私は昭和 24 年生まれなのだが、なぜか、「軍歌」を知っている。「水師営の歌」は、日露戦争の歌。「戦友」も日露か。「勝って来るぞと勇ましく―」、「あーあーあの顔であーのー声で」、とか。
考えて見れば、小さなときに周りの大人たちが歌っていたのを記憶してしまったらしい。小学校や中学校の音楽の時間にそれらしい歌は歌ったと思うけれど、何を習ったのか記憶にない。
紅白歌合戦では歌謡曲全盛のころで、春日八郎の「別れの一本杉」「お富さん」。三橋美智也の「古城」「わーらにまみれてよー育てた栗毛」とか。とにかくあのころは、子どもながらに、「上手いなぁー」と思うような歌手ばっかりだった。
さて、軍歌に還るのだけれど、「水師営の歌」なんて、敵将ステッセルに対する敬愛の心が素直に歌われている。
長谷川伸の『日本捕虜史』
(
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には、ロシア兵捕虜と日本兵士との交歓の場面がある。列車の中で、従軍記者が秘蔵の日本美人の写真を取り出すとロシア兵たちは大騒ぎで、写真はもみくちゃになりそうになる。ロシア兵の方から、ちょっと日本軍の大尉は席を外してほしいと要請があり、何かと思えば、ロシア美人のヌード写真。交換してくれとの申し出。「その裸体なるには少々閉口したけれど、まんざら悪い気もせずに交換した」。これが新聞に載っている。書く方も編集も読む方も全く問題にしていない。その
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年ほどのちには新聞も国民も「鬼畜米英」を叫び、捕虜を虐待するようになっている。この間、何が起こったのか
?
調べてみたいと思っている。
歌ってはいけないとされたのが「戦友」だと、教師になってから知った。歌詞の中に、「軍律厳しき中なれど、これが見捨てておかりょうか しっかりせよと抱き起こし仮包帯も弾の中」とある。「軍律厳しき中なれど」が引っかかったという。その後、兵隊たちは禁じられて後もこの歌を歌い続けたと知った。言い分が振るっている。「これより「戦友」の歌い納めを行う ! 」とやるんだそうだ。で、少し時がたつと、またまた「歌い納めを行う ! 」。黙認されたそうだ。
アジア・太平洋戦争の中で生まれた軍歌のなかで、兵の心に寄り添うような軍歌はあったのだろうか
?
「徐州、徐州と軍馬は進む」の「麦と兵隊」ぐらいだろうか。ただ、不勉強のために、前線で戦う兵たちにこの歌がよく歌われたかどうかは調べがついていない。やはり、「戦友」を越える事は出来なかったのだろうか。
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