2004年06月15日
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ヴェネツィアは素晴らしい、非常に美しい国だ。
その行為自体が・・・。

翻ってわが国は・・・。

ジェノバが栄えたのは、11世紀中ごろから、14世紀末までの3百数十年間。フィレンツェは、11世紀後半から16世紀初頭の4百年強である。ヴェネツィアは1,100年間と断然たる違いを示している。

■社会を組織する能力■

 ヴェネツィア史の権威ジョン・ホプキンス大学のレイン教授は語る。

長期にわたったヴェネツィアとジェノバの対立の末のヴェネ
ツィアの勝利は、海軍の力とか海戦の技術とかによるものではない。ヴェネツィアは、1270年以後、この面での優位をはや持ち合わせていなかった。勝利を決した因は、別の方面での両国家の能力の差にある。
つまり、社会を組織する能力である。この能力では、ヴェネツィア人とジェノバ人の間には、非常な差が存在した。



 フィレンツェやジェノバは内部での権力闘争が絶えず、そのために外に向かうエネルギーが相殺されたのだが、ヴェネツィアはその1,000年以上の歴史で反政府陰謀が起きたのはたった二回しかなかった。それ以外は常に国家が団結して外敵に当たった。レイン教授の言う「社会を組織する能力」とは、この事実からも、明らかに窺われる。

■貴族の義務■

 ヴェネツィアの政治組織は、君主制と貴族制、そして共和制のそれぞれの良さを巧みに組み合わせた独特のものであった。国家の最高意思決定機関は1,000人から1,500人の貴族からなる共和国国会である。この共和国国会から、終身の元首が選ばれる。そのほかに外政を担当する元老院、財政を担当する40人委員会、国家の非常事態や重大裁判を担当する10人委員会などが、複雑なチェックアンドバランスを構成していた。

 貴族とはいっても、その特権は国政に参加できるという点だけで、課税においても、法の適用においても、一般市民との差はなかった。それどころか、
政治を担当する権利を持つ者は、それに応じた義務を持つべきと
考えていたのである。

貴族の中には、国家のためには、自らの地位や名誉も省みない人物 にも事欠かなかった。ラニエリ・ダンドロは、第4次十字軍の時に元首として、ヴェネツィアの大発展をもたらした英雄、エンリコ・ダンドロの息子である。彼を次期元首に推す動きが強かった。しかし、ラニエリは、一家から2代続けて元首を出しては、国内の和を破る恐れがあるとして、他の人物を推し、自分はクレタ島制圧の艦隊司令官として出陣して、その地で戦死している。

■国民の同胞感■

ひとたび戦争になると、貴族や金持ち階級の資産に応じて、特別課税や国債の強制割り当てで戦費を調達した。それでも足りないと寄付を募る。たとえば、一族郎党を率いて、戦いの終わるまで軍務につき、その費用はすべて自弁とする、などと申し出る金持ち がでる。 一般市民も、戦争終了まで無給で国家に奉仕すると 申し出たり、女たちは金銀の装飾品を供出したりした。



貴族の家に行きなさい。彼らは一つしかないパンでも二つに割って与えるであろう

 戦争で犠牲になった国民には手厚い保護がなされた。命を落とした兵士らの遺族には、年金が支払われる。また戦功をあげて戦死した船長に報いるために、その残された娘たちに嫁入りの際の持参金が国から支出された例もある。捕虜にされてトルコ人に奴隷として売られた者は、国費でその身を買い戻した。これらの費用は、戦費と同様、有産階級への課税でまかなわれたのである。

ヴェネツィアがトルコのような人口10倍もの大国に250年間も戦い抜けたのも、このように貴族・富裕階級が率先してその負担に耐え、さらに国家のために命を捧げた兵士の遺族には、手厚い保護を加えることで、国民が内的な平等感と同胞感を持ち、一致団結して、外敵にあたることができたからである。

 こうして一致団結して、自らの意思で祖国のために立ち上がったヴェネツィアの国民は、王の命令で無理やり徴集され、使い捨てにされるトルコ兵とは、戦闘意欲において大きな差があったろう。

■自由の尊重■

 国家として良くまとまりながらも、ヴェネツィア人は、自由の尊さをわきまえていた。航路の防衛、国有船の運航などは、国家として取り組んだが、商品の売り買いは個々の商人に任せた。



 カトリック教国ではあったが、法王庁の支配を拒否し、中世ヨーロッパを戦乱に巻き込んだ法王派と皇帝派の争いや、狂信的な異端裁判・魔女狩り、カトリックとプロテスタントとの抗争から逃れていた。

 ヴェネツィアでは、イスラム商人、ユダヤ商人、プロテスタントのドイツ人学生、ギリシャ正教の船乗りなど、多様な宗派が平和裏に共存し、交易で栄えていた。

 さらに出版の自由も保証され、ヴェネツィアの出版業は、当時 のヨーロッパの中心であった。

■民族全体の記念碑■

 ヴェネツィア共和国が独立を失ったのは、1797年、ナポレオン率いるフランス革命軍の征服によってであった。

この頃、すでに東地中海は貿易圏としての意味を失い、ヴェネツィアは、イタリア本土の属領を基盤とした農業国となっていた。ヨーロッパの片隅で、非武装、非同盟政策のもとで、平和に暮らしていたヴェネツィアには、戦うすべもなく、ナポレオンに降伏するしかなかった。

 フランス軍の命令により、「自由、平等、同胞愛」(fraternityは、「博愛」と訳されるが、「友愛」、「同胞愛」の方が原義 に近い。)の立て札が、サン・マルコ広場の中央に立てられた。
しかし国家を失ったヴェネツィア人には、もはや「自由」も、「平等」もなかった。

 その後、オーストリアとフランスの間の条約により、ヴェネツィアはオーストリア領とされ、1805年には皇帝となったナポレオンが再び支配化のイタリア王国に編入するなど、自分の意思に関わりなく、何度もフランスとオーストリアの間で、とったり、とられたり、が続く。そして1866年、ようやく統一イタリアに編入された。

 独立を失う10年前にヴェネツィアを訪れていたゲーテは、おそらく、壮麗なサン・マルコ広場や、ヴェネツィア派巨匠による壁画・天井画と歴代元首の肖像画に囲まれた壮大な国会会議場を見てのことであろう、次のような言葉を遺している。

 わたしを取り囲んでいるものすべては、高貴さに満ちている。これらは、ひとつにまとまった人々の努力によって生まれた、偉大で尊敬を受けるに値する作品である。この見事な記念碑は、ある一人の君主のためのものではない。この民族全体の記念碑なのである。

 ヴェネツィアの達成した「自由、平等、同胞愛」の水準は、当時のヨーロッパでも群を抜いており、このスローガンをイデオロギーとして振りかざして、熱狂のあまり200万人とも言われる犠牲者を出したフランス革命の遠く及ぶ所ではない。

 ヴェネツィアの栄光の歴史をたどれば、その「自由」と「平等」とは、「同胞愛」で結ばれた民族の叡智と努力と献身により、賢明に運営された独立国家のもとで、長い歴史をかけて着実に実現されていったものである事がよく分かるのである。





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最終更新日  2004年08月10日 20時13分06秒
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