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3-21 厄日
有芯はショックで呆然としている心を抱え、俯きながら来た道を戻り始めた。しかしバスに乗りかけて彼は思い直し、そこからそう遠くない智紀の部屋に向かった。
曇り空だ。残暑の頃といえど朝の空気は冷たく、鳥の囀りすら澱んで聞こえる。
有芯は煙草を取り出そうとしたが、やめにして足早に歩いた。何も考えずに歩きたくても、何の変哲もない平穏な光景がよけい彼に現実を思い知らせるのだった。
部屋に智紀はいなかったが、ひどく錆びた郵便受けにはいつものとおり手作りのビラが500枚近く入れられている。有芯はそれらを手にし、駅に向かった。
駅の利用者に人探しのビラを配って話を聞こうとするも、なかなか足を止めるものはいない。50人に一人が足を止めれば、まだいい方だ。
日が高くなるにつれ、雲が晴れ気温が高くなり始めた。有芯は、いつもビラ配りをする際に必ず持ってくるタオルを忘れたことに気付いたが、後の祭りだった。彼は流れ落ちる汗を拭うと、駅の売店に行き500mlのお茶とハンカチを買った。日差しはどんどん強くなり、まるで真夏のようだ。
やがて一人の黒いスーツを着込んだ男が、売店の前でお茶を飲んでいる有芯に近づいた。その男は熱心に有芯の話に耳を傾けたが、朝子のことは何も知らないようだった。男はビラを手にとると有芯に頑張ってと言い、有芯は男に話を聞いてくれた礼を言った。
なるべく時計を見ないようにしながら、有芯は駅前に立ち、通りすがる人々に声をかけつづけた。
昼近くなり、彼が何の収穫もないまま引き上げようとした時、白いスーツを着た男が近づいてきた。その男からは、水商売の店のようなきつい香水の匂いがする。
「何やってんの、人探し?」
そう声をかけられ、有芯は仕方なく男の顔を見た。感じの悪そうな人物ではあったが、ここで人探しらしいことをしているのは彼だけなので、そのまま無視するわけにもいかない。それに有芯はどんなことでもいいから朝子について何か情報が欲しかった。たとえどんな人物でも、何でもいいから話をしなければと思い、彼は真昼に不似合いなチャラチャラした男と向き合った。
「あ、はい」
「どれどれ」
その男がプリントされた朝子の写真をじっと見つめている間、有芯はその様子を無言で見守った。近くで見ると、男は肌荒れを隠すかのように薄く化粧をしていて、完璧な形に整えられた髪は何かの整髪料でガチガチに固められている。
やがて、「ふむ」と男は言い、ビラを有芯に返した。
「俺、このコ知ってるよ」
有芯は思ってもみなかった答えに思わず声を裏返らせた。「本当ですか?!」
「ああ」男は自信満々でそう言うと、急に小声になった。
「ここだけの話だよ。他言無用だよ?! ………実はね、俺、何日か前にその子とやったの」
有芯の頭は、一瞬真っ白になった。「…………は、い?」
男は小声のまま話を続けた。「誰にも言っちゃだめだよ。その子、うちの店で援交してるの。ばれたらうちの店警察来ちゃうからさぁ」
有芯は後ろ頭をカリカリと掻いた。朝子が援助交際などをするはずがない、誰かと勘違いしているか、嫌がらせだな。有芯はそう思うと溜め息をつき、遠回しに否定するつもりで言った。
「……これ、10年前の写真なんで、本人は今27才なんです」
男は大げさに驚いた。「そうなの?! そうは見えなかったなぁ。でも、確かに言われてみれば、高校生にしては淫乱だったな」
有芯は会社で営業をしていた時代に培った精神力を駆使し、明るく言った。「多分人違いですよ、ご協力ありがとうございました」
しかし、男が「いやいやいや! 絶対この子だよ!」と食い下がったことで、彼の営業スマイルは全て失せた。
「違います。朝子はそういうことする女じゃない」
「ねぇ、その朝子って君の何?」
男が薄ら笑いを浮かべ、ビラと有芯を交互に指差しながら言ったことで、朝子を知っているというのは嘘だと有芯は確信した。
「今帰るところなので失礼します」
「待ちなよ待ちなよ、怒らないでよ。ひょっとして君の恋人だったの、だったらかわいそうなことしたなぁって思ってさ。ごめんね、本当ごめん。でも、いい身体してるよね朝子はマジで。感じてる声も可愛くって、今夜も夢に出てきそうだよ」
有芯が気付いた時にはもう、白スーツの男を殴り倒し、その上に跨って何度も殴りつけた後だった。やがて我に返って彼が見ると、目の前には元の顔の形が分からなくなった男が、汚れた白いスーツをまとって、ひいひい言いながらべそをかいていた。
「……痛い……いきなり殴るなんてひどいよ」
そう言って泣き出した男を見て、有芯は怒りが失せていくのを感じ、代わりにうんざりしながら立ち上がった。
「自業自得だろうがよ! ………まだ殴られたくなかったら、さっさと帰れ」
有芯が凄むと、白スーツ男はよろよろと駅の外へ出て行った。有芯は深いため息をつくと後ろ頭をぐしゃぐしゃにし、通報されたりしないうちにと足早に駅を出た。
彼はずんずん歩いていった。バスに乗る気も起こらなかった。久々に人を殴ったおかげなのか、心臓がバクバクとものすごい音で鳴り、指までもが震えている。彼はまず落ち着こうと、やっとのことで煙草を取り出し、火をつけた。
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