2-25 昨日までの世界



篤が出かけ、いちひとを保育園に送り出してから、朝子はリビングのソファに一人座った。

「嘘つき・・・」

朝子は一人呟いた。

パパはいくらでも聞いてあげるなんて言ったけど、私の相談をちゃんと聞いてくれたことが今まであった?! ・・・あなたは朝早くから夜遅くまで仕事で、いつも家にいないじゃない。・・・言っても、適当に聞くだけで、ちっとも相談に乗ってくれないじゃない・・・・・。

その時脳裏に浮かんできたのは、篤でもいちひとでもなく、有芯だった。

彼が自分を呼ぶ声、抱き締める腕、キスをする唇・・・有芯に関したあらゆる記憶が押し寄せてきて、朝子は頭を抱え、激しく首を振った。

水滴が飛び散り、朝子は呆然とした。私・・・また泣いてるの?!

しんとした中、不意に携帯が鳴り、朝子は心臓が止まるかと思った。

電話の主は智紀だった。「朝子先輩! お久しぶりです~!」

朝子は涙を拭うと明るく言った。「ナマっち、久しぶりだね~! あれからどうしてた?」

「3ヶ月ぶりですね。安い給料であくせく働いてますよ。でも、まぁ、好きな仕事なんで、楽しいしやりがいありますけどね」

「ふーん、そうなんだー。ところで有芯に最近会った?」

聞いてしまってから、朝子は激しく後悔したが、遅かった。

「ああ、この前会いました。あいつ今失業中なんですよ。でも、前の彼女とより戻したって言って、なかなか幸せそうでしたよ」

朝子は何の言葉も発せずただ固まった。

「・・・先輩?」

「え、ううん、じゃねー」

朝子は一方的に電話を切った。不自然な切り方だったが、一分一秒でも早く本当に一人きりになりたかったのだ。

彼女はリビングを見た。さっきまでと何ら変りない景色のはずなのに、まるで違って見える。世界が終わってしまったかのようだ。

朝子は呆然とした。なんの感情も湧いてこない。

「・・・うっ」

やがて朝子の目から、大粒の涙がほろほろと零れ落ちた。

「有芯・・・」

涙と一緒に、一気に感情がおしよせ、目の前が回った。朝子は、ふらふらする体を壁にもたれさせ支えた。

所詮、一晩だけの関係だったのよね・・・。

私なんて・・・私なんて・・・・・。

そこまで考えて、朝子ははっとした。私は人妻で、あいつを捨てた。いじける権利すらないはずなのに、結局私は、有芯に愛されることを望んでいたの―――?!

「・・・終わりたい」

朝子は床にペタンと座り、朦朧とする景色を、朦朧とする意識の中恨んだ。彼女は後ろに倒れ、顔を覆いまた呟いた。

「辛ずぎ・・・る」

この想いを、そっくり捨てて生きられたらどんなに楽になれるだろう。

有芯はもう新しい道へ歩き出しているのに・・・どうして私だけまだここにいるんだろう。

朝子は声を上げて泣いた。誰に聞かれても構わない。もうここは、昨日までの世界じゃない―――。




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