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もっちん4476さんComments
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剣術は、実父小吉の本家で従兄弟の男谷清一郎の道場、後に清一郎の高弟島田虎之助の道場で習い、直心影流の免許皆伝となる。師匠の虎之助の薦めにより禅も学んだ。
蘭学は、江戸の蘭学者の箕作阮甫に弟子入りを願い出たが断わられたので、赤坂溜池の福岡藩屋敷内に住む永井青崖に弟子入りした。弘化3年(1846年)には住居も本所から赤坂田町に移る。この蘭学修行中に辞書「ドウーフ・ハルマ」を一年かけ、二部筆写した有名な話がある。一部は自分のために、一部は売って金を作るためであった。この時代に蘭学者佐久間象山の知遇を得た。象山の薦めもあり西洋兵学を修め、田町に私塾(蘭学と兵法学)を開いた。
嘉永6年(1853年)、ペリー艦隊が来航(いわゆる黒船来航)し開国を要求されると、老中首座の阿倍正弘は幕府の決断のみで鎖国を破ることに慎重になり、海防に関する意見書を幕臣はもとより、諸大名から町人にいたるまで広く募集した。これに勝も海防意見書を提出した。勝の意見書は阿倍正弘の目にとまることとなる。そして幕府海防掛だった大久保忠寛(一翁)の知遇を得たことから念願の役入りを果たし、勝は自ら人生の運をつかむことができた。
その後、長崎の海軍伝習所に入門した。伝習所ではオランダ語がよく出来たため教監も兼ね、伝習生と教官の連絡役も果たした。長崎に赴任してから数週間で聞き取りもできるようになったと本人が語っている。そのためか、引継ぎの役割から第一期から三期まで足掛け5年間を長崎で過す。
この時期に当時の薩摩藩主島津斉彬の知遇も得ており、後の海舟の行動に大きな影響を与えることとなる。

1860年渡米時にサンフランシスコにて撮影
万延元年(1860年)、咸臨丸で太平洋を横断してアメリカ・サンフランシスコへ渡航した。旅程は37日であった。この米国渡航の計画を起こしたのは岩瀬忠震ら、一橋派の幕臣である。しかし彼らは安政の大獄で引退を余儀なくされたため、木村摂津守が軍艦奉行並となり、勝は遣米使節の補充員として乗船した。
米海軍からは測量船フェニモア・クーパー号船長のジョン・ブルックス大尉が同乗した。通訳ジョン万次郎、木村の従者福澤諭吉も乗り込んだ。咸臨丸の航海を、勝も福澤も「日本人の手で成し遂げた壮挙」と自讃しているが、実際には日本人乗組員は船酔いのためにほとんど役に立たず、ブルックらがいなければ渡米できなかったという説がある。
福澤の「福翁自伝」には木村が「艦長」、勝は「指揮官」と書かれているが、実際にそのような役職はなく、木村は「軍艦奉行並」、勝は「教授方取り扱い」という立場であった。アメリカ側は木村をアドミラル(提督)、勝をキャプテン(艦長)と呼んでいた。アメリカから日本へ帰国する際は、勝ら日本人の手だけで帰国することができた。

帰国後、蕃書調所頭取・講武所砲術師範等を回っていたが、文久2年(1862年)の幕政改革で海軍に復帰し、軍艦操練所頭取を経て軍艦奉行に就任。神戸は、碇が砂に噛みやすく、水深が比較的深いので大きな船も入れる天然の良港であるから、神戸港を日本の中枢港湾(欧米との貿易拠点)にすべしとの提案を、大阪湾巡回を案内しつつ14代将軍徳川家茂にしている。
勝は神戸に海軍熟を作り、薩摩や土佐の荒くれ者や脱藩者が塾生となり出入りしたが、勝は官僚らしくない闊達さで彼らを受け容れた。さらに、神戸海軍操練所も設立している。
後に神戸は東洋最大の港湾へと発展していくが、それを見越していた勝は付近の住民に土地の買占めを勧めたりもしている。勝自身も土地を買っていたが、後に幕府に取り上げられてしまっている。
勝は「一大共有の海局」を掲げ、幕府の海軍ではない「日本の海軍」建設を目指すが、保守派から睨まれて軍艦奉行を罷免され、約2年の蟄居生活を送る。勝はこうした蟄居生活の際に多くの書物を読んだと言う。
勝が西郷隆盛と初めて会ったのはこの時期、元治元年(1864年)9月11日、大坂においてである。神戸港開港延期を西郷はしきりに心配し、それに対する策を勝が語ったという。西郷は勝を賞賛する書状を大久保利通宛に送っている。
