『話の後始末』(立川志の輔・天野祐吉 マドラ出版)という本を読みました。
志の輔さんの落語(勿論活字)と、お二人の対談で構成されている本です。
名作『バールのようなもの』を読むことができ、初めてこの噺を聞いたときのおかしさが甦ってきました。
対談の中から印象に残ったものをメモしておきます。
○天野 気分が堅くなってる人のことを堅気って言うんですって。人間は「気」を持っているでしょう。その気は、融通無碍、本来は自在なものなんだけれど、共同生活をしていくうちに、いろんな規制やルールがあるから、だんだん窮屈になってきますよね。で、肩が凝るように,気も凝ってしまう。気が固まる。そういう状態になっている人を堅気という。
志の輔 はあああ。
天野 で、志の輔さんのような芸人さんは、言ってみればマッサージ師でね。堅気の気を揉みほぐしてくれる。
志の輔 結局、自分に悩みがあっても「こいつが生きてるんだから大丈夫かな」と思うじゃないですか。そういう立場になれるということなんでしょうね。
○天野 どこかの町議会で、「そういう馬鹿なことをやってる馬鹿な町長がいるから困るんだ!」とかって言われて、町長がカーッときてね、「おれが馬鹿かどうか、医者に行って見てもらってくる」って退席しちゃったんだって。
「バールのようなもの」から。
「何でライオンて頭でかいんですかね」
「ライオンの頭がでかいのは、檻から出られないようにあんなに大きくなっているんだな」
「ふあー、なるほど、確かに出られませんわね。ということはなんですか。檻ができた後からライオンが生まれたんですか」
「当たり前じゃないか、檻もないうちからライオンが道を歩いててごらんよ。我々の先祖はみんな食われて誰もいないよ」
「キリンの首は何であんなに長いんですかね」
「考えてみりゃ分かるだろう。頭があんな高いところにあるんだからしょうがないじゃないか」
もう一つ、「井戸の茶碗」のまくら。
「歴史の時間だ。先生が聞いたら答えるように。いいかな。本能寺を焼いたのは誰だ?・・山田、答えてみなさい」
「僕じゃありません」
「大丈夫か?山田。先生は、本能寺を焼いたのは・・・」
「ですから、僕じゃありません!」
「もしもし、あ、お母さんでいらっしゃいますか、山田君の。担任の北沢でございます。授業の時間に、歴史でございますが、本能寺を焼いたのは誰だと聞きましたら、お宅のお子さんが僕じゃない、僕じゃないなんて言っちゃうんですがね」
「うちの子はしてないと思います」
「お父さん出して、お父さん!お父さんですか、お宅のお子さんが、本能寺をって言ったら」
「いくらなんです。弁償しましょう」
お後がよろしいようで。
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