道玄坂洋楽英語倶楽部

2008年つごもりに想うこと総集編 2

2008年つごもりに想うこと

総集 編 その2

5.ライフスタイルとしてのゲージュツ


つまり、僕の中では、ゲージュツとはライフスタイルであり、売れる か、売れないか、ウマいか、下手かなど、相対的に定規を当てて計測するものではありません。

世界のどこへ行っても音楽業界の競争は激しく、うまく立ち回らない と、おまんま食いあげですが、特に日本は市場が小さいです。日本のCDの総売上高も、恥ずかしいほど低いものです。まあ売れていればいい、というわけでは なく、その質も問題ですが、ね。

とはいうものの、正直言って、やせ我慢して音楽だけで頑張っている 友人を何人も見ると、日本の社会の音楽に対する冷酷さに立腹することもあります。

かとおもうと、Patronを見つけてうまいこと御まんま食わして もらいながらプロでやってるひとたちも居ますが、こと自分がそうして生活することになったら、それをよしと出来ない、釈然としないと思われます。心のどこ かで「自分は情けない」という考えに取りつかれて、それが音楽に出ると思います。

その一方で、ゲージュツ全般がそうであろうと思われますが、一般的 に、自分が表現したい「理想」というか、作品の「イメージ」は、自分がそれを実現する数倍のスピードで進化してゆきます。「ああ、あれもできる、これもで きる、それだって可能だ...」などといろんなアイディアが思い浮かびますが、それが実現するスピードは、それほど速くはありません。

従って、ひとたびゲージュツをライフスタイルとすると、どんなに頑 張っても100%の達成感は得られることがない、ということです。その前に寿命で死んでしまうであろう、ということです。

従って、やせ我慢しても、タニマチ見つけても、100%達成できな いもんは、100%達成できない、ということです。実現するスピードは速くなるかもしれませんが、ね。

初めから達成できないと分かっているのに、無理したり、他人におん ぶや抱っこで必要以上に依存しながら、敢えてスピードを上げてゆくことには、あまり意味を見出せないです。

つまり、ダイヤモンドの目をもつイルカのオブジェは、ダイヤモンド を購入する資金がないからパトロンを探すか、それとも当座なんとか購入できるからスワロフスキイで作っとくか、の違いです。スワロフスキイでは、自分の頭 のイメージは100%実現しません。しかし、こつこつお金を貯めれば、10年後にはダイヤモンドで造り直すことができるかもしれない、と言うことですが、 いずれにしても、それが実現する頃には、「ようし、こうなったら水族館にいる動物全部のオブジェを作ってしまおう!!」などと、ドンドン自分のクリエイ ティビティが飛躍して行ってしまうので、追いつくことはできません。

エリック、クラプトンは、当座スワロフスキイで作っとく方のオプ ションを取り、特売品のギターを使って、自分のサウンドを追求しました。

てなワケで、僕の中のゲージュツは、非常に down-to-earth なものとなります。毎日少しずつ創作活動をする。忙しかったら、その日は創作活動を休んでもいい。けど、長期的に見て、音楽が根底に流れているようにす る。そして、一生涯をそれに捧げるならば、おそらくそこで、「ああ、Toni はミュージシャンだったね」ということになる。

そうなんですよ、ひと言で言うと、シュミ。でもちょっと違うのは、 明確な目標・目的を持ち、それを追求すること。

だから、ゲージュツなんて、実はカンタン。誰でも出来ます。

さて、「一日一善」ならぬ、「一日可能であればちょっとゲージュ ツ」というコミットメント・レベルで実現できることというのは、やっぱりゲージュツです。それが、たとえ誰かの作品をひとひねりしただけのものであって も、市場価格や為替変動リスクのない、動かぬ価値です。

少なくとも、クラプトンのギターを2004年に260万ドルで落札 した人は、既に日本円で6000万円ぐらいは目減りしたギターを持っている、と言うだけのことで、何ら創造したわけでもありませんので、これは明らかに ゲージュツではありません。

そんじゃあ、その「動かぬ価値」とやらで何ができるのか、という と、それを未来へと伝えてゆくことができます。そうした時間的なディメンジョンだけではなく、リアルタイムで他の誰かに伝えることも出来ます。

そうして創作した作品は、家族に、あるいは生徒に、はたまた世界中 のオーディエンスに対する存在価値となります。つまり、誰かに何かを伝える力があります。それは「へー、おじいちゃんって、そういうギタリストだったん だー」とか、「へえーその時代にこんなことやってる人がいたんだ」などとそれ自体が何かを伝える力を持ち続けます。

「そんなキレイ事言って...」

などと言われるかもしれませんが、何を隠そう、みんなそうやって誰 かに影響されてギターを始めたり、音楽を聴くようになったりしてるはず。程度の差こそあれ、創作された作品には、何らかのインスピレーションを与える力を 持っており、それは未来永劫朽ちることがありません。それどころか、あわよくばその作品から得たインスピレーションで新たな曲が生まれ、それがまたあらた なインスピレーションを産み、そうやって未来へと続いてゆくんですねー。

おじいちゃんのギター演奏を聴いて、孫がダンスを始めたとしても、 それだって立派なインスピレーションです。Why not? という感じ。

これで、経済的な価値観以外の領域で、所期の目的「素晴らしいもの を次の世代に残す」がまっとうされます。めでたしめでたし。

しつこいようですが、その一方で、クラプトンのギターを2004年 に260万ドルで落札した人は、既に日本円で6000万円ぐらいは目減りしたギターを持ってるだけです。つまり、このギターを代々伝えていこうと思ったと したら、この人は現時点ですでに6000万円ぐらいは目減りしたギターを後世に伝えることになります。この人は、所期の目的を達成した、と言えるのでしょ うか?

ちょっとこの人にはカワイソーだけど、失敗ですよね?まあ、また値 段が上がるかもしれないけど...でも、下がる可能性だってある。

この人のそもそもの間違いは、金銭的な尺度で物事を計ってしまう、 ということにあると思います。そりゃ、イイ物はイイですが、イイ物は決して高額ではありません。最高品質のギターが最高価格で売られているかというと、そ んなことありません。そんなん分かってる。それではなんでそうした価値観にとらわれてしまうのか?

それはひとえに、金銭的な尺度が分かりやすい、ということにあると 思います。みんなそこで騙されてしまう。

つまり、たとえば車を購入する時、燃費や性能、品質なんかが良く分 かんないから、とりあえず「高いもんがイイもんだろう」と「信用して」同じ車種でもグレードの高いものを購入する、とか。車ならまだいい方。下手すっと結 婚相手を「年収」で選んだりする。「高い方がイイだろう」。

まあ、ある程度それでイイこともいっぱいありますが、その辺ちょっ と慎重にならなきゃならないこともあります。

実は、これが先日、聖句をご紹介した意図だったのですが...


6.聖書に見る警告

聖書では、金銭に対する執着を忌避するように、と教えられている節 がたくさんあります。
基本的には、日本でもよく言われるように「貯金を墓までは持ってけ ない」のであるから、金銭に執着するのはやめなさい、ということ。
そりゃ、遺産をしこたま遺すことは出来ますが、子孫が使っちゃった ら、やっぱりゼロですからねえ。

そんじゃあ、私達が未来に残せるホントに確かな価値あるものって何 でしょう?って聞かれて、その中には「ゲージュツ」や清らかな心をもつ(またはぶっちゃけ「人様に迷惑かけずに生きていける」)「子孫」を残す、というこ とがあると思うのですが...すくなくとも、除外されてはいないでしょう。

つまり、金銭とは関係ない価値観の方が、よっぽど大切だ、と言って いる気がします。

まあ、僕は敬虔なクリスチャンでもなんでもありませんが、客観的に そんな気がしました。

先日の日記では、

James 5:1-3

Go to now, ye rich men, weep and howl for your miseries that shall come upon you.
Your riches are corrupted, and your garments are motheaten.
Your gold and silver is cankered; and the rust of them shall be a witness against you, and shall eat your flesh as it were fire. Ye have heaped

treasure together for the last days.

ヤコブ5:1-3

富んでいる人たちよ。よく聞きなさい。あなたがたは、自分の身に降 りかかろうとしているわざわいを思って、泣き叫ぶがよい。
あなたがたの富は朽ち果て、着物はむしばまれ、金銀はさびている。 そして、そのさびの毒は、あなたがたの罪を責め、あなたがたの肉を火のように食いつくすであろう。
あなたがたは、終わりの時にいるのに、なお宝をたくわえている。

クリスチャンは「宵越しの銭は持たねぇ!!」ってことは、江戸っ子 と通じるものがありませんでしょうか。。。なんて言ったら、罰当たるかな。。。

まあ、どんなに金持でも、貯金を墓までは持ってけない、ってことで すよね。

「富める者の方が苦しみが大きい」というのが、まさにぴったり当て はまっている、と思う今日この頃。。。

と書きました。

つまり、ここでは、、クラプトンのギターを2004年に260万ド ルで落札した人は、既に日本円で6000万円ぐらいは目減りしてしまったので、苦しんでいるだろう、ということです。飽くまでも「例」のレベルですが。

「富める者の方が苦しみが大きい」というのは、本当のところは、年 収300万円の人よりも3,000万円の人の方が苦しいかどうか、というレベルではなく、先ほどご説明したCapitalismの意味合いから、「持てる 者」と「持たざる者」のレベルなのではないでしょうか...

つまり、経済的な部分に、価値基準のすべてを置いてしまっているか ら、それを失うと非常に苦しい、ということだと思います。

 そもそも、昨今の不況みたいなことで、一瞬にして失わ れてしまうようなものが「価値」なのか、という疑問も生じます。少なくともこうして苦しむ人々のよりどころであった「価値」は、こんなにいとも簡単に失わ れてしまう程度のものであった、ということですよね。

「本当に価値のあるもの」は、その価値が変わんないから「本当に価 値がある」わけですよねえ?

 それじゃあ、経済的価値を「本当の価値」と言ったら、 ハッタリじゃないですか。

「富める者の方が苦しみが大きい」というのは、本当のところは、年 収300万円の人よりも3,000万円の人の方が苦しいかどうか、というレベルではなく、先ほどご説明したCapitalismの意味合いから、「持てる 者」と「持たざる者」のレベルなのではないでしょうか
と申し上げました。

それは、最近頻繁に読まされている 「金持とラザロ」 という聖書 のエピソードから考えることです。

Luke 16:19-31
There was a certain rich man, which was clothed in purple and fine linen, and fared sumptuously every day:
And there was a certain beggar named Lazarus, which was laid at his gate, full of sores,
And desiring to be fed with the crumbs which fell from the rich man’s table: moreover the dogs came and licked his sores.
And it came to pass, that the beggar died, and was carried by the angels into Abraham’s bosom: the rich man also died, and was buried;
And in hell he lift up his eyes, being in torments, and seeth Abraham afar off, and Lazarus in his bosom.
And he cried and said, Father Abraham, have mercy on me, and send Lazarus, that he may dip the tip of his finger in water, and cool my tongue; for I am tormented in this flame.
But Abraham said, Son, remember that thou in thy lifetime receivedst thy good things, and likewise Lazarus evil things: but now he is comforted, and thou art tormented.
And beside all this, between us and you there is a great gulf fixed: so that they which would pass from hence to you cannot; neither can they pass to us, that would come from thence.
Then he said, I pray thee therefore, father, that thou wouldest send him to my father’s house:
For I have five brethren; that he may testify unto them, lest they also come into this place of torment.
Abraham saith unto him, They have Moses and the prophets; let them hear them.
And he said, Nay, father Abraham: but if one went unto them from the dead, they will repent.
And he said unto him, If they hear not Moses and the prophets, neither will they be persuaded, though one rose from the dead.

ルカ16:19-31
ある金持がいた。彼は紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮し ていた。
ところが、ラザロという貧しい人が全身でき物でおおわれて、この金 持の玄関の前にすわり、
その食卓から落ちるもので飢えをしのごうと望んでいた。その上、犬 がきて彼のでき物をなめていた。
この貧しい人がついに死に、御使たちに連れられてアブラハムのふと ころに送られた。金持も死んで葬られた。
そして黄泉にいて苦しみながら、目をあげると、アブラハムとそのふ ところにいるラザロとが、はるかに見えた。
そこで声をあげて言った、『父、アブラハムよ、わたしをあわれんで ください。ラザロをおつかわしになって、その指先を水でぬらし、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの火炎の中で苦しみもだえています』。
アブラハムが言った、『子よ、思い出すがよい。あなたは生前よいも のを受け、ラザロの方は悪いものを受けた。しかし今ここでは、彼は慰められ、あなたは苦しみもだえている。
そればかりか、わたしたちとあなたがたとの間には大きな淵がおいて あって、こちらからあなたがたの方へ渡ろうと思ってもできないし、そちらからわたしたちの方へ越えて来ることもできない』。
そこで金持が言った、『父よ、ではお願いします。わたしの父の家へ ラザロをつかわしてください。
わたしに五人の兄弟がいますので、こんな苦しい所へ来ることがない ように、彼らに警告していただきたいのです』。
アブラハムは言った、『彼らにはモーセと預言者とがある。それに聞 くがよかろう』。
持が言った、『いえいえ、父アブラハムよ、もし死人の中からだれか が兄弟たちのところへ行ってくれましたら、彼らは悔い改めるでしょう』。
アブラハムは言った、『もし彼らがモーセと預言者とに耳を傾けない なら、死人の中からよみがえってくる者があっても、彼らはその勧めを聞き入れはしないであろう』」。

このエピソードの中で、金持は「毎日ぜいたくに遊び暮し」ている、 と言うことなので、働かんでも何とかなる人たちかな、と思いますね。

その一方で、ラザロは「金持の玄関の前にすわり、その食卓から落ち るもので飢えをしのごうと望んでいた」と言われると、うーん、自分の姿を重ね合わせざるを得ない…

けど、いくら年収があったとしても、雇われて働いてたら、やっぱラ ザロなんじゃないだろうか?とかんがえてしまう。違うかなあ…
この辺、聖職者の方だったら、スパッと「いいえ」なり「その通り」 なりの答えを頂けるところなんですが…

まあ、金持ってる奴の方が苦しい、というのは、閾値があって「苦し い」「苦しくない」に2分されるとしても、あるいは「苦しい」から「苦しくない」に徐々に変わってく場合でもそれほど変わらんので、このまま行きます…

地獄、というのはやぶさかじゃない…ちょっと極端かな…とも思うけ ど。しかし、重要なのは、「大きな淵があって」渡れない、ということ。つまり、「手遅れ」が存在する、ということですよね。

「持てる者」として「持たざる者」を搾取して、40代、50代と生 きてくる。そこで「自分は間違ってたんじゃないか?」と思ったところで、人生をやり直すことは出来ない。

聖書では「死後」の話がたくさん出て来ます。ウェブとかでチェック すると「ああでもない、こうでもない」といった、専門家の方々による様々な意見がありますが、個人的には、これは聖書が、肉体をもって現実世界に生きるこ ととは違う次元の、スピリチュアルな話である、ということなんじゃないか、と勝手に解釈してますハイ。

これは、mfa の美術史の先生がおっしゃっていたことで、たとえば、イースター(キリストが死から復活した日)が春なのは、春になって芽吹く草花や活動を始める動物たち を見て、スピリチュアルな部分で、つまりイマジネーションで、キリストの復活を重ね合わせて考えたからだろう、みたいな考え方です。

平たく言えば、現実の世界はこの通りではないかもしれないけれど、 みんなスピリチュアルな部分では「こうあるべきだ」と納得する話だから、聖書に残っている、ということだろう、と僕は考えてます。

つまり、この時代の人たちは、「金持はかえって辛い思いをする」と 考えてたってことですよね。

それから2000年後の現在も、人間は当時と同じことで悩んだり、 苦しんだりしている、というのは驚きです。

補 足説明:その他「富をよりどころとしないように」と教えられている聖句は、 こちらをク リック


7.まとめ:2009年に臨む


さて、「金で買えるものなんて、ろくなもんありません。」と冒頭で 申し上げました。

それは、人生の目的が「素晴らしいものを次の世代に残す」というこ とであり、その本質は金銭とは無縁だからである、というお話を申し上げました。後世へと受け継いでゆく「素晴らしいもの」は、人間の生理的の究極目標「種 の保存」であり、また芸術作品や科学技術上の発展、あるいは橋梁等物理的利便性等があるかもしれません。

横浜ベイブリッジ、開通してからは便利になりました。しかし、誰か が「あんまり見てくれが良くないから、壊して新しいのを作ろう」と言ったら、おそらくは誰も「うん」とは言わないでしょう。だれもその意味を見いだせない からです。横浜ベイブリッジは、東京から鶴見・本牧へと抜けることができる、交通の利便性と言う意味において、その存在意義があるからです。たとえばそれ が、レインボーブリッジに見劣りするし、価格が安かったからと言って、取り壊して造り直そうという論理自体がばかげています。

しかし、どういうわけか、それがばかげたことではない、つまり「金 銭的に価値の高いものの方がよい」と誤解される傾向が、芸術にはあるのです。しかし同様に芸術でも、芸術的な創造において、金銭は無縁の部分で、クラプト ンのように予算内で1本1万円のギターを3本買ってきて、それで芸術的な創造を試みることができます。つまり、できる範囲で十分である、ということです。 芸術的創造活動で必要とされるのは何かを、しっかりと見極める必要があるのです。人間腹が減っては戦ができませんが、なにも毎回ファンシーな夜景の見える レストランで食事をする必要はありません。たまには、いいでしょうけど、ね。普段は三角の塩むすびで十分です。

また、「芸術という価値観」は、実用的な価値観とも、市場的・経済 的価値観とも無関係であることも分かりました。

たとえば自動車などは、主要諸元などで比較検討し、実用的な費用対 効果を吟味することが可能です。しかし、美意識など、より主観的な部分において、あえて性能が劣り、かつ高価格な車を購入する、と言うのが、芸術的価値観 に近い、というお話を申し上げました。

さらに、そもそも資本主義Capitalismと芸術が、あまり相 容れるものではない、と申し上げました。

ローマ・カトリック世界では、ある一部の人々が富を貯えて、それを もって芸術文化の発展に寄与し、現在「世界的な財産」となっている数々の文化が生まれ、後世へと受け継がれました。これはひとえに、そうした芸術文化にお けるPatronageの賜物であり、ジャズの例で御説明いたしました通り、現代においても同様のことが言えます。

資本主義においても、蓄えられた富がありましたが、それは芸術文化 ではなく、資本として、さらなる富を築き上げるために用いられており、現在もそうです。

また、そうした富、財産等の貯えをもって、人生の価値観のよりどこ ろとすることは危険である、ということが2000年も前から聖書で繰り返し述べられていることが分かりました。現在も人間は同じことで思い煩っています。

現実に、資本主義社会では、数か月のうちに資産が10分の1になっ てしまった人々が大勢居られました。それを人生の価値観のよりどころとしていた人々の「人生の価値」も10分の1になってしまった、ということです。資本 主義はプロテスタントの展開と密接な関係の中で進展してきましたが、奇しくも聖書には「富をよりどころとしないように」と何度も警告されています。 2000年前に既にこうして認識されていた人間の生来の問題点は、人間を未だに深く悩ませています。

これはひとえに、数字として示される富が極めて客観的であり、かつ 相対的な理解に容易であるということが、人々の依存度を高めてしまうということ。

誰が言ったか、「勝ち組」「負け組」...収入という数値によっ て、2つに分けようとするものです。不況を乗り切るためにはこうした観点が必要であったことを差し引いたとしても、こうした観点が誤っていることは、 2000年前から既に知られていたことなのです。しかして、日本社会では、そうした金銭的価値への依存度が高く、過酷な労働を強いられるようなシステムが 制度化されている、ということ。さらにそうした貧しさは意識されることがなく、あまつさえ制度化していること。

いっくら収入が増えて、周りから「勝ち組」と呼ばれたとしても、ま た客観的に数値として「負け組」を上回っているから「勝ち組」であると考えられるとしても、家族と過ごす時間が減ったり、創作活動のための時間がなくなっ てしまっては、自分の中では「負け組」であると自覚するしかありません。さらに、そうして取り返しのつかない甚大な犠牲をもって得た収入は、1,2年で無 くなってしまいます。そうして全てを失って、「負け」を認めざるを得ないのです。現在の日本社会は、それを制度として強要しています。

人生の勝ち負けは、人と比べてどうのこうのというよりも、より主観 的なものであり、自分が勝ったか、負けたかは、自分自身が一番良く知っているところなのです。

個人的には、富すなわち金銭は「付き合いにくい友達」程度に考えて 付き合ってゆくのがよい、ということだと思います。

しかるに、現今「不況だ」といって騒がれてはいるが、これは多少の 困難にはなるものの、芸術本来の持つ価値が10分の1になるようなことはなく、後世に残される芸術の価値は不動のものである、ということです。

すなわち芸術とはライフスタイルたるべきものとして、必要最小限度 の出費をもって、「一日一善」ならぬ、「一日可能であればちょっとゲージュツ」というコミットメント・レベルでも、誰もが成し遂げうるものである、という ことなのです。

僕が「アリモンの極致でなんか凄いことやってやろう」という精神が 嫌いなのは、そうした客観的かつ物理的な優位性をもってして他を凌駕することは、誰が見ても自明であり、注目には値しない、と言うことです。そこには何の クリエイティビティも存在しない。

具体的には、GTRを購入してきて、1000万円かけて改造し 700馬力オーバーの車を作って、それをタクシーと勝負させたところで、結果は初めから分かっていることで、比較すること自体が無意味なのではないか、と いうことです。

これは音楽でも同様のことが言えます。

基本性能の高い業務用機器、あるいは高価な業務用機器を、フリーソ フトや廉価版機器と比較すること自体が無意味です。

しかし、フリーソフトや廉価版機器で、業務用機器あるいは高価な業 務用機器を凌駕するような芸術作品を作るとしたら、僕が何を言う必要もなく、これは大いに注目を集めるものとなるでしょう。

中古のタクシーを買ってきて、それで1000万円かけて改造した GTRを凌駕するドライビング・インプレッションを得ることが出来たなら、それは大いに注目されるはずだ、ということです。

世界経済が先行き不透明なまま迎える新年となりますが、来る新年に おいて、皆が再び同じ間違いに陥ることなく、本当の価値観に目覚め、本当に価値あるものを築き上げ、未来へとつないでゆくことができることを祈りつつ、 2008年を見送ることとしたいと思います。。。


© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: