once 75 雨



長い静寂の中、有芯は必死で朝子を抱き締めていた。すでに手の震えは抑えられないほどひどくなっていて、彼は歯を食いしばり、心を蝕もうとする恐怖に耐えた。

下を向いていた朝子が、やっと顔を上げた。彼女は有芯の腕を振り払うと、彼を睨みながら言った。

「何言ってんの?! 結婚?! できるわけないでしょう?! あんたとは一晩だけの関係だったの。迷惑よ。私たちは、もう終わってるの。 ・・・10年前の時点で、もう・・・」

「後悔したくねぇって言っただろう!?」有芯は必死になって怒鳴った。「そんなことどうでもいい!! テメェが教えた後輩をナメてんじゃねえよ!! 今のセリフには、お前の気持ちが全然入ってねぇ!! 俺を愛してるって言ってくれたじゃねぇかよ! あれが嘘だったって言うんなら、俺は舌噛んで死ぬほうがマシだ!!」

「・・・愛していたわ」朝子は振り絞るような声で言った。

「あなたを愛してた・・・」

有芯は深いため息をついた。過去形かよ・・・。

「でもね・・・私は既婚で、子供がいるの。この意味がわかる? 離婚は確かに可能かもしれないわよ? でもね、私たちは親として、子供をきちんとした環境で育てていく義務があるの」

有芯は朝子がさらりと口にした“私たち”という言葉に胸がズキリと痛んだ。

「俺はいざとなれば子供だって・・・!」

「簡単に言わないで!!」

途端に表情を一変させ叫んだ朝子の剣幕に、有芯は言葉を失った。子供のこととなると、朝子は本当に人が変わったようになる。

「本当の親のもとで育つのがいいに決まってるでしょう!!」

「お前・・・そんな調子だけど、本当に大丈夫なのか?! 夢でも俺の名前呼ぶくせに、子供のためとはいえ他の男と一緒に一生暮らしていけるのかよ?!」

「・・・お生憎様。ここまで言っても、まだ分からない?」

朝子は勝ち誇ったように笑った。

「私は、彼のこと愛してるの」

有芯は足元がガラガラと崩れるような感覚がして、思わず朝子の腕を掴んだ。

「彼、頼りになるし、とっても優しいのよ。いいパパだし、いつも私を優しく愛してくれて・・・誰かさんみたいに、私を傷つけて捨てたりなんて絶対しない人なの」

朝子の冷たい視線に、有芯は血液まで凍ってしまうのではと思った。何がなんだかわからない。最初に再会したとき朝子が言った、「別に何にも恨み言なんてないよ」という言葉が思い出される。

朝子は硬直している有芯の手を振り払うと、冷たく言い放った。

「さよなら。もう10年前の仕返しはこれで充分ね。ボロボロにされて捨てられた私の気持ち、これで少しは分かった?」

仕返し―――?! 今までの、全部?!

まさか・・・そんな・・・。有芯は立っていられず、壁に手をついた。朝子は、飛行機に向かって淡々と去っていく。

しばらく歩くと、彼女は振り返り言った。

「あ、それから~、二度と連絡したり、会いに来たりしないでね。すごく迷惑だから!」

そこまで言うと、朝子は足早に歩いて、やがて飛行機の中に消えていった。朝子が見えなくなると同時に、激しい雨が音を立てて降り出した。





76へ


© Rakuten Group, Inc.
X

Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: