マスP文庫
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ロウソクの炎が吹き込む初冬の冷たい風で心細げにゆらゆら揺れる。黒く煤けた廊下の両脇には頑丈な格子で遮られた牢が10軒ばかり並んでいる。廊下の先の暗い牢の中に、一人の若者がうつ伏せに横たわっていた。背中はむき出しで、濁った血が一面を覆っていた。彼の名は犬川額蔵。主人殺しの罪を着せられむち打ちの拷問を受けた後、この牢の中に乱暴に放り込まれているのだ。廊下に小さな犬の影が足を踏み入れた。影は廊下を進み額蔵のいる牢の前で立ち止まり、そっと中を覗き込んだ。「犬川殿。このような惨い仕打ち、かたじけない。拙者は志茂玲央(しもれお)と申し捕り方の同心をしておる。貴殿のこと調べ、潔白であることは存じておる。だが、拙者の今の力ではどうにもできぬ。だが、必ず貴殿を自由の身にすることをお誓い申し上げる故、それまで今しばらくご辛抱くだされ。」額蔵は苦痛の表情ながら小さくうなずいた。「志茂様。現八でございます。今戻りました。」チワワ犬の玲央が振り返ると犬飼現八がひざまずいていた。「現八、ご苦労であった。して、犬塚信乃と申す盗賊はいかがいたした。」その言葉を聞き、声を発したのは額蔵だった。「犬塚信乃と申されたか?彼の者は盗みなどを働くようなものではありませぬ。」額蔵の絞り出すような声を聴き、現八はこれまでの経緯を話した。「何?八犬士とな?その犬塚信乃とこの犬川額蔵殿は安房の国の里見様の家臣という事か?里見様の姫君の伏姫様の事は聞き及んでおる。まこと痛ましいことであったが。」玲央は伏姫が犬の八房とともに入り非業の最期を遂げた富山のある方角に視線を向けてつぶやいた。「志茂様。もう一つお伝えしなければならない義がございます。」玲央が現八に目を向けると彼はようやく切り出した。「実はわたくし犬飼現八もその八犬士の一人であることを犬塚信乃に告げられました。」玲央は驚いて現八の目を覗き込んだ。現八は言った。「犬塚信乃は『孝』の字が浮かぶ珠をもっており左腕に牡丹の痣、犬川額蔵は『義』の珠を持ち背中に牡丹の痣。そしてわたくし犬飼現八は『信』の珠を持ちご存じの通り右の頬に牡丹の痣がございます。これが八犬士の証しであるとのことでございます。」驚きの余り志茂玲央はしばらく現八の右の頬にある牡丹の痣を見つめていた。そしてようやく気を取り直して言った。「するとそなた達は奇妙な縁に結ばれた同志という事だな?承知した。それがしもそなた達に助力いたそう。」現八は心配そうに言った。「しかし、志茂様。そのようなことをすればあなた様の身が。」玲央は決意のこもった目で言った。「案ずるな。それがしも以前より代官様の様子がおかしいことに気づいておった。これ以上このような不義なことに関わるより、正してこそ武士のあるべき心得と存じておる。」現八は玲央の揺るがない心を察すると言った。「志茂様、どうか安房の里見様の下へ仕官してくださりませ。今は僧侶の姿で八犬士を探す旅をされている里見家随一の家臣金碗様におとりなしいただきます故。」玲央は静かに笑って言った。「それがしの事は気にするな。ところで現八何か策はあるのか?」現八はうなずいて言った。「実は代官所の傍の空き家に犬塚信乃と螺良猫団の者が潜んでおります。」これを聞いて玲央は驚いた。「何、螺良猫団?義賊と言えども盗賊ではないか?なぜそのような者どもと・・・」現八から雷の計画を聞き玲央は言った。「今からそれがしも代官所に背く身、然らばその者たちと拙者は同志という事じゃな?」
2019.12.12
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