once 39 傘の人



一番好きなのは読書。一番嫌いなのはバスケ。

僕はそういう高校生だった。

生まれつき肺と心臓に問題を抱えている僕は、激しいスポーツを厳しく制限されていた。

だから、僕はバスケが大嫌いだった。すこぶるつまらない競技。見ているだけで、胸が苦しくなるような運動量。

本を読んでいれば、運動などしなくても、好きなストーリーが疑似体験できた。僕は、それで満足だったんだ。

川島さん・・・君に会うまでは。

「えっ、私?!」

宏信は照れくさそうに頭を掻いた。「・・・まぁ、最後まで聞いてよ」

あの頃よく、君は高校へ行く僕とすれ違っていたよね。

僕はその頃体調が良くなってきていて、自転車で高校に通っていた。それが、何より嬉しかった。

あるとき歩いている君の隣を自転車で駆け抜けると、いい匂いがしたんだ。

その匂いを知った瞬間、僕の世界は広がった。君とその匂いに僕は、ストーリーの中で生きることを疑問視するようになった。

現実の君を知りたい。君の名前、声、笑顔、趣味・・・なんだか照れくさいけど、僕の心の中は一気に君でいっぱいになった。

「・・・惚れたんだ? 朝子に」

壁にもたれ、難しい顔でずっと黙って聞いていた有芯がぽつりと言うと、朝子は呼び捨てに気付き彼を睨んだ。しかし夫婦だと思われている以上、反論することはできない。

宏信は照れ笑いをうかべた。「そうだよ。嫉妬した?」

「まあな」有芯は眉間にしわを寄せたまま少し笑った。彼の緊張はまだ解けていないようだ。

あの日も、僕は自転車で学校に向かっていた。途中から激しい雨が降ってきて、僕は持っていた傘をさした。

見通しの良い一本道に差し掛かると、短い髪からつま先まで、全身ずぶ濡れの君が歩いてくるのが見えて、僕は震えた。君に声をかけるチャンスだったからだ。

君は、雨に濡れていることなどどうでもいいような顔をして歩いてくる。雨の向こうからわずかに君の匂いがして(これは僕の気のせいだったかも。だって、雨なのに匂いがするなんてね)、僕の心臓が打ち震えた。

僕はスピードを落とし君の目の前で止まると、自分が雨に濡れることなんかお構いなしに、君に傘を差し出した。「これ、使って」

全身から水を滴らせている君は驚いて僕を見た。雨で君の体に張り付いたブラウスから、濃いブルーの下着が透けて見え、僕は目のやり場に困ってしまった。

「でも・・・」

「いいから。使って」

何とか笑顔でそう言うと僕は、君に傘を押し付け、有無を言わさず走り去っていた。

少しかすれた、綺麗な声だった・・・近くで見ると意外と大人びた顔だったな・・・もしかして上級生なのかも・・・名前、聞くの忘れた・・・などと、思いながら。

しかし、そうしてずぶ濡れになった僕はこの後すぐに、君の名前を知ることになる。



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