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3-31 『運命』
車内に有芯の口笛が響いている。しかし彼は決して上機嫌なわけではない。疲れきった顔でナビを睨んでいる彼が口笛で吹いている曲は、ベートーヴェンの『運命』だ。
「ねぇ~~おなかすいたよーーーごはんまだ?!」
「………」
返事をしたり文句を言う気力すらもうない。有芯は一瞬口笛を止め、いちひとの顔をチラリと見やるとまた曲を冒頭に戻して吹き始めた。
「ねーぇ、それなんていう歌?」
有芯は答えずに、両手で後ろ頭をガサガサと掻いた。そしてその手を一気に下ろすと、「なぁ、ちょっと静かにしてくれねぇか?!」と、やっとのことで言葉を発した。
「ぼく、ずっと静かにしてたよ」
不満そうに言ういちひとに、有芯は頭の中が真っ白になりそうだった。
「…………………そうだな」
それだけ言うと、有芯はまたナビを操作し始めた。
道を探りながら、何とかやきそばの材料は調達することができた。しかし、調理する場所を探すのにかなり難航し、探している間に道に迷ってしまったのだ。有芯は今更ながら、軽々とやきそば作りを了承したことを深く深く後悔していた。
いちひとがおずおずと話し掛けた。「……あのね」
「何だ?!」
有芯のイライラした様子に、いちひとは怖気づいたように彼を見、それから聞こえるか聞こえないかくらいの小さな声で、「おしっこ……」と言った。
「はぁ?! お前これ何回目だよ?! ………ったく」
有芯は車を路肩に止めた。辺りには外灯も家もなくほぼ真っ暗で、道の両側は杉のような背の高い樹木で埋め尽くされている。
「ほら、その辺でしてこい」
有芯が言うと、いちひとは今にも泣き出しそうな声で言った。
「1人じゃ怖いよ……!」
確かに、こんな場所じゃ大人でも怖いかもしれない。
有芯は軽い溜め息をついた。「分かったよ、一緒に降りるから」
いちひとに付き添いながら、有芯は思った。たった3,4時間の子守りにも疲れ果てている俺に、父親なんか務まるのだろうか。これから生まれる赤ん坊ならまだしも、実の子でもないこいつの親父になんか、本当になれるんだろうか―――?
木の根元に用を足すと、なぜかいちひとが何も言わずその場に座り込んでしまった。有芯はうんざりした気分で、いちひとに話し掛けた。
「どうした?」
「なんでもない」そう言いながら、いちひとは怒ったような声をしている。
有芯は真っ暗に近い状況の中で、精神的な疲れから自分が無表情になるのを感じた。「何でもないなら、車に戻ろうぜ?」
「おなかすいて、もう動けない」
「ぁあ? そんなこと言って、お前つい一瞬前まで普通に動けてただろう?!」
「でももう動けないんだもん!!」
そう言いながら、いちひとが両手を振り回した。手が有芯の脛辺りを何度か掠る。
有芯は、落ち着こうと深呼吸を何度かしたが、落ち着くことはできなかった。「いい加減にしてくれよ! ママのところ行くんだろう?! うだうだ言ってねぇでさっさと立て!! 時間かかるって最初に言っただろう?! これ以上文句言うなら、やきそばなんか作ってやらねぇぞ?!」
そこまで有芯が言ったとき、いちひとの後方から一台の車がこちらに走って来るのが見えた。
「おじちゃんて、怒ってばっかりだね」
そう言って有芯を睨むいちひとの顔が、通り過ぎる車のライトに一瞬照らされた。その顔が、篤の怒りと憎しみに満ちた顔と驚くほどそっくりで、有芯はただ単純に感じた。
篤が憎い。
朝子に子供を産ませた篤が憎い。
その子供であるこいつが憎い―――――。
彼がそこまで考えた時、いちひとが真っ暗な林の中へ駆け出していったので、有芯の余計な考えはすべて吹っ飛び、代わりに美代の言葉が脳裏をよぎった。
“私の娘と、孫を………お願いします”
「おい待て!! 冗談やめろ!! こんなところではぐれたらシャレになんねぇぞ!? ママを助けられないばっかりじゃなくて、お前まで迷子になったらどうすんだ?!」
いちひとの、泣き声に混じった叫び声が聞こえた「知らないもん!! ぼく1人で行く!!おじちゃんなんか、バカっ!!」
その声が思いのほか早く遠ざかっていくので、有芯はあせった。
「止まれ、お願いだ!! 頼むから止まれって!!」
しばらくすると、いちひとが止まったのだろう、激しく泣く声が歩いている有芯の方にだんだんと近くなってきた。やがて、有芯は立ち止まり、屈むと座り込んで泣いているいちひとの頭を撫でた。
「よしよし、泣くな。……ったく。……泣き虫は朝子にそっくりだな」
有芯は苦笑すると、「行くぞ」と言って、いちひとの手をしっかりと握った。歩き出した彼に聞こえるか聞こえないかくらいの声で、いちひとがしゃくりあげながら呟いた。
「ママ……」
有芯は立ち止まるといちひとに背を向けしゃがんだ。
「ほら、おんぶしてやるから」
有芯は暗闇の中、いちひとを背中に乗せて再度立ち上がった。当然のことながら朝子よりはるかに軽い、小さな身体。
「怒って、ごめんな」有芯はいちひとをおぶって歩きながら、そう小さく呟いた。
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