以下、主として『赤穂事件』(茅原照雄 東方出版)に拠りつつ、考察してみたい。
播州赤穂五万三千五百石の城主浅野内匠頭が、高家筆頭の吉良上野介に切りつけたのは元禄十四年(1701年)三月十四日の事である。このような事件は内匠頭以前にも例があり、いずれも成功している。それは、相手に充分に接近し、刀の長さもやや長めのものを用意して突いているからで、小刀を振りかぶった内匠頭が失敗したのは当然といえる。三田村鳶魚という江戸考証家などは、「武士としての嗜みが無い」と批判しているくらいである。
さて、刃傷の第一報を聞いた将軍綱吉は激怒し、田村右京太夫へ預け、即日切腹、城地没収を下命している。
そのために評定所へ召しだされて動機などを取り調べられることもなく、刃傷からわずか六時間で切腹という事態となってしまったため、事件の真相と動機は不明のままとなってしまった。
このスピードの早さ、そして田村家の文書の中に記載が無いことから、内匠頭が詠んだ辞世の歌「風さそふ花よりもなおわれはまた春の名残をいかにとかせむ」も、片岡源五衛門との庭先での別れも手記を残した多門伝八郎の捏造では無いかとされていることは最近の新聞報道でも知られているところである。
事件の真相、原因について内匠頭が明確に書き残していない、語っていないところから、「賄賂説」をはじめとする様々な推測が現れ、小説家に活躍の場を与えることとなった。
この事件は即刻国元の赤穂に伝えられ(620kmを四昼夜半で駆け抜けている。時速6kmの早籠)、藩士たちは「お家断絶」という事態に直面する。城明け渡し、篭城して戦う、とまず二つに分かれた意見は結果として城明け渡しとなり、吉良の生存が確認された後は、吉良への復讐か、お家再興かという選択へと変化していく。お家再興派の中心は家老の大石内蔵助、早期復讐派の中心は堀部安兵衛であった。
最終的に、内匠頭の弟の大学が知行の三千石は没収され芸州の浅野本家にお預け、という事になり、内蔵助が念願してきた浅野家再興の願いは水泡に帰してしまう。元禄十五年七月十八日のことである。
その十日後の七月二十八日、京都丸山において内蔵助をはじめとする十九人(堀部安兵衛も参加)が集まり、討ち入りが決定されている。路線の対立、分裂、脱落者が相次ぐ中で、方向性が明確になったといえよう。もっとも、お家再興という再就職につながる可能性に対して一縷の望みをつないでいたものにとっては、その可能性が消えたことによって脱落していくものがこれ以後も多数出てくる。
内蔵助の放蕩三昧を、「敵の目を欺くもの」という説があるが、内蔵助自身決して品行方正と言った人物ではなかったらしく、その素行について内匠頭からしばしば注意を受けている。
『忠臣蔵』(松島栄一 岩波新書)の、「現実に対する大石の、いてもたってもいられない、不安・焦燥・期待・動揺の、いりまじった心では、酒や女を求めずにはおれなかったのであろう」(p85)という説が正しいと見たほうがいいかもしれない。
内蔵助は、妻子を離別して但馬豊岡の石束家(現在、家の前に石碑が立っている)に帰し、主税(十二月に元服して十五歳となる)のみを伴って十一月五日に江戸に入っている。変名は垣見五郎兵衛。
これに先立つ十月二十五日に内蔵助は、討ち入りに関する最初の指令を出している。当日の服装、武器のこと、抜け駆けを行わずに全員で討ち入ること、雑談などによって計画が相手に漏れないようにすることなどがそうであるが、帯の結び方、下帯(ふんどし)の締め方まで細かく指示しているところが面白い。
その後、上野介が確実に在宅している日の探索、家の絵図面の入手と最新情報による修正などに全力を挙げることとなる。
十二月二日に内蔵助は全員を集めて最終の指示を出している。
討ち入りの日が決定したら、三箇所に集合する。討ち入りは寅の刻(午前四時)。討ち入り口上書は文箱に入れて竹に挟んでその場所に立てておくこと。合言葉は『山』と『川』、黒衣を着て両袖のみ白くする。
上野介の首を挙げたら衣類に包んで、検分の使者が来た場合は許可を得て泉岳寺のご主君の墓前に供える。首を挙げることができたら笛で合図し、引き上げるときは鉦で合図する。引き上げる場合は裏門から出ることとする。引き上げ場所は回向院(立ち入れない場合は両国橋の橋詰)。吉良邸より討手が来たら踏みとどまって勝負をすること。
吉良邸の茶会情報は二転三転する。当初は十二月六日に茶会があり、五日の夜は上野介は邸内にいるはずであるとして、五日の夜(六日の午前四時)に討ち入ることを決定している。ところが五日に将軍綱吉が柳沢吉保の屋敷へお成りになるために六日の茶会が延期になったという情報が入り、討ち入りは延期となる。
その後、大高源五が茶人の宗偏の情報として十四日に吉良邸で茶会が行われる予定という情報を掴み、十四日に宗偏の駕篭が吉良邸内に入るところを確かめて、十四日の深夜(十五日の午前四時)討ち入りが最終的に決定された。
※宗偏の偏は本当は行ニンベンです。
討ち入り衣装は火消し役人のような格好をして袖に白い布を縫い付けていたようだが、統一されていたわけではない。ただ、全員が鎖帷子を着用し、小手さしやすねあてをつけていた。そのために、吉良邸の警護に当たっていて運良く助かったものの証言に寄れば、「突いても斬っても斬れ申さず候」ということとなった。
完全武装の者たちと、寝込みを襲われて武装する暇もなく寝巻き一枚で戦った者たちとの激闘は約二時間で終了し、吉良側の死者十七名、負傷者二十二名、赤穂側は死者はゼロ、軽傷者数名という結果となった。
当日、討ち入った者の中で上野介を見知ったものが誰もいなかったために、炭小屋の中で殺害した老人の背中に傷があること(内匠頭に切られた傷)を確認し、さらに門番の足軽に首を見せて確認させている。
吉良邸が襲撃されたという第一報は、吉良家出入りの豆腐屋によって上杉家にもたらされた。
上野介の実子であり、上杉十五万石の当主であった綱憲は病臥中ではあったが直ちに起き上がり、浪士らを追撃して討ちもらすなと厳命したが、家老の色部又四郎に、「吉良殿がご尊父であっても上杉十五万石と浅野の浪人とを引き換えになさるおつもりか」と諫止された。また討ち入ったのが百五十人ほどではなかったかという情報があったので、人を集めているうちに(当時、上杉家上屋敷にいたのはたかだか四十名)いざ出発という段になって幕府からの使者が来て、「浪士の処分は幕府が行うから上杉家は追手の兵を出すな」と申し伝えたために上杉家としては手も足も出ないようになってしまう。
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