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10月15日、緊急入院しました。現在も入院中です。
2009.11.16
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鎌倉幕府の滅亡後、高氏は後醍醐天皇から勲功第一とされ、鎮守府将軍および従四位下左兵衛督に任ぜられ、また30箇所の所領を与えられた。さらに天皇の諱・尊治から御一字を賜り尊氏と改名した。尊氏は建武政権では政治の中枢からはなれており、足利家の執事職である高師直・高師泰兄弟などを送り込み、弟・足利直義を鎌倉将軍府執権とした。これには後醍醐天皇が尊氏を敬遠したとする見方と、尊氏自身が政権と距離を置いたとする見方とがある。また、征夷大将軍の宣下を受け、鎌倉に幕府を開く意図があったとする説もある。この状態は「新政に尊氏なし」と言われた。 後醍醐天皇が北畠顕家を鎮守大将軍に任じて幼い義良親王(後の後村上天皇)を奉じさせて奥州鎮定に向かわせると、尊氏は直義に幼い成良親王を奉じさせ鎌倉へ下向させている。後醍醐天皇の皇子であり同じく征夷大将軍職を望んでいた護良親王は尊氏と対立し、尊氏暗殺を試みるが尊氏側の警護が厳重で果たせなかった。建武元年(1334年)、尊氏、実子恒良親王を皇太子としたい後醍醐天皇の寵姫阿野廉子と結び、後醍醐天皇とも確執していた護良親王を捕縛し鎌倉の直義のもとに幽閉させる。 建武2年(1335年)に信濃国で、北条高時の遺児北条時行を擁立した北条氏残党の反乱である中先代の乱が起こり、時行軍は鎌倉を一時占拠する。その際、直義が独断で護良親王を殺した。尊氏は後醍醐天皇に征夷大将軍の官を望むが得られず、同年8月2日、勅状を得ないまま鎌倉へ進発し、後醍醐天皇はやむなく征東大将軍の号を与えた。尊氏は直義の兵と合流し相模川の戦いで時行を駆逐して、同月19日には鎌倉を回復した。尊氏は従二位に叙せられた。 直義の意向もあって尊氏はそのまま鎌倉に本拠を置き、独自に恩賞を与え始め京都からの上洛の命令を拒み、独自の武家政権創始の動きを見せ始めた。同年11月、尊氏は新田義貞を君側の奸であるとして後醍醐天皇にその討伐を上奏するが、後醍醐天皇は逆に義貞に尊良親王を奉じさせて尊氏討伐を命じ、東海道を鎌倉へ向かわせた。さらに奥州からは北畠顕家も南下を始めており、尊氏は赦免を求めて隠居を宣言するが、直義・高師直などの足利方が三河国など各地で敗れはじめると、尊氏は建武政権に叛旗を翻すことを決意する。同年12月、尊氏は新田軍を箱根・竹ノ下の戦いで破り、京都へ進軍を始めた。この間、尊氏は持明院統の光厳上皇へ連絡を取り、京都進軍の正統性を得る工作をしている。建武3年正月、尊氏は入京を果たし、後醍醐天皇は比叡山へ退いた。しかしほどなくて奥州から上洛した北畠顕家と楠木正成・新田義貞の攻勢に晒される。1月30日の戦いで敗れた尊氏は篠村八幡宮に撤退して京都奪還を図る。この時の尊氏は京都周辺に止まって反撃の機会を狙っていたことは、九州の大友近江次郎に出兵と上洛を要請した尊氏の花押入りの2月4日付軍勢催促状(「筑後大友文書」)から推測出きる。だが、2月11日に摂津豊島河原の戦いで新田軍に大敗を期したために戦略は崩壊する。そのため、尊氏は摂津兵庫から播磨室津に退き、播磨の有力者赤松円心の進言を容れて京都を放棄して九州に下った。 九州への西下途上、長門国赤間関(山口県下関市)で少弐頼尚に迎えられ、筑前国宗像大社宮司宗像氏範の支援を受ける。宗像大社参拝後の3月初旬、筑前多々良浜の戦いにおいて後醍醐天皇方の菊池武敏を破り勢力を立て直した尊氏は、京に上がる途中で光厳上皇の院宣を獲得し、西国の武士を急速に傘下に集めて再び東上した。同年4月25日の湊川の戦いで新田義貞・楠木正成の軍を破り、同年6月、京都を再び制圧した。 京へ入った尊氏は、比叡山に逃れていた後醍醐天皇の顔を立てる形での和議を申し入れた。和議に応じた後醍醐天皇は同年11月2日に光厳上皇の弟光明天皇に神器を譲り、その直後の11月7日、尊氏は建武式目十七条を定めて政権の基本方針を示し、新たな武家政権の成立を宣言した。一方、後醍醐天皇は同年12月に京都を脱出して吉野(奈良県吉野郡吉野町)へ逃れ、光明に譲った三種の神器は偽であり自らが帯同したものが真物と宣言して南朝を開いた。
2009.10.14
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尊氏像とされる「騎馬武者像」(高師直像説も) 足利尊氏は、鎌倉時代から南北朝時代の武将。室町幕府の初代征夷大将軍。本姓は源氏。家系は清和源氏の一家系、河内源氏の棟梁、鎮守府将軍八幡太郎義家の子、義国を祖とする足利氏の嫡流。足利将軍家の祖。足利貞氏の嫡男として生まれる。初め執権・北条高時から偏諱を受け高氏と名乗った。元弘3年に後醍醐天皇が伯耆船上山で挙兵した際、鎌倉幕府の有力御家人として幕府軍を率いて上洛したが、丹波篠村八幡宮で反幕府の兵を挙げ、六波羅探題を滅ぼした。幕府滅亡の勲功第一とされ、後醍醐天皇の諱・尊治(たかはる)の御一字を賜り、名を尊氏に改める。 後醍醐天皇専制の建武の新政が急速に支持を失っていく中、中先代の乱を奇貨として東下しこれを鎮圧した後鎌倉に留まり独自の政権を樹立する構えを見せた。これにより天皇との関係が悪化し、上洛して一時は天皇を比叡山へ追いやったが、後醍醐天皇勢力の反攻により一旦は九州へ落ち延びる。九州から再び上洛し、光厳上皇および光明天応から征夷大将軍に補任され新たな武家政権(室町幕府)を開いた。後醍醐天皇は吉野へ遷り南朝を創始した。 幕府を開いた後は弟・足利直義と二頭政治を布いたが、後に直義と対立し観応の擾乱へと発展する。直義の死により乱は終息したが、その後も南朝など反幕勢力の平定を継続し、統治の安定に努めた。後醍醐天皇が崩御した後はその菩提を弔うため天竜寺を建立している。北朝においても後光厳天皇の新千載和歌集は尊氏の執奏によるもので、以後の勅撰和歌集が二十一代集の最後の新続古今和歌集まで全てで足利将軍の執奏でによることとなった発端にあたる。 (後醍醐)天皇に叛旗を翻したことから明治以降は逆賊として位置づけられていたが、第二次大戦後は肯定的に再評価されているように、歴史観の変遷によってその人物像が大きく変化している。 尊氏は嘉元3年(1305年)に御家人足利貞氏の次男として生まれた。生誕地は綾部説(漢部とも。京都府綾部市上杉荘)、鎌倉説、足利荘説(栃木県足利市)の3説がある。「難太平記」は尊氏が出生して産湯につかった際、2羽の山鳩が飛んできて1羽は尊氏の肩にとまり1羽は柄杓にとまったという伝説を伝えている。幼名は又太郎。元応元年(1319年)10月10日、15歳のとき元服し従五位下治部大輔に補任されるとともに、幕府執権・北条高時の偏諱を賜り高氏と名乗った。父・貞氏とその正室・釈迦堂(北条顕時の娘)との間に長男・足利高義がいたが、早世したため高氏が家督を相続することとなった。「難太平記」によれば、尊氏の祖父・足利家時が三代のちに足利氏が天下を取る事を願って自刃したとされている。 元弘元年(1331年)、後醍醐天皇が二度目の倒幕を企図し、笠置で挙兵した(元弘の変)。鎌倉幕府は有力御家人である高氏に派兵を命じ、高氏は天皇の拠る笠置と楠木正成の拠る下赤坂城の攻撃に参加する。このとき、父・貞氏が没した直後であり高氏は派兵を辞退するが、幕府は妻子を人質として重ねて派兵を命じた。「太平記」は、これにより高氏が幕府に反感を持つようになったと記す。幕府軍の攻撃の結果、天皇をはじめとして倒幕計画に関わった日野俊基・円観などの公家や僧侶が多数、幕府に捕縛され、天皇は翌年隠岐島に流された(元弘の乱)。幕府は大覚寺統の後醍醐天皇に代えて持明院統の光厳天皇を擁立した。 元弘3年/正慶2年(1333年)後醍醐天皇は隠岐島を脱出して船上山に篭城した。高氏は再び幕命を受け、西国の倒幕勢力を鎮圧するために名越高家とともに上洛した。名越高家が赤松円心に討たれたことを機として、後醍醐天皇の綸旨を受けていた高氏は天皇方につくことを決意し、同年4月29日、所領の丹後篠村八幡宮(京都府亀岡市)で反幕府の兵を挙げた。諸国に多数の軍勢催促状を発し、近江の佐々木道誉などの御家人を従えて入京し、同年5月7日に六波羅探題を滅亡させた。同時期に上野国の御家人である新田義貞も挙兵しており、高氏嫡子で鎌倉から脱出した千寿王(後の義詮)を奉じて鎌倉へ進軍し、幕府を滅亡させた。この時。高氏の側室の子・竹若丸が混乱の最中に殺されている。 高氏は鎌倉陥落後に細川和氏・頼春・師氏の兄弟を派遣して義貞を上洛させ、鎌倉を足利方に掌握させている。
2009.10.13
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心温まる思いがけない贈物ジャム感謝青龍タケルの心は夢の中聖徳太子愛情けは人の為ならず合掌
2009.10.11
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唯我独尊とは、釈迦が誕生した時に言ったとされる言葉である。釈迦は麻耶夫人の右脇から生まれたとされるが、七歩歩いて右手で天を指し、左手で地をさして「天上天下唯我独尊」(てんじょうてんげ・ゆいがどくそん)と言った、という伝説から出てきたもので、しばしば釈迦を祟める言葉として使われる。しかし、「この世で最も尊いのは自分である。なぜなら、この世に自分(という存在)は一人だけである」という誤解や誇大解釈からか、多くの人が「傍若無人」「自己中心」と同じ意味と捉えられる向きがあり、一例として暴走族が特攻服などに刺繍したりする。 元来、天上天下唯我独尊は、釈迦が言ったのではない。釈迦以前に出生したといわれる過去七仏の第1仏である毘婆尸仏(びばし)が誕生した際に言ったとされる。しかしそれが、釈迦が生まれた際に、他の人々がそのように賛嘆したという説が生じて、のちに釈迦自身が誕生直後に自ら言ったと信じられるようになったものである。 「大唐西域記」の中に記載されている、釈迦の誕生当時を伝える誕生偈と呼ばれる偈文には、天上天下唯我独尊 今茲而往生分巳尽という一節が記されている。現代語に訳すと「全世界で私が一番尊い」という意味である。 「天上天下唯我独尊」の意味を「全世界で私たち一人一人の人間が一番尊い」と解釈する説もあるが、経典上の根拠が全く無い説である。釈迦の誕生を伝える仏典には、「佛本行集経」巻八・樹下誕生品下、「佛説太子瑞應本起経」巻上などがあるが、代表的な「修行本起経」巻上・菩薩降身品第二には、天上天下唯我独尊 三界皆苦吾当安之 とあり、欲界・色界・無色界の三界の迷界にある衆生はすべて苦に悩んでいる。私はこの苦の衆生を安んずるために誕生したから、尊いのであると言う。ところが残存するパーリ仏典はやはり大乗仏教の影響を受けており、「大唐西域記」と同じように、釈迦自身の解脱という点で尊いとしている。この利他の面で尊いとするのか、解脱という自利の面で尊いとするのかに、時代による釈迦観の違いが現れている。 さらに、「天上天下」という言葉で、仏教の立場を説いているという解釈もある。「天上」とは、世界の一切の事象をすべて神の意思であるとする、当時の「尊有論」の立場とし、「天下」を、一切の事象は偶然によって支配されていると考える「偶然論」の立場と説明する。この両極端を否定して、釈迦は真実の姿は縁起によって現象するのであると自覚したから尊いのであると説明する。
2009.10.08
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彼岸花青龍禅定寺向日葵無花果南瓜の花柿天子社
2009.09.27
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菊池容斎「前賢故実」より 和泉式部(生没年不詳)は平安時代中期の歌人である。天元元年(978年)頃に出生したとするのが通説。中古三十六歌仙の1人。 越前守の大江雅致の娘。和泉守の橘道貞の妻となり、夫の任国と父の官命を合わせて「和泉式部」の女房名をつけられた。道貞との婚姻は後に破綻したが、彼との間に儲けた娘・小式部内侍は母譲りの歌才を示した。 はじめ御許丸(おもとまる)と呼ばれ太皇太后宮・昌子内親王付きの女童だったらしい(母・平保衡女が昌子内親王付きの女房であった)が、それを否定する論もある。まだ道貞の妻だった頃、冷泉天皇の第三皇子・為尊親王との熱愛が世に喧伝され身分違いの恋だったとて親から勘当を受けた。為尊親王の死後、今度はその同母弟・敦道親王の求愛を受けた。親王は式部を邸に迎えようとし、正妃が家出あうる因を作った。 敦道親王の召人として一子・永覚を儲けるが、敦道親王は寛弘4年(1007年)に早世した。寛弘末年(1008-1011年)、一条天皇の中宮・藤原彰子に女房として出仕。長和2年(1013年)ごろ、主君彰子の父・藤原道長の家司で武勇をもって知られた藤原保昌と再婚し夫の任国・丹後に下った。万寿2年(1025年)、娘の小式部内侍が死去した折にはまだ生存していたが晩年の詳細は分らない。京都の誠心院では3月21日に和泉式部忌の法要が営まれる。 恋愛遍歴が多く、道長から「浮かれ女」と評された。また同僚女房であった紫式部には「恋文や和歌は素晴らしいが、素行には感心できない」と批評された(「紫式部日記」より)。真情に溢れる作風は恋歌・哀傷歌・釈教歌にもっともよく表され、殊に恋歌に情熱的な秀歌が多い。その才能は同時代の大歌人・藤原公任にも賞賛され正に男女を問わず一、二を争う王朝歌人といえよう。 敦道親王との恋の顛末を記した物語風の日記「和泉式部日記」があるが、これは彼女本人の作であるかどうかが疑わしい。ほかに家集「和泉式部正集」「和泉式部続集」や、秀歌を選りすぐった「宸翰本和泉式部集」が伝存する。「拾遺集」以下、勅撰集に二百四十六首の和歌を採られ死後初の勅撰集「後拾遺集」ぢは最多入集歌人の名誉を得た。 ・小倉百人一首 ・56番 あらざらむ この世のほかの 思ひ出に 今ひとたびの 逢うこともがな・現在、岐阜県可児郡御嵩町には和泉式部の廟所と言われる石碑が存在する。同地に伝わる伝承によると晩年は東海道を下る旅に出て、ここで病を得て歿したとされている。碑には「一人さへ渡れば沈む浮橋にあとなる人はしばしとどまれ」という一首が刻まれている。・福島県石川郡石川町にはこの地方を治めた豪族、安田兵衛国康の一子「玉世姫」(たまよひめ)が和泉式部であると言い伝えが残る。式部が産湯を浴びた湧水を小和清水(こわしみず)、13でこの地を離れた式部との別れを悲しんだ飼猫「そめ」が啼きながら浸かり病を治したといわれる霊泉が猫啼温泉として現存する。・佐賀県嬉野市にも和泉式部に関する伝説がある。・長野県諏訪市の温泉寺に和泉式部の墓所がある。・兵庫県伊丹市に和泉式部の墓所がある。・大阪府堺市西区平岡町には、居宅跡である「和泉式部宮」がる。・大阪府岸和田市の阪和線下松駅周辺の大阪府道30号大阪和泉泉南線沿いには和泉式部にまつわる池、塚などが存在する。 しかしこれらの逸話や和泉式部の墓所と伝わるものは全国各地に存在するが、いずれも伝承の域を出ないものも多い。柳田国男は、このような伝承が各地に存在する理由を「これは式部伝説を語り物にして歩く京都誓願寺に所属する女性たちが、中世に諸国をくまなくめぐったからである」と述べている。・鰯が好きだったとされる。京都府木津川市にも和泉式部のものと伝えられる墓がある
2009.09.24
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禅定寺家紋武雄温泉楼門武雄温泉クリスタル般若心経
2009.09.20
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7月、首謀者である後鳥羽上皇は隠岐島、順徳上皇は佐渡島にそれぞれ配流された。討幕計画に反対していた土御門上皇は自ら望んで土佐国へ配流された。(後に阿波国へ移される)後鳥羽上皇の皇子の六条宮、冷泉宮もそれぞれ但馬国、備前国へ配流。仲恭天皇(九条廃帝、仲恭の贈名は明治以降)は廃され、行助法親王の子が即位した(後堀河天皇)。親幕派で後鳥羽上皇に拘束されていた西園寺公経が内大臣に任じられ、幕府の意向を受けて朝廷を主導することになる。 後鳥羽上皇の膨大な荘園は没収され、行助法親王(後高倉院の称号が贈られる)に与えられた。ただし、その支配権は幕府が握っている。 討幕計画に参加した上皇方の「合戦張本公卿」と名指しされた一条信能、葉室光親、源有雅、葉室宗行、高倉範茂ら公卿は鎌倉に送られる途上で処刑され、その他の院近臣も各地に流罪になったり謹慎処分となった。また後藤基清、佐々木経高、河野通信、大江親広ら御家人を含む京方の武士が多数粛清、追放された。 乱後、幕府軍の総大将の泰時、時房らは京の六波羅に滞在し、朝廷の監視や西国武士の統率を行う。朝廷は京都守護に代り新たに設置された六波羅探題の監視を受けるようになり、皇位継承をも含む朝廷に対する鎌倉幕府の統制が強化された。 京方の公家、武士の所領約3000箇所が没収され、幕府方の御家人に分け与えられ新補地頭が大量に補任された。 承久の乱ののち、朝廷は幕府に完全に従属した。幕府は朝廷を監視し皇位継承も管理するようになり、朝廷は幕府を憚って細大もらさず幕府に伺いを立てるようになった。院政の財政的基盤であった長講堂領や八条院領などの所領も一旦幕府に没収され、治天の管理下に戻されたあともその最終的な所有権は幕府に帰属した。 また、西国で京方の公家、武家の多くの没収地を得、これを戦功があった御家人に大量に給付したため、執権北条氏と御家人との信頼関係が強固にになり、鎌倉幕府の開府期に続いて多くの御家人が西国に移り住むこととなり、幕府の支配が畿内にも強く及ぶようになる。 安田元久「歴史事象の呼称について」によると、本事件について大正中期までは「承久の乱」の表記が主流だったが、皇国史観の立場から「承久の変」の表記を使わせるようになった。これは、上皇が「反乱」を起こすはずがないという思想的立場を優先させたものである。しかし、「変」は主に不意の政治的・社会的事件に、「乱」は主に武力を伴う事件に使われていることから、戦乱の発生した本事件に「変」の表記は無理があるとしおている。 第二次世界大戦後は、「乱」表記が主流になっている。しかし、田中卓の「教養日本史」を始め、明成社の高等学校用教科書「最新日本史」、新しい歴史教科書をつくる会の中学校用教科書「新しい歴史教科書」などでは「変」を用いている。歴史書 ・「愚管抄」:慈円著。一説に慈円はこの書をもって後鳥羽上皇に討幕を思いとどまらせようとしたという。 ・「吾妻鏡」:編纂物。鎌倉幕府の半公式記録。軍記物 ・「承久記録」:全2巻。承久の乱を記した軍記物。乱の原因を後鳥羽上皇の不徳であると記している。異本が多い。歴史物語 ・「六大勝事記」:承久の乱を後鳥羽上皇が不徳の「悪王」であったことに原因があるとしている。 ・「増鏡」:前述の北条義時と泰時の逸話と後鳥羽上皇の隠岐での様子を伝える。
2009.09.10
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義時、泰時、時房、大江広元、三浦義村、安達景盛らによる軍議が開かれ、箱根・足柄で徹底抗戦をする慎重論に対し、広元は京への積極的な出撃を主張。政子の裁決で出撃策が決定され、素早く兵を集め、5月22日には軍勢を東海道、東山道、北陸道の三方から京へ向けて派遣した。急な派兵であったため、東海道軍は当初18騎で鎌倉を発向。泰時は途中で鎌倉へ引き返し、天皇が自ら兵を率いた場合の対処を義時に尋ねた。義時は「天皇には弓は引けぬ、ただちに鎧を脱いで、弓の弦を切って降伏せよ。都から兵だけを送ってくるのであれば力の限り戦え」と命じたと言う(「増鏡」)。幕府軍は道々で徐々に兵力を増し、「吾妻鏡」によれば最終的には19万騎に膨れ上がった。 義時は捕えられていた上皇の使者に宣戦布告を持たせて京へ追い返す。鎌倉の武士たちが院宣に従い、義時は討滅されるであろうと信じきり、幕府軍の出撃を予測していなかった後鳥羽上皇ら京方首脳は狼狽した。とりあえず、藤原秀康を総大将として幕府軍を迎え撃つこととして、1万7500余騎を美濃国へ差し向ける。京方は美濃と尾張の国境の尾張川に布陣するが、少ない兵力を分散させる愚を犯していた。6月5日、武田信光率いる東山道軍5万騎は大井戸渡に布陣する大内惟信率いる京方2000騎を撃破した。藤原秀康と三浦胤義は支えきれないと判断し、宇治・瀬田で京を守るとして早々に退却を決める。6日に泰時、時房の率いる主力の東海道軍10万騎が尾張川を渡河し墨俣の陣に攻めかかった時にはもぬけの殻、山田重忠のみが杭瀬川で奮戦するが、京方は総崩れになり、大敗を喫した。 北条朝時率いる北陸道軍4万騎も栃波山で京方を撃破して、加賀国に乱入して京を目指した。 美濃・尾張での敗報に京方は動揺して洛中は大混乱となった。後鳥羽上皇は自ら武装して比叡山に登り、僧兵の協力を求めるが、上皇の寺社抑制策が禍して比叡山はこれを拒絶。やむなく、京方は残る全兵力をもって宇治・瀬田に布陣し、宇治川で幕府軍を防ぐことに決め、公家も大将軍として参陣した。6月13日、京方と幕府軍は衝突。京方は宇治川の橋を落とし、雨のように矢を射掛け必死に防戦する。幕府軍は豪雨による増水のため川も渡れず攻めあぐねたが、翌14日に強引に敵前渡河し、多数の溺死者を出しながらも敵陣の突破に成功。京方は潰走し、幕府軍は京へなだれ込んだ。幕府軍は寺社や京方の公家・武士の屋敷に火を放ち、略奪暴行を働いた。 「承久記」によると、敗走した京方の藤原秀康、三浦胤義、山田重忠は最後の一戦をせんと御所に駆けつけるが、上皇は門を固く閉じて彼らを追い返してしまう。山田重忠は「大臆病の君に騙られたわ」と門を叩き憤慨した。 後鳥羽上皇は幕府軍に使者を送り、この度の乱は謀臣の企てであったとして義時追討の宣旨を取消し、藤原秀康、三浦胤義らの逮捕を命じる宣旨を下す。上皇に見捨てられた藤原秀康、三浦胤義、山田重忠ら京方の武士は東寺に立て篭もって抵抗。三浦義村の軍勢がこれを攻め、藤原秀康、山田重忠は敗走し、三浦胤義は奮戦して自害した。
2009.09.04
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同年7月、内裏守護の源頼茂(源頼政の孫)が西面の武士に攻め殺される事件が起きた。理由は頼茂が将軍に就こうと図ったためとされているが、幕府の問題のために後鳥羽上皇が朝廷の兵力を動かすのは不自然であり、頼茂が後鳥羽上皇による鎌倉調伏の加持祈祷を行っていた動きを知ったためと考えられている。そのためか、事件の直後に後鳥羽上皇が祈願に使っていた最勝四天王院が取り壊されている。 朝廷と幕府の緊張はしだいに高まり、後鳥羽上皇は討幕の意志を固めたが、土御門上皇はこれに反対し、摂政近衛家実やその父基通をはじめ多くの公卿達も反対、または消極的であった。順徳天皇は討幕に積極的で、承久3年(1221年)に懐成親王(仲恭天皇)に譲位し、自由な立場になって協力する。また、近衛家実が退けられて、新帝外戚の九条道家が摂政となった。密に寺社に命じて義時調伏の加持祈祷が行われた。討幕の流説が流れ、朝廷と幕府の対決は不可癖の情勢となった。 同年5月14日、後鳥羽上皇は「流鏑馬揃え」を口実に諸国の兵を集め、北面・西面の武士や近国の武士、大番役の在京の武士1700余騎が集まった。その中には有力御家人の小野盛綱、三浦胤義も含まれていた。幕府の出先機関である京都守護の大江親広(大江広元の子)は上皇に強要され、やむなく京方に加わる。同時に親幕派の大納言西園寺公経は幽閉された。翌15日に京方の藤原秀康率いる800騎が京都守護伊賀光季の邸を襲撃。光季は僅かな兵で奮戦して討死したが、下人を落ち延びさせ変事を鎌倉に知らせた。 後鳥羽上皇は諸国の御家人、守護、地頭らに義時追討の院宣を発する。同時に備えとして近国の関所を固めさせた。京方の士気は大いに上がり、「朝敵となった以上は、義時に参じる者は千人もいないだろう」と楽観的であった。これに対して東国武士の庄家定は「義時方の武士は万を下るまい。自分も関東にあったなら義時に味方していた」と楽観論を戒め、後鳥羽上皇の不興を買った。 京方は院宣の効果を絶対視しており、諸国の武士はこぞって味方すると確信していた。後鳥羽上皇は三浦義村をはじめ幕府の有力御家人には格別の院宣を添えて使者を鎌倉に送った。特に三浦義村については弟の胤義が「(実朝の後継の)日本総追捕使に任じられなら必ず御味方しましょう」と約束しており、大いに期待されていた。 鎌倉へは、西園寺公経の家司三善長衡と伊賀光季からの上皇挙兵の急報が19日に届けられた。京方の使者はその少し後に到着し、警戒していた幕府方に捕えられてしまった。胤義からの密書を受けた三浦義村は使者を追い返し、直ちに密書を幕府に届けた。21日には院近臣でありながら挙兵に反対していた一条頼氏が鎌倉に逃れてきた。 上皇挙兵の報に鎌倉の武士は大いに動揺したが、北条政子が頼朝以来の恩顧を訴え上皇側を討伐するよう命じた声明を出し、動揺は鎮まった。「吾妻鏡」や「承久記」には北条政子が鎌倉武士を前に、「故右大将(頼朝)の恩は山より高く、海よりも深いはずだ。逆臣の讒言により非義の綸旨が下された。秀康、胤義を討ち取り、亡き三代将軍の遺跡を全うせよ。院に味方したい者は、直ちにその旨を述べて参じるが良い」と涙ながらの名演説を行い、義時を中心に御家人を結集させることに成功した記述がる。
2009.09.03
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承久の乱(じょうきゅうのらん)は、鎌倉時代の承久3年(1221年)に、後鳥羽上皇が鎌倉幕府に対して倒幕の兵を挙げて敗れた兵乱である。承久の変、承久合戦ともいう。 乱が起きた際の執権は、北条義時。武家政権である鎌倉幕府の成立後、京都の公家政権(治天の君)との二頭政治が続いていたが、この乱の結果、幕府が優勢となり、朝廷の権力は制限され、幕府が皇位継承などに影響力を持つようになる。 治承・寿永の乱の過程で、鎌倉を本拠に源頼朝を棟梁として東国武士を中心に樹立された鎌倉幕府では、東国を中心に諸国に守護、地頭を配置し、警察権を掌握していたが、西国は支配しきっておらず依然として朝廷の力は強く、幕府と朝廷の二頭政治の状態にあった。 後鳥羽上皇は多芸多才で「新古今和歌集」を自ら撰するなど学芸に優れるだけでなく、武芸にも通じ狩猟を好む異色の天皇であり、それまでの北面の武士に加えて西面の武士を設置し軍事力の強化を行っていた。後鳥羽上皇の財源は長講堂領、八条女院領などの諸国に置かれた膨大な荘園群にあった。ところが、これらの荘園の多くに幕府の地頭が置かれるようになると、しばしば年貢の未納などが起こり、荘園領主である後鳥羽上皇やその近臣と紛争を起こすようになった。 承久元年(1219年)1月、3代将軍源実朝が甥の公暁に暗殺された。「承久記」など旧来の説では、これは「官打ち」(身分不相応な位にのぼると不幸になるという考え)などの呪詛調伏の効果であり、後鳥羽上皇は実朝の死を聞いて喜悦したとしている。これに対して、近年では後鳥羽上皇は武家政権との対立ではなく、当初は公武融和による政治を図っており、そのために実朝の位を進め優遇していたとの見方が強い。実朝の急死により、鎌倉殿の政務は頼朝正室の北条政子が代行し、執権である弟の義時がこれを補佐することとなった。 幕府は新しい鎌倉殿として雅成親王を迎えたいと後鳥羽上皇に申し出る。これに対し、後鳥羽上皇は近臣藤原忠綱を鎌倉に送り、愛妾伊賀局(元は白拍子の亀菊)の所領である摂津国長江荘、倉橋荘の地頭職の撤廃と院に近い御家人仁科盛遠(西面の武士)への処分の撤回を条件として提示した。義時はこれを幕府の根幹を揺るがすとして拒否する。義時は弟の時房に1000騎を与えて上洛させ、武力による恫喝を背景に交渉を試みるが、朝廷の態度は強硬で不調に終わる。このため義時は皇族将軍を諦め、摂関家から将軍を迎えることとし、同年6月に九条道家の子・三寅(後の九条頼経)を鎌倉殿として迎え、執権が中心となって政務を執る執権体制となる。将軍継嗣問題は後鳥羽上皇にも、義時にもしこりが残る結果となった。 ここで、将軍継嗣問題について語る上で問題とされているのは、実朝の生前から既に自己の後継者として皇族将軍の迎えいれを検討していたとする説である。上横手雅敬が唱えたもので、建保4年の9月に実朝が広元に語ったとされる「源氏の正統この時に縮まり、子孫はこれを継ぐべからず。しかればあくまで官職を帯し、家名を挙げんと欲す」(「吾妻鏡」)をしかるべき家柄(皇室)から後継を求め、それ(皇族将軍の父)に相応しい官位を求めたとし、後鳥羽上皇もこれを承諾したために実朝を昇進させたという説である。この説の弱点として実朝暗殺後に後鳥羽上皇が皇族将軍を拒絶したことが説明付かなくなることが挙げられる。これについて河内祥輔は現職将軍である実朝が暗殺されたことで、実朝が皇子を猶子などの形で後継指名をして将軍の地位を譲り実朝はその後見となる構想が破綻してしまったことと、新将軍に反対する勢力による皇子の暗殺が危惧される状況となったために、後鳥羽上皇が皇子の安全を図る更なる保障(河内はこれを幕府機構及び北条氏以下主要御家人の京都移転とみる)を求めて幕府側が拒絶したとしている。逆にこの時皇族将軍のみならず、摂家将軍の擁立も後鳥羽上皇が拒絶すれば、追い込まれるのは主の目処を失ってしまう幕府側であり、三寅の鎌倉下向の容認自体がこの時点での後鳥羽上皇に倒幕を行う意志が無く、承久の乱における最終目的も鎌倉における現行の幕府体制の打倒であって、京都において「幕府」が存続することまでは反対していなかったと説く。
2009.09.01
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秦野市の御首塚 胴体の墓は、寿福寺境内に掘られたやぐらの内に石層塔が設けられている。寿福寺は源義朝邸宅跡に建てられた寺院であり、実朝の墓の隣には母の墓がある。首は公暁の追っ手の武常晴が神奈川県秦野市大聖金剛寺(実朝が再興した寺)の五輪塔に葬ったといわれ、御首塚(みしるしづか)と呼ばれる。金剛寺の阿弥陀堂には北条政子が実朝が生前礼拝した阿弥陀三尊を贈ったとされる。鶴岡八幡宮境内の白旗神社に源頼朝と共に祀られ、明治になり白旗神社境内に改めて柳営社が建てられ祀られた。八幡宮では実朝の誕生日である8月9日に実朝祭が行われている。白旗神社評価 吾妻鏡 蹴鞠の書が京より送られたのを受け「将軍家諸道を賞玩し給う中、殊に御意に叶うは、歌鞠の両芸なり。」 長沼宗政 畠山重忠の末子謀反の際に「当代は歌鞠を以って業と為し、武芸は廃るるに似たり。女性を以って宗と為し、勇士これ無きが如し。また没収の地は、勲功の族に充てられず。多く以って青女等に賜う。」 大江広元 昇任を急ぐ実朝を憂慮し、「今は先君の遺跡を継ぐばかりで、当代にさせる勲功は無く、諸国を完領し中納言中将に昇られる。」 正岡子規 仰の如く近来和歌は一向に振ひ不申候。正直に申し候へば万葉以来実朝以来一向に振ひ不申候。実朝といふ人は三十にも足らで、いざこれからといふ処にてあへなき最期を遂げられ誠に残念致し候。あの人をして今十年も活かして置いたならどんなに名歌を沢山残したかも知れ不申候。とにかく第一流の歌人と存候。強ち人丸・赤人の余唾を舐るでもなく、固より貫之・家定の糟粕をしゃぶるでもなく、自己の本領屹然として山岳と高きを争い日月と光を競ふ処、実に畏るべく尊むべく、覚えず膝を屈するの思ひ有之候。古来凡庸の人と評し来りしは必ず誤なるべく、北条氏を憚りて韜晦せし人か、さらずば大器晩成の人なりしかと覚え候。人の上に立つ人にて文学技芸に達したらん者は、人間として下等の地にをるが通例なれども、実朝は全く例外の人に相違無之候。何故と申すに実朝の歌はただ器用といふのではなく、力量あり見識あり、時流に染まず世間に媚びさる処、例の物数奇連中や死に歌よみの公卿たちとても同日に論じがたく、人間として立派な見識のある人間ならでは、実朝の歌の如き力ある歌は詠みいでられまじく候。真淵は力を極めて実朝をほめた人なれども、真淵のほめ方はまだ足らぬやうに存候。真淵は歌の妙味の半面を知りて、他の半面を知らざりし故に可有之候。「歌よみ与ふる書」 後鳥羽上皇は実朝に好意的であり、その昇進に便宜を図ったといわれている。その一方で、上皇が要求した地頭解任要求(備後国太田荘)を「故右大将が決めた地頭は問題がない限り解任する理由はない」と幕府の根幹を揺るがしかねないとして固辞しており、西園寺公経が右近衛大将を解任された折には上皇の非を指摘してこれを諫めている。また、順徳天皇の蔵人に任じられた大江時広が鎌倉での職務を疎かにして京都に戻ろうとするのを「御家人でありながら鎌倉を軽んじている」とたしなめている。上皇が実朝の死を好機と見て承久の乱に踏み切ったことから見ても、単に「親朝廷の将軍」と判断するのは早計である。父である源頼朝は自分の娘を後鳥羽天皇(当時)の妃にしようとするなど幕府を固めるために朝廷の利用を考えていた面があり、上皇との接近はその継承とも解釈できる。上横手雅敬以来、実朝には自らの後継として皇族将軍(宮将軍)を猶子に迎える構想があったことが指摘され、また急激な官位の昇進をそのための環境づくり側面があった(形式上でも皇族の父親となる以上、大臣級の官位を必要とした)とする見方がある。だが、鎌倉幕府成立以後、武士階層が次第に政治力と自信をつけてくるにつれて朝廷や貴族による支配を拒絶する態度をより明確にするようになり、その中核をなした御家人などからは極端な官位昇進などを朝廷重視の現れであると見なされ、後の暗殺事件への伏線になったとの説もある。
2009.08.31
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6月8日、陳和卿が鎌倉に参着し「当将軍は権化の再誕なり。恩顔を拝せんが為に参上を企てる」と述べる。陳和卿は東大寺大仏の再建を行った宋人の僧である。15日、御所で対面すると陳和卿は実朝を三度拝み泣いた。実朝が不審を感じると陳和卿は「貴客は昔宋朝医王山の長老たり。時に我その門弟に列す。」と述べる。実朝はかつて夢に現れた高僧が同じ事を述べ、その夢を他言していなかった事から、陳和卿を信じた。 6月20日、権中納言に任ぜられ、7月21日、左近衛中将を兼ねる。9月18日、北条義時と大江広元は密談し、実朝の昇進の早さを憂慮する。20日、広元は義時の使いと称し、御所を訪れて諫める。「御子孫の繁栄の為に、御当官等を辞しただ征夷大将軍として、しばらく御高年に及び、大将を兼ね給うべきか」実朝「諫めの趣もっともといえども、源氏の正統この時に縮まり、子孫はこれを継ぐべきからず。しかればあくまで官職を帯し、家名を挙げんと欲す」と答える。広元は再び是非を申せず退出し、それを義時に伝えた。 11月24日、前世の居所と信じる宋の医王山を拝す為に渡宋を思い立ち、陳和卿に唐船の建造を命じる。義時と広元は頻りにそれを諫めたが、実朝は許容しなかった。 建保5年(1217年)4月17日、完成した唐船を由比ヶ浜から海に向かって曳かせるが、船は浮かばずそのまま砂浜に朽ち損じた。なお宋への感心からか、実朝は宋の能仁寺より仏舎利を請来しており、円覚寺の舎利殿に祀られている。 5月20日、一首の和歌と共に恩賞の少なさを愁いた紀康綱に備中国の領地を与える。詠歌に感じた故という。 6月20日、園城寺で学んでいた公暁が鎌倉に帰着し、政子の命により鶴岡八幡宮の別当に就く。 建保6年(1218年)1月13日、権大納言に任ぜられる。2月10日、右大将への任官を求め使者を京に遣わすが、やはり必ず左大将を求めよと命を改める。父の源頼朝は右大将であった。3月16日、左近衛大将と左馬寮御監を兼ねる。10月9日、内大臣を兼ね、12月2日、九条良輔の薨去により右大臣へ転ずる。武士としては初めての右大臣であった。21日、昇任を祝う翌年の鶴岡八幡宮拝賀のため、装束や車などが後鳥羽上皇より贈られる。26日、随兵の沙汰を行う。 建保7年(1219年)1月27日、雪がニ尺ほど積もる八幡宮拝賀の日を迎える。御所を発し八幡宮の楼門に至ると、北条義時は体調の不良を訴え、太刀持ちを源仲章に譲る。夜になり神拝を終え退出の最中、「親の敵はかく討つ」と叫ぶ公暁に襲われ落命した。享年28(満26歳没)。公暁は次に源仲章を切り殺す。太刀持ちであった義時と誤ったともいわれる。実朝の首は持ち去られ、公暁は食事の間も手放さなかったという。同日、公暁は討手に誅された。 予見が有ったのであろうか、出発の際に大江広元は涙を流し「成人後は未だ泣く事を知らず。しかるに今近くに在ると落涙禁じがたし。これ只事に非ず。御束帯の下に腹巻を着け給うべし」と述べたが、源仲章は「大臣大将に昇る人に未だその例は有らず」と答え止めた。また整髪をを行う者に記念と称して髪を一本与えている。庭の梅を見て詠んだ辞世となる和歌は、「出でいなば 主なき宿と 成ぬとも 軒端の梅よ 春をわするな」である。禁忌の歌と評される。 落命の場は八幡宮の石段とも石橋ともいわれ、大銀杏に公暁が隠れていたとも伝わる。承久記によると、一の太刀は笏に合わせたが、次の太刀で切られ、最期は「広元やある」と述べ落命したという。 28日、妻は落餝し御家人百余名が出家する。亡骸は勝長寿院に葬られたが首は見つからず、代わりに記念に与えた髪を入棺した。子は無く、源氏将軍は三代で絶えた。鶴岡八幡宮大銀杏
2009.08.27
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建保元年(1213年)2月16日、御家人らの謀反が露顕する。頼家の遺児を将軍とし北条義時を討たんと企てており、加わった者が捕えられる。その中には侍所別当を務める和田義盛の子である義直、義重らもあった。20日、囚人である薗田成朝の逃亡が明らかとなる。実朝が成朝が受領を所望していた事を聞くとかえって「早くこれを尋ね出し恩赦有るべき」と述べる。26日、死罪を命じられた渋河兼守が詠んだ和歌を見ると過を宥めた。27日に謀反人の多くは配流に処した。同日正二位み昇る。3月8日、和田義盛が御所に参じ対面する。実朝は義盛の功労を考え義直よ義重の罪を許した。9日、義盛は一族を率いて再び御所に参じ甥である胤長の許しを請うが、実朝は胤長が張本として許容せず、それを伝えた義時は和田一族の前に面縛した胤長を晒した(泉親衡の乱)。 4月、和田義盛の謀反が聞こえ始める。5月2日朝、兵を挙げる。義時はそれを聞くと幕府に参じ、政子と実朝の妻を八幡宮に逃れさせる。酉の刻、義盛の兵は幕府を囲み御所に火を放つ。ここで実朝は火災を逃れ頼朝の墓所である法華堂に入った。戦いは3日に入っても終わらず、実朝の下に「多勢の恃み有るに似たりといえども、更に兇徒の武勇を敗り難し。重ねて賢慮を廻らさるべきか」との報告が届く。驚いた実朝は政所に在った大江広元を召すと、願書を書かせそれに自筆で和歌を二首加え、八幡宮に奉じる。酉の刻に義盛は討たれ合戦は終わった。5日、実朝は御所に戻ると侍所別当の後任に義時を任じ、その他の勲功の賞も行った(和田合戦)。 9月19日、日光に住む畠山重忠の末子重慶が謀反を企てるとの報が届く。実朝は長沼宗政に生け捕りを命じるが、21日、宗政は重慶の首を斬り帰参した。実朝は「重忠は罪無く誅をこうむった。その末子が隠謀をを企んで何の不思議が有ろうか。命じた通りにまずその身を生け捕り参れば、ここで沙汰を定めるのに、命を奪ってしまった。粗忽の儀が罪である」と述べると嘆息し宗政の出仕を止める。それを伝え聞いた宗政は眼を怒らし「この件は反逆の企てに疑い無し。生け捕って参れば、女等の申し出によって必ず許しの沙汰が有ると考え、首を梟した。今後このような事があれば、忠節を軽んじて誰が困ろうか」と述べた。閏9月16日、兄小山朝政の申請により実朝は宗政を許す。 11月23日、藤原定家より相伝の万葉集が届く。広元よりこれを受け取ると「これに過ぎる重宝があろうか」と延べ賞玩する。同日、仲介を行った飛鳥井雅経がかねてより訴えていた伊勢国の地頭の非儀を止めさせる。金塊和歌集はこの頃に纏められたと考えられている。 建保2年(1214年)5月7日、延暦寺に焼かれた園城寺の再建を沙汰する。6月3日、諸国は旱魃に愁いており、実朝は降雨を祈り法華経を転読する。5日、雨が降る。13日、関東の御領の年貢を三分の二に免ずる。 建保4年(1216年)3月5日、政子の命により頼家の娘(後の竹御所)を猶子に迎える。
2009.08.25
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6月、畠山重忠の乱が起こる。叔父の北条義時、時房、和田義盛らが鎮めたが、乱後の論功は政子が行い、幼稚とされた実朝は加わらなかった。 閏7月19日、時政邸に在った実朝を侵そうという牧の方の謀計が鎌倉に知れ渡る。実朝は政子の命を受けた御家人らに守られ、義時の邸宅に逃れる。牧の方の夫である時政は兵を集めるが、兵はすべて義時邸に参じた。20日、時政は伊豆国修善寺に追われ、執権は義時が継いだ。牧氏事件と呼ばれる。 9月2日、新古今和歌集を京より運ばせる。和歌集は未だ披露されていなかったが、和歌を好む実朝は、父の歌が入集すると聞くとしきりに見る事を望んだ。 建永元年(1206年)2月22日、従四位下へ昇り、10月20日には母の命により兄頼家の次男である善哉を猶子とする。 11月18日、近仕を務める東重胤が鎌倉に参る。重胤は暇を得て下総国に帰っており在国は数ヶ月に及んだ。実朝は詠歌を送って重胤を召していたが、なお遅参した為に蟄居させる。12月23日、重胤は義時の邸宅を訪れ蟄居の悲嘆を述べる。義時は「凡そこの如き災いに遭うは、官仕の習いなり。但し詠歌を献らば定めて快然たらんかと」と述べる。重胤は一首を詠む。義時はそれを見ると重胤を伴って実朝の邸宅に赴き、歌を実朝の前に置き重胤を庇った。実朝は重胤の歌を三回吟じると門外で待つ重胤を召し、歌の事を尋ね許した。 承元元年(1207年)1月、従四位上に叙せられる。 承元2年(1208年)2月、疱瘡を患う。実朝はこれまで幾度も鶴岡八幡宮に参拝していたが、以後3年間は病の痕を恥じて参拝を止めた。12月9日、正四位下に昇る。 承元3年(1209年)4月10日、従三位に叙せられ、5月26日には右近衛中将に任ぜられる。7月5日、藤原定家に自らが詠んだ和歌三十首の評を請う。11月14日、北条義時が郎従の中で功のある者を侍に準ずる事を望む。実朝は許容せず、「然る如きの輩、子孫の時に及び定めて以往の由緒を忘れ、誤って幕府に参昇るを企てんか。後難を招くべきの因縁なり。永く御免有るべかざる」と述べる。北条氏の家人は後に御内人と呼ばれ幕府で権勢を振るう事となる。 建暦元年(1211年)1月5日、正三位に昇り、18日に美作権守を兼ねる。9月15日、猶子に迎えていた善哉は出家して公暁と号し、22日には受戒の為上洛した。 建暦2年(1212年)6月7日、侍所の建物内で宿直の御家人同士のいざこざから刃傷事件があり死者も出た。そこで侍所の建物を破却して流血や死に伴う穢れから逃れようとした。千葉成胤は武家の棟梁が血や死を穢れとする事を諫めた。だが、結果的に7月9日に改めて侍所の建物を破却して新ぞ造する様に命じた。12月10日、従二位に昇る。
2009.08.23
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源実朝は、鎌倉幕府の第三代征夷大将軍である。 鎌倉幕府を開いた源頼朝の子として生まれ、兄の源頼家が追放されると12歳で征夷大将軍に就く。政治は始め執権を務める北条氏などが主に執ったが、成長するにつれ関与を深めた。官位の昇進も早く武士として右大臣に任ぜられるが、その翌年に鶴岡八幡宮で頼家の子公暁に襲われ落命した。子はおらず、源氏の将軍は実朝で絶えた。 歌人としても知られ、92首が勅撰和歌集に入集し、小倉百人一首にも選ばれている。家集として金塊和歌集がある。 建久3年(1192年)8月9日巳の刻、源頼朝の次男として鎌倉で生まれる。幼名は千幡。母は頼朝の正室である北条政子、乳母は政子の妹である阿波局が選ばれた。千幡は若君として誕生から多くの儀式で祝われる。12月5日、頼朝は千幡を抱いて御家人の前に現れると、「みな意を一つにして将来を守護せよ」と述べ面々に千幡を抱かせた。 建久10年(1199年)に父の頼朝が薨去し、兄の源頼家が将軍職を継ぐ。 建仁3年(1203年)9月、比企能員の変により頼家は将軍職を失い伊豆国に追われる。母・政子らは朝廷に対して9月1日に頼家が死去したという虚偽の報告を行い、頼家の弟への家督継承の許可を求めた。これを受けた朝廷は7日に実朝を従五位下征夷大将軍に補任する。10月8日、遠江国において12歳で元服し、実朝と称する。儀式に参じた御家人は大江広元、小山朝政、安達景盛、和田義盛ら百余名で、理髪は祖父の北条時政、加冠は平賀義信が行った。24日にはかつて父の務めた右兵衛佐に任じられる。 元久元年(1204年)12月、京より坊門信清の娘を正室に迎える。正室は始め足利義兼の娘が考えられていたが、実朝は許容せず使者を京に発し妻を求めた。 元久2年(1205年)1月5日に正五位下に叙され、29日には加賀介を兼ね右近衛権中将に任じられる。
2009.08.20
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「河井継之助伝」 今泉鐸次郎著。 ・継之助に関して編まれた唯一の刊本史料(伝記)であり、現在ある関連書籍はすべてこれを底本にして書かれている。 ・先祖は牧野家の家臣で自身は新聞記者・郷土史家であった今泉が、各地より蒐集した史料、関係者からインタビューした情報を基礎に構成。具体的には継之助の史料(書簡など)やそれ以外の者の関係史料からの引用と継之助の家族や関係者、またその関係者の子女などからの証言の2つから成り立っている。すなわち、史料学的に見れば「河井継之助伝」は2次史料・2級史料に分類される。 ・引用史料の中には「追考昔誌」「思出草」など、その原本や写本が現存しているものもある。しかしその一方で、所在やいかなる史料なのかが今のところ不明なものも存在する。また、戊辰戦争前後の事について書かれた現在の引用史料は残されたメモや当時の史料、記憶をたよりに後年編まれたものや回想録である。ゆえに、これら「河井継之助伝」中の引用史料の扱いについても内容をそのまま鵜呑みにはせず、他史料で裏付けをとる必要もある。 ・小諸騒動にあっては、維新後の混乱期にごく短期間だけ小諸藩上席家老となった牧野隼之進成聖の嫡子・成功からの聞き取りに依拠した部分が多いものと推察され、これと不仲(或は反対派)であった牧野隼之進成聖の本家となる牧野八郎左衛門成道、及び真木要人則道、太田宇忠太一道、前藩主夫人の楠子などの評価を低く(或は悪役に近く)書いている恨みがあると指摘する文献(牧野家臣団・加藤誠一著など)もある。また小諸藩重臣の知行、家禄の引用が極めてアバウトであるとも指摘されている。 ・小諸騒動はアカデミックな場で僅かに扱われているが、小諸騒動の継之助の調停については小諸藩文書等の小諸側の文書・史料からは継之助の具体的な事績・活躍がほとんど伝わらない。 ・関係者の証言に関しても、当時の様相を垣間見る上で貴重な手がかりである。しかし、かなり年月を経たあとのものでもあり、そこには証言者本人の主観的判断や感情、記憶の入れ違いも存在しうる。ゆえに、史料学的見地からもこれらの証言を扱う際にも慎重さを要する。 ・本文中で引用されている継之助の書簡についても、原本はごく一部を除けば現存していない。 ・しかしながら現在、継之助や幕末期長岡藩に関する1次史料(とくに藩政史料)がほぼ皆無の状況である以上、「河井継之助伝」は継之助の人物像や幕末期の長岡藩の様相を知る上で数少ない好史料であることは否定し得ない。「塵壷」 継之助自筆の旅日記で、現存する唯一の自著。安政6年6月7日(1859年7月6日)から同年12月22日(1860年1月14日)までの西国遊歴中の事を記す。原本は現在、長岡市立中央図書館から長岡市の河井継之助記念館に移管、展示されている。 ・江戸~備中松山~長崎~備中松山における道中の出来事を記録したもので、両親への道中報告のためのメモ的なものである。そのため、特筆すべきことのないようなときは日付と天気しか記していない日もある。 ・数日分を後でまとめて記すこともあったため、記憶にいり記述の細かさにばらつきがあったり別記を意図して内容を省略したりしている。ゆえにいわゆる日記としての全般的な詳述さには欠けている面もある。 ・西国遊歴は、これ以降の河井の政治的行動を深く規定したという点で継之助の生涯において大きな位置を占める出来事であり、本史料は遊歴の内容や継之助の個性を知る上で貴重な史料といえる。 ・備中松山から江戸までの帰路については「塵壷」には記されていなかったため、その日程や内容についてはしばらくの間不明であった。しかしその後、その帰路の事を記した両親宛の書簡が発見されたため、江戸までの道中の日程や大まかな様子が判明した。なお、京都~備中松山間において行きが山陽を通ったのに対し、帰りは山陰を通って帰った事がこの書簡で初めて分った。
2009.08.18
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略年譜 ・文政10年(1827年):誕生。 ・天保13年(1842年):元服。 ・天保14年(1843年):生贄の鶏を裂いて王陽明を祀り、輔国を誓う。 ・嘉永5年(1852年):最初の江戸遊学。斎藤拙堂、古賀謹一郎(茶渓)、佐久間象山らの門をくぐる。 ・嘉永6年(1853年):ペリー来航。藩主牧野忠雅に建言書提出。御目付格定方随役に任命され帰藩。2ヶ月で辞職。 ・安政4年(1857年):家督を相続。外様吟味役に任命。 ・安政5年(1858年):江戸へ再度遊学のため長岡を発つ。 ・安政6年(1859年):古賀の久敬舎に再入学。西国へ遊学、備中松山藩の山田方谷に入門。その間、長崎にも遊歴。 ・万延元年(1860年):江戸へ戻る。横浜でファブルブランドやエドワード・スネルらと懇意になる。 ・文久3年(1863年) ・1月、京都詰となる。藩主牧野忠恭の所司代辞任を要請。 ・9月、公用人として江戸詰。忠恭の老中辞任を要請。叶わず辞職、帰藩。 ・慶応元年(1865年):外様吟味役再任。3ヵ月後、郡奉行に就任。藩政改革を開始。 ・慶応2年(1866年):町奉行を兼帯。 ・慶応3年(1867年) ・3月、評定役・寄会組になる。 ・4月、奉行格加判。小諸騒動を解決。但し翌年11月に再燃。 ・10月、年寄役(中老)。 ・大政奉還を受け、12月に藩主牧野忠訓と共に上洛、朝廷に健言書提出。 ・慶応4年(1868年) ・4月に家老。閏4月に家老上席、軍事総督に任命。 ・5月、小千谷談判決裂。新政府軍と抗戦開始。 ・8月、戦闘中の傷がもとで死去。享年41。 さほど背は高くなかったが鳶色の鋭い目を持ち、声が良かったという。徹底的な実利主義で、武士の必須である剣術に関してもいざ事あるときにすぐに役に立てばよいので型や流儀などどうでもよいという考え方であった。しかし読書に関しては別で、好きな本があるとその一文一文を彫るように書き写していたという。物事の本質をすばやく見抜く才にすぐれ、士農工商制の崩壊、薩長政権の樹立を早くから予見していた。藩命にたびたび背き、様々叱咤されたが、本人は当然の風にしていた。河井家は本来ならば家老になどなれない家柄であったがすでに若いころから藩の家老らの凡庸さを見て、結果的に自分が家老になるしかないと公言してはばからなかったという。 遊郭の禁止令を施行した際はそれまで遊郭の常連であった継之助のことを揶揄し「かわいかわい(河井)と今朝まで思い 今は愛想もつきのすけ(継之助)」と詠われている。また、「塵壷」という名前で知られる旅日記を残した。 明治維新後、長岡の復興に尽力した米百俵で知られる小林虎三郎は親類である。小林の人物像が語られる時においては河井は好戦的な人物として描かれることも少なくないが、薩長の横暴を見かね、手紙の中で「かくなる上は開戦もやむなし」としぶしぶ開戦を支持しており、必ずしも好戦的な人物ではなかったことが伺える。北越戦争においても、開戦は藩としての自立を確保するための自衛的な意味合いが強かった。 なお継之助には上記以外にも長岡市民によって伝承された様々な逸話がある。例えば「北越戦争で両手足を失ったが、果敢に戦った」とか、「戦の時は藩士に精力を付けさせるよう、自分の飯を全て分け与えていた」などという話である。「弾除けにするために町人に畳を背負わせて隊列の前方を歩かせた」等の否定ないし批判的な逸話もある。しかしこれらは史実として検証できる資料が残っていないために信憑性が低く、後世の作り話と思われる。
2009.08.14
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継之助は会津へ向けて八十里峠を越える際、「八十里 腰抜け武士の 越す峠」という自嘲の句を詠む。 峠を越えて会津藩領に入り、只見村にて休息をとる。継之助はそこで忠恭の依頼で会津若松より治療に来た松本良順の診察を受け、松本が持参してきた牛肉を平らげてみせる。しかし、この時すでに継之助の傷は手遅れな状態にあった。継之助も最期が近づきつつあるのを悟り、花輪らに対し今後は米沢藩ではなく庄内藩と行動を共にすべきことや藩主世子・鋭橘のフランスへの亡命(結局果たされず)など後図を託した。また外山修造には武士に取り上げようと考えていたが、近く身分制がなくなる時代が来るからこれからは商人になれと伝えた。後に外山はこの継之助の言に従って商人となり、日本の発展を担った有力実業家の1人として活躍した。 継之助は松本の勧めもあり、会津若松へ向けて只見村を出発し、8月12日(9月27日)に塩沢村(現・福島県只見町)に到着する。塩沢村では不安定な状態が続いた。15日(30日)の夜、継之助は従僕の松蔵を呼ぶと、ねぎらいの言葉をかけるとともに火葬の仕度を命じた。翌16日(10月1日)の昼頃、継之助は談笑した後、ひと眠りつくとそのまま危篤状態に陥った。そして、再び目を覚ますことのないまま、同日午後8時頃、破傷風により死去した。享年42. 継之助の葬式は会津城下にて行われた。遺骨は新政府軍の会津城下侵入時に墓があばかれることを慮り、松蔵によって会津のとある松の木の下に埋葬される。実際、新政府軍は城下の墓所に建てられた継之助の仮墓から遺骨を持ち出そうとしたが、中身が砂石であったため継之助の生存を疑い恐怖したという。 戦後、松蔵は遺骨を掘り出すと長岡の河井家へ送り届けた。そして遺骨は、現在河井家の墓がある栄涼寺に再び埋葬された。そかしその後、継之助の墓石は長岡を荒廃させた張本人として継之助を恨む者たちによって、何度も倒された。このように、戦争責任者として継之助を非難する言動は継之助の人物を賞賛する声がある一方で、明治以後、現在に至るまで続いている。一方河井家は、主導者であった継之助がすでに戦没していたため、政府より死一等を免じる代わりに家名断絶という処分を受けた。忠恭はこれを憂い、森源三(河井の養女の夫)に新地100石を与えて河井の家族を扶養させた。 明治16年(1883年)に河井家は再興を許され、森の子・茂樹を養継嗣として迎え入れたのであった。
2009.08.12
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新政府軍が会津藩征討のため長岡にほど近い小千谷(現・新潟県小千谷市)に迫ると、門閥出身の家老首座連綿・板垣平助、長岡藩で藩主・牧野氏の先祖と兄弟分の契りを結んでいたとされる重臣・槙(真木)内蔵介、以下上級家臣の安田鉚蔵、九里磯太夫、武作之丞、小島久馬衛門、花輪彦左衛門、毛利磯右衛門などが恭順・非戦を主張した。 こうした中で継之助は、まず自説を曲げずに継之助にことごとく刃向う反河井派の急先鋒・安田鉚蔵を藩命として永蟄居となした。そして、恭順派の拠点となっていた長岡藩校・祟徳館に腹心の鬼頭六左衛門に小隊を与えて監視させ、その動きを封じ込めた。その後に抗戦・恭順を巡る藩論を抑えて武装中立を主張し、新政府軍との談判へ臨み、旧幕府軍と新政府軍の調停を行う事を申し出ることとした。 5月2日(6月21日)、河井は小千谷の新政府軍本陣に乗り込み、付近の慈眼寺において新政府軍監だった土佐の岩村清一郎と会談した。河井は奥羽への侵攻停止を訴えたが、成り行きで新政府軍の軍監になった岩村に河井の意図が理解できるわけもなく、また岩村が河井を諸藩によくいる我が身がかわいい戦嫌いなだけの門閥家老だと勘違いしたこともあり、降伏して会津藩討伐の先鋒にならなければ認めないという新政府の要求をただ突きつけるだけであった。交渉はわずか30分で決裂。 継之助は長州の山縣狂介か薩摩の黒田了介を交渉相手に望んでいたが、若輩である岩村が出てきたことが計算外だった。継之助の交渉相手としては岩村の器は小さすぎた(岩村も後に自伝で、この対応が不適切だったことを認めている)。一方新政府軍にとっても、岩村が継之助を捕縛せずにそのまま帰してしまったのが大失敗だった。これにより長岡藩は奥羽列藩同盟に加わり、2日後に北越戦争へと突入する。 長岡藩は7万4千石の小藩であったが、内高は約14万石と実態は中藩であった。長岡藩では藩論が必ずしも統一されていなかったが、家老首座連綿の稲垣平助茂光は交戦状態となる直前に出奔。家老次座連綿の山本帯刀や着座家の三間氏は終始継之助に協力した。先法御三家(槙(真木)氏・能勢氏・疋田氏)は、官軍に恭順を主張するも藩命に従った。上級家臣団のこうした動きと藩主の絶対的信頼の下に、継之助は名実共に開戦の全権を掌握した。継之助の開戦時の序列は家老上席、軍事総督。但し先法御三家は筋目(家柄)により継之助の命令・支配を受ける謂われはなかったので、藩主の本陣に近侍してこれを守ったため後方にあり、1人の戦傷者も出さなかったと云われる。 継之助の長岡慶応改革によっても、先法御三家の組織上・軍制上の特権を壊せたとする史料は存在しない。長岡藩兵は近代的な訓練と最新兵器の武装を施されており、継之助の巧みな用兵により当初新政府軍の大軍と互角に戦った。しかし絶対的な兵力に劣る長岡軍は徐々に押され始め、5月19日(7月8日)に長岡城を奪われた。 その後6月2日(7月21日)、今町の戦いを制して逆襲に転じる。7月24日(9月10日)夕刻、敵の意表をつく八丁沖渡沼作戦を実施し、翌日(9月11日)に長岡城を辛くも奪還する。これは軍事史に残る快挙であった。 ところがその奇襲作戦の最中、新町口にて継之助は左膝に流れ弾を受け重傷を負ってしまう。指揮官である継之助の負傷によって長岡藩兵の指揮能力や士気は低下し、また陸路から進軍していた米沢藩兵らも途中敵兵に阻まれ合流に遅れてしまった。これにより、奇襲によって浮き足立った新政府軍を米沢藩とともに猛追撃して大打撃を与えるという作戦は完遂できなかった。一方、城を奪還され一旦後退した新政府軍であったが、すぐさま体勢を立て直し反撃に出る。長岡藩にはもはやこの新政府軍の攻撃に耐えうる余力はなく、4日後の7月29日(9月15日)に長岡城は再び陥落、継之助らは会津へ向けて落ちのびた。 これにより戊辰戦争を通じて最も熾烈を極めたとされる北越戦争は新政府軍の勝利に終わり、以後、戦局は会津へと移っていく。
2009.08.11
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安政6年(1859年)正月、継之助は再び江戸に遊学し、古賀謹一郎の久敬舎に入る。そしてさらなる経世済民の学を修めるため、備中松山藩の山田方谷の教えを請いに西国遊学の旅に出る。初めこそ、農民出身の山田を「安五郎」と通称で手紙にしたためるなどの尊大な態度に出ていた継之助も山田の言行が一致した振る舞いと彼が進めた藩政改革の成果を見て、すぐに態度を改めて深く心酔するようになる。山田の許で修養に励む間、佐賀や長崎も訪れ、知見を広める。翌年3月、松山を去って江戸へ戻り、しばらく横浜に滞在した後、長岡へ帰郷した。 文久2年(1862年)、藩主・牧野忠恭が京都所司代になると継之助も京都詰めを命じられ、翌文久3年(1863年)の正月に上洛する。継之助は忠恭に所司代辞任を勧めるも、忠恭はこれを承知しなかった。しかし、4月下旬に攘夷実行が決定されたのをきっかけに忠恭も辞意を決し、6月に認められると忠恭は江戸に戻る。 だが9月、忠恭は今度は老中に任命される。そして継之助は公用人に命じられ江戸詰めとなると、忠恭に老中辞任を進言する。その際、辞任撤回の説得に訪れた分家の常陸笠間藩主・牧野貞明を罵倒してしまい、結局この責任をとるかたちで公用人を辞し、帰藩した。 しかしその後、慶応元年(1865年)に外様吟味役に再任されると、その3ヶ月後に郡奉行に就任する。これ以後、継之助は藩政改革に着手する。その後、町奉行兼帯、奉行格可判とどんどん出世し、その間、風紀粛正や農政改革、灌漑工事、兵制改革などを実施した。 藩士の知行を100石より少ない者は加増し、100石より多い者は減知すると云う門閥の平均化すると共に、軍制上の中央集権を目指した改革を藩主の信任の下で継之助は断行した。 慶応3年(1867年)10月、徳川慶喜が大政奉還を行うと、中央政局の動きは一気に加速する。この慶喜の動きに対し、討幕派は12月9日(1868年1月3日)に王政復古を発し、幕府などを廃止する。一方長岡藩では、藩主・忠恭は隠居し牧野忠訓が藩主となっていたが、大政奉還の報を受けると忠訓や継之助らは公武周旋のたもに上洛する。 そして継之助は藩主の名代として議定所へ出頭し、徳川氏を擁護する内容の建言書を提出する。しかし、それに対する反応は何もなかった。翌慶応4年1月3日(1月27日)、鳥羽・伏見において会津・桑名を中心とする旧幕府軍と新政府軍との間で戦闘が開始され、戊辰戦争が始まる(鳥羽・伏見の戦い)。大阪を警護していた継之助らは、旧幕府軍の敗退と慶喜が江戸へ密かに退いたのを知ると急ぎ江戸へ戻る。 藩主らを先に長岡へ帰させると、継之助は江戸藩邸を処分し家宝などをすべて売却。その金で暴落した米を買って函館へ運んで売り、また新潟との為替差益にも目をつけ軍資金を増やした。同時にスネル兄弟などからガトリング砲やフランス製の2000挺の最新式兵器を購入し、海路長岡へ帰還した。ちなもにガトリング砲は当時日本に3つしかなく、そのうち2つを継之助が持っていた。
2009.08.08
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嘉永3年(1850年)に梛野嘉兵衛(250石、側用人)の妹・すがと結婚する。継之助は青年時代から主に日本・中国(宋・明時代)の儒学者・哲学者の語録や明・清時代の奏義書の類の本をよく写本した。また、読書法についても後に鵜殿団次郎とそのあり方について議論した際、多読を良しとする鵜殿に対し、継之助は精読を主張したという。こうした書物に対する姿勢は後の遊学の際でも一貫していた。 さらにこの時期には小山良運〈160石、藩医、長男は明治期の画家・小山正太郎)や花輪馨之進(200石、のち奉行本役)、三間市之進(350石、のち奉行役加判)、三島億二郎(37石、藩校助教授、のち目付格、代官)といった同年代の若手藩士らと日夜意見を戦わせ、意気を通じ合わせていた。このグループは周囲からは「桶党」(水を漏らさぬほど結束力が固いという意)と呼ばれていたらしく、慶応期藩政改革の際には村松忠治右衛門(70石、安政期藩政改革の主導者、のち奉行格、勘定頭・郡奉行はか諸奉行兼帯)や植田十兵衛(200石、のち郡奉行・町奉行兼帯)らとともに次第に要職に就き、河井を中心とする改革推進派の主要メンバーとなった。 嘉永5年(1852年)の秋頃、継之助は江戸に遊学する。江戸にはすでに三島や小林虎三郎らが佐久間象山の許に遊学に来ていた。継之助はまず、三島を仲介に古賀謹一郎(茶渓)の紹介で斎藤拙堂の門をくぐった。また、同じ頃に象山の塾にも通い始めた。継之助は遊学中、三島や小林らと江戸の町を見物したり酒を飲んだりと自適の日々を送った。当時、大坂の敵塾にいた小山は小林の手紙でそんな3人の様子を知り、たいへん羨ましいと長岡の知人への手紙の中で述べている。 翌嘉永6年(1853年)、継之助は斎藤の許を去り、古賀の久敬舎に入門し、寄宿する。斉藤の塾を去ったのは、そこのは自分を高める会心の書がなかったためと言われる。一方、象山の塾には依然通い続け、砲術の教えを受けていた。ただし継之助は象山の人柄は好きでなかったらしく、後に同藩の者に「佐久間先生は豪いことは豪いが、どうも腹に面白くないところがある」と語ったという。久敬舎では講義はほとんど受けず、書庫で巡りあった「李忠定公集」を読みつつ、それを写本することに日々を費やした。そのため継之助は門人たちからは「偏狭・固陋」な人物と思われた。同年、ペリーが来航すると、当時老中であった藩主牧野忠雅は三島を黒船の偵察に派遣する一方、家臣らに対し広く意見を求めた。それを受け、継之助、三島、小林らはそれぞれ建言書を提出する。ともに藩政改革を記した内容だったようだが、三島と小林はその内容が忠雅の不評を買い帰藩を命じられた。反対に継之助の建言は藩主の目に留まることとなり、新知30石を与えられて御目付格評定方随役に任命され、帰藩を命じられた。そのため、「李忠定公集」全巻を写し終え題字を認めてもらうと、継之助は久敬舎を去り長岡へ戻った。 藩政の刷新を企図した継之助であったが、藩主独断での人事に反感を持った家老ばど藩上層部の風当たりが強く、結局何もできないまま2ヶ月ほどで辞職する。この固陋な有様に憤慨した継之助は藩主に対し門閥弾劾の建言書を提出する。その後、とくに何もないままの日々を過ごす。安政2年(1855年)、忠雅の世子・牧野忠恭のお国入りにあたり、継之助は経史の講義を行うよう命じられる。しかし継之助は「己は講釈などをするために学問をしたのではない、講釈をさせる入用があるなら講釈師に頼むが良い」とこれを跳ね除けたため、藩庁からお叱りを受ける。この間、射撃の練習に打ち込んでその腕を上げる一方、三島とともに東北へ遊歴した。安政5年(1858年)、家督をついで外様吟味役になると、さっそく宮路村での争そいを解決へと導いた。
2009.08.07
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河井継之助(かわい つぐのすけ、文政10年1月1日(1827年1月27日)-慶応4年8月16日(1868年10月1日))は幕末期の越後長岡藩牧野家の家臣である。「継之助」は幼名・通称で、読みは「つぐのすけ」とも「つぎのすけ」ともよまれる。諱は秋義(あきよし)。号は蒼龍う窟。禄高は120石。妻は「すが」。 河井家の先祖は、もともと近江国膳所藩本多氏の家臣である。藩主の娘が初代長岡藩・牧野忠成の嫡子・光成(藩主になる前に死去)へ嫁ぐにあたり、河井清左衛門と忠右衛門の兄弟が長岡へ帯同した。そして兄に40石、弟に25石が与えられ、そのまま牧野家の新参家臣となった。はじめに兄・河井清左衛門の家系は、その総領の義左衛門が近習・目付け班を進め大組入りした。戊辰戦争で従卒隊長であった河井平吉は、清左衛門の分家筋に当たる。 弟の忠右衛門は、はじめ祐筆役となり、その後郡奉行となった。この間に加増が2回あり、大組入りして100石となり、河井金太夫家と呼ばれた。継之助の河井家は、この忠右衛門(河井金太夫家)の次男・代右衛門信堅が新知30俵2人扶持を与えられ、宝永4年(1707年)に中小姓として召し出されたことにより別家となったものである。つまり河井家には、清左衛門を初代とする本家(50石)、忠右衛門を初代とする分家(100石、のちに20石加増)、信堅を初代とする分家(120石)があった。継之助の祖である信堅は、当初30俵2人扶持であった。その後、勘定頭、新潟奉行を歴任し物頭格にもなり、禄高は140石となった。そして、そのうち120石の相続が認められ、120石取りの家となったと推察される。ちなみに信堅が郡奉行であったことは藩政史料からは確認できない。3代目の代右衛門秋恒も、信堅と同じ役職を歴任した。継之助の父で郡奉行や新潟奉行などを歴任した4代目の代右衛門秋紀のとき、何らかの事情で20石減らされて120石となったと「河井継之助傳」にあるが、これは足高の喪失であって禄高そのものが減知されたものではないと思われる。ちなみにこの秋紀は風流人であったようで、良寛とも親交があった。 以上のように、家中における信堅系の河井家の位置は能力評価の高い役方(民政・財政)の要職を担当する中堅どころの家柄であったといえる。また他の河井家よりも立身したことで、河井諸家の中でも優位にあったと思われる。こうした河井家の立場は藩内や国内の情勢不安の中、継之助が慶応元年(1865年)に郡奉行に抜擢されて藩政改革を主導し、その後、役職を重ねるとともに藩の実権者となっていくこととなった素地であったといえる。 文政10年(1827年)、長岡城下の長町で代右衛門秋紀と貞との長男として生まれる。幼少の頃は気性が激しく腕白者で、負けず嫌いな性格であったといわれている。12,3歳の頃、それぞれ師匠をつけられて剣術や馬術などの武芸を学んだが師匠の教える流儀や作法に従わないどころか口答えし自分勝手にやったため、ついには師匠から始末に負えないと厄介払いされるほどであった。その後、藩校の祟徳館で儒学を学び始め、その際、都講の高野松蔭の影響で陽明学に傾倒していった。 天保13年(1842年)に元服、秋義を名乗る。信堅系の河井家の当主は、元服すると代々通称として「代右衛門」を世襲したが、継之助は元服後も幼名である「継之助」を通称として用いた。17歳のとき、継之助は鶏を裂いて王陽明を祀り、補国を任とすべきこと、すなわち藩を支える名臣になることを誓う。その翌年、城下の火災により継之助の家宅も焼失したため、現在跡地のある家に移り住む。
2009.08.06
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晩年の榎本武揚 翌明治2年(1869年)、「開陽」座礁沈没、戦費の枯渇、相次ぐ自軍兵士の逃亡、新政府軍斥候による弁天台場砲台閉鎖、函館湾海戦による全艦喪失など劣勢は決定的となり、榎本は降伏した。降伏を決意した榎本は、オランダ留学時代から肌身離さず携えていたオルトラン著「万国海律全書」(自らが書写し数多くの脚注等を挿入)を戦災から回避しようと蝦夷征討軍陸軍総参謀黒田了介(黒田清隆)に送った。黒田は榎本の非凡な才に感服し、皇国無二の才として断然助命しようと各方面に説諭、その熱心な助命嘆願活動により一命をとりとめ、江戸辰の口の牢に投獄された。また、榎本には批判的であった福澤諭吉も助命に尽力したひとりでもある。福沢は黒田から前記「海律全書」の翻訳を依頼されたが、一瞥した福沢は、その任に当たるについては榎本の他にその資格はなしとして辞退したと伝えられている。 明治5年(1872年)1月6日、榎本は特赦出獄、その才能を買われて新政府に登用された。同年3月8日、黒田清隆が次官を努める開拓使に四等出仕として仕官、北海道鉱山検査巡回を命じられた。 明治7年(1874年)、駐露特命全権公使となり、樺太・千島交換条約を締結した。またマリア・ルス号事件でペルー政府が国際法定に対し日本を提訴した件で、露帝アレクサンドル2世が調停に乗り出たことから、サンクトペテルブルクでの裁判に臨んで勝訴を得た。駐露公使就任にあたって、榎本は海軍中将に任命されたが、これは当時の外交慣例で武官公使の方が交渉上有利と判断されたためで、伊藤博文らの建言で実現したものである。旧幕府時代の経歴と直接の関係はない。しかし当時の海軍は大佐が最高位であったから破格の任官であった。 帰国後は外務省二等出仕、外務大輔、議定官、海軍卿、皇居御造営事務副総裁、駐清公使、条約改正取調御用掛等を歴任し、内閣制度の成立後は能力を買われて6度の内閣で連続して、逓信大臣、文部大臣、外務大臣、農商務大臣、を歴任した(文相・外相の前後に枢密院顧問官就任)。閣僚交代が頻繁であった当時、特に日清戦争只中の戦時内内閣時の農相在任期間は3年余に及び、歴代農相の中で最長を記録していることからも薩長藩閥にあってバランサーとして重用された榎本の稀代の才が窺い知れる。 農商務大臣時代には、懸案であった足尾鉱毒事件について初めて予防工事命令を出し、私的ながら大臣自ら初めて現地視察を行った。また、企業と地元民の間の私的な事件であるとしてきたそれまでの政府の見解を覆し、国が対応すべき公害であるとの立場を明確にし帰郷後、大隈重信らにその重要性を説諭、鉱毒調査委員会を設置し、後の抜本的な対策に向けて先鞭をつけ、自身は引責辞任した。 明治23年(1890年)には子爵となる。また憲法発布式では儀典長を務めた。 その一方で、旧幕臣子弟への英才教育を目的に、様々な援助活動を展開した。北海道開拓に関与した経験から、農業の重要性を痛感、明治24年(1888年)に徳川育英会育英学農業科(現在の東京農業大学)を創設し自ら学長となった。また、明治21年(1888年)から同41年(1908年)まで電気学会初代会長を務めている。また、黒田清隆が死去したときには並み居る薩摩出身の高官をさしおいて葬儀委員長を務めている。これは一説には黒田が晩年、藩閥の中にあって疎外されていて引き受ける者がいなかったためともいわれている。 明治41年(1908年)に死去、享年73.墓所は東京都文京区の吉祥寺。 思想は開明、外国語にも通じた。蝦夷政府樹立の際には、国際法の知識を駆使して自分たちのことを「事実上の政権」であるという覚書を現地にいた列強の関係者から入手する(交戦団体という認定は受けていない。また、この覚書は本国や大使の了解なく作られたものである)という、当時の日本としては画期的な手法を採るなど、外交知識と手腕を発揮した。 明治政府官僚となってからも、その知識と探究心を遺憾なく発揮し、民衆から「明治最良の官僚」と謳われたほどであったが、藩閥政治の明治政府内においては肩身の狭い思いもしばしであった。義理・人情に厚く、涙もろいという典型的な江戸っ子で明治天皇のお気に入りだった。また海外通でありながら極端な洋化政策には批判的で、園遊会ではあえて和装で参内するなどしている。 一方で福澤諭吉は榎本を嫌い、彼を「無為無策の伴食大臣。ニ君に仕えるという武士にあるまじき行動をとった典型的なオポチュニスト。挙句は、かつての敵から爵位を授けられて嬉々としている「痩我慢」を知らぬ男」と罵倒している。福澤は海軍大輔、海軍卿、枢密院顧問官などを務めた伯爵勝海舟も同書で攻撃しており、官職に就いた旧幕臣を批判的視点で見ていた。 山田風太郎は「もし彼が五稜郭で死んでいたら、源義経や楠木正成と並んで日本史上の一大ヒーローとして末永く語り伝えられたであろう。しかし本人は「幕臣上がりにしてはよくやった」と案外満足して死んだのかもしれない」と書いている。 五稜郭で敗れて、獄中にいる時、兄の家計を助けようとして手紙で、孵卵器や石鹸などの作り方や、新式の養蚕法・藍の採り方等詳細に知らせている。また舎密学(化学)については日本国中で自分に及ぶものはいないと自信を持っていたフシがる。 余談だが、彼が初代逓信大臣を勤めたとき、逓信省の「徽章」を決めることになった。明治20年(1887年)2月8日、「今より(T)字形を以って本省全般の徽章とす」と告示したものの、これが万国共通の料金未納・料金不足の記号「T」と紛らわしいことが判明した。そこで榎本は「T」に棒を一本加えて「〒」にしたらどうだ」と提案し、2月19日の官報で「実は〒の誤りだった」ということにして変更したといわれている。これは、あくまでも郵便マーク誕生に関する諸説のうちのひとつであるが、「テイシンショウ」の「テ」にぴたりと合致しており、彼の聡明さを象徴するようなエピソードでもある。著作に「渡蘭日記」「北海道巡回日記」「西比利亜日記」「流星刀記事」など。 曾孫に、作家で東京農業大学客員教授の榎本隆充がいる。
2009.08.05
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榎本武揚(えのもとたけあき、天保7年8月25日(1836年10月5日)-明治41年(1908年)10月26日)は、江戸幕末~明治期の武士・幕臣、政治家。海軍中将正二位勲一等子爵。徳川育英会育英学農業科(東京農業大学の前身)の創設者でもある。 通称は釜次郎、号は梁川。名前は「えのもとぶよう」と有職読みされることもある。父は幕臣榎本武規(円兵衛)、妻は林洞海の娘で林研海の妹でもある。家紋は丸に梅鉢。 のちに榎本武揚を称する榎本釜次郎は、江戸下谷御徒町(現東京都台東区御徒町)に生まれた。父はもとの名を箱田良助といい、備後福山藩箱田村(現広島県福山市神辺町箱田)出身で、江戸へ出て幕臣榎本家の株を買い、榎本家の娘と結婚することで養子縁組みして幕臣となり、榎本円兵衛武規を称した。 釜次郎は幼少の頃から昌平坂学問所で儒学・漢学、ジョン万次郎の私塾で英語を学び、19歳で函館奉行堀利煕の従者として蝦夷地函館(現北海道函館市)に赴き、樺太探検に参加する。安政3年(1856年)には幕府が新設した長崎海軍伝習所に入所、国際情勢や蘭学と呼ばれた西洋の学問や航海術・舎密学(化学)などを学んだ。 文久2年(1862年)から慶応3年(1867年)までオランダに留学。普墺戦争を観戦武官として経験、国際法や軍事知識、造船や船舶に関する知識を学び、幕府が発注した軍艦「開陽」で帰国、軍艦頭並を経て大政奉還後の慶応4年(1868年)1月に徳川家家職の海軍副総裁に任ぜられ、実質的に幕府海軍のトップとなった。 慶応4年(1868年)、徳川慶喜が大政奉還を行い、続いて戊辰戦争が起こった。開戦直後、榎本の率いる旧幕府艦隊は大坂の天保山沖に停泊していたが、鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍が敗北すると、大坂城にいた慶喜らは、主戦派の幕臣に無断で旗艦「開陽」に座乗し江戸へ引き揚げた(軍艦と輸送船を区別するため「丸」を付すのは輸送船のみとされており「開陽丸」は誤りである)。 新政府軍が江戸城を無血開城すると、徳川家に対する政府の処置を不満として榎本は抗戦派の旧幕臣とともに開陽、回天、蟠竜、千代田形、神速丸、実嘉保丸、咸臨丸、長鯨丸の8艦から成る旧幕府艦隊を率いて脱出する。途中暴風により清水沖に流された咸臨丸は新政府軍に発見され猛攻を受け拿捕された。新撰組や奥羽越列藩同盟軍、桑名藩藩主松平敬らを収容し蝦夷地(北海道)に逃走、函館の五稜郭に拠り、蝦夷共和国を樹立して入札(選挙)の実施により総裁となった。折りしも局外中立を宣言し新政府・旧幕いずれにも加担せずとの姿勢を貫いていた米国は新政府の巧みな切り崩しにより新政府支持を表明、幕府が買い付けたものの局外中立により所有が空中に浮いていた当時最新鋭の装甲軍艦「ストーン・ウオール・ジャクソン号」は新政府の手中に収まり「甲鉄」と命名された。当時最新最強と謳われた「開陽」でさえ木造艦であり、砲数・トン数では勝るものの防備性の劣勢は否めず、これを大いに憂慮した榎本は同艦奇襲・奪取の奇策を実行に移す。これは当時万国法にて認められていた戦法、いわゆる「アボルダージュ」であり、至近距離まで第三国の国旗を掲げて接近し至近距離で自国の旗に切り替え、接舷の上、特攻するというものである。榎本この作戦を「回天」「神速丸」の2艦を以って当たらし目、その長として「回天」艦長の甲賀源吾を任じた。同艦には土方歳三も座乗した。しかしまたもや暴風に見舞われ、神速丸は離脱、やむを得ず回天1艦のみでの突入となった。しかし接舷には成功したものの我彼の舷高に大いに開きがあり、突入を躊躇した榎本軍はガトリング砲の砲火を浴び、突入作戦に失敗、甲賀艦長も戦死するなど大打撃を受け敗走した。「開陽」を失い、新政府軍が甲鉄を手中に収めるにいたり、最大最強を誇った徳川海軍の劣勢は決定的となり、事実上、制海権を失ったのである。
2009.08.04
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勝海舟の銅像(墨田区役所うるおい広場) 日本史上、稀代の外交手腕と慧眼を備えた政治家・戦略家・実務家と評し心酔するファンがいる一方、成り上がりとして非常に毛嫌いする人も旧幕時代からいた。 坂本龍馬の文久3年の姉(乙女)宛ての手紙には「今にては日ノ本第一の人物勝麟太郎という人に弟子になり」とあり、西郷隆盛も大久保利通宛の手紙で「勝氏へ初めて面会し候ところ実に驚き入り候人物にて、どれだけ知略これあるやら知れぬ塩梅に見受け申し候」、「英雄肌で、佐久間象山よりもより一層、有能であり、ひどく惚れ申し候」と書いている等、龍馬や西郷のような無私の人物からは高く評価されていたことがわかる。 福沢諭吉の「痩我慢の説」は福沢の持論立国論が根本にあるが名指しで勝と榎本武揚を新政府に仕えた「やせ我慢」をせぬものと批判している。何度となく要請されても在野にあった福沢だが、同時に屁理屈や大言壮語、道理に合わない点は老齢となってからも受け付けなかった点もある(10分は水に潜っていられると友人に語った学生の言葉尻を捕えて洗面器を持ってきて顔をつけさせ誤りを認めさせた等)。「福翁自伝」でも勝に批判的なことからウマの合う、合わないの点も推察される。 死の三日後、氷川邸に勅使が来て賜ったが、この勅語が人物評価の参考になるかもしれない。 幕府ノ末造ニ方リ体勢ヲ審ニシテ振武ノ術ヲ講シ皇運ノ中興ニ際シ旧主ヲ輔ケテ解職ノ実ヲ挙ク爾後顕官ニ歴任シテ勲績愈々彰ル今ヤ溘亡ヲ聞ク曷ソ軫悼ニ勝ヘン茲ニ侍臣ヲ遣シ賻贈ヲ斎シテ以テ弔慰セシム・トラウマ 9歳の頃狂犬に睾丸を噛まれて70日間(50日間とも)生死の境をさまよっている。このとき父の小吉は水垢離(みずごり)をして息子の回復を祈願した。これは後も勝のトラウマとなり、犬と出会うと前後を忘れてガタガタ震え出す程であったという。・福澤諭吉との関係 木村摂津守の従者という肩書きにより自費で咸臨丸に乗ることができた福沢諭吉は、船酔いもせず病気もしなかった。一方、勝は伝染病の疑いがあったため自室に篭り切り、艦長らしさを発揮出来なかった。福澤は、それをただの船酔いだと考えていたようで、勝を非難する格好の材料としている。・海舟批判書状の「痩我慢の説」への返事 「自分は古今一世の人物でなく、皆に批評されるほどのものでもないが、先年の我が行為にいろいろ御議論していただき忝ないとして、「行蔵は我に存す、毀誉は他人の主張、我に与らず我に関せずと存候。」(世に出るも出ないも自分がすること、それを誉める貶すは他人がすること、自分は預かり知らぬことと考えています。) ・咸臨丸の実情 和船出身の水夫が60人。士分にはベッドが与えられていたが、水夫は大部屋に雑魚寝。着物も布団もずぶぬれになり、航海中、晴れた日はわずかで、乾かす間もなかった。そのため艦内に伝染病が流行し、常時14,5人の病人が出た(今でいう悪性インフルエンザか)。サンフランシスコ到着後には、3人が死亡、現地で埋葬された。ほかにも7人が帰りの出港までに完治せず、現地の病院に置き去りにせざるを得なかった。病身の7人だけを残すのが忍びなかったのか、水夫の兄貴分だった吉松と惣八という2名がみずから看病のため居残りを申し出た。計9人の世話を艦長の勝海舟はブルックスという現地の貿易商に託し、充分な金も置いていった。ブルックスは初代駐日公使ハリスの友人で、親日家だった。系譜 海舟の嫡男・小鹿(ころく)は海舟の最晩年に40歳で急逝したため、小鹿の一子・伊代子に旧主徳川慶喜の十男・精(くわし)を婿養子に迎えて家督を継がせることにした。海舟はこれを見届けるかのようにしてこの世を去っている。精は実業界に入り、浅野セメントや石川島飛行機などの重役をつとめた。 海舟の三女・逸(いつ)は、専修学校(現:専修大学)の創立者である目賀田種太郎に嫁いだ。 財務省理財局長の勝英二郎・世界銀行副総裁の勝茂夫の兄弟は曾孫にあたる。
2009.08.02
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勝は日本海軍の生みの親とも言うべき人物でありながら、海軍がその真価を初めて見せた日清戦争には終始反対し続けた。連合艦隊司令長官の伊東祐亨や清国の北洋艦隊司令長官・丁汝昌は、勝の弟子とでもいうべき人物であり、丁が敗戦後に責任をとって自害した際は堂々と敵将である丁の追悼文を新聞に寄稿している。勝は戦勝気運に盛りあがる人々に、安直な欧米の植民地政策追従の愚かさや、中国大陸の大きさと中国という国の有り様を説き、卑下したり争そう相手ではなく、むしろ共闘して欧米に対抗すべきだと主張した。三国干渉などで追い詰められる日本の情勢も海舟は事前に周囲に漏らしており予見の範囲だった。李鴻章とも知り合いであり、「政府のやることなんてえのは実に小さい話だ」と後述している。 晩年は、ほとんどの時期を赤坂氷川の地で過し、「吹塵録」(江戸時代の経済制度大綱)、「海軍歴史」、「陸軍歴史」、「開国起源」、「氷川清話」などの執筆・口述・編纂にあたったが、その独特な大風呂敷な記述を理解出来なかった読者からは「氷川の大法螺吹き」となじられることもあった。 明治32年(1899年)1月19日に脳溢血により意識不明となり、21日死去。最期の言葉は「コレデオシマイ」だった。 墓は勝の別邸千束軒のあった東京大田区の洗足池公園にある。千束軒はのちの戦災で焼失し、現在は大田区大森六中学校が建っている。右から三番目が勝海舟。他、大関増裕、松平太郎、稲葉正巳、石川重敬、ヴァン・ヴァルケンバーグ(アメリカ公使)、江連堯則(外国奉行)。 回想録として吉本みのるによる「氷川清話」や巌本善治による「海舟座談」がる。これは勝の談話を記者が速記したもので、勝の話し方の細かな特徴まで再現されており、幕末・明治の歴史を動かした人々や、時代の変遷、海舟の人物像などを知ることが出来る。ただし古い判では、当時の政治を批判した部分に、編集に当たった記者により歪曲・改竄のあとが見られるという。 膨大な量の全集があり、維新史、幕末史を知る上での貴重な資料となっている。勝は相当の筆まめであり、かなりの量の文章・手紙等が残っている。この筆力には父親の小吉の影響もある。一人称に「俺」を使う独特の言文一致体的な語りは、父・小吉の自伝「夢酔独語」と同じである。「清」という登場人物は夏目漱石の「坊ちゃん」の素材となったいる。語録 ・自分の価値は自分で決めることさ。つらくて貧乏でも自分で自分を殺すことだけはしちゃいけねえよ。 ・オレは、(幕府)瓦解の際、日本国のことを思って徳川三百年の歴史も振り返らなかった。 ・やるだけのことはやって、後のことは心の中でそっと心配しておれば良いではないか。どうせなるようにしかならないよ。(日本の行く末を等を心配している人たちに) ・文明、文明、というが、お前等自分の子供に西欧の学問をやらせて、それでそいつらが、親の言うことを聞くかえ?ほら、聞かないだろう。親父はがんこで困るなどと言ってるよ。 ・敵は多ければ多いほど面白い。 ・我が国と違い、アメリカで高い地位にある者はになその地位相応に賢うございます。(将軍家茂に拝謁した際、幕府の老中からアメリカと日本の違いは何か、と問われて) ・トウダイ、鉱毒はドウダイ。山を掘ることは旧幕時代からやって居たが、手の先でチョイチョイ掘って居れば毒は流れやしまい。海へ小便したって海の水は小便になるまい。今日は文明だそうだ。元が間違っているんだ。(足尾銅山の公害が明白になっても尚、採掘を止めない政府に対して) ・コレデオシマイ(亡くなった時の言葉) ・五尺に足らぬ四尺(子爵)なりけり。授爵したときの感想として。
2009.08.01
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慶応2年(1866年)、軍艦奉行に復帰、徳川慶喜に第二次長州征伐の停戦交渉を任される。勝は単身宮島の談判に臨み長州の説得に成功したが、慶喜は停戦の勅命引き出しに成功し、勝がまとめた和議を台無しにしてしまった。勝は時間稼ぎに利用され、主君に裏切られたのである。憤慨した勝は御役御免を願い出て江戸に帰ってしまう。 明治元年(1868年)、官軍の東征が始まると対応可能な適任者がいなかった幕府は勝を呼び戻し、徳川家の家職である陸軍総裁として、後に軍事総裁として全権を委任され旧幕府方を代表する役割を担う。官軍が駿府城にまで迫ると幕府側についたフランスの思惑も手伝って徹底抗戦を主張する小栗忠順に対し、早期停戦をと江戸城の無血開城を主張、ここに歴史的な和平交渉が始まる。 先ず3月9日、山岡鉄舟を駿府の西郷隆盛との交渉に向かわせて基本条件を整えた。この会談に赴くに当たっては江戸市中の撹乱作戦を指揮し、奉行所に逮捕されて処刑寸前の薩摩武士益満休之助を説得して案内役にしている。予定されていた江戸城総攻撃の3月15日の直前の13日と14日には勝が西郷と会談、江戸城開城の手筈と徳川宗家の今後などについての交渉を行う。結果、江戸城下での市街戦という事態は回避され、江戸の住民150万人の生命と家屋・財産の一切が戦火から救われた。 勝は交渉にあたって、幕府方についたフランスに対抗するべく、新政府側を援助していたイギリスの思惑を利用した。英国公使のパークスを使って新政府側に圧力をかけさせ、さらに交渉が完全に決裂した時は江戸の民衆を千葉に避難させた上、新政府軍を誘い込んで火を放ち、武器・兵糧を焼き払ったところにゲリラ的掃討戦を仕掛けて江戸の町もろとも敵軍を殲滅させる焦土作戦の準備をして西郷に決断を迫った。 この作戦はナポレオンのモスクワ侵攻を阻んだ1812年ロシア戦役における戦術を参考にしたとされている。この作戦を実施するにあたって、江戸火消し衆「を組」の長であった新門辰五郎に大量の火薬と共に市街地への放火を依頼し、江戸市民の避難には江戸および周辺地域の船をその大小に関わらず調達、避難民の為の食料を確保するなど準備を行っている。また慶喜の身柄は横浜沖に停泊していたイギリス艦隊によって亡命させる手筈になっていた。 この会談の後も戊辰戦争は続くが、勝は旧幕府方が新政府に抵抗することには反対だった。一旦は戦術的勝利を収めても戦略的勝利を得るのは困難であることが予想されたこと、内戦が長引けばイギリスが支援する新政府方とフランスが支援する旧幕府方で国内が二分される恐れがあったことなどがその理由である。 維新後も勝は旧幕臣の代表格として外務大丞、兵部大丞、参議兼海軍卿、元老院議官、枢密院顧問官を歴任、伯爵を叙された。 勝はこうした新政府の役職を得ながらも、仕事にはあまり興味がなく、出勤して椅子に座り、ただ黙っているだけの日々を送っていたという。本人は「部下に仕事を丸投げして、判子を押すだけのような仕事しかしてないよ」と語っている。 座談を好み、特に薩長の新政府に対して舌鋒鋭く批判し続けた。西郷隆盛や大久保利通、木戸孝允の大きさ、その後の新政府要人たちの器と比較して語っている。 徳川慶喜とは、幕末の混乱期には何度も意見が対立し、存在自体を疎まれていたが、その慶喜を明治政府に赦免させることに晩年の人生の全てを捧げた。この努力が実り、慶喜は明治天皇に拝謁を許されて特旨をもって公爵を授爵し、徳川宗家とは別に徳川慶喜家を新たに興すことが許されている。その他にも旧幕臣の就労先の世話や資金援助、生活保護など、幕府崩壊による混乱や反乱を最小限に抑える努力を新政府の爵位権限と人脈を最大限に利用して維新直後から30余年にわたって続けた。幕末には寒村でしかなかった横浜に旧幕臣を約10万人送り込んで横浜港発展に寄与したり、静岡に約8万人もの旧幕臣を送り込んで静岡の茶の生産を全国一位に押し上げ、名産としている。こうした努力から、新政府側の中心的役割を担った薩摩藩でさえも旧士族が反乱を起こし西南戦争という大規模な内戦にまで拡大したのに比べ、徳川幕府の旧家臣がこれといった反乱を起こさずに職業の転換を実現しているのは勝の功績である。明治期
2009.07.31
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剣術は、実父小吉の本家で従兄弟の男谷清一郎の道場、後に清一郎の高弟島田虎之助の道場で習い、直心影流の免許皆伝となる。師匠の虎之助の薦めにより禅も学んだ。 蘭学は、江戸の蘭学者の箕作阮甫に弟子入りを願い出たが断わられたので、赤坂溜池の福岡藩屋敷内に住む永井青崖に弟子入りした。弘化3年(1846年)には住居も本所から赤坂田町に移る。この蘭学修行中に辞書「ドウーフ・ハルマ」を一年かけ、二部筆写した有名な話がある。一部は自分のために、一部は売って金を作るためであった。この時代に蘭学者佐久間象山の知遇を得た。象山の薦めもあり西洋兵学を修め、田町に私塾(蘭学と兵法学)を開いた。 嘉永6年(1853年)、ペリー艦隊が来航(いわゆる黒船来航)し開国を要求されると、老中首座の阿倍正弘は幕府の決断のみで鎖国を破ることに慎重になり、海防に関する意見書を幕臣はもとより、諸大名から町人にいたるまで広く募集した。これに勝も海防意見書を提出した。勝の意見書は阿倍正弘の目にとまることとなる。そして幕府海防掛だった大久保忠寛(一翁)の知遇を得たことから念願の役入りを果たし、勝は自ら人生の運をつかむことができた。 その後、長崎の海軍伝習所に入門した。伝習所ではオランダ語がよく出来たため教監も兼ね、伝習生と教官の連絡役も果たした。長崎に赴任してから数週間で聞き取りもできるようになったと本人が語っている。そのためか、引継ぎの役割から第一期から三期まで足掛け5年間を長崎で過す。 この時期に当時の薩摩藩主島津斉彬の知遇も得ており、後の海舟の行動に大きな影響を与えることとなる。1860年渡米時にサンフランシスコにて撮影 万延元年(1860年)、咸臨丸で太平洋を横断してアメリカ・サンフランシスコへ渡航した。旅程は37日であった。この米国渡航の計画を起こしたのは岩瀬忠震ら、一橋派の幕臣である。しかし彼らは安政の大獄で引退を余儀なくされたため、木村摂津守が軍艦奉行並となり、勝は遣米使節の補充員として乗船した。 米海軍からは測量船フェニモア・クーパー号船長のジョン・ブルックス大尉が同乗した。通訳ジョン万次郎、木村の従者福澤諭吉も乗り込んだ。咸臨丸の航海を、勝も福澤も「日本人の手で成し遂げた壮挙」と自讃しているが、実際には日本人乗組員は船酔いのためにほとんど役に立たず、ブルックらがいなければ渡米できなかったという説がある。 福澤の「福翁自伝」には木村が「艦長」、勝は「指揮官」と書かれているが、実際にそのような役職はなく、木村は「軍艦奉行並」、勝は「教授方取り扱い」という立場であった。アメリカ側は木村をアドミラル(提督)、勝をキャプテン(艦長)と呼んでいた。アメリカから日本へ帰国する際は、勝ら日本人の手だけで帰国することができた。 帰国後、蕃書調所頭取・講武所砲術師範等を回っていたが、文久2年(1862年)の幕政改革で海軍に復帰し、軍艦操練所頭取を経て軍艦奉行に就任。神戸は、碇が砂に噛みやすく、水深が比較的深いので大きな船も入れる天然の良港であるから、神戸港を日本の中枢港湾(欧米との貿易拠点)にすべしとの提案を、大阪湾巡回を案内しつつ14代将軍徳川家茂にしている。 勝は神戸に海軍熟を作り、薩摩や土佐の荒くれ者や脱藩者が塾生となり出入りしたが、勝は官僚らしくない闊達さで彼らを受け容れた。さらに、神戸海軍操練所も設立している。 後に神戸は東洋最大の港湾へと発展していくが、それを見越していた勝は付近の住民に土地の買占めを勧めたりもしている。勝自身も土地を買っていたが、後に幕府に取り上げられてしまっている。 勝は「一大共有の海局」を掲げ、幕府の海軍ではない「日本の海軍」建設を目指すが、保守派から睨まれて軍艦奉行を罷免され、約2年の蟄居生活を送る。勝はこうした蟄居生活の際に多くの書物を読んだと言う。 勝が西郷隆盛と初めて会ったのはこの時期、元治元年(1864年)9月11日、大坂においてである。神戸港開港延期を西郷はしきりに心配し、それに対する策を勝が語ったという。西郷は勝を賞賛する書状を大久保利通宛に送っている。
2009.07.30
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勝海舟/勝安芳(かつ かいしゅう/かつ やすよし)は、江戸時代末期から明治期にかけての幕臣、政治家。位階勲等は正二位勲一等伯爵。 幼名は麟太郎(りんたろう)。本名義邦(としくに)、維新後改名して安芳。これは幕末に武官官位である「安房守」を名乗ったことから勝安房(かつ あわ)として知られていたため、維新後は「安房」をさけて同音(あん-ほう)の「安芳」に代えたもの。勝本人は「アホウ」とも読めると言っている。海舟は号で、佐久間象山から受領の篆刻「海舟書屋」から取ったものである。 父は旗本小普請組(41石)の勝小吉、母は信。幕末の剣客・男谷信友は従兄弟にあたる。海舟も十代の頃は剣術修行に多くの時間を費やしている。家紋は丸に剣花菱。 山岡鉄舟・高橋泥舟と共に「幕末の三舟」と呼ばれる。1887年哲学館(現:東洋大学)を創設した井上円了と親交があり、多くの寄付をしているため、「哲学館も三恩人」の一人と呼ばれている。 また、専修学校(現:専修大学)の繁栄にも尽力し、専修学校に「律増甲乙之以正澆俗 礼祟升隆之制以極頽風」という有名な言葉を贈って激励・鼓舞した。 勝海舟は文政6年(1823年)、江戸本所亀沢町の生まれ。父・小吉の実家である男谷家で誕生した。 曽祖父・銀一は越後国三島郡長鳥村の貧農の家に生まれた盲人であった。江戸へ出て高利貸し(盲人に許されていた)で成功し巨万の富を得、検校の位を買い、米山検校を名乗った。銀一の子・平蔵は、御家人株を入手して男谷家を興した。男谷家はのちに旗本に昇進した。その三男が海舟の父・勝小吉である。小吉は三男であったため、男谷家から勝家に養子に出された。勝家は小普請組という無役で小身の旗本である。勝家は天正3年(1575年)以来の御家人であり、系譜上海舟の高祖父にあたる命雅(のぶまさ)が宝暦2年(1752年)に累進して旗本の列に加わったもので、古参の幕臣であった。 幼少時、男谷の親類、阿茶の局の紹介で11代将軍徳川家斉の孫初之丞(後の一橋慶昌)の遊び相手として江戸城へ召されている。一橋家の家臣として出世する可能性もあったが、慶昌が早世したためその望みは消えることとなる。 生家の男谷家で7歳まで過したのちは、赤坂へ転居するまでを本所入江町(現在の墨田区緑4-24)で暮らした。
2009.07.29
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根来寺の大塔/国宝 根来衆との関係 根来衆と雑賀衆は、一部には混同される記述も見受けられるが、全く異なる点と極めて似通っている点がある。雑賀衆は鈴木重秀や土橋守重を始め、石山御坊などに籠城しているところから、浄土真宗門徒と考えられるが、根来衆は根来寺を中心とした真言宗の僧徒らの集団を指している。戦国時代には一説によると寺領が50万石とも70万石とも言われている。根来寺の僧は教学や儀式をつかさどる「学侶」と堂塔の管理や寺の防衛をつかさどる「行人」と分けられ、根来衆の大半は行人でしめられている。行人とは僧兵のことで根来衆は僧兵集団と解釈される場合もある。一方雑賀衆には、行人や僧兵と言われる人たちはいなかったと思われている。現在の和歌山市の全域と海南市の一部に、沢山いた土豪の集まりで、地域と密着した集団が雑賀衆と思われている。似通っている点としては優秀な鉄砲集団、傭兵集団で、地域も近く人的な交流もさかんであったと思われ、根来寺に入信後、後に雑賀衆として活躍したり、その逆も多々あったようである。 鉄砲 鉄砲伝来は天文12年(1543年)8月に鉄砲が種子島に我が国で初めて伝来したと思われている。その後根来寺の僧津田算長らが畿内に持ち帰っており、「戦国鉄砲 傭兵隊」によると根来衆経由で雑賀衆に持ち込まれたと思われている。根来衆の佐武伊賀守が天文18年(1549年)に鉄砲を習い始める、という記述が見受けられるので恐らくこの以前には根来衆に伝来していたと思われている。根来衆には一定量の鉄砲があったと思われているが、これらの鉄砲をどのようにして用意できたのか、現在に到り明確には解っていない。説としては、堺より外国から移入した、地元で作られた、当時は鉄砲作成技術はなく他の地域より職人を招いたなどが言われているが、いずれも推測の域を出ない。仮に鉄砲を自前で作成していたとしても、雑賀には鉄砲の材料となる鉄、真鍮、黒色火薬の材料となる硝石が生産されておらず、入手経路等を示す資料は解っていない。
2009.07.27
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雑賀衆(さいかしゅう)は、戦国時代に紀伊国北西部の雑賀荘を中心とする一帯(現在の和歌山市の雑賀崎)の諸荘園に居住した国人・土豪・地侍たちの結合した集団(一揆)である。雑賀党ともいい、「さいが」とも読む。16世紀当時としては非常に多い数千丁単位の数の鉄砲で武装しており、きわめて高い軍事力を持って傭兵集団としても活躍した。 雑賀衆を構成した主な一族としては、雑賀荘の土橋氏、十ヶ郷(現和歌山市北西部、紀ノ川河口付近北岸)の鈴木氏などが知られている。 雑賀衆は15世紀頃に歴史に現れ、応仁の乱の後、紀伊国と河内国の守護大名である畠山氏の要請に応じ近畿地方の各地を転戦、次第に傭兵的な集団として成長していった。紀ノ川河口付近を抑えることから、海運や貿易にも携わっていたと考えられ、水軍も擁していたようである。種子島に鉄砲の製造法が伝来すると、根来衆に続いて雑賀衆もいち早く鉄砲を取り入れ、優れた射手を養成すると共に鉄砲を有効的に用いた戦術を考案して軍事集団へと成長する。 1570年(元亀元年)に織田信長と三好三人衆の間で野田城・福島城の戦いが起こると、鈴木孫一(雑賀孫市)らを指導者とする雑賀衆は傭兵部隊として三好三人衆軍についた。一方足利義昭の要請に応じた畠山昭高が雑賀衆・根来衆らを援軍として送り出し織田信長軍についた。その後大規模な銃撃戦、攻城戦が繰り広げられたが「戦国鉄砲 傭兵隊」によると、雑賀衆同士が戦った可能性を示唆している。しかし石山本願寺が野田城・福島城の戦いに参戦すると、雑賀衆は一致して石山本願寺につき織田信長軍と戦った。しばしば鉄砲を有効に活用したとされる織田軍も、雑賀衆の鉄砲の技術と量には苦戦し、一度は信長自身も負傷する大敗を喫したことがあった(石山合戦)。顕如画像 信長は本願寺を倒すためにまず雑賀衆を抑えることを考え、1577年(天正5年)に信長自身率いる大軍をもって和泉国・河内国から紀伊に侵攻(第一次紀州征伐)し、雑賀衆に服属を誓わせた。しかし、この戦いで織田軍は損害を出し、服属させたはずの雑賀衆もすぐに自由な活動を再開して本願寺に荷担した。 1580年(天正8年)に門主顕如が石山本願寺から退去して石山戦争が終結すると、雑賀衆の門徒たちは雑賀の鷺森(現在の鷺森別院)に顕如を迎え入れた。畠山政尚を奉じて信長と争そう姿勢を示す。しかし、これ以降、織田信長に進んで従おうとする派と反織田を貫こうとする派が対立し、雑賀衆の内部は分裂することとなった。1582年(天正10年)には親織田派の鈴木孫一が反対派の土橋氏を倒すが、同年の本能寺の変によって信長が横死すると孫一は羽柴秀吉のもとに逃亡し、土橋派が主導権を握る。 以後は、もっぱら中央集権化を進めて土豪の在地支配を解体しようとする秀吉政権の動きに雑賀衆は一貫して反発し続け、根来衆と組んで小牧・長久手の戦いでは大坂周辺にまで出兵して尾張に出陣した秀吉の背後を脅かした。1585年(天正13年)、家康と和解した秀吉が紀伊に攻め入ってくる(第二次紀州征伐)と焼き討ちされた根来寺に続いて雑賀に対して攻撃が加えられ、雑賀衆は抵抗したがかなわずに壊滅した。 かつての雑賀衆は滅びた土豪勢力として帰農したり、各地に散らばって鉄砲の技術をもって大名に仕え、雑賀衆は歴史から消滅した。
2009.07.26
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系譜 先祖 神武天皇~武烈天皇=継体天皇-欽明天皇-用明天皇-聖徳太子 兄弟姉妹 ・母:蘇我石寸名 田目皇子(用明天皇の第一皇子) ・母:穴穂部間人皇女 厩戸皇子(聖徳太子) 来目皇子 殖栗皇子 茨田皇子 ・母:葛城廣子 麻呂子皇子 酢香手姫皇女 妻子 ・刀自古郎女 山背大兄王 財王 日置王 片岡女王 ・橘大郎女 白髪部王 手島女王 ・膳大郎女 長谷王 三枝王 伊止志古王 麻呂古王 春米女王 久波太女王 波止利女王 馬屋古女 ・莵道貝蛸皇女(うじのかいたこのひめみこ) 太子信仰 「聖徳太子は観音菩薩の生まれ変わりであると」として、太子自身を信仰対象にした例は古くからあるが、特に室町時代の終わり頃から、太子の忌日と言われる2月22日を「太子講」の日と定め、大工や木工職人の間で講が行われるようになった。これは、四天王寺や法隆寺などの巨大建築に太子が関わり諸職を定めたという説から、建築、木工の守護神として崇拝されたことが発端である。さらに江戸時代には大工の他に左官や桶職人、鍛冶職人など、様々な職種の職人集団により太子講は盛んに営まれるようになった。
2009.07.24
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慶雲3年(706年)に彫られたとされる「法起寺塔露盤銘」に「上宮太子聖徳皇」とあることについて、大山説では法起塔露盤銘は暦仁一年(1238年)頃に顕真が著した「聖徳太子伝私記(古今目録抄「法隆寺本」」にしか見出せないことなどから偽作とする。但し、全文の引用は無いものの、嘉禄三年(1227年)に四天王寺東僧坊の中明が著した「太子伝古今目録抄(四天王寺本)」には「法起寺塔露盤銘伝上宮太子聖徳皇壬午年二月二十二日崩云云」と記されている。また直木孝次郎は「万葉集」と飛鳥・平城京跡の出土木簡における用例の検討から「露盤銘の全文については筆写上の誤りを含めて疑問点はあるであろうが、「聖徳皇」は鎌倉時代の偽作ではないと考える」とする。また「日本書紀が成立する14年前に作られた法起寺の塔露盤銘には聖徳皇という言葉があり、書紀で聖徳太子を創作したとする点は疑問。露銘板を偽作とする大山氏の説は推測に頼る所が多く、論証不十分。」とする。 日本書紀における聖徳太子像について、大山説は藤原不比等と長屋王の意向を受けて、僧道慈(在唐17年の後、718年に帰国した)が創作したとする。しかし、森博達は「推古紀」を含む日本書紀巻22は中国音による表記の巻(渡来唐人の述作)α群ではなく、日本音の表記の巻(日本人新羅留学僧らの述作)β群に属するとする。「推古紀」は漢字、漢文の意味及び用法の誤用が多く、「推古紀」の作者を17年の間唐で学んだ道慈とする大山説には批判がある。森博達は文武朝(697年~707年)に文章博士の山田史御方(やまだのふひとみかた)がβ群の述作を開始したとする。 「播磨国風土記」(713年-717年頃の成立とされる)印南郡大国里条にある生石神社(おうしこじんじゃ)の「石の宝殿(石宝殿)」についての記述に、「原の南に作石あり。形、屋の如し。長さ二丈(つえ)、廣さ一丈五尺、高さもかくの如し。名號を大石といふ。傳へていへらく、聖徳の王の御世、弓削の大連の造れる石なり」とあり、「弓削の大連」は物部守屋、「聖徳の王(聖徳王)」は厩戸皇子と考えれれることから、「日本書紀」(養老4年、720年)が成立する以前に厩戸皇子が「聖徳王」と呼称されていたとする論がある。大宝令の註釈書「古記」(天平10年、738年頃)には上宮太子(厩戸皇子)の謚号を聖徳王としたとある。 「上宮聖徳法王帝説」巻頭に記述されている聖徳太子の系譜について、家永三郎は「おそくとも大宝(701~704)までは下らぬ時期に成立した」として、記紀成立よりも古い資料にによるとしている。 聖徳太子即位説 「聖徳太子は即位して天皇になった」とする説もある。
2009.07.23
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聖徳太子虚構説に対する反論としては、遠山美都男「聖徳太子はなぜ天皇になれなかったのか」(2000年)、上原和「世界史上の聖徳太子-東洋の愛と智慧」(2002年)、直木孝次郎「厩戸王の政治的地位について」、上田正明「歴史からみた太子像の虚実」(「聖徳太子の実像と幻像」所収)(2001年)、曽根正人「聖徳太子と飛鳥仏教」(2007年)、森田悌「推古朝と聖徳太子」(2005年)などがある。 聖徳太子については「日本書紀(巻22推古紀」、「三経義疏」、「天寿国繍帳(天寿国曼荼羅繍帳)」、「法隆寺薬師像光背銘文」、「法隆寺釈迦三尊像光背銘文」、「法隆寺釈迦三尊像台座内墨書」、「道後湯岡碑銘文(=伊予湯岡碑文、伊予国風土記逸文に記録。)、「法起寺塔露盤銘」、「上宮記」、「上宮聖徳法王帝説」などの歴史的資料がある。これらには厩戸皇子よりかなり後の時代、もしくは日本書紀成立以降に製作されたとする説があるものもあり、異説、反論もある。 法隆寺釈迦三尊像光背銘文について、大山説が援用する福山敏男説では後世の追刻ではないかとする。一方、志水正司は「信用してよいとするのが今日の大方の形勢」とする。 大山説では道後湯岡碑銘文は仙覚「万葉集註釈」(文永年間(1264年~1275年)頃)と「釈日本紀」(文永11年~正安3年頃(1274年~1301年)の引用(伊予国風土記逸文)初出であるとして、鎌倉時代に捏造されたものとする。一方、荊木美行は前掲二書に引用された伊予国風土記逸文を風土記(和銅6年(713年)の官命で編纂された古風土記)の一部としている。牧野謙次郎は「碑文の古きものは、伊豫道後温泉の碑、山城宇治橋の碑、舟首王の墓誌等がその最なるものである。」「道後温泉碑 推古天皇の四年に建てたもので碑は今日亡びてない。文は「續日本紀」に引く所にして、もと「伊豫風土記」に載せてあった。」と述べている。 「勝鬘経義疏」について藤枝晃は、敦煌より出土した「勝鬘義疏本義」と七割が同文であり、6世紀後半の中国北朝で作られたものであるとする。「法華経義疏」巻頭の題箋(貼り紙)について、大山説は僧侶行信が太子親選であることを誇示するために貼り付けたものとする。安本美典は題箋の撰号「此是大委国上宮王私集非海彼本」中の文字(「是」、「非」など)の筆跡が本文のそれと一致しており、題箋と本文は同一人物によって記されたとして、後から太子親選とする題箋を付けたとする説を否定している。また、題箋に「大委国」とあることから海外で作られたとする説も否定している。王勇は三経義疏について「集団的成果は支配者の名によって世に出されることが多い」としながらも、幾つかの根拠をもとに聖徳太子の著作とする。ただし、「法華経義疏」の題箋の撰号については書体と筆法が本文と異なるとして後人の補記であるとする。また花山信勝は「法華経義疏」行間の書込み、訂正について、最晩年まで聖徳太子が草稿の推敲を続けていたと推定している。 「天寿国繍帳」について大山説では天皇号、和風謚号などから推古朝成立を否定している。また、金沢英之は天寿国繍帳の銘文に現れる干支が日本では持統4年(690年)に採用された儀鳳暦(麟徳暦)のものであるとして、製作時期を690年以降とする。一方、大橋一章は図中の服装など、幾つかの理由から推古朝のものとしている。義江明子は天寿国繍帳の銘文を推古朝成立とみて良いとする。石田尚豊は技法などから8世紀につくるのは不可能とする。
2009.07.22
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河内三太子 聖徳太子ゆかりの寺院とされる叡福寺、野中寺(やちゅうじ)、大聖勝軍寺(たいせいしょうぐんじ)はそれぞれ上之太子(かみのたいし)、中之太子(なかのたいし)、下之太子(しものたいし)と呼ばれ、河内三太子と総称されている。 聖徳太子の著作 ・「三経義疏」(さんぎょうのぎしょ)。このうち「法華義疏」は聖徳太子の真筆と伝えられるものが御物となっており、現存する書跡では最も古く、書道史においても重要な筆跡である。 ・「四天王寺縁起」は、聖徳太子の真筆と伝えられるものを四天王寺が所蔵しているが、後世(平安時代中期)の仮託と見られている。 ・「十七条憲法」は、「日本書紀中に全文引用されているものが初出。 ・「天皇記」、「国記」、「臣連伴造国造百八十部并公民等本記」は、「日本書紀」中に書名のみ記載されるが、現存せず内容は不明。 ・「先代旧事本紀」は、序文で聖徳太子と蘇我馬子が著したものとしているが、実際には平安時代初期の成立と見られる。 ・「未来記」は、特定の書ではなく、聖徳太子に仮託した「未来記」を称する鎌倉時代に頻出する偽書群。 この他にも聖徳太子の名を借りた(仮託)偽書は多い。聖徳太子を描いたとされる肖像画「唐本御影」。この肖像画は8世紀半ばに別人を描いた者であるとする説もある。 聖徳太子についての諸説 聖徳太子虚構説 大山誠一は「厩戸王の事績と言われるもののうち冠位十二階と遣隋使の2つ以外は全くの虚構である」と主張している。さらにこれら2つにしても、「隋書」に記載されてはいるが、その「隋書」には推古天皇も厩戸王も登場しない、そうすると推古天皇の皇太子・厩戸王(聖徳太子)は文献批判上では何も残らなくなり、痕跡は斑鳩宮と斑鳩寺の遺構のみということになる。また、聖徳太子についての史料を「日本書紀」の「十七条憲法」と法隆寺の「法隆寺薬師像光背銘文、法隆寺釈迦三尊像光背銘文、天寿国繍帳、三経義疏」の二系統に分類し、すべて厩戸皇子よりかなり後の時代に作成されたとする。 大山は、飛鳥時代にたぶん斑鳩宮に住み斑鳩寺も建てたであろう有力王族、厩戸王の存在の可能性は否定しない。しかし、推古天皇の皇太子かつ摂政として、知られる数々の業績を上げた聖徳太子は、「日本書紀」編纂当時の実力者であった、藤原不比等らの創作であり、架空の存在でありとする。 大山説は近年マスコミにも取り上げられ話題となった。従来の論者とは違い、大山は古代史分野においても実績のある大学教授であったことから大きな反響を呼んだとも考えられる。 ただし、これ以前にもこうした虚構説あるいは架空説は存在しなかった訳ではなかった。例えば高野勉の「聖徳太子暗殺論」(1985年)では、聖徳太子と厩戸皇子は別人で実は蘇我馬子の子・善徳こそが真の聖徳太子であり、後に中大兄皇子に暗殺された事実を隠蔽するために作った残虐非道な架空の人物が蘇我入鹿であると主張している。また石渡信一郎は「聖徳太子はいなかった-古代日本史の謎を解く」(1992年)を出版し、谷沢永一は「聖徳太子はいなかった」(2004年)を著している。 さらにさかのぼれば、十七条憲法を太子作ではないとする説は江戸後期の考証学者に始まる。また、津田左右吉は1930年の「日本上代史研究」において太子作ではないとしている。井上光貞、坂本太郎らは津田説に反論している。また関晃は狩谷鍵斎、津田左右吉などの偽作説について、「その根拠はあまり有力とはいえない」とする。一方、森博達は十七条憲法を「日本書紀」編纂時の創作としている。
2009.07.20
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出生の伝説について 「厩の前で生まれた」、「母・間人皇女は救世観音が胎内に入り、厩戸を身籠った」などの太子出生伝説に関して、「記紀編纂当時既に中国に伝来していた景教(キリスト教のネストリウス派)の福音書の内容などが日本に伝わり、その中からイエス・キリスト誕生の逸話が貴種出世譚として聖徳太子伝説に借用された」との可能性を唱える研究者もいる。しかし、一般的には、当時の国際色豊な中国の思想・文化が流入した影響と見なす説が主流である。ちなみに出生の西暦574年の干支は甲午(きのえうま)でいわゆる午年であるし、また古代中国にも観音や神仙により受胎するというモチーフが成立し得たと考えられている(イエスよりさらに昔の釈迦出生の際の逸話にも似ている)。 片岡飢人(者)伝説 「日本書紀」によると次のようなものである。 推古天皇21年12月庚午朔(613年)皇太子が片岡(片岡山)に遊行した時、飢えた人が道に臥していた。姓名を問われても答えない。太子はこれを見て飲み物と食物を与え、衣を脱いでその人を覆ってやり、「安らかに寝ていなさい。」と語りかけた。太子は次の歌を詠んだ。 しなてる片岡山に 飯(いひ)に飢(ゑ)て 臥(こ)やせる その旅人(たびと)あはれ 親無しに 汝(なれ)生(な)りけめや さす竹の 君はや無き 飯に飢て臥せる その旅人あはれ 翌日、太子が使者にその人を見に行かせたところ、使者は戻って来て、「すでに死んでいました」と告げた。太子は大いに悲しんで、亡骸をその場所に埋葬してやり、墓を固く封じた。数日後、太子は近習の者を召して、「あの人は普通の者ではない。真人にちがいない」と語り、使者に見に行かせた。使者が戻って来て、「墓に行って見ましたが、動かした様子はありませんでした。しかし、棺を開いてみると屍も骨もありませんでした。ただ棺の上に衣服だけがたたんで置いてありました」と告げた。太子は再び使者を行かせて、その衣を持ち帰らせ、いつものように身に着けた。人々は大変不思議に思い、「聖(ひじり)は聖を知るというのは、真実だったのだ」と語って、ますます太子を畏敬した。 「万葉集」には上宮聖徳皇子作として次の歌がある。 家にあらば 妹(いも)が手纏う(ま)かむ 草枕客(たび)に臥やせる この旅人あはれ また、「拾遺和歌集」には聖徳太子作として次の歌がある。 しなてるや片岡山に飯に飢ゑて臥せる旅人あはれ親なし 後世、この飢人は達磨太師であるとする信仰が生まれた。飢人の墓の地とされた北葛城郡王寺町に達磨寺が建立されている。 墓所 墓所は大阪府河内郡太子町の叡福寺にある「叡福寺北古墳」が宮内庁により比定されている(聖徳太子御廟・磯長陵 しながりょう)。日本書紀には磯長陵とあるが、磯長墓と呼ばれることもある。穴穂部間人皇女と膳部岐岐美郎女を合葬する三骨一廟。後世に定められたものとする説もある。 直径約55メートルの円墳。墳丘の周囲は「結界石」と呼ばれる石の列によって二重に囲まれている。2002年に結界石の保存のため、宮内庁書陵部によって整備され、墳丘すそ部が3ヶ所発掘された。2002年11月14日、考古学、歴史学の学会代表らに調査状況が初めて公開された。墳丘の直径が55メートルを下回る可能性が指摘されている。叡福寺 聖徳太子墓
2009.07.18
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聖徳太子にまつわる伝説 豊聡耳 ある時、厩戸皇子が人々の請願を聞く機会があった。我先にと口を開いた請願者の数は10人にも上がった、皇子は全ての人が発した言葉を漏らさず理解し、的確な答えを返したという。この故事に因み、これ以降皇子は豊聡耳とも呼ばれるようになった。しかし実際には、10人が太子に順番に相談し、そして10人全ての話を聞いた後にそれぞれに的確な助言を残した、つまり記憶力が優れていた、という説が有力である。 「上宮聖徳法王帝説」、「聖徳太子伝暦」では8人であり、それゆえ厩戸豊聡八耳皇子と呼ばれるとしている。「日本書紀」と「日本現報善悪霊異記」では10人である。また「聖徳太子伝暦」には11歳の時に子供36人の話を同時に聞き取れたと記されている。 一方「豊かな耳を持つ」=「人の話を聞き分けて理解することに優れている」=「頭がよい」という意味で豊聡耳という名が付けられてから上記の逸話が後付けされたとする説もある。 なお一説には、豊臣秀吉の本姓である「豊臣」はこの「豊聡耳」から付けられたと言われる。 兼知未然 「日本書紀」には「兼知未然(兼ねて未然を知ろしめす、兼ねて未だ然らざるを知らしめす)」とある。この記述は後世に「未来記(日本国未来記、聖徳太子による予言)」の存在が噂される一因となった。「平家物語」巻第八に「聖徳太子未来記にも、けふのことこそゆかしけれ」とある。また、「太平記」巻六「正成天王寺の未来記披見の事」には楠木正成が未来記を実見し、後醍醐天皇の復帰とその親政を読み取る様が記されている。これらの記述からも未来記の名が当時良く知られていたことがうかがわれる。しかし、過去に未来記が実在した証拠が無く、物語中の架空の書か風聞の域を出ないものと言われている。江戸時代に、人心を惑わす偽書であるとして幕府により禁書とされ、編纂者の潮音らが処罰された「先代旧事本紀大成経」にある「未然本記」も未来記を模したものとみることができる。 四天王寺 蘇我氏と物部氏の戦いにおいて、蘇我氏側である聖徳太子は戦いに勝利すれば、寺院を建てると四天王に誓願を立てた。見事勝利したので、摂津国難波に日本最古の官寺として四天王寺(大坂市天王寺区)を建てた。 南嶽慧思の生まれ変り 「南嶽慧思後身説(慧思禅師後身説)」と呼ばれる説。聖徳太子は天台宗開祖の天台智義の師の南嶽慧思の生まれ変わりであるとする。「四天王寺障子伝(=「七代記)」、「上宮皇太子菩薩伝」、「聖徳太子伝暦」などに記述がある。 中国でも、「南嶽慧思後身説」は知られており鑑真渡日の動機となったとする説もある。
2009.07.17
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推古天皇15年(607年)、小野妹子、鞍作福利を使者として隋に国書を送った。翌年、返礼の使者である裴世清が訪れた。 日本書紀によると裴世清が携えた書には「皇帝問倭皇」(「皇帝 倭に問ふ」)とある。これに対する返書には「東天皇敬白西皇帝」(東の天皇 西の皇帝に敬まひて白す)とあり、隋が「倭皇」とした箇所を「天皇」としている。 厩戸皇子は仏教を厚く信仰し、推古天皇23年(615年)までに三経義疏を著した。 推古天皇28年(620年)、厩戸皇子は馬子と議して「国記」、「天皇記」などを選んだ。 推古天皇30年(622年)、斑鳩宮で倒れた厩戸皇子の回復を祈りながらの厩戸皇子妃・膳大郎女が2月21日に没し、その後を追うようにして翌22日、厩戸皇子は亡くなった。 厩戸皇子は当時最大の豪族である蘇我馬子と協調して政治を行い、隋の進んだ文化をとりいれて天皇の中央集権を強化し、新羅遠征計画を通じて天皇の軍事力を強化し、遣隋使を派遣して外交を推し進めて隋の進んだ文化、制度を輸入した。仏教の興隆につとめ、「国記」、「天皇記」の編纂を通して天皇の地位を高めるなど大きな功績をあげた。一般的に聖徳太子とされている人物の肖像が描かれた一万円札(C-一万円券) ・聖徳太子という名は生前に用いられた名称ではなく、没後100年以上を経て成立した以下の史料が初出と言われる。 ・「懐風藻」(天平勝宝3年・751年)に編纂とされる。 ・「日本書紀」(養老4年・720年):敏達天皇の妃推古天皇についての記事に「豊御食炊屋姫尊為皇后 是生二男五女 其一日 菟道磯津貝皇女也 是嫁於東宮聖徳」と見えるが、「聖徳太子」という名称は記されていない。 ・顕真の著「聖徳太子伝私記」に引用される「法起寺塔路盤銘」(慶雲3年・706年という)に「上宮太子聖徳皇」と見える。 ・他にも厩戸王、厩戸皇子、豊聡耳、上宮王、「上宮聖徳法王帝説」での厩戸豊聡耳聖徳法王、上宮聖徳法王、万葉集巻三の上宮聖徳皇子など、様々な名前で呼ばれる。 ・平安時代に成立した史書である「日本三代実録」「大鏡」「東大寺要録」「水鏡」等はいずれも「聖徳太子」と記載され、「厩戸」「豊聡耳」などの表記は見えないため、遅くともこの時期にはすでに「聖徳太子」の名が広く用いられていたことが伺える。 ・一般的な呼称の基準ともなる歴史の教科書においては長く「聖徳太子(厩戸皇子)」とされてきた。しかし上記のように「存命中に用いられていた名称ではない」という理由により、たとえば山川出版社の「詳説日本史」では2002年度検定版から「厩戸王(聖徳太子)」に変更された。 ・聖徳太子の肖像画は過去に紙幣(日本銀行券)の絵柄として何度か使用されている。特に高度成長期に当たる1958年から1984年に発行された「C-一万円券」が知られており、高額紙幣の代名詞として「聖徳太子」という言葉が使用されていた。なお、この肖像は太子を描いた最古のものと伝えられる唐本御影から採られている。新井薬師寺 16歳の聖徳太子像
2009.07.16
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戦後、馬子は泊瀬部皇子を皇位につけた(祟峻天皇)。しかし政事の実権は馬子が持ち、これに不満な祟峻天皇は馬子と対立した。祟峻天皇5年(592年)、馬子は東漢駒(やまとのあやのこま)に祟峻天皇を暗殺させた。その後、馬子は豊御食炊屋姫を擁立して皇位につけた(推古天皇)。天皇家史上初の女帝である。厩戸皇子は皇太子となり、推古天皇元年(593年)4月10日に、摂政となり、馬子と共に天皇を補佐した。 同年、厩戸皇子は物部氏との戦いの際の誓願を守り、摂津国難波に四天王寺を建立した。推古天皇2年(594年)、仏教興隆の詔を発した。推古天皇3年(595年)、高句麗の僧彗慈が渡来し、太子の師となり「隋は官制が整った強大な国で仏法を篤く保護している」と太子に伝えた。 推古天皇8年(600年)新羅征討の軍を出し、調を貢ぐことを約束させる。 推古天皇9年(601年)、斑鳩宮を造営した。聖徳太子立像(飛鳥寺) 推古天皇10年(602年)、再び新羅征討の軍を起こした。同母弟・来目皇子を将軍に筑紫に2万5千の軍衆を集めたが、渡海準備中に来目皇子が死去した(新羅の刺客に暗殺されたという説がある)。後任には異母弟・当麻皇子が任命されたが、妻の死を理由に都へ引き揚げ、結局、遠征は中止となった。この新羅遠征計画は天皇の軍事力強化が狙いで、渡海遠征自体は目的ではなかったという説もある。 推古天皇11年(603年)12月5日、いわゆる冠位十二階を定めた。氏姓制ではなく才能を基準に人材を登用し、天皇の中央集権を強める目的であったと言われる。 推古天皇12年(604年)4月3日、「夏四月 丙寅朔戌辰 皇太子親肇作憲法十七条」(「日本書紀」)いわゆる十七条憲法を制定した。豪族たちに臣下としての心構えを示し、天皇に従い、仏法を敬うことを強調している(津田左右吉などはこれを「後世における偽作である」としている)。 推古天皇13年(607年)、斑鳩宮へ移り住んだ。
2009.07.15
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聖徳太子(敏達天皇3年1月1日(574年2月7日~推古天皇30年2月22日(622年4月8日)(同29年2月5日説あり-「日本書紀」))は、飛鳥時代の皇族。 用明天皇の第二皇子。母は欽明天皇の皇女・穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)。また、「上宮聖徳法王帝説」などでは厩戸豊聡耳聖徳法王の子に山代大兄(山背大兄王)らがいるという。 本名は厩戸(うまやど)であり、厩戸の前で出生したことによるとの伝説がある。また母・穴穂部間人皇女が実母(小姉君)の実家で出産したため、つまり叔父・蘇我馬子の家で生まれたことから馬子屋敷が転じて厩戸と付けられたという説が有力である。別名・豊聡耳(とよとみみ、とよさとみみ)、上宮王(かみつみやおう)とも呼ばれた。「古事記」では上宮之厩戸豊聡耳命と表記される。「日本書紀」では厩戸皇子のほかに豊耳聡聖徳、豊聡耳法大王、法主王と表記されている。聖徳太子という名は平安時代から広く用いられ一般的な呼称となったが、後世につけられた尊称(追号)であるという理由から、近年では「厩戸王」の称に変更している教科書もある。 「随書」に記述された倭王多利思北狐による国書は聖徳太子らによる創作と言われている。 近年の歴史学研究において、太子の事績と言われてきたことや資料を否定する研究があることから、厩戸皇子の存在は認めるものの、「日本書紀」等の伝える聖徳太子像を虚構とする説もある。 天皇系図26~37代 敏達天皇3年(574年)、橘豊日皇子と穴穂部間人皇女との間に生まれた。橘豊日皇子は蘇我稲目の娘堅塩媛(きたしひめ)を母とし、穴穂部間人皇女の母は同じく稲目の娘小姉君(おあねのきみ)であり、つまり厩戸皇子は蘇我氏と強い血縁関係にあった。 幼少時から聡明で仏法を尊んだと言われ、様々な逸話、伝説が残されている。 用明天皇元年(585年)、敏達天皇崩御を受け、父・橘豊日皇子が即位した(用明天皇)。この頃、仏教の受容を巡って祟仏派の蘇我馬子と排仏派の物部守屋とが激しく対立するようになっていた。用明天皇2年(587年)、用明天皇は崩御した。皇位を巡って争いになり、馬子は、豊御食炊屋姫(敏達天皇の皇后)の詔を得て、守屋が推す穴穂部皇子を誅殺し、諸豪族、諸皇子を集めて守屋討伐の大軍を起こした。厩戸皇子もこの軍に加わった。討伐軍は河内国渋川群の守屋の館を攻めたが、軍事氏族である物部氏の兵は精強で、稲城を築き、頑強に抵抗した。討伐軍は三度撃退された。これを見た厩戸皇子は、白膠の木を切って四天王の像をつくり、戦勝を祈願して、勝利すれば仏塔をつくり仏法の弘通に努める、と誓った。討伐軍は物部軍を攻め立て、守屋は迹見赤壽(とみのいちい)に射殺された。軍衆は逃げ散り、大豪族であった物部氏は没落した。
2009.07.14
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網封蔵薬師坊庫裏(重文) 西円堂の背後に建つ。上御堂(重文) 西院伽藍の大講堂の真裏(北)に建つ。鎌倉時代の建立。釈迦三尊像(国宝)、四天王立像(重文)を安置。通常非公開だが、毎年11月1日~3日に限り堂内を公開。地蔵堂(重文) 西円堂の東側石段下に建つ。地蔵像半跏像(重文)を安置。食堂(じきどう)(奈良時代、国宝)および細殿(ほそどの)(鎌倉時代、重文) 西院伽藍の東方北寄りに建つ。食堂本尊の薬師如来坐像(重文)は奈良時代の塑造だが、補修が多い。本尊以外の仏像は大宝蔵院に移されている。網封蔵(こうふうぞう)(国宝) 聖霊院の東に建つ、奈良時代~平安初期の倉庫である。東大門(国宝) 西院から東へ向かう道筋に建つ、奈良時代の八脚門。旧富貴寺羅漢堂(重文) 西院から東院へ向かう道筋の南側、築地塀の内側にひっそりと建つ。もとは奈良県川西町の富貴寺(無住)にあり、荒れ果てていたのを、細川護立(侯爵、美術史家)が引き取り保存していたが、後、法隆寺へ寄進。平安時代の三重塔の初層のみが残ったものと思われる。子院中院本堂(重文) 境内に西端にある。宝珠院本堂(重文) 境内西端にある。堂内に文殊菩薩騎獅像(重文)を安置。律学院本堂(重文) 西院から東院へ向かう道筋の北側にある。宗源寺四脚門(重文) 西院から東院へ向かう道筋の北側にある。福園院本堂(重文) 西院から東院へ向かう道筋の南側にある。北至院本堂、同・太子殿、同・表門(各重文) 東院伽藍の北方にある。本堂には阿弥陀三尊像(重文)を安置する。文化財 明治維新後の廃仏毀釈により民衆にとる破戒にさらされ、さらに幕政時代のような政府にとる庇護がなくなった全国の仏教寺院は、財政面で困窮の淵にあった。また多くの寺院は老朽化し、重みで落ちそうな屋根全体を鉄棒で支えるような状況に至っていた。文明開化の時代に古い寺社を文化遺産とする価値観はまだなく、法隆寺はじめ多くの寺院が存続困難となり、老朽化した伽藍や堂宇を棄却するか売却するかの選択を迫られた。 法隆寺は、1878年(明治11年)貴重な寺宝300件余を皇室に献納し、一万円を下賜された。この皇室の援助で7世紀以来の伽藍や堂宇が維持されることとなった。皇室に献納された宝物は、一時的に正倉院に移されたのち、1882年(明治15年)に帝室博物館に「法隆寺献納御物」(皇室所蔵品)として収蔵された。戦後、宮内省所管の東京帝室博物館が国立博物館となった際に、法隆寺に返還された4点と宮中に残された10点の宝物を除き、全てが国立博物館蔵となった。さらにその後、宮中に残された宝物の一部が国に譲られ、これら約320件近くの宝物は、現在東京国立博物館法隆寺宝物館に保存されている。(有名な「聖徳太子及び二王子像」や「法華義疏」などは現在も皇室が所有する御物である)柿くへば 鐘が鳴るなり 法隆寺正岡子規金剛力士立像・吽形中門安置金剛力士立像・阿形中門安置宝鐘の発見 仏具の用語としてか残っていなかった「宝鐘」が法隆寺で発見された(1992年1月10日付)。環形蛍光灯をひもでつなぎぶら下げたような形で、室町時代以前の作であることが傘の墨書銘からわかった。建物の軒の下にさげられたと推測されている。
2009.07.13
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大湯屋表門大湯屋(重文)、大湯屋表門(重文) 西園院の西方、築土塀の内側にある。新堂(重文) 西園院に接して建つ持仏堂。薬師三尊像、四天王像(各重文)を安置。護摩堂 南大門を入って右側の子院・弥勒院に接して建つ。不動明王及び二童子像、弘法大師像(各重文)を安置。聖霊院(しょうりょういん)(国宝) 西院伽藍の東側に建つ、聖徳太子を祀る堂。鎌倉時代の建立。この建物は本来は東室の一部であったが、1121年にこてを再建するときに南半を改造して聖霊院とし、聖徳太子を祀った。現在の聖霊院は1284年に改築されたものである。聖徳太子及び眷属像(平安時代、国宝)、如意輪観音半跏像(重文)地蔵菩薩像(重文)を安置。太子の命日の旧暦2月22日を中心に(現在は3月22日~24日)、法隆寺最大の行事であるお会式(おえしき)が行われる。東室(ひがしむろ)(国宝) 聖霊院の北に接続して建つ。後世の補修・改造が多いが、基本的には奈良時代の建築で、当時の僧坊建築の遺構として貴重である。妻室(つまむろ)(平安時代、重文) 東室の東に建つ細長い建物。三経院及び西室(国宝) 西院伽藍の西側、聖霊院と対照的な位置に建つ。鎌倉時代の建立。阿弥陀如来坐像持国天・多聞天立像(各重文)を安置。西円堂(国宝) 西院伽藍の西北の丘の上に建つ八角円堂。鎌倉時代の建立。堂内の空間いっぱいに座す本尊薬師如来坐像(国宝)は、奈良時代の乾漆像。本尊台座周囲には小ぶりな十二神将立像(重文)、千手観音立像(重文)を安置する。護摩堂西円堂
2009.07.12
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観音菩薩立像(夢違観音)(国宝) 奈良時代、銅造。もと東院絵殿の本尊。悪夢を良夢に替えてくれるという伝説からこの名がある。地蔵菩薩立像(国宝) 平安時代、木造。桜井市の大神神社(おおみわじんじゃ)の神宮寺である大御輪寺(だいごりんじ)にあったが、明治の神仏分離で法隆寺へ移動した。大宝蔵院ができるまでは金堂内陣の裏側に安置されていた。六観音像(重文) 奈良時代、木造。六観音像と通称され、重要文化財の指定名称は「観音・勢至菩薩」、「日光・月光菩薩」、「文殊・普賢菩薩」となっているが、本来の名称は明らかでない。少しずつ様式の異なる3対の像から成る。東京の根津美術館には、この六観音像と酷似した菩薩像があり、もとは8体あったものとも言われる。梵天・帝釈天立像、四天王立像(重文) いずれも奈良時代の塑造で、もとは食堂(じきどう)本尊の薬師如来像を囲んで安置されていたものである。玉虫厨子(国宝) 飛鳥時代。もとは金堂に安置されていた、仏堂形の厨子である。建築様式的には法隆寺の西院伽藍よりやや古い時代を示し、飛鳥時代の建築、工芸、絵画の遺品として重要である。透かし彫りの飾金具の下に本物の玉虫の羽を敷き詰めて装飾したことからこの名がある。現在、玉虫の羽は一部に残るのみで、当初の華麗さを想像するのはむずかしい。厨子の扉や壁面の装飾画も著名で、釈迦の前世物語である「捨身飼虎図」(しゃしんしこず)、また「施身聞偈図」(せしんもんげず)は特に知られる。現在、5年の歳月と1億円以上費用をかけて作成された復刻版が本寺院に寄贈された。橘夫人厨子及び阿弥陀三尊像(国宝) 奈良時代。やはり金堂に安置されていたもの。厨子内の阿弥陀三尊像は奈良時代の金銅仏の代表作で、蓮池から生じた3つの蓮華の上に三尊像が表されている。金堂小壁画(重文) 1949年の金堂の火災の際、取り外されていたため難をまぬがれた、小壁の天人の壁画20面である。20面のうち一部が展示されている。 また、仏画、仏具、舞楽面、経典なども随時展示替えをしつつ公開されている。保存上の理由から常時公開されていない寺宝として四騎獅子狩文錦(唐時代、国宝)、黒漆螺鈿卓(平安時代、国宝)などがある。大宝蔵殿 大宝蔵院とは別個の建物。1939年の建設で、大宝蔵院が完成するまでは、この大宝蔵殿で多くの寺宝が公開されていた。現在は、春秋の観光シーズンのみ開館し、大宝蔵院に展示しきれないさまざまな寺宝を公開している。その他のおもな堂宇 法隆寺境内には、以上に述べた他に多くの堂宇や子院と呼ばれる付属寺院がある。なお、西円堂以外の堂内や仏像は原則として非公開である。南大門(国宝) 西院伽藍の南方、境内入口に建つ。入母屋造りの一重門。室町時代(1438年)に、当時の西大門を移築し建立。西園院客殿(重文)、西園院上土門(あげつちもん、重文)、西園院唐門(重文) 西園院は法隆寺の本坊(住職の居所)であり、南大門を入って左側、築地塀の内側にある。なお、西院・東院の築地塀も重文に指定されている。
2009.07.11
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東院鐘楼 ・行信僧都坐像(国宝) 奈良時代の乾漆像。行信は東院の建立に尽力した人物である。極端な吊り目の怪異な容貌が特色。 ・道詮律師坐像(国宝) 平安時代初期の作。この時代の仏像はほとんどが木彫であるが、本像は珍しい塑造である。道詮は、荒廃していた東院の復興に尽力した人物である。 ・聖観音立像(重文) 救世観音の背後に立つ。絵殿及び舎利殿(重文) 鎌倉時代の建立。絵殿には、摂津国(現在の大阪府)の絵師である秦致貞(はたのちてい、はたのむねさだ)が延久元年(1069年)に描いた「聖徳太子絵伝」の障子絵(国宝)が飾られていた。太子の生涯を描いた最古の作品であるが、明治11年(1878年)、当時の皇室に献上され、現在は「法隆寺献納宝物」として東京国立博物館の所蔵となっている。絵殿には江戸時代に描かれた「聖徳太子絵伝」が代わりに飾られている。伝法堂(国宝) 橘夫人(県犬養橘三千代(藤原不比等夫人、光明皇后母)と寺伝承では伝えられるが、現在では聖武天皇夫人・橘古奈可智とする説が有力)の住居を移転して仏堂に改めたものとされ、奈良時代の住宅遺構としても貴重である。多数の仏像を安置するが、通常は公開していない。内陣は中の間、東の間、西の間に分れ、それぞれ乾漆造阿弥陀三尊像(奈良時代、重文)が安置される。他に梵天・帝釈天立像、四天王立像、薬師如来坐像、釈迦如来坐像、弥勒仏坐像、阿弥陀如来坐像(各木造、平安時代、重文)を安置する。 東院には他に南門(鎌倉時代、重文)、四脚門(鎌倉時代、重文)、鐘楼(鎌倉時代、国宝)がある。玉虫厨子大宝蔵院 百済観音像をはじめとする寺宝を公開している。百済観音堂および東宝殿、西宝殿からなる建物で1998年(平成10年)完成した。観音菩薩立像(百済観音)(国宝) 飛鳥時代、木造。もとは金堂内陣の裏側に安置されていた。細身で九頭身の特異な像容を示す。和辻哲郎の「古寺巡礼」をはじめ、多くの文芸作品の中で絶賛されてきた著名な像であるが、その伝来や造像の経緯などはほとんど不明である。「百済観音」の通称は近代になってからのもので、明治初期までは「虚空菩薩像」と呼ばれていた。観音菩薩立像(九面観音)(国宝) 唐から将来の像。香木を用い、彩色を施さず白木で仕上げた、いわゆる檀像と呼ばれる像である。細かい装身具、体部から遊離している耳飾や天衣まで完全に一木で彫り上げた技巧的な像である。南大門
2009.07.10
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四天王立像(国宝) 飛鳥時代の山口大口費作。釈迦三尊像、薬師如来像が銅造りであるのに対し、木造彩色である。後世の四天王像と違って、怒りのポーズを表面にあらわさず、邪鬼の上に直立不動の姿勢で立つ。毘沙門天・吉祥天立像(国宝) 中の間本尊釈迦三尊像の左右に立つ、平安時代の木造彩色像。 なお、中の間と西の本尊の頭上にある天蓋(重文)も飛鳥時代のものである(東の間の天蓋は鎌倉時代)。五重塔(国宝) 木造塔として世界最古のもの。初重から五重までの屋根の逓減率(大きさの減少する率)が高いことがこの塔の特色で、五重の屋根の一辺は初重屋根の約半分である。初重内陣には東面・西面・南面・北面それぞれに塔本四面具(国宝)と呼ばれる塑造の群像を安置する(計80点の塑造が国宝)。この塑造に使用された粘土は、寺の近くの土と成分がほぼ等しいことから近くの土で作られたと推測される。東面は「維摩経」(ゆいまきょう)に登場する、文殊菩薩と維摩居士の問答の場面、北面は釈迦の涅槃、西面は分舎利(インド諸国の王が釈迦の遺骨を分配)の場面、南面は弥勒の浄土を表す。北面の釈迦の入滅を悲しむ仏弟子の像が特に有名である。五重塔内部にも壁画(現在は別途保管、重文)がったが、上から漆喰が塗られたりしたため、剥落が激しい。回廊(国宝) 金堂などとほぼ同時期の建立。廊下であるとともに、聖域を区切る障壁でもある。ただし、大講堂寄りの折れ曲がり部分は北は平安時代の建立である。当初の回廊は大講堂前で閉じており、大講堂は回廊外にあった。経蔵(国宝) 奈良時代の楼造(二階建)建築。観勒僧正座像(重文)を安置するが、内部は非公開。鐘楼(国宝) 経蔵と対称位置に建つが、建立時代は平安期。大講堂(国宝) 平安時代の移築。薬師三尊蔵(平安時代、国宝)と四天王像(重文)を安置する。大講堂東院伽藍 聖徳太子一族の住居であった斑鳩宮の跡に建立された。回廊で囲まれた中に八角円堂の夢殿が建ち、回廊南面には礼堂、北面には絵殿及び舎利殿があり、絵殿及び舎利殿に北に接して伝法堂が建つ。絵殿、舎利殿夢殿(国宝) 奈良時代の建立の八角円堂。堂内に聖徳太子の等身像とされる救世観音像を安置する。 ・観音菩薩立像(救世観音)(国宝) 飛鳥時代、木造。夢殿中央の厨子に安置する。長年秘仏であり、白布に包まれていた像で、明治初期に岡倉天心とフェノロサが初めて白布を取り、「発見」した像とされている。現在も春・秋の一定期間しか開扉されない秘仏である。当初のものと思われる金箔がよく残る。東院回廊と礼堂
2009.07.09
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中門西院伽藍 南大門を入って正面のやや小高くなったところに位置する。向かって右に金堂、左に五重塔を配し、これらを平面「凸」字形の回廊が囲む。回廊の南正面に中門(ちゅうもん)を開き、中門の左右から伸びた回廊は北側に建つ大講堂の左右に接して終わっている。回廊の途中、「凸」字の肩のあたりには東に鐘楼、西に経蔵がある。以上の伽藍を西院伽藍と呼んでいる。金堂、五重塔、中門、回廊は聖徳太子在世時のものではなく7世紀後半頃の再建であるが、世界最古の木造建造物群であることは間違いない。中門(国宝) 入母屋造りの二重門。日本の寺院の門は正面の柱間が奇数(3間、5間、7間等)になるのが普通だが、この門は正面柱間が4間で、真中に柱が立つ点で特異である。門内の左右に塑造金剛力士立像を安置する。日本最古(8世紀初)の仁王像として貴重なものであるが、風雨にさらされる場所に安置されているため、補修が甚だしく、吽形(うんぎょう)像の体部は木造の後補に代わっている。門は現在、出入り口としては使用されず、金堂等の拝観者は回廊の西南隅から入る。金堂金堂(国宝) 入母屋造の二重仏堂。ただし上層に部屋等がある訳ではなく、屋根を二重にしたのは外観を立派にするためである。金堂に見られる組物(軒の出を支える建築部材)は、雲斗、雲肘木などと呼ばれ、曲線を多用した独特のものである。この他、二階の卍くずしの高欄(手すり)、それを支える「人」字形の束(つか)も独特である。これらは法隆寺金堂・五重塔・中門、法起寺三重塔、法輪寺のみに見られる様式で7世紀建築の特色である。 二重目の軒を支える四方の龍の彫刻を刻んだ柱は構造を補強するため鎌倉時代の修理の際に付加されたものである。金堂の壁画は日本の仏教画の代表作として国際的に著名なものであったが、1949年、壁画模写作業中の火災により、初層内陣の壁と柱を焼損した。寺内大宝蔵院東側の収蔵庫に保管されているが、非公開である。なお、解体修理中の火災であったため、初層裳階(もこし)部分と上層のすべて、それに堂内の諸仏は難をまぬがれた。この火災がきっかけで文化財保護法が制定され、火災のあった1月26日が文化財防火デーになっている。堂内は中の間、東の間、西の間に分れ、それぞれ釈迦如来、薬師如来、阿弥陀如来を本尊として安置する。五重塔釈迦三尊像(国宝) 623年、止利仏師作の光背銘を有する像で、日本仏教彫刻史の初頭を飾る名作である。図式的な衣文の処理、杏仁形(アーモンド形)の眼、アルカイックスマイル(古式の微笑)、太い耳朶、首に三道(3つのくびれ)を刻まない点など、後世の日本の仏像と異なった様式を示し、大陸風が顕著である。薬師如来坐像(国宝) 東の間本尊。木像の脇持とされる日光・月光菩薩像は別に保管されるが、作風が異なり、本来具のものではない。阿弥陀三尊像(重文) 鎌倉時代の慶派の仏師・康勝の作。元来の西の間本尊が中世に盗難にあったため、新たに作られたもの。全体の構成、衣文などは鎌倉時代の仏像にしては古風で、東の間の薬師如来像を模したと思われるが、顔の表情などは全く鎌倉時代風になっている。脇持の勢至菩薩像は明治時代に寺外に出て、現在フランス・ギメ美術館蔵となっており、現在金堂にあるのは模造である。
2009.07.08
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2004年(平成16年)、奈良文化財研究所は、仏像が安置されている現在の金堂の屋根裏に使われている木材の年輪を高精度デジタルカメラ(千百万画素)で撮影した。その画像から割り出した結果、建立した年輪年代測定を発表した。それによると、法隆寺金堂、五重塔、中門に使用されたヒノキやスギの部材は650年代末から690年代末に伐採されたものであるとされ、法隆寺西院伽藍は7世紀後半の再建であることがあらためて裏付けられた。問題は、金堂の部材が、日本書紀の伝える法隆寺炎上の年である670年よりも前の伐採と見られることである。伐採年(668年)が日本書紀における法隆寺の焼失の年(670年)を遡ることは、若草伽藍が焼失する以前に現在の伽藍の建築計画が存在した可能性をも示唆するものであるが、これについては、若草伽藍と現在の伽藍の敷地があまり重なり合っていないことから、現在の伽藍は若草伽藍が存在している時期に建設が開始されたのではないかと考える研究者も存在する。 なお、五重塔の心柱の用材は年輪年代測定によって最も外側の年輪が591年のものとされており、他の部材に比べてなぜ心柱のみが特に古いのかという疑問が残った。心柱材については、聖徳太子創建時の旧材を転用したとも考えられている。 1972年に梅原猛が発表した論考「隠された十字架」は、西院伽藍の中門が4間で中央に柱が立っているという特異な構造に注目し、出雲大社との類似性を指摘して、再建された法隆寺は王権によって子孫を抹殺された聖徳太子の怨霊を封じる為の寺なのではないかとの説を主張した。この説は大論争を巻き起こしたが、歴史学の研究者は、一般的な怨霊信仰の成立が奈良時代末期であることなどを指摘し、概ね梅原説には批判的であった。 とはいえ、本書が与えた影響は大きなものがあり、山岸涼子は本書に直接のインスピレーションを得て「日出処の天子」を発表した。また建築家の武澤秀一は、中門の中心にある柱が怨霊封じの為であるという梅原の説は退けつつも、梅原の問題提起を高く評価し、イーフー・トウアンなど現象学的空間論を援用しながら、法隆寺西院伽藍の空間設計が、それ以前の四天王寺様式が持つ圧迫感を和らげる為に考案されたものであり、先行する百済大寺や川原寺で試みられた「四天王寺様式を横にした」空間構築の完成形であったのではないかと論じている。近代以降 ・1878年(明治11年)300件余の宝物を当時の皇室に献納し、金一万円を下賜された。これがいわゆる「法隆寺献納宝物」で、第二次大戦後は大部分が東京国立博物館の所蔵となり、ごく一部が皇室御物および宮内庁保管となっている。 ・1882年(明治15年)法相宗に転じる。 ・1884年(明治17年)フェロノサ、岡倉天心らにより法隆寺の宝物調査が行われ、夢殿の救世観音像がこの時数百年ぶりに開扉されたという(異説もある)。 ・1903年(明治36年)佐伯定胤が管主となり、廃仏毀釈で衰微していた唯識の教えを復興する。 ・1943年(昭和9年)「昭和の大修理」が開始。 ・1939年(昭和14年)「若草伽藍」発掘・ ・1949年(昭和24年)金堂壁画を火災で焼損。 ・1950年(昭和25年)法相宗を離脱し、聖徳宗を開く。 ・1985年(昭和60年)昭和の大修理完成。 ・1993年(平成5年)12月9日ユネスコの世界文化遺産に登録。
2009.07.07
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近代に入ると、廃仏毀釈の影響で寺の維持が困難となり、1878年(明治11年)には官長千早定朝の決断で、聖徳太子画像(唐本御影)をはじめとする300件余の宝物を当時の皇室に献納し、金一万円を下賜された。これらの宝物は「法隆寺献納宝物」と呼ばれ、その大部分は東京国立博物館の法隆寺宝物館に保管されている。 1934年(昭和9年)から「昭和の大修理」が開始され、金堂、五重塔をはじめとする諸堂宇の修理が行われた。「昭和の大修理」は第二次世界大戦を挿んで半世紀あまり続き、1985年(昭和60年)に至ってようやく完成記念法要が行われた。この間、1949年(昭和24年)には修理解体中の金堂において火災が発生し、金堂初層内部の柱と壁画を焼損した。このことがきっかけとなって、文化財保護法が制定されたことはよく知られる。1950年に法相宗から独立した。 1981年(昭和56年)からは「昭和資材帳調査」として、寺内の膨大な文化財の再調査が実施され、多くの新発見があった。調査の成果は「法隆寺の至宝-昭和資材帳」として小学館から刊行されている。昭和9年の大修理の際に裏山に築ていして貯水池を建設しそこから境内に地下配管して自然水利による消火栓を建設した。金堂火災の際初期消火に活用された。 法隆寺ではこの寺は聖徳太子創建のままであるという伝承を持っていた。しかし、明治時代の歴史学者は「日本書紀」の天智天皇9年(670年)法隆寺焼失の記述からこれに疑問を持ち、再建説を取った。これに対して建築史の立場から反論が行われ、歴史界を二分する論争が起こった。再建派の主要な論者は黒川真瀬、小杉榲邨(こすぎすぎむら)、喜田貞吉ら、非再建派は建築史の関野貞、美術史の平子鐸嶺(ひらこたくれい)らであった。 ・非再建論の主張 ・法隆寺の建築様式は他に見られない独特なもので、古風な様式を伝えている。薬師寺・唐招提寺などの建築が唐の建築の影響を受けているのに対し、法隆寺は朝鮮半島三国時代や、隋の建築の影響を受けている。 ・薬師寺などに使われている基準寸法は(大化の改新で定められた)唐尺であるが、法隆寺に使われているのはそれより古い高麗尺である。 ・日本書紀の焼失の記事は年代が誤っており、推古時代の火災の記事を誤って伝えたものであろう。など ・再建論の主張 ・日本書紀の記事は正確である。 ・飛鳥時代の様式や高麗尺が使われているといっても建設年代の決定的な証拠にばらない。など この他、論争の過程で、飛鳥時代に2つの寺が並存していた(一方が焼失した)等の説も出された。 非再建論の主な論拠は建築史上の様式論であり、関野貞の「一つの時代には一つの様式が対応する」という信念が基底にあった。一方、再建論の論拠は文献であり、喜田貞吉は「文献を否定しては歴史学が成立しない」と主張した。論争は長期に及びなかなか決着を見なかったが、1939年(昭和14年)、聖徳太子当時のものであると考えられる前身伽藍、四天王寺式伽藍配置のいわゆる「若草伽藍」の遺構が発掘されたことから、次第に再建説が有力となった。
2009.07.06
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