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今なら誰でもが知っている、病院で食事を各階に運ぶリフトや、ナースコール。発明され導入されたのは19世紀半ばにおけるイギリスであった。そしてこれを実現した人物こそ、後に『クリミアの天使』と言われた、フローレンス・ナイティンゲールである。1820年5月12日、イギリスの大資産家の家に生まれる。当時の上流社会の娘達は、社交界でふさわしい男性と出会い、幸せな家庭人となるのが慣例。しかしフローレンスは『自分の使命は病気に苦しむ人々のために生きる事』と天啓を感じ看護婦を目指す。看護婦は汚れた仕事と軽視されていた当時、両親は猛反対。それでも『諦めと言う言葉は、私の辞書にはない』と1851年7月、看護婦の勉強のためドイツへ渡る。そして53年4月、ロンドンの病院に勤務し、前述の数々の改革を実施する。54年3月、イギリスはクリミア戦争に参戦。同年10月、フローレンスは38人の看護婦を率いて戦地へ向かう。彼地の状況は劣悪を極めた、医薬品、食料、燃料、すべてが足りない。コレラやチフスも発生している。ここでも彼女は一つ一つ改善に取り組む。食事や設備の改善物資の調達・・・・・そして痛さに苦しむ傷病兵たちに最も感謝されたのは彼らの手を握り続け励ました事。夜も遅くまで各病棟を巡回、さらに毎晩、おびただしい数の手紙を書いている。本国への報告の他、兵士の家族達に、亡くなった時の様子などを丁寧に知らせる。1日20時間以上も働き詰めの、その献身ぶりは、兵士達に『ナイティンゲールは何人もいるのでは?』と、思わせたほどだった。しかし、軍医や将校達は彼女の存在を妬み、自分達の古いやり方を守るため、彼女の行動を邪魔し、攻撃。『ここでの最大の辛苦は、責任回避と保身しか考えない人たちを相手にする事です』と本国への手紙に書いている。戦争が終結し、1856年8月帰国したフローレンスは、兵士達の待遇改善のため陸軍省の改革に着手。60年には念願の『ナイティンゲール看護学校』を設立『ごく、小さな木の実が、大いなる森林となる日を夢見て』と、晩年の彼女は看護学校の生徒や卒業生達と語らう事を喜びとして過ごす。その死は1910年8月13日、眠りについたままの穏やかなものであった。世の中の既成概念や古い体質と戦いつつ、近代看護の礎を築いた。-フローレンス・ナイティンゲールーーー物事が変わっていくところにはいつの時代も一人の勇気ある人物が存在する。4月20朝日新聞『山田養蜂場』広告より、
2005年01月18日
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今日は楽天日記の記入法のマニュアル作成です。佐久間さんの家にいます。
2005年01月06日
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HeadgearThe Stetson Cav HatThe most distinctive uniform item worn by air cavalrymen in Vietnam was the Cav hat. This tradition is believed to have been originated in early 1964 by LTC John B. Stockton (Commander of 3/17 Cavalry) at Fort Benning, Georgia. The hat was adopted in an effort to increase esprit de corps in the new air cavalry squadron and was meant to emulate the look of the 1876 pattern campaign hat worn by cavalry troopers long ago. Once units deployed to Vietnam, the custom slowly spread to other air cavalry units, and by the cessation of hostilities, virtually all air cav (and some ground cav) units had adopted the Cav hat.The Cav Hat was a private purchase item that cost a wallet-stretching $29 in 1972. It was most often supplied by the Stetson Hat Company. Because Stetson supplied most of the hats, the name "Stetson" became interchangeable with Cav hat. Several Asian suppliers provided "knock off" copies, but the quality of workmanship was greatly inferior to that of the Stetson.While unit commanders did not mandate the wearing of the hats, there was considerable peer pressure to conform, and most troopers quickly added the Cav hat to their wardrobes. Just as World War 11 paratroopers were fond of their jump suits, wearing them long after issue had ceased, so too did the Cav hat instill fierce pride and loyalty in the units where it was worn. Most air cavalry veterans interviewed by the author proudly cherish their Cav hats today.Because the hats were delivered from the manufacturer in the U.S. there was an understandably long turnaround time between ordering and delivery. In some units, members were killed in action or MEDEVACed to the United States before the arrival of their hats. Thus, current unit members sometimes accepted hats meant for departed comrades.Stetsons were constructed of a high grade fur felt with an interior leather sweatband and a silk hat ribbon around the base of the crown. The manufacturer provided a black leather chin strap, which also held the hat cord in place. The type of hat cord worn varied according to rank, as follows: general officers, all gold braid; officers, gold and black intertwined braid; warrant officers, silver and black intertwined braid; enlisted men, yellow wool or nylon.The cord was a copy of the acorn-ended 1899 pattern, worn on the 1885 pattern campaign hat. Members of B-2/17 Cav further garnished their Cav hats with the addition of a beaded "Indian" hat band and feather, D-3/5 Cav appears to be the only unit that wore gray Cav hats. When D-3/5 Cav exchanged designations with C-3/17 Cav in 1971, C-3/17 carried on the Light Horse tradition of gray Cav hats. On the Cav hat, most officers and warrant officers wore some combination of officer rank insignia and crossed cavalry sabers. There were instances in which several troops of different squadrons wore the distinctive red and white background trimming-commonly referred to as a jump wing oval-on the front of the cav hat. This oval was authorized for 1/17 Cav, a non-air cavalry squadron of the 82nd Airborne Division, located at Fort Bragg, North Carolina.The Cav hat was remarkably durable and was easily cleaned of dirt and lint by buffing with a shoe brush. In several units, a "wetting down" ceremony was conducted, during which the newbies were accepted as members of the troop. Before they could wear their hats, however, they were required to "chug-a-lug" a hatful of cold beer. There are several instances in which air cavalrymen, after being shot down, raced back into their burning aircraft to save their precious Cav hats.
2004年11月07日
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数学は、古代エジプトで「世の中の全ての不明な事柄を明らかにして、秘密の知識を手に入れるための規則」といわれていた。不明な事柄を明らかにするために何故、数学が必要なのか?物事には法則がある。法則であるから、結果は同じような状態になる。つまり、パターンがあるのである。パターンを認識し、かつ、そのパターンから生み出される法則を検証するため統計学が必要となった。計るためには、大小長短過不足を認識するため前提として数が必要です。AとBというものを把握する際その、相違(頻度)より明らかになります。つまりパターンより認識された自然=神の秘密の知識を入手することが可能なのです。また、パターンから発見された秘密の法則が何故、そのようになるのかを人間が納得するためにはその筋や流れ、つまり論理を考えます。論理を誰にでも明確に理解させるように考えた人間は、物事を体系的に考えるノウハウが手に入ります。
2004年10月16日
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心の傷」に致傷罪を適用 強姦に「未遂」なし 警視庁追送検東京都清瀬市や東村山市で一人暮らしの女性が襲われる事件が連続九件あり、このうち暴行が未遂に終わった一件について警視庁捜査一課と東村山署が、被害者は事件の影響で心的外傷後ストレス障害(PTSD)になったとして、強姦致傷容疑で容疑者の男を追送検していたことが十六日、分かった。被害者にけがはなく、通常は強姦未遂罪が適用されるケースだが、被害者の心の傷を重くみて、異例の強姦致傷罪適用に踏み切った。 強姦致傷の疑いで追送検されたのは埼玉県所沢市下安松、元栄養士、岡庭義治容疑者(三七)。 調べでは、岡庭容疑者は今年一月十一日午前二時ごろ、清瀬市の大学生の女性(一八)方に侵入。就寝中の女性に抱きつき、暴行しようとした疑い。女性が抵抗したため暴行を断念し、そのまま逃走していた。岡庭容疑者は今年五月、別の強制わいせつ事件で逮捕され、同課で余罪を追及していた。 被害にあった女性は事件直後から精神的ストレスを訴えて休学。北陸地方にある実家に戻り、三月から六月まで地元の病院に入院した。退院後も、事件の状況を思いだす「フラッシュバック」の症状があり、他人に会うことを恐れるなど、復学できない状況という。警視庁は捜査員を女性の実家に派遣し事情を聴いた上で、入院先の医師に診断を依頼。事件の影響でPTSDを発症したと診断された。 強姦事件では、犯人が被害者に傷害を負わせた事実が確認されれば、暴行行為の有無にかかわらず、強姦致傷罪が適用される。現行の刑法では、強姦罪は二年以上十五年以下、強姦致傷罪は無期または三年以上の懲役と定められている。 ◇≪被害者心理考慮し厳罰化≫ 「強姦事件は、被害者が受けた心痛に比べて罪が軽すぎる。強盗犯より早く社会復帰できると思うとやりきれない」。強姦捜査の経験がある捜査員は、性犯罪の犯人に対する刑罰の軽さを訴える。 警察庁によると、平成十五年の全国の強姦事件の認知件数は二千四百七十二件で、十年前(平成五年、千六百十一件)の一・五倍、強制わいせつ事件の認知件数は一万二十九件で同(三千五百八十一件)二・八倍と増えている。大きな社会問題になった早大生らによる女子大生集団暴行事件(スーパーフリー事件)など、無軌道な犯行も目立つ。 法制審議会が今月八日に答申した刑法の改正案要綱では、集団強姦罪の新設、強姦罪や強姦致傷罪の刑罰強化など、性犯罪に対して厳罰で臨む姿勢を打ち出した。しかし、要綱通りに刑法が改正されても、強姦罪は懲役三年以上二十年以下。強盗の刑罰の下限が懲役五年であることを考えると、まだ軽いとする意見は根強い。 今回のケースは「被害者に心の傷を与えた犯人には、それに値するだけの十分な罪を償ってもらう」(警視庁関係者)とする意思の表れだ。 帝京大学の土本武司教授(刑法)は「このケースが裁判で有罪となれば、強姦の未遂既遂にかかわらず、強姦致傷というより重い罪を被告に科すことができるようになるという意味で、今後の捜査や刑事手続きに及ぼす影響が大きい。事件とPTSDとの因果関係の立証を念頭に置いた捜査活動が求められる」と指摘している。(産経新聞) - 9月17日3時3分更新
2004年09月28日
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■特集 [ 防犯ビジネス ] つばめタクシー http://www.tsubame-taxi.or.jp/security/mamoru_f.html
2004年09月25日
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ほとんど更新してないのに毎日40近いアクセスがある?何故?
2004年09月17日
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http://backno.mag2.com/reader/Back?id=0000056255「この世のどんな力も、あなた自身の心の力より、あなた自身の成長を 確実にし、そして、容赦なく妨げるものもない。」1809年、ケンタッキーにある赤ん坊が、生まれた。父親は、貧しいうえに、浮浪者であった。母親は、子供が、9歳の時他界した。「すべてのチャンスは待ってるだけでなく自ら掴みとりにいきなさい。」と子供に言い残して・・・。その子供の名は、アブラハム・リンカーンといった。「将来のビジョンをでっちあげよ」あるボディービルダーが、映画スターになることを夢見ていた。彼はオーストラリアなまりが強く、怪物のように不恰好な体格で、およそ将来性が、あるとは、思えなかったので、「どうやって、あなたが映画スターになるのか?」と質問して見ると、彼は自信満々の様子で、こう答えた。「この計画は、ボディービルで使ったテクニックと同じでまず、自分が、なりたいビジョンを創造する。そして、それがあたかも、現実になったかのように生きるのだ。」 彼はのちに、予想を見事に裏切りハリウッドの大スターとして、瞬く間に、のし上がった。そのボディービルダーの名はアーノルド・シュワルツェネッガーといった。「挫折は、成功の前兆である。」ある父親が息子の通信簿をみて、あまりの成績の悪さに愕然とした。父親は、息子に法廷弁護士になってもらいたいと、思っていたが、担任の先生は、「その可能性は、まぅたくない」と断言した。少年は落伍者であった。そう、この人物こそが、ウィストン・チャーチルである。彼は、弁護士には、ならなかったが、英国至上最も偉大な指導者の一人となったのである。成功は、失敗と反省の繰り返しによってのみ達成させる。ホンダの創始者である本田宗一郎氏は、アメリカのミシガン工科大学でこう講演した。「多くの人たちは、失敗を怖がり成功のみを求めるが、私の考えでは、成功とは仕事の1パーセントであり、それは、失敗とも言うべき99パーセントの仕事によってもたらされたものである。」積極的成功者は、いつもそれを、成功とし、 敗北する者は、いつもそれを失敗だと思い込む発明王エジソンは、電球を発明する過程で、およそ2万回もの失敗を重ねた末に、電球を完成させた。その超人的な忍耐力に対する賞賛の声をよそにエジソンは、言った「私は、実験において、失敗など一度たりともしていない。これでは、電球は光らないという発見を、いままでに、2万回してきたのだ。」敗者は、失敗した時の罰則を視覚化し、 勝者は、成功した時の報酬を視覚化する。上記は、スポーツ心理学の権威ロッド・ギルバードの言葉ですが、潜在意識の心は、想像上の鮮明な画像と実際の画像とのみ意思疎通をするので、自分自身が、意識的に映像化したことを現実化しようとします。そしてその法則は都合の良い事にも悪い事にも、容赦なく働きます。マイナス思考な性格は、自分がその気にさえなれば、 それが何時であれ変えることが、できるものであるアメリカ中西部のある一人の壮年弁護士は、若い頃非常に暗い性格であった。あるとき、友人たちが、刃物を彼のそばから離し、一晩中見張りをつけることを考えたほどだった。この時期の彼の日記にこう書かれている。「私は、今生きている人間の中で、最も悲惨な人間だ。私の気持ちが、世界中の人に伝わったら、この地球上から笑顔が、消えてしまうだろう。これから、自分の人生が、良くなっていくかどうか私には、わからない。こんな事思いたくないが、きっとダメであろう。今のままの人生を続けることは、ありえない。死ぬか、良くなるかどちらかしかないのは、私にもわかっている。」この後、この若者は、絶望に傾きがちな自分の思考法を努力によって、前向きな思考法にみごとに転換させていく。1841年に書かれたこの日記は、後に歴史的大統領として、君臨したアブラハム・リンカーンが若き日に記したモノである。否定的想念の恐怖ヨーロッパのある国にプアードという死刑囚がいました。彼はある医師から、医学の進歩のために危険な実験に協力してもらえないかと持ちかけられました。人間の全血液量は体重の10パーセントが定説となっているが、われわれは、10パーセントを上回ると考えているので、ぜひそれを証明したいというのです。彼はその申し出を受け入れ、目隠しをされてベッドに横たわったプアメードは血液を抜き取るために、足の指先を小さくメスで切られました。足元には、容器が用意され、血液が、滴り落ちる音が、実験室内に響き渡ります。プアメードには1時間ごとに総出血量が、告げられました。やがて実験開始から5時間がたち、総出血量が、体重の10パーセントを超えたと医師が大喜びした時、哀れこの死刑囚は、すでに死亡していました。ところが、この実験、実は、血液など抜き取っては、いなかったのです。彼には、ただの水滴の音を聞かせ、体内の血液が失われていると思い込ませただけだったのです。これが、「ヴードゥー死」と呼ばれる現象です。どんな些細な事であれ、それを”一つの成功体験”とすることが、 後々の大きな事を成し遂げる時の偉大なる自信につながる。フランクリン・ルーズベルトは、中高年から小児麻痺をわずらったにもかかわらず、そのハンディキャップを乗り越え、偉大なる歴史的大統領になった人です。ある時、側近が、目の回るようなハードスケジュールをこなす大統領をみて、なぜ、そんなに疲れを知らずに激務をこなせるのか尋ねた。するとルーズベルトは、こう答えた。「君の前にいるのは、この歳にもなって、小児麻痺をわずらい、自分の足の親指を動かすためだけに、2年間病院の部屋の中で、がんばり続けた男だぞ。」細部にわたって視覚化し、そのイメージを継続させ、あらゆる不安や、疑念をシュミレーションにより、打ち消すことによって、潜在意識に願望が、到達する。1959年、京都で創業された、小さな下町の町工場から、わずかな期間で、世界の京セラに育て上げた、稲盛和夫氏(京セラ、第二電電名誉会長)は、人間の意識の力についてこう語っている。「潜在意識にまで、到達するほどの強い持続的な願望とは、自分が、成功することにおいて、なんの疑いもなく、一点の曇りもない願望のことです。不安、疑問が、ちょっとでも意識の片隅にあったのでは、成就するわけは、ありません。「そうは、言っても・・・」「しかし・・・」とふと思った瞬間、成功は一歩一歩あなたから、遠ざかっていくのです。疑念や曇りが、意識の中にあるのなら、一生懸命シュミレーションをしながら、そのことについて、継続して考え続け、不安が、一点も残らないように、構想をまとめあげるべきです。わたしは、そのようにイメージしていくと、作りたいもの、起こしたい事業が、まるで実在するかのように、数字や、形は言うまでもなく、色まで細部にわたって、ありありと意識の中で、創造されていくのです。こうなれば、もう心には、なんの迷いもありません。潜在意識の力を自分の私利利欲に使えば、やがて必ず没落の道をたどる。世界の京セラを創業した、稲盛和夫氏(京セラ会長)は、潜在意識の力に対してこう警告している。「強い願望は、潜在意識に到達し、必ず物事を成就させると日々私は言っておりますが、では、どんな願望でも成就するかというと、そうでは、ありません。その願望は、必ず、きれいな心に裏付けられていることが必要です。私利私欲に満ちたものであれば、周囲の誤解と支持を失い、孤立して、物事は決して長続きしません。また、善に発した願望でなければ、例え一時的に成功しても、成功したと同じ理由で、墓穴を掘り、没落の道をたどるはずです。」真の成功とは、金や財産を貯めて、贅沢することではない。ハワイで、タイ料理レストランのチェーン店経営をして、大成功を収めたカオ・サナニコーネは、自分の店を開いた初期の頃を振り返って言った。「吹けば飛ぶような小さな店でしたが、照明に工夫をこらしたりして、雰囲気作りに努力しました。はじめは、人も雇えずに、家族の者だけで、他の仕事とかけもちしながら、やりくりしてたのです。私は人と働く事が、好きだし人を喜ばせることも大好きです。だから、店で仕事をしていても、毎晩パーティーを開いてるような気持ちになるんです。会社で利益をより多くあげると言う点からみたら私は成功者とは、いえないかもしれない。でも、ニコニコ笑って、毎日幸せな気持ちでいられるのが、最高に嬉しいのです。ある時お客様から「成功して金持ちになった気分はどうですか。」と聞かれて、私はこう答えました。「成功とお金は、関係ないですよ。仕事のいろいろな体験による学びと、素晴らしい友人たち、そして日々の幸福な気持ち。これが、私の成功です。」宇宙の活力は、それが、病気であろうと経済問題であろうと、あるいはあらゆる問題の障害物であろうと、あなたの人生のどんな大きな障害物でも克服することができる。最初の挑戦が失敗したとしても、前進を続けよう。2回3回4回と挑戦を繰り返そう。そうすれば、かならず障害の障壁が崩れ落ちる。障害や批判、周囲の状況に惑わされず、人々が何を言っても、思っても、しようともかまわず、心に描いた計画を、強固な決意を持ってなしとげよう成功とは概念ではありません。現実に営まれる生活のことです。ですから、あなたが、平和で幸福な状態にあり、毎日楽しく自分のやりたいことを、やってるとしたら、あなたは、成功者であるということです。「成功して満足するのではない。満足してるから成功というのだ。」ーー哲学者アラン
2004年09月14日
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http://backno.mag2.com/reader/Back?id=0000056255阿頼耶識 --無能唱元初めに日本へ渡来した仏典に阿頼耶識という言葉があった。阿頼耶識は現在で言う深層意識のことである。人の心の奥底に眠る無意識層である。阿頼耶識は、また一切種子識とも呼ばれ、そこに宿った思念は、やがて開花し、実を結ぶ。すなわちそれは、実現するのである。幸せになるのは簡単である。自分も他人も幸せになることを願えばいいのだから。無理やりに力を入れて、成功しようとしない方がいい。それよりもその願いを阿頼耶識に託し、日々を楽しく暮らすことだ。すると、それは叶ってくれる。阿頼耶識の采配は不思議で奇妙なことが多い。何の関係もないところから、願いが叶って行く事があるから、何でも目の前にきた事は、試してみることだ。欲するならば、まず諦めることである。直接、外部に求めることを諦めるのだ。そして、阿頼耶識の中でそれが得られたことを夢見ること、そうすれば、それが得られてくる。望んでいることを忘れてしまう時間も必要である。なぜなら、その時間に阿頼耶識が働いているからだ。大きな願いが叶う時期が近づくと、小さな良いことが次々と起きてくる。それは、阿頼耶識からの前兆である努力なしに達成する --マクスウェル・マルツ考えを変えたり悪い習慣を直したりする場合、努力しよう、強い意志力で達成しようとすることは<百害あって一利なし>です。フランスの薬剤師エミール・クエは、、あなたの目標は、、それが手に届くものであれば、努力なしに達成できます。といって<暗示の力>を強調しました。また彼は<意志と想像がケンカしたらいつでも勝つのは想像だ。>という有名な言葉を残しています。ナイト・ダンロップ博士は習慣と学習の関係の研究者として有名ですが、悪い習慣を直すとか新しい習慣を身に付けようとする場合、最も障害になるものは<そうしようと努力すること>だと述べています。そして、悪い習慣を直す最良の方法は<自分が達成したいと願う目標をもつこと、それを達成して満足感にひたっている自分の姿を頭の中でイメージすることだと説いています。鏡の技術 --C・M・ブリストル経済不況の頃、私は各方面の商店や会社の販売部に関係して、売上増進をはかり、そのころ鏡を使う方法を紹介してめざましい業績をあげました。自分で車を運転して売り込みに出かけるセールスマンたちは、配達するパイを摘みこもうと、車のドアを開けると第一番に鏡に写る自分の顔を目にするというわけです。私は一人一人に訓示して、みんながお得意の取引小売店へ入っていく前に、今日はいくつパイを売り込もうかと、あらかじめ心に決めるように教えました。そして鏡の中の自分に向かって、それだけの数の得意先の店のカウンターの上に必ず置いてかえるように、きっぱりとおのれに言い聞かせることを命じました。その後数ヶ月たって一人の配達員のいうところによると、あるレストランの女主人に一つでもいいから売り込もうと、それまで長いあいだ辛苦したのだが、どうしても買ってくれなかったのに、<鏡の技術>を使ってみると、その日はなんと10個のパイを売ることができたそうです。この話を私に聞かせたとき、彼は毎日決まって15個のパイを売り込んでいたのでした。 --信念の魔術 ダイヤモンド社(コメント)気分が落ち込んでいるときや滅入っているときに、鏡で自分の顔を見てみましょう。滅入った顔の自分を見て不思議と本来の自分を取り戻そうという気持ちが働くことに気づきます。そして自分の願望は必ず実現することを鏡の中の自分に言い聞かせましょう。<鏡の技術>は自分自身を観察し、自分を取り戻すのに最も簡単で強力なテクニックです。在形にする --シャド・ヘルムステッダー積極的な自己説得は、書く時も読むときも考える時も声を出して言う時にも必ず<現在形にする>こと。そしてすでに望むような変化が起こったかのような言い回しをしなければならない。そうすることによって、潜在意識に完璧なイメージを送ることができるのだ。コントロール・センターに送るイメージが具体的であればあるほど、潜在意識に送られえる指令も具体的になるというわけだ。また潜在意識に新しい指令を出したい時<私はこれからダイエットします>などと言ってはいけない。<私はこれから>という言葉によって、コントロールセンターに送られる指令は、将来いつか私はダイエットしますが、いまは、まだこのままにしておいてください。>という意味になってしまうのだ。そしてその将来とやらは決してこないのである。潜在意識はあなたを信じず何もしないだろう。願望は必ず現在形で言い切ることだ。潜在意識には真実と空想の区別はつかず、言った言葉どおりに受け入れ、そのとおりに行動するからである。 --自己説得の驚くべき威力 騎虎書房(コメント)<こんなふうにやろう><こうすることにしよう>将来やろうと心に決めるのは、普通人?の考え方です。潜在意識の法則を活用する人々は、あたかも自分の願望をすでに成し遂げているかのように、何かにつけてイメージする訓練をしましょう。これに熟達してくると、もうすでにやったことを思い出しているのか、まだやっていないことをイメージしているだけなのか、ふと忘れる瞬間がくるようになります。そして、後者の方はあなたの意志によって自由にイメージし理想の自分を創造していけるのです。夢は星のようなもの --ロバート・コンクリン 夢は毎日目の前に立ちふさがる障害物や挫折を取るに足らないものと思わせてくれる。多くの人が敗北や困難のために眠れぬ夜をすごし胃のよじれる思いのしている時も、夢を持つ人の心は静かである。夢みる人の心には、虹や山の頂上が見えているクレヴァスや巨大な石さえ、夢にたどりつくまでの道をかざる飾りにすぎない。夢みる人は、目標いたる小道がたくさんあることを知っていて、一つの道が行き止まりなら別の道を見つける。夢を抱いている人は毎日一段ずつ高いところへ登っている。自分が少しずつ登っていることがわかるからこそ、星に向かって上昇していける。夢は星のようなもの。決して触れることはできないが、闇の中の道案内となる。その星についていけば必ず目標にたどりつくことができるだろう。だから夢を見つけることが肝心なのだ。それを育みしっかりと夢を抱きしめよう。それを手放すのは死ぬのと同じことだ。夢を手放せば、魂はしなびてしまう。夢は人を熱中させ、人生から退屈を消し去ってくれる。まさに、夢が人生そのものになる。人生はあなたの夢の大きさで測れるだろう。 --コンクリンの成功哲学 三笠書房(コメント)今からおよそ100年前に想像されていた、科学的に開発できるあらゆるものは、今そのほとんどが現実となって実際に使用されているものばかりです。この物質世界はまさに過去人類が描いた夢の世界であるということがそのことによってわかります。そして、今あなたが夢みている世界は将来のあなたの姿や世界でもあるのです。自分ならできる --コリン・ターナー真実でも嘘でもそれをずっと自分に言い聞かせていると、終いには信じるようになるというのはよく知られている事実である。もしそれが嘘であったとしても、やがて真実として受け入れられるようになるのだ。すべての人間は、その心を占めている思考のありようなのである。確信とは、何かを繰り返すことによって、誘発または創造された心の状態のことである。<私は前向きで私ならできる>という姿勢がパワーと能力とエネルギーを生み成功へと導くことを信じよう。<自分ならできる>と心から信じれば、どうすればいいのかは自ずと明らかになり、その成果が現われるだろう。あなたは自分を理解し、受け入れ、前向きな感情があなたの心の主要位置を占めるように励み、そしてもちろん、後ろ向きの感情をくじき、消滅させることが必要である。前向きな姿勢がもつ力を信じれば、あなたは実際に状況を支配し、環境が自分に有利に働くように仕向けることもできるようになるのだ。信じる力は、あなたの資質のなかでも最もかけがえのないものの一つである。フランク・ロイド・ライトはこう言っている。<あなたが本当に信じることはいつでも実際に起こる。それを信じる心がそうさせるのである。> --あなたに奇跡を起こすやさしい100の方法 PHP(コメント)スポーツの世界では、その時代によって様々な迷信?が信用されています。ほんの十数年前まで、<運動中は、疲れるから水は絶対に飲むな><柔軟体操の時後ろで背中を思い切り押して無理やり筋肉を伸ばす>など、今の時代から考えると、とんでもないことを体に良い事と<信じて>実践されてきました。しかしそんなやり方でも各時代において、素晴らしいスポーツ選手を輩出しているのは、事実の正否よりも信念のほうが重要であるということを象徴しているのではないでしょうか。あなたが心の奥から信じ、確信している事、それがまさに潜在意識に同化させる --中村天風諸君はこういう経験を持っていると思う。例えば数学の公式は教わったが、応用問題をどうしても解くことが出来ない。ところが眠りについて、夜中ふと目を覚めたとき、はからずともその問題を解決する考えが心に浮かんだことを・・・。これは潜在意識の作用の結果なのである。したがってこうした真理を聞いている場合でも、わかる、わからないは第二で、心を打ち込んで聞いていると潜在意識がそれを受け入れて、必要なときに実在意識によい合図を与えてくれる。そして正しい自覚や悟りをそくしてくれる。というのは心を打ち込んで聞いていると、その心の態度が潜在意識に同化に反映する。すなわち、その実在意識の態度が自然に潜在意識にはっきりと反映して、それはちょうどカメラのシャッターを切ったと同様、実在意識と接触した一切のものが潜在意識に印象されるからである。ゆえに潜在意識というものは肉体にも精神にも驚くべき影響を与えている。それは建設と破壊の二方面に、丁度、ものの声がするように、深甚なる影響を有しているものなのである。どういうけで、このように潜在意識に、いろいろな効果や特徴があるかというと、それは潜在意識は実在意識を通じて宇宙大霊と結びついているからにほかならない。すなわち潜在意識は、宇宙霊と同様一切のものを作り出し生み出す創造力を有しているわけである。 --運命を拓く 講談社(コメント)居眠りをしていて、ふと目覚めたときにいいアイデアが突然閃くというのは、誰もがしてる経験でしょう。居眠りと起きている時の丁度中間の状態を意識的に保つのが瞑想状態にあたります。つまり偶然ではなく、意識的に潜在意識の無限の宝庫から知恵を取り出す作業が、瞑想を訓練することによりできるようになってくるのです。そしてそれは人生において、あらゆる諸問題を解決してくれる力を持っております。
2004年09月13日
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http://backno.mag2.com/reader/Back?id=0000056255不可視なパワーは岩盤をも貫く --ジェームス・アレン自然は人が抱く思考の具象化を常に援助している。たとえそれが良い思考であれ、悪い思考であれ、それをもっとも速やかに具現化させるための好機の数々が、休みなく彼の前に出現し続ける。人がもし罪深い思考を捨て去ったなら、そのときから世界中が彼に優しく援助し、彼を援助しようとし始めることになる。人がもし貧弱で病的な思考を放棄したならば、彼の強い決意を援助すべく、あらゆる好機が湧き上がってくる。人がもし良い思考を抱き続けたならば、たとえいかなる不運があっても彼に悲しみを与えることはできなくなる。あなたの環境は、あなた自身の心を映し出す万華鏡である。その鏡の中で刻一刻と変化する多様な色彩のコンビネーションは、あなたの動くことをやめない思考の数々が絶妙に投影されたものに他ならない。あなたは、あなたがなろうとするものになる。卑しい心は、失敗の原因を見つけるべく、環境に目をやるかもしれない。しかし、気高い心は、内側に目をやり、常に自由である。気高い心は時間を従え、空間を征服する。それは、偶然というほら吹きの詐欺師をおびえさせ、環境という専制君主から王冠を奪い、意欲的に奉仕する。人の意思、その不可視なパワー、その不滅の魂の子孫は、いかに分厚い岩盤をも貫き、目標への道を切り開く。 --考えるヒント、生きるヒント ごま書房(コメント)ユング心理学では、人の表層意識は、潜在意識の一部分であり、その潜在意識を超えたところに、万物をつなげる集合的無意識が存在すると言います。そして、その万物を支配する集合的無意識に順応した意識を表層意識が保つ時、環境の全ての現象が自分に味方するようになります。1%のハイヤーパワー --エジソン<それは赤ん坊の頭脳の中に天才を見出したことだ。生まれたての頭脳ほど、リトル・ピープルにとって住みやすい場所はない。つまり、年が若いほど、自分の脳に宿っているリトル・ビープルの声に素直に耳を傾けることができるのである。大人になってからでは至難の業になるが、それでも何とか1?のひらめきと99%の努力があれば不可能でない。><例え1%のハイヤーパワーの知性の存在を確認できれば、努力も実を結ぶ。それがなければ、いくら努力しても無駄なこと。この発想の原点である(リトルピープルの声)、すなわち、1%のひらめきが最も重要なのだが皆このことがわからないようだ。><作曲という創造活動でも、あれこれ悩んだあげく、苦心して生み出すタイプの作曲家と、自分の周りの自然や宇宙からのメッセージを曲として受け止め、ごく自然に仕上げるタイプの作曲家がいますね。ベートーベンは後者の代表格で、私は大好きでした。彼の曲は作曲されたものでなく、インスピレーションによって生まれたものとしか思えません。 --怪人エジソン 日本経済新聞社 浜田和幸著(コメント)エジソンは、潜在意識からのひらめきを、<リトルピープルの声><宇宙からのメッセージ>と呼んでいました。そして、もしそれからのインスピレーションが1%もなければ、例え99%努力した所で無駄に終わるであろうといいました。エジソンはまぎれもなく潜在意識を活用した大発明家であり、様々な彼の発言の中に、そのことが表現されています。しかし、当時そのことを理解する人間はほとんどいなく、<99%の努力が大切なのだ>という曲解した解釈になってしまったのが、<天才とは1%の才能と99%の努力によって生まれる>の名言の正体であったようです。正心調息法 --塩谷信男正心調息法の特徴は、腹式呼吸法(調息)と正しい心の使い方(正心)のふたつの面からなっている点にあります。すなわちそれは、1腹式呼吸によって酸素を身体の深奥まで取り入れる。2日々を明るく、前向きに生きるため正しい心の使い方をする。3自分の願望について、<必ずそうなる><かくあるべし>と強く想念を発し、成功のイメージを抱く。こうした要素を組み合わせることによって、心身の健康を実現させるとともに、人生の諸事や心の願望も自在にこなすことのできるノウハウなのです。例えば、腹式呼吸では、息を吸う、止める、腹部に力を入れる、息を吐き出す、小さな呼吸を一つするという一連の動作を二十五回繰り返すことを基本としています。この吸息、充息、吐息、静息のサイクルに合わせて、治したい病気や叶えたい願望を頭で明確にイメージし、それが達成したさまを強く思う、すなわちあるいは<すでに達成できた>と完了形で強く想念する。それが願望実現の強力jな推進力となるわけです。 --自在力 サンマーク出版(コメント)深呼吸することは、心を落ち着けるために、誰もが一度はした経験があることでしょう。呼吸は、体の不随意神経器官(自分の意のままにならない組織)の中で、唯一自分の意志によって調節できる作業です。それをコントロールすることにより、体の各器官をコントロールし、意識を落ち着ける働きをします。気功法やヨガなどでは、呼吸法を応用して、イメージによる意識の力を使い、生命エネルギーである気(プラーナ)を同時にコントロールします。そしてそれに熟達すれば、体や意識の内部だけでなく、外部である物質世界にも共鳴していきます。塩谷信男医学博士 京城帝国大学医学部助教授を経て内科医を開業83歳の時、ゴルフで200ヤード飛ばして<怪物ドクター>と新聞にさわがれる94歳で、3度目のエイジシュートを達成。ゴルフ界の記録を次々に打ち立てる呼吸法とイメージにより、想念を現実にする法を説く著書<宇宙無限力の活用><大断言>など多数
2004年09月12日
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http://backno.mag2.com/reader/Back?id=0000056255心からの願い --澤田秀雄(株)HIS代表取締役<今やりたいことは何か>と聞かれたら、あなたは何と答えるだろうか。<あなたの夢は?>といわれたらどうだろうか。いずれにしても即答できないようであれば、それは<心からの願い>だといっていい。私はその種の欲求が多すぎて困っている。常に<あれもしたい、これもやってみたい>ということばかりだ。そして頭の中では、<どうしたら実現できるか>というよりも、<必ず実現できる>と思っているだけなのだ。すると不思議なものである。どこからか人が集まり、いろいろな力が合わさり、運も味方して、さらにいえば、何かわからない大きな力が働いて、結果としてできてしまう。旅行業界ではまったく新参者だったHIS(エイチアイエス)は、最大手JTBを一時申告所得で抜いてしまうし、海外に建設したホテルは高い稼働率を続け、98年にはついに<スカイマークエアラインズ>を就航させてしまった。また、畑違いの証券業界にも進出し、すでに結果を出している。こんなこと書くと自信過剰とか、不遜だとかいう謗りを受けるかもしれないが、決してそうではない。ただ私が感じているのは人間というのは、心の底から願うことは必ず実現できるようにできてるのでないかということである。 --思う動く叶う(限界を突破するエネルギー) サンマーク出版(コメント)様々な過程に起こる試練によって、いつのまにかその最初にたてた目標を見失っている自分に気づく時があります。一生懸命試練を乗り越えることに神経を集中しすぎて、最終的な目標を見失ってしまうと、意識の力が自分の意に反する方向にくわえられるようになります。最終目標を自分の最も一日の内で目にする場所に書いて貼り付けておきましょう。そうすれば、どのようなことが起きても見失うことがなくなります。潜在意識の指示に従う --C・M・ブリストル潜在意識の働きによって難しい問題を解決するにはまずあらゆる角度から全体を意識的に検討した上で夜眠りに入る前に潜在意識に向かって、どうかこの問題の解答をあたえてくれるようにと頼むのです。そうすると真夜中に旧に目が覚めてその解答が頭に浮かんだりあるいは、朝目が覚めるととたんにその解答が頭にひらめいたりするものです。さもなければ、昼間なにか仕事と全く関係ない別の事に夢中になっている最中にひょっこりいい考えが浮かんできたりしますから、そんなときはぬかりなくそれをそのまま受け取って少しも迷わずにその指示に従う行動にでるのがいいのです。 -ー信念の魔術 ダイヤモンド社(コメント)この潜在意識からの指示と自分(表層意識)の単なる思いこみをどのように見分けるのかについて、誰もが疑問をもつことでしょう。潜在意識の指示は、普段表層意識がそのことについて考えていないリラックスしたとき、または、瞑想時に、忽然と現われます。そして、そのアイデアが心に思い浮かんだ時になんともいえない良いフィーリングが体に体感できるものです。それに対して、あれやこれやと表層意識で考えて結論を出したことは、何も感じないか、あるいは憂鬱や不快感(虫の知らせ)を感じたりするもので、そのような判断は大抵の場合間違ったものであることが後からわかります。そしてそれは皮肉なことに一生懸命考えて無理に導き出した答えに多いものなのです。精神的映像化 --アラン・L・マクギニスある種のスポーツにおいては<精神的な映像化>が実際の練習より効果的だという結果が出ている。アラン・リチャードソンは体操の平行棒にいくつかの精神的トレーニングを取り入れた。選手たちは実際のトレーニングに入る前の5分間、<動いている自分自身を見て感じる>ように言われた。これは六日間毎日続けられた。リチャードソンはこの実験を行なう前に一つの仮説を立てた。心の中で満点の体操演技を映像化することが効果的な練習手段となるならこの選手たちは精神的な練習をおこなわなかったグループよりもっとうまくやれるはずだと期待した。そして全くそのとおりの結果になったのである。もっとすごい結果が出ている。バスケットのフリースローシュートで同じような能力の者で構成した2つのグループを比較した例である。一つのグループは毎日練習することを義務づけられ、もう一方は練習を禁止された。その代わり毎日フリースローに成功する自分の姿を思い描くことに練習時間をあてたのである。果たして両グループが競ってみると軍配は映像グループに上がったのだ。 --今出来る事からはじめよ 三笠書房(コメント)メジャーリーグで活躍する野茂選手をみてると、投球の合間に口を大きく膨らまして腹式呼吸をしていることに気づかされます。彼はそれをすることにより常に自分を平静に保つことに意識を集中してることがよく見て取れます。イチロー選手の目覚しい活躍ぶりは、説明するまでもないですね。二人の共通項はどちらも好調の時に有頂天にならず、不調の時も決して自分を取り乱すことなく、淡々とプレーをするところにあります。まさに彼らは超一流の自己意識の管理者であるといえましょう夢を抱き続け想像し続ける --稲盛和夫私は自分のことを<夢見る夢夫>と呼んでいます。私には途方もない夢を見る癖があります。果てしない夢を次から次へと見つづけその夢の中で事業を展開してゆくのです。その夢を直ちに実現しようとするのではありません。ただ頭の中で一生懸命<夢を抱きつづけ、想像し続ける>のです。頭の中でシュミレーションを来る日も来る日も持ちつづけるのです。そのようなプロセスを経て夢は願望となっていきます。仕事を離れてるときでも私はこの願望を常に心に抱いています。街を歩いていると何か私の願望に関係あるものが強い印象をもって目に飛び込んできます。また、例えば混み合ったパーティーの席で夢を実現させるためにどうしても接触したい人物が部屋の向こうから私の注意を引き付けることもあります。もし私が強烈な願望を抱いていなければ、このようなものはただ通りすぎていってしまったかもしれません。素晴らしいチャンスは、ごく平凡な情景の中に隠されています。それは強烈な目的意識を持った人の目にしか映らないものなのです。目標をもたないうつろな目には、人生のどんな素晴らしいチャンスも見えることはありません。 --成功への情熱 PHP研究所(コメント)もしあなたが心から願望を連呼し続けるなら、なんらかの自分を鼓舞するひらめきが潜在意識からの信号として送信されたり、現実世界の中でそれを実現するのに役立つ情報や援助あるいは物などが次々と現われ、あなたをその目票へと近づけていきます確信をもった祈り(Affirmative Prayers) --ノーマン・V・ピール多くの有名人が会員になってる健康クラブの経営者であるジャックスミスは、祈りの治癒力もしくは肉体の調子を整える効果を信じそれを利用しています。彼は一時はプロボクサーをやり、その後はトラックの運転手を経て、最後に自分の健康クラブを開いた人です。彼は自分は会員に肉体のたるみを指摘してやると同時に精神のたるみも指摘してやるのだと言っています。なぜならば、彼の話によれば<人間というものは精神的に健康でなければ、肉体的にも健康になることができないから>なのです。ある日、俳優のウォルスター・ハストンがジャック・スミスの机のそばに腰掛けていました。壁の上に大きな紙がはりつけてあってその上に次のような文字が書かれてあるのに彼はきづきました。ーAPRPBWPRAA。ハストンはびっくりして<いったいこの字はどういう意味なのかね>とたずねました。スミスは笑ってこう言いました。<それは、Affirmative Prayers Release Powers BY Which Positive Results Are Accomplished(確信をもった祈りは積極的な成果をあげる力を解放する)という意味ですよ。私は、人が好奇心を起こしてその字はどういう意味かと聞くように、このような手を使っているのです>とスミスはいいました。<それによって私は確信をもった祈りは常によい結果をもたらすことを信じているということを彼らに話す機会が得れますからね> --積極的に考える 実務教育出版(コメント)じつは翻訳本はこの確信をもった祈り(Affirmative Prayers)を<しっかりとした祈り>と翻訳しているのですが、これでは著者のこの文章を書いている意味が正確に伝わらないのでないかとおもい、あえて<確信をもった>と変えさせてもらいました。著者のピール氏はAffirmative(断定的、確信をもった)祈りつまり、その祈りがあたかもすでに叶っているかのごとく断定的に確信をもって祈ることが大切であるといいたかったことが明白であったからです自信を育む公式 --ナポレオン・ヒル1私は人生の明確な願望・目標を達成できるだけの能力を持っている。したがって私はどんなことがあっても忍耐強くそれを追求していく。このことを私は自分自身に対して約束する。2心の中で強く願えば、いつの日か必ず実現することを私は確信している。だから毎日30分私がこのようになりたいと思う自分の姿を心の中で鮮明に、そして具体的に想像する。3深層自己説得の素晴らしい威力を私は知っているだから毎日10分間、私はリラックスして自信を養うための深層自己説得を行う。4私は自分の願望・目標をはっきりと紙に書き出した。私はそれを達成するまで、どのようなことがあっても諦めないことを誓う。5いかなる富も地位もそれが真実と信義に基ずくものでなければ、長続きしない。私は真実と信義を重んじる。人々の利益にならないことは決してしない。人は誰でも、他の人々の協力によって成功をかちとることを私は知っている。だから私は、まず人々に対して奉仕をすることを私の使命とする。私は憎しみ、嫉妬、利己的な心、これらをすべては排除し、思いやりと誠実な心で人々に接する。私は自分を愛するのと同じように他人を愛する。 --巨富を築く13の条件 騎虎書房(コメント)この中で最後の5番は、最も大切な部分ですね。数多くの成功哲学の本が市販されてますが、これを重要視していない、もしくは、付け足しのように書いている本が結構多いのに気づかされます。みてると人の欲望を単にそそるだけのまやかしのようなものなども中にはあります。しかし、本物はこの中の5番を最重要視して書いていることはいうまでもありません。それは、これを実践することにより、宇宙の見えない偉大なる力があなたに味方するからです。
2004年09月11日
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http://www.mag2.com/m/0000056255.htmより秘儀は言葉にある --マークフィッシャー<ぼくは、自分が億万長者になれるということをどのようにして自分に納得させたらいいのかわからないのです。><方法はもともと一つしかない。あんたは億万長者になりたいと願っているのに決してなれないと自分にいいきかせている。それと同じやり方で、今度は絶対になれると言い聞かせれば、いいのじゃ。今日かれ二、三日長くてせいぜい二、三週間のうちにあんたも億万長者にふさわしい人格を身に付け始めるじゃろう。何年もかかって築き上げたものを覆すのにある程度時間がかかるのは当然のことだからな。<秘儀は言葉にある>言葉にしたことは、おのずと人生に現われてくるものじゃ。その人間の性格が強ければ強いほどその考えも積極的になり、実現しやすくなる。そして周りの環境にも影響を及ぼすのじゃ。ギリシャの哲学者ヘラクレイトスもこれと全く同じ格言を残しておる。(人格が運命を決める)とな。人間の望みをもっともよく支えているのは情熱じゃ。激しい情熱を持てばそれだけ望みも早く実現する。金持ちになりたければ、全身全霊でそう願うこと。どんな分野においても、率直さと情熱とが成功する必須条件なのだ。> --成功の掟 JMAM(コメント)電子メールで話をしていると不思議とその人の性格的なものが、伝わってこないでしょうか。怒ってるメール、ご機嫌の良いメール、優しい人、意地悪な人、いろいろな雰囲気が伝わってきますよね。言葉はその発している想念を形として現した物質世界に実現する最初のものであり、それを反復し、実際に行動することにより、次第に物質となり、形となって現われていきます。精神と物質、科学の最先端と東洋哲学"The religion of the future will be a cosmic religion. The religion which based on experience, which refuses dogmatic. If there's any religion that would cope the scientific needs it will be Buddhism...." 未来の宗教は宇宙的な宗教となるでしょう。それは、教義においてでなく、経験を基盤とするものである。もし科学的に必要なるものにうまく対処できる宗教があるとすれば、それは仏教であろう。 <アルバート・アインシュタイン>現在物理学は、原子論の分野で、東洋の神秘思想の世界観へと大きく一歩を踏み出した。量子論は、一つ一つが、その根本で独立しているといった物体観を捨て去り、<観測者>に変わって、<関与者>という概念を導入した。さらに今後の物事を記述する際には、そこに人間の意識を含む必要性をも認めるかもしれない。量子論では、万物は物質と精神の関係しあう織物で、その織物の部分は全体との結びつきをとおしてしか定義できない、と考えるようになったのである。タントラ仏教徒ラマ・ゴヴィンダの次の言葉は、原子物理学の世界観を要約している。仏教者は、そのダイナミックな力のなかに自分自身をおけるような、孤立して存在する外界を信じてはいない。外界も、自己の精神世界も、同じ織物の両面にすぎない。力と事象、意識の形態とその対象、それらすべてが糸として織り込まれ、不可分で限りの無いネットワークをつくり、互いに条件づけされあう関係を構成する。<ラマ・ゴヴィンダ> ーーF・カプラ著 タオ自然学 工作舎(コメント)最先端の科学は、意識と物質の関係にメスを入れ始めようとしています。もちろんこのメルマガの読者の方の中に物質主義的な方は、まずいらっしゃらないと思っていますが、どっちかわらない、自分に都合のいい方がいいなどと考えている人は多いんではないでしょうか。実は私もその内の一人です(笑)ポジティブ・エネルギー --メンタルタフネス ジム・レイヤー著奇跡の逆転優勝と言われた1986年のマスターズ最終日、私は<全盛期の自分>に出会ったんだ。十八ホールまでずっと<彼>と一緒にプレーしていた。その状態になったら、もう恐いものはなかった。<ジャック・ニクラウス プロ・ゴルファー>意欲は落ち着きとともに最も大切な要素の一つだ。エネルギーが全身に満ちてこそいいプレーができる。エネルギーの発生源は、不安や恐れ、怒り、フラストレーションなどでは決してない。好プレーを生み出すエネルギーの源は、一言で表現すれば、<スポーツをする喜び>である。その時々のプレーを楽しみ、愛することが何より精神的エネルギーをわきたたせてくれる。選手の証言を分析すると、エネルギーには、積極的、肯定的なポジティブ・エネルギーと消極的、否定的なネガティブ・エネルギーの2種類あることがわかる。ベスト・プレーにはもちろん、ポジティブ・エネルギーが欠かせない。ポジティブエネルギーは、多すぎて困る事はない。<ポジティブ・エネルギーは、大きければ大きいほどいい。競技やゲームに対する喜びや楽しさが増すほど成績も向上する。>一流選手たちの証言はそう教えてくれる。これは決して落ち着きの要素と矛盾するものではない。積極的に実力を出しきっている時には、心の落ち着きと試合を楽しむ気持ちは一つになり、大きなエネルギーをうみだすのである。 ーーメンタル・タフネス TBSブリタニカ(コメント)<自分はネガティブ(否定的)にしか物事を考えられないんですが・・・>という人は意外と多いものです。しかし思考そのものが、潜在意識に影響を与えるエネルギーであり、それは現実世界でも作用を及ぼすことが自覚できれば、そのエネルギーを積極的なものに向けようと努力するはずです。一度それを実行しはじめると、自分で思っていたよりも簡単にそれができることに気づかされます。そしてそれは、あなたの人生そのものを素晴らしいものに変化させることでしょう。困難を現実にする --B・スィートランド私はある若い女性に、あなたの理論は見事だが役には立たないのではないかといわれたことがある。その女性は、これまでにいろいろなことを望んだがどうしても必要なものを除いては何も得られなかったというのだ。彼女は<望んだ>という言葉の中に彼女の失敗の原因が潜んでいることがわかっていなかった。いろいろなことを望んだと彼女は語った。私は彼女に<これらの目標が実現するとあなたが知っている状態になるまで、<望む>ものは何も手にはいらないであろう。>と教えてあげた。彼女は少し元気を取り戻し<先生のおっしゃることは正しいかもしれません>と言った。そしてこう続けた。<よく考えてみると、目標を達成するまで、あれやこれや困難が起こるだろうといつも思っていました。そしてそのとおり、いつも何か困難なことが起こっていたのです。これからは、自分が人生の成功者になることを知っていようと思います。>一年もたたないうちに、この若い女性は今では、<私は、自分の望むものをなんでも手に入れる方法を知っている>と自分の友人たちに語っていた。そして、以前には、ただ夢みるだけだったものをすへて手に入れたのである。 --自己を生かす 創元社(コメント)目標をいったん定めてそれに向かって努力していると、その過程における困難に神経を奪われて、当初の目標を見失ってしまっている自分に気づくときがあります。船を操縦するときは、たとえ嵐がこようと、自分たちが行く目標を決して見失う事なく、その嵐を乗り切る事を考えます。常に目標にたどり着いたときのイメージを持ちましょう。そうすれば、どんな困難があなたを邪魔しようと方向を見失う事は決してありません量子場 --ディーパック・チョプラM・D最初に願望があった。それは心の最初の種子であった。賢者たちは心の中で、瞑想し、叡智によって実在と無との関係をつきとめた。<リグ・ヴェーダ>意欲するだけで願望は成就す原理は、<エネルギーと情報は、自然のあらゆる場所に存在している>という事実に基づいています。実際、量子場には、エネルギーと情報意外になにも存在していません。量子場とは、<純粋な意識>あるいは<隠された無限の可能性の場>のもう一つのよび名です。そして、その量子場は、意欲と願望に大きな影響を受けています。あなたは、宇宙の肉体と一体です。なぜなら量子力学的レベルにおいては明確に特定された境界は存在しないからです。あなたは、大きな量子場内の一つの振動、波動、変動、ひだ、渦、つまり、<局所的乱れ>なのです。その大きな量子場、すなわち宇宙はあなたの肉体の延長なのです。人間の神経系は、自分自身の量子場の情報とエネルギーを認識するだけではありません。それは、人間の意識に無限の柔軟性を与えてくれます。そのためあなたは、あなたの物理的肉体を生じさせている情報の内容を意識的に変えることができます。また、あなたの肉体の延長部分<あなたの環境、あなたの世界>のエネルギーと情報の内容に影響を与え、多くの物事をその中で、出現させることもできるのです。 --人生成功のための七つの原理 騎虎書房(コメント)最先端の量子力学においては、物質のミクロの世界は波動であり、我々の存在はすべての中の<ゆらぎ>の一部にすぎないということになります。そして、その<ゆらぎ>には意志があり、それが意欲することによって、あらゆる周りの出来事や環境を自由に変化させる力を持っています。すなわち、潜在意識とは、私たち一部の<ゆらぎ>を取り囲む、<大きなゆらぎ>であり、その中心に存在するあなた自身の<ゆらぎ>が意志することによって、いかようにも変化さすことができるのです
2004年09月10日
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http://www.mag2.com/m/0000056255.htmより1009回の断られた後 --アンソニー・ロビンス皆さんはケンタッキーフライドチキンを口にしたことがあるだろう。サンダース大佐はフライドチキン大帝国を作りあげ、自分が億万長者となるばかりか、一国の食習慣まで変えてしまった。サンダース大佐も、はじめは、フライドチキンの調理法に詳しい退役軍人に過ぎなかった。ただそれだけだった。組織も何もなかった。彼は小さなレストランを営んでいたが、その店は幹線道路から外れていたため、破産寸前のありさまだった。年金を支給される年齢になったとき、大佐はフライドチキンの調理法の技術を売れば金になるのでは、ないかと思いたった。まず考えたのは、レストラン経営者に調理法を売り、レストランの経営者から歩合金を受け取る事だった。だが、それは必ずしもビジネスを始めるにあたっての一番現実的なアイデアとはいえない。実際サンダース大佐は、一気にビジネス界のスターにのしあがったわけではない。彼は車の中で寝泊りしながらアメリカ中を回り、スポンサーを捜した。絶えず発想を変え、ドアを叩きつづけた。1009回断られた後、奇跡が起こった。ある人が<イエス>と答え、奇跡のビジネスがはじまったのである。サンダース大佐が財を成したのは、たくましく断固とした行動力があったからだ。彼は自分が一番望んでいる結果を生むのに必要な力、自分を信じる力をもっていた。1000回断られてもなお、次のドアをたたこうと自分に言い聞かせつづける勇気があった。というのも彼は、いつかどこかで誰かが必ず<イエス>といってくれるにちがいないことを、心底から信じていたのである。 --あなたは今の自分と握手できるか 三笠書房(コメント)エジソンが電球を発明する過程で、2万回の実験に失敗したと言われています。上記サンダース氏のエピソードもそうですが、このようなサクセスストーリーを聞いた時に思うことが、果たしてそれらを行なう時に彼らは、成功の結果を期待していたのであろうかということです。私たちが、好きなこと、例えば好きな本を読んでるとき、あるいは、好きな人とおしゃべりしてるとき、それらの行為から、利益を得ることを考えているでしょうか。おそらくそうではなく、ただ本を読むこと自身を、おしゃべりしている事自体を楽しみ、決してその本を読んだらテストで満点がとれるとか、その人と仲良くなったら、仕事において得なことがあるとか考えてないはずです。おそらくサンダース大佐やエジソンは、他人から見て失敗と取れるような行為を楽しんでいたのではないかと思われます。そして、そのような結果を気にしないで、行為そのものに一心不乱に打ちこんだ状態にこそ、鮮鋭なる未来の成功のイメージが無意識にして浮かんでくるものではないでしょうか。
2004年09月09日
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ローマ教皇ユリウス2世逝去。1513年2月21日ユリウス2世は計り知れないほどの勇気と確固たる意志を持った支配者であった。向こう見ずでその計画は途方もなく大きなものであった。ユリウス2世は世俗的な君主であったならば、最高の栄誉に浴していたであろう。それにもかかわらず、彼は全ての前任者を越えてその記憶がもっとも光り輝き、もっとも栄光に満ちた教皇であった。現代(マキャベリの生きた時代)において、知りうる限り、大事業はすべて吝嗇と考えられた人々のみによって成し遂げられている。例えば、ローマ教皇ユリウス2世は、教皇になるまでは気前が良いという評判を用いたが、その後は、戦争を起こすために気前が良いという評判を維持しようなどとはしなかった。また、現在のフランス王ルイ12世は、国民に重税を掛けずして数次にわたり大戦を行ってきたが、これも長期間倹約を行って膨大な支出に備えてきたからである。現在のスペイン王フェルナンド5世が、気前がよいと称されるようであれば、あれだけの戦争を起こし、勝利することはできなかっただろう。ゆえに、君主は、民衆から搾取せずにすむよう、自らを守りぬけるよう、貧乏になって軽蔑されないよう、また、強欲にならぬよう、吝嗇であるという評判を少しも気にしてはならない。これは、君主を支配者たらしめる悪徳の一つなのである。
2004年08月31日
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みなさん こんにちは、実はメインブログをココログの知的体育会系フリーエージェントの実践記録に移管しました。以前、はじめてこられた方へでも、触れていますが、「この楽天については、7月末までを目処に、新しいブログを立ち上げるための実験的ブログ」です。いよいよ本番稼動しました。しかし楽天もアクセス数もバカにできないので困っています。どうぞ、これからもよろしく。
2004年08月30日
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☆戦争終了の後に何をどのように行ったかで、その国の将来は決まってくる。勝敗は、もはや成ったことゆえどうしようもない。問題は、それで得た経験をどう生かすか、である。<第二章 第一次ポエニ戦役後>○戦闘の結果を左右する戦術とは、コロンブスの卵であると同時にコロンブスの卵ではない。誰も考えなかったやり方によって問題を解決するという点ではコロンブスの卵だが、そのやり方をと踏襲すれば誰がやっても同じ結果を産むとはかぎらないという点で、コロンブスの卵ではないのである。<第三章 第二次ポエニ戦役前期>○天才とは、その人だけに見える新事実を、見つけることのできる人ではない。誰もが見ていながらも重要性に気づかなかった旧事実に、気づく人のことである。<第三章 第二次ポエニ戦役前期>○(ハンニバルの言葉として)多くのことは、それ自体では不可能事に見える。だが、視点を変えるだけで、可能事になりうる。<第四章 第二次ポエニ戦役中期>○信頼は、小出しにしないほうが、より大きな効果を産みやすい。<第五章 第二次ポエニ戦役後期>☆優れたリーダーとは、優秀な才能によって人々を率いていくだけの人間ではない。率いられていく人々に、自分たちがいなくては、と思わせることに成功した人でもある。持続する人間関係は、必ず相互関係である。一方的関係では、持続は望めない。<第六章 第二次ポエニ戦役終期>○神話や伝承の価値は、それが事実か否かよりも、どれだけ多くの人がどれだけ長い間信じてきたかにある<建国の王ロムルス>☆多神教では、人間の行いや倫理道徳を正す役割を神に求めない。一方、一神教では、それこそが神の専売特許なのである<二代目の王ヌマ>○人間の行動原則の正し手を、宗教に求めたユダヤ人。哲学に求めたギリシア人。法律に求めたローマ人。<二代目の王ヌマ>○戦争は、それがどう遂行され戦後の処理がどのようになされたかを追うことによって、当事者である民族の性格が実によくわかるようにできている。歴史叙述に戦争の描写が多いのは(中略)戦争が、歴史叙述の、言ってみれば人間叙述の、格好な素材であるからだ<ペルシア戦役>☆歴史は必然によって進展するという考えが真理であると同じくらいに、歴史は偶然のつみ重ねであるとする考え方も真理になるのだ。こうなると、歴史の主人公である人間に問われるのは、悪しき偶然はなるべく早期に処理することで脱却し、良き偶然は必然にもっていく能力ではないだろうか<南伊ギリシアとの対決>☆第三章:複合の君主政体について○「戦争を避けるために混乱を放置してはならない」第四章:アレクサンドロスに征服されたダレイオス王国で、アレクサンドロスの死後にも、その後継者たちに対して反乱が起きなかったのは、なぜか○「(君主政体の違いについて)一つはひとりの君主と他はすべてが下僕である者たちによって治められる方法・・・いま一つはひとりの君主と封建諸侯たちによって治められる方法」第五章:征服される以前に、固有の法によって暮らしていた都市や君主政体を、どのようにして統治すべきか○「獲得された諸政体が、固有の法によって自由に生活するのに慣れてきたものであるときには、支配を維持するための方法は三つある。第一は、これらを壊滅させること。第二は、みずからそこへ移り住むこと。第三は、固有の法によって暮らすのを認めながらも、内部にあなたと密接な関係を保つ寡頭政権を確立し、租税を取り立てること。」第六章:自己の軍備と力量で獲得した新しい君主政体について☆「新制度の導入者は旧制度の恩恵に浴していたすべての人びとを敵にまわさねばならない。・・・そして新制度によって恩恵を受けるはずのすべての人びとは生温い味方にすぎない・・・この生温さが出てくる原因は、一つには旧来の法を握っている対立者たちへの恐怖心のためであり、いまひとつには確かな形をとって経験が目のまえに姿を見せないかぎり、新しい実態を真実のものとは信じられない、人間の猜疑心のためである。」 ↓☆「したがって、これら改革の側に付く者たちが自分の力で立っているのか、それとも他社の力に依存しているのかを、すなわち自分たちの事業の遂行にさいして、彼らが祈っているだけなのか、それとも実力を行使できるのか、仔細に検討しておかなければならない。」○「ここから生まれてきた事実によれば、軍備ある予言者はみな勝利したが、軍備無き予言者は滅びてきた。・・・人民は本性において変わりやすいので、彼らを一つのことを説得するのは容易だが、彼らを説得した状態に留めておくことは困難であるから。」第九章:市民による君主政体について○「賢明な君主は、いついかなる状態のなかでも、自分の市民たちが政権と彼のことを必要とするための方法を、考えておかねばならない。そうすれば、つねに、彼に対して彼らは忠実でありつづけるだろう。」第十二章:軍隊にはどれほどの種類があるのか、また傭兵隊について○「すべての政体が・・・持つべき土台の基本とは、良き法律と良き軍隊である。」第十四章:軍隊のために君主は何をなすべきか○「精神の訓練に関しては、君主は歴史書を読まねばならない。そしてその内に卓越した人物たちの行動を熟慮し、戦争のなかでどのような方策を採ったかを見抜き、彼らの勝因と敗因とを精査して、後者を回避し前者を模倣できるように勤めねばならない。」第十五章:人間が、とりわけ君主が、褒められたり貶されたりすることについて☆「いかに人がいま生きているのかと、いかに人が生きるべきなのかとのあいだには、非常に隔たりがあるので、なすべきことを重んずるあまりに、いまなされていることを軽んずる者は、自らの存続よりも、むしろ破滅を学んでいるのだから。なぜならば、すべての価値において善い活動をしたいと願う人間は、たくさんの善からぬ者たちのあいだにあって破滅するしかないのだから。」○「悪徳からも、可能なかぎり、身を守るすべを知らねばならないが、それでも不可能なときには、さりげなくやり遣り過ごせばよい。」第十六章:気前の良さと吝嗇について○「賢明であるならば、君主は吝嗇ん坊の名前など気にしてはならない。」○「奪い取らないことによって、無数に近い人びとのすべてに気前の良さを示し、また与えないことによって、少数の人びとのすべてに吝嗇を行使することんある。」○「君主たる者は・・・吝嗇ん坊の名前が広まるのを・・・いささかも気にしてはならない。なぜならばこれを彼をして統治者たらしめる悪徳の一つであるから。」☆「その君主は自分のものや自分の臣民のものを費やしてきたのか、それとも他人の所有物を費やしてきたのか。第一の場合ならば、控え目にすべきである。第二の場合ならば、いかなる形の気前の良さも惜しんではならない。」○「気前が善いと呼ばれたいばかりに、憎しみにまみれた悪評を生み出す強欲という名前へ陥ってゆくよりは、むしろ憎しみの混ざらない悪評を生み出す吝嗇ん坊という名前を身につけてゆくほうが、はるかに賢明なのである。」第十七章:冷酷と慈悲について。また恐れられるよりも慕われるほうがよいか、それとも逆か○「君主は、慕われないまでも、憎まれることを避けながら、恐れられる存在にならねばならない。」第十八章:どのようにして君主は信義を守るべきか○「闘うには二種類があることを、知らねばならない。一つは法に拠り、いま一つは力に拠るものである。第一は人間に固有のものであり、第二は野獣のものである。」 ↓☆「君主には獣を上手に使いこなす必要がある以上、なかでも、狐と獅子を範とすべきである。なぜならば、獅子は罠から身を守れず、狐は狼から身を守れないからゆえに。したがって、狐となって罠を悟る必要があり、獅子となって狼を驚かす必要がある。」○「君主たる者に必要なのは、先に列挙した資質のすべてを現実に備えていることではなくて、それらを身につけているかのようにみせかけることだ。いや、私としては敢えて言っておこう。すなわち、それらを身につけてつねに実践するのは有害だが、身につけているようなふりをするのは有益である、と。」 ↑○「あなたの外見をだれもが目で知ってはいても、あなたの実態に手で触れられるのは少数の者たちだけであるから。」第十九章:どのようにして軽蔑と憎悪を逃れるべきか○「陰謀に対して君主がなすべき最も強力な手当の一つは、大多数の人びとから憎まれないことである。」第二十章:城砦その他、君主が日々、政体の維持のために、行っていることは、役に立つのか否か○「君主たちが既存の政体を新たに征服したさいに、その政体の内部にありながら支持してくれた者たちがいたときには、自分を支持してくれた者たちがいかなる理由で支持に踏み切ったのかを、よく考え直して、思い返す必要があるということだ。そしてその理由が、自分たちに寄せられた自然の敬愛のためではなく、単に彼らが元の政体に満足していなかったためだけであるならば、彼らを味方にしておくことは困難であり到底かなわぬであろう。なぜならば、彼らを満足させることは不可能であるゆえ。・・・満足していないがために、相手の味方について、それまでの政体が征服されるのに力を貸したがごとき者たちよりも、以前の政体に満足していたがために敵対した者たちのほうが、己の真の味方になることは、はるかに容易に看て取れるであろう。」第二十一章:尊敬され名声を得るために君主は何をなすべきか○「旗幟を鮮明にする態度は、中立を守ることなどよりも、つねに、はるかに有用である。・・・勝ったほうには、逆境のなかで助けてくれなかった疑わしい味方など、要らないし、負けたほうには、武器を執って自分と運命を共にしたがらなかった、あなたのことなど、受け容れられるはずもないから。」☆「慎重な心構えとは数々の不都合の特質をよく見分けて、最悪でないものを良策として選び取ることにある。」第二十三章:どのようにして追従者を逃れるべきか☆「良き助言というものは、誰から発せられても、必ず君主の思慮のうちに生まれるのであり、良き助言から君主の思慮が生まれるものではない。」第二十五章:運命は人事においてどれほどの力をもつのか、またどのようにしてこれに逆らうべきか○「運命がその威力を発揮するのは、人間の力量がそれに逆らってあらかじめ策を講じておかなかった場所においてであり、そこをめがけて、すなわち土手や堤防の築かれていない箇所であることを承知の上で、その場所へ、激しく襲いかかってくる。」○「私としてはけれどもこう判断しておく。・・・慎重であるよりは果敢であるほうがまだ良い。なぜならば運命は女だから・・・そして周知のごとく冷静に行動する者たちよりも、むしろこういう者たちのほうに、彼女は身を任せるから。それゆえ運命はつねに、女に似て、若者たちの友である。」
2004年08月29日
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ローマ人の真のアイデンティティを求めるとすれば、それはこの開放性ではなかったか権力と富を享受しうるようになったローマで、敢えてそれから逃避せず、しかし、その奴隷にならないよう日毎自らをいさめ誘惑と戦う・大衆は普通、彼等の属する集団やその価値によって自己を規制している。そうしたものがなくなったとき、大衆は手取り早い方法で欲するものを得ようとするのであるから、個人が原子化されているのが大衆社会の特徴である。当然そこでは、大衆は操作され易い。・幸運に臨んでは慎み深く、他人の不運からは教訓を学んで、つねに最善をつくす・巧妙な外交をおこなうものは、契約を破ったりは滅多にしないものなのである。・よい政治体制とは国内の活力と多様性とを保ちながら、秩序と安定とを与えるもの・勝敗の分かれ目はレーンが述べたように「社会を組織する能力」の差にあった。(ジェノヴァに勝ったヴェネツィアの要因)・挫折は自らの限界を悟らせる。そして、人間は知恵を持つようになる。・幸運に助けられた目ざましい成功と、どうしても克服できない脆弱性、その二つが通商国家の運命であるというほかない。・それをしていることを十分に承知している人間の行う偽善は、有効であるとともに、かつ芸術的に美しい○プロイセンのフリードリッヒ大王の言葉・・・「戦勝とは敵にその地位を譲ることを余儀なくさせることである。」○よく話題にのぼるモルトケとシュリーフェンの違いについてはそのいくつかを列挙して対比している、以下はその一部・・・「モルトケは撃破しやすい敵をまず攻撃しようとしたが、シュリーフェンは最も強大で、危険な敵を全力をあげて撃滅する必要を説いた。」「モルトケが外交との調節をはかることを考えたが、シュリーフェンは政治家を信ぜず、武力による撃滅戦に傾倒した。」「モルトケが作戦計画において初期作戦を重視し、綿密な計画作戦を指導するが、その後は状況の変化に対応する情況作戦を考えたのに対し、シュリーフェンは全期間を通じて緻密な計画作戦が可能であると信じた。」○フラーからの引用・・・「小銃が歩兵をつくり、歩兵が民主主義をもたらした。」○毛沢東の十大軍事原則・・・1「まず分散した敵を討ち、集中した強大な敵はあとで撃つ。」2「まず小、中都市および広大な郷村を占拠し、あとで大都市を占領する。」3「敵の生産力を殲滅することを主目的とし地域の奪取は主目的としない。」4「絶対優勢の兵力を集中し、敵を四囲から包囲殲滅につとめ、不徹底な消耗戦を避ける。」5「準備と確信の無い戦いは行わない。」6「勇敢に戦い、犠牲と疲労、連続作戦を恐れない気風を養うこと。」7「つとめて運動戦によって敵の殲滅をはかる」8「都市攻撃にあたっては敵の守備薄弱部を、中程度の守備に対しては状況と能力の許す限り機を見て、堅固な守備に対しては条件の成熟を待ってこれを奪取する。」9「敵の兵器と人員の大部を捕獲、捕虜として自己を補充する。わが軍の人力と物力の補給源は主として前線にある。」10「部隊の休息と整備は二つの戦役の間をりようして行うが、休息を長きに失せぬよう、また敵に反撃の余裕を与えない限度で行うこと。」○あとがきにて・・・「歴史は過去を取り扱うものであるが、それを扱う方法は過去からだけでは生まれてこない。将来に対するある種の見通しがあってこそ過去の扱い方も出てくるのである。」「戦略は、戦場における勝利のためのリスクを最小限にするように事前に準備し、また戦場における勝利の果実を最大限に活用する策略。」「戦術は、戦場において最大のリスクに挑戦し、最大の勝利を獲得するための術。」・・・と著者なりに定義してから始めている。また、冒頭部分で日本の平和論には戦術研究が徹底的に欠けているとしている。忌むべき病気を研究する医学のように忌むべき戦争を研究する戦争研究があまりにもおざなりなことを、こういう本の例にもれず嘆いている。以下は気になったり印象に残っている点を列挙・・・指揮官の決断力についての既述の中で、元の状態の把握、微小変化の発見、何物かの認識、敵か味方かの識別、真偽の判別、正確な報告の伝達のそれぞれが80%の精度であると仮定して実際に頭脳に入ってくる情報について・・・「指揮官は約25%の情報量で決断を求められている。」・・・と断言しているのはちょっと言い過ぎのような気がしたが完璧を踏まえてからしか動かない官僚思考型が多い日本の中では強調したかった点なのだろう。僕も同感してしまう。戦史の基本中の基本であるカンネーの戦いについては・・・「この戦闘は戦術の極意をすべて含んでいる。弱点を見せて敵を中央突破の攻撃に誘い込んで逆に敵に弱点を生じさせ、歩兵陣の両翼の防御と、中央の歩兵陣の遅滞行動で敵を拘束し、左翼の騎兵で機動打撃する攻撃。」と述べている箇所は今まで僕が読んだこの戦いについての説明の中では一番簡潔でかつ要点をまとめてくれていると感じた。「戦時向きであり、平時向きであるような武将は、この世に存在しない。」・・・とチンギス・ハーンが述べていると書いているがどうもここらへんはうさんくさい。リデル・ハートの著作あたりからの引用か?キャプテン・ドレイクの言葉として・・・「イングランドの防衛線は国境や英国海峡にはない。大陸側の港の背中にある。」・・・としている言葉は海洋防衛の基本を示す言葉だろう。ただこの純軍事的な考えが日本の朝鮮侵略につながっていったという政治的事実も無視できないと思う。そして、この本の中でもっとも面白かったのはナポレオン戦争以降盛んになった戦史研究についてだ。一般的に戦闘開始以前の理論戦闘力が優位な側が勝つという考えが当然のこととされている。(当たり前と言えば当たり前だね)しかし、過去605の戦例から理論戦闘力の比(「Force Raito」=「F.R」)を表にしてまとめてみると・・・理論戦闘力が優勢側の勝利は辛うじて過半数を超える56%で劣勢側の勝利は36%(残り引き分け)。また、劣勢側が攻撃したケースが26%あり、そのうち勝利もしくは引き分けが59%になっている。事前に相手より三倍以上の兵力整えられれば勝利するなどのような一般化されている常識は史実からは遊離していると述べている。また、ソ連のチェモシェンコやドイツのグーデリアンなどに強い影響を与えたとされるJ・F・フラーの『機甲戦ー作戦原則第三部の解説ー』を紹介しているのだがこの中で戦いの原則を著者なりの注釈を加えて既述している。特に・・・「戦いにおいては、明確な目標を確立し、徹頭徹尾、追求せよ。(注)当然の話であるが、これほど実行が難しいものはない。」「敵の作戦計画を破壊するように、機動せよ。機動の目的は、敵の精神の均衡を破壊することである。(注)馬鹿な指揮官は、敵の物理的戦闘力を破壊しようとする。優れた指揮官は、敵の思考力を破壊する。」「集中の原則・・・(注)わが決勝点に戦闘力を集中しようとすれば、敵も集中しようと努力する。要点に対して相対的に優勢な戦闘力を集中するには、適切な分散によって敵に分散を強要することが必要である。集中のタイミングは、敵の反応が遅れた瞬間である。」・・・などは様々な方面にも応用できるものだろうが以前読んだリデル・ハートの理論そのままといった感じだった。ロンメルの言葉として・・・「大胆な作戦は、常に予備と代替の作戦計画を持っている。」・・・これもリデル・ハートの『戦略論』などに添ったもの。また、フラーはこの本の冒頭で研究を含めた戦前での準備について・・・「戦争になって、新しい戦闘教義を創造することは、よほどの天才でない限り不可能である。」と述べているがこれは戦争だけでなくすべての物事においても通じることだろう。それとこの本を読むまで意外に理論として認識していなかったのが航空戦力を砲兵の代わりとして使用するということだ。ポーランド侵攻戦でグーデリアンを始めとするドイツ軍はフリードリッヒやナポレオンが砲兵に騎兵を支援させたように航空戦力に機甲部隊を支援させたとしている。航空機はその維持費の高さ、防御力の脆弱さ、運用の難しさから騎兵の後継者とした考えを僕はもっていたが砲兵の後継者としての運用が現代戦でのデビューでもあったのだということが意外だった。十七世紀の英国の海軍戦闘訓令の失敗から有事における法の原則を・・・「決められないことは決めるな!」と言い切っているのはちょっと行きすぎだと思う(^^;冷戦後の戦争作戦については連合作戦には戦闘力の要素を相互に補完し合う方法(古代ローマ型)と連合する国々がそれぞれ完全な軍事力の要素を持って連合する方法(第二次大戦型)があるが、前者はかつて技術的に困難が多いことと連合部隊内における主権の問題によって崩壊したことになっている。そのため「戦闘力の要素を補完し合う連合作戦は過渡期の方法であろう。」と述べているが最近のNATOによるユーゴ空爆などは前者に位置するものだろうこれからどうなるか見きわめていきたい。最後に・・・「名将は、育てられるものではない。育つ環境を与えるだけである。」・・・というのは軍事教育だけでなく教育すべてに通じる言葉だろう。
2004年08月28日
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矢吹丈(人形)オレ ライフアップ丸尾オーナー 操体プラクティショナーりょう昨日は、某テレビ局のディレクターさんと飲む予定でしたが、緊急の取材でカット(T_T)でも、りょうと丸尾オーナーとで楽しく飲みました。 與之更始いこう!ともに新時代へ フリーエージェントの時代へ 店長のえっちゃんも、キルゴアお気に入りの焼酎を片手にこれからのことについて!さて、平成16年8月25日にイベントを行います知的体育会系フリーエージェント キルゴアFA宣言&操体プラクティショナーりょう 29歳誕生会 日:2004年08月25日 時間: 20時集合 20時15分開催 22時過ぎぐらい解散) 費用:参加費 4200円(ウチ税200円) 飲み放題です! 8月25日は 操体プラクティショナーりょうくんの29歳の誕生日のお祝い、そして8月15日に会社を退職して、フリーエージェントになったキルゴアの未来へのマニフェストを宣言いたします。皆様のブログ・メルマガでも告知をいただければと思います。 「りょうとキルゴアの知人達の出会い・交流の場」として活用ください。 大物ゲストも来る可能性があります。依頼中です 古市佳央 さん這い上がり ある「顔」の喪失と再生の半生記当然、ライフアップ丸尾オーナーもリキいれてくれてます。(^_^)V 参加資格:楽天日記、GREE、MIXI、ブログなどで2人のうちどちらかを知っている方、祝いたい方は誰でも可!参加方法:ここのコメントで参加宣言をするか、楽天の私書箱へメールをくれるか、ohori@hi-ho.ne.jpに連絡してくださーい!締め切り:月曜日の午前中まで(人数を確定させるため)お早めにどうぞ!!場所:東京都 (渋谷ライフアップ) Relax Dining Bar LIFE UP (アジアン・創作無国籍レストランバー) 東京都渋谷区桜丘4-2-1階 (JR渋谷駅南口徒歩5分) TEL.03-3476-5663☆FAX.03-5457-1386
2004年08月20日
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明鏡止水(「明鏡(めいきょう)」とはくもりのない鏡のこと。「止水(しすい)」とは波の立たない静かな水面のこと。どちらも、ありのままに姿や形を写し出すことができたこと。悪い考えの無い澄んだ心境を表していて、一点の曇りも無い鏡と静かに澄んだ水に例えたもの)より着想生物群の繁栄の基礎たるものは、生物にとって生存しやすい環境を構築することである。生存の要件は、全ての生物にとって一概に適用しうるマスターキーは下記である。環境が穢れ過ぎると生物は死滅する。穢れは、何も手をくわえねばますます穢れてゆき、生存に適することのない環境が構築される、生物は自らの遺伝子の存続と繁栄のため、自らの生息する環境を浄化しなければならない、浄化とは変転、流転させることである。生存環境に実在する万物を、滞留させると穢化するのである。我々にとって、止まることは死である。生物の死は肉体という遺伝子の乗り物の機能の停止である。死の状態とは、停止の状態である。私の理念の主題は、常に穢れる方向(死滅への方向)に向かう環境を生物自身の叡智(ミーム=生存保障システム)を、その穢れる方向性を食い止めるべく反作用(=浄める方向性)にもっていき、繁栄を実現する状態をバランスさせてゆくことにある。ただし、過度の浄化はまた、生物の死滅へ繋がる。具体的には、砂漠は日が照りつけ熱砂になり、熱による浄化がおこなわれた状態ではあるが、浄化の行き過ぎにより、生物の生存に適さない状態となっている。寒冷地においては、冷気が浄化せしめているがこれも生存には適すことがないのである。生物が存在できるからこそ、エントロピー(排泄による汚濁)がおこるのである。我々、生物は生存のため他の生物を捕食する業と生存環境を穢す業を背負っているのである。ただ、その業自体も意味のある行為である。捕食は生存適正数調節に必要であるし、排泄は、環境の養分供与のため必須である。明水理念は、生物の生態体系の法則を守る。つまり、養分(=エネルギー)を適切に生態系に沿って滞りなく流す思想である。1.生存環境は穢れる方向へ向かう性向がある2.穢れの帰結は、その環境下で暮らす生物の死滅である。3・穢れを食い止めるため、その反の力を加え、環境を浄化させなければならない。4・環境に存在する万物を、流転せしめることが、浄化へと繋がるのである。5.浄化は、その環境に生存する生物の叡智によってなされる。6.浄化の行き過ぎは、生物自体の生存に適さなくなる。7.浄と穢の比率は、78:22で中庸(=バランス)をとる。
2004年08月19日
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トム・ピーターズエクセレントになるためにまず必要なことの九九・九パーセントまでは、やってみせるというやる気を奮い起こすことで、周囲の者が(同僚を含めて)どんな邪魔立てをしようとも、妥協をしないという強い決意が大切だ岡本呻也 新日本人革命「価値観」とは、各人が各々の心の内で定めている、「物事の持つ意味づけ」である。 日々、何かの折に深く考えていくと最終的には、「人間とは何か」という疑問に到達するだろう。われわれは、いずこより来たりて、何のために生き、いずこへと去るのか。 そこからすべての疑問がスタートし、自分たちを囲む現実を検証してものの価値や意味を考えることになる。ルネサンスの時代の人間たちが、それまでの中世の神による呪縛を離れて、自分の足で立ち上って考え始めたのも、ここが出発点だったのではないだろうか。 「人間とは何か」を真摯に考える態度を持っていたから、「地球の回りを太陽が回っているんじゃない、本当は太陽の回りを地球が待っているんじゃないだろうか」という、今まで自分が立っていた常識を全く覆す認識に到達したのである。科学的態度というのは過酷なものであり、根源的な疑問を持ち続けなければ保てない厳しさを持っている。 しかし旧日本人は、普段はそのような真剣な問いを自らに課す必要性を感じていない。自分の中で独自の価値観を追求し続ける姿勢を持たないのだ。 「何が正しいか、何が間違っているかという判断基準は、原理原則に従って、自分が主体的に決めるものではない。判断基準はその時その時において、常に自分の周囲からもたらされるものであり、周囲の状況に応じて、なるべく多くの人と同じ選択を行っておけば間違いがない」という相対主義的な処世術が身についているので、時代や環境は変わっても変化しない不朽の価値を追い求めようとする気持ちはあまり持たないようだ。群れで行動する小魚や草食動物を思わせる行動様式である。そして、そうした付和雷同型の思考・行動傾向を持つ人間だけで群れようとし、自分たちと違う価値観を持つ人を許容せず、組織から追い出してしまおうとする。つまり自分を高めるため、脱皮するためには、価値を知ること、そとて「驚き」がぜひとも必要なのだ。一度それを知ってしまえば、さらにより高い価値の探求を続けるように意識づけられる。「もうこれ以上はいいや」と探求をやめてしまった時点で人間的な成長は止まってしまい、旧日本人のお仲間になってしまうのだ。人間、驚きや感動がなくなったら終わりである。 朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり。終わる日の来ぬ探求もまた楽し。「ザ・ゴール」エリヤフ・ゴールドラット・ルー、まだわからないのか。真の制約条件は機械なんかじゃない。ポリシーなんだ。(p513)TOC導入において克服しなければいけない最大の障害が、変化に対する抵抗であることはみんな認めるところだと思う。(p535)
2004年08月17日
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帝政打倒 連合国側は、イスタンブールの皇帝政府を、アンカラ政府に対する対抗馬として使い、出来るだけ有利な取引をトルコと行おうとしていた。そのため、ローザンヌで新たに和平会議を開きたいという連合国側の申し出は、アンカラ政府に対してだけでなく、皇帝政府にも送られた。 そのことが明らかになったとき、トルコ全土で怒りの嵐。祖国を滅亡させるも同然の条約を連合国と結び、「ギリシア軍は敵にあらず。ギリシア軍に抵抗する者は反乱者なり」という勅書まで出した皇帝が今なおトルコの主権者とは。すでに半ば自分達こそ主権者だと自覚していたトルコ国民は、メフメット6世に対する怒りを爆発させた。 ケマルはその国民の怒りを背景にして、一気に強硬策。国民議会で、皇帝制度とカリフ制度とを分離して、帝政の方は絶対に打倒しなければならないと演説。だが、議員達は動揺。彼らはメフメット6世の一貫した祖国への裏切りに対してこそ激怒していたものの、帝政打倒までは主張していなかった。そのため、帝政打倒をただちに決議せよというケマルの要求は拒否された。 しかし、国民は議員達より、ずっと急進的になっていた。もはや国民はケマルこそ自分達の唯一の指導者だと信じていた。 その国民に向かって呼びかけた。「国家の主権は国民のものである!オスマン王家はそれを私物化し、6世紀に渡って祖国を不法に支配し続けたのだ。今こそ諸君は自分達の権利を取り戻さねばならない。皇帝制度がある限り、再びメフメット6世のごとき人物が現れ、祖国を滅亡へ導いてしまうであろう。ついに独立を守り抜いた我々が、今なすべきことは2度と祖国の独立を危うくしないために、その危険の原因となる皇帝制度を廃止することだ!」 ケマルに煽られた民衆は、議会が開かれている建物に押し寄せ、「帝政打倒!」を絶叫。 11月3日、ケマルは議会で大演説をした後、「私は諸君が本日この場で、皇帝制度の廃止について、満場一致で賛成するものと信じる!」と怒鳴るように言った。そして、ただちに挙手による投票を求めた。議長は弱々しい声で、「ガーズィの提案を採択し、これより議決を行います」と言った。何人かの議員は手を挙げなかった。しかし、議長は、「満場一致で議決!皇帝制度は廃止されました」と宣言。 民衆は帝政が打倒されたことに狂喜。民衆はアンカラの粗末な議事堂になだれ込み帝政廃止に賛成したかどうかを、全ての議員に問いただし、曖昧な返事をしたものに集団暴行をやった。 ▼ローザンヌ和平会議 1922年11月下旬に開催。1923年7月合意。トルコは大戦前のヨーロッパ領土を取り戻し、北イラクこそ英国に譲ったが、小アジアは確保。その上、治外法権制度は完全に廃止され、財政管理権もトルコの手に戻った。ボスポラスとダーダネルス海峡を非武装地帯にすることと、両海峡を国際管理委員会の支配下におくこと。しかし、その国際管理委員会の議長国にはトルコがなったのだから、トルコの面子はたったと言うべき。 ▼親日家ケマル アタチュルクの晩年、トルコへ赴任した武富大使は、その執務室の書架に、主としてフランスで出版された莫大な数の日本に関する書物が並んでいたと雑誌に書いている。また、アタチュルクは武富大使に、「私は日本から多くのことを学びました。日本はトルコ共和国の先生です」と語ったという。 武富大使の前任者だった吉田大使はアンカラで病死されたが、危篤の知らせにアタチュルクは病院へ駆けつけ、その額に心からなる別れの口づけをしたという。他国の大使公使でアンカラで客死した例は、他にもいくつかあるが、その最期にアタチュルクが駆けつけたのは、吉田大使の場合だけだったそうである。 ▼トルコの留学生は、ドイツで歓迎された 何故なら、自分達がヴェルサイユ条約という、屈辱極まる和平条約を阻めなかったのに、トルコが同じ様なセーブル条約を実力で阻んだことは、ドイツ人を驚嘆させたから。 ▼当時のアタチュルクの睡眠時間 せいぜい4、5時間。そのうえ、例の大酒のみの習慣は続いていた。アルコール度では50度もある強い酒で、それを毎晩1本(約700cc)は飲み干していた。しかも、彼の起床は大体午前7時だったが、一度も二日酔いの症状はみせなかった。 ▼超人 わずか15年の統治において、一国にルネサンスと宗教革命と産業革命とをもたらした鉄人。 ▼借金返済 アタチュルクは苦しい国家財政にもかかわらず、トルコ帝国が外債という形で借りていた、約1億6000万金貨リラ、つまり今日の邦貨で10兆円を越す借金を、旧帝国の約束通りの利子をつけて返し続けた。そして、この借金をトルコが払い終えたのは、アタチュルクの死後16年目の1954年のことであり、対ロシア戦争の軍費調達のため、初めて外債という形で西欧から借金した1853年から数えれば、実に101年もかかった勘定になる。 そして、そういう誠実さや、自らその独裁を終わらせようとしたところからも、同じく独裁者でありながら、彼がスターリンやヒトラーとは根本的に異なる人物であったことが容易に証明されよう。(大島直政著『ケマル・パシャ伝』新潮選書)
2004年08月15日
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ソ連と連携、仏伊の撤退 祖国滅亡の危機感に燃え上がったトルコ国民軍の士気は高く、反対に連合国軍の兵士は、もう戦い続けることに嫌気がさしていた。だから、セーブル条約は調印されたものの、連合国にとっては不渡り手形同然。そうしないためには、本国から大軍を送り込まねばならないが、英仏伊のいずれも大戦後の経済混乱で、そんな余裕はなかった。 ソ連はその国際的な孤立意識から、アンカラ政府と事実上の国交を結び、武器援助さえした。 さらにソ連にとって、トルコと共通の利害があった。それは、アルメニア問題。両国にとり、アルメニアが旧ロシアとトルコ領にまたがる完全独立国となっては困るのだ。しかも、ここが反ボルシェヴィキの拠点にもなっていた。だから、トルコ国民軍の進撃と同時に、ソ連軍も進撃し、挟み撃ちにして壊滅させた。かくてセーブル条約が保証した「アルメニア国」は幻となった。 小アジアの南東部に進駐しているフランス軍を急襲。フランスは新領地シリアでの反乱に手を焼き、小アジアから大量の部隊を引き抜いていたため一方的にトルコ軍の勝利。フランスは休戦条約を結び、小アジア東南部から完全撤兵。次に、イタリア軍を、その侵入拠点の東地中海の諸港に追いつめた。イタリア軍には厭戦ムード。そして、本国の国内経済がほぼ破綻という状態で、ゼネストが荒れ狂っていたと同時に、軍紀も大いに乱れていた。トルコ国民軍がやってくると、一戦も交えずに退却。休戦協定を結んで小アジアから撤兵。 ▼イギリスと組んだギリシア軍の侵入 ギリシア首相ヴェニゼロスは、英国首相ロイド・ジョージにこうもちかけた。ギリシアを軍事援助することで、ギリシア軍が連合国の代理人となり、アンカラ政府を倒してみせる、そのかわりギリシアは、小アジアの西半分をギリシア領とする事を認めよ。 アイルランドの内乱が泥沼化し、新たに植民地としたアラブ地方での反乱に手を焼き、一兵もトルコに送る余裕のない英国にとって、武器弾薬をくれれば代理戦争を引き受けてくれるというギリシアの提案は魅力的だった。 ギリシア軍はいたるところで、非戦闘員を虐殺。皆殺しにされた村も少なくなかった。ロンドン・タイムズの従軍記者は、男はおろか女子供まで、釘で木に張り付けにされ、なぶり殺しにされた村の光景にショックを受け、「わが政府が狂犬を飼い続けるのは許されるか?」という記事を書いたほどの大虐殺。 1921年1月、ケマルはイスタンブールとアンカラの中間にあるイノニュ高原で待ち伏せ。そして、ギリシア軍を撃退。しかし、武器弾薬の不足で追撃は出来なかった。3月再度やってきたギリシア軍を、激戦の末かろうじて撃退。この2度の勝利は、アンカラ政府の国際信用を高め、アフガニスタンなど数カ国が、こちらをトルコの正当政府と認めた。 ▼サカリア川の激戦 1921年7月、ギリシア軍は10万の兵力を持って三度攻撃。ケマルは、イノニュ高原での迎撃を諦め、サカリア川まで200キロ後退し、そこに新たな陣地を設置する作戦。敵の補給線を延ばさせ、包囲されにくい場所で戦うという狙い。もしここを突破されたら、敵は一気にアンカラを突き、救国戦争も終わり。この戦いの直前、平和の回復までという条件付きで、大国民議会はケマルに独裁権を承認。 8月14日、10万のギリシア軍と、5万のトルコ軍が激突。ギリシア軍の猛撃に対して、大砲も弾丸も兵士も、何もかも不足しているトルコ軍は、ただ敵の砲撃に耐えに耐えて、白兵戦に移ったときに勇気を示すしか方法がなかった。ダーダネルス海峡戦の再現。開戦から1週間の間に、トルコ側の師団長が7人、ギリシア側の師団長が13人も、それぞれ白兵戦で戦死。 それでも将兵は、前線を駆けめぐって自分達を励ましてくれるケマル将軍を信じて戦い続けた。 そしてついに、8月29日、奇跡が起こった。数日来、ケマルはギリシア軍が自軍の右翼に攻撃を集中させ、何とか突破させようとしている意図に気付いて、その逆を突こうと決断。無理な上にも無理を重ねて、ギリシア軍の右翼の方を逆に包囲するかのような作戦をとった。これは、日露戦争の奉天会戦で日本軍がとった作戦によく似ていた。 ケマルが無理をして自軍の中央部においていた兵力の大半を、自軍の左翼へ移動させたことは、トルコ軍の中央部の防衛力を危機一髪の状態にした。もし、ギリシア軍が、自軍の右翼に対するトルコ軍の攻勢を陽動作戦だと見破り、予備兵力の全てをトルコ軍の正面に投入していたら、トルコ軍は総崩れになっていただろう。しかし、ギリシア軍はそれに気付かなかった。 ギリシア軍の参謀本部は大慌てし、トルコ軍の右翼突破を命じていた全軍団を自軍の右翼への増援に向かわせるため、退却移動の命令を出した。この命令が運命の一戦を決定づけた。 勝っているという自信のないギリシア軍の全ての前線は、自分の所が退却作戦の犠牲にされるのではないかと疑い、作戦変更の命令を勝手に解釈して、総退却をやってしまった。それは8月29日の午前2時頃のこと。もっとも、トルコ軍は、追撃は出来なかった。 この勝利は、アンカラ政府の国際的地位を不動のものにした。まず、フランスが密使を送ってきて、秘密協定を結んだ。それによると、フランス政府は事実上、セーブル条約が無効化したことを認め、将来開かれる新たな和平会談で、トルコが旧オスマン帝国領だったシリアのフランス支配を認め、他のアラブ地域で英国と係争中のフランス側の利権を支持してくれるなら、アンカラ政府を公認し、武器弾薬さえ供給するというのである。続いてイタリアが、やはり武器弾薬の売り渡しなどを申し出た。 英国国民はトルコに対する政府の介入を、全く無用のものだと思い始めていた。 1922年8月26日、約10万名に増加していたトルコ国民軍に対して、「前進せよ。目標は地中海!」という総攻撃の命令を出した。ギリシア軍の前線は、南北に延びていた。その長大な前線の中央部を突破して敵軍の背後に回り、包囲撃滅するというのがケマルの作戦。 勝負はたった1日でついた。 9月9日、トルコ国民軍がイズミールに入城。この日、イズミール港の沖には数隻の英国軍艦が浮かんでいた。しかし、全ての砲には覆いがかけられていた。英国が、もはやトルコに対する武力干渉を諦めたこと、同時にセーブル条約の履行を断念し、ギリシアを見捨てたことをも示していた。 この対トルコ問題をめぐって、保守党は連立の打ち切りを宣言。かくて、ロイド・ジョージ首相は辞職に追い込まれた。そして、翌月の総選挙までの暫定内閣の首相となった、保守党党首ボナー・ロウは、ケマルとの妥協を決断。その仲介役は、アンカラ政府に対するフランスの全権大使ブイヨン。 10月、ムダンヤでトルコと英国の代表が、イタリア、フランスの仲介で会談。その結果、セーブル条約は無効であり、新たな和平条約を結ぶための会議をできるだけ早く開くことで合意し、全面停戦条約を結んだ。ここに事実上、救国戦争は終わった。 皇帝政府が連合国に降伏した1918年から、アンカラ政府が「トルコの生存権」を、ついに英国に認めさせた1922年までの4年間は、トルコ人にとって苦闘の連続。西欧列強を相手に、貧しい敗戦国国民が奇跡的な勝利を収められたのも、 ケマル・パシャという超人的な指導者 がいたから。ドイツでさえ、屈辱極まるヴェルサイユ条約を拒否できなかったのに、ケマルの鉄の意志と行動力は、ついに列強を屈服させた。 その上、 ケマルは、トルコ人を「オスマン帝国臣民」から「トルコ国民」に成長させた 。いや、この救国戦争が終わった段階では、まだトルコ人は完全にトルコ国民になったとは言えないかも知れない。しかし、もう十分に「国民意識」と呼べるものは育っていた。だからこそ、ケマルは救国戦争に続いて、嵐のようなトルコ革命をやり遂げられたのである。
2004年08月14日
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ケマル・アタチュルク資料よりケマルの挙兵 連合国にとって、大きな障害となったのは小アジアにおける治安悪化。彼らの横暴ぶりに対して、占領地の民衆の中にはゲリラ活動に走る者も出たし、残存トルコ軍団も、皇帝政府の復員命令を無視して、各地で占領軍と小競り合いを始めていた。 そのため、連合軍は残存トルコ軍団の復員を皇帝政府に要求し、全軍の信望が厚い人物を派遣するよう命じた。そして、大宰相に、その役目はケマル・パシャがいいだろうと提案。それが虎を野に放つようなものであることに、全く連合国側は気付かなかった。彼らは自分たちに対して、トルコ人が本格的な戦争を新たに始めようなどとは夢にも思っていなかったし、そんな力など残っている筈がないと馬鹿にしきっていた。 かくて、1919年5月16日、ケマルはイスタンブールを出発。5月19日、黒海沿岸のサムスン市に上陸。 ギリシア軍が、ケマルがイスタンブールを出発する前日、エーゲ海最大の貿易港イズミールへ上陸を開始した。この事件はケマルに幸いした。というのは、このギリシア軍の侵入によって、虚脱状態だった一般トルコ人が、一気に奮い立ったから。 一方、ケマルは英軍の支配下にあるサムスンを密かに離れて、80キロほど内陸部のアマシア市に潜入。ここに秘密司令部を設置すると、小アジアに残存する全軍団に電報で、情勢報告と代表将校を自分のもとに送るよう要請。 どの軍団でも、それまで復員を要求していた兵士達が、ギリシア軍の侵入を知ってショックを受け、復員要求を取り下げると共に、逆に軍の上層部を突き上げだした。しかも、エーゲ海沿岸に近い軍団では、すでに将校達が軍司令官の不決断を無視して、勝手にギリシア軍に対してゲリラ戦を始めていた。だが、残存軍団の兵力は、やっと5万人になるか否かの程度。 ▼トルコ「国民」意識 当時のトルコ民衆は、まず自分をイスラム教徒と考え、次に皇帝にしてカリフの支配するオスマン帝国の臣民だと意識して、ようやくその次に自分をトルコ民族に属する者だと思っていた。ところが、ケマルは、「何よりも先に、諸君はトルコ人なのだ」というナショナリズムを新たな国家原理として導入しようとした。後世の我々からみれば、そのケマルの信念は当然のこと。だが幕末の日本人に、「貴方は××藩の藩士でなく、貴方も××藩の農民ではなく、いずれも同じ日本人なのだ」と説いても、99%は納得してくれなかったはずである。当時のトルコ人の意識も似たようなもの。そして、「トルコ国民」という意識は、ケマルを指導者とする救国戦争と革命によって、だんだんと育っていったのである。 ▼シワス国民会議 1919年9月、トルコ各地に公然と、あるいは秘密に作られた抵抗委員会の代表者達が、小アジアのほぼ中央部にあるシワス市に集まった。 彼らの大半は旧青年トルコ党のメンバーであり、必ずしもケマルを自分達の盟主と認めてはいなかった。「敗戦国といえども、民族自決の権利はあり、連合国のトルコ分割政策には実力で抵抗する」という世界に向けての宣言は満場一致で決議されたが、「この会議の参加者こそ真のトルコを代表する者である」という宣言には抵抗する者が多かった。つまり、それでは皇帝政府を無視した新政権の誕生を意味することになり、皇帝の大権を犯すものだというのである。 皇帝が、クルド人の部隊にシワスを攻撃させ、会議の参加者を逮捕ないし殺せと命じさせた。 これを知ったケマルは、先手を打って2個師団を率い出撃準備中のクルド部隊を急襲し、数日で蹴散らした。 それ以後、ケマルはシワス国民会議の事実上の主権者となった。 この会議こそ真のトルコ国民を代表するものだという宣言が議決された。さらに、全土からの税金も、「新政権」が徴集権を持つことまで議決させた。 しかし、この会議は崩壊した。理由は、皇帝の巧みな策謀にある。皇帝は、総選挙を実施して、帝国議会を再開すると声明。非合法性の強いシワス国民会議の議員であるより、正当国会の議員の方が魅力的。しかも、皇帝は、クルド部隊への命令は大宰相の独断だったとして、大宰相を解任。かくして、議員は去っていった。 ▼トルコ大国民議会 1920年、帝国議会が開催。この議会は、連合国を挑発。休戦協定を結んだ段階で連合国に占領されていなかった地域は明らかにトルコ領土であり、・・・列強と結んだ不平等条約は、全て撤廃されなければならない、という内容の「国民誓約」なるものを議決。 そんな要求を、「病人は今度こそ息絶えた。あとは遺産をどれだけ多く相続するかが問題だ」(英国首相ロイド・ジョージの発言)と考えている連合国が相手にするはずがなかった。列強の野心を打ち砕くには実力で対抗するしかないというケマルの理論が分からなかったのである。 英国は約10万の兵士をイスタンブールに上陸させた。国会に向かった部隊は、脱出に成功した十数人を除いて、残りの議員を全て逮捕し、「人民の最高の義務は皇帝の命令に従うこと。イギリスの高等弁務官は皇帝の代行者として、秩序を乱す者を逮捕し、裁判する権利を所有する」というビラをいたるところに貼った。この英国の不法な行動に対して、皇帝は抗議をするどころか、自分を「反徒」どもから守ってくれたと喜んだ。 ケマルはこのことを知り、ただちに小アジアで新たな選挙を実施。そして、選出された議員と、かろうじて首都から脱出してきた議員によって、4月23日に「トルコ大国民議会」を開催。 ケマルは満場一致で議長になった。今度の議員達は皇帝政府に対して、何等幻想を持ってなかった。 「主権は人民にある」「皇帝政府はトルコの真の代表ではなく、このトルコ大国民会議こそ唯一の合法政権である」「皇帝政府が外国と、如何なる条約を結んでも無効である」などという議案が次々と可決された。 皇帝は全イスラム教徒のカリフとして、アンカラの会議のメンバーは「神の敵」と宣言。皇帝は「カリフ軍」なるものを結成。聖職者達は、「この神聖な軍隊に加わる者には天国が約束されている」という皇帝の言葉を町や村に伝え回った。すると、たちまち何万にもの人々が志願してきた。彼らの大半は農民で、皇帝が「神の代理人」であることを信じきっていた。かくて、トルコ人同士による殺し合いが始まった。連合国側は喜んだ。 この段階でケマルは最大の苦境にあった。英仏伊軍にギリシア軍、さらに連合国の後押しで成立しようとしていたアルメニア軍とクルド軍、その上にカリフ軍と、ゲリラ戦で戦わねばならなかったから。しかし彼は絶望していなかった。「まもなく国民は皇帝の正体を知るだろう。そして我々の政府だけがトルコを救えると分かるだろう。何故なら、連合国側が近く皇帝政府に和平条約を押しつけてくるという情報が入っている。そして、その条約の内容がどんなものか見当がついているし、皇帝が何等敵に抵抗しないことも分かっている。その時こそ、国民は一気に目覚めるだろう」 このケマルの予言は当たった。それが、セーブル条約。要するに、トルコは小アジア中西部の荒涼たる高原において、九州の半分ほどの大きさの国家としてのみ存在が認められ、しかも、海岸線はゼロ。さらに連合国は、トルコにおける治外法権の継続と賠償金支払を要求。トルコに対する事実上の滅亡宣言も同じこと。こんな条約を皇帝が認めるわけがない、と人々は思ったが、皇帝は、自分の地位と皇室財産の保障と引換に、条約に調印。皇帝はそれがどんなに大きな衝撃を彼の臣民に与えるか、まるで分かっていなかった。 今やあらゆるトルコ人が目覚めた。皇帝に対する憤激は、大げさにいえば一夜にして「カリフ軍」なるものを消滅させた。彼らは前非を悔いてアンカラ政府に投降し、ケマルに従うことを誓った。なおも皇帝を支持しようとする聖職者達は、村や町から追放されたり殺されたりした。それは事実上の「反イスラム革命」の始まりだった。
2004年08月13日
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ケマル・アタチュルク資料よりダーダネルス海峡戦 英仏側は、味方の損害も大きいことを覚悟せねばならぬが、成功すれば一気にトルコを屈服させ得る大作戦、すなわち、小アジアとバルカン半島とを隔てるダーダネルス海峡を大艦隊で突破して、海路イスタンブールを突くという作戦を立てた。 地中海から黒海への通路を確保するということは、対独戦で苦戦を続けているロシアへ、自由に兵器や物資を送る道が開けることを意味。その上、英仏側に好意的なルーマニアへ、武器援助して参戦させ、東側からオーストリアを崩していく道も開けるはずであった。つまり、ダーダネルス海峡さえ突破できれば、トルコ・オーストリア・ドイツ側に崩壊の連鎖反応を起こさせられると連合国は考えた。 この大作戦の最高指揮者には、英国海軍大臣チャーチルが自ら買って出た。 まさに「海峡戦争」が始まろうとする段階で、陸相エンヴェルが東部戦線から横槍を入れてきた。すなわち、ケマルを格下げにして、海峡防衛に当たる全部の軍団に口出しできる地位から外し、ヨーロッパ側からエーゲ海に突出して、小アジア側との間にダーダネルス海峡を構成するゲリボル半島の、それも予備軍的な性格の強い一軍団のみを指揮させろというのである。ケマルへの信頼を深めていたザンデルス将軍の抗議にもかかわらず、エンヴェルは横槍を押し通した。しかし、ケマルは何等不平をいわなかった。自分が配属される地点こそ、敵が狙っている要地であり、総司令官のザンデルス将軍が自分を信頼しており、いざとなれば事実上の総指揮権を自分に委ねるであろうことを確信していたのである。そして、ケマルのカンは当たった。 1915年3月18日、5隻の戦艦を中心とする英仏連合艦隊は、長さ約60キロ、幅が2キロから7キロのダーダネルス海峡へ押し寄せてきた。・・・・しかし、この日の艦隊突入は、トルコ側にどの程度の防衛力があるかを知るための、いわば「威力偵察」だったらしい。 そして、やはり陸軍を投入してトルコ側の諸要塞を制圧しなければ、海峡突破は不可能であることを思い知らされた。 そこで、英仏側は次のような作戦を立てた。まず、トルコのヨーロッパ領から細長く伸びているゲリボル半島の、大軍が上陸可能な地点に一気に押し寄せる。そして、起伏の多いゲリボル半島のあちこちに設けられているトルコ軍のトーチカを一つずつ陥れながら、海峡を見おろせるいくつかの高地を確保。その高地に重砲を引き上げ、小アジア側のトーチカや要塞群を破壊し、次にゲリボル半島の海峡に面している砲台群を背後から攻撃し占領する、というのである。そうなれば完全に海峡を制圧したことになり、艦隊は無傷で通過できる。あとは内海マルマラを北上し、イスタンブールに艦砲射撃を行って、皇帝政府を屈服させるだけ。要するに、ゲリボル半島の、それも一部の高地を占領できれば、それがトルコの降伏に直結。 この大作戦は4月25日に開始された。連合国は第1陣として4万の兵士をゲリボル半島の先端2ヶ所に上陸させた。 この高地は、ちょうど日露戦争の旅順戦における203高地のようなものであり、ここを占領すれば、一望のもとにダーダネルス海峡とトルコ側の要塞群を見おろせるのである。つまり、この高地に重砲を引き上げれば、海峡を制圧したも同じ。 敵がアルブルヌ海岸へ上陸したとの急報を受けたケマルはただちに動員できる限りの部下をその方面へ投入し、自分自身も急行した。これは明らかに独断専行。しかし、この独断専行は英仏軍の意図をくじいた。連合軍は予想以上の反撃を受けて水際にほぼ釘付けにされてしまった。日没とともに夜陰に乗じて増援部隊が上陸したが、翌日も海岸に釘付けにされてしまったのである。3日目、4日目と部隊の増援は続き、作戦も当初のジョンクバユル高地への最短ルートは険しすぎて大軍を投入できないから、北方の丘陵地帯を迂回する作戦に変更されたが、その方面でも前進は容易ではなく、その進み具合は1日で約100メートルに過ぎなかった。 そして、英仏軍が1ヶ月後に約3キロほどトルコ軍の戦線を後退させたときには、上陸第1陣の部隊はすでに全滅しており、全兵員の半数以上が死傷という状態で、それ以上の前進は不可能になっていた。 艦隊の海峡強行突破に失敗した英仏軍は、やはり陸軍による半島制圧しか手段はないと再決意。そこで8月6日、10万という英仏軍が増援部隊としてゲリボル半島へ上陸。戦局を一気に逆転させるつもりだった。 8月9日の未明、英仏軍は新たな目標であるコジャチメン高地へ向けて進撃を開始。 砲弾が雨のように降ってくる間、トルコ軍は塹壕に身を潜めて、ただ耐えに耐えているしかなかった。 事実上の総司令官になっていたケマルは、小アジア側にいる砲兵部隊のいくつかを、ただちにゲリボル半島へ回すよう命令していたのだが、一日や2日で移動できるものではない。そのため、飛んでくる英仏側の砲弾100発に対して、トルコ側が射ち返せたのは、せいぜい1発か2発。 敵の意図に気付いたケマルは、近くの各前線へ伝令を走らせ、前線が手薄になる危険を承知の上で、可能な限りの歩兵部隊をコジャチメン高地へ集めようとしていた。そして、ケマルのカンは当たった。英仏側が砲撃を終わらせ、歩兵部隊を投入してきたとき、トルコ軍は凄惨な白兵戦を繰り返しながらも、ついに敵軍をコジャチメン高地へ近づけさせなかった。ところが、英仏軍の最初の目標だったジョンクバユル高地の方は、逆にトルコ側に不利な形勢。この方面のトルコ側の防衛力が手薄になったと判断した、英仏軍の最高司令官ハミルトン将軍は、予備軍の全てをジョンクバユル高地占領を目的として投入。 コジャチメン高地をめぐって凄惨な白兵戦を繰り返していた頃、こちらも激戦の末ではあったが、ついにニュージーランド兵からなる部隊が、初めてジョンクバユル高地の一角を占領。 急報に接したケマルは、コジャチメン戦線を維持できるぎりぎりの部隊を残し、手持ちの軍団の大半を率いて危機に陥ったジョンクバユル戦線へ駆けつけた。これは相当に危険な賭だった。もし、英仏軍が翌日もコジャチメン高地へ大攻撃を加えてきたら、どうなるか分からないから。しかし、ここでもケマルの読みは当たった。ジョンクバユル高地の一角の占領に成功したという知らせは、英仏軍首脳部の判断力を狂わせてしまい、やはりジョンクバユル高地の完全占領を最大目標にするべきだと、コジャチメン戦線の部隊へ移動命令を出してしまった。ケマルは一晩中、自分が率いてきた部隊の他、近くの戦線から集められる限りの兵と火砲をジョンクバユル戦線へ集めた。そして、夜明けと同時に反撃に出た。戦闘は、まず双方の大砲の射ち合いから始まった。だが、トルコ軍にとって幸運だったのは、英仏軍の占領した高地の一角への大砲輸送が、斜面が険しすぎるため思うように行かなかったこと。そのため、トルコ軍の砲弾が尽きるのとほぼ同時に、英仏軍の砲弾も尽きた。あとは歩兵による白兵戦しか方法がなかった。砲火が静まると、ケマルは真っ先に塹壕から飛び出た。その瞬間、敵の小銃弾がケマルの身辺に集中し、その一弾が彼の腕時計を砕いた。しかし、ケマルは突っ立ったままで、右手を高く上げると、「全員、突撃!」と叫んだ。ただちに、全トルコ兵は喚声を上げて突撃を開始。彼らは自分達の司令官の勇気に感激し、先祖の騎馬民族の血を蘇らせ、危険をものともせずに敵陣へ殺到。激戦は数時間続いた。英仏軍は約2000の戦死者を残して、ジョンクバユル高地から追い落とされた。 翌日の英仏軍の再攻撃も、8月21日の軍団新編成による再々攻撃も空しい結果に終わった。この方面の戦闘で、英仏軍は約500名の将校と、約2万名の兵士を失った。それに対してトルコ側の死傷者は、その10分の1ぐらいであった。 ダーダネルス海峡戦の場合、もしも1915年に英仏軍によって突破されていたら、首都を海軍で突かれたトルコ帝国は、ただちに降伏していただろう。そして、英仏軍が地中海から黒海への海上輸送ルートを確保できたため、ロシア帝国への大量の援助物資が輸送でき、ロマノフ朝は倒されなかったであろう。それどころか、ルーマニアも、もっと早く連合国側に参戦し、ブルガリアは中立を守り、トルコの農産物に頼っていたドイツも大打撃を受け、第一次大戦は1916年の末までにけりがついていた可能性が高い。 同時に、ケマルという、それまでトルコ国民にほとんど知られていなかったも同然の35歳の人物が、いきなり「首都の救い主」という英雄として、国民の前に華々しくデビューしなかったら、大戦後の「トルコ維持戦争」も、あるいは始まらなかったか、始まったとしても中心になる人物を欠いたため、線香花火のようなものに終わっていたかも知れない。いかにケマルが軍事的、政治的天才であったにもせよ、「首都の救い主」という華々しいデビューの機会がなかったら、「トルコ共和国の父」になれるほど民衆の信望を一心に集めることは出来なかったに違いない。 ▼トルコの降伏 皇帝政府の降伏声明は、エンヴェル一派の軍首脳には秘密のまま、メフメット6世の命令で発表されたもの。イスタンブールに迫りつつあった連合国の首脳部は、トルコが降伏しても、メフメット6世の身分と皇室財産の安全は保障すると、密約を提案。そして、メフメット6世はその密約に飛びついた。皇帝に出し抜かれたエンヴェル一派は、ハンガリアを経由してドイツに亡命。 トルコの降伏を知った、ドイツ軍参謀総長ヒンデンブルクが、「事態は今や絶望的になった」と側近に語ったように、ドイツは大戦の後半になると、トルコの農産物に頼りきっていたのである。 「大トルキスタン」復活を生涯の夢としたエンヴェルは、ドイツ降伏後、内戦が続いているロシアに潜入し、トルコ系諸民族を煽り立て、反革命運動を起こさせた。初めの内こそ、数千人の兵士を率いて各地で華々しく戦ったが、やがて部下は少しずつ減り、戦うどころか逃亡の毎日を送らねばならぬようになった。1920年の春、ウラル河に近い草原の雪がとけ出した頃、雪に埋まっていた彼の遺体が発見された。彼だと確認されたのは、トルコ帝国の大将軍としての軍服と勲章からだったが、遺体は十数発の銃弾を受けていたという。この大いなる夢想家は、結局のところ自分の夢に殉じたと言っていいだろう。 ▼連合国のトルコ分割 休戦協定を結んでから半月もたたぬ内に、イスタンブールに大軍を違法進駐。何故違法かというと、休戦協定では、連合国側は戦時中に占領した地域にだけ軍隊を駐留させるという約束だったから。そのことを皇帝政府が抗議すると、連合国側はロシア革命の影響からトルコを守るためだと説明したが、実際はトルコを分割し、連合国間で分配するための第1歩に他ならなかった。 そのことが誰の目にも明らかになったのは、首都への違法進駐に続いて、英軍がボスポラスとダーダネルスの両海峡を「管理」の名目で占領し、フランスがシリアから小アジア南東部へ多大の兵員を送り込み、イタリア軍も地中海の主要港を電撃的に占領してしまったから。全ては大戦中の、トルコ分割の秘密協定によるもの。 この連合国側の意図に気付いたトルコ人の間で、たちまち大混乱。ある者はイギリスのみを頼って、その保護国になるべきだと主張し、別の者はフランスに頼るべきだと説いた。さらには、アメリカの委任統治国になって再生をはかるしかないという論者も現れる始末。 しかしいずれにしても、トルコは自力では再生できないと考えている点で同じ。だから、イスタンブールに帰った日から説き始めた、ケマルのトルコ自力再生論など、ごく一部の軍人は別にして、政治家や知識人からは見向きもされなかった。
2004年08月12日
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ケマル・アタチュルク資料より 真の男 超人わずか15年の統治において、一国にルネサンスと宗教革命と産業革命とをもたらした鉄人。オカメミジンコのオスです▼ケマル・アタテュルクの少年時代 7歳になって公立小学校の常として、大半がコーランの章句の暗記だった授業に反発して、「登校拒否」を両親に宣告している。母ズベイデにとって、これは大変なショック。彼女はわが子に将来、イスラム教の聖職者になって欲しかったから。彼女にとって、イスラムの教えに従い、その守護者であるトルコ皇帝を敬うことが人生の第1義であった。ところが、わが子は7歳の少年ながら、どうやらイスラム教も皇帝も、大して価値はないと考えているらしいのである。 ▼エンヴェル・パシャとケマルの対立 オスマン・トルコ帝国の存続を認めるかどうか。 エンヴェルは全世界のトルコ系民族の大同団結を説きながら、帝国を現実に構成している20をこす異民族には冷淡。彼は、それらのナショナリズムを認めないくせに、トルコ民族だけのナショナリズムを主張。その主張の正当付けには、トルコ民族が中東のどの民族よりも優秀であり、トルコ帝国の支配下にあった方が各民族は幸福だというエゴイズムを唱えた。ケマルは、多民族を支配している帝国のシステムそのものが、すでに時代遅れと考えた。帝国を解体し、帝国内でトルコ人が絶対多数を占めている小アジアや、バルカン半島の一部のみを固有の領土とするトルコ民族国家を作り、アラブ地域などは分離独立させてしまうべきだと確信。 ▼青年トルコ党革命 1908年のセラニキ軍団のクーデターでは、ケマルは何等重要な役割は演じていない。それどころか、エンヴェル達は「統一と進歩のための委員会」から、事実上、ケマルを追い出していたのである。 このクーデターは、エンヴェル達の「委員会」のことをすっかり調べあげていたハミット2世が、いよいよ弾圧を開始するとの急報を得て、いわば「委員会」が破れかぶれで起こしたもの。だから、準備も何も整っておらず、首都の軍団と話さえつけていなかった。それなのに、ことを起こせば首都の軍団も呼応するだろうぐらいの甘い気持ちでやったというのが真相に近い。ところが、バクチは当たってしまった。「反徒」鎮圧を皇帝から命じられた師団は、イスタンブールを離れるやいなやクーデター側に寝返ってしまった。そして、セラニキ軍団と合流して、首都に逆進撃する構えを見せた。すると首都に残っていた軍団までが革命側に呼応してしまった。 多分エンヴェル達もびっくりしたであろうが、わずか数日でクーデターは成功。したたかなハミット2世は、首都の軍団が「反徒」に呼応したのを知るや、先手を打って憲政復帰を宣言。今までの政府の過失の全てを大臣達に転嫁して罷免するとともに、革命家達を「国の救い主」として迎えると発表。すると、余りにも容易にクーデターが成功したことに茫然自失してしまったらしい「青年トルコ党」の幹部達は、たちまちハミット2世と妥協。妥協の第1条件は、ハミット2世が自ら独裁制を捨て、憲法の制約下に皇帝もあることを認めること。そして、「時間稼ぎ」のためならなんでもするつもりの皇帝は、それをあっさり認めた。 マケドニア、アルバニア、アラビアで相次いで反乱。もはや、非トルコ系の諸民族はオスマン帝国内にとどまる意志のないことを、実力行使で示し始めた。そして、それに対して「統一と進歩のための委員会」が打った手は、全く説得工作なしの軍事行動であった。エンヴェル一派の「オスマン主義」の正体が暴露されたと言っていい。 しかも、「反徒」達が地方の反乱で首都を手薄にした隙に、ハミット2世はエンヴェル一派を「神の敵」と宣告して、反革命を起こした。 この時、もしも、在マケドニアの第三軍団が皇帝に味方をしていたら、その反革命が成功していた可能性は極めて高い。ところが、第三軍団は反徒を鎮圧せよとの皇帝の命令を無視して、逆に「皇帝軍」を鎮圧するため、イスタンブールへ進撃。第三軍団が「反逆」に踏み切った大きな理由は、幕僚達が軍団長を説得したから。その一人がケマル。 かくて反革命は粉砕され、ハミット2世は監禁されて、その弟がメフメット5世として即位。新皇帝は全く政治には関心がない人物であり、完全にエンヴェル一派のロボット。「青年トルコ党の独裁」が開始。第三軍の幕僚達が革命への功績を認められ、政府の要職についた中で、ケマルはセラニキ士官学校の校長という閑職を与えられた。エンヴェルはケマルをどうしても権力の座につながるような地位におきたくなかったのだ。
2004年08月11日
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経営コンサルタント武沢信行さん メルマガより抜粋●ドイツ人・シュリーマンは、子供のころに父親から何度も聞かされた、「ホメロスの物語」を忘れることができなかった。それは3000年以上も前のギリシャとトロヤの戦争物語だ。まるで神話のような大昔の話だ。やがて彼は、「ギリシャに滅ぼされたトロヤの遺跡が必ずある」と信じるようになる。そして、「トロヤ遺跡の発掘」を人生の最終目標に決める。●それからの彼の行動が現代人と違うところだ。彼は人生を逆算方式で生きることを決意する。彼の戦略はこうだ。◇最終目標・・・トロヤの遺跡発掘◇中間目標・・・発掘資金と時間を確保するための充分な富の蓄積◇短期目標・・・貿易商人として成功する◇手段・・・貿易に必要な語学をマスターする●夢に向けた最初のステップ、それは14歳のときである。商業学校を卒業し、遠くの村の食料雑貨店で働く。朝5時から夜11時までコマネズミのように働きながらも、ホメロスの物語を自分で読むために、ギリシャ語の勉強を志す。しかし現実は厳しく、勉強のための本を買うお金も時間もなく働き続け、やがて健康を害して退職する羽目になる。●雑貨店をやめた彼は、外国へ行く船のボーイになるが、そこでも彼を待ち受けていたのは「不運と不幸」でしかない。乗った船が嵐で沈没し、丸裸でオランダの海岸に打ちあげられたのだ。志を立ててから早6年、すでに20歳になっていた彼の前途には、希望の光は一筋もなかったかにみえた。●だが、絶望のどん底に見たこの大地が、シュリーマンの開運のワンダーランドとなる●だが、そうした少年の気持ちとは裏腹に、現実は厳しい。健康を害し、乗った船は沈没する。夢に近づくどころか、どんどん遠くなっていくように思えた。そんなシュリーマンにとって、丸裸で打ち上げられたオランダが、開運のワンダーランドとなったのだ。●成功には、地の利、時の利・人の利が大切だと言われるが、シュリーマンにとって、オランダでの努力がまさしくそれだ。6年間のアンラッキーがウソのように成功を始める。●まず、ある貿易会社会社に就職し、その後の4年間で何と18カ国語をマスターしてしまう。彼のひたむきな努力が認められ、ロシア支店を任されるまでに立身出世。独立した後、10年強の期間で、彼は大商人となって、トロヤ遺跡発掘のための資金を充分に確保してしまうのだ。●あれから月日がたってシュリーマン49歳、ヒッサルリクの丘にたつ。この丘の地下にトロヤ遺跡が眠ると信じた彼は、いよいよ人生の最終目標に向けて、発掘を開始する。そうした彼の行為に対し、多くの考古学者は、「ホメロスの物語を信じて大金を使うなんてバカげた話さ。あれは単なる伝説だよ」と陰口をたたき合っていた。穴掘り労働者150人も誰一人として、遺跡を信じている人間など、いない。●シュリーマンの人生は、この発掘という挑戦のためにあった。今さら他人の批判や陰口などが気になるようなヤワな信念ではない。燃えるように暑い日も、凍るように寒い日もヒッサルリクの小屋を拠点に発掘をつづける。それは「毎日タマネギの皮をむくような仕事でした」と、後に語っている。●そうして2年が経過したる日の午後。「シュリーマンさ~ん、何か変なものが出てきたました!」と、穴掘り労働者の声。駆けつけてみると、それは城壁のようなものであり、さらに掘っていくと神殿や宮殿に通じた道も見つかった。やがて土の中から、きらりと光るものが現れた。●それは、黄金の王冠、首かざり、耳かざり、指輪、水入れ…。おびただしい宝ものの数々。「こ、これは・・・まさしく、」立ちつくすシュリーマンの脳裏には、子どものころに本で見た、まっかに燃えるトロイの絵がはっきりとよみがえった。「ホメロスの物語は、やはり伝説ではなかった。わたしが信じつづけたことは、夢ではなかった。」シュリーマンは、あふれる涙を、こらえることができなかった・・。●しかし、多くの大人たち(考古学者)は最初、この遺跡をトロイのものとは誰も認めようとしなかった。シュリーマンはその後も数々の発掘に成功し、そのたびに、莫大な財宝を発見し、事実を証明していく。そして、68歳のとき、現地に考古学者を集めて学会を開催し、とうとう誰もが認める「トロイ遺跡」となったのだ。彼の物語と彼の生涯はここで終わっている。●いかがだろうか、これは実話だ。常識で考えれば、遺跡の発掘をしたいのなら、商人ではなく考古学者を目指すのではないだろうか。決して大商人になるという中間目標を設定したりしない。なぜなら、それ自体が達成できるかどうかわからないし、遠回りに感じる。しかも、大商人になるために彼は、語学をマスターすることに多大な時間を割いている。それだけではない。奥さんを決めるときも自分にない語学ができる人を選んでいるのだ。●生涯の目標を逆算方式で計画したからこそ出来た行動に違いない。◇最終目標・・・トロイの遺跡発掘◇中間目標・・・発掘資金と時間を確保するために充分な富の蓄積◇短期目標・・・貿易商人として成功する◇手段・・・貿易に必要な語学をマスターする●えてして「戦略的」な行動とは、目的とは違う方向に進むようにみえるものである。新年を迎えるにあたり、私たちの人生や経営にも、シュリーマンと同じような戦略的な考え方が参考になるのではないか。
2004年08月10日
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サバイバル・キャンプ講座抜粋人が生き抜いていくための必須条件とは何でしょうか。その問いに、小野田寛郎さんは,「生きる目的を持ち、その目的に向けて突き進む強固な意志を持つこと」 と明解に答えてみせます。孤立無援の長い歳月を極限のなかで貫いた小野田さん。凄絶な体験を宿すからこそ、言葉には重みがあります。 小野田さんは講座で、窮地にあって人は何を考え、いかに対処すればよいかを説き、それがサバイバルを要する状況であればあるほど、「人は秘めた力を発揮する」ともアドバイスしてくれます。 講座の底流にあるのは「人は一人では生きられない」という道理です。自然を味方に生きた小野田さんは自然の恩恵を知り尽くす人であり、「人間も自然の一部」と言います。講座を通して目指すのは、人間の弱さと強さを知り、自然に対する傲慢さ、尊大さを悔い改めることです。講座に「サバイバル・キャンプの基本」を組み込むのも、身をもってこのことを学ぶためです。併せて小野田さんは、21世紀の価値観や社会のシステムのあり方などを浮き立たせたいとしています。昭和19年12月中野学校を卒業し、任務でルパングに就いたが、受け身ではなく自分の意志として、命をかけて国を守ることを貫いた。信念がないと生きることはできない。信念があれば何か道があるはず。ご飯に味噌汁が食べたいと思っても食べることはできない。手に入らないものを望むのは、自分を弱くする。不可能なことを考えてはならない。(※便所掃除の神様といわれるイエローハットの鍵山相談役も、できないというのは、できないことをやろうとするからできないのであって、できることをすれば誰でもできる。便所掃除はだれにでもできることである。なにか通じるように感じた。)食料は、干し牛肉(略奪した牛を解体したもの)・バナナ・ヤシのミルクしかない。バナナだけでは、力がでない。ヤシは油を取るためで食料ではない。限られた食料の中で生き延びて行くには、食べながら自分にあったバランスを見つけるしかなかった。着たきりの服は破けてくる。島の住民から略奪した服を改造しようとするが、ポケットに入れた縫針は、いざ使おうと思ったときはサビて使えない。穴をあけその後を竹で縫ったが時間がかかりすぎてできない。そこで針の製作に取り掛かったが、困難を極めた。たった10本の針ができたが、ナイフなどいろいろなものを利用してこの程度の本数しかできない。いままでうぬぼれていた。人間は弱いものだと痛感。苦しい場面にあうと、昔はよかったと思うことがある。これが人間を弱くする。現実をしっかり認識して、どうするか考えることが、生きる上では一番大切。例えばマッチがあれば・・・・など。火を炊く時、煙を出さずに燃やすことは難しい。「ああ、また雨か・・・。」とマイナスにとらえた時点で、もうすでに雨にくらい負けしている。その時に風邪などひいてしまうことがある。「3日間のとおり雨だ。」とやり通すぐらいの気構えを持つことが大切である。とにかく人間は自然が無ければ生きられない。また、社会が無ければ生きていけないことが、体験でわかった。29年間に討伐隊が133回来た。年に3回はやりあったことになる。そのような状況で、どう気持ちを落着かせるかというと。故郷に「感謝」の気持ちを捧げるために手を合わせた。神仏は敬うが、助けて下さいと手を合わせたことは無い。もし、手を抜いて死の直前に悔いが残るようなことがあったら悔しいと思い、常に精一杯やることをやった。ここまでやったから仕方が無いと、あきらめて死ねる心境を持てるまで努力してきた。苦しいときに不平を言わないこと。また、他人に責任転換をするのはもってのほかである。医者も薬もないときは、自分の治癒力のみ。毎朝の大便や痛いところはないか、自分を確認し健康管理をしてきた。最後は自分一人になったが、一人になっても弱い気持ちを自分の中に認めてはいけない。一人には一人の強みがあり、二人には二人の弱みがあった。両方を比較検討して一人でも少しの強みを見つければ、一人でもやっていける自信がでてくる。このように常に冷静に考えることが大切である。アメリカのサバイバルの教科書の中にも、「生きることの希望を持つこと、あくまでも望みを失わないこと。そして、現状把握をする。いまはどうなっているのか。早く対処する。」とある。死を決して実行すると、潜在能力が活性化し、何にでも対処できる。今、自殺者が増えているが残念でならない。死にものぐるいでやれば、道はひらける。追い込まれると、頭が働かなくなる。思考力が落ちる。何事もやってみなければわからない、すべて健康がベースとなる。常に病気にならないよう体を管理してきた。最後に余談ですが、ルパング島から出て来たとき日にちを確認したが、約30年間で6日だけ、ずれていた。記録などはしていないが、どうして記憶したかというと、昨日に1日をたしてその日だけを覚えていた。しかし、苦しい状況になると頭がからっぽになり、そのため日程がずれてしまった約30年もの間、ルバング島のジャングルにこもって任務を遂行し続けた小野田寛郎さん。カレンダーなどがない環境だったのに、“救出”されたとき、今日が何年何月何日かを4~5日の狂いで指摘したという。 私たちは今日が何日かさえすぐに思い出せないことがある。それに比べると驚くべき記憶力である。だが、小野田さんは涼しい顔で言う。「簡単ですよ。毎日1日ずつ加えていけばいいんですから」。あるとき雨天や徹夜の戦闘が続いたためにズレが出たらしい。「4~5日のズレはうるう年の数よりも少ない。ま、合格でしょう」と笑う。 さらに、小野田さんは日本帰還後ブラジルに移り、小野田牧場を作り上げる。関西国際空港の倍、東京の港区よりも広い大牧場である。現地に着いたとき、手元にあるはブルドーザーが1台だけ。ある牧場に「お宅の隣のジャングルを開墾させてください。その代わり開墾した土地の半分を私にください」と申し入れ、牧場の外周に沿って1日にブル1台分の幅だけ開墾していった。翌日はまたその外側を…この繰り返しであの広大な小野田牧場の基盤を築いた。 長大な計画を前にしたとき、人はその大きさゆえに困難さを見通してしまう癖がある。「無理だ」と最初からあきらめてしまうのだ。しかし、どんな大きな計画も実は小さな行為の積み重ねで形になっていく。巨大さの方ではなく実行段階の一つの行為に着目すれば、決断に際してひるむことは少ない。ちょうど「カレンダー」ではなく「日めくり」を見るように。カレンダーだと日数の多さが目に飛び込んでくるが、日めくりだとその日1日しか見えない。 全体を見渡す必要のある立案段階ではカレンダー思考、第一歩を踏み出す決断段階では日めくり思考と使い分ければ効果的だろう。
2004年08月09日
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すべての人間は夢をみるが、同じ夢をみるというわけではない。夜に精神の穢らわしい隠れ家で夢を見る者は、昼に目覚めてそれが虚しいものであると知る。しかし、昼に夢みる者は危険な人間たちである。なぜなら、彼らは眼を見開いたままその夢を実行し、それを実現するかもしれぬからである。T.E.ローレンス~「智慧の七柱」序章~ 2015年の予言を防げ 1995年に李鵬 前首相が、オーストラリアを訪問した際、ハワード豪首相との会談中に「日本は20年も経てばこの地球上から消えてなくなる」と発言した。確かにこのままでは、日本は消えてなくなるかもしれない。江華島事件を鑑めば、見過ごせぬ事件である。尖閣諸島や沖の鳥島周辺など日本の排他的経済水域で 事前通報無し調査中国は中国側の調査船が 尖閣諸島や 沖の鳥島周辺など、日本の排他的経済水域で 事前通報無しに調査を行う ケースが増えていて、 去年は8件、今年は既に 11件となっています。22日、北京で行われた協議の中で、 日本側は 国連海洋法条約を順守して、 再発防止に努めるよう 中国側に強く求めました。これに対して中国側は 「沖ノ鳥島は、 島ではなく岩であって、 その周辺に 日本の排他的経済水域は 存在しない」として、問題はないとの認識また、米経済誌『フォーブス』アジア太平洋支局長のベンジャミン・フルフォードによると現在の日本は、「泥棒国家」kleptocracy(クレプトクラシー)である。日本をダメにした「政・官・業・ヤクザ」連合という泥棒たちが国民の金を巻き上げ、それで延命をはかっているだけだからだ。日本人はいまこそ、勇気をもってこの構造structureを破壊し、自分たちの手で本当の民主主義国家democratic stateをつくるべきではないのか? 日本人はいつから、こんなに臆病cowardになってしまったのだろうか? 日本の危機Japan's crisisは、経済の危機ではなく、日本人が勇気braveryをなくしてしまった危機である。日本人が臆病であり続けるかぎり、日本に未来はない。 との評されている。明治維新で体制を一新できたわが国が、現状の体制を変革できないという事はありえないと信ずる。 人が創った制度ならば、人によって壊し、刷新することは可能である 。ニッポンの権益に組み込まれていない草莽の人びとを崛起せしめ、李鵬が予言した2015年までには、日本型官僚制社会主義による泥棒国家をこの日本から消滅せしめ、海の都ベネチアやオランダのような自由で民主的なかつ尊敬に値する市場経済自立国家へと導くため寄与する。
2004年08月08日
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まずい、官僚独裁主義がますます進行しています。一般には目のとどかないところで。 司法試験から行政法をはずすこと司法試験から行政法をはずすことにより、行政法に詳しい弁護士がいなくなります。行政法を知らない裁判官なんて三権分立からしておかしくなります。重要点抜粋4 行政法の適正な執行の阻害 行政法を適切に執行することは国民的な公益である。しかし、裁判官が行政法に精通しなくなると、行政法が正しく執行されず、裁判も長引き、行政側にとっても、とんでもない迷惑判決が増える可能性もある。前述の話とは逆に、裁判所が行政の裁量に不当に介入して、素人判断をする事態も予想される。これもまた法治国家に反する事態であるだけではなく、たとえば、環境影響評価法についてこうした事態が発生すれば、産業界も困ろう。5 諸外国では?ドイツでは、司法試験は、公務員試験をかねた国家試験になっている関係もあるが、行政法の主要部分は必修科目である(9)。先般、来日した ドイツの憲法裁判所J・キューリンク判事は、司法試験から行政法をはずすことは「想像を絶する」と述べた 。韓国でも台湾でも行政法は必修である。司法試験行政法廃止は法治国家の危機 神戸大学教授 阿部泰隆氏一 はじめに-法曹三者の合意 司法試験改革に法曹三者(最高裁判所、法務省、日弁連)が合意した。試験科目の点では、民事訴訟と刑事訴訟を必修にして、受験生の負担を考慮して、かわりに法律選択科目を廃止するのがその主要点である。たしかに、訴訟法の一つを選択しないで司法修習を受けるのも問題なので、両訴訟法を必修にするのもわかる。 しかし、その反面、選択科目を廃止するのはいかがか。種々の代替策を十分に比較検討したのであろうか。行政法廃止の点では、筆者には、「法治国家の実現・行政に対する国民の権利保護という、法曹にとって考慮すべき重大な要素を適切に考慮せず、考慮すべきでない要素を考慮しすぎた」立法裁量の瑕疵があるように思われる。二 法治国家の重要性行政活動は法律に基づき、法律の範囲内で行われなければならない。これが「法治国家の原理」(法律による行政の原理)である。この行政活動の基準となるのが行政法規であり、行政が法律に従っていることを担保するのが行政訴訟である。戦前は行政訴訟を専門に扱う行政裁判所があった。通常の司法裁判所は、行政事件を扱わず、違憲審査権もなく、民事刑事の紛争を裁くだけであった。 戦後は、行政裁判所が廃止され、違憲立法審査権が導入されたので、裁判所は、下級審も含めて、民事と刑事の紛争を裁くことのほか、憲法の定める三権分立の原理に基づき、立法・行政を適切に統制するという重要な任務を担っている。現在の裁判所は、戦前の行政裁判所と司法裁判所のほか、憲法裁判所という三つの機能を兼ねているのである。この行政活動の規範となり、行政訴訟の基準となるのが行政法である。これは憲法の具体化法として、国家と国民の間の法律関係を定めるもので、私人間の利害調整規範である民事法、処罰に関する刑事法と並ぶ、国家の基本的な法制度であり、さらには、社会保障法、土地法、環境法、税法など、実用的な応用法の基礎法となっている。三 法治国家は風前の灯火1 行政裁判は不活発 行政の横暴を阻止する最後の砦が訴訟である。しかし、日本の行政裁判は本来果たすべき役割を十分果たしているであろうか。実務法曹界からは、「行政訴訟はやるだけムダ」(1)、「現在の行政運営の実情は、法律による行政の原理という見地からは、ほぼ絶望的である」(2)とまで極言されている状況にある。 まず、日本の行政訴訟は、出訴件数は年間一五〇〇件弱で、ドイツと比較すれば、人口比で換算すると三五〇分の一である。しかも、過日来日したドイツ連邦行政裁判所裁判長ゲンチ氏によれば、勝訴率はドイツでは二〇%程度と推定されるが、日本では数%もあるだろうか(3)。 その原因として、論理的には、日本の行政が間違いを犯さない、負けそうな事件はすべて是正しているということも考えられる。しかし、法治国家が十分に理解されていないのではないか。 まず、原告適格など、行政訴訟の窓口は狭い。たとえば、京都の一条山訴訟はまちなかの里山が悲惨にもいわゆるモヒカン刈りにされたのに、建設省では、周辺住民には開発許可を争う不服申立て資格(訴訟の場合の原告適格)がないとされてしまった。周辺住民はこんな無謀な開発を争うこともできないのである。これは今の判例では維持される可能性の高い事例である。 欠陥のある廃棄物処分場が許可されても、これまでの判例(前橋地判平成二・一・一八行集四一巻一号一頁)では周辺住民は取消訴訟を起こせない。住民が実力行使か住民投票などを活用せざるをえないのも、法律のルールに乗った判断の機会がないためである。これは産業界にも不利である。 行政訴訟は出訴期間、不服申立庁、不服申立前置主義など不明確なことが多く、障害物競走のようなものである。都市再開発法の処分につき、自治大臣に不服申立てをしないと訴えが却下される(最判平成五・一二・一七民集四七巻一〇号五五三〇頁)が、その根拠は地方自治法二五六条であって、都市再開発法を担当している者でさえ気がつかない条文である。憲法三二条の定める裁判を受ける権利の保障の観点から柔軟に解釈すべきである。 さらに、訴訟の審理方式でも、ドイツでは当事者の主張をよく理解して、その趣旨にあった主張ができるように示唆している。日本の行政訴訟でも、一九六三年のいわゆる個人タクシー事件、群馬中央バス事件の東京地裁判決では、訴訟指揮、釈明を積極的に行った(4)。しかし、今日の裁判所では、職権証拠調べ(行訴法二四条)は活用されず、釈明権も民事訴訟の審理方式に倣って、それほど活用されないので、行政法に必ずしも習熟していない原告側は苦労している。 日本では、裁判官が行政の活動を審理するさいも、その裁量を大幅に認めてしまいやすい。その理由の一つには、日本の裁判官の守備範囲が広すぎて、行政法にかならずしも通じていないことにある。ドイツなら、独立の行政裁判所があり、最高裁判所である連邦行政裁判所にも六〇人もの裁判官がいるので、裁判官がそれぞれの行政領域の専門家となって、行政活動をチェックしている。 日本の公務員は先輩の誤りをなかなか認めたがらない傾向にある。被告行政庁は当該法律の主管省として、立法理由から運用の実態を知り尽くしていて、徹底的に反論するし、専門家の訟務検事が代理してくれる。これに対し、原告庶民は素人で、行政には歯が立たない。弁護士は、一部の者を除き一般には行政法は不得意である(5)。裁判官でも、そもそも行政事件では自分の頭で考えていないという疑問もあると指摘される(6)。そうすると、本来勝つべき事件でも、原告は負けやすくなる。最近の例でも、都市計画で決まった路線とはずれ、計画によらないで途中まで違法に造った道路の前方の家を収用するために、できた道路にあわせてあとから計画を変更することを許した例がある(広島高判平成八・八・九行集四七巻七・八号六七三頁、広島地判平成六・三・二九判例地方自治一五八号九一頁)(7)。道路は、計画をつくってから、造るものであって、事実上工事をして、後から計画をつくって収用しようというのでは、何のための計画か、何のための法治行政か、わからない。しかし、一部の裁判所はこんな無茶も許してしまうのである。 また、行政も、行政指導にみるように不透明で、訴訟による解決をできるだけ回避するように圧力をかける運用をしている。ゲンチ裁判官によれば、ドイツでは、訴訟を回避するように不透明な解決をすれば、会計検査院から指摘されるとか、隣人の訴訟で争われるなど、歯止めがあるので、このような不透明な解決はしにくいということである。 この状況では、行政に不満でも、多くの国民はあきらめざるをえない。訴訟を嫌う日本人の意識が訴訟を少なくしているという見方もあるが、逆に、訴訟を起こしても割が合わない制度が訴訟嫌いにしている面もあるのである。これでは法治国家は機能不全に陥っていると言える。2 行政法試験廃止で知識経験の絶対的な格差 商法は重要科目であるから廃止されない(法曹三者の合意では口述だけ廃止)が、かりに、商法を司法試験科目からはずしても、両当事者とも条件は同じであるから、不平等ではない。しかし、行政訴訟ではこれからも行政側は専門家であるのに、行政法を司法試験科目からはずせば、裁判官や弁護士のなかで行政法を習った者が激減する。丁度、司法試験で裁判官と弁護士は刑事訴訟をとらず、検事だけがこれをとっているようなことになる。今日行政訴訟が細々と生き残っているのは、行政法で司法試験を受験した一部の弁護士が頑張っていることによるところが大きいのであるが、行政法が試験科目から廃止されると、被告行政庁との知識経験の格差は絶対的になり、行政が訴訟で敗訴することはきわめて少なくなろう。そうすれば、行政訴訟はますます提起されにくくなり、提起されても、原告勝訴の可能性がほとんどなくなるので、ますます行政訴訟は減る。これは悪循環である。 今日、行政訴訟を権利救済の実効性の観点から改革することが望まれている(8)が、これでは、逆行している。3 法治国家化の要請に矛盾 今日、行政を透明にし、国家の重点を行政から司法に移行させ、日本をより法治国家にすべきだというのが国民的な合意と思われる。行政が事前に不透明な関与をするのではなく、いわゆる規制緩和により、明確なルールに基づいて規制し、事後に監視することに重点を移すことになるが、そこにはまた裁判所による救済が前提となっている。最近制定された行政手続法、環境影響評価法、近く制定が予定される情報公開法も、法治国家の手段である。さらに、これは行政と民間人や企業との関係だけではなく、国と地方の関係にも及んでいる。地方分権推進委員会の中間報告と勧告では、地方を国の中の組織法として位置づけるのではなく、国と地方の間を法主体間の法治国家関係にして、その間の争いを最終的には訴訟で解決しようとしている。 したがって、行政法に精通した弁護士を増やすこと、本来なら、必修とすることこそが、今日的要請に合致するのである。 しかし、司法試験改革の動きはまるで逆の動きである。国のやっていることと、法曹三者の提案していることは矛盾しているのではないか。4 行政法の適正な執行の阻害 行政法を適切に執行することは国民的な公益である。しかし、裁判官が行政法に精通しなくなると、行政法が正しく執行されず、裁判も長引き、行政側にとっても、とんでもない迷惑判決が増える可能性もある。前述の話とは逆に、裁判所が行政の裁量に不当に介入して、素人判断をする事態も予想される。これもまた法治国家に反する事態であるだけではなく、たとえば、環境影響評価法についてこうした事態が発生すれば、産業界も困ろう。5 諸外国では?ドイツでは、司法試験は、公務員試験をかねた国家試験になっている関係もあるが、行政法の主要部分は必修科目である(9)。先般、来日したドイツの憲法裁判所J・キューリンク判事は、司法試験から行政法をはずすことは「想像を絶する」と述べた。韓国でも台湾でも行政法は必修である。四 行政法は民事・刑事法とは異質 行政訴訟を、民事事件に習熟した裁判官が民事事件方式で事件処理をすることが、司法統制が機能しにくい原因の一つである。
2004年08月07日
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今日、理財の方策は、これまでにないほど綿密になってきています。しかし、各藩の窮乏はますますひどくなるばかりです。田地税、収入税、関税、市場税、通行税、畜産税など、わずかな税金でも必ず取り立てます。役人の棒給、供応の費用、祭礼の費用、接待交際費など、藩の出資は少しでも減らそうとします。理財の綿密なことはこのようであり、その政策を実施してきて数十年になります。であるにもかかわらず、藩はますます困窮するばかりで、蔵の中は空となり、借金は山のようです。 なぜだろう。知恵が足りないのだろうか。方策がまずいのだろうか。それとも、綿密さが足りないのだろうか。いや、そうではない。 だいたい、天下のことを上手に処理する人というのは、事の外に立っていて、事の内に屈しないものです。ところが、今日の理財の担当者は、ことごとく財の内に屈してしまっています。 というのも、近ごろは、平和な時代が長く続いたために、国内は平穏で、国の上下とも安易な生活に慣れてしまっているのです。ただ財務の窮乏だけが現在の心配事なのです。 そこで、国の上下を問わず、人々の心は、日夜その一事に集中し、その心配事を解決しようとして、そのほかのことをいい加減にして、放ってしまっているのです。 人心が日に日に邪悪になっても正そうとはせず、風俗が軽薄になってきても処置はせず、役人が汚職に手を染め、庶民の生活が日々悪くなっても、引き締めることができない。文教は日に荒廃し、武備(武芸)は日に弛緩しても、これを振興することができない。 そのことを当事者に指摘すると、「財源がないので、そこまで手が及ばない」と応える。 ああ、今述べたいくつかの事項は、国政の根本的な問題だというのに、なおざりにしているのです。そのために、綱紀(規律)は乱れ、政令はすたれ、理財の道もまたゆき詰まってしまいます。にもかかわらず、ただ理財の枝葉に走り、金銭の増減にのみこだわっています。 これは、財の内に屈していることなのです。理財のテクニックに関しては、綿密になったにしても、困窮の度がますますひどくなっていくのは、当然のことなのです。 さて、ここに1人の人物がいます。その人の生活は、赤貧洗うがごとくで、居室には蓄えなどなく、かまどにはチリが積もるありさまです。ところが、この人は、平然としているのです。貧しさに屈しないで、独自の見識を堅持しているのです。この人は、財の外に立つ物である、といえます。結局、富貴というものは、このような人物に与えられることになるのです。 これに反して、世間の普通の人というのは、わずかの利益を得ることがその願いなのですが、そのわりには年中あくせくしていて、求めても手にいれることができないで、そのうち飢えが迫ってきて、とうとう死んでしまう者もいるのです。これなどは、財の内に屈する者である、といえます。 ところが、土地は豊かな堂々たる一大藩国でありながら、そのなすところを見ますと、あの財の外に立つ者にも及びません。財の内に屈する世間の普通人となんら変わらない愚行を犯しているのです。なんと悲しむべきことではないでしょうか。 ためしに、中国の政治に例をとってみましょう。その古代の、夏、殷、周という三つの時代のそれぞれの聖王のすぐれた王道政治はいうまでもありません。その後に出た政治家で、郡を抜く管子や商君について言わせてもらえば、彼らの富国強兵の策を儒家は非難しています。 ですが、管子の国の斉での政治は、礼儀を尊び、廉恥(心が清くて潔く、恥を知ること)を重んじており、また商君の国秦での政治は、約束信義を守ることを大事とし、賞罰を厳重にしているのです。 このように、この二人は独自の見識を持っている者であり、必ずしも理財にのみとらわれているわけではないのです。 ところが、後の世の、理財にのみ走る政治家たちは、こまごまと理財ばかり気にしていますが、いつしか国の上下ともに窮乏して、やがて衰亡していくことになるのです。このことは、古今の歴史に照らしてみれば明らかなことなのです。 そこで、今の時代の名君と賢臣とが、よくこのことを反省して、超然として財の外にたって、財の内に屈しない。そして、金銭の出納収支に関しては、これを係の役人に委任し、ただその大綱を掌握し管理するにとどめる。そして、財の外に見識を立て、義理を明らかにして人心を正し、風俗の浮華(うわべだけ華やかで、中身が伴わないこと)を除き、賄賂を禁じて役人を清廉にして、民生に努めて人や物を豊かにし、古賢の教えを尊んで文教を振興し、士気を奪いおこして武備を張るなら、綱紀は整って政令はここに明らかになり、こうして経国(国を治め経営すること)の大方針はここに確立するのです。理財の道も、おのずからここに通じます。しかしながら英明達識の人物でなければ、こういうことはなしとげることはできないのです。ある人が、次のように言って反対します。「あなたがおっしゃるところの財の外に立つということと、財の内に屈するということの論は聞かせていただきました。その上で、さらにお尋ねしたいことがあります。ともあれ、現実に、土地が貧困な小藩というのは、上下とも苦しんでいるのです。綱紀を整えて、政令を明らかにしようとしても、まず飢えや寒さよる死が迫ってきているのです。その不安から逃れためには、財政問題をなんとかする以外に、方法がないのでしょうか。それでもなお、財の外に立って、財を計らないとおっしゃるのでしたら、なんと間の抜けた論議ではありませんか」 私は、この人に次のように答えます。「義と利の区別をつけることが重要なことです。 綱紀を整えて、政令を明らかにすることは義です 。餓死を逃れようとすることは利なのです。君子は、(漢代の菫仲舒の言葉にありますように)ただ、(義を明らかにして、利を計らない)ものです。ただ、綱紀を整えて、政令を明らかにするだけなのです 。餓死や死をまぬがれないかは、天命なのです。 その昔、滕国に対して、ただ善行をすすめました。 侵略されて、破滅するということへの不安は、餓死や死への不安よりも、もっと恐怖です。だというのに、孟子は、ただ善行をせよと教えるだけなのです。 貧困な弱小な国が、自ら守る方法は、他にないのです。義と利の区別を明らかにするだけなのです。義と利の区別がいったん明らかになりさえすれば、守るべき道が定まります。この自ら定めた決心は、太陽や月よりも光り輝き、雷や稲妻よりも威力があり、山や牢屋よりも重く、川や海よりも大きく、天地を貫いて古今にわたって変わらないものなのです。飢えと死とは心配するにはおよびません。まして、理財などはいうにたまりません。 しかしながら、(『易経』乾卦文言伝にある言葉ですが)〈利は義の和〉とも言います。綱紀が整い、政令が明らかになるならば、飢えや寒さによって死んでしまうものなどいないのです。それでもなお、あなたは、私の言うことをまわりくどいといって、〈私には理財の道がある。これによって飢えや寒さによる死から逃れることができのだ〉とおっしゃるのでしたら、現に我が藩国がその理財の道を行うこと数十年にもなるというのに、我が藩国はますます貧困になっていよいよ救い難いのは、何故なのでしょうか。 【方谷の教えた帝王学】「事の外に立つ」板倉勝静が松山藩に迎えられ、その教育係に付いたのが藩校有終館の学頭だった方谷であった。勝静に対する方谷の教育態度は当時の常識では考えられないほど厳しい物だったという。そんな方谷が一貫して勝静に教えた帝王学とは「事の外に立つ」と言うことだった。「政治も経済も事の内に屈してはならない、藩の財政が窮するのも、理財をはかる物がことごとく財の内に屈しているから、姿勢を正し、心を引き締め、文武をはかり治国の大方針を確立することこそ第1義である。」餓死が迫っている、経済的な危機が目の前に迫っている、そんな時はみなそれぞれ異口同音に「必要なのは金・・こんな時に綱紀などといっている場合ではない、緊急事態だ!」と言う。しかし、現在の平成の大不況にあって、政府が幾ら緊急の経済対策をとっても自体はいっこうに改善しようとしない、むしろ使える金は先細りの一途をたどっている。方谷の言う「事の外に立つ」とは、小手先の対応でその場をしのいだところで、何の解決にもならない、綱紀を整え政令を明らかにするのが義であり、餓死から逃れようと財貨を求めあがくのが利である。抜本的な方針を整え戦略を実行し、義をあきらかにすれば、かならず利もついてくる、ということであった。
2004年08月06日
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多くの法律があることがしばしば悪行に口実を与えるものであり、国家がわずかの法律しか持たず、しかもそれが極めて厳格に守られている場合の方が、はるかによく治まっているのであるできる限り幸福に生きるために、私は暫定的に幾つかの道徳の規則1.私が共に生きてゆかなければならぬ人々のうちの最も分別ある人々が、普通に実生活においてとっているところの、最も穏健な、極端からは遠い意見に従って、自分を導く2.私の行動において、できる限りしっかりした、またきっぱりした態度をとることであり、いかに疑わしい意見でも、一旦それをとると決心した場合は、それがきわめて確実なものである場合と同様に、変わらぬ態度で、それに従い続けること事例:森に迷い込んだ旅人どこかの森に迷い込んだ旅人が、あちらへ向かったり、こちらへ向かったりして迷い歩くべきではなく、いわんやまた一つの場所に留まっているべきでもなく、 常に同じ方向に、できる限り真っ直ぐに進むべきであって、その方向を彼らに選ばせたものが初めは単なる偶然にすぎなかったかもしれぬにしても、少々の理由ではその方向を変えるべきではないのである。というのは、こうすることによって、旅人たちは彼らの望むちょうどその場所には行きつけなくとも、すくなくとも最後にはどこかにたどり着き、それは恐らく森の真ん中よりは良い場所であろうからである。3.常に運命よりもむしろ自己に打ち勝つことに努め、世界の秩序よりはむしろを自分の欲望を変えるように努めること、そして一般的に言って、我々が完全に支配しうるものとしては我々の思想しかなく、我々の外なるものについては、最善の努力を尽くしてなお成し遂げえぬ事柄はすべて、我々にとっては、絶対的に不可能である、と信ずる習慣をつけること4.私は人々がこの世で携わる様々な仕事をすべて吟味にかけ、その中から最も良いものを選ぼうとした。そして、他の人の仕事については何も言うつもりはないが、私自身は、今携わっている仕事を続けるのが最も良いと考えた。それは自らの全生涯を自らの理性の開発に用い、自ら課した方法により、真理の認識においてできる限り前進する
2004年08月05日
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1.自分を守れるツール(武器:スタンガン、こしょうスプレーなど)2.ソフトウェア(ツールを最適に使う知識)3.アーツ(武術:ジークンドー クラブマガ 少林寺拳法)4.システム(なにかあったらすぐ近所などが駆けつけてくるGPSシステムと携帯発信機能を結合させたコミュニティセキュリティシステム) 5.ダメージコントロールナレッジ(さされたときや怪我など被害を最小限にするダメージコントロール知識)などを組み合わせたあたらしいプロテクトシステムを構築を目指します。上記のうち、4.システム(なにかあったらすぐ近所などが駆けつけてくるGPSシステムと携帯発信機能を結合させたコミュニティセキュリティシステム) のコンテンツが充実しそう!ある方より情報をいただいた。PHS位置情報取得dll
2004年08月04日
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正義・正義というが正義も視点・パラダイムが変われば変じる可能性もあります。そこで遵守してもらいたい正義とはなにかと考えた。つきつめれば「交換」の正義である事に気が付いた。交換の正義とは何か。500万円という価値を稼ぐのに、1時間で匪賊が略奪したものであろうが、農家が1年間育てた作物を換金したものであろうが、法匪【行政の方々】の意味のない書類のやり取りで費やされた人件費1ヶ月であろうが世間での500万円の価値使用効力に何ら変わらない。リスク・投資額・投与時間・知能の投入に比例して満足度と収益でかけ合わされた産出価値は現在の日本では正しく算出されるのだろうか?ハイリスクハイリターンなら古今東西共感される基準ですがローリスクハイリターンが確立された基準であれば、一般的に人間の性向として、ラクして安全にリターンが大きい道へ流れてゆきます。結果、略奪の方がリスクが少なければその方へ流れます。略奪の仕方は強奪という方法をとらずとも、税率上昇・国債発行にて略奪、いや合法的に徴収し○○事業として予算を組んで分配し、○○事業に係わる調査として事業に取り組まなくても予算消化して仕事をした報酬という共感を世間に抱かせエクスキューズする手段があります。リスクを織り込まざるを得ない事業よりもリスクを織り込まないで事業で得る価値の方が収益効果(資金・満足度を含む)が高いという状況では交換の正義は働いているとはいえないのです。だからといって政府が干渉して価格維持制度などで裁定(補助金投入)が行われるのは健全ではありません。誰もリスクあるところに飛び込まないからこそ、先行者利益をリスクテイカーやイノベーター(革新者)が受益できるのであってここを裁定によって先行者特権を歪めるといつまでたってもその分野の革新がすすまず老朽化します。ちょっとわかりにくいので一言で、「誠実な労働、社会への貢献、卓越した知力、危機への克服能力などで報酬が公正に資金と交換される」 ことではないかということです。サラリーマンの場合、基本的に人的資源(労力・知力)の供与で、1日1000円程度の食費の投資で1万円のリターンがある。(年収500万円程度と仮定)翻って農業に時間あたりの投資効率を考えときにはどうなのだろうか。(勝ち組農家の方は除外してください。)こまかく計算しなくとも若い地方の人材が農業に目をむけないのは、現実を身近で観ているのでは。農業に目をむけるのは、現実に農村の実情を知らないサラリーマンばかりなのではないだろうか?おいしい空気・おいしい食・自分で決められる時間などを考慮しても交換の正義が機能していない(=不当利得・横領が横行する状態)農協による農村及び農業者維持指導制度では、交換の正義がより働いてきた分野でやってきた人間では耐えられなくなる。交換の正義は空気のようなもの。清浄な空気で育ったが、排気ガスの多い場所へ引っ越したようなもの。昔から住んでいるものは気付かずともそうでない人間は気付く。無論、農業が好きならば、交換の正義・天候リスク・近隣リスクすべてを克服してでも突破してゆく超人がきっといるはず。不適合者は速やか退出する。そして適合者が担ってゆきやすい状況を促そう。適合者の数がいなければ、それによって存立する組織も弱体化する。そこで自然裁定がはたらくようになる。ジョン・ロックと私的所有の正当化 ・ロックは自然状態に労働を基礎とする所有権の確立を見ていた (1)各人は自らの身体とその諸能力の所有者である→その労働の所産も各人に帰属すべきものである(私的所有の正当化) (2)人間にとって有用な事物の価値の99%→その生産のために費やされた労働に等しい 以上の考察より、労働の産物は各人の所有権として各人に帰属するのが正当であるとされた★富の無限の蓄積 ・最初、ロックは所有権について自然法(理性の法)による一定の制約をおいていた ・論理の過程でロックはこの制約を撤廃していく→貨幣の導入が無限の富の蓄積を可能にし、労働の余地を押し上げ、新たな生産をもたらし、社会全体の富の増大を可能とする(富の蓄積の正当化) ・しかし、貨幣の導入による生産の拡大は、所有における不均衡、不平等を産み出さざるをえない(この点の是正についてのロックの視点は少ない)★配分の正義は交換の正義の結果である ・富、権力などの配分の基準となる正義論…アリストテレス『ニコマコス倫理学』正義は大分して2つある(「配分的正義」「整正的正義」) ・「配分的正義」とは:国家と市民との関係において成立し、各人の有する価値に応じた事物の配分を意味する(近代の算術的平等と異なる)「整正的平等」とは:市民の相互交渉において、交換された事物がその価値において相互に等しいことを要求する(ある種の階層秩序を前提とした正義概念) ・ホップズの『リヴァイアサン』では…(1)すべての個人は平等 (2)整正的正義(交換的正義)は各人の主観によって決定されるべき →唯一の正義は契約を守ることである→事物の配分は市場を介した交換の過程に委ねられていった ・ロックもまた、法律による強制なしの自動調整メカニズムによる経済論を唱えた★アダム・スミスと市場社会の正当化 ・スミスはもはや、労働や所有権の神聖性から論を展開しようとはしなかった ・分業こそ生産力改善の最大の要因(各人が自ら特定の職業に従事することが、結果的には社会全体の富の増大につながる) ・仁愛に期待するよりも利己心に期待して働きかけた方がよい「わたしの欲しい物をください。そうすればあなたの欲しい物をあげましょう」 ・資本主義の分配と交換のシステムは分配の公平さをももたらす(交換の正義が満たされる→配分の正義も満たされる)★自然的自由の体系とユートピア資本主義 ・分配と交換の正義の考え方…経済的秩序と政治的秩序の分断をもたらす(政府の介入の縮小と市場の自動調整→自然的自由の体系と呼ばれる) ・経済の論理が社会の論理となる ・資本主義のユートピア化 ・しかし、自然的自由の体系は放置されれば不平等と格差を生む
2004年08月03日
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<<インド人に発言を控えさせることが如何に困難か、それに比べて、如何に日本人に発言をさせることが困難か、人類最大の永遠のテーマだ>>リベラル・アーツ、と言う学問がある、あえて日本語に直せば、古典教養学、とでも言うのでしょうか、頭の中を白紙にして、まったく、自分の頭を自由にすること、職場や、上司や、同僚に気兼ねすることなく、また家庭にも縛られることなく、自由に自分の考えを述べること、この訓練を日本人もやらなければ〈学校教育で)益々、世界から馬鹿にされる、今世界で一番存在感のない国は、日本なのだ(コロンビア大学で考えた世界と日本の著者、ベッシャーさんの言葉)日本は論理学やディベートを教えない。公務員の先生方を養う目的での授業しかなく、本当に必要な論理学が教えられていない。教えたら、今の日本の状況に憂うる人間が増えて公務員さんにとって最適化された現状を変革する機運が高まるのを防止するためなんでしょうか?国の誇りよりも自分たちの快適環境が重要なんだろうな次に生まれ変わったら、アメリカ合衆国海兵隊の将校になって日本の態度を呆れてみたい。
2004年08月02日
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『先覚者は常に同時代の人から迫害を受ける―中略―もしも孔子、釈迦、イエスキリストがまだ生きていたら、その教徒たちは慌てずにいられぬだろう。彼らの行為に対して、教主先生はいかばかり慨嘆するだろうか。それ故、もし生きていれば迫害される他はない』阿Q(アキュー)という人物は、前世紀30年代中国の著名な作家魯迅の小説「阿Q正伝」の中で虚構化された主人公だ。無知ゆえ、負けても理由をつけて自己を慰め、無闘争心、いつも自己満足(悪くなければ良いこと)している阿Qがもつ人格的特徴は20世紀初頭の中国人そのものだ。魯迅が阿Qのどうしょうもない生活態度を通して、当時の中国人の精神状態を余すことなく表現した。中国の近代化が遅れた原因は「阿Q精神」によるものだと多くの中国人が認めている。 中国では唐の時代に政治・経済・文化の隆盛を極めた。やがて宋の時代に入り、北方遊牧民族の脅威の前に団結することなく内争を繰り広げた結果敗北してしまった。中国が自分で国を滅ぼしたと言って良い。ヨーロッパの産業革命が100年、日本の明治維新が30年でかつての大清帝国を追い越したのと比較して、清朝は滅亡の道をたどった。清朝の最盛期に君臨した乾隆皇帝はヨーロッパの宣教師から数学や天文学を学んだが、趣味の領域に留まりヨーロッパの科学や思想が宮廷の壁を超えることはなかった。 約100年前に中国近代史を切開いたとも言える青年運動である「五・四運動」は、弱体化した死亡同然の中国を救うために「科学、民主」のスローガンを提言した。それから100年経過した今日、未だにその目標は成就されていないのではなかろうか?魯迅の時代から半世紀も過ぎ去ったが、「阿Q精神」の遺伝子を受け継ぐ人々が少なくない。簡単にいうと、明日仕事がなくても今日満腹できれば満足できるという精神構造だ。 歴史の重圧は自分で簡単に下ろせるものではないかもしれない。私は、中国も一度「脱亜入欧」を経験したらよいと思う。勿論アジアの諸国と反目して、覇権国家を目指すものではなく、ここでいう「脱亜」とは、中国人自身の保守的態度と決別することを意味する。つまり「非科学的考え方、盲目的な権威崇拝、非効率的行動」という「阿Q精神」を一掃することだ。 近代的生産方式、科学的思考の導入、そして法律・行政制度をはじめとする政治改革の推進を通してそのレベルを直接世界基準に合わせることだ。この目標を実現するために、当然なことだが現状の課題を明確に認識することが重要であろう。清朝の末期に改革を唱える学者が「中学を体にし洋学を用にする(中国の思想のもとで、西洋の技術を導入)」を提言したが失敗した。バケツいっぱいの水をこぼさないと、新しい水が入らないと同様に、自分の思想の中に何が足りないではなく、要らないものをどんどん捨てるべきだ。しかし、すでに慣れ親しんだ考えを捨て去るには、勇気と論理的思考がなにより必要だ。 中国が将来どのような国になるかということについて、既存の知識と情報で将来の絵を描くことは出来なくても、全く新しい「中華思想」を創造する時が来ている。但し、その場合科学的思考と合理性を重んじながらも、更に人間性を満たす精神を軸に周辺国に尊敬される国を目指すことが理想であろうこの文に対してのコメント地方選挙の真っ只中です。せめて被選挙人達が、この高階さんのご紹介下さった記事を読み、考え、討論するような政治家が育たないかなーと思いつつ,拝読していました.明治政府は西洋列国に追いつくために《運命》を迷信と切り捨てて,科学性や合理性を求めました。世界の素粒子学者はすべからく《運命》があると信じているそうです[NHKラジオ朝4時からの,心の時代:稲盛会長]人生は《縦糸》が《運命》であり,《横糸》が《因果》であると。この,縦糸と横糸の複雑に絡み合う,織り成す糸が人生であり,『人はよいことを考え,よい事をなせば,必ず,よい結果がえられる』『悪いことを考え,悪い事をなせば,人は、必ず悪い結果がえられる』と。これが《因果》であると。しかし,この『因果』は人の心のもち方によって変わるのであるから,《運命》も人は変えられるのだと,稲盛会長は話して折れられました.NHK教育テレビではビジネスマンのための教育番組を放送しています、国内企業の今も上手く言っている企業の成功事例が何時も紹介されています。それによると*目標の共有化*問題の共有化*成果の共有化これが上手く行った企業は成功しているような感じを受けています。再び雷峯塔の倒壊について 魯迅瓦礫の原にいることは、なお悲しむに足らない。瓦礫の原で、旧いしきたりを補修することこそ、悲しむべきなのである。 われわれは革新的破壊者を必要とする。なぜなら、彼の内心には、理想の光があるからである。われわれは、彼と寇盗や奴隷との区別を知らなくてはならない 。自分が、後の二者に堕落しないよう注意しなくてはならない。これを区別するのは、別にむつかしいことではない。ただ、人を観察し、自分を反省すればよい。言動や、思想の中に、それ(破壊)によって自分の所有にしようとする兆候を含有しているものは寇盗である。それによって目先の小さな利益をつかもうとする兆候を含有しているものは奴隷である。たとえ前方に、どれほどあざやかな美しい旗をうちたてていようとも。
2004年08月01日
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>確かにこの警察官達はとほほですが、それで公務員をぜんぶひとくくりにして>馬鹿公務員というのはちょっと現実的ではないと思います。>そして、こういうことをするのは公務員だけではありません。企業の中でやばいこと隠蔽する人もいるでしょ?>じゃあ、会社員全員が馬鹿会社員かって事になっちゃうけど、そうじゃないでしょ?>>どんな立場の人でもよい人、悪い人はいます。>その辺は目の曇りを取ってみていきたいなと、いつも思っています。というコメントをいただきました。人それぞれの視点や観点の感じ方があります。彼女の人となりは「優しい」というのがぴったりの方だ。まあ、これを読まれる方で知らない方は、彼女のブログから判断すればいい。私は知り合いだが敢えて、摩擦を恐れず直球で書く!今後どういうことになろうとも!さて、彼女はブログで、2004年07月19日(月) 官僚批判への疑問 / 身の回りの政治・経済の内容に、「それでですね、世の中は官僚が好き勝手にやってる!という批判が基本路線なのですが、いや、仕組みとしては本当は官僚って好き勝手にできないようになっているんですよ。 そういうことなので、私はむやみやたらに官僚批判はしないことにします。国会議員も権力志向の方は本当に困りますが、まじめに政策を考えている人もいるはず。だからむやみやたらに国会議員批判もやらない事にします。ええ、むやみやたらにしないだけなので、もし、自分的になんかおかしいっっっていうことがあれば別ですよ。どっちのエリアの人に対しても。 私利私欲の人もいるかも知れないが、基本的に「世の中をよくしよう」と思って頑張っている人も政官財マスコミ各分野にいるので、そういう人たちを応援したいと思います。」彼女は、全て(日本男児など)「いい人もいるんだから、良い面をみてやりなさい」という、菩薩型のものの見方をするやさしい心根がある。それは、六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天)うち天上界しか知らないものの観点である。仏教には、凡そ一々の仏に三種の輪身あり。本地の佛を自性輪身と云い、菩薩の身を現ずるを正法輪身と云い、明王忿怒の相を現ずるを教令輪身と云う。例えば大日如来を自性輪身とし、般若菩薩を正法輪とし、不動明王を教令輪身とする(正法輪身:如来が衆生救済のために現じたもの、慈悲の実践)(教令輪身:如来の意を受け威をもって難化の衆生を救済する)世の中の多くの人は、善良であるが、悪鬼羅刹、修羅、のような人間も存在する、だからこそ、悪鬼や羅刹・修羅・夜叉のような魑魅魍魎どもを降伏させるため不動明王や、四天王、十二神将の概念が存在するのである。今回の見過ごし引きこもり警官事件は埼玉で起こった。埼玉県警は以前にも、大きな失態を起こしている。覚えていますか!桶川ストーカー殺人事件埼玉県桶川市で昨年10月に女子大生猪野詩織さん(当時21)が刺殺された事件にからみ、国家公安委員会と埼玉県警は6日、 上尾署の捜査に調書を改ざんするなど不正な行為 があったなどとして、上尾署長ら計10人を処分した。西村浩司・同県警本部長(54)と横内泉刑事部長(41)の処分も検討している。調書の改ざんに関与したとされる当時の上尾署刑事二課長ら3人は懲戒免職処分とし、有印公文書変造容疑で浦和地検に書類送検した。県警はこの日の記者会見で猪野さんと遺族らに謝罪した。この事件があったにもかかわらず、埼玉県警は、抜本的改革を行わなかった証明だよ家族の叫びをよむべきだ。>確かにこの警察官達はとほほですが、それで公務員をぜんぶひとくくりにしてというが、こういった奴らの意識を醸成したのは、組織、つまりシステムを創り、運用し、維持させている奴らに問題があるんだよ。ひきこもり野郎は、たまたまの氷山の一角にすぎないのだ。ハインリッヒの法則を知っていますか 注 爆笑問題が賞をとった言葉です米国のハインリッヒ氏が労働災害の発生確率の分析したもので、保険会社の経営に役立っている法則である。それによると1件の重大災害の裏には、29件のかすり傷程度の軽災害があり、その裏にはケガはないがひやっとした300件の体験がある。きっとニュースにならない不祥事は、かなりあるだろう。>そして、こういうことをするのは公務員だけではありません。>企業の中でやばいこと隠蔽する人もいるでしょ?じゃあ、会社員全員が馬鹿会社員かって事になっちゃうけど、そうじゃないでしょ?では、問い返そう!リコール隠しの三菱自動車はどうなりましたか?不正隠蔽した、雪印食品はどうなりました。不正を行う会社は淘汰されます。民間には自浄作用が市場からつきつけられます。民間には、株主代表訴訟があります。公務員を庇うのは自由だ、ただTPOをわきまえて行うべきだ。そうでなければ、「パンがなければお菓子を食べればいいのに」といった、マリーアントワネットなみの状況におちいります。信長は、比叡山を焼き払う前に、「良い僧達もおります」と諫言された。しかし信長は言った。「焼き払わなければならない奴らは、まさにその者どのよ。本来ならば、とうの昔に滅ぶべき奴らであるのに、良心的僧が売僧(まいす)どもをここまで存続させた。この件で、仏罰なぞうけようものなら、地獄の閻魔に申しひらこうぞ!」出典:松下幸之助の本にあったはず。ゾンビ企業にもいい人はいるさ、1人のいいひとが存在しても100人が不幸になるんじゃ意味がないのよ。最大多数の最大幸福(ベンサムだっけ)が重要じゃないのかなぁ。最後に、あんまり「いいひと」すぎると、情報操作されますのでよくお考えを。今週のニューズウィーク日本版 記者クラブ制度についてレポートしています。よくごらんになられてください。報道 おかしいぞ!日本のマスコミ 取材は受け身リスクは冒さない――外国人記者が見た不思議な日本メディア■多弁で寡黙な日本メディア■変革 ネット社会が生んだニュースの革命児 独立系のビデオニュースやネット新聞に注目アメリカ 砕け散る自由の国のメディア ネットの台頭で新聞やテレビの権威は失墜、ジャーナリズムの存在意義が問われる時代に特別寄稿 疑う目、それがジャーナリズム 戦争の旗振り役を務めたマスコミにはこの失態を説明する義務がある追伸 これを読んだ皆様へ僕はQCにて、「事実」よりすべてを判断する思考様式を確立していると信じていますが、自分なりの価値判断基準(拠り所)が固まっていなければ、洗脳されてしまい易い事実がある事は知識としてもっておいてください。ルネ・デカルトの言葉を贈ります。四つの規則こうしたことから私は、[論理学、解析、代数という]これら三つの学問の長所を兼ねながら、その欠陥を免れているような、何か他の方法を求めねばならぬと考えた。そして例えば、多くの法律があることがしばしば悪行に口実を与えるものであり、国家がわずかの法律しか持たず、しかもそれが極めて厳格に守られている場合の方が、はるかによく治まっているのであるから、私は、論理学を構成するあの多数の規則の代わりに、たとえ一度でもそれから外れないという固い不動の決心をさえするならば、次に述べる四つの規則で十分であると信じた。第一は、私が明証的に真であると認めたうえでなくてはいかなるものも真として受け入れないこと。言い換えれば、注意深く速断と偏見とを避けること。そして、私がそれを疑ういかなる理由も持たないほど、明晰にかつ判明に、私の精神に現れるもの以外の何ものをも、私の判断のうちに取り入れないこと。第二、私が吟味する問題の各々を、できる限り多くの、しかもその問題を最もよく解くために必要なだけの数の、小部分に分かつこと。第三、私の思想を順序に従って導くこと。もっとも単純で最も認識し易いものから始めて、少しずつ、いわば段階を踏んで、最も複雑なものの認識にまで登って行き、かつ自然のままでは前後の順序を持たぬものの間にさえも順序を想定して進むこと。最後に、何物をも見落とすことがなかったと確信しうるうほどに、完全な枚挙と、全体にわたる通覧を、あらゆる場合に行うこと。暫定的道徳さて最後に、自分の住む家の建て直しを始めるに先立っては、これを壊したり、建築材料や建築家の手配をしたり自分で建築術を学んだり、その上もう注意深く設計図が引いてあったりする、というだけでは十分ではない。建築にかかっている間も不自由なく住める他の家を用意しなければならない。これと同様に、理性が判断において非決定であれと私に対して命ずる間も、私の行動においても非決定の状態に留まるようなことをなくするため、そしてすでにその時からやはりできる限り幸福に生きるために、私は暫定的に幾つかの道徳の規則を自分のために定めた。それは三つ四つの格率からなるものにすぎないが、それを読者にもお伝えしておきたい。第一の格率は、私の国の法律と習慣とに服従し、神の恩寵により幼児から教えこまれた宗教をしっかりと持ち続け、他のすべてのことでは、私が共に生きてゆかなければならぬ人々のうちの最も分別ある人々が、普通に実生活においてとっているところの、最も穏健な、極端からは遠い意見に従って、自分を導く、ということであった。私の第二の格率は、私の行動において、できる限りしっかりした、またきっぱりした態度をとることであり、いかに疑わしい意見でも、一旦それをとると決心した場合は、それがきわめて確実なものである場合と同様に、変わらぬ態度で、それに従い続けること、であった。どこかの森に迷い込んだ旅人が、あちらへ向かったり、こちらへ向かったりして迷い歩くべきではなく、いわんやまた一つの場所に留まっているべきでもなく、常に同じ方向に、できる限り真っ直ぐに進むべきであって、その方向を彼らに選ばせたものが初めは単なる偶然にすぎなかったかもしれぬにしても、少々の理由ではその方向を変えるべきではないのである。というのは、こうすることによって、旅人たちは彼らの望むちょうどその場所には行きつけなくとも、すくなくとも最後にはどこかにたどり着き、それは恐らく森の真ん中よりは良い場所であろうからである。上の格率において私はこういう旅人に倣おうとしたのである。私の第三の格率は、常に運命よりもむしろ自己に打ち勝つことに努め、世界の秩序よりはむしろを自分の欲望を変えるように努めること、そして一般的に言って、我々が完全に支配しうるものとしては我々の思想しかなく、我々の外なるものについては、最善の努力を尽くしてなお成し遂げえぬ事柄はすべて、我々にとっては、絶対的に不可能である、と信ずる習慣をつけること、であった。最後に、このような道徳の結論として、私は人々がこの世で携わる様々な仕事をすべて吟味にかけ、その中から最も良いものを選ぼうとした。そして、他の人の仕事については何も言うつもりはないが、私自身は、今携わっている仕事を続けるのが最も良いと考えた。それは自らの全生涯を自らの理性の開発に用い、自ら課した方法により、真理の認識においてできる限り前進する、ということである。
2004年07月31日
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「Good Luck!」ネットエイジ社長 西川 潔氏Jeffは30歳のとき早くもD.E.Shaw というヘッジファンドのシニアバイスプレジデントでした。つまりニューヨークで羽振りのいい生活をエンジョイしていたのです。それなのにそのような生活を捨て、妻と犬とでシアトルをめざし、Amazonを創業。そして、現在の大成功に到っています。 そのJeffがある雑誌のインタビューに答えていた言葉はとても面白いものでした。第9回でも触れましたが、ここでもう一度ご紹介しましょう。彼の言葉を簡単にまとめるとこうです。(Q)「なぜ裕福なニューヨークの生活を捨て、ゼロからAmazonをやろうと決意されたのですか?」(A)「インターネットが急速な勢いで伸びているのを目の当たりにしたとき、僕はregret minimization frameworkという考え方を自分に信じ込ませたんだ。つまり、自分が80歳くらいになって死の床にあって自分の人生を振り返ったとき、後悔することがもっとも少なくなるように生きよう、と。投資銀行での業績や期末のボーナス がどうのこうの、とかそんなことは、いまは一喜一憂するけれど、80歳になったら全く覚えているわけないんだ。ところが、もしこのインターネット革命の波に乗れたにもかかわらず、乗らずに80歳を迎えたとしたら、悔やんでも悔やみきれないほど『自分はアホだった』と後悔するに違いないと確信したのさ。そうなったらぜんぜんリスキーなんて思わなくなった。すぐ行動したよ」 なるほど、と思いませんか。この考えは私も大好きです。そういえば、楽天の三木谷社長も、日本興業銀行のエリート銀行員をやめて楽天をつくるとき、「自分はリスクテイカーではなく、リスクアバーター(averter:回避者)だ」と言っていました。人生を後悔するリスクを徹底的に避けるという意味ですね。 ベンチャーは、冒険です。未知なるものとの遭遇です。冒険は人の心を躍らせます。結果がどうなるかわからない、だからがんばる。結果を出そうと必死になる。何かを成し遂げようという情熱的な時間に価値を見出す。そんな起業家にあなたもなりませんか。
2004年07月30日
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あほですな!死ぬまでやってろ!馬鹿公務員!公金横領はするは、市民まで守れない。ま、試験で決まるやつらなんてこんなもんです。自分の身は自分で守らねば、国や官は助けてくれません。なんとかしなきゃいかんので、なんとかするように行動しています。2004年07月22日(木) http://news.goo.ne.jp/news/asahi/shakai/20040722/K0002121230073.html 交番勤務署員、口裏合わせしうその説明 埼玉の集団暴行 交番に助けを求めた男性(25)が警察官の目の前で集団暴行を受けた埼玉県草加市の事件で、交番勤務の草加署員らが責任逃れの口裏合わせをしていたことが21日、分かった。「交番に来た人が連れ去られたことが分かれば問題が大きくなると思った」と動機を説明しているという。当日の当直日誌には「けんか、立ち去り」とだけ記載されており、県警は当初から署員らがうその説明をしていた疑いが強いとみている。 県警監察官室などによると、事件が起きた14日夜、交番は6人態勢で、2人が交番内にいて騒動の途中で2人が戻った。初めから交番にいた警部補(39)と巡査(24)は男性が駆け込んだのを目撃し、別の巡査(26)を含む3人が暴行を見たという。暴行を止めなかったことについて署員らは「暴力団関係者同士の内輪もめだと思った」「暴力団員に対する気後れがあった」などと話している。 警部補は事件の当夜、ともに交番にいた巡査に「暴力団同士のけんかだから後々問題になるようなことはない」と話し、「助けを求めてなかったよね」と事実に反する念押しをした。同署幹部が署員らに事情を聴き始めた17日午前には、喫煙所で警部補と会った別の巡査が「(男は)けってましたねえ」と言うと、警部補は「まあ、それは」と言葉を濁した。これらの言動について巡査らは「内証にしよう、ということだと理解した」「見たことは黙っておこうという意味に取った」と話しているという。 県警の宮城直樹警務部長は「現場で逮捕などの対応を取る必要のある事案であり、虚偽の説明をしたことも含め、不適切な職務執行だった」と話している。
2004年07月29日
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『人間は結局,なりたいと思っている人間になるのである。 』(ニーチェ)平成15年7月29日(火)千葉県立千葉女子高等学校文化ホール世界最大の気象情報会社「ウェザーニューズ」代表取締役会長兼社長の石橋博良さんの講演<「変革の時代とリーダー」講演名言集> 組織のトップはお客様である。 一般的な組織図では,トップは社長であるが,弊社では,お客様がトップで社長は4番目位である。 社是「よく遊べ,たくさん遊べ」 学んでいることも遊びであり,遊んでいることも学んでいることである。 人は,遊びから自分の隠れた才能を見い出す。人は,遊びから天職を見い出す。 (会社も,仕事仕事というより「人間」が先行することが,これからの時代である。) 社員は,育つもの 育てるものではない。 人は育つもの,育てるものではない。リーダーがいるとすれば,「リードする人であってボスではない。」 ボスは,人を育てようとするが,リーダーは,人は育つことが分かっていて,それをリードする人である。 リーダーは,手の内を見せる。 手の内を隠して人をリードする方法は,近代リーダーの方法ではない。リーダーは,もっと手の内を見せるべきである。手の内を見せることは,透明性のあるフェアなシステムである。 一番先に基準を合わせる。 デモクラシーより,メリトクラシー(成果主義)が良い。 一番いいものをもっている人間に基準を合わせ,みんなが共有する。 自律分散連邦型企業経営を目指す。 自分と自分の仲間と一緒にやっていこう。自分だけがいい点を取ろうということではなく,仲間と一緒になってやっていこう。自律分散連邦型企業経営は,世界中の人々に通じる経営理念である。 有言実行達成が最高である。 無言実行未達成と有言実行未達成とどちらが良いか。 有言してがんばってやるが,あと少しができない。でも,他の人の助けを借りてできてしまう。 いい有言があれば,仲間が寄ってきて有言を実行してしまう。誰にも言わなければ分からない。全員精鋭主義が良い。最後に石橋氏は『人間は結局,なりたいと思っている人間になるのである。 』(ニーチェ)
2004年07月28日
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より良くなろうとしない人は、そのうち、良いこともやめる。(英語)He who stops being betterstops being good. (オリバー・クロムウェル)
2004年07月27日
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『我々アテネは、ミーロスの住人に対し、双方が実際に考えているところを十分考慮した上で、得られるものを得る努力するようにと勧める。というのも、経験を積んだ者に言わせると、両者が同等であるためには、相手を屈服させるための力が、お互いに同じでなければならない。現実には、強い者は自分に与えられた力だけのことをし、弱い者は受け入れなければならないだけを受けいれる。このことは、我々と同様、わかっていることと思う』強大な軍事力を誇るアテネ人が、自分たちより劣るミーロス島住民に送った、冷徹で論理的な助言『囚人のジレンマ』 ウィリアム・パウンドストーン 著『やむにやまれぬ人にとっての戦は正義であり、武力のほかに一切の望みが絶たれたとき、武力もまた神聖である』サムニウム族のカイウス・ポンティウムの兵士への演説の言葉『君主論』 マキアヴェリ 著
2004年07月26日
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私もかつて大手企業に勤めていた経験があるのですが新しく基準でなにかをおこそうとする器の人間では組織の基準の遵守の観点で、上司によって最適にプログラミングされうる者が最高の得点をあげるゲームルールの中でオミットされるだけです。中公文庫の「失敗の本質」の教訓を真摯に問い直す時期がきてるのではないでしょうか?02/06/15魯迅て何した人03/04/04 昔、中国は諸外国(ヨーロッパの国々など)に支配されてるような状態でした。 人々は、みんな奴隷のように無知蒙昧でした。 世の中には「いい加減さ」(馬馬虎虎(まーまーふーふー))があふれてます。 魯迅先生は思いました 「愚弱な国民は、何世代経っても支配され続けるだけだ!」 実際、革命は起きたものの、支配者が変わっただけで、世の中の不幸は少しも減りませんでした。 後は、革命に巻き込まれた不運な者が死んだだけでした。 魯迅先生は思いました 「国民の精神を変えなければ、不幸は無くならない! たとえ支配者が何度変わろうとも、中国人一人一人の中に染み込んだ奴隷根性がある限り、我々はずっと支配されつづける」 そして、魯迅先生は筆を取るのです。 しかし、彼に対する外圧は相当なものでした。時には暗殺などという言葉も耳にします。魯迅の民族思想中国には数千年の文化があります。それ自体大変すぐれたものなのですが、西洋は産業革命以来強い国(軍事的に、経済的に)を目指して努力を始めていました。なまじ優秀な文化があったために、中国はそれを守り伝えることに専心して、工業を発展させ、科学を普及させることを避けてきました。その結果、属国だとバカにしていた日本を含む列強諸国に攻め込まれます。近代的な兵器を使う外国の軍隊に対して、中国拳法で対抗しようとしたり、散々な状況でした。「俺たちの優れた文化が、外国のへなちょこ兵器に負けるわけがない」という根拠のない確信があったのです。確かに中国の文化は優れていたけれども、だからって大砲に素手で勝てるわけがありません。こういう根拠のない自信、魯迅は「中国人の自負」と言っていますが、これが「改造」すべき「民族精神」の1つ目。次に、儒教の問題があります。儒教は、中国の誇る優れた文化の一つですけど、「近代化しなくちゃ外国にどんどん攻め込まれて、このままだと中国は外国の奴隷になるんじゃないか」というような危機に見まわれた状況においては、非常によくない作用をするわけです。そもそも儒教は、一番上に皇帝がいて、その下に上級・下級の役人がいて、庶民がいるような「封建制」を守るようになっていました。王朝制度が近代化にとってよろしくないから、1911年に辛亥革命が起きて、皇帝はいなくなるんですけど、儒教が根強く残っている限り、社会は変わりようがないんですね。さらに儒教では、子は親に尽くし、女は男に尽くし、子孫は先祖に尽くすというような血縁関係が重視されて、これが絶対に守らなくちゃならないモラルになってましたから、「進歩」「近代化」は非常に難しいのです。1920年前後に、魯迅は進化論に傾倒しています。進化論といえばダーウィンが有名ですけど、「環境にうまく適応した種が生き残る」という生物学の法則は、社会進化論というものに行きつきます。つまり、競争に勝てない団体(国)は淘汰されて滅び、強い団体(国)、状況にうまく適応した団体(国)が生き残るというわけです。当時においては、中国はこの滅ぶ方に入っているように思われたわけです。じゃあ、滅ばないようにするにはどうするか。儒教的な考え方をやめて、「進化」する方に仲間入りしなくちゃなりません。親は子のために、今生きている人々は、先祖のためじゃなくて、これから生まれてくる人々のために生きるべきだ。世の中を良くするような種を「罰当たり!」といって踏みつぶすのじゃなくて、育て育まなくちゃならない。中国では、進化を促すべき天才の芽はいつもつぶされてしまう。猿から人間に進化したのに、われわれはもっと進化した人間(超人)になることを自らやめてしまっている。こんなこと、もうやめようぜ!、というわけです。骨の髄まで儒教に浸かった中国人、これが「民族精神」の2つ目。細かく考えれば、3つ目4つ目も挙げられますけど、まぁそれはご自分で考えてみてください。さて、魯迅たちは、この「改造」を文学でやろうとしました。当時はまだラジオも普及していませんし、テレビもありません。自分の考えを広く宣伝するには、活字に頼らなくちゃなりません。ただ、当時の中国で文字を読める人というのは、10%に満たないほんのわずかな存在でした。魯迅たちが一生懸命に「こうすべきだ」「このままじゃだめなんだ」と宣伝しても、90%以上の人は読めないわけです。それで、少しでも多くの人に読んでもらえるように、話し言葉(白話)を使った文章を提唱します。それまで、ほとんどの文章は、書き言葉、つまり僕らのいう漢文で書かれていました。これだと、文字はあるていど知っていても、特別の訓練を積んだ文化人じゃないと太刀打ちできなかったわけです。また、科学だとか、西洋哲学だとか、中国を改革する助けになるような新しい思潮を紹介することが必要とされました。さらに、海外の近代文学を翻訳して、文字の読める学生などに読ませて、彼らを中国の近代化を促進する原動力として育成しようともします。そんな中で、進化論をはじめ、女性解放、人道主義、社会主義、自由恋愛などなど、新思潮が若者の心をとらえ、彼らが中国の改革の実働部隊として成長していきます。そうした一方で、やはり「最近の若者はだめだ」とか「古き良き時代の文化がどんどん失われていく」といって嘆く保守派の人々も当然いて、進歩派と保守派は論争をつづけていくことになります。また、進歩派の中でもいろいろな考え方の違いがあって、実際の革命運動の進展とも連動しつつ、「文学はどうあるべきか」というテーマがずっと大命題として横たわるわけです。現代中国において、文学は社会改革の重要な道具だったのですね。これ以上お話しすると、どんどんややこしくなりそうですから、あとはご自分で調べてみてください。魯迅の作品を実際に読むこともお忘れなく。『吶喊』という第一小説集と同時に、同じ頃書かれたエッセイがまとめられた『熱風』という評論集を読んでみるのがいいと思います。どちらも学研の『魯迅全集』に入ってますし、図書館に行けばすぐ読めますから、取り組んでみましょう。文系の大学で大切なことは、絶対に他人の言うことを鵜呑みにしないことです。授業中に先生の言ったことでも、納得いかないことがあったら、頭の片隅に引っかけておいて、時間のあるときに調べてみて、自分で解決することが大事だと思います。鵜呑みにした知識はすぐに忘れちゃいますし、大して役に立ちませんが、自分なりに取り組んで解決した経験は、確実に財産になるはずです。少なくとも問題解決の方法論として、血となり肉となるでしょう。1年生だと、たくさん単位もとらなくちゃならないでしょうし、バイトやサークル活動もあって時間はあまりとれないかもしれませんが、是非やってみてください。僕の話も、たたき台にしていただければと思います。「人生は現在実に苦痛であるが、我々はどうしても光明を戦い取らねばならない。たとえ自分が生涯の内にそれに出会うことが出来なくても、後に続く人達に残してやることが出来る。我々はこのように生きて行こうではないか」彼は幼い頃、父親の病気のために質屋と薬屋にほとんど毎日通いました。彼は、質屋で金を受け取り、医者の処方するクスリの材料を探して奔走します。しかし、その処方はいいかげんなもので「つがいのままのコウロギ」や「三年霜にあたった甘藷」、「冬の蘆の根」などが必要だというのです。手に入りにくいものばかりの材料です。それでも魯迅は一生懸命探しましたが、父親の病気はだんだん重くなり、ついに亡くなってしまうのでした。彼は後になって悟りました、「今でも中国では私と私の父、そしてあの医者のような無知のために騙し騙され苦しんでいる人がいる。」と師直は後になって悟りました、「今でも日本では私と私の父、そしてあの農系公務員のような無知のために騙し騙され苦しんでいる人がる。」
2004年07月25日
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主体なき「農業経営論」の不毛さ 売れないセールスマンの弁解は決っている。彼はいつも「売れない」理由を数え上げる。いや、「売る」ことをしないための理由探しなのかもしれない。 「値段が高い」「競争が激しい」「お客が少ない」「お客が理解してくれない」「時期が悪い」「商品が悪い」等々、売れない理由は幾らでもあげられるものなのだ。 しかし、同じ条件の中で売る人がいる。その彼は売れない理由を数え上げるのではなく、その条件の中でどうしたら売れるかを考えるからだ。売れないセールスマンが売れないのは、売ろうとしていないだけなのだ。やればできるのだ。 このことを、本号の「女の目で見る農業経営」に紹介された三嶋八重子さんの話を聞いて思い当った。 三嶋さんは120頭の肉牛肥育経営。労働力は三嶋さん一人だけ。しかも三嶋さんの1日の労働時間は6時間である。昨年度の粗収益は950万円。これは肉牛と発酵おが屑堆肥の販売収入も含めた金額だ。所得では630万円だという。 所得630万円という金額だけで見るならもっと大きな数字を上げる経営はたくさんあるだろう。しかし、ご主人は公務員、初めは義父と二人、規模を拡大した後には二人の病身の老人を抱えながら女手一つでの収益なのである(こんな表現自体を三嶋さんは陳腐と思われるかもしれないが)。小さな規模ではあるが極めて効率の良い畜産経営だとはいえないか。 餌は粗飼料を含めて全て購入飼料である。しかも牛への給餌は3日に一度しかやらない。見回りは毎日している。それでも牛は穏やかで、臭いもしない。しかも家畜の共済はほとんど掛け捨て状態だという事故率の低さなのだ。糞尿はおが屑の敷料に踏ませて堆肥化し、全量外部へ販売している。5日に一度堆肥舎に運び、切り返し、袋詰めは手作業で近隣の主婦パートを頼んでやっている。機械化した方がコストは安いのかもしれないが地域のつながりを考えてあえて人手を頼んでいる。 三嶋さんのやり方は、飼養管理技術の「常識」や「標準」といわれるものからすれば、「非常識」なのかもしれない。でも、常識的なやり方をしていたら牛飼いは続けられなかった。病身の老人二人を世話しながらも、牛飼いを続けていきたいと考えた三嶋さんのギリギリの働き方工夫だったのである。 条件が整っているからではなく、三嶋さんの意思が現在の経営を実現させたのである。むしろ、そうせざるを得ない経営環境だったから、牛飼いの常識をくつがえし、現在の小さいながらも極めて経営効率の高い畜産経営を作り上げたのだ。もちろん三嶋さんの自由な発想力や決断力に加えて細心な気配りと試行錯誤もあったことはいうまでもなかろう。でも、牛飼いを続けたいという三嶋さんの思いが先にあり、そして、やったからできたのである。 行政官や農業を評論する立場の人たちは「絵に画いた餅」にすぎない経営類型や技術体系をいじくりまわしながら、経営の成立条件を云々する。 しかし、問題は「人」なのであり「経営者」の意思なのである。条件ではないのだ。条件などというものは腕組をしているだけでは、いつまで立っても整わないと考えるべきなのだ。むしろ、へたに条件が整っているために、自分の置かれた位置にある可能性が見えてこないことすらあるのだ。 当の農業経営者たちのなかにも「規模拡大をしようとしても地域の中で水田を集められない」とぼやく人、「自分の経営を発展させようとすると地域の和が崩れる」「農業は共同体として成立してきたものだから一人だけの発展は無理だ」等々と、自らの条件の悪さを経営発展の制約条件としてことさらに語る人がいる。 確かにその通りなのだろう。しかし、それは、売れないセールスマンの弁解と似ているのではないであろうか。こうした悪条件だからできないのではなく、どうしたらその条件を克服できるのかを本当に考えているのだろうか。自分の仕事を実現していくために地域や関係者への説得が足りないだけなのではないか。いってみれば本当の営業活動をしていないのかもしれない。自分が歩もうとしてる線路を行政や農協が敷いてくれるのを待っているとでもいうのだろうか。実は今のままでいることに満足しているからではないのか。 そうしたボヤキを吐く人は、先進的な経営者の話を聞く時、彼の事業者としてのセンスや覚悟こそを盗み見るべきなのである。ボヤキを吐いている今の自分よりもっと悪条件の中でその人の仕事が始っていることも少なくないはずだ。決して大規模水田だけでなくとも、遠隔地の田や畑であっても、やる人はやるのだ。成功は与えられるものでなく、自ら演出するものだからだ。 もちろん、経営の形は経営者の数だけ様々にあっておかしくはない。また、失敗を繰り返すこともあるだろう。しかし、自らこうあろうとする意思とチャレンジのないところには、願うべき未来はないことだけは確かだ。繰り返しになるが、やればできるのだ。そして、三嶋さんの場合にも支援してくれる人がいたようだ。チャレンジする人にはかならず協力者や支援者というものが出てきてくれるものなのだ人が自分の仕事や人生についての「泣き言」や「ぼやき」を語るようになったら、それは自分自身の心の持ち方を見つめ直すべき注意信号である。今の仕事が重荷であるのなら、自分の力を冷静に見つめ、見栄を張らずに担える荷物の重さを調整することも必要なことだ。 きっと誰にもそんなことはあるはずだ。正直に言えば、僕もなんでこんな仕事を続けているのだろうと思うことがある。そんな時、僕は「嫌なら辞めろ!」 と自分に向かって言ってみることにしている。励ましの言葉として。 痩せ我慢が必要な時もある。辞めるに辞められない事情や頼み込まれて後にひけぬということも。共感や同情に振り回されることもある。しかし、「嫌だ」と思いながら続けるのは間違いだ。嫌なら辞めるべきなのである。そうでなければ、続けていく理由を自分自身に向かって問い直してみる必要があるのだ。 もっとも、「家を継がねばならなかった」などとやむを得ず仕事をしている人も、実は、やむを得ずその仕事をすることを自ら選んでいるのである。むしろ、彼は辞めないことを自ら選びながら、その苦痛や葛藤を自分以外の何かの責任にして「被害者意識」という精神の安楽椅子で人生の時を無駄にやり過ごしているのだ。 そんな彼には、自分の心の居場所をもう一段上のステージに置こうとしない限り望むべき場所や仕事は与えられないのだ。そして、嫌だと思っている今の仕事に彼が本当に求めている物があるのかもしれないのだ。 肩書きや機能としての経営者ばかりでなく、誇りある職業人なら誰でも、当然のごとく家族、社員、顧客などに対する責任を持っている。そんなことは当たり前なのだ。そして口には出さずとも、社会や歴史そして未来に対して何らかの役割を果たしたいという思いがあるはずだ。 僕はこの雑誌の中で「経営者」とりわけ「農業経営者」という言葉に特別の思いを込めて使ってきた。敢えて言えばこの雑誌は、GHQの手で行われた農地解放によって農業の経営者としての地位から追放され、農林官僚と農協官僚たちにその地位を取って代わられてきた、かつての在村地主や自作農たちを現代の「農業経営者」として復権させ、その誇りと能力とを現代に取り戻すことを目的の一つとしていると言っても良い。 農業経営者とは、ただ農作業に労役の対価を求めるだけの農民ではない。未来に向かって投資をし、未来のために利益を得る経営を創造しようとする者である。しかし、単に経営規模や売り上げの大小が問題なのではない。それは手段に過ぎないというべきだ。無論、利益の上がらぬ経営は続かないだろう。また、機能としての経営者は利益を追求する存在である。自由な競争と健全な競争者の拮抗関係の中で生まれてくる社会の発展が資本主義の原理だからだ。しかし、それだけなのだろうか。むしろ利益とは目的ではなく結果なのであり、未来への手段なのだと考えるのは間違いだろうか。そして、自らの人生を含め未来に投資をする者が経営者であると僕は考えたい。 人は人生という舞台の上で、自ら台本を書き演出するドラマの中で自らが与えた役柄を演じつつ、それを見続けているのではないだろうか。自意識過剰と言われようとも、それが人なのではないか。 人に必要とされたいとは願っても、それは誰に頼まれるからでも命じられるからでもない。そうしたいからするのだ。義務の対価としての権利や経済的豊かさを求めるのではなく、自らの誇りや自負心において果たすべき責務を自覚できることを生きる甲斐と感じられる者。その目的のために利益を追求し、それに献身できる者を僕は経営者と呼びたい。 農業関係者が集まる場所での「ご挨拶」の定番は「農業危機」と決まっている。また、不平を言いながら我慢をし、外からのあるいは支配者からの指示を待ち続け、自ら変革の担い手として生きようとはしない農民たち。僕はそんな人々の間に身を置くのはもう御免だ。 我々は誰かに頼まれて生きているわけでもなく、何がきっかけであったにせよ自らこの仕事を選んだのである。農業に泣き言をいう人々よ、誰も貴方に農業を続けてくれとは頼んではいないのだ。「嫌なら辞めろ!」。そして、今こそ農業経営者の時代なのだ。
2004年07月24日
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ボイドには、妻と5人の子供がいた。ボイドは、カントのように厳正な人で、その生活は科学、哲学、人文学の研究に専念した。なかでも現実世界の理論モデルの創造-破壊と創造の終わることのないサイクルに関する新理論に没頭した。1973年から1976年にかけてはボイドは、16ページにわたる「破壊と創造」(Destruction and Creation) と題する論文を作成した。それは、分析と統合の弁証法的な相互作用がいかに外界の心理的イメージを破壊し、創造するかを記述した抽象的な学術学術論文であった。ボイドの生活態度は、ガンジーのように固いモラルを形成し、厳しく自らを律した。ボイドは「人生に置いても最も重要なことは物事から自由になることである。この自由を確保するには、二通りの方法がある。一つは金持ちになること、もう一つは欲望を零にすることである。私は金持ちではないので欲望を下げる選択をした。」と語った。ボイドは自分がしたいことをするためにこそ、ストイックなライフスタイルを選択した。 1975年ボイドは、退役し、国防総省計画分析評価局のコンサルタントとなった。EM理論では幾つかの点でYF-17が優れていたが、パイロットは一致してYF-16を希望した。理論と実飛行の差を解明するためボイドはパイロットに質問した。パイロットは、試行錯誤でエネルギーの急激な変化による戦術的利点を身につけていた。ボイドは、克己と完全性でEM理論がその急激な機動変化による戦術利点を予測できなかった理論的限界を発見した。この発見でボイドは、朝鮮戦争当時の経験に戻り、それを再解釈した。F-86の利点は、視界の良さと優れた操縦システムにあって、これでミグより容易に素早く機動できた。これにパイロットの意志決定の効果が加わってOODAの敵の心理空間の内側に入り込み累積的な利点を得た。ボイドは、この類推から1977年から1992年にかけて競争と紛争の一般理論に拡大することを始めた。それを13時間の「勝利と敗北に関する講義」(Discourse on Winning and Losing) にまとめた。 ボイドの講義は、160枚の図表説明つきで、ペロポネソス戦争から現代の通常戦およびゲリラ戦にまで及び、孫子からジョミニ、クラウゼヴィッツ、毛沢東、ザップに至る兵法理論にわたっていた。ボイドは、先ず数的に弱体な部隊が、最後に勝利する多くの状況の説明から始めた。これらの勝利からボイドは、 指揮官が欺瞞、奇襲、混乱といった無形の触知し難い要素を利用し、いつも敵の考えの一歩先を行き、敵が最も用意していない最も弱い点を突くことであって、力に力をぶっつけて真っ向から猛攻するようなことをしないという共通のパターン を導き出した。 これからボイドは、敵のOODAループの中に入るという主張となった。このループは、 敵の行動を監視し(Observe)、展開する状況を知り(Orient)、打つ手を決定し(Decide)、行動する(Act)周期からなっている。主要なことは、この周期をより迅速に完了して、敵の物の見方を通用させなくすることによって、終局的に勝つ ということにある。 ボイドは、F-86パイロットの実戦経験から40秒ボイドと呼ばれた空戦技術を理論化(空戦研究)し、それを今度は熱力学を応用したEM理論に発展させ、戦闘機設計に影響を与え、その理論的限界から原点に回帰して心理的な破壊と創造の重要性を認識したOODAループサイクルに現される機動戦理論を展開した。 ボイドの機動戦理論は、リデル・ハートの間接的アプローチと極めて類似したものとなっているが、指揮官の指揮管制(Command and Control) に重点を置き、奇襲・欺瞞を利用した摩擦でもって敵将兵の物の見方を通用させなくするところに新しい切り口があった。しかもOODAループサイクルは、敵の行動を認識させ、一方的な思い込みによる不健全な判断に陥ることを防ぐチェックリストの役目も持っている。ボイドの機動戦理論は、OODAループサイクルでもって戦術を説明できるという利点を有し、指揮官の指揮管制能力の重要性を指摘している。 ボイドの機動戦理論の核心は、敵を等質の量と見ないで、統一ある有機的なシステムと見て、それにまとまりを与えている主要な要素を攻撃することで、敵の規律と指揮の内部組織を崩壊させることにある。つまり敵の組織的神経系統を打撃することによって成り立つのである。 逆にいえば、敵が組織的ではなく無政府秩序状態になった場合、打つべき神経系統、指揮系統が存在しないため、手の打ちようがないという場面もあることを意味する。 通常戦争であれ、ゲリラ戦であれ、敵対勢力の組織は、厳然と成立している場合は、打つべき指揮系統が存在するが、組織のない無政府無秩序状態に対しては、巨大な軍事力をもってしても手の打ちようがない。この場合は、消耗戦の泥沼に巻きこまれることになる。これを避けるためには、極めて優れた情報活動が必要である。常日頃から、組織の重心点を含めた情報を収集、分析、評価して、どういった戦術理論が適用できるかを判断しなければならない。
2004年07月23日
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日本軍他より抜粋では、貧しい人達自身はどうすればよいのだろう?有効な治療法は自分達の中にある。歴史は教えてくれる。海外からの援助も有効だろう。だが、それは棚ぼた式に手に入れた富も同然で、かえって害を及ぼす恐れがある。努力しようとする気持ちを削ぎ、無力感を植え付けてしまうからだ。アフリカには次のことわざがある。「受け取る手はいつも与える手の下にある。」。いや、重要なのは、仕事や貯蓄、公正さ、忍耐、粘り強さだ。こういう態度を、貧困にあえぐ人々にとっては、自分勝手な無関心に終わる可能性もある。だが実際、外部からどんな力を与えられても、自分たちで勝ち取った力に勝るものはないのだ。こうした議論はお決まりの常套句を並べているようにした聞こえないかもしれない。-かつては家庭や学校で、子供たちを教育し高めることが自分の使命だと感じた親や教師が、こうした教えを使ったものだ。今日、我々はこうした教えを無視し、陳腐な言葉としてはねのける。だが、名言が廃れてよいはずがない。なるほどわれわれは、デザート時代に生きている。我々は何でもお菓子のように甘ければ良いと思っている。あまりに多くの人が、生きるために生き...---------------------------------------------------------------------------生きるために働くのでは無く働くために働くことが一番...この集団の中には国も人種も無く能力だけが評価される。「IBMの解説を読んだ時に同じような要素があったような...初期の日本のコンピューター関係を引っ張っている人達は日本IBM出身者が多かった...」この部分は重要、先進国の住民は性格的に働いて良くなろうとするように条件付けられていてこれは重要な要素のようです...ソ連に抑留されていた人々の話ですが先進国の住民の土地はいつのまにか田んぼや畑ができて開発されていくそうで元からの住民や後進国の住民の土地ではこのようなことは起こらない(゚-゚)...日本人には特徴的にこの要素が強いろくな賃金も貰わないのに朝から晩まで不思議に働く珍しい人種だそうです。感想雑感1あらすじ、展開、など「強国論」デビット・S・ランデス著を読んだ強大国、弱小国、の違いにはそうなる原因があり運命でも場所が良かったからでも無いたとえば産業革命当時スペインは必死になってその原因を探ったが自国を産業国家にすることに失敗している。(スペインは膨大な新大陸からの財宝で産業を興さず武器や必要物資を他国から調達した。)(結局、南ヨーロッパの遅れは偏狭なカトリックのせいで)(ポルトガル没落の主要な原因が商売に従事していたユダヤ人を宗教上の理由から大量排除したため...)ナチスのユダヤ人排斥で第二次大戦後、科学の中心がヨーロッパからアメリカに移ったのに似ている。後進国で上から無理に工場を作って働かせて産業化しようとした例が多数載っていましたが...住民の迷信深く偏狭なのにはおどろかされます。東アジアに限ると中国の国と国上下関係を重視したこの貢ぎ物貿易の影響が深いほど偏狭な後進的な国になった(日本も危なかった)変化や新しい考えを受け入れることのできる柔軟な国が栄え偏狭な国が没落する...日本の場合、明治維新から大正時代までが柔軟な時代で昭和の軍閥時期が偏狭な没落期にあたる...日本についての記述も多くて、維新前の江戸時代から江戸、大阪などは商業の発達した巨大都市だった...アフリカなどの未開の国と違って産業革命用の資本は十分にあった...明治維新後なにもかも始まったわけでは無い...元から文明国だったわけですね。偏狭な中国が発展しなかったのに比べて(自分達の国は最高であるとおごったので西洋のシステムを採り入れなかった。)日本は昔から文明は先進国からもらうものだったため中国をあっさり捨て西洋に走って近代化に成功した...しかし、近代国家の仲間入りをすると偏狭な中国文化のコピー文化(誰が上で誰が下かという...)(儒学朱子学の要素もあるか...)の悪影響が出てきて昭和の暗黒期を招き没落した...しかし、江戸の藩同士の見栄の張り合いから(小藩まであわせるとたいした数になります)高級商品経済ができたとか...参斤交代の落とす金とか贅沢するための金を作るための百姓を搾り採るシステムが後で安い給料で長時間文句も言わずに働く工女を作ったとか(日本は生産綿布の値段でイギリスに勝っています...)なかなかです...------------------------------------------------------------------ある仮説...(学力低下から最近の若者気質と消費行動を読み解く)正しい推論のためには知識の蓄積が必要なはずだが、知識の蓄積を重視しない思考形態が一般化すれば、学ぼうという意欲が減退し、学力も低下していく。集中力の低下多くの情報の中で気が散ってしまい、その場その場に浮遊する情報に合わせる若者が多い…売れ筋情報のランキングは上位の商品に安心感を与えメガヒットを生む土壌になる。最近の学生はそもそも、知的関心・意欲が無い(全国大学長アンケート調査によると)音楽業界、人気がでてもアーティストの過去の作品を聞こうとしない消費低迷の理由は...1.雇用賃金の伸び悩み(所得制約説)2.家計の将来不安が大きい(将来不安説)3.消費者が買いたいものが無いからだ(消費飽和説)1.が正解...「可処分所得が消費の動きを決めている」というのが消費の大原則景気が良くなる=>企業収益増大=>賃金雇用者が増える=>家計の可処分所得の伸び=>消費を増やす現状は、雇用者数が減少し、現金収益総額の伸びも僅か...消費が伸び悩むのは当たり前で増えるのを期待するほうが可笑しい..企業収益は改善しているが、財務体質の改善、過去の負債の清算を求められ...労働分配率の引き下げ企業のスリム化をしているため企業収益が改善しても雇用も賃金上昇も従来の景気回復期ほど増加しない...(米のようにレイオフができないため)(新規雇用を減らし雇用者数の自然減少させることにしたため)(就職できず「フリーター」が増えた...)2000.1.17...産業新聞の寄稿文「日本の技術力を疑う」を読んだ丁度、前日の分といっしょに見たので上下いっしょに読むことができた。。。最近の事故は個々ばらばらの現象ではなくて日本の技術水準の低下を現しているそうだ。。。原子炉設計ミス「もんじゅ」の事故は精油プラントなどで当然使われている応力を分散させる計算をまったく考慮せずに作られていた「製造業なら当然気がつく単純な問題」に過ぎなかった。これは、大企業の製造現場から経験とノウハウを蓄積しているマスター技術者が消え...大企業の技術力自体が低下している証拠だそうてす...これは、日本独特の問題ではなくてアメリカの70~80年代の再現だそうで。。。工場の海外移転、学生の理工系離れ(米70年代)それに押し流されるように製造業が衰退した。現在のアメリカの繁栄はMITの頭脳を結集し米国企業を分析して対策をたてて努力した結果で...日本はこの問題を楽観論から放置しておくと加速度的に悪化する高階師直が選ぶ『金言、名言』集「受け取る手はいつも与える手の下にある。」我々はこうした教えを無視し、陳腐な言葉としてはねのける。だが、名言が廃れてよいはずがない.生きるために働くのでは無く働くために働くことが一番...元からの住民や後進国の住民の土地ではこのようなことは起こらない(゚-゚)...変化や新しい考えを受け入れることのできる柔軟な国が栄え偏狭な国が没落する...しかし、近代国家の仲間入りをすると偏狭な中国文化のコピー文化の悪影響が出てきて昭和の暗黒期を招き没落した...知識の蓄積を重視しない思考形態が一般化すれば、学ぼうという意欲が減退し学力も低下していく。売れ筋情報のランキングは上位の商品に安心感を与えメガヒットを生む土壌になる。企業収益が改善しても雇用も賃金上昇も従来の景気回復期ほど増加しない.日本はこの問題を楽観論から放置しておくと加速度的に悪化する.高階さん、如何にも、私にとって現代的早判り歴史書です。財産を頂いたような気持ちです。有難う御座いました。
2004年07月22日
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小銭入れを亡くして、アチャーと思っていたが多分、すし屋と思い、いってみた。「ああ、これですよね」あったよ! よかった、お金も大事だが、スイカカードが会社の交通費清算すんでなかったので、それが気がかりだったのだ。 Lucky!それで、店員さんに深々とお礼して、すしを特上かって帰る。定員さんから、明るく「どうぞ」と20%割引券が・・・ Lucky!ついでにセブンイレブンで711円以上の夏のご愛顧感謝フェアで新グロモントゴールドあたる。「あたれ!」っていったら本当にあたった。 Lucky!うーん、シンクロニシティ。実は「07月18日 04:51にミクシィでこんなメールがきてた。おめでとうございます! アクセス888番目でした! すごい!末広がりの八並び!さすがキルゴアさん! さっき、数え間違えて、違う人に、888メール送ってしまったので、日記にはキルゴアさまの名前載せてなくて、スミマセン。 送った人は「なんだよー」って感じになっちゃうもんね。 なんか、アクセス数とのことろと順番が見るたびに違ってたきがする…。ま、それはともかく。 おめでとうございまっす! きっといいことありります! 間違いないっ!」間違いようです。そういえば、銀行で自由が丘時代に純正運命学会の平沼 佳恵さんにもそうとうかわいがってもらってたし、やはり運の強さは相当かもしれません。もう、9年くらい前になるのかな。懐かしいです。幸せを呼ぶ血液型九星占い 血液型+九星術=あなたのすべて平沼 佳恵さん苦しみ悩む人のために「 希望に輝く幸せ行きの切符 」を入手する開運コンサルタントとして活躍中。成功する人生をつかむための方位選び、金運を招くノウハウを懇切丁寧に指導します。気学 ( 方位・家相 ) 人相 手相 姓名判断〒151-0053東京都渋谷区代々木1-50-1-30703 ( 5358 ) 7758
2004年07月21日
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読んでもらいたい本「経済学と人間学 アダム・スミスとともに」 山崎怜 昭和堂「公共の利益のためにつくすといっているひとで多くの善がなされたというのはきいたことがない」名言です。おもしろい示唆を与えてくれます。この本をかいつまんで、自分なりに説明します。この本では、みんなが少しでもいい暮らしをしたいと考えれば、よく働くようになると考えます。そうすれば、深夜族になって暴走族的な行為などを慎むような思慮がはたらくような人間が増えるようになって警察・安全関係などの予算などが極小化してゆく。この少しいい暮らしをしたいと思うようなささやかな利己心が無思慮な行為を極小化させ、勤勉で誠実な人間が増えて国富が増やすとのスタンスをとります。キルゴア解釈しかし、デフレ化、価格の変動リスクを抱えるも農作業を勤勉に励む方が苦しみ、一方で議員や市長に袖の下を使って入ったコームインさんたち【人事委員会のない市町村に多い】のように、秘書課や市長室的部署は昼からお茶を飲んで時間を潰すだけ(高校の同期のコームインの話なので間違いない話)の方はリスクなく人生を謳歌する社会では、公的部門【勝ち組】、民間部門【負け組】となり、負け組は努力しても報われないと悟れば自暴自棄になりしらけた社会となり国富は増大せず、ますます収縮し滅亡へ向かう。まともな経営をして、バブルにも踊らされず堅実経営した企業Aがある。バブルに踊り、経営判断を誤り多額の負債を抱えた同業ライバル企業Bが潰れそうになったが、お上が公的資金注入や銀行が債務放棄を行った。この不況下、爪に火をともすように経営してきたAの経営者は努力が実りシェアを伸ばす機会を手にする予定だったのが、一気に覆されたのである。一生懸命努力する気失せませんか?
2004年07月20日
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ある決断をした。決断とは、断つこと決すると書く。断つことは難しいが、断たねばならない時期やタイミングがある。 與之更始~ともに新時代へ~BC205 曹操の布告のキルゴア意訳1.兵法の大家だった、呉起は母の葬儀にいかないとして非難された2.漢の名将 大元帥 韓信はつまらない男に股下をくぐれといわれて弱虫扱いされた。このような事は歴史をかえりみればいくらでもある。不遇の状況にあり、真の評価を待って死力を尽くそうという人材は、天下に無数いるはずだ。実力だけが私曹操の人材登用基準である。ゆこう!ともに新時代へ與は「ともに、くみする」という意味
2004年07月19日
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人生の成功の定義をかえよう起業家文化の先進国である米国では、さまざまな「起業グッズ」が販売されています。そのひとつにプラークというのがあります(Stanford大学の生協でも売っています)。これは起業家としての心構えを掘り込んだ石板で、机の上や棚などにかざって初心を思い出させるのです。そのひとつに「Success is a journey, not a destination」ということばがあり、私は気に入って買ってしまいました。直訳すれば「成功は旅だ、到着点ではない」となりますが、これは、もうすこしわかりやすくいえば、 「自分の人生を自分の意志で舵取りしながら生き抜いていく過程(=旅)、それ自体が成功であって、大金持ちになったとか株式公開したとか、あるいは逆に、倒産したとか、という結果(=到着点)をもって成功・失敗をはかるべきでない」 という意味です。つまり極論すれば、起業して破産に終わっても「成功」というわけです(これは極論ですよ。もちろん)。そういえば、ホイットニー・ヒューストンのヒット曲「The greatest love of all」 にもそんな歌詞がありましたね。「仮に私が成功しようと、あるいは失敗しようと、わたしはわたしの運命を試し、わたしの人生を精一杯生きているのだから、私はそのことを誇りに思うし、誰も私の威厳をうばうことはできない」と。上記のように、「成功」の定義をかえてしまうこと、それが起業家人生へ思い切って飛び込むひとつのジャンピングボードになるのではないでしょうか。人生航路のオプションとしての「起業」 起業とは、文字通り、ビジネスをゼロから起こすことです。よほどの大金持ちでもないかぎり、人は食うために職業をもつ必要がありますが、ふつうの日本人の人生航路では、まず20歳前後まで学校にいき、そのあと、どこかの会社(または役所など)に勤める人が大多数です。最近は、あえて自発的にフリーターや契約社員・派遣社員などの特定の企業に所属しない人も増えていますし、学生時代からいきなり起業家になる人もわずかながらいますが、一般的にはまだまだ卒業して、就職という路線が大多数です。おそらく読者の皆さんの9割がたがそうでしょう。 さて、会社員になったその後はどうなるのでしょう?実はこの先の部分が、1990年以来の低成長時代にはいり、大きく変わってきた、あるいは変わらざるをえなくなってきたのです。すなわち、65歳定年までつとめあげ、あとは関連会社の取締役かなんかで楽なポジションにうつり、そのうち引退、というコースが急速に見込めなくなってきたのです。また、仮にそのようなコースを選べたとしても、あえて、「そんなのつまんない」と思う人が増えています。 要するに、一度しかない人生をただ安全志向でいけばいいというものではない、もっと熱く燃えたい、というわけです。そのような人にとって「起業」は現実的なオプションです。世論調査によれば、親が子供になってほしい職業のトップは公務員だそうで、中高年の寄らば大樹の陰志向は根強いものがあります。事実、日本に起業意識が弱いのは親の安定志向の影響もあります。また、世間体などを必要以上に気にしてしまうのも日本人の悪いところです。しかし、人間、25歳、30歳にもなれば、誰のものでもない自分の人生を思うように選択して生きればいいのです。リスク感覚の再定義 よく、起業家はリスクテイカーといわれます。安定した大企業をやめる場合などはなおさらです。しかし、本当にそうでしょうか?むしろ時代にそぐわなくなった大企業のほうが、柔軟なベンチャーよりよほど危ない、という考えもあります。「そうはいっても少なくとも来年・再来年は大丈夫だ」と思っているあなた、そうしてずるずるいくうちに、起業適齢期は過ぎ去り、しがみつくしかなくなるのですよ。起業する自由を失うリスクを増大させているのですよ。 またリスクの定義を変えますが、安定してはいるが、意にそまない、充実感のない企業に属しているということは、「死の床について人生を振り返ったとき、自分の人生に納得することができないことを発見して絶望するリスク」をとりつづけているといえないでしょうか?これは、人生究極のリスクかもしれません。起業家人生はそういうリスクを徹底的に回避しているともいえます。
2004年07月18日
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第185回 「関白」対「源氏長者」 ~家康・秀吉 「姓」をめぐる知られざる攻防~平成16年7月16日(金) 00:40~01:23僕は、けっこう家系 家紋 姓 苗字 家相=風水について調査研究しています。以前、モットーの解説 1 Noblesse Oblige でのべたように、システム・アナリシス(systems analysis)やVA(Value Analysis 価値分析) の手法を、家系図調査に応用して調査した。その、結果 が、上記である。まあ、いってみれば家のブランディング研究であるそんな自分に、偶然にも第185回 「関白」対「源氏長者」 ~家康・秀吉 「姓」をめぐる知られざる攻防~を見れたことは本当にシンクロニシティーを感じる。テレビをつけてること自体稀なのに、その時間にNHKをつけてることはほぼないのにである僕はほとんど、アニマルプラネッツかディスカバリーチャンネル派なので。何をいいたいかというと、強いだけ(製品がいいだけ)ではダメで、ブランディング=ブランドの価値を高める活動が非常に重要であることを歴史的に証明しているのだ。 引両紋番組概要その時:慶長8(1603)年2月12日出来事:家康が「源氏長者」に任ぜられるどう動いたか:家康が武家と公家の頂点に立って徳川幕府を築いた名門貴族の養子となって「関白」の座を射止めた秀吉によって、家康は窮地に立たされた。国替え、出兵命令など秀吉の無理難題に忍従の日々を送る家康。彼が見つけた秀吉への対抗策は、「源氏」への改姓、そして官位を上げるという作戦だった。やがて家康は、「関白」に対抗する権威「源氏長者」へと近づいていく。「源氏長者」こそ、「征夷大将軍」と併せ持つことによって日本の国王としての地位を保証する伝統の権威だったのだ。家康はやがて、関白職を失った豊臣氏を滅ぼし、名実ともに武家としての天下を手中にする。一方で家康は「源氏長者」の権威によって、天皇家、朝廷を押さえ、江戸幕府の基盤を盤石なものにしてゆく。番組は、「源氏長者」という新しい視点から家康の天下取りを捉え直し、武力支配に代わる支配の正当性を「姓」に求めた家康の知られざる挑戦を描く。番組の内容について■ 「源氏長者」とは何か?・ 源氏長者とは有力貴族である源氏一門の中で朝廷から受ける官位が最も高い人物が天皇の任命によって就いた一門の長の役職。平安時代から続く。源氏の代表者として一門の官位昇進のカギを握った他、朝廷内で強い発言権を持った。・ 元来「源氏長者」の地位には公家の源氏が就任したが、室町時代に将軍・足利義満が武家から初めて就任。家康は足利幕府以来、武家としてこの職に就き、それ以後徳川幕府崩壊まで徳川将軍が代々「源氏長者」の地位も兼務した。■「源氏長者」は本当に家康を支えた権威と言えるのか?・ 今回の番組は、ゲストとしてもお呼びした皇學館大学助教授、岡野友彦氏の解釈に基づいて、武家の棟梁「征夷大将軍」と公家の権威「源氏長者」を同一人物が握ることによって、将軍職だけでは不完全な支配権を完全なものにしたという視点から構成しています。・ 「源氏長者」は元来名誉職的な役職。したがって「源氏長者」単体で政治的な実権を握れる訳ではありません。・ なお、「源氏長者」の研究は、まだ始まったばかりで定説はありません。詳しくお知りになりたい方は岡野友彦著「源氏と日本国王」(講談社現代新書)をご一読下さい。■「姓」と「苗字」はどう違うのか?・ 姓は天皇が上から与える形式をとる公的な名前。苗字はみずから私称する名前。・ 姓は父系制的な血縁原理によって継承されるため、父系に血縁関係をたどる氏人はみな同姓。苗字は家という社会組織自体の名であり、血族の名ではない。 (中央大学・坂田聡著「日本の中世」12『村の戦争と平和』 中央公論社より)■「源氏長者」の宣旨(朝廷からの命令書)は見られるのか? ・日光東照宮宝物館所蔵。公開はしていません。■「公卿補任(くぎょうぶにん)」(古来の朝廷の高官の名簿)は閲覧出来るのか?・ 今回の資料は京都府立総合資料館で撮影。申請すれば閲覧は可能。・ なお「国史大系」として刊行されており、図書館などで閲覧することも可能。■ 秀吉の官位について・ 「公卿補任」によれば、すでに秀吉は天正11年から従四位下として記録されていることになっていますが、近年の研究でこれは後年に偽造されたとされたもので、天正12年の小牧・長久手の戦いの段階では無位無官だったと解釈されています(池亨著・日本の時代史13「天下統一と朝鮮侵略」p.55 吉川弘文館)。今回の番組は、この最新の研究成果に則って秀吉を「無位無官」と表現しました。● 登場人物の言葉、エピソードなど・ 「われまた秀吉と矛盾に及ばば、東西また戦(いくさ)起きて、人民多くほろび失われん。しからば、天下の人民のためにわが一命をちらさんはなんぼうゆゆしきことならずや。」 (秀吉の上洛命令を受けて上洛を決意したときの言葉。「徳川実記」より)・ 「関東は年久しく北条に帰属せし土地なれば、新たに主を替えれば必ず一揆蜂起すべし。」(家康が国替えを命じられた頃の関東の様子。「徳川実記」より)・ 「国を治めるは魚を煮るようなもの。突いて形を崩さぬがよい。」 (領国経営の極意を説いた家康の言葉。「武功雑記」より)・ 「厭離穢土(おんりえど)、欣求浄土(ごんぐじょうど)」(争いの絶えない現世を離れ、慈悲の世界を求めるという意味の仏教用語。家康が元服の頃からの座右の銘)・ 「輝元に対していささかもって内府(ないふ)ご如才あるまじく候。」(家康方から吉川広家らにあてた密書の文言。家康は自らの官職である内大臣を意味する「内府」という表現で輝元より高い地位にある事を示して、寝返りを迫った)・ 「一戦に数万の凶徒を討ち滅ぼすこと、古今未曽有(みぞう)の武功といふべし。なんじ天下太平の政(まつりごと)を沙汰(さた)せらるべし。」(草津陣を訪ねた朝廷の使者の言葉。「徳川実記」より)・ 「天下が平和に治まるか乱れるかは、みな将軍の思いひとつである。将軍の心が正しければ世の人々の信頼は集まる。天下は天下のもの。先祖の道を守り治めれば、その繁栄は疑いもない。」(家康の言葉。「武野燭談」より)「源氏丸に三本の筋が入っている。中央の一本は、長子の印として義重に、両の二本は次子の印として義康に与える。これよりは両家の家紋とするがよい。」こうして二引両(ふたっぴきりょう)の家紋の足利家、大中黒(おおなかぐろ)の家紋の新田家が起きたのでした。太平記巻第十四新田足利確執奏状事より抜粋「加之義貞若宮の拝殿に坐して、頚共実検し、御池にて太刀・長刀を洗ひ、結句神殿を打破て、重宝共を被見し給に、錦の袋に入たる二引両の旗あり。「是は曩祖八幡殿、後三年の軍の時、願書を添て被篭し御旌也。奇特の重宝と云ながら、中黒の旌にあらざれば、当家の用に無詮。」と宣けるを、足利殿方の人是を聞て彼旌を奉乞。義貞此旌不出しかば、両家確執合戦に及ばんとしけるを、上聞を恐憚て黙止けり。加様の事共重畳有しかば、果して今、新田・足利一家の好みを忘れ怨讎の思をなし、互に亡さんと牙を砥の志顕れて、早天下の乱と成にけるこそ浅猿けれ。」訳:柳田 俊一さん鎌倉幕府滅亡後、新田義貞は鶴岡八幡(つるがおかはちまん:鎌倉市)の若宮の拝殿前で首実験を行った後、神社の池で太刀や長刀を洗い、あげくのはてに神殿に押し入ってその中の重宝を検分した。その中に、錦の袋に入った二引両(ふたつびきりょう:注1)マークの旗があった。(柳田注1)円い輪の中に二本の水平線を引いたマーク。新田義貞>おお、これはこれは! この旗はわが家のご先祖、八幡太郎・源義家(はちまんたろう・みなもとのよしいえ)様が、後三年の役(ごさんねんのえき:注2)の時に、戦勝祈願文をそえてここの神社に奉納された旗にちがいないぞ! ものすごい重宝じゃないか・・・ただなあ、中黒の旗(注3)じゃないから、わが新田家の役には立たん・・・惜しい事だよなあ、まったくう。(柳田注2)奥六郡(おくろくぐん:岩手県北上川流域一帯)を支配していた安倍(あべ)氏に対して、源頼義(みなもとのよりよし)が仕掛けた侵略戦争が「前九年の役(ぜんきねんのえき)」である。このとき義家は父親・頼義に従ってこの戦争に参加している。安倍氏敗北の後、奥羽一帯の支配者となったのは清原(きよはら)氏であった。やがて清原氏内に内紛が起こり、義家はその一方に荷担して内紛に介入していった。これが「後三年の役」である。JR奥羽本線には「後三年」という駅があるが、この近くで決戦が行われたらしい。(柳田注3)輪の中に一本の水平線を引いたもの(新田家の家紋)これを聞きつけた足利家の者が「ならばその旗、足利家に下さい」と申し出たのだが、義貞は旗を渡さなかったので、危うく両家は合戦に及ぼうかという所まで行ったのだ。しかしこんなことが朝廷に聞こえてはまずい、というので双方口をつぐんでいたのである。(注4)(柳田注4)足利家の紋所はまさにこの「二つ引き両」であったので、この旗をそのまま使える。新田家同様、足利家もまた源義家の子孫である。だから足利家としてはこの旗がノドから手が出るほど欲しい。「新田家で使わないのならば、こっちにくれたっていいじゃないか」と言いたいところであろう。このような対立が数多く起こった結果、新田と足利は同族としてのよしみも忘れ、互いに仇敵のごとくに怨みあうようになり、何とかして相手を亡ぼさんと牙を研ぎはじめた。このようなわけで、早くも天下に乱の兆しが見え始めた・・・実に嘆かわしいことである。このような背景があったので陛下の側近くにも足利家の事を様々に讒言する者も現れ、事の真相というものが陛下にも見えなくなってしまったのである
2004年07月16日
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