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2023.11.25
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テーマ: 読書(8559)

書名



夜と霧新版 [ ヴィクトル・エミール・フランクル ]

目次


心理学者、強制収容所を体験する
知られざる強制収容所/上からの選抜と下からの選抜

第1段階 収容
アウシュヴィッツ駅/最初の選別 ほか

第2段階 収容所生活
感動の消滅/苦痛 ほか

第3段階 収容所から解放されて


引用


しかし、行動的に生きることや安逸に生きることだけに意味があるのではない。そうではない。およそ生きることそのものに意味があるとすれば、苦しむことにも意味があるはずだ。苦しむこともまた生きることの一部なら、運命も死ぬことも生きることの一部なのだろう。苦悩と、そして死があってこそ、人間という存在ははじめて完全なものになるのだ。


感想


ガザ地区への戦闘が始まった時。
マンションにミサイルが撃ち込まれて崩れ落ちても、そこでその瞬間に死んだ人がいると私は知っていても、それでも、たぶん、私は、以前ほどの衝撃を受けなかった。
ウクライナでそれはもう、見たことがあった。崩れ落ちるビルを。あるいはその前にも。
起こらないと思っていたことが起きて、世界は確かな場所じゃなかったのだと「思い出す」。
引かれた線のあちらとこちら。
奪い合い、殺し合い、憎しみが憎しみを強固に繋ぎ合わせる。
その鎖の先に連なる私たち。
二千年後の君へ。

だから、知りたかった。
今ここで起きていることを、あとで「ああだった、こうだった」と、分析して、研究して、後悔して、忘却する。
それがまた繰り返されるのなら、何を忘れたのかを。


題名だけは超有名で知っていたけれど、読んだことがなかった。
思いのほか薄い本だったことに驚いて、さぞ凄惨な場面が続く、つらい描写のオンパレードなのだろうと覚悟して読み始めると、拍子抜けした。
もちろん、そこにあるのは「おそろしく、ひどいこと」を体験し、生き抜いた人の記録。
けれどそれだけじゃない。そこには、思い雲の切れ間からふと差し込む光のようなものもある。
どちらかというとこれは、一般的な「生きること」についての内容だった。


この苦しみに意味はあるのか?
どのみち死んでしまうのなら、この痛みは無意味なのか?
だとしたら、この生は無意味なのか?
苦痛に喘ぎながら、なぜ、生きるのか。

命あるものは、生まれ来た以上、みな死ぬ。
致死率100%の、紛うことなき事実の前で。
生きるとは、なんだろうか。

心理学者である筆者は、収容所の暮らしを観察する。
未来の自分が「強制収容所の心理学」という演目で聴衆を前に講演を行っていると思い描きながら。

1944年のクリスマスと1945年の新年の間の週に、収容所ではかつてないほど大量の死者を出す。
被収容者たちはクリスマスには家に帰れると素朴な希望を抱いており、落胆と失望により未来に目的をもてなくなり、死に至った。
著者はニーチェの言葉を引用する。
「なぜ生きるかを知っている者は、どのように生きることにも耐える」

これは、皮肉にも(その時代に戦争の目的とされていた幸福が達成されたあとの)現代の私たちにも当てはまる。
生きていることに、もう何も期待がもてない。
私はいつも、子供の頃のに読んだマンガ『赤ちゃんと僕』に出てきた少年を思い出す。
自殺したその子は、こう言い残すのだ。
「せんせい、ぼくはもう、いきていたくありません。」

著者は言う。
自身が「なぜ」存在するかを、その重みと責任を自覚すれば、人は生きていることから降りられないのだと。

なぜ生きるの?

けれど、その理由を手放す時が、ある。
重さを天秤にかけて、人生を降りるときが。

生きる意味を見失った被収容者は、「生きていることにもうなんにも期待がもてない」と崩れていく。
「こんな言葉にたいして、いったいどう応えたらいいのだろう。」
この著者の言葉は、今にも通じる。

希望を持て、と口先で叱咤激励することは容易い。
あなたは「」なのだから、生きなければならないのだと、その「」にあらゆる言葉を、役割を、責任を、あてはめても。
それでも秤が傾いて、ついにひっくり返ってしまいそうになるのなら。

私はそこに、「うつくしいもの」を載せる。
朝日のきらめき、季節の到来を告げる鳥、路傍の花、夕焼けに染まる空。
誰かの好意。親切。笑顔。
ちいさな「うつくしいもの」を、ひとつずつ。
かろうじて、天秤が戻るように。
惜しみなく世界から与えられる「うつくしいもの」を。

たぶん、この本が完膚なきまでの絶望に満ちていないのは、世界の「うつくしいもの」の片鱗が、そこにちゃんとあることが描かれているからだ。
この本を読んでいるあいだじゅう、不思議な気持ちがしていた。

恨みつらみのすべてを、悪逆非道の限りのすべてを、記すことも出来たはずだ。
それでも、なぜかこの本を読んだあとは、気持ちが明るい。
暗闇の中に明かりをみつけたような、そんな気分になる。

訳者あとがきを読んで知る。
この本には、「ユダヤ人」という表現が、わずか二度しか出てこない。
それも改訂版で加えられたもので、その前には一度も使われていなかったのだという。
(改訂版が出された1977年は、「イスラエルが諸外国からのユダヤ人をこれまでに増して奨励しはじめた年」だったそうだ。)

そのことに気づかずに、最後まで読んだ。
それゆえにか、これを普遍的な物語のようにして。

世界が夜に包まれて、それでも光を消さずにいられるだろうか。
自分の手元にある光を、守れるだろうか。
それを誰かのために灯せるだろうか。

霧の夜に誰かがーーー"It could be me."ーーーいなくなってしまう前に。


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最終更新日  2023.11.25 00:00:18
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