ETの未来主義ブログ

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2007.05.04
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カテゴリ: 関寛斎物語
第2回 関寛斎の人と仕事

服毒死
  関寛斎は江戸時代末期の天保1年2月18日(1830.3.12)に上総国の中村(千葉県東金市)に農家の長男として生まれた。亡くなったのは大正2(1913)年。北海道・十勝の斗満の地、享年82歳であった。当時とすれば非常な高齢であった。しかし天寿を全うしたとは必ずしも言えないようで、死因は自ら毒を飲んだのである。

いくつもの人生
  寛斎の生涯は、洋医学者を目指す修行時代、官医を勤めた時代、市井の町医者時代、斗満開拓の時代という4つに分けることができる。かれは医師としての道を志し30歳のときに長崎に私費留学して、来日していた蘭医ポンペに就いて西洋医学を治める。これが第1の西洋医学者としての時代である。32歳で修行を終え帰郷して町医者をしていたが、請われて徳島藩医として領主の専属医師となった。徳島藩は官軍となり藩命により寛斎は戊辰戦争に出征する。ここでかれの学んだ西洋医学の技術が活かされることとなり、寛斎は官軍の奥羽出張病院頭取に任命された。つまりは戦陣病院長である。官軍の勝利で明治政権が確立すると、徳島に戻り医学校教授、治療所長などの要職に任ぜられた。このままいけば医師として栄耀栄華が約束されるはずであったが、40歳を過ぎて突然、すべての官職を投げうち徳島で医院を開業する道を選んだ。一町医者として病気に苦しむ名もない市井の年寄りや子どもの治療に当たったのである。貧窮に苦しむ患者からは治療費を受け取ることがなかった。この町医者時代は約30年の長きにわたった。そして金婚式を終え73歳となった寛斎は、妻とともに老齢の身体に鞭打ち、未開の北海道・斗満の地に赴き、拓殖事業に余生を捧げることになる。そしてこの地が寛斎の人生終焉の場所となったのである。





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最終更新日  2007.05.05 09:50:13 コメントを書く


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