに間に合わすために、必死で書類作って、ギリギリになって徹夜して。なんやったんやろ…。それに、すでに第2期って。なんも営業してないのに。肩、ガクーー!!なりながら、おうち帰りました。まぁ、でも、いいか、と。12月24日いうたら、法務局の営業最終日やっただけやけど、たまたまクリスマスやし。そういうのもいいかー。って開き直ってね。創業の時、一番悩んだのが、やっぱり『社名』。タマエの好みとしては、漢字の名前にしたくてね。ええのんないかなー。って考えてたんです。その時の、第一候補は、「真風」これで、「マゼ」って読むんです。これは、学生ヨットやってた時の、隠語で、ヨットって風を受けながら走るわけやけど、瞬間瞬間で、風向が変わるんです。地形や、周囲にいるヨットの影響も受ける。そんな中で、本当の風向、真の風向をキャッチして走ることが、勝利の条件というか、すごく大事なことでね。そういう意味の、「真風(マゼ)」。ヨットレース的には、「いまふいてる風は、マゼやない。もうちょっとしたらマゼが吹いてくるから、このまままっすぐ突っ込むんや!」みたいな感じになるわけです。タマエ的には、えーなー。と思ったりしてて。でも、アルファベットで書くと、Maze。「メイズ」って読まれるやろし。ちょっとカッコ悪い。どうしようかどうしようかと思ってて。そのころ、ハハキギホウセイさんっていう作家さんの小説にはまってて、ちょうど、「アフリカの蹄」っていう本読んでたんです。登場人物の中に、アパルトヘイト撤廃の革命の勇者、「ニール」っていう人物が出てくるんだけど、彼が凶弾に倒れ、その後生まれてきた彼の妹の子供に、日本人医師が、「新流(ニール)」って名付けるんです。『これや!!』思いましたよ。新しい流れを作っていく、新しい流通(ネット販売)を切り開いていくなんてステキな名前なんだ~~!!ということで、ハハキギホイウセイさんに感謝しながら、社名が決定されたんです。いまとなっても、悩みぬいた社名、「新流(ニール)neel」も、ものすごい気に入ってるし、なんやったら、創業12月24日っていうのも、すごく気に入ってる。3年前にリアルショップ「Dog Neel」を立ち上げたとき、ここのオープンも12月24日にして、会社と合わせたんです。12月24日のクリスマスイブは、neelにとってのラッキーデー。まさに今日、株式会社新流(創業時は有限会社)、10周年です。おめでと~~~~!!ブログはまだまだ続きますよ~
December 24, 2009
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何年か前に、会社法が改正されて、株式会社も、有限会社も、資本金1円でも創業できるようになったけど、10年前は、まだ、有限会社は300万株式会社は1000万っていう資本金が必要やったんです。そのおカネを銀行の「別段預金」っていうところに預けて、『私は、300万(1000万)持ってます』っていうことを、銀行に証明してもらうわけ。それが、資本金になる。会社の口座に移してからは、引き出そうがどうしようがこちらの勝手なので、出してしまえばいいんだけど、証明が出るまでの1週間。この間は、その大金に手がつけられない。そもそもこの、創業の時の資本金。300万や、1000万のカネ、資本金(当面の運転資金)として用意でけへんねやったら、取引先に迷惑かけるだけやから、会社なんか興しなさんな。というおカネ。いまは、「カネなくても会社作りなはれ、好きなことやりなはれ。」っていう、会社法に改正されたけどね。そもそも個人資産がマイナスの当時のタマエには、300万円は大金中の大金で、ホントに頭を抱えました。砂かけたのに、優しく許可してくれた社長に、頭下げて更なるお願いをするわけにもいかず。悩んだ結果、両親に相談しました。これまで、「大学院まで行ったのになんでフリマ?」という感じで、タマエのやってること、仕事の内容が、全く理解してもらえなかった両親に、いまの仕事の内容、会社を興そうという理由、将来の展望、夢、なんかを、話しました。初めてに近かったんじゃないかな。そんな話をきちんとするのは。両親は大賛成してくれました。「会社いうのは、法で定められた人間や。それを作る、いうことは、もう、個人やない。自分の子供を世の中におくりだして、その是非を世間に問うようなもんや。今後はしょうもないことしたらあかんで。」と言いながら、300万を貸してくれたんです。もちろん、1週間ね。別段預金で寝かした後は、即返すわけです。専務として会社を作った時は、「司法書士」いう方に、すべてお任せしました。このときにかかった費用が、50万円くらいやったかなー。手持ちのお金が、20万円くらいしかなかったので、あの時と同じように司法書士にお願いはでけへん。自分でやるしかない、おもて、本買ってきてね。書式も一式買いそろえて、勉強しました。会社作るには、山ほど書類を用意せなあかんのです。パパっとできるもんやない。まぁ、せやから、司法書士さんの仕事になるんやろうけど。本読んでも、文例集見ても、なにがなんやらさっぱりなんです。とりあえず、おもて、法務局行きました。窓口で、「どうされましたか?」って聞かれて、「会社作りたいんです。」って。まるで子供やな。書式を一通り持っていってたので、法務局の職員さんと相談しながら、その場でいろいろ書きこんでいってね。「どんな商売すんねんな。」「インターネットの通信販売です。」「ほな、ここに通信販売って書いて。商材は?」「腕時計です。」「ほなここに、腕時計・貴金属って、書いて。」「って、おまえ、なんにも書かんと、よう法務局来たな。わしゃおまえの司法書士ちゃうで。」って、職員の方も笑いながら、何時間もかけて、タマエの書類を完成させてくれたんです。世の中は、ちょうど、・ミレニアム・2000年問題で、盛り上がってた時でね。会社の誕生は、ちょうど、2000年1月1日にしたいな~記念やし。っておもてたんです。必要書類を全部そろえて、1999年12月20日には、すべてが完了し、職員の方にも、「よっしゃ、これで大丈夫やろ。」って言ってもらってね。2000年1月1日に誕生させようおもても、役所は、12月24までしかやってなかったんです。ていうことは、24日に提出したらええ訳やな…って思ってね。1999年12月24日に意気込みいさんで、大阪法務局に登記書類を提出しました。ほんと、ちょうど10年前やね~
December 19, 2009
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「ASR輸入雑貨SHOP」、9月末にオープンして、次の日には初めての注文が…!このころ、ネットショップって、ホントに始まったばっかりで、かなり珍しかったんです。なので、オープンしてすぐに売り上げがあったんやろな、って思う。いまやったら、広告かけずにただオープンしただけやったら、まったくアクセスないでしょう。埋もれてしまってね。1日1件とか、2件とかの注文がぽろぽろ入ってね。せやけど、そんな注文ペースやったら、月商100万円もいかへん。タマエの目標は、100万円やったんです。楽天の担当に電話しました。開口一番、「おめでとうございます~~!注文入りましたね。」って言われてね。「あほか。めでたいことあるか。1件2件の注文で、どないすんねん。目標いかんやないか。」って。「タマエさん、オークションに出品しはったらどないですか?」って言われたんです。オークション…?全く知識がなかったんで、なんのことかさっぱり。また長時間かけて教えてもらって、ASR輸入雑貨SHOPに引き込むタッチポイントの一つとして、オークションに出品していく、という方法をとったんです。出品する商品は、フリマで売ってた、あれ。 雑貨。と、デッドストックって言われて、「なんぼでもいいから、売ってきてくれ~」って頼まれてた、時計たち。集客、っていうことでオークションやるんやったら、パンチがあったほうがええやろ。と思って、スタート価格を1円に設定したんです。当時、まだ、1円オークションっていう言葉はなくて、タマエの1円出品って、ハシリ的な感じやったんです。「赤字覚悟の1円オークション!!」って謳ってるけど、なんのことはない。フリマで、100円とか、200円とか、500円とか。それでも値切り倒されてる商品なわけで、数百円にさえなればいいわけです。送料も消費税も別やからね。「1円スタート」っていうのが、目を引いたのか、ものすごいアクセスが殺到してね。あれよあれよという間に、数千円になるわけです。フリマやったら、数百円でも売れないものが、ネットオークションやったら数千円…。なんてすばらしいマーケットなんや!!って思ってね。手元に合ったフリマ商材を、片っぱしから写真撮って、オークションしました。2~3日でそれらを売りぬいてしまって、それから、お付き合いのあったいろんな問屋さん、メーカーさんに、デッドストックの商材を分けてもらいに行脚したんです。出せば売れる出品すれば、高値で売れる。そんな感じでした。ヒット商品ともなれば、天井知らずで値段が高騰します。こら、やめられへんわ~~。おもてね。10月、ふたを開けたら売上200万円超えてね。それに、すごいのは、粗利率が60%越えてたんです。120万円以上もうかったのね。社長にお借りしてたお金、全部返して。いつものルールやったら、残った利益を折半する。でも、ここで、残った利益を全部社長に差し出して、言うたんです。「このネットショップを、タマエにください。」って。ASR輸入雑貨SHOPを、くれ、言うわけですな。そら、怒られました。「おまえはアホか。今までさんざん面倒みたって、ワシのカネつこて商売して、ちょっと儲かったら、そのネタくれ、やと?アホも休み休みにせぇ。」言うて。いま思えば、社長のおっしゃることこそ正論で、タマエは、恩知らずの泥棒みたいなもんです。普通に考えれば、そのASR輸入雑貨SHOPは、社長の会社に置いといて、タマエは、また別のお店を、自分で立ち上げる、っていうのが当たり前の道ですわな。でも、このとき、もう、必死やったんです。タマエの絵的には、売上のいくばくかを、社長に落とし続ける。その代わり、いままでの仕入れルートを、このまま確保させてもらう。っていうもんやったんです。腕時計や雑貨が、倉庫の場所とらないこと、写真をきれいに撮れば、かなりネット映えすること、小さいので送料も安く上がることといった、ネットにかなりメリットのある商材や、いうのは、1か月の感覚でつかんでました。なんとしてもこの商材でやっていきたい、それには、このお店ごともらうしかない。って、そう思ってて。何度も何度も話し合い、ようやく社長が折れてくれたんです。既存の問屋さん・メーカーさんと取引するたびに、「個数×50円」を、社長に支払う、っていうことで、了承していただきました。タマエ的には、個人事業主みたいな形でやっていきたかったんだけど、もともと、社長の会社で、楽天市場と契約していて、社長の会社からタマエにその契約を変更する、っていう場合、変更先も会社やないとあかん、言われたんです。最初から個人で契約してたらそうじゃないけど、最初に会社で契約したら、変更後も会社やないとあかん、言うことですな。個人やったら安く上がるのに、以前、専務として会社作った時の苦労と、その時にかかった、資本金も含めてのおカネが目の前をよぎり。またカネか…
December 12, 2009
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その頃は、平日のお昼間は通販の仕事が入ったりしてたので、スーパーの店頭なんかでの雑貨販売は、一応やめてたんです。だから、フリマは、土・日のみ。平日、通販の仕事がないと、めっちゃ暇なわけです。急に催事販売はいられへんし。事務所に顔出してもいいんやけど、ぼーーーっと、なんもやらんのもあれやし、正規の社員さんたちもいらっしゃるので、なんとなく近寄りがたくてね。用事があるときしか顔出しませんでした。社員さんたちも、「あれ。誰?なにしてるヒト?」っていう感じやったやろね。そんな目してはった。そんな暇な平日。本買うお金はないんやけど、暇やし、よく本屋で立ち読みしてたんです。その頃、一人暮らしするお金も尽きて、実家に帰っててね。地元の、阪急茨木市駅前の、虎谷書店。なにげなく目に留まったのが、「週刊 ASCII」別にパソコンに興味があるわけでもなく、表紙を飾ってたグラビアアイドルが可愛くて、ついつい手にとったんです。この娘、だれやろ…?って。ぱらぱらページめくってて、ふと目に留まったのが、楽天市場の三木谷社長のインタビュー。タイトルももう忘れちゃったけど、「インターネット通販の雄、三木谷社長に聞く!」みたいな感じやったと思う。ラジオや新聞なんかの通販はずっとやってたけど、インターネット通販って、考えたこともなかった。ていうか、そもそも、ホームページって、なに??っていうレベルで。大学院の時、「ホームページ」っていうものが、世の中にちらほら出てきて。インターネットとか、ホームページとか、URLとかメールとか。ラウンジに勤めてた頃でもあるので、まったく波に乗れなかった。カリキュラムにネットの授業はなかったので、同級生たちもみんな独学で、ホームページが作れるようになっていってた人たちもいたけど、タマエは全くの無頓着で。「チッ…あん時やっとけばよかったな…。」って思いながら記事読んでました。そのころ、楽天市場はまだ創業して1年もたってなくて。三木谷社長も、「これからネットのマーケットは、確実に伸びますよ…」的なコメントでね。ふ~~ん。そんなもんなんやなー。って。あまり深く考えもせず、グラビアの彼女の名前だけおさえて、ほかの雑誌を読みふけりました。お家に帰ってね。なんとなく記憶に残ってた、「楽天市場」。ネットで調べてみたんです。ホームページは作られへんけど、インターネットぐらいできたんですよ。これでも。当時は、電話線を電話機から抜いて、パソコンにさしてましたけど。いまの楽天市場からは想像もできないような、しょぼくさいページが出てきてね。ちょうど、「1000店舗出店キャンペーン!」って、やってたんです。出店についていろいろ見てたら、「ホームページ作ったことない、知識がない、という方でも大丈夫!懇切丁寧に指導します!!」って、殺し文句が書いてあって。読んで行くと、ページの一番下に、「資料請求」っていうボタンが、ピカピカ点滅してた。資料請求だけやったら、タダやわな。って思って、ポチっとしたんです。ここで、ポチっとしてなかったら、未来が全然変わってたやろね~~次の日には、楽天市場の担当の方から電話がかかってきました。出店しまひょ!って。ちょうど、3日後に、説明会&ホームページ作成勉強会を、東京でやるから、参加して、ってね。いろいろお話聞いて、その足で事務所に向かったんです。出店に際して、家賃半年分。30万円は、払わなあきません。タマエにそんなお金ないので、もちろん社長にお願いするしかないわけです。社長に説明し、ぜひやらしてほしい、ってお伝えしました。「よっしゃ、カネははろたる。やってみー。」っていうてくれて。すぐに楽天市場の担当に連絡し、勉強会を申し込んでもらいました。契約の書類関係をすべて作成し、夜行バスで東京へ。ちなみに、この夜行バス代も、社長に出してもらいました。1泊2日で、宿は、ヨット部の時の後輩の家。楽天市場は、いまでこそ、六本木ヒルズ森タワーに、なんフロアもあるようなオフィスやけど、当時は、ホントにこじんまりとしてて、ものすごくアットホームな感じでした。部長クラスも気さくに声かけてくれるし、ちっちゃくて活気があって、ええ会社やな~っておもったもんです。ホームページ制作なんて、ズブの素人のタマエに、手とり足とり、2日間かけてみっちり教えてくれたんです。全部無料で。いまやったら、結構なお金取られるんでしょうね。楽天大学いうて、たいそうな名前付けて。担当がいうてたけど、タマエは、ちょうど1000店舗めぐらいやったそうです。いまや、10万店ぐらいあるんやもんね。楽天に研修に行ったのが、8月くらいかな。9月1日からの契約を交わして、30万円払いました。ここから、ページ制作が始まるわけです。それに、契約後なので、家賃も発生してる。1か月オープンが遅れたら、5万円損するわけです。9月末オープンを目指しました。出品商品は、社長の取引先の商品を、出来る限り出品することにして、概算で、1000商品ぐらいかな。30日と計算しても、1日33商品はアップせなあかん。写真も撮らなあかんし、説明もかかなあかん。この9月、ほとんど不眠不休でページ作りに没頭しました。社長の事務所に泊り込んで、疲れ果てて寝袋で寝て、起きたらまたページ作り。小さなノートパソコンでやってたので、目が疲れてね。夢遊病患者みたいなってた。わからないところは、すぐに楽天の担当に電話して聞いてね。もともとWEBの知識がないわけやから、聞いたほうが早いわけです。担当が嫌がるぐらい、電話漬けにしました。そして、9月末、念願のオープン!!店舗名は、「ASR輸入雑貨SHOP」ググると、まだちらほら出てくるね。
December 11, 2009
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第二次G-ショックブーム。って、勝手にタマエたちは呼んでたんだけど、1997年ごろからかな。イルカクジラモデルが空前の大ヒットとなって、その後、ラバーズコレクション、マンタメンインブラックフロッグマンと、空前のG-ショックブームが再燃したんです。社長は、海外と太いパイプがあったみたいで、時計屋ならだれもがのどから手が出るほど欲しい、G-ショックのレアなモデルを、これでもか、っていうぐらい仕入れてくるんです。それも安値で。もともと社長は卸業をやっているので、最終的にはそれらG-ショックは、卸されていくわけやけど、その前に、通信販売で出来るだけ高値で売りぬいていこう、というのが、タマエたち(? 社長か…)の目論見で。新商品の入荷情報をゲットするや、・新聞・FM放送・テレビ・雑誌と、どの媒体で仕掛けたらいいのか考えて、そこにはめ込んでいくわけです。一概に通信販売といっても、上記4種類では、性格が全然違うし、その中でもどの媒体を使うかで、結果が全然変わってくる。費用対効果が最も出そうな組み合わせを考えて、仕込んでいくわけです。大量入荷ができそうな商品は、テレビ、若年層に向けて告知するなら、FMが効果的。ただ、テレビやFMの場合、受注業務を彼らがやるので、タマエたちには顧客情報が回ってこない。その上、ロイヤリティが40%以上と、めちゃめちゃキツイ。儲けが少なくなってしまうのね。その点、新聞は熱い。15~6万くらいで、スポーツ新聞の下1/4ぐらいにG-ショック(とくにメンズ受けしそうなやつね)を掲載すると、その日の朝から電話がジャンジャン鳴るわけです。朝の8時にタマエが事務所に鍵開けようとしてるときからジャンジャン鳴ってる。1件受けて、「ありがとうございます!!」って言ってると、他の電話がジャンジャン鳴ってる。タマエ一人しか受注できないのに、回線が3つくらいあって、1本で受注受けながら、もう一本で相談を受ける、っていう両耳作戦ぐらいまではできるんやけど、もう一本がムリ。なってる電話(間違いなく注文やからね)を横目で見ながら、唇かみしめるわけです。ホントに電話が鳴りまくる商品なんかの時、「あの~新聞見なんですけど~~~~~色目がよくわからなくて~~~。普段、ジーンズとかラフなかっこが多いんですけど、どの色が一番合いますか~~~~?」みたいな問い合わせは、即切りしてました。なにも言わず、プチって、切ってましたよ。いま思えば、ほんとにスミマセン。でも、その、語尾を伸ばすよくわからない世間話みたいな問い合わせに答えてる間に、3件は注文取り逃すんです。ヘタしたらもっと多い。涙をのんで、断腸の思いで、受話器をおろしてました。ごめん、ウソ。断腸の思いなんかやない。「やかましいんじゃ」って切ってたけどね。新聞や雑誌は、受注業務をタマエがやるので、ロイヤリティがない。その分、損益分岐点が低くて、パパパパっと売れる商品で、入荷が少ない時なんかは、この手法が一番利益が出ました。最初のころは、といっても、第二次ブームの最後のほうやけど、その頃はまだよく売れました。タマエが仕込んだ通販は、純利益折半っていうことにさせてもろてたんで、結構、おカネ頂いてたんです。だけど。1999年の春ごろからかな。ブームが沈静化されてきてね。売れなくなってきたんです。新聞に出しても、1時間に2件とか、3件とかの電話の本数で。小説読みながら電話番できる感じ。明らかにいままでとは違う。明らかにブームが去っとる。報酬は激減し、社長も不満たらたらで。お前のやり方が悪んちゃうか、言われててね。そうかもしれへん。そうかもしれへんけど、どないしたらいいのかわからへん。通販通販通販通販通販……って、毎日通販のこと考えてました。そして、1999年8月、地元、茨木市駅前の虎谷書店で、あの雑誌に目をとめるんです。続きは次回!
December 6, 2009
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とうとう、その日がやってきたんです。いつもは出社しない社長から、全体ミーティングのお知らせがありました。「解散」のお知らせでした。これ以上、会社を続けていく意味がない。スタッフに、返してあげられるものがない。ここで、キリをつけて解散する、っていうものでした。スタッフの給与は、その日までの日数計算ですべて出しました。もちろん、退職金なんてありません。1年も続いてないしね。会社。結局、タマエは、報酬、1円ももらえなかった…社長、そのことえらい気にしてはって、でも、払えるお金ないから、残っていた、「Ko&Ko LUCK」の雑貨、全部もらいました。現物支給ですな。フリマでお金に換えるもーん。なんか、まったくおカネ作れなくて、ただ、会社ゴッコしただけ、みたいなっちゃって、ものすごいあと味わるかったです。1000万円を突っ込んだ社長にも、ホントに申し訳ない。社長のおごりで、痛飲して、それで、会社はたたみました。特に借金があったわけじゃないし、取引があったわけでもないので、事務所締めて、カギを返しておしまい。スタッフはそれぞれ、転職していきました。タマエは…?フリマ本業時代に、とうとう突入です。就職しようかなー起業とか向いてないかもなーっていう気も、した。なんにもセンムやったからね。そうそう、社長も就職したんですよ。なんか、知り合いの会社かなんかに、元気良く転職していきました。タマエだけ、フリーター&企画外注屋、みたいなってしもて。時計屋さんの社長に、洋服屋さんの社長を紹介してもらって、タマエのフリマ商材は、どんどん増えました。犬っちなんか、とうに売りきっていて、メインは洋服と時計。もちろん「Ko&Ko LUCK」も並べます。土・日は、近畿圏のフリーマーケットを手当たり次第に売り歩き、平日は、スーパーの催事とかに出しました。それでもええとこ、月の売り上げ、40万くらいやったんちゃうかなー。時計屋洋服は、売れた分の半分、メーカーにお金返さなあかんから、手元に残るお金なんか、たかが知れてます。あとは、企画書書いたり、ブローカーみたいなことして、なんとか生きてました。時計屋の社長さんがね、タマエを見るに見かねて、声かけてくれたんです。その社長さん、その頃爆発的にヒットしていた、「G-ショック」で、一躍大儲けしてはって、忙しくて猫の手も借りたいぐらいの状況やったみたい。「タマエ、フリマはフリマでやったらええけど、うちで働いてみいひんか?」って。歳もそんなに離れてなくて、3つくらい先輩やったかな。若いのに、ものすごい勢いええ人やなーって思ってたので、一緒に仕事させてもらえるなんて、ホントに夢みたいでした。だけど、ここまできた以上、どうしても、『就職』は、したくなかった。だから、お願いしたんです。「社員、っていう形では、やりたくないです。だけど、案件ごととか、作った利益に対してナンボ、とか、そういう形で一緒にやらせてください!」って。時計屋タマエのハジマリです。なんしか、G-ショックがめちゃめちゃ売れてたんで、G-ショックの通信販売をメインにやってたんです。FMで通販したり、新聞、雑誌、テレビショッピング、いろんな媒体で販売しました。でもね、なんでか知らんけど、タマエが一緒にやりだしてから、G-ショックのブームが下火になって行ったんですね~そうとうにツいてない感じですな。タマエの、むかしからの特徴で、ついてなかったり、うまくいかないことばっかりでも、なんか、うまくいってるように、思ってしまうんです。うーーん、説明が難しいな。なんかね、フリマ専業やったり、収入がなかったり、借金だらけやったりでも、そういう自分がカッコイイ、って、いっつも思ってるんです。このころも、両親に合うと、「ほんま、ええ加減にせえよ。みっともないと思わんのか。就職もせんで。」って言われても、なんでみっともないんやろ?自力で生きてて、めっちゃかっこええと思うけどな~って、思ってる。同級生に会ったりすると、そうそうたる会社にみんな就職しとるわけです。でも、できるだけおごるようにしてた。飲み代ね。そういえば、女の子と食事行ったりするときは、絶対に全額払うようにしてたよ。っていうか、それが当たり前やと思ってたけど。デートの前には、無人君。当時付き合ってた女の子が、「フリマって、めっちゃもうかるんやね~」って、言ってた。おカネ持ってなかったけど、おカネ持ってるフリを、一生懸命してたな~で、G-ショックの通販のお話は、次回。
November 27, 2009
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なんにもセンム時代。サキモノ取引と、詐欺まがいにお金を持っていかれて、会社の売り上げはゼロ。社長が最初に入れた1000万円が運転資金なんだけど、事務所の家賃や、スタッフの給料を払ってたら、ホントに先がない。福利厚生のアウトソーシングは全く売れないし、どうしたもんかいな、と。犬っちみたいな商品をまた、中国で作ってみるか…と思っても、先立つカネがないし。おっ!!アイディアと企画だけを売ったったらどないやろ。犬っちを作るなんていう、バイタリティあふれる企画を、そんじょそこらの人間が考えれるわけじゃないし、実際に製造する、というリスクは、どっかに任せて、タマエは企画だけしておカネをもらう。こら、うまい考えやわぁ~!って思ってね。そういうことなら、企画書ですわ。企画書の書き方の本をいっぱい買ってきて、勉強しました。ほんで、昔お店やってた時のお客さん(当時、ここがタマエの人脈のすべてやったんです。)に声をかけて、企画を買ってくれるところを紹介してくれへんか?って。いま思ったら、ホントに訳のわからん企画書を作って、売り込みましたよー。中国で安く商品作って…みたいなんは、いっこうに芽が出なかったけど、テレビゲームの企画「こんなゲームあったらおもろいんちゃう?」っていうのは、10万円で売れました。あと、会社の概要作ってあげて5万円とか、なんの仕事してんのかよくわからない、便利屋さんみたいなスタイルになっていって。それでもなんとか会社に、数10万円の売り上げを入れれたんだけど、毎月消費する経費に比べれば、ホントに焼け石に水で。そんなとき、スタッフのお知り合いで、雑貨の輸入をしている会社があってね。デッドストックがあるから安く買わんか?っていうお話が。『 Ko & Ko LUCK 』っていうブランドで。聞いたこともないけど、カステルバジャックの弟か妹か知らんけど、なんか、そんなん。でも、神戸に、直営店あったんですよ。見に行きました。原色を使った、かわいいお店で。文房具が中心で、バス用品とかタオルとかもあったんかな。定価が、べらぼうに高くて、バスタオルが20000円とか。売れるわけないやろ…っていう値段設定でね。輸入会社と商談して、「グロスで、いう話やったらムリ。買えるもんだけピックアップして買いますわ」っていうても、輸入会社は、残ってる在庫を完璧にさらってほしいんやろね。それやったら、定価の10%で卸す、と。200万ぐらいなるんですよ。倉庫に残ってる在庫全部さらったら。交渉に交渉を重ねて、現金で買い取ること、商品を自分たちで引き取りに来ることを条件に、定価の10%で、入り用買いできるようになってね。倉庫に行って、1日かけて品定めして、65万円分ぐらい買いました。友人のお父さんが、長距離トラックの運転手してる方がいてね、お父さんのお休みの日に、4tトラック借りて、京都まで商品取に行きました。しかし、福利厚生のアウトソーシングの会社が、なにやってんねやろね。販売先として考えてたのは、・スーパーなどの催事販売フリーマーケットつながりでこれもコネクションがあったんで。スーパーの入り口近くとかに、1坪ぐらいスペースもらってね。ブース作って販売するんです。この方法で、文具を中心に並べたら、売れるんちゃうか…おもてて。定価では絶対無理やから、定価の70%OFFぐらいにして。って思ってた。文具が中心で、シャーペンとか、消しゴムとかね。なんしかこまいのよ。商品が。売っても売っても、商売ならへん。手間かかるばっかりで、売り上げにならんのです。ペン1本売るのに、接客してられへんもんね。でも、スーパーに来るおばちゃんらは、「にぃちゃん、これ、なんぼや?」っていうてくる。世間話もする。ムリや。あわん。儲けに対して、労力の割が合わん。60万円の仕入れやったので、簡単に言うたら、600万円上代の商品。売値で考えると、180万円くらいの商品になるんやけど、1個単価が300円切るんちゃうか、っていう状態なので、売っても売っても在庫へらへん。きちっと、180万円で売りきって、「120万もうかったな~ウハハ~」っていう予定やったので、おおくずれです。スーパーの催事場で大々的に売ってみたこともあるし、フリーマーケットにも持って行ってみた。催事場で大々的にやった時は、最初の契約金と、什器備品のレンタル費用、なんやかんやで、大赤字でした。結局、売り切るのに2年くらいかかりました。それも、最後はフリマで。60万円で仕入れて、おそらくそう売り上げ100万いかなかったでしょう。さらに、販売経費が人件費を除いたとしても、200万円はかかったと思います。会社の屋台骨を完全にへし折る、大事業になったことは言うまでもありません。
November 25, 2009
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タマエのなんにもセンム時代。売り上げが全く立たない会社なので、役員報酬はゼロ。フリーマーケットで、月に10万ぐらい売りあげるんだけど、とてもじゃないけど生活できないでしょ。それに、サキモノ取引で借金は増えていくし。中国ビジネスやってる、商売の恩師に相談しました。会社の売り上げもたたず、役員報酬もない。個人的にも借金がかさむ一方で、なんしか、カネ詰まってるんです。いうて。ほしたら、恩師。「タマエ、200万用意できるか?」って。じつは、恩師は、メインの事業として、貸金業をやってるそうなんです。もちろん、無免許ですよ。利率も、法定利率なんか無視した高利やし、簡単に言うと、犯罪ですな。で、スポンサーならんか、っていう提案です。200万渡してくれたら、月に10%の利息を払うわ、と。10%いうたら20万。なんもせんでも1カ月20万円入ってきたら、ええやろ。無税やで。同期の友達の初任給よりええんちゃうか。って言われてね。そーかー、と。だけど、明らかに犯罪であることは分かっていたし、なかなかしぶっとったんです。ほしたら恩師が、「おまえは甘いやっちゃの~商売の勉強したいいうてたんは、ウソか。カネ動かしてカネを産む。これが商売の原点や。それもわからん、でけへん、言う奴に、商売人がつとまるかっ!」って怒られてね。すんまへん!すぐに用意しますっ!っていうことで。また借金が増えるわけです。200万、渡しました。先払い、言うことやったんで、先に今月分の利息、20万円を引いて、180万円を渡したんです。もちろん、キチンと消費貸借契約巻いてね。翌月、きちんと20万円もらいました。その翌月も、20万円もらいました。実際に貸したのは180万やから、この調子で行くと、9か月で、貸した180万は返ってくるわけです。そのあとは?そのあとは全部利益やし、なんやったら、元本ものこっとるわけやないですか。こらええ商売やな~って。恩師に「どんなとこに貸しとるんですか?」って聞いても、それは、守秘義務があるから答えられへん。って言われてた。タマエにとってみれば、その先を知ることは、公然と犯罪を認めることになりそうなので、とくに聞きたいわけじゃなかったけどね。そうこうしながら6カ月。機嫌よく入ってた利息が、入ってなかったんです。毎月25日に入金してもらう約束やったのに、25日に、入金がなかった。「あれ?」って思ったけど、末まで待ったんです。甘いですな。いまやったら、25日の午後3時に電話しますけど。電話に出た恩師は、「貸し先が飛んでしもて、にっちもさっちもいかんのや、10日ほど待ってくれんか?」って。タマエにしてみたら、待つしかないでしょう。10日待って。「すまん、タマエ。あと10日待ってくれ。」って。これが最後ですよ。と約束させたものの、無いそでは振れんわけやし、払ってもらえないかも…。っていう思いももたげてきてね。約束の10日後。連絡が取れなくなりました。おうちにも行ってみたけど、人が住んでるのかどうかわからない。住んでる住所と、携帯の電話番号しか知らない人やったので、それ以上探すこともできなくて。180万貸して、100万、利息として入金されたけど、トータルして、80万円とられたわけです。当時は、まったく思ってもなかったけど、いまは、「そもそもタマエのカネを、どこかに貸していた、という事実すらなかったのではないか」と思う。まぁ、簡単に言うたら詐欺ですわな。中国で犬っち作って、携帯ラジオの商談では通訳さしてもろて。タマエ、商売っちゅうのはなぁ、っていうのが口癖で、いろんなこと教えてもらいました。ちょっとガサツな所はあるけど、人柄もすごくよくて、兄貴肌で、大好きでした。おうちにもしょっちゅう呼んでくれて、奥さんと息子さん(1歳ぐらいやったかな)といっしょに夕食ごちそうになったり。あの奥さんと息子さんは、どこに行ったんやろか。数年後、タマエがもう会社を軌道に乗せたあとね。債権回収専門の業者(簡単に言うたら、そっちのほうの人たち)に、当時の恩師に書いてもらった「消費貸借契約書」。簡単に言うたら、借用書ね。これを額面の10%、つまり、20万円で売却したんです。生きてるか死んでるか、どこにおるかも全くわからん。だけど、探し出してほしい。っていうてね。一目会って、恨みごとの一言でも言いたかった。数ヵ月後ね。回収屋から連絡あったんです。見つかった。って。喫茶店に呼び出されました。そこにはね、とてもじゃないけど、よかったころの恩師とは、まったく別人に変わり果てた人が、ぼんやり座ってたんです。「タマエ、悪かったな。」って、おっしゃいました。タマエは、「奥さんと子供さんは元気ですか?」って。「離婚したけど、元気にしてると聞いてる」話できたん、これだけでした。非難しようと思ってたし、追求しようと思ってたし、謝罪させたかった。けど、なんもいえませんでした。それより、債権屋に売るんじゃなかった…っておもった。恩師のその後は全く知りません。なんとか元気に立ち直っていてほしい。
November 23, 2009
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ラウンジ時代の店長に紹介していただいた、1こ年上の方がいらっしゃってね。久しぶりに連絡いただいて、お会いしたんです。その方、学生のころから商売の才覚があって、学生サークルを束ねていて、その数なんと、4000人。イベントしたり、旅行行ったりするわけですけど、人数がまとまったら当然ディスカウントがきくので、利ザヤを抜く、っていう商売されてたんです。お会いすると、「会社を作ろうと思うんです。福利厚生のアウトソースの会社。」って。青年実業家やなー。おもてね。いやー、さすがですなー。言うてたんですけど、「タマエさんに、ぜひその会社に参加してほしい」と。いやいや、あきまへん。わしには、借金と犬っちはあっても、カネがおまへん。って言うてたんですけど、いいんです。出資してくれとは言わないから、専務取締役として参加してほしい。って。専務、センム、せんむ。なんて甘美な響きなんでしょう。タマエが会社の専務だなんて。一も二もなく承諾しました。フリーマーケットは、基本、土日祝にあるので、平日は、専務ですわ。会社設立のところからお手伝いしました。事務所借りたり、ハンコ作ったり、書類作成したり。社長と二人で法務局に行って、無事に会社設立。資本金は社長の手金で、1000万。この1000万円の現金を、銀行に持っていくのがタマエの役目で、めっちゃ緊張した。事業内容は、社員の福利厚生、いわゆる、保養所とか、スポーツジムとか。こういったもののアウトソース。たとえば、スポーツジムにしても、法人契約して、社員が利用できるようにすると、結構莫大な費用がかかる。なので、多くの会社を一括して契約し、サービスを小出しに販売していくわけです。代理店商売ですな。社長、タマエセンムのほかに、常駐のスタッフ2人雇って、みんなで元気に営業活動。いろんな会社に片っ端から電話でアポイント取って、資料片手に説明に上がるわけです。まったく契約取れんかった。やり方がまずいのか、商品が悪いのか、その時のタマエには全くわからなかったけど、1件も契約取れませんでした。それは、タマエだけじゃなく、営業の2人も、社長も、まったく契約取れなかったんです。大阪は西天満っていうところにオフィスかまえてたんやけど、会社にいてると、いろんな営業がくるわけです。電話もかかってくるしね。「東京なんとか」っていう会社から電話で。「投資に興味おまへんか?」って。なんのことかよくわからんかったけど、とりあえず、お会いしたいって言われて。会社に来てもらいました。来てくれたのは、先物取引の営業マン。タマエと名刺交換すると、「若いおもてましたけど、専務はんでっか!これはこれは失礼いたしました!!」って。タマエはどちらかというと、なんにも専務なわけやけど、そう言われて悪い気しなくてね。まぁ、話きこか。って。「センム!いま、とうもろこしが熱いんですわ!!」商品先物取引なんて、まったく知らなかったし、知識もなくて。営業マンの説明聞いてるうちに、こら、おもろそうやな、おもてね。次に日には、営業マンに30万わたしました。また借金増えたわけです。これで、とうもろこし買ってこい!いうてね。1週間で、100万なったんです。こら、すごい。もしかしたら、わしは、ナニワのジョージソロスかもしれん。おもて。営業マンと相談して、トウモロコシはここらで手を引いて、アズキいったれ!いうてね。100万全部、アズキに突っ込め~!毎日仕事もせんと、チャートばっかり見ててね。ネットで。次の日、チョコっと上がったアズキ相場。カリフォルニアかどっか忘れたけど、飢饉になるか持っていう報道が、じつは大丈夫そうや、っていうことになって、みるみる急降下です。100万で勝負してるようやけど、実は信用取引いうて、100万円は証拠金で、実際にはってる金額は、1億円ぐらいなんですね。ちょっと下がっただけで、証拠金が足らんようになるわけです。『証拠金を追加』することを、追い証拠金を入れる、っていうんですけど、通称『追い証』。営業マンから電話かかってくるわけです。「センム!オイショウ入れておくれやす!」いうて。オイショウ入れんかったら、もう、すべてがパァになってしまうわけです。毎日のようにオイショウ入れました。なんでか知らんけど、損し始めると、営業マンが変わるんです。最初はペーペーの営業やったんですけど、「今日から私が…」って、課長がやってきてね。「センムはん、ここ、いっちょ立て直しまひょ。」って。タマエは、毎日のように膨らむ借金で、すでにお先真っ暗になってるので、藁にでもすがる思いで、「なんとか頼んます…」課長さんの提案で、先の見えないアズキは、売りと買いをセットにしてしまって、一時塩漬けに。代わりに、「プルトニウムで勝負しまひょ!」って。プルトニウムて、ほんま、どんなもんかもよく知らんけど、言われるがままに、あと100万ぐらい突っ込みました。このプルトニウム、一回も値上がりすることなく、たった1日でオイショウかかってね。すぐオイショウ突っ込んで、また小康状態。そうすると、また営業が変わるわけです。今度は、部長。「センムはん!ここが踏ん張りどころでっせ。わしも腹くくってやらしてもらいま。」って。それから1週間ぐらい。姉や、友人、無人で引っ張れる借金、もう限界でした。部長に、「手じまいして下さい。」いうてね。タマエに戻ってきたお金は、700円やったんです。
November 19, 2009
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ひょんなことから、鈴木紗理奈さんの結婚式の2次会に行ってきたんです。 なんか、とてつもなく鼻の下がのびてるタマエ。きれいな女性と写真を撮ってもらうと、いつもこんな顔なります。
November 15, 2009
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200個くらいは、現品がまだ入荷してない段階で、売りをつけてました。残り2300個。犬っちが入荷した日から、営業活動に奔走しました。定価を3000円に設定していて、タマエの当初の予定では、、2100円で卸そうおもてたんです。ほなら、タマエは、1個売れば1100円もうかるでしょ。2500個在庫あるけど、1100個チョイ売れたら、原価はペイして、その後売れた分が、利益になっていく、って、そんな感じで計算しとったんです。でも、営業して回ってみると、2100円では、とても買ってくれるところがなく。結局、商談のスタートラインは、1800円。6掛けからでした。20個とかまとめてくれるようなところは、1500円まで下げないとあかんような状態で。それでも、みんな小口なもんで、在庫は全然減らんのです。ありとあらゆるお店にローラーで営業掛けていくような毎日。雑貨屋はもちろん、ゲームソフト屋、バー、喫茶店、服屋。独断と偏見で、「別に犬っちおいててもおかしないやろ」っていうところには、片っぱしから営業しました。本屋も、カレー屋も、蕎麦屋も行きました。レジ前に置いたらどないでっか、いうて。いまやったら、そんな感じの営業はやらんやろけど、その時は、それぐらいしか思いつかへんかって。いろんな方に売り先紹介してもらったり、たくさんの協力も頂き、また、卸したお店からのリピートオーダーも入って、ようやく、2000個ぐらい売り切りそうで。かなり値引きしてたから、もうちょっとで原価ペイする!っていうとこらへん。事件が。売ったはずの商品が、500個ぐらい突然返品のあらしになったんです。犬っちって、犬を育てるゲームなんやけど、いま、何グラムですよ~って、当然出るわけです。タマエが作った犬っちでは、たとえばワンコが500gやったら、「500克」って出てて。全然知らんかったんです。実際遊んでなかったから…克って、中国語の「グラム」。卸し先から、「ワレの犬っちは、なんで中国語なっとんねん、いま店頭に残ってる分、全部返品するわ。」って、あっちこっちから言われてね。さんざん返ってきて。せっかくもう少しで原価ペイやったのに…って思ったら、泣けてきました。中国の工場に連絡して、グラムが、中国語なってるけど、どないなってんの?って聞いても、予想した通り「体重をグラム表示しろという指示は、受けていない。受けていない以上、われわれに非はない。」って。まぁ、そういうやろなと思ってたし、すでに送金した金を取り返して返品に持ち込む労力を考えると、怒る気もしませんでした。1000個残った在庫。もはや、卸すの、怖いでしょ。また返ってくるかもしれないから。借金と、山のような段ボールが残って。ようやく、「あかんかったんや」って、悟りました。ミスったというか、失敗した。卸せなくなった商品を、どないして売っていこか、って。最初に始めたのは、駅前で、イラン人なんかに交じって、屋台みたいなん出してみた。っていうても、タマエの商品は、たった一つ、犬っちだけやから、一斗缶に、犬っち4個ぐらい置いて、ポップ出すだけ。それでも、1900円とか安くしてたから、1日に20個とか売れたんです。とくに梅田の歩道橋の上はよく売れた。土日なんかとくにね。朝から場所取りに行って、暗くなるまで売ってました。でも、しょっちゅう、警察に追い立てられるんです。ひどい時は、1時間に1回ぐらいきます。ほんで、何回もおんなじ警官に追い立てられて、「次見つけたら、ヨンパチ拘束なるからな。」って言われてね。ちょっと行くの怖くなっちゃって。そのころ、犬っちの売り先のことで、前のラウンジお客様で、時計屋さんをやってはる社長さんに、いろいろ協力してもらってたんです。その社長さんが、「まぁ、公共の場所ではなかなか難しいやろなー。フリーマーケットとかに出したらええやんか。」って。タマエは、古着なんかも興味ないし、フリーマーケットって、なんでっか…?フリーマーケットとは?ということからはじまって、ブースの取り方、売り方、ポップの作り方まで、全部教えてもらって。さらには、その社長さんの会社のデッドストック、売れ残ってる時計も、売らしてもらうことになったんです。売った金額の半分を社長に収める、ということで。借金作って、犬っちに囲まれているのを見た、うちの両親は、「それが、大学院まで行ってやる仕事か…」っていうとったんですけど、フリーマーケットに出店することを聞くと、もう、なにも言わなくなりました…。
November 14, 2009
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日本帰ってきて。その頃、「T's プランニング」っていう、組織を名乗ってました。T'sのTは、もちろんタマエのT。なんでもよかったんやけど、一応、会社っぽい雰囲気を出しとこうと思って、作った、最初の名前。かなり目に、怪しい感じのする名前ですな。中国側との連絡役は、完全にタマエに一任されていたので、毎日のように製造の進捗状況を連絡しました。マイルストーンとしておいていた、進捗の途中目標を、まったくクリアしてもないんですよ。中国の工場側が。「そんな状態やったら、1ヵ月半ででけへんやないか。なにをしとんねん、ボケ。しっかりやらんか。カネ払わんぞ。」いうても、女子工員が辞めたとか、他にも仕事がいっぱいとか、娘が病気とか、訳のわからん言い訳並べて、いっこうにラチがあかんのです。文化の違いというか、海外との交渉の難しさを、強烈に体験しました。中国の方って、もちろん全員がそうじゃないんやとは思うけど、訳のわからん言い訳するし、聞こえないふりするし、タマエの中国語が突然わからなくなったりするんです。携帯じゃなくて、固定電話から電話してんのに、突然、「もしもーし、もしもーし、あれ?電波悪いんかな…」とか、平気で言いだすんですよ。びっくりするわ。2週間ぐらいたったころ、パッケージのサンプルが届きました。裏面に、説明とか、プライスとか、いろいろ書いてあるんですね。見てみて、びっくり。というか、アゴがはずれて床につきそうなった。説明が、全部中国語なんです。日本で販売するって、知らんのでしょうか。相手のタマエは、日本人やということを、忘れてるわけがない。それやのに、全部中国語の説明書いて、なんの問題もなく、送ってくる。その神経が、まったくわからん。理解できん。すぐやり直しを指示しました。携帯ストラップ型ラジオのサンプル(これは現物)が、あがってきました。確認してみたら、まったく音声が聞こえない。なんでやなんでや、おもて調べたら、周波数が、中国のラジオ局に合ってるんです。なんやねん、これ。ほんま、ええ加減にしてほしいわ。日本で、中国の周波数のラジオ、聞くわけないやろ。頭おかしいんちゃうか、おもて、毎日電話にかじりついて大喧嘩です。パッケージはなんとか1ヵ月半後にはあがってきて。本体は、というと、あがってこない。中国に電話しても電話しても、まったくラチがあかん。「いついつには届ける、いうとったやないか、どないなっとんねん!」っていうても、「そんな約束した覚えはない。もともと2カ月かかるっていうてたはずや。」って。もう、訳がわからん。書面できちんと約束してたことでさえ、平気で裏返してきよるんです。結局、5000個のうち、1000個が納品されたのが、予定より2週間遅れた、2ヶ月後。もともとの不安は的中し、どちらかというと、たまごっちのブームも下火になってきてたんです。どうなる?犬っち!!
November 13, 2009
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ラウンジやってた時のお客様で、でっかいクルーザーって言われるヨットのクルーしてはる方がいてね。ヨット部出身ということで、そのクルーザーのレースなんかに、たまに出させてもろてたんです。その方、仕事が貿易で。とくに中国が得意で、日本企業の中国進出を助けたり、逆に、中国の企業の日本進出を助けたりしてはったんです。日本を出国する前から、その方といろいろお話してて、なんかええ商売ないか、いうてね。で。思いついたのが、『犬っち』当時、バンダイが出してた「たまごっち」が、空前の大ブームで、中国でたまごっちを安く作ったら、どうやろか?って。まさか、本家本元にケンカ売っておんなじもん作るわけにいかんから、こっちは、犬を育てるゲーム、犬っち。まぁ、完全にパクリですわな。製造をお願いする工場が深洲にあって、タマエが深洲に下って、そこで商談する手はずになってたんです。もちろん、貿易商の方も一緒です。なんでか知らんけど、中国と日本の架け橋をしてるその貿易商、中国語がしゃべれないんです。タマエは、担当者兼通訳ということで、会議の席に着きました。たまごっちのサンプルを見せながら、企画内容を説明し。工場側も乗り気で、「おもろそやな。やってみよか。」ということで。ただ、発注ロットがおそろしく多くて、5000個。たまごっちの定価が3000円で、その時は商品がなくて、価格が高騰してて、実質10000円前後出さないと買えなかったのね。タマエの目論見では、犬っちは3000円で販売しようと。本体だけじゃなく、パッケージ、説明書、関税など、すべてのコストを1000円以下にしたかった。本体作る工場と、パッケージ作る工場、値切りに値切りまくって、なんとか1000円にしたけど、それでも、5000個いうたら、500万です。貿易商とリスクを折半して、それでも250万。タマエにとっては大金でした。製造に2カ月かかる、いうのを、なんとか、1ヵ月半で作ってくれ、いうてね。1ヵ月半やったら、サンプル作ってる暇がない、いわれて。でも、ミニゲームのブームがいつまで続くかわからんし、5000個も在庫抱えなあかんのに、2カ月も待ってられへん。現物サンプルはいらん。デザイン画と仕様だけを、詰めていこう、ということで、とうとう、250万の大ばくちがスタートしました。ついでの企画というわけじゃないけど、貿易商があたためてきた、「携帯ストラップ型ラジオ」の商談にも参加。ミニゲームブームにあやかって、超小型のラジオを、携帯ストラップにしてしまおう、という企画。この企画も、工場担当者のハートに火をつけて、無事スタート。人生初の、ビジネス?時給や日給をもらうわけではない、っていうか、リスクはっての商売。わくわく半分、不安半分。とうとう、自分の足で、自分の人生を踏み出した、そんな気がしてました。
November 12, 2009
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中国では、ちょこっと旅行を…と思っても、膨大な時間がかかります。地図の上では、ちょっとしかないような距離でも、国土が広大やから、なんやったらめっちゃ遠い。っていうか、見てる地図の縮尺が、日本のものとは違うだけかもしれないけど。鉄道も、特急とか、いわゆる、新幹線みたいなんもあるんやけど、そんな鉄道には、庶民は乗れません。べらぼうに高額なのでね。タマエも、庶民の一員として、済南まで旅行に行ったので、もちろん、特急なんて使えずに、「鈍行」ですわ~各駅停車で旅行するみたいなもんやから、めっちゃ時間かかる。もともと時間通りに鉄道は来ないし、小さな駅で、平気で30分とか、1時間とか停まりよる。北京 → 済南で、ゆうに5時間以上かかったと思う。3等っていう切符を買ったんやけど、一番安いやつね。これ、要するに、「自由席」。新幹線の自由席みたいなんを想像してたんです。北京駅に、ようやく「済南行き」の鉄道到着~~~ホームで入ってくる電車見てると、カーテンかかってたり、真っ白なシーツの寝台があったり。「おっ!結構乗り心地よさそうやんけ~~」って思ってたら、それらは、1等客車。セレブリティな中国人や、金持ち外国人用の車輛です。やがて、3等の車輛が見えてきました。明らか汚い。車両を外から見ただけで、汚い。窓という窓には、わけわからんくらいデカイ風呂敷包みが、ムギュ~って押しつけられてるし、乗ってる客層が、まったく違う。光の宿ってないようなうつろな眼をして、色鉛筆の「茶色」を濃く塗ったり薄く塗ったりしたら、完璧に再現できてしまうような、セピアカラーの洋服。服着てたらまだましで、上半身裸の男性も多数。スラム車輛みたいなっとるわけです。それに加えて、ひどい異臭。でも、タマエの買った切符は、この車両に乗れいうとるわけで。おそるおそる乗車。乗り込んでみて、さらにびっくり仰天。2人用の席には、4人以上が座り、通路という通路に、中国人が座っている、もしくは寝ています。網棚には荷物だけじゃなくて子供まで乗ってるし、その異臭とうるささは、言語に絶します。通路で寝てる女性は、列車が揺れるたびに、座席の下にす~っと消えていったり、また座席の下からす~っと出てきたり。洗面台もあるんやけど、洗面台に上にもだれか座ってるし。トイレ行こうにも、ドアの前に山ほど人が座ってるので、ドアを開けるのも一苦労。想像に難くないと思うけど、トイレの中はもう、惨憺たるものですゎ。意味がわからなくてパニックになりそう。各駅停車なので、しょっちゅうどっかの駅に停まるわけやけど、停まるたびに、人でも入ってんのちゃうか、と思うほどデカイ風呂敷を抱えた男女が、ドッと乗り込んで来よる。ドアからだけじゃないよ。なんでか知らんけど、窓からも乗り込んでくる。ドアと窓の区別もつかんのやろか…誰かが降りると、そのあいたスペースに、瞬時に物や、風呂敷や、子供が飛んできます。おばあちゃんなんかも飛んでくる。自分で飛び込んでいく男性や女性もいます。5時間もの間、タマエはその熾烈な場所とり争いに、参加すらできず。結局、列車に揺られてる間、タマエに与えられたスペースは、わずか、両足で立ってるスペースのみやったんです。済南についたときには、歩けないくらい疲れてました。すぐにタクシーつかまえて、ホテルへ。外国人や、おもたんでしょうね。ホテル着いたときに、この運転手がまた、最初に言うてた値段の5倍ぐらいふっかけてきよったんです。「なんでや」って聞いたら「最初からそういうてた」とか「道が混んでた」とか「ガソリンが高騰してる」とか「娘が病気や」とか。まだマスターしきれてない中国語で、懇切丁寧に抵抗しとったんやけど、挙句の果てに「おまえの中国語はよくわからない」って言われて。列車の旅で疲れ果ててたせいもあって、とうとうキレました。「われ、ホンマええ加減にせぇよ!なめとったらぶち殺すぞボケぇ」って、日本語、というか、大阪弁で喚き散らしたんです。ほんなら運転手、目を白黒させて、もぅ、最初言うとった値段でいいです。いうてね。日本語が万国共通なんか、大阪弁が万国共通なんか知らんけど、感情を表に出すのは、やっぱり使い慣れてる言葉なんやな、って、痛感しました。それから後、中国で困ったら、毎回大阪弁出してましたけど。たいていうまくいったんです。その後、済南のほかにも、上海関とかにも旅行に行ったり、2か月の留学を終えて日本へ帰るときには、北京から南京に下り、重慶に寄って、上海、深洲、マカオ、香港と、各地を巡りながら旅して帰りました。これらの、庶民とともに行動する一人旅が、功を奏したことは間違いないやろうけど、たった2ヶ月で、ネイティブの中国人とけんかしたり、電話で言い争ったりできるくらいまで、中国語は上達したんです。留学の終わりに深洲に寄ったのには、訳があって、ここで初めての商売をすることになってたんです。
November 11, 2009
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中国は北京の、北京語言大学っていうところに留学しました。留学するにあたって、タマエの中で、2つ、ルールを決めてたんです。1、日本人とつるまない2、商売のネタを探す欧米諸国と比べて、各段に安い費用で留学できるわけやけど、その費用を最大限に生かすために、日常会話だけでなく、ビジネス的な中国語も完全にマスターしようと思ってて。しかも、2か月で。中国語なんて、「ニーハオ」ぐらいしか知らんのにね。だから、中国に入ったら、中国語しか使わんとこ、おもてたんです。語言大学には、外国人留学生コースみたいなんがあって、各国からいっぱい留学生が集まってくるんです。もちろん日本人もすごく多い。たった一人で、初めての中国。北京国際空港に降り立って、大学の住所を書いた紙だけ頼りに、群がるタクシーの運転手に、「ここまで行ってくれへんか?」って、日本語。身振り手振りでなんとなく理解してくれたのか、「よし、ついてこい」みたいな感じ。初めての中国で、中国語まったく喋られへんくて、北京空港から大学まで向かう途中、かなり不安でした。このままわけのわからんとこ連れて行かれても、しゃーないかもしれん、って。でもまぁ、有名な大学やったから、無事に到着。これは後日わかったことやけど、通常料金の10倍はボられてた。大学では、午前中に授業があって、午後は自習。午後は、毎日、北京の百貨店に行ったり、商店街いったり、工場行ったり、なんか、商売のネタないか、うろうろうろうろしてました。タマエが住んでた寮の近くに、「七星」っていう食堂があって。他の食堂が濃い中華の味付けの中、タマエ好みのあっさり味やったんで、毎日のように食べに行ってたんです。そこの小姐(シャオジエ)って、ウェイトレスさんね。『継花(ジーホワ)』っていう女の子がいて、若くてすごくかわいらしかったんです。この子と、なんとか会話をする努力をすることで、なまじ学校に行くよりも、ぐんぐん中国語が上達したと思う。もともと漢字が共通なので、言いたいことは、書いてもらえれば、なんとかわかる。それを発音してもらって、練習して覚える、っていうのを毎日やってました。結局、大学の授業はほとんど行かなくなり、毎日朝から七星食堂。継花と、あーだこーだ、いろんな話して遊んでました。現地では、日本人を避け、韓国人と結構仲良くなって。もちろんタマエは、韓国語もさっぱりなんで、韓国人とコミュニケーションしようと思ったら、中国語か、つたない英語だけ。なんとかコミュニケーションを取ろうとすることで、語学の能力って、向上するんですね~日本で、中国語会話教室とか通っても、まさか、1~2ヶ月でしゃべれるようになるとは思わないけど、飛び込んだほうが早いね。いまは知らないけど、当時の中国では、なんでもかんでも、「外国人専用窓口」っていうのがあって、常に優遇されてるんです。電車の切符買う時なんか、全然違う。外国人は、専用の窓口でパスポート出したら、すぐに切符が買える。現地の人たちは違います。少ない窓口に、わんさか人が集まって、行列を作り、切符を買うんやけど、職員が全くやる気ないから、列が全然進まないんです。下手したら、切符買うのが一日仕事。その日切符が買えなかった現地の方は、「あーあ」っていう顔して、切符売り場で夜を明かします。ほんでまた、翌日切符を買うために並ぶわけです。七星食堂の「継花」が、中国の『済南(ジーナン)』出身や、いうてて、すごくきれいで、ステキなとこや、って連発するもんで、一回行ってみよう、おもてね。列車の旅です。で、まずは切符。外国人の特権を生かさず、できる限り現地の方々とおんなじ生活をしようと思ってたので、窓口は、もちろん現地人用窓口。朝の5時半に窓口に行ったけど、もうすでに、推定100人は並んでます。朝7時ごろに窓口がオープンして、中国人が窓口に殺到!って、ならばへんのかい!!窓口が閉まってる間は、なんとなくできてた列が、窓口が開いたとたんに総崩れ。我先にと窓口に殺到し、もみくちゃ状態で、あっちこっちでワーワーギャーギャー言うて。こんな中はいったら、死んでしまうかもしれへん…って思いながらも、その渦の中に入って、なんとか窓口にたどりつかないことには、切符が手に入りません。ひとごみを押し分けかき分けして、2時間くらいかかってようやくカウンターにたどりつき、カウンターにしがみついて済南までの切符を頼みました。受付の女性は、「あぁ~~~~?」って。これ、一応、「阿?」といって、中国語では「なんですか?」の意味なんですけど、日本人の感覚で言うと、中学生くらいのヤンキーが、「なんじゃこら、あぁ?」と言っている時の「あ~?」にしか見えません。中国留学中、この「あ?」には、ずいぶん悩まされました。どうしても、腹が立ってしまうんです。その時も、「済南までや、言うとるやろ。耳悪いんか、ボケ」っていうと、受付の女性、気分を害してしまったのか、「おまえの中国語はよくわからない。次の人!」みたいなっちゃって、「ごめん、ごめんて。2時間も並んだんやからちょっと待ってーな」っていうタマエを、後ろに並んでた屈強なおじさんが引っぺがして、「じゃまや、どけ!」みたいに言われて。また、最後尾に並びなおしですよ。そんなことを2回くらい繰り返して、ようやく切符を手に入れたのは、夕方の5時。なんと、12時間も、格闘しとったんですな。切符一つ買うのも大変な国です。自動券売機なんて、どこにもないからね。首都の北京にないくらいなんやから。次回は、済南一人旅。3等客車の巻。
November 10, 2009
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一生懸命勤めたラウンジ。お客様の買掛金でトラブルがあってね。もう、その頃になると、店長さんは蒸発してしまってて、お店のオーナーさんに直接雇われてたんです。オーナーさんって、もう、ほとんど裏の世界の方。怖いけど、優しい。いつも味方してくれて、いつもタマエのこと応援してくれてたんです。お店の常連さんが、8万円くらいのお金を買い掛けにしてはって、そのまま行方をくらましてしまったんです。今思えば、夜逃げしたんでしょうな。連絡が全く取れなくなって、お家も、会社も、全部もぬけの殻。さらに、残念なことには、そのお客様の口座になっていた女の子が、これまた失踪してすでにいなかったんです。「いやー残念ですけど、この買い掛けは回収できません」って、オーナーに報告したんですけど、オーナー、火がついたように怒りだして。お前がまどえ。って。タマエ的には、当時、そこに責任をもたなあかん、っていう意識が全然なかったんで、真っ向からぶつかりました。今のタマエやったら、当然払います。すんません言うて。ていうか、お客様から頂いたふりして、報告もせんでしょうな。ミセ任されてるわけですから。カッコわるい。払え。払いません。お前の責任やろ。払え。これは私の責任とは思えません。払いません。って。大喧嘩になって、その日、店を辞めました。お金は結局どうなったかっていうと、実家とか大学とかにさんざん電話がかかってきて、まぁ、簡単に言うたらトリタテですな。数ヵ月後、オーナーに会い、元本と、よくわからない遅延損害金を支払いました。オーナーに、別れ際、言われましたよ。「イチロー、若い時につっぱるのは、ええことや。おまえはええやつや。せやけどな、つっぱる相手は、よぉ見なあかんでぇ。」って。ホンマは、完全にその筋の人なんちゃうんかいなっていうドスの利いた声で言われました。今思えば、オーナーにも、たくさんのことを勉強させてもらった気がする。店のマネジメントなんか、直接そうやし、オーナーの経営する会社の仕事も、たまに手伝わせてもらったり、ビジネスとは何か、金儲けとは何か、といった話も、いっぱい教えてもらいました。それにやっぱり、お金のトラブルの時に、いっぱい勉強になった。なによりも、マセラティ乗り回して、マンションなん個も持ってるオーナーが、たった8万円のために目くじら立てて、トリタテ屋を雇って、両親や、大学の教授を脅してまで取りに来た、っていうのが、すごい勉強になった。わずかなお金に対しても、とことん白黒つけるっていうその姿勢は、ビジネスマンや、思います。ありがたい勉強させてもろたな~当時は、軍門に下ったような気がして、白旗あげてしもた気がして、ほんとに悔しかったけど。ミセ辞めたタイミングは、まさに、修士論文にうちこまなあかん時期、というか、もうギリギリやったんで、ちょうどよかったんです。1~2週間で修士論文書きあげて、2年間、ふしだらな院生やったタマエを、ずっと温かく見守ってくれた助教授が、「なんの問題もない」と、修了させてくれました。ホントに、タマエは、いつも、周りの方々に助けられてると思う。2代目の専務さんに勝つために、というか、負けへんために、当然、就職活動は全くしませんでした。なんか商売せなあかん、思ってて。とりあえず、商売やったら中国やろ!って思ったのって、ホントに浅はか。中国語を勉強するために、中国に留学しました。こないして書いてたら、ホンマに、タマエの人生ムチャクチャですな。
November 9, 2009
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幹部候補生の試験が、問題の意味すらわからなかったときに、正直、なんてこった…と、落ち込みました。小学校・中学校は、頭の良い子で通っていたのに、高校で水球に捧げた3年間と、さらに、大学でヨットに捧げた4年間。この、7年間で、タマエの脳ミソは、びっくりするほど退化してしまったみたいなんです。裏口に近い感じでしたけど、せっかく入れてもらった、大学院。この2年間は、モーレツに勉強しよう。スカスカのスポンジみたいになった脳ミソを、なんとかして昔の状態に戻そう!大学院は、2年間、研究に捧げようと、心に誓いました。せやけど、先立つものはカネです。大学の近所に独り暮らしで、学費もはらわなあかんし、生活費もいる。奨学金だけではとても賄えないので、当然、バイトせなあきません。昼間のバイトやと、研究室での研究がおろそかになってしまうので、夜にバイトに行くことにしたんです。求人広告で見つけたのが、『ラウンジのボーイ』当時、世の中にはキャバクラっていうもんはなくて、夜の世界は、クラブか、ラウンジか、スナックやったんです。クラブのボーイは怖そうやし、スナックのボーイやと、逆にママさんが怖そうやし。ラウンジのボーイに応募しました。ラウンジの面接、どんなかっこで行ったらいいのかよくわかんなかったけど、悩んだ末、大学の入学式のときに新調したハルヤマのスーツに、黒っぽいシャツ合わせて、なんとなくボーイ風?面接いったんですけど、話する前に、「よし、合格や。今日から働け。」言われて。タマエの夜の生活が始まったんです。最初の約束では、週3勤務で、19時から25時っていうことやったんです。大学院に入学して、1週間は、毎日大学に通いました。次の週から、店長さんに、「イチロー(当時、イチローって呼ばれてたんです)、ひとり辞めてしもてな。ずっととは言わんから、しばらくフルで入ったってくれや」って言われて。しょうがないから、フルで入りだしたんです。そのうち、店のラストまでおらなあかんようになって、なんやったら、女の子の送り迎えもせなあかんようになって、1年後には、『店長代理』給料も、時給から日給になり、歩合制になり。なんやったら、ラウンジがはねてから、2時からもっと繁華街で、ホストみたいなバイトも始め…。当時のタマエには考えられないような高給を取ってました。授業料も、生活費も、全然払えるんだけど、車買ったり、ブランド物を身につけたり。どこからどう見ても、真面目な苦学生ではなくなっていたし、大学院にも、週に1回、検討会には顔を出すけど、それ以外は全く行かず、大学4年生の部下を電話でこき使って、研究を進めてたんです。水商売の仕事がおもしろくて、というより、お店を任されていたので、そのマネジメントがおもしろくてしょうがなかった。どういう風にすればお客様が喜んでくれて、お金落としてくれるのか、そんなことばっかり考えてたんです。店の売り上げはどんどん伸びていきました。いつか、自分で店持って、もっと自由に儲けたい!って思ったり。当時、土建屋さんには景気のいいところが結構あって。バブルははじけた後やけどね。タマエのいたラウンジに、よく、2代目の方がいらっしゃったんです。創業社長の息子、みたいな。そういう土地柄やったんでしょうね。創業社長!みたいなかたより、その2代目の専務とか常務がよくいらっしゃってました。ラウンジでは、店長といえども、男性スタッフは、いわば、アリンコなんです。華は絶対に女の子なので、女の子がお客様を接待するわけですが、われわれ男性スタッフは、お客様の目につかないように、目立たないようにその接待をサポートするんです。でもなかには、そういう男性スタッフをつかまえて、からかって遊ぶお客様がいらっしゃるんです。タマエにも天敵がいて。その方がいらっしゃると、ムチャクチャ飲まされるんです。聞いたことある会社の2代目で、専務さんでした。でもね、歳がタマエと一緒やったんです。同い年の専務さんに、ヘネシーボトル一気から、フォアローゼスをアイスペール一気とか、大皿でブラントン一気飲みとか。大学でもうけなかったような洗礼を、次々と受けました。開店してる間は、なんとか、たっとるわけです。だけど、店をノレンにした瞬間に、トイレに直行です。のたうちまわって苦しみました。苦しみながら、トイレの床で、いっつも考えてたんです。どないしたら、あの、同い年の二代目に勝てるかって。当時のタマエの感覚では、人間の勝ち負けは、持ってるカネの量でした。カネ持ってるやつが偉くて、カネ持ってないやつは、負け犬や、おもてたんです。ワカゲの至りですな~どないしたらあの専務に勝てるか。普通の会社で、一兵卒から始めたって、絶対無理です。三宮辺りで、ラウンジのオーナーになってむ難しいでしょ。相手は関西有数の企業の若専務ですから。『起業するしかない』ビジネスで儲けるしか、あいつに勝つすべはない。そう思ったんです。あの、ラウンジの、ゲロまみれのトイレの床が、neelのスタートなんです。そんな風に言うたら、スタッフに怒られるかな。
November 8, 2009
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センター試験が惨憺たる結果やったんで、神戸商船大学も、タマエの実力で入れるかどうか、限りなくきわどい感じではありました。またしても猛勉強しました。受験まで残り1カ月ほどやったと思います。これに落ちたら、輪島塗の職人です。漆アレルギーなのに、立派な職人になれる気がしない!!それと、できたらあと何年かは、学生でいたい!!っていう思いで、猛勉強し、なんとか、神戸商船大学合格!!1992年かな。晴れて入学しました。高校時代は、すべてを水球に捧げきってしまい、ろくに彼女もできなかったので、大学は、ナンパなサークルにでも…って、思ってたんです。入学式の日に声かけてきたのが、「ヨット部」ヨットって、加山雄三か、石原裕次郎みたい!青い空白い雲大海原に真っ白なセイル!こら、モテそうや。すぐに入部したんです。ヨット部の前に、「体育会」ってついてたこと知らんかったんです。入ってみたら、地獄ですわ。高校の時同様、「勝ちたかったら授業出るな。」またや。またこれや。でも、一度首を突っ込んでしまうと、とことんやらな気が済まない性格なんでしょうね。完全に、ヨット漬けの学生生活でした。早朝から海に出て、夕方まで帰ってこず。夜は夜で座学と陸上練習。やるからには、インカレで優勝したい!そう思って、授業なんかそっちのけで練習しました。3年生の時に、引退していく先輩から、ヨット部主将を任されました。そこからの最後の1年間。インカレに出場することだけを目的に生きた気がします。ヨットって、お金結構かかるんです。学校に新しいヨットを買ってもらうために、何回も頭下げに行って、何枚もレポート書きました。そんなこんなで、「クラブ活動奨励賞」みたいな賞ももらった記憶があります。学校に新艇買ってもらって、OBの方々に、セイルも新しく一新してもらって、「この代はいけるで!」って言われてたんですけど、インカレの予選で、無残にも敗退。最後の予選のレース、今でもありありと覚えてます。スタートはどんなで、風はどんな風に吹いてて、それがどんな風に変化して。味方の3艇の位置、タマエのポジション。ライバル艇の動きとか、風向の変化とか。ぜーんぶ、まだ覚えてる。敗れ去った時、涙は出ませんでした。今は思い返すだけで涙が滲んでしまうけど、その時は、悔しさとか、悲しさとかっていう感情は、あんまりなかったように思う。それより、それで本当にヨットが終わりになるってことが、にわかに信じられなかった。本気で、大学辞めてもう一回入りなおそうかな、とか考えたりしてた。学生ヨットをもう一回やるためにね。全力で打ち込んで、その一点だけに集中してたから、後になーーんにも残らなかった。ほんま、抜け殻です。なんにもする気が起こらなくて、実家帰って、ぼーーっとしてました。母に「あんた、ヨットばっかりしてて、就職どないすんの!」って言われても、なんにもする気が起きんかった。で、結局就職活動もほとんどしなかったんです。同期のヨット部員は、みんな留年したけど、そこらへんの立ち回りがうまかったタマエは、いちおう、かろうじて卒業できたんです。でも、就職のあてもないし。で、思い出したのが、「幹部候補生試験」あ!そうや。オレは、防人になるんやった。って、ほんまに、どちらかというと、思い出した んです。幹部候補試験、満を持して受けました。このとき、ほんとにびっくりしたんです。テストができないんじゃない。解き方が分からないんじゃない。問題が理解できないんです。小学生が、高校生の問題に直面してる感じ。問題を、読めない。大学4年間、まったく勉強しなかったら、こんなことになるんですね。4年前は、学力だけでは、防衛大学校に受かったのに。ほとんど白紙で出しました。合格発表も見に行きませんでした。就職もないし。どうしようか、と思ってたときに、4年の時に所属してたゼミの助教授に助けてもらったんです。当時、世界最大のヨットレース(アメリカズカップ)に、日本も参戦してて。ニッポンチャレンジっていうヨットの、船体の研究を助教授がされてて。「タマエ、やってみる気ないか?」って言われてね。1も2もなく、「やります!」いうて、大学院に入ったんです。4年間借りてた奨学金もまだ返してないのに、さらに2年間、奨学金のお世話になることに。でも、ここで大学院に行ったことが、人生の決め手やったような気がします。なんとなく就職してたら、その後のタマエも、neelもなかったやろな。タマエが乗ってたのは、こんなん。ディンギーっていう種類のヨットで、470(ヨンナナマル)っていうクラスでした。全長が470フィートなので、470。そのままやんけ~~~
November 7, 2009
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どこまでさかのぼったもんかいな、ってかんがえてたんやけど、やっぱり、大学のころからかな、と思い。高校は、大阪有数の進学校に進んだタマエやけど、高校の3年間を、勉強ではなく、水球に捧げてしまったので、卒業するときは、ろくでもない頭になってました。1つ違いの、年子の姉がいてね。姉は勉強がものすごいよくできて、京都大学に進学しようとしてたんだけど、最初の受験で失敗してしまって。高校3年間、「受験は浪人したらええ。高校水球は今しかでけへんねんぞ!!」という、監督の言葉を信じて授業もせずに頑張ってきて、いざ受験。「まぁ、1年目は絶対無理やわ。1浪して、どっかいれてもらえるとこはいろ~」っておもてたんです。それを父に話したら、「あほか!!ねえちゃんが浪人したのに、お前まで浪人させられるか!!」って。さらに、「国公立の大学しか認めへん。私立なんかに行かすカネないからな。国公立の大学に行かれへんかったら、就職しろ。」って、言われました。監督の言葉信じてたのに~~~~~!父に、国公立の大学に進学する。もし、受験に落ちたら、輪島塗の職人になるという約束をさせられました。大学に進学できないんやったら、日本の伝統を守るような、そんな仕事がしたいと思ったんです。日本の防人になりたいと思ってたから、第一志望は「防衛大学校」陸上はなんや、毎日走りそうでしんどそうやし、航空は、目が悪くてだめそう。水球部にいたこともあって、水なら何とかなるか、と、防衛大学校の海上を志願したんです。めっちゃ勉強しました。もう後がないからね。浪人でけへんねやったら、現役で何とか入学しないと。漆アレルギーやのに、ホンマに輪島にいかなあかんようになってしまう。めっちゃ狭き門やったけど、学科のテストで合格したんです。防衛大学校は、学科がメイン。そのあとに、身体測定と面接があるんやけど、よっぽどの身体的欠陥とか、よっぽどの反乱思考を持ってない限り、ほぼ通る、って言われてたんです。もう、こら、もろたわ。ホンマわしは、ギリギリのところでうまいことやりよるわ~って、思ってました。伊丹駐屯地で、身体測定と面接。身体測定では、水球で鍛え上げた、頑強なタマエの肉体が、NGなわけありません。面接。当時、完全に金髪にしてたタマエは、面接当日に、母に、「オカン、この髪の毛を何とかしてくれ。さすがに金髪やったら、落ちるやろ。」いうて、コンビニで買ってきたビゲンヘアカラー 白髪染めを、手渡したんです。1本まるまるつかいましたよ。スプレータイプのやつね。セットした髪の上から、コッテコテに塗りました。母も、「これで大丈夫やろ。行っといで!」いうて送り出してくれたんです。面接では、当時話題になっていたPKOの問題についても、私心を交えない、素晴らしい完璧な回答をしたつもりです。面接が終わって、退室になるとき。ありがとうございました!!って、出て行こうとした時に。面接官にね。「ちょっと待ちなさい。君の頭はなんで二色刷りなんや?」って聞かれたんです。「に、、、二色刷りでしょうか。申し訳ありません!!!」って、逃げるように退室しました。ケチって小さいスプレーを買ったんで、後ろがきっちり染められへんかったんやね。まぁ、それでもまさか落ちることはないやろ、おもてたんです。防衛大学校の受験結果が発表される前に、センター試験がありました。防衛大に受かった気マンマンやったから、センターの勉強もしてなくて、周りの友達にも、「オレは、記念受験やから」と言いながら受けて、わけのわからない点数を取ったんです。伊丹駐屯地での、合格発表。あるはずのタマエの番号はありませんでした。目の前が真っ暗になった感じ、まだ覚えてます。信じられなくて、いったん、駐屯地から出て、もう一回門くぐって入って行って、見てみたりしました。でも、やっぱりなかった。駐屯地にいた自衛隊員の方に、聞いてみました。「この番号ないんですけど、なんかのまちがいちゃいますやろか…?」って。その自衛隊員さん、すごい親切に、調べてみます。いうてくれて、調べてくれたんです。でも、「やっぱりないみたいです。」って。「それはそうと、入隊しませんか?」って、普通に自衛隊に誘われました。もう、なすすべがない状態になってたので、別室で、いろいろ教えてもらいましたよ。普通に自衛隊に入隊しても、数々のテストをクリアしていけば、早ければ7年で「尉官」になれるとか。なるほど~それもいいかもな。ヘイタイからたたき上げの「尉官」。うーーん、いいかも。でも、その横に、「幹部候補生」っていう矢印が伸びてて、防衛大学校卒業生とおんなじぐらいの早さで、ぐんぐん伸びていってたんです。「兵隊さん、この、幹部候補生、っちゅうのは、なんでっか?」「あぁ、これね。4年制の大学卒業生が受けれる試験で、これに合格すれば、『尉官』になれるんです。」って。なんや~~!!!まだあるやんか、道が。防衛大学校がなんぼのもんじゃい。わしゃ、一般大学で勉強して、もう一回、幹部候補生になって帰ってきたる!!っておもて、ひきとめる兵隊さんを無視して、駐屯地を飛び出したんです。海上自衛隊を目指してたので、一般大学、いうても、船乗りの資格を取れるところがいい。航海士の資格を持った状態で幹部候補生になれば、こら、出世ルート間違いなしやで~~!と思い、志望大学に、初めて「神戸商船大学(いまの、神戸大学 海事科学部)」と、書き込んだんです。タマエが行きたくても行けなかった防衛大学校。ピンカジで、この正門くぐりたかった…
November 6, 2009
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なんて、久しぶりなんでしょう!!更新。書かなくなると、なかなか書けないブログ。むつしいもんです。実は、タマエの会社、「株式会社新流(ニール)」は、2009年12月で、めでたく10歳になるんです!!10周年、いうことで、大阪で記念パーティーさせてもらったりする予定です。10年か~~長いようで短いような。でも、ひとつの区切りであることは間違いない。10年前に創業したとき、先輩にこんなこと言われたんです。「タマエ、知ってるか?会社って、1年間にゴマンとできるんや。その中で、1年を全うできる会社は、10%や。すなわち、会社ができて、1年後にきちんと営業できてる会社は、10社に1社、いうことや。で、2年を全うできる会社は、そのうち、また10社に1社や。要するに、創業から2年をきちんと終えれる会社は、100社に1社、いうことになる。でな、そこから、10年を全うできる会社は、また、10社に1社なんや。2年を終えるのに、まず、大きなふるいにかけられて、その後、10年を終えるまでに、さらにふるいにかけられるわけや。10年を全うできる会社は、なんと、1000社に1社。いうことなるな。まぁ、がんばれ。」ってね。励ましなんか、なんなんかよくわからん言葉をいただきました。ホンマかどうかわからんけど、まぁ、ホンマやとしたら、1/1000社のサバイバルには、勝ち残れた、いうことなんでしょか。25歳で創業して、もはや、35歳になってしまいました。10年間のうちに、会社はもちろん、タマエ自身の考え方も、ずいぶん変わった気がします。節目ということで、いままでの10年を、振り返って、ブログに残してみようかなーって思ったり。12月24日が、創立記念日なんで、あと、1ヶ月半くらいかな。昔の思い出から、たぐりよせながら、書いていってみます。引き出し整理してたら、こんな名刺が出てきた…初代のneelロゴ。懐かしすぎる。会社を創業してすぐに、名刺を作らなければ!!と、つかったことないアドビのフォトショップを駆って作ったロゴ。このころは、neelのNが、大文字やったんやね。すでに感慨深い…
November 5, 2009
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とうとう!!100を切りました。これで、晴れてタマエも二桁プレイヤーです。今年のゴルフの目標で、「6月中に100切りを果たす」って思ってたんだけど、1か月ほど延びちゃった。コースは、竜王ゴルフコース「広いやんけー」とか、「誰でも100切れるやろ」とか、「接待コースやないか」とか言わない。なんしか、1回100きっとかな、いつまでたっても切られへんから、最近は簡単そうなコースを中心にまわっとるんです。朝一から調子が良くて、前半は、ボギーが中心の「97」。もちろん、OBなしです。「竜王はOBないやろ」とか、言わない。お昼はビールも控えめに、後半スタート。前半と違って、我慢せなあかんところが何箇所か出てきて。さらには、1発OB打ってしまったし。だけど、なんとかかんとか我慢のゴルフで、後半ハーフ「50」で、97ですわ~OB球、キャディさんが探し出してくれたから、今日は、たった1球でまわり続けたんです!!もちろん、「初100切達成記念ボール」夜は一緒に回った友人にお祝いしてもらいました。 あわびに・・・ ステーキ。ワインもおごってもろて、フルコースですわ~~彼が、100切りの記念に、と買ってくれたキャディバッグ、まっかっか。バッグだけ見てたら、80台で回りそうですな。いや~至れり尽くせりですわ。
August 18, 2009
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水遊びが大好きなねねのために、今年の夏は、プールを購入。サーキット用にひとつと、おうち用にひとつ。こんなに立派なプールで、なんと、980円なんですよ。コーナンで売ってるんだけど、もう一個買っとこうと思ってこないだ行ったら、売切れてた…そらそやわな。どないしたらそんなに安く作れんねやろ。ねねは、お水に入ってるとごきげんです。ぶくぶくしたり、お座りしたり、伏せしたり。なんでこんなに水場が好きなんやろね~タマエがカートで走り回ってる間も、ぶくぶくピチャピチャごきげんですわ~~せやけど、勝手にサーキットにプール持ち込んで、水も勝手に使わせてもろーて、すんません。
August 17, 2009
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あさ、寝ぼけながら台所でコーヒー飲んでたら、Σ( ̄Д ̄;)ナンダコリャ…何者かが襲撃してきたのかと思ったよ。指先が太くなったおて手がかわいいんだけど、このヒト、イモリさん?ヤモリさん?とりあえず、彼をびっくりさせないように、ゴミも玄関から出して、会社で調べてみました。「井守」だから水の中、「家守」だから家の中1.の質問の回答は簡単です。「おなかが赤いのが『イモリ』、赤くないのは『ヤモリ』」と、イモリの決定的な体色の特徴を、実際の個体で確認すればいいだけです。もちろん、イモリには・おなか以外全身が黒い・尾が側偏している・爪がないなどなどの特徴が他にもあります。またヤモリには・まぶたがない・爪がある・指の裏側が垂直面に貼り付くことができるようになっている・尾は側偏しない・全身に鱗があり、大きい顆粒状の鱗が散在しているなどなどの特徴もあります。ただ、何よりもイモリのおなかは基本的に真っ赤であることが見間違うことのない識別点であることは間違いないでしょう。だって。てゆうことは、彼は、ヤモリなんやね。なんか、トカゲみたいでかわいいやつやなぁ。さらに、特にヤモリは、ハエやガなどの「不快害虫」を食べてくれるわけですから「家守」とはよく言ったものです。だって。うちの家を守ってくれてるんかー。ええやつやな。夜おうちに帰って確認したら、 まだいてた。でも、夜見ると、ちょっと怖いかも・・・。
August 13, 2009
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August 11, 2009
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先日、大阪は此花区のパチンコ店で放火殺人事件がありました。むしゃくしゃしてて、誰でもいいから殺したかったそうな…とんでもない理由ですな。最近、そんな事件が多いような気がする。加藤被告の、秋葉原殺傷事件も、まだ記憶に新しいし。こないだも、どっかの高校生が同級生を殺害して「かわいそうやけど死んでもらうしかなかった…」って。戦国時代みたいな言い草やな。人間は前頭葉を持つ、数少ない生き物なんです。サルも前頭葉持ってるけど、人間の1/4くらいの大きさらしい。前頭葉が脳を支配してるのは、生物の中で、人間だけ、いうことやね。前頭葉は、理性をつかさどる部分で、本能や、感情といったほかの脳の機能を、コントロールします。だから、人間は文明社会を築いてこれたんやね。過去のいろんな過ちから学んで、よりよい社会を作っていくうえで、きっと前頭葉はまだまだ進化し続けてるんやと思う。この前頭葉、実は、20歳ぐらいまでしか成長しないそう。そして、なんと、生まれて1年半で、その70%の成長を終えるのね。脳は、寝てる時に発達します。なので、幼少期にしっかり睡眠をとってないと、前頭葉が発達しきれない、っていうことがおこるみたい。100成長しないといけないとして、もし、睡眠不足で、1歳半の段階で50しか成長できないとすると、その後、20歳までしっかり睡眠をとったとしても、残り30%しか成長しない。で、80%の前頭葉になっちゃうんだとか。そうすると、理性のコントロールがききにくく、善悪の判断がつかなかったり、感情を抑えられなかったりするみたい。いわゆる、「キレやすい」ことになるみたい。もちろん、社会の環境なんかも左右するやろうから、全部が全部、前頭葉と睡眠のせいじゃないやろうけど、脳科学的にはそういうことみたいね。誰かが言うてた。子供は、寝かさな寝ないって。タマエも、小さい頃、いっつも興奮してて、夜になると大暴れしてて、母に羽交い絞めにされながら布団に投げ込まれ、ムリくり本を読んでもらって寝かしつけられてた記憶がある。「ねなさーーい」っていうても、ねーへんわな。今の子供たちは、けっこう睡眠不足らしい。両親共働き、っていう家庭も多いから、家族がそろう、夜の時間を大事にする傾向が高いとか。むつかしいね。でもなんか、いろんな事件見たり聞いたりしてると、怖いね。
July 14, 2009
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こないだ、北神戸サーキットっていうところの、シリーズ戦に出てみたんです。初めてのサーキット。タマエの拠点の宝塚に比べると、コース幅が広くて、ゆるやか系のコーナーが多い。テクニカルコースというよりは、ちょっと簡単目かなー。簡単というか、攻めどころがないといったほうがいいかもしれないね。SSクラスで出場したんですけど、結果は散々。宝塚でも、猪名川でも、まだフレッシュマンクラスで出場しているタマエに、やっぱりSSの壁は高かった…。速さが全然違う。練習走行の時なんかは、SSクラスのエキスパート選手に、食いついて行ったり、仕掛けたりすることもできるようにはなってきてるんやけど、やっぱりレースは違う。絶対スピードのみがモノを言うわけじゃないので、散々に打ち砕かれました。まだまだやなぁ~。北神戸の選手には、知らない方も多くて。レースの日の朝に、車いすの方が3人ぐらい、パドックをうろうろされてたんです。「応援の方かなーー」って思ってたんやけど、次にお見かけした時、全員レーシングスーツに変わってて。え!!出場するの???宝塚や猪名川には、そういうハンディキャップを抱えた選手って、出場してないからびっくりしました。ハンディキャップのクラスがあんのかな?とも思ってたんやけど、なんのその。普通のクラスに、ふつうに出場してるんです。足が動かないので、アクセルとブレーキをハンドルの手元に持ってきて、それを操作しながら、コーナリングもする。ほんで、健常者の一般レーサーと互角に戦うんです。すごいなー。もうひと方。たまたまパドックが隣やったんやけど、125ccのマックスクラスに出場してる選手。このかたは、片腕が動かないんです。左腕かな。交通事故にあったそう。この選手は、カート自体はタマエたちのものと全く一緒です。走る時は、動かない左腕を胴体に固定して、右腕一本でレースするんです。右腕一本ですよ!!!タマエなんて、両腕使っても、Gに負けそうな時あるし、バトルになったら、まさか片腕では無理です。パワステなんて付いてない、まさに1対1のハンドルなんです。彼のレースをずーっと観戦してたんやけど、気持ちも、走りも、スピードも、まったく負けてない。ものすごい思いきりと、突っ込みで、豪快なバトルを連発してるんです。なんか、みてるだけで、涙が出そうになりました。タマエがもし、同じようにハンディキャップを背負った時、同じようにレースできるかしら…って思ったら、なんか、泣けてきた。隣のパドックやから、何度かお話させてもらったんやけど、人柄もものすごく素敵なんです。すごくさわやかやし。気負ったところも、全くないし、同じレーサーとして、カートに存分に打ち込んでる感じ。なんか、なんかね。心の奥底に、アツーイもんをもらいました。話してたり、走る様を見てると、すごい元気が湧いてくるんです。どう表現したらいいのかわかんないけど、文章にしてしまうと、自分の伝えたいことが伝わらない気がするけど、なんしか、感動しました。これからも、レース一緒にがんばらせてもらいたいです。
July 13, 2009
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タマエのおうちの裏には、ワンコのために作った、プチドッグランがあるんです。8畳ぐらいかなぁ。広さは。ぐるりをフェンスで囲って、芝を敷いてね。ねねコジが、元気に走り回れるはずのドッグランを作ってあるんだけど。理想は高くても、現実はこのアリサマ。 なんですか、この、タマエと同じぐらいの身長があるクサは。調べてみた。セイタカアワダチソウだ。このクサ、根っこから化学物質を出すんだって。「アレロパシーを有しており、根から周囲の植物の成長を抑制する化学物質を出す。これはcis-DMEという名称で知られるが、この物質はセイタカアワダチソウ自身の成長も抑制する。」わはは~自分も影響を受けるって、おもろいな。どっちにしても、このクサのせいで、タマエが自慢の芝生が、見た目にも、根っこ的にもやられてることは事実なんでしょう。重い腰を上げ、ドッグランの整備だ。抜いても抜いても、終わらない、セイタカアワダチソウ。2メートル近くあるものは、幹も立派で、根っこもものすごく深くて、なかなか抜けない。めっちゃ活躍したのが、これ。 何の気なしに、ホームセンターで買っといたんやけど、これ、このぎざぎざに根っこをからみつけて、一気に引っこ抜く。ものごっつい太くて、長ーい根っこが、ズボって抜けた時は快感やね。セイタカアワダチソウを抜くこと1時間。汗だくですわ。(あいつが親玉やな…)とおもって、とっておいた、ひと株。めっちゃ背が高いし、幹も太いし。こいつ。 なんか、誰の許可得たんか、綿帽子までくっつけて、フワフワ浮遊させよる。よくみると、こいつ、セイタカアワダチソウじゃないのね。棘もいっぱいあって、葉っぱも硬くて痛い。まぁ、言うても相手は植物なわけで。刺にやられつつも、最後はタマエの勝利でした。雑草どもがきれいになったところで、先日購入しておいた、強力な味方「芝刈り機」。って、写真とんの忘れてた…。刈り取りまくって、ほら、この通り。 なんか、ハゲ山みたいになってしもぅた。みんな元気に遊んでくれるかな~~~。
July 12, 2009
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ちょっと久々に、おっきな買い物してみたんです。といっても、うちのお店で扱ってる商品なんやけどね。For Pets Onlyの、車用ベッド!!けっこう、高いんです。これ。5万ちょっとすんのかな。すでに、だいぶ前に予約してあって、やっと届いたんですよ~~ワンちゃんのベッドって、世の中にすごくいっぱい売られてる。安いものやったら、2000円くらいからあるんちゃうかな。うちのウェブショップでも、激安で販売するときは、980円!っていうのもある。うちのねねもそうやけど、ワンコは結構、毛が抜けるのよ。だから、布製のベッドは、新品の時はすごくいい感じがするけど、ワンコが気に入ってごろごろしたら、もう、毛だらけ。気を使った素材を使ってないと、布の目に、毛が入り込んで、ころころでコロコロしただけじゃ、ぜんぜん取れないんです。その点、このベッド、側がエナメルやから、毛が入り込まないし、汚れても拭いたらすむでしょ。そうそう。ねねは、ベッドにはなかなかうるさくて、周りがしっかり立ち上がってないと嫌みたいなん。フラットタイプのベッドじゃなくて、おわん型というか、四方が立ち上がってるほうが、すっぽりと納まって心地いいみたい。安物やすもん、いうたらあかんけど、安価なベッドの場合、中に入ってる綿が粗悪なんかなぁ、がわごと洗うと、せっかくの立ち上がりが、すぐに、へにゃ…ってなっちゃって、ねねも「なんやねんこれ…」て言う顔になっちゃう。今回かったこのベッドやったら、がわごと洗う必要もないし、立ち上がりはずっとそのままやで~~いやぁ、結構お高い買い物やったけど、ものすごいしっかりしてるし、なんといっても、めちゃ可愛い。リボンと一緒に、フォーぺッツオンリーのロゴプレートが、キラーーン☆かわいすぎませんか?助手席にセットしてあげたら、ねね大喜び。ねねが好きなものは、タマエにはすぐにわかるんです。よかったねーー。でも、ねねのベッドをセットしたおかげで、人間が助手席に座られへんけどな。
July 7, 2009
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うちのねねは、タマエの仕事中、ずーっと横で寝てるんです。なんでか知らんけど、めっちゃ近くで寝る。邪魔やっちゅーねん。あ。マウスと間違えた。
June 23, 2009
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こないだ、ゴルフのペアマッチがあったんです。全国大会まであるみたいなんやけど、タマエが会員になってるゴルフ場で、兵庫県予選。ペアマッチって、あんまり聞きなれない感じなんやけど、なんしか、二人ひと組になって、1打目を2人とも打つの。ほんで、いいほうの玉を1つ選んで、その場所からまた2人ともが打つ。っていうのを繰り返して、カップインを狙うんです。どちらかがミスしても、どちらかがきちんと打っておけば、大丈夫なんですな。いろんな攻め方ができます。最初に打つほうが、とりあえずフェアウェーをキープして、2番目に打つほうが、腰がちぎれるくらい振り回して、アドバンテージを取る、とか。パッティングももちろん2人でするので、最初に打つほうがぎりぎりまで寄せておけば、2人目は思い切ってカップインを狙うとか。二人ともうまいほうが、そりゃ、有利なんやろうけど、タマエのペアは、友人のスーパー部長と。スーパー部長、ハンディキャップが13なんです。シングル間近ですや~~~ん。かくいうタマエは、ハンデ36。3倍ですわ。3倍。スーパー部長に、「一緒に出ようぜ」と言ってもらったから、参加したんですけど、足引っ張らんようにせな…。どちらかのボールを採用するわけなんで、18ホール回って、タマエのボールがまったく採用されない可能性もあるわけです。それはさすがに切ない…。スーパー部長は、タマエと比べると、飛距離も正確性も、格段に上です。なので、チームの作戦としては、まず、タマエが打ち、とりあえず、問題のないところにボールを置く。それからスーパー部長が、飛距離を生かしてかっ飛ばす、と。それで、18ホール回って、70代後半から80代前半のスコアを出せば、なんとか予選を突破できるのではないか。最初の2ホール、緊張からか、ドライバーもボロボロで、アイアンもボロボロ。スーパー部長におんぶに抱っこ。このままでは、あかん。このままやったら、おんぶにだっこばかりか、おしめまで換えてもらわなあかんようになる。3ホール目くらいから、なんとか持ち直し、ドライバーもフェアウェーに。タマエが1打目をフェアウェーに置けば、スーパー部長も、ここぞとばかりにドライバーを振り回します。向後の憂いがないので、OB打つか、かっ飛ばすか、という感じですな。当然、OB率も高まるので、タマエの玉も採用されることしばしば。2ペア1組で、4人で回るんだけど、一緒に回った組のペア、ハンデ8と9なんです。二人ともシングルや~~ん。それはそれは、うまいですわ。何番ホールか忘れたけど、ロングホールで、サードショットのアプローチ。やさしくポーンと打ち上げたボールが、トーンとグリーンに落ち、ころころころ~~~カコーーン。は、、、入った。イーグルやーーん。目の前で初めてイーグル見ましたわ。やっぱり、シングルの方は、グリーン回りがうまい。アプローチが神業です。タマエとスーパー部長も、持てる力を出し、善戦したんですが、結果は80。8オーバーですな。目標は達成したわけやけど、なんと、8アンダーで回った組もあるとか。オーバースコアでは、到底予選は突破できないんやとか。厳しい大会ですなーー。いつもは、友人同士で、わーわー言いながら回ってるんですけど、こういう、大会もいいですね。なにより、ものすごいうまい人の、すごいプレーを目の当たりにできる。ナイスショットも言い忘れて、「おぉ~~~」「すげ~~」しか言うてませんでしたわ。実はタマエ、ゴルフの目標があって、2009年6月中に、「100未満でラウンドする」予定なんです。いま、ベストスコア、105。う~~~ん、遠い…。6月中に、ラウンドする予定が、あと1回。なんとしても、100切るぞ~~~。
June 22, 2009
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June 18, 2009
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何年かに一回しか見ない。ような気がする。虹。こないだ、久しぶりに虹が出ててね。その前に見たのはいつやったかなーーって考えたんやけど、たぶん、3年前くらい。子供のころは、もっと頻繁に虹が出てたような気がするんやけど。ちがうかな。おっさんになって、そういう好奇心が薄れたから、見なくなっただけやろか。司馬遼太郎さんは、ある本の中で、「日本は水蒸気でできている」って、書いてた。日本の風景を描写するのに、油絵は向いてない。水彩絵の具でないと、その良さは表現できないって。たしかに、山奥とか、田舎のほうに行くと、水蒸気でできてるような気がする。特に朝なんかは、もやがかかってたりすると、ほんとに水蒸気。でも、都会ではあまりそんな感じがしない。都会の描写やったら、油絵でできそう。地面が減るから、本当に、水蒸気の量が減ったりしてしまうのかしら。詳しいことはわからないけど、虹って、いいですね。なんか、すごく特別な日のような気がしてしまう。雨のあとに虹がかかる。いやぁ、いいことが起きそうだ。
June 10, 2009
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安楽死とか、尊厳死っていったりするけど、人間のほうでもたまに取りざたされてる。ペットのほうでも存在していて、いろいろなケースで、安楽死を選択される飼い主さんは、多いです。いろんなケースがあるんだけどね。1、助かる見込みがなく、耐えられない痛みや苦しみから解放し、 尊厳のある状態で死を迎えさせてあげる2、生活環境の変化で、やむを得なく死を迎えさせる3、病気を治す費用がないために、治療を断念し、死を迎えさせるとかとか。もう少し頑張れるのに、さっさと安楽死を選択して、新しいワンちゃんを探しにペットショップに行く、っていうケースも、やっぱりなくはないみたい。むつかしいなーって思う。タマエの意見がどうこう、っていうよりは、飼い主さんとペットにそれぞれ生活があって、尊厳を失う前に、安らかな死を迎えさせてあげて、その子の思い出と共に生きる、っていう選択肢は、あって当然やし、それはしょうがないことやなー。人間のほうでも、いま、そういうことできんのかな。タマエの母は、なんや、尊厳死の会みたいなんに入るとか入ってるとか言ってて、自分が意識が戻らなくなったら、速やかに安楽死させるように、と、昔から聞かされてる。特に人間のほうで言うと、逝くほうは楽やな。タマエも、そうしてほしい。助からないのであれば、さっさと治療を断念して、速やかに逝かせてほしい。残る人たちに、負担をかけたくないからね。だけど、実際に肉親がそういうことになった時、1分の可能性にかけてみたいっていう思いが、絶対にわいてくると思う。あと半年も生きながらえたら、もしかしたら特効薬が、とか、新しい治療法が、とか。いくら故人の意志とはいえ、尊重しきれるかなぁ。話をワンコに戻すけど、最愛のペットが、もう助かる見込みがない、と、獣医師の先生に宣告された時、安楽死を選択できるかな。そこも、自信ないです。こんなこと書くのには理由があってね。今日、届いた、ペット関係の会報に、獣医師の先生が安楽死について書かれてたんです。いくら説得しても、安楽死に応じない飼い主がいる、みたいなね。その先生は、安楽死こそが、こそがというわけではないけど、助からないのであれば、速やかに死なせてあげるのが、飼い主の責任である、みたいな書き方をされてた。そんなふうに言われてもねぇ。割り切れないよ。自分から死を選ぶのは、動物の中で人間だけです。野生の動物は、どんな状況に陥っても、最後まで自ら死を求めることはないって、聞きます。脳の作りが違うんやとか。とするならば、いくら不治で、助からないとしても、そのワンちゃんは生きたいと思ってるん違うかな。「もう助からない」っていうことすら、知らないわけやから。その脳も、筋肉も、骨も、まだ生きようとしてがんばってるんやと思う。それを目の前にして、「安楽死」は選ばれへんゎ。やっぱり。そんなことを考えているタマエの横で、機嫌良く寝てるねねの寝顔を見て、目頭が熱くなるのでした。
June 9, 2009
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ブログを長いこと更新してなかったから、報告してないんだけど、カートレースは、ガンガンやってます。そもそも、友人に誘われてはじめたカート。まさかこんなにはまり込むとは思ってなかったな~。毎月のように、シリーズ戦に参加するんだけど、どうしても優勝できないんです。最高順位は、いまだ、3位。3位ってなーー。おもしろくない。5月の宝塚シリーズは、大雨。タイムトライアルで、3位につけたものの、予選でスピン。決勝は6番グリッドからのスタートになったんだけど、レインタイヤにも慣れてきたので、「よっしゃ、いったるで~~」って思ってたら、スタート前の押しがけで、神が押してくれたんだけど、そんとき、リアバンパーが、ぽろり。ポロリ、というか、バキって、折れちゃって。応急処置できる部品じゃないから、そのままリタイア。雨のレースって、水しぶきあげながら、こんななって走るのよ。もう、びしょびしょ。だけど、つるつる滑る路面は、スリルがあって、タマエはなかなか好きなんです。5月の最後の日曜日は、初めて遠征に行ってきました。宝塚でしか走ったことがなかったんですけど、初「猪名川サーキット」。宝塚が全長500mなのに対し、猪名川は1000m。2倍ですな。ストレートがめっちゃ長くて、スリップストリームが使える高速サーキット。もちろんギアやエンジンのセッティングは、宝塚とはガラッと変わります。猪名川でのレースは、心配されてた雨も、朝のうちに上がり、タイムトライアルは、4位。まあまあの出だしです。予選!スタートがばっちり決まって、イン側の3番の前に入れそうやったんです。だけど、最初からあんまり無理せんほうがいいかな・・・とおもって、引いちゃった。3番グリットのマシンとはテールトゥノーズで、そのままコーナーを過ぎ、4コーナーで、「抜けるか…」と思ってね。かなり突込み気味でブレーキング。これが災いした。まったく止まれず。くるくるくる~~~~またしてもスピン。さらに、後続の2台を巻き込んでクラッシュ。なんとか再スタートさせ、予選は10番でフィニッシュ。初めてのサーキットで、醜態さらしてしもたわ~さらには巻き込んだうちの一台は、仲良しの川崎選手。圧倒的なスピードを誇る川崎選手を巻き込んでしまい、ホント、申し訳ない。決勝は、何が何でも順位上げていったる!で、決勝スタート。予選でスピンして、硬さが抜けたのか、決勝ではようやく自分の走りが。スリップの使い方もわかってきて、結果は4位。表彰台になんとか上がりたかったけど、4位でした。まぁ、初めてのサーキットで初めてのレースやから、こんなもんでもええか。はやく、1勝しないとな~。
June 2, 2009
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ここのところ、また、腰の調子が良くなくて。お店勤務の日は、結構つらいです。お辞儀ができない…「ありがとうございました~」って、頭を下げるんだけど、腰が曲がらない。ただ、うなずいてるだけみたいな感じになっちゃう。お客様に失礼やな~~とは思いながら、それでも、油汗にじませながらの、必死のお辞儀。動物の中で、腰痛があるのは、人間だけだそう。人間に一番近いとされる、サルにも、腰痛はないんやとか。ワンちゃんの世界では、ミニチュアダックスやコーギーなど、胴長短足系の犬種に、腰ヘルニアが多いけどね。人間の腰痛は、2足歩行が原因なんやってね。サルから進化するときに、脳みそがどんどん進化して大きくなって。その脳みそを支えるのに、4足歩行では首が持たなくなって、2足歩行を始めたそうです。そして、頭と上半身の重さを、腰で支えることに。もともとそういう機能を持ち合わせていなかった腰にとっては、大変なお荷物ですわな。構造上、無理難題を押し付けてるそうです。腰に。肉月に要と書いて、腰。ホンマに体にとって、すごい大切な部分なんやなーって思う。腰が痛いと、なんや、すべてのことがやりにくい。寝るのも難儀やしね。そもそも、「ちょっと痛いな~~」って分かっていながら、スポーツジムでトレーニングして遊んだのが、原因やと思われるけど。はよ治ってほしいわぁ。
May 26, 2009
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