2-31 先輩として



有芯がやっと朝子を下ろしたのは、彼女の予想通りの場所だった。

古ぼけたドアを開くと現れる、古ぼけた本棚。古ぼけた台本。古いパイプ椅子に、古い机。朝子と有芯の在学中からあった長椅子もそのままだ。演劇部の部室は、10年前とほとんど変わりない姿でそこに存在している。

朝子は長椅子の上から辺りを見回し、心で悪態をついた。在校生、鍵くらい付けなさいよ!でないとこんな風に、不正に進入されるのよ・・・!?

少しでも落ち着こうと、深呼吸をすると朝子は言った。

「どうして、ここに連れてきたの・・・?!」

「ここなら素直になるんじゃないかと思って」

言いながら近づいてくる彼の唇を必死でかわし、明らかに性的な動きをするその両手を遮り、朝子は言った。

「やめてよ・・・あんた、自分が何やってるか分かってるの?!」

「分かってるつもりだけど? 大声出すなよ」

下着の中に入ってきた手を引っ張り出すと、朝子はその甲を思い切りつねった。

「いてっ!」

「呆れてものが言えないわ・・・! 何が、他人の女と寝ない主義よ?!」

「悪いかよ? 他人の女とは寝たくないんだ」

「だったら・・・」

「お前を旦那から奪う」

冗談やめて・・・と言おうと、有芯の顔を見て朝子は口をつぐんだ。聞かなくてもわかる。この顔は・・・有芯が本気な時の顔。

「俺の女となら寝たっていいだろ」

そう言い、身体を求めてくる有芯を押しのけながら、朝子はふと、彼と一緒にいた若い女のことを思い出した。

「ちょっと待って。今のあんたの言葉を、彼女が聞いたらどう思うの?!」

有芯は一瞬眉を顰めた。「あいつは関係ねぇよ」

途端に、有芯の頬に朝子の平手が勢いよく飛んだ。

「大馬鹿! それでも男?! これ以上女の子を不幸にするのはやめなさい!」

有芯は腑に落ちないという顔で打たれた頬を押さえ、朝子を見つめている。「・・・それ、自分のことかよ?」

「違う! 私はあなたと別れて幸せだもの」

それを聞いて有芯は声を荒げた。「ああそうかよ! じゃあ聞くけどな、何で泣いてたんだ?!」

「泣いてなんかいないわ。りんご飴で手がベタベタになって、洗ってただけ」

「そんなの口実だろ。絶対に泣いてた」

「そう。別にいいわよ、勝手にそう思っていればいいわ・・・」

朝子はため息をつくと、長い髪を後ろに流し、外を見た。窓の外では、たくさんの花火が次から次へとドンドン打ち上げられている。

「・・・ねぇ、私たち・・・ここでみんなと部活してたのよね」

「ああ・・・してた」

しばらくの沈黙の後、朝子が言った。

「ここで・・・しないで。ここは、みんなの部室だもん。ホテルじゃない」

有芯はニヤリと笑った。「へぇ~ここじゃなきゃいいんだ?」

「そうは言ってない。・・・どこだってダメ」

朝子が俯くと、有芯は彼女の髪を撫でた。朝子はその手を振り払うと、有芯に背を向けた。

演劇の神様、私に少しだけ、力をください・・・。

「・・・先輩として言わせてもらうけど、自分の今後を、きちんと考えなさい。もう10代のガキじゃないんだから。いつまでも働かないでブラブラしていると、自分を見失うわよ」

有芯は朝子の隣で、後ろ頭をくしゃくしゃにしている。朝子はそれをチラリと見て苦笑した。やっぱりあなたは変わらないわね。ここの制服着てた頃と、同じ。

あなたの演劇に対する想い。

あなたの私に対する想い。

私だけに見せてくれた、少年のような笑顔や、思慮深い眼差し。

それを想うと胸が詰まりそうになる。でも、私はあの頃と同じじゃいられないの。

だから、ここから出て行かなくては。そして・・・有芯のことも、ここから連れ出さなくてはならない。

朝子は長椅子から立ち上がった。一緒に立ち上がった有芯を見上げ、彼女は精一杯微笑んだ。

「人妻のことなんかさっさと忘れて前に進むのよ。悪いけど、私はあなたのことを後輩としてしか見られない。それから、本気じゃないなら、彼女にいつまでも気を持たせるものじゃないわ。気をつけないと痛い目見るわよ。・・・じゃあね」




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