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願いごとがございます。どちらさんもこちらさんも、そのようなものはおありでしょう。ある意味ねがいごとのすこしもないひとというのはこうふくなのかそうでないのかわかりません。いえつねになくともふらと歩いたさきにそのような場所があり、いかにもなステージが用意されていたとしたら深慮などなしにとりあえずねがうことはある。そのような素質がにんげんのかわいらしさでもございましょう。いえいえもうしわけありません余所様のことなどどうでもよいのです。わたしです。わたしにはあるのです。ねがいごとがあるのです。いつでもどこでもすがりたいわけではございませんけれど。いやいつでもどこでもすがりたいのかな。かみさま。と名付けてよいのかわからないそのような空へ。
2011年01月30日
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毎朝NHKの朝ドラマ『てっぱん』を途中まで見て出勤しているために出勤の途中は脳内に鰹節が踊っていることが多い。生まれてからこのかた朝ご飯はしっかり食べる人間であるので(おおげさ)シンクが後片付けを終えてうつくしい空姿になっているのと同じくらい、自らの腹が空腹であるということはないのだけれど。ということで文脈に無理があるが夕飯を「お好み焼き」にした。具は思い切り精進な感じ。キャベツ、人参、しめじ、えのき、ほうれん草、にら、じゃがいも、なにより生地のほとんどが長芋の摺りおろして擂鉢であてたものである。このもんにゃりねっちりむねむねしたものをフライパンでわりと長い時間をかけて蒸し焼く。たのしい。(たのしいのか)円の縁も中心のあたりも、少しずつ盛り上がりながらぷううと膨らんでくるのがすてきね。しかしヘルシー。ヘルシーすぎである。これがおかずかよと。まあ主食と汁に動物性たんぱく質が若干入っているので勘弁してください。あつあつを各自がケーキみたいに切り取り、ソースやマヨネーズを適宜かけて食す。幸せである。ハフハフはじめて大阪に行った時の、あの鉄のヘラみたいなので食べた初本格お好み焼き、ああ・・・・。うまかったなー。・・・・。なんてことを思いだす。どんな記憶も思いだす時にはほんのりと脚色の鰹節が踊っている。
2011年01月28日
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まずいかもしれない。夕飯を作るのと同時に「なんかいまどうしてもたべたいんだけど」と思いながら菓子を焼いてしまう。菓子はオーブンで焼き上がり、夕飯のおかずはフライパンに出来上がっている。そして一緒にそれをたべる息子を待っている。ただ待っている。これはある意味かなりやばい母親ではないだろうか。焼いたケーキはチーズケーキ。こんなのまるっと焼いてどうするのか。こんなのもし食べたらどう考えても食べすぎだろ。なんとなく模様が欲しくてチョコまで垂らした。することもないのでたまには現実逃避的に苦手なものにでも取り組んでやるか。クリームチーズ200g(一箱) 298円プレーンヨーグルト4分の1パックくらい 32円バター20gくらい 30円マリービスケット8枚 60円板チョコ 1枚 82円小麦粉 30グラムくらい? 7円卵 2個 56円砂糖少し 牛乳少し いかほど? 合計 約 600円? ←電卓使用してこれですか。うあ、このケーキ1ホールで600円くらいするではないか。これは10人で食べればうれしい安うまさかもしれないがもし2人で食べるならお得感は薄い。苦手なものは、算数。食べすぎも良くないぜ。「ごはんはもりもり、菓子はちょっとだけ」というのが好きだ。電話して御近所に半分持っていくことにする。押し付けである。電話の前に味見したら、うまかったよ。ただもっと甘くないと思ったのに、昨今の板チョコは『ブラック』を買っても結構甘い。『ブラック』というのは砂糖抜きっていう意味じゃないのか。ただの色?それとも「『ミルク』じゃねえよこれは」ってことなのかしら。
2011年01月27日
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現実逃避だとわかっちゃいるが、また遠くまで旅に出たくなっているなあ。一人じゃ心細くて他者を誘うのが下手でそんな私とどこかへ行ってくれる人間はきっとかなり限定されているのだろうと思うけれど。今度の旅は少し重いが絶対に一眼レフを連れていく。現実逃避だとわかっちゃいるが、一眼レフ買って良かったなあ。昨年度の一番の収穫である。(それかい)よくわからないが写真は面白い。絵は所詮自分のレベルまででしか描けないけれども(私の場合)写真はおのれで撮っておきながら「えっ!」と思うようなものがときおりあったりする。それが面白いなあ。って、小学生みたいな日記である。だってさ、現実逃避できるって、幸福じゃん?
2011年01月26日
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久しぶりに出してきた皿に久しぶりだからって土瓶から沸かしたての湯を注ぐ。つとっつとっつつとっつ。っっっ・・・あれ? なに? なんの? ・・・・音?耳をたぐっていくと、皿から、湯を通して空中に湧く小さな小さな空気の泡のはじける音がしている。っっっ・・っ・・・・・っ、っ、っ・・・・・っ耳を澄ましてそれをしばらく聞いている。いいおとだなあ。おんがくではないけれど。おんがくいじょうにかわいい。おんがくいじょうにしずまりかえる。★今日は華道の稽古。この時期は年末から正月今月と、毎回毎回素材が大きい。特に柳。これをどうやって一般的な水盤に(剣山に)挿せと? とすてきな花屋さん(値段以上にいつも材料をどどんとたくさん配達してくださるのだ)に一瞬はお尋ねしたくなるような、こんなに切っちゃって本体の木はいったい大丈夫なんですかい? とも次の一瞬はお訊きしたくなるようなそんな立派な枝ばかりの柳が今日も届く。しかしそれを師匠の鋏は(みんな使ってるものはほとんど一緒である。古流鋏)太い幹(「枝」と言うべきか、いや立派なのでついつい)からばすんと軽やかに断ち切られる。われわれ不肖の弟子はちっとも切れずにぎゃいぎゃい騒いで、むしろその鋏の刃のほうを欠きそうであるのに。師匠は「そのうちできます。力というよりはリズムですのよ」などと魔女のようなことを仰せである。リズム? ってなあ・・・。(花枝の声を聞けということか?) (節やその呼吸を知れということか?)(その解をわからぬまま刻み未来への宿題とする)真の枝は柳で、花は多くのフリージアであった。それから緑の美しいカルタス。フリージアのかぐわしきの傍にいるのが幸せだった。上手には挿せねども。そうだ、春は近い!★故郷に久しぶりに電話をしたら「何の用だ?」とぶっきらぼうに言われ「何の用ってこたぁないでしょ」と言うと「そうか。すまん。おまえのことはいつも忘れているから」だとさ。余計失礼でしょ。笑しかしその親のいつか言ったことには「おまえのことは全く心配していない」「おまえは何処に行ってもきっとだいじょうぶだ。と思っている」私の親のその魔法が永くまだ私の中に効力を保っているのだから、きっとそれは彼が死んでも私が死んでも残っていそうなのだから、私は自身が親としてもそのようなことを未来、自分の子どもへ言い放てるようなそういう親になりたいと願っている。★さて、今日はサッカーみるぞ。ビールとツマミと布団と明日の準備を整えて、風呂に入ったらサササササカサカサッカー!!GGOGOGO==!!いやはや、細かいルールはわかりません。苦笑
2011年01月25日
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外では本当に寒いので身に近い空気の隧道を遮断するために歳とともにますます好きになっていくのが「巻きもの」である。マフラーとかスカーフとか。若いときは中年以降の御婦人たちが常になにか首周りに布を巻きつけているのが割と不思議だったが、いまではそれがファッションめいた実用なのだと勝手に納得している。なぜか寒さの声を聞くと毎年急に編み物をしたくなり、そしてしかし自分の技術レベルが「まっすぐ編むこと」にしかないために(そして根気や努力の意思や展望もまったくないために)毎年頼まれてもいないのに「マフラー」を、マフラーだけをそれだけを喜んで数本編みあげ、そして嬉々としてそれを使うのであるけれどもひと月くらいたつとすぐにそれに飽きてしまい、あるいは選んだ毛糸の質にもよるのか一度洗濯するやそれらがなぜか「直線ですらない」ようなめっとりとした不思議なモノになってしまうせいか、けっきょく本格的な寒さを迎えれば私の首には本職のこしらえた巻きもの。つまり市販されている整ったそれがいちばん選ばれ巻かれるということになる。防寒のために選ばれるので私の巻きものは大きいものであることが多い。肩にかけたり膝にかけたり上半身に巻きつけたり、そんなのが好きだ。体がでかいので大判なものでも案外平気だがあんまり嵩張るのは外したとき邪魔で好きではない。そんな観点でだいたいセールになってから好きなのを一点毎年買うのだが今年のもやっと買った。まあ実用とはいえある面からみたら贅沢品であるので、そこはどうせなら好きなものを買う。今年のはZUCCAから買った。もともとZUCCAは大好きで、昔のものではもう15年くらい毎年履いてるスカートや「え。それ『しまむら』で500円くらい?」と言われてもおかしくないシンプルなシャツブラウス。そういういうものをずっと愛していてずっと着ているけれどもそろそろいくらなんでもZUCCAのかわいらしさや着崩しやお茶目な部分をおのれの体へ添わせることが服に申し訳なく悲しくなってきた。だがストールくらいいいいだろう。薄くてでかくて軽くてあたたかくて半額処分な一枚にした。大事に使おう。きっとあと7年くらいは。しかしね、気にしてないが「着ているものがどうにもやすく」みられがちなわたくし。実際やすいんだけど。いいんだけど。でも今年買ったアンゴラ混のあったかーいすてきなお気に入りの紅色の手袋。仕事場(すげー寒い。寒すぎ)にしていったら「お。今日の手袋、カラー軍手? かわいいですねー」と言われたりするのはやや、ややですが、悲しいものではある。まあ滅多に言われない「かわいい」がたぶんその台詞のメインなんだろうから喜ぶべきかよ。まあね、大笑いからはじまる朝って、いいね。というか巻きものといったらやはり巻き寿司ですよね。節分の『恵方巻き』は自分の辞書には認められない習慣であるためしたことがないが、巻きずしはとても好き。過日買った料理家のコウケンテツさん(すてきー)の料理本「弁当」(講談社)写真がよくて買ったのだけれど、もちろん料理もすてき。どの頁の弁当もすてき。その本の一番初めの弁当が「韓国風海苔巻き弁当」つまり「キムパップ」(キンパ)である。日本でいえば「太巻き」なんだが韓国のキムパップはご飯が寿司めしではなくて普通のご飯だったりごま油を入れてあったりそして巻く具が多彩で面白くて、それはきっとその家々の「母ちゃんの味」なんだと思う。それを食べて育ったひとたちのそれぞれの母ちゃんの。キムパップ、大好き~。韓国ではそこらじゅうで売られていてことに観光地などでは女性たちが道路わきでそれを売っていたりするのだけれどもどれもおいしそう。だけどそれが夏の直射日光の下でサンサンダクダクと汗をかいていたり、不思議な貝の煮たのんが(それも大量)どかすか入っているバケツやへんな虫みたいなのの佃煮(杓子でどばっと掬ってくれる)にならんで売られているとちょっと出しかけた手を引っ込めてしまうのだけれど。自分でもときどき作りたくなる巻きもの。たいていうまくいかずに変な形になってしまうけれどね。ぎゅうぎゅうと巻簾で海苔とご飯を締めつける無心が好きだ。出来上がりを確認したときの落胆も含めて。笑そうかもうすぐ節分なのか? いや、まだまだ。まだまだ寒さは続くのだ。あるこうあるこうわたしはげんき。
2011年01月23日
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朝から餅をつき(餅つき機が)朝は雑煮。昨夜がおでんであったのでその残り汁に白だし、さらにキノコ類(大好き)をわんさか加え整えて(いや所詮残りもの。きっと整ってはいない。)餅を入れ。そして食後のデザートがお汁粉である。もー餅いらねぇ。★このところ寒いが、重宝しているものがある。正月に着物を着るとき使おうと思って買った「下着シャツ」。これがまたよいのである。あれ? 今日はあんまり寒くないね。などと思うような日はそのシャツを着ている日である。こりゃいいわー。買うときは店のおねえさんに相談し、着物の首後ろをどれほど襟下げても(いやそれほど下げませんが)覗かないような刳りの深いもの。を探してもらったのだが、おねえさんが各種の中から検討し薦めてくれたのがそれで、それは「着るストッキング」とかいうキャッチコピーの品物であった。え。私。ストッキングというものがイイトシして大嫌いなんですがだいじょうぶですか?と、イイトシして尋ね、おねえさんに「今はハイテク素材ですから」「『昔』とは違いますよ~」としっかり言われ購入したものであった。さすがハイテク。(そしてプロの店員おねえさん。深謝)。あったかいわー。薄いしごわごわしないし、静電気も意外に大丈夫。着物の時は重宝したけれども、そうでないときもこれは使えるわ~。メーカーはトリンプ。買い足そう。とか言っているうちに春になっちゃうかなあ~。(まだまだ)★この冬はバーゲンで結構冬物を幾点か買った。自分としては珍しいが、それでもバーゲンでというところが自分らしい。それにしても自分にはまったくファッションセンスというものが感じられない。中年にもなるといろいろとそうそうカジュアルなものばかり着てもいられないのだが、そう思って自身では「これすてき。これならよかろう」と思い切って買う品も、揃えてみたり自分が着てみたりすると一気に垢ぬけないもっさりした下品なものになる。そしてかなしく思うのだ「おかしい。私にはもっと『センス』というものがあるはずだ」と。「『審美眼』というものがあるはずだ」と。しかしそれはもしあったとしても自己プロデュースということについてはまるで発動しない才能なのであった。なによりそれを受け止めるモデルとしての決定的な何かが自分にはないのだった。脳内映像と現実の落差を、いつかテレビで見た「鬼も正気を失いそうな断崖」のように感じる。まあ大げさである。笑多少の鬱憤がたまりがちなこの冬。それを間違っても間違った買い物などで解消してはいけないと思う。心していけ。★ということで今日はのんびりとした休日。もはやがつがつとINPUTすることよりは、OUTPUTする側に私は回らなくてはならないだろう。
2011年01月22日
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帰宅途中に魚屋に寄る。いつものおいちゃんの前に並んでいる魚でひときわ輝き目についたのが「しこいわし」であった。おいちゃん手書きのPOPで「とれたて。江の島。とれたて!」と獲れたてが二回も書かれている。網目のトレーに並んだそれは蒼黒くぴかぴかで、しこいわしと言うには太いくらいで40尾くらい乗っかっていて250円である。買う。それといっしょにごまさばのうんんまそうな絶対〆サバになりそうなのを、アニサキス(生サバの体内にいる寄生虫。人の胃に入るとものすごく痛い)を呑んだ経験からまだ体がその記憶を失っておらず、好き嫌いのないことだけが自慢のわたくし好物の〆サバを未だ食べられずにいるのである。敢えて泣く泣く煮付け用に捌いてもらっている間、背中を向けて捌きを入れているおっちゃんと海と魚の話をしていると他のお客がわらわらと寄ってきてやはり「しこいわし」に目を奪われている。よくそういうことがあるのだが、そういうときわたくしはまるで「サクラ」である。そうしてなんだか買いものおばちゃんたちがそこで「鰯話」。鰯の調理法で以前テレビかなにかで紹介されたらしいのだが荷物送付用のバンドみたいなのを輪にして身を削ぐというやりかたがあるらしい。エアバンドでひとりのおばちゃんが実演してくれるがよくわからぬ。しらないおばちゃん同士で束の間の井戸端会議みたいなのはほんと楽しいねぇ。昭和みたいだ。もちろんみんな鰯を買っていく。そしてすぐに鰯は売り切れた。
2011年01月20日
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これは別府のあたりからやってきた「かるかん」である。抹茶味。山芋の香りがする。すてき。★先日友人と電話で話していてその友人の将来の夢を聞き、そして自分の夢はなんだったなあと考えた。考える時点でもうそれは過去形になっているのだと思った。私の夢。ほんとうに、なんだったかなあ・・・。夢。きっとひとつは「陽気な母ちゃん」になることであった。しかしまあ子どもを産んだし育てているから現実として「母ちゃん」にはなれたが陽気な母ちゃんかどうか。どちらかというと陰気な母ちゃんかもよ。いや陰気ってほどでもないと思いたい。陽気か陰気かわからない母ちゃんになれた。子どもを持てたことはわが人生の収穫だが涙もろいのがさらに涙もろくなったことであった。現実的に今の夢というか目標は「茶室」と「アトリエ」と「蔵」のある家を持つ、そこに住む。ということであるが、うーん。ちっとも現実的じゃないさ。どうも無理な感じ。ならばここはおおまけして欲張らずに「茶室」と「アトリエ」のある家。でいいや。蔵はあきらめる。にしても現実的じゃない? じゃあさ。「茶室」はあきらめて「アトリエ」のある家。でいいや。仕方ない。茶はテーブルでも点てられるし。さあさあ、うんうん。アトリエのある家。すてきね。キャアキャアうーん。・・・・賃貸でもいいか。あああ夢がしぼむ・・・・。★さて、変な時間に昼寝(夜寝)して眠気を失っていたがそろそろ寝るとしよう。明日があるしね。まあだいたいぜんぜん眠くなくても横になれば眠れるのだ。便利である。その幸福を実践するとしよう。せめてゴージャスな夢を見たいが、ゴージャスって、なんだったっけ?
2011年01月19日
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夕焼けがきれいだったねぇ。しみじみ。大分の知人から大分銘菓が送られてきたのをおうおう言いながら食す。正確に言うと荷物が届いたのを開箱してみたら大分銘菓であったところのものを嬉々食す。(正確に記す意味があるのか。ある。)ざぼんの砂糖漬けとかカボスゼリーとか柑橘祭りである。しあわせー。それに「かるかん」や「いも飴」など。しあわせー。焼酎もほしかったかも。ずーずーしー。贈り物というのは難しいものであると思うが、シンプルにゆくしかない。自分がもらってうれしいものをお贈りする。そのくらいの思い込みと想像力しか、わたしたちは(わたしは)持ち合わせていないのである。そしてそのことは、難しいけれども、あんがいとてもシンプルなことかもしれない。わたしたちは(わたしは)他者にはなれない。★いろいろあるけれど、とりあえず元気です。いや「いろいろ」なんて、ないか。「いろ」くらいか。(なにそれ)しかもそれ(「いろ」)は修辞的にいってみただけでしかも「」までつけて言ってみただけでまるでまさかそれは「色気」のようなものとはぜんぜん関係のない分野である。うあ、重ねるほどに乾燥してゆくこのようなこれはまるでお婆の化粧の様である。剥がれてしまえ。★ということで、今日の日記のまとめとしては、夕焼けが綺麗だったねぇ。し・み・じ・み!(なにか表記は、しみじみとしていません)明日も頑張ろう、テキトーに。
2011年01月19日
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帰宅間際に仕事で小トラブル。知らないふりして帰宅することもできたがそれをしなかったのは自分。その対応のせいで着物の着付けの稽古に大幅に遅れてしまいそうでその旨を開始時間の15分前に稽古場に連絡する。「仕事で」と言えば「では仕方ないですね」と言って許してもらえるのがわかっていてそうする自分。それも師匠に直接申すのではなく自分が親しい弟子のひとりに言づけする自分。仕事が終わったら(30分くらいの遅刻になってしまいます)顔をだしますが今日はお稽古自体は休みます。待たずに始めてください。などと嫌になるほど中途半端な言葉を吐く自分。正直もう体が疲れていて着物を着るのがいやだったのである。とことん嫌になっていたのである。今すぐ寝転びたいほどすべてが厭になっていたのである。仕事だって稽古だってどっちも心底うんざりだったのである。帰りたかった。ならば帰るべきだった。しかし仕事の対応は方策に慣れていてさほど大変ではないことが予想されるものだったしそして着付けの師匠には運悪く頼まれものをしていたので稽古現場には伺うことがのぞましかったのだった。が、じつのところその頼まれごとだって「どうしても無理です」と言えば言えるほどの用件。それを言わない自分。「着物は着ないが顔を出す」そんなかたちで現場を押し切る(押しきり損ねたのかもしれない)自分。そうだ。計算したのだ。愚かな頭で。「仕事をここで少し受けていい顔をしておきたい」「そして趣味のほうでは顔を出してとりあえず要件をこなしておく」「そのほうが」「双方に納得してもらえる」「つまり」「次の自分のためにはほんの少しだけ有利だ」とふんだのだ。つくづくいやになる。あぁぁぁぁ~翼の折れたエンジェル~。意味不明だれも翔べないエ~ンジェ~ル。懐メロだよまあいいか。25分くらいの遅刻で稽古に顔を出し深謝して用件を済ませ、師匠に了承をいただいてから他の弟子さんへの稽古を見学させてもらう。もしかしたらわたしは当事者でいてはいけない人間ではないだろうか。傍観のおすそ分けを享受できるのならそれでじゅうぶんじゃないか。どこを覗いたって泥の万華鏡。こんなキャパの狭い自分が欲張っていいことあるのかなし崩しじゃないのか。などとばうっと見学しながら考えている。いや、そんな殊勝な人間じゃないです。翼なんか初めからどうせないんだし、くじけながらいじけながら寝込みながら騙しながら卑屈に笑いながら欲張るだけです。
2011年01月18日
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今日はもつ鍋でした。うまー。あつあつでうまー。ほっほっほっひっひっっひびー。少し口唇を火傷するくらいがよろしい。★習慣のように書店に行き、参ってみれば今日は新書の気分。目についたものを数冊買うことにする。そう言えば最近新書を読んでいなかった。しかしいつのまにこれほど新書がわんさか出ていたろうか。学生の時たしか社会学の先生に「大学生なら最低でも一日新書一冊は読みなさい」と命令系でいやあるいは「当然読んでるわよね?」(←女性の教授であった)的な言い方で眺められたことがあったがそのことが懐かしい。当然一日一冊新書を読むなどできなかった。(新書以外のものは読んでいたけれど)新書は当時の私にはごく敷居の高い、「難しい書籍」であったのだ。揃って薄く背の高い背表紙見たってそそるものが何もない。そんなものおもしろくないから読めないじゃん。バイトに行く暇と理由はあっても、図書館に行く暇と理由はなかったも同然。書籍は生協の割引が少しあったけれど(なにより学校にあんまり行ってない。涙)汗して働き得た金をそうそう本なんかに使いたくはない。読みたい本は書店で立ち読み(←おかげで速読魔王になれた)ラッキー古いものなら古書店を回って買った。(馴染みになったのちは不要なのをよく貰った)ウリモノニナンナイヤツ カキコミトカアルヤツそんな学生だったよなぁ。などというたわけた懐古はまあ置いておいて、とりあえず大人になって書籍はあまり斟酌せず(洋服とかはすごく買うのを迷うのに)購入できるようになったことはなによりの贅沢な幸福であると思う。ということで、これから読む新書。(記憶力が乏しいというか枯渇というか初めからないというかで以前買ってまた買ったのがある泣)(セレクトが限定輪廻しているのである) モットヒカリヲ! モットヒロイシヤヲ! ソノマエニキオクリョクヲ! 極端も困るがどのくらいもつかなMY新書ブーム。きっととっても短い気がする。◎ ドキュメント高校中退 青砥恭 ちくま新書◎ あなたの苦手な彼女について 橋本治 ちくま新書◎ ドキュメント屠場 鎌田慧 岩波新書◎ はじめての宗教論 左巻 佐藤優 NHK出版新書◎ はじめての「超ひも理論」 川井光 講談社現代新書◎ 後手という生き方 瀬川晶司 角川新書◎ 発達障害の子どもたち 杉山登志郎 講談社現代新書◎ サブリミナル・マインド 下條信輔 中公新書◎ 日本社会の歴史 上中下 網野善彦 岩波新書◎ 下流喰い 須田慎一郎 ちくま新書◎ 「弱者」とはだれか 小浜逸郎 PHP新書◎ カラー版マチュピチュ 天空の聖殿 高野潤 中公新書 (トイレ本←トイレにも本棚がある)ステキナナガッ尻! ◎ 日本教徒 イザヤ・ペンダサン 角川新書新書じゃないけれどこれも。◎ 藝術闘争論 村上隆 幻冬舎ああ恥ずかしい、本なんか読んでどうなるっていうんだろう。(いいじゃんべつに)老眼が進む、ってとこだろう。(読まなくても進む)
2011年01月16日
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心騒ぐような日は、かさこそと茶など点て申し鎮まりておりましょう。★休日の新聞に、新しく家元になられた武者小路千家の千宗屋氏の特集が組まれていた。35歳の家元の、たとえばインタビュアーの「直心の交わり」はお茶でないと表現できないのですか」というような質問へ答える言葉がいちいち面白い。というか面白くない。(どっちですか)「正式な茶事では、4~5人が4時間、一種の疑似家族になります」「茶室の狭い空間の中で膝を突き合わせ」「身体的自由をある程度抑制されつつ同じ型をなぞるのは、」「『他者と一緒になりたい』という人間が持つ願望を束の間成就させる装置なんです」束の間の成就、装置。ということをはっきりと自覚し言葉に出す家元が面白いと思った。『他者と一緒になりたい』という願望というのは人に本当にあるのだろうか。とも一瞬思うが、これは人無精の私ですらはっきり、「ある」のだと思う。そこがひとの強い部分であり弱い部分であると思う。そのあたりを「つかのまのそうち」で突き、高く召し上げるのは、リーダーの資質ではないだろうか。★昼寝をしていて夢を見た。夢の中でこれほど怒っている自分は珍しかった。国道の脇の道を、着物の裾を虐めながらがつがつ歩いていた。鼻緒が足指の股に食い込み、結髪の切れ端が顔に貼りつく。花見の帰りのようであった。花見の場所に呼び出され、一代の御洒落をして出かけてずいぶんと馬鹿にされ憤慨している自分であった。そのようなリアルは経験したことがない。だがいきり立って怒って歩いている夢の中の感情はまさしく私のものであった。
2011年01月15日
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夕飯はパングラタンにした。固くなったパンや冷凍されていたパンを用いてつくるメニュー。そのカタカタパンへ牛乳を注ぎすこし浸しておいたのを耐熱皿に敷き、あとはグラタンっぽい品々、たとえば今日なら蒸かし芋やブロッコリー、キノコ類などをのっけて、そこにゆるめに作るホワイトソースをかけチーズを盛って焼く。うまうまであつあつで美味しい。パンが妙な弾力でもちりとしていてそれも得難くすてき。★家に転がっていて慄いた表紙の『進撃の巨人』(講談社コミックス 諌山創)であったが読んでみると面白く一巻で終わりにできるはずがない私。格闘ものは嫌いだし筋肉(特に剥き出しになってるやつ)も嫌いでゾゾ毛立つ私は、だが『寄生獣』(岩明均)は(こわくてこわくて家には置けないが)大大好きな私だし漫画家で一番好きなのは諸星大二郎という趣向を持つ。いや、手塚治虫さまも好きですよ。なまはげの勢いで子どもに「二巻はあるのがぁ。続きはどうなんだぁぁ」と訊くと「で出てるけど~、買うかどうかわからないよ?」などと煮え切らぬことを申す。脳内で続きの映像が勝手に回ってゆき、それがなんとももどかしくて気持ちが悪く、はやくそれを止めたい。続きを知らねばならぬ。仕方がないので自分で買いに行く。三巻まで出ていた。うわー。こここれは。巨人は主人公の・・・・じゃなくて純粋にSHIPのほうがよかったなあ。しかしそうなると仕上がった状態が・・・・・じゃ絵にならんか。いやむしろこれからの筋書きだときっとこれは・・・・・の方向へ?うああああああ!って意味わからないように書いてみました。汗不満はあるけれど(何様)四巻が楽しみである。が、コミックスの表紙が怖くて(カラーだし肉だし骨だし)イヤーン滅多に掛けないけどこれに限っては、カバー掛けちゃおうっと。★今日仕事で独楽を回したが全然うまく回らず、そういえば小さいときに「羽子板」は好きだったが「独楽」はやったことなかったなあ。と思う。一方で仕事の相方は独楽が異常にうまくてそれを回しながら紐で掬いとったり掌に乗せたり、まるで江戸芸人の様である。ちいさい子たちとヤンヤ喝采しているとどんどん調子に乗ってどんどんうはうは回しているのですごいー。ぜひ頭にも乗せてくださいよー。とリクエストしたら「それはできません」と即座に断られてしまった。まあちょっと、相方の同僚は、頭が(特に髪が)すてきなんだけど。★いつのまにか新しい年のひとつきがこんなに過ぎ去っている。気を引き締めていこう。オー
2011年01月13日
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がんばるぞーい。ふみだすぞーい。
2011年01月11日
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七草粥もつくらなかったしいろいろな部分も疲れているだろうと朝食につくったのは白だしに素麺、白つくね、豆腐、白菜、餅。とりあえずの白いものを集めたひと碗。今名付けたが「しろわん」。微妙な食品である。だがじんわりとおいしい。と思った。昨日訃報があった。大学のゼミの後輩が亡くなったそうだ。それを知られてくれたYが彼にいつのもように賀状を書き、その返しが彼の御身内からのその知らせであったということだ。彼は独身で官舎に住んでいてひとりでなくなったようである。突然に。先の秋のことだ。そのことを知らせる彼の友人関係についてをその御身内は皆目知らず知らせがこれほど遅くなって申し訳ありませんという言葉がその知らせとともにあったということであった。出先でメールによりそのことを聞き、泣きながら帰宅して我慢できずにYに電話をする。それも昨年携帯電話を壊したときにYの携帯番号を失ってしまったので家の電話に、ありえない夜遅くに電話をする。Yの声を聞くのも久しぶりだった。Yは辛抱強く電話に付き合ってくれて、皆の近況を伝えてくれたり一番最近に会ったときの彼の様子などを話してくれたりする。いつかは死ぬよねえ。うん。しぬよねえ。そしてまだ実現しない同期との欧州旅の話をする。いつかっていつかいつかいっていてもこないよねえ。だから再来年にしよう。そう決めよう。とふたりだけで脳内へ、知らない国の地図を描く。
2011年01月09日
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都会から雀が減っているらしいが田舎のここでも減っている。であるから小さいときに雀の丸焼きなどを食べていた私としてはそれがその当時は害鳥を減らし違う意味で活かすための最適な方法だと信じていたにしろ、少しはその肉の恩返しなどというようなつもりもあってかうちの領域で彼らが繁殖行動をするのをすいぶん容認、というかむしろ好ましく思っていた。しかしそれが何年も続くと初代から一体何羽がうちから育っていったか知らぬが昨今はなんだが彼ら図々しく家の窓のごく近くまで平気の平左でやって来、それはいいのだが軒先の竿に干してある人間の干しものに平気で糞をする。今日なんかお気に入りのパンツにしをじをと白灰糞の曳航ができているではないか。ぐっををを。巣をつくることも繁殖行為も餌漁りも朝のうるせぇ囀りもゆるしたが、洗濯物にウンチを許した覚えは無ぇ!と思うが、これもまた仕方なかろう。雀の脱糞痕を紙で拭いて履いて行く私であった。雀め!
2011年01月08日
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初売りでいそいそと購入した上着を今日早速いそいそと着ていった。(新しいものを着るのは私とてなんだか嬉しいのである)すると約1名に言われたことには「お、なんだか今日は『モグラ男』だね!」ということである。どういうこと? モグラはともかく、どうして「男」なのか。(そこですか)たしかにそれは昏闇色で、どこか寒々しく安光りながら貧弱な毛もどきをじみじみと保つものであるのだが。いや洋服のせいというよりは自身のもそもそした動作や丸太い背中がそう見えさすのにちがいない。しかし周囲の皆さまは私には何を言ってもだいじょうぶ。モグラは傷つかない。とても思っているのだろうか。そのとおりである。いい。モグラ、好きだし。雨上がりに溺れて地上に遺されたまだ小さい彼らをよく知っている。あのちいさくまるまった存在の無音よ。★少し前の日記に「コンビニで一リットルサイズの紙パック牛乳を買ったらストローをつけるかどうか尋ねられた件」を書いたが、今日はそのときとは違うコンビニエンスストアで(ミニストップで)同じく一リットルサイズの紙パックの牛乳を買い家に戻ったら袋の中にストローがはいっており、それはきっとそのサイズ用に作られた一リットルサイズのための長い長いストローなのであった。すごいな。そういう時代なのか風潮なのか。茫然とする。いや、やはりそれを用いて牛乳は飲まないと思うけれど、冷凍用の袋を使って食品を冷凍するとき、「大」の袋を使うときはこの長いストローは冷凍前に袋の奥のほうまで空気を吸い抜くのに使えるかもなあ。などと考えてそれを大事に仕舞う。★さてこれからひとりで晩酌。正月が終わっていく。
2011年01月06日
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買いものも人ごみも嫌いで苦手なのに買いものに行ってしまった。しかし昨今の初売り人ラッシュはもはや三が日とともに過ぎ去っているらしく街はさほど混んではいない。買いものは一人である。だれもつきあってはくれない。(←いじけっぽいですよ)そのぶんきままである。自分の気分と足と懐だけをたよりに好きな街を好きなだけ歩く幸福。ふらりと入ったセールの店でアウター(上着)を買う。店頭にぶら下がっていて気に入ったのがその一枚Mサイズしかなく他の色やサイズはぜんぶ売り切れたということであったのでそれを羽織ってみる。お。着れるではないか。嘘! キャホー! ココデヨロコブ゙Lサイズノオンナ・・・店員さんも「Mサイズで大丈夫じゃないですかすっきりしてみえますよー」などとおべんちゃらちゃら申すので逆になにか「ほんとはLサイズがあったらよかったんですが」などといいながら妙にうれしくてついついそれを買ってしまったのである。アーアそのほかいつもの店でウールジャージのブラウスを一枚。ハンガク♪それから着物の店に行き薄茶の千鳥格子のかわいい帯板を一枚。深緑とベージュの市松の帯締めを一本。ともにセールで1000円。ウシシブーツも欲しかったのであるが二足履いてとても迷ってしまいしかもそれがぜんぜんちがう風味の二足なのである。店員さんには「ぜんぜん違う二足で」「お勧めするのも迷います~」「でもどちらもずっと履ける二足ですし」「両方売れ筋ですし」「ここは」「二足とも買いましょう♪」なんて言われてさらに迷い、困ってしまい、しかし二足買うとオオキクヨサンオーバーなので今日は保留。次回また来ることがあってもしどちらかが残っていたらそれは私の足のためにそうあったのだと勝手にMY物語を紡いでそれを買おうと思うよ。買いもの嫌いであるが(ことに衣類)それでもまったく買わないわけにはいかない。それはもはや少し強迫行為のように。もともと私は小さいときから自分を装うことについてひじょうに関心がうすく、季節の衣替えすら面倒で四季を通じて着られる機能的な服を重ね脱いで着まわしていればそれでいい人間である。それはきっと母から「あなたはスタイルがいいんだから」「安ものを着ていても全然みすぼらしく見えない」「すてきよ~」などと言われ育てられてきたからだと思う。母の愛と言葉を信じそれでいいと思いそう思い込み疑わず、まあ実際背も高いし結構スタイルがよく稀なるモデル体型であるので私はそれでやってきたが、なぜか学生時代の友人からは「今だから言うけど」「昔は本当にひどかった」「毎日同じ服」「だれかあいつに洋服を買ってやれ」「でなければ着古しでいいから恵んでやれ」「ってほとんど伝説」などと失礼なことを言われるありさまである。いいけど。同窓会のたび笑いのネタだけど。ぜんぜんスタイルなんか良くなかったのである。若いときに施し寸前までひどかったのなら今同じことをしたらどうなっちゃうわけ? であろうかよ。母の作戦は効力を失ってしまった。母はやさしい嘘つきであった。(ありがとう母ちゃん)(私の苦手なことは微塵も伸ばさず、好きなことを伸び伸びとさせてくれたね)そんな人間。自覚したからといって急にお洒落になれるわけはないが、大人になると少なくとも周囲や家族やその場の人間たちを不快にさせたりその人たちの立場を悪くさせたり恥ずかしい思いをさせたりまさしく「場違い」になってはいけないとようやく気づき(遅いよ)最低限の配慮をするようになってきたのである。成長したなあ・・・。コレガオトナノセリフデスカ中身が大事、なによりも大事。でも外見もやっぱり大事。ハイ今でも自分で洋服を選べばそれはおよそ黒、紺、鼠、そこにわずかに深緑、深青、紫、臙脂、ことごとくそのような色になってしまう。目立ちたくない。暮れていたい。きっと私はなるべく土の色あたりに溶け込んでいたいのだ。泥のような女である。さいしょからさいごまでこのまま泥でいけたらいいのだが。むろん今日買ったのも、昏灰と墨色である。もし私が烏賊か蛸で、いま天敵に襲われて思いきり墨を吐きまくったとしても顎などは汚れるだろうが服はそれと気づかれないかもしれない。いやはや、今日は何かといじけっぽいですかしら。写真は正月初詣着物の帯締め。(どこが地味なのかと!)
2011年01月04日
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ゆっくりしていたのかあわあわと落ち着かなかったのか自分でもわからない三が日が過ぎた。2011年。年の初めにやったこと。◎ 初詣に行った。息子に賽銭として100円玉を渡したら「リッチ~」と言われた。 ◎ 宝くじはみごと大当たりである。5枚買って末等300円すら当たらない完璧さ。きっと年賀状の記念切手も当たらないし きっと何か当たってしまったら怖がる自分であると思う。小心者ってこうね。 ◎ 故郷の田舎で搗いた(←父と機械が)餅を食べた。うまいなぁ。しみじみ。 ◎ 出かけた先でお笑いの人のお笑いライヴに出くわした。けっこう笑ったのにその場を立ち去る時もそのコンビがだれなのかわからなかった。同様に街中で獅子舞にも遭遇したが中身がだれなのかわからなかった。(←あたりまえ)◎ 年賀状を受け取った。こちらは昨今の賀状の、あて名も本文も印刷で一文字の個人メッセージもなしというようないろけなさけの薄い一葉でもその人の無事がわかってうれしいのだが、もしかしたら私のほうはその方たちに「ち。いつまでこいつ」的な面倒な気持ちを持たれているかもしれないなあとも思う。本当に厭なら「こっちは出さないよ」というアクションでこの馬鹿にそのことを教えてほしい。いただくものに混じって幾枚か「あて名不明」で戻ってくる私の賀状がある。転居先も知らせてもらえぬ人に賀状を出す自分はすこし「違っている」のかもしれない。ほんに、このやりとりの面倒くささは人の大切な時間を無駄に奪うものだ。しかし古退色な自分はそのような煩雑さこそが人とのつながりの学びと蓄積であるような気がしてもいる。そのくらいの手間は「自分のために差し出す賀状のようなもの」には必要な時間である。自分勝手な片思いの時間のようなものである。しばらく音信不通だった中学時代の友人から年賀が来る。「久しぶりにどうかと思って」「元気ですか」とのこと。うれしかった。彼女とは多感なころに互いの闇の泥みたいなところを掬いあい澱を吐き出し互いに汚れながら浮上していったような仲であった。その浚渫が長ずるとすこしつらくなって逆に疎遠になったりもした。今年は会えるのかもしれない。 ◎ あたらしくつくった長襦袢のしつけ糸を外した。今年は「けちょんけちょん」で「ずぶずぶ沼」「でろでろ地獄」な私の着物着付道にも少しは日射しが差し込んでほしい。そんな願いを込めて。◎ あたらしいパンツを履いた。故郷の家では新年のお年賀が新しいシャツとパンツであった。下着のほうである。寒い地方だったので機能優先で、ぜんぜんかわいいとかすてきとかそういうの無縁だった。子どもでありながら婆シャツに婆パンツ。(むろん当時はそんな無碍な言葉はなかった)(白ラクダシャツに白ラクダパンツ)でも今になってみるとちょっとだけ、そんなことにも、愛を感じる。きっと三つ子の魂は100まで続くのだ。おそろしや。そんなこんなの新年である。今年もよろ足お願い申し上げます。いきなり間違えてる。今年もよろしくお願いいたします。
2011年01月04日
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今年の田作りはすこし炒りすぎてしまったかと思うがおいしい。黒豆はふっくらつやつやといかず、例年と同じに作ったのになぜかややシワ豆である。食材の状況と現実の手順をリンクさせるのがうまくない。豆とも魚ともきちんと会話できるように(←心の中だけで)まだまだ経験値を上げていかなくてはならない。そして話を田作りに戻すが、なぜこのイワシの小さいのが「田作り」なのであろうかと、そのことについて今まで一片の疑問を持たずに過ごしてきた自分が不思議なくらいなぜこの小さい魚が「田作り」なのか食べながら急にわからない。それを食卓で「そういえばどうしてこれは田・・・・」と何気なくこぼすと、すると父が言うことには「そんなことも知らないのか」「田んぼを作るからに決まってるだろう」・・・いやその田圃を作る?ってことがわかんないんですけどさ。父が加えて言うことには「昔はこれが田圃の肥料になったんだ」「ざくざくと投げ込む」「それが田の肥料になる」え?・・・・投げ込む?・・・・肥料?そうだったのか。さらに言うことには「これだけじゃなくて身欠きニシンも投げたぞ」「腹がすくと投げながらそン中から大きいの選んで」「齧りながら投げたもんだ」 そうだったのか。私は、この魚たちが海から曳き揚げられ土に投げ入れられていたことを知らない。魚たちが作っていた土のことを知らない。そこへ根をはった稲とその実の米のことを知らない。父たち土百姓が古くはそれをおのれの田へ投げていたことを知らない。働いて空腹の自らの腹へ砕き投下していたことも知らない。そしてそれへの感謝から豊饒を願い正月料理として食み讃えてきたことも知らない。なんとなく習慣で食べていた米。そして田作り。箸で焦げ気味の小さな一尾をつまみながら少しだけ茫然とし、それから忘れていたようにそれを噛みしめる。世の中は知らないことでできている。新年からつくづく思ったことだった。
2011年01月01日
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晴れている。いいとしにするぞー。と心に誓う。エイエイオー
2011年01月01日
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