ETの未来主義ブログ

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2008.08.03
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カテゴリ: 地平線日記
  興味深いのは、荻原重秀と新井白石という同時代人である。生まれは白石が一年だけ早い。二人とも江戸が日本の中心となって半世紀ほど経ったときに生を受けた。人と業績はまったく正反対だ。重秀は有能な幕府の官僚、白石は将軍の個人的な政策ブレーンとして一時代を築いた。荻原重秀は中級の旗本の出身、天領、つまり幕府の私有地の検地の任務を与えられ実績を上げる。うまく官僚有力者の娘と結婚でき出世の階段に乗った。能力も優れていたが、目端の利く世渡りに長けた人だったのだろう。


  荻原重秀が後世に名を残したのが、金や銀の品位を下げた金銀貨の改鋳だ。勘定奉行、今でいえば財務大臣と日銀総裁を兼ねる勘定奉行の筆頭のときに、純金や純銀の含有量を二~三割も減らした元禄の貨幣大改鋳を行った。時代は、お犬様公方で有名な五代将軍綱吉のとき。六代将軍家宣のときに将軍の個人的な政策ブレーンとなった新井白石がこれを徹底的に批判した。


  荻原重秀はなぜこのときに本邦初の「悪貨」作りを企画したのだろう。当時の状況を知らなければならない。徳川家康は、江戸という世界最大の人工都市を作った。しかも当初は生産を一切せずの消費をするだけの大都市だ。その消費は参勤交代で大いに煽り立てられた。いわば巨大公共投資による経済成長の時代だった。重秀は河村瑞賢の新たな航路開発や三井高利の商店の繁盛ぶりを見聞きして、経済の盛り上がりの大きなうねりを経済官僚として実感していたことだろう。また50年ほど後には、本多忠利が通貨管理の必要性を説いているが、この頃に商人などでこういうことを主張する人がいたのであろう。


  経済が大きくなる割合に応じて通貨の量も増えなければデフレになる。当時はデフレ経済だった。経済は成長するのに小判や銀貨、銭の通貨量は昔のまま。どういうことになるかというとコメの価格が下がってしまう。なにしろコメが武士の給料だったから収入が目減りしてしまう。デフレ景気で経済成長にも水をさしかねない状況だった、いうわけだ。


  おまけに幕府の財政は火の車だった。主な財源は天領から入ってくる年貢米のみ。農業以外に産業というべきものが何もなかった。商品経済の発達で商業は新段階を迎え、小規模な工業は立ち上がりつつあったが、税金を取り立てたくても、元来、彼らの収入を捕捉することができないのである。機会を見つけて一時限りの冥加金や、自己申告の運上金を取り立てるのが関の山である。全国の大名から臨時に徴収しようにも大義名分がないとそれもむやみやたらとはいかない。要するに国としてカネを稼ぐ方法がなかったのだ。
だから足りないカネは反強制で商人から借りるしかなかった、もちろん利子はつく。

  極めつけは、幕府のなかが経済無知だらけだったこと。老中などと威張ってみても所詮は世間知らずのお殿様の集まりである。入りに合わせて出るを制する、というのが財政の基本であるのに、この人たちにはその発想がまるっきり欠落していた。倹約そっちのけで贅沢三昧しまくりであった。そこに現れたの荻原重秀というわけである。


  おそらく重秀は、この幕府の財政赤字、通貨供給量不足によるデフレ、という二重苦を一挙に解決する方法としてこの貨幣改鋳を考えついたのではないか、もちろんこれを重秀にアドバイスした商人や経世学者などはいただろうが。つまり貨幣の品位を下げることで改鋳益が生じ、幕府の金蔵には金や銀が増え、幕府の財政も改善する。通貨の供給も増えることからほど好いインフレとなり経済成長も阻害されることがない。また貿易決済を品位の低い通貨にすることは外国が嫌がるだろうから、輸入に頼っていた生糸などの生産も国内で盛んになるだろう。荻原重秀はこのように考えたのではないだろうか? もっとも改鋳以外に打つ手はなかった、というのが正直なところである。荻原重秀は、「他に方法はありません」と開き直ったことだろう。事実、この改鋳によって国内に出回った金貨は1.5倍、銀貨の量も1.3倍となった。重秀の策は成功したと見ることができる。とりあえず好景気も持続したことは歴史が証明している。


  しかし経済や財政に無知な幕府の要人たちはこの貨幣改鋳を、無からカネを作り出す、打ち出の小槌として捉えてしまった。なにしろ老中レベルに経済のわかる人はいなかったのだから。この前後に自然大災害が頻発したこともあるだろうが、幕府は贅沢消費を自粛することができなかったことが最大の不幸だった。おそらく老中たちから命令されるという形で、重秀は「悪貨」の発行に突き進んでいったのだろう。この品位を下げた貨幣改鋳を繰り返していくことになる。





  何も証拠はないのだが、荻原重秀は暗殺されたのではないだろうか? 重秀に生きていられると自分たちの保身が危ぶまれる、関係者が怯えた結果ではないのだろうか? 新井白石などの著書によると、改鋳は荻原重秀が無断で行った、と断罪しているが、本来そんなことが可能であろうか。少なくとも老中連の内諾はあったはずだ。


  ただ、荻原重秀は中途半端だった、と思わざるを得ない。江戸で主に使用されるのは金、大坂されるのは主に銀、という一国二通貨という異常な事態をなぜ統一しなかったのか? できなかったのか? という疑問が生ずる。記録が残っていないので不明だが、重秀がどう考えていたか興味のあるところだ。品位を落とした改鋳ほどの蛮勇があれば実現できたのではないだろうか? やはり当時の権力者の経済オンチによるものか? 荻原重秀本人が、金融政策について明確な信念がなかったからのかもしれない。歴史は明治になって円が導入されるまで金遣いの江戸、銀遣いの大坂という状況は継続してしまったのである。


  そしてこの荻原重秀の失脚を図ったのが誰あろう、われらの新井白石なのである。白石の容貌はやや異様だ。一般にイメージできるような枯れた儒学者の顔ではない。野望に燃える政治家を連想させる。白石は執拗に荻野重秀を攻撃した。前例に基づく真実を重視する儒学の立場からは、品位を下げて貨幣を鋳造するなどということは鬼の発想に思えたことだろう。当時とすれば、通貨の価値は現物にあり、というのが常識である。現代のように小石でも紙でも何でも国家通貨になりうるという発想はなかった。当時の知識人からすれば荻原重秀のしたことは悪魔の所業であったに違いない。


  そして新井白石は、半年間に3回も重秀を弾劾する文書を将軍家宣に退出する。綱吉時代に重用された重秀であるが、現下の金尽まりを解決する方法を知っている荻原重秀は貴重な存在として、家宣時代になっても重用されるが、不思議なことに、この白石が出した三回目の弾劾書によって即日、解任されてしまう。してやったり、白石が顔をほころばせる姿が浮かんでくるようである。もっともこのときが新井白石の最盛期だ。かれが頼みの綱とした六代将軍家宣は在位3年で急死する。八代目の将軍吉宗は白石を全く無視する。思想や政索提言能力は別として、以前の将軍に忠勤したことで、手垢のついたイメージで敬遠されたのかもしれない。白石のその後は、雨読晴著の日々となったのである。このときが一番、充実していたのではないか?


  新井白石には批判も多い。真部詮房と組んで幕政を我が物にしたというものだ。しかし白石の伝記などを読むと通説とは違う面も見えてくる。家宣将軍はとても聡明な人だったという気がする。よく読書もし、かつ、善政への意欲も高く、甲府の殿様だった頃からの主従の間柄である真部詮房を通して老中会議にいろいろな課題を投げかけたようだ。当時は、今のような法による統治ではなく、人による統治体制であったから、よりよい政治を行おうという気さえあれば、かなりのことができたようである。要は人財を輩出できるかが最大ポイントとなる。その意味では、当時の老中連はきわめて頼りない存在だったように映る。まあ苦労知らずの各地の藩主お坊ちゃんたちの寄せ集めなのだから仕方のないところである。


  秀才タイプの将軍が次々と下問するテーマについて、真部詮房も明確に返答することができない。お傍近くに長年仕えて勘の良さには恵まれているものの、的確な物言いをするための背景となる体系だった学識がないためである。その分、すべて難しい、政策判断を要することは新井白石の頭脳に頼られる結果となるのだ。


  これもかれの自伝から判断せざるを得ないのだが、かれの知識の量たるや半端ではない。いつの間にこれだけ勉強したのだろうか、と唖然とせざるを得ない。この宇宙に知らざることはなし、といった感じだ。もちろん、かれとて知らないことはある。しかし、何を調べればどこに知りたいことが出ている、ということはわかっている。知識人というのはこういう人をいうのである。自身の才覚に自信があるためか、論争者への反駁は執拗であり苛烈である。あれでは敵ができない方のがおかしい。


  冒頭で二人の共通性について話したが、他にも荻原重秀と新井白石の共通点はある。前のめり性ということだろう。重秀は、おそらく全体を見渡してこれが最良の策として貨幣改鋳を幕府に建策し、進めたのだろう。そこまでは良かった。しかし放漫財政を正当化させる打ちでの小槌として使われてしまった。おそらく重秀の本意とはかけ離れて、貨幣鋳悪への道を自ら切り開く結果となってしまった。どこかで冷静になり、暴走する幕閣を押し留める余裕が欲しかった。他方、新井白石はどうだろうか? かれは儒学という学問の世界の人である。指向としては単に学問の世界に留まらず、政索提言の道を好む傾向が強かったようだが、あまりにいろいろな面に手を出しすぎた。将軍家宣の求められるままに、通貨・経済政策、訴訟、など一見、専門の外と思われる分野にまで、多方面に建策をしている。かれの著書「折りたく柴の記」を読むと諮問された翌日に建策した、ということも多く載っている。事実、必至になって過去の資料を見、考えたのであろう。一面、努力の人である。それだけ家宣に信頼されたのであろう。「白石の言うことは私の発言だと思え」と将軍家宣が言った、と「折りたく柴の記」に書いてあるほどだ。

  最後に、私はこの二人を黄泉の世界で論争をさせてみたいのだ。生前には、もしかしたら二人は議論どころか直接に会ったこともなかったかもしれない。白石は実力者ではあるが、幕府の正式のメンバーではないから政策決定会議にも出席できないはずだからだ。あの世で二人が会って話し合ったらどういう具合になるだろうか? 想像するだけで楽しい気がする。シェークスピア風の戯曲の形にしてみようか。





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最終更新日  2008.09.14 07:32:59
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