オシリス-イシス神話が、巷で話題のダビンチコードの法螺話に類似していることを、前回書いた。イエス=キリストや仏陀のような救世主の伝説を、研究してみると、確かに具体的な部分で相違がみられるところもあるが、このように、ストーリー面での類似点の多くが見い出されることに気がつくという。
イエス=キリストや仏陀等の救世主伝説が類似しているのには、訳があるという。
それでも、相違点を指摘したい者は、仏陀が天寿を全うし、イエスは、ゴルゴダの刑で死んで、霊的に復活した点が異なるといわれるだろう。
それらの相違点を超えて、救世主伝説が一致しているのには、実は深い意味がある。それこそ、イエス=キリストが、ゴルゴダで刑にかかる意味でもあるという。
太古の神殿で行われていた研究がある。その研究は、人類の進化論であり、救世主を生み出す理論体系だったのであるという。有体にいえば、神々から離れ、独立した人類が、再び神々のように、進化するには、いかに生きたらいいのか?という深い問いだったのであるという。ギリシア時代では、もはや、霊的に直接神々をみることができず、代わりに、神々は、人間のなかにある、永遠の命という形を取るものになり、人類のなかに、永遠の命を見い出し、いかに永遠の命を、輪廻転生を通して、育成していくかということが、課題になったという。
ギリシア神殿では、永遠の命の理論体系が吟味されるようになっていったという。
現代哲学は、いかに善く生きるか?という問いが基本にあるが、それはギリシア時代の、いかに永遠の命(魂)を見い出し、向上させていくか?が基になっていることがわかるだろう。
ギリシア時代以前の古代の、例えば、エジプトやバビロニアでは、自然のなかに、いかに神々を見い出し、それを形象により表すかという問いが基本になったという。
エジプト以前のカルディアでは、神々に敵対する悪魔がいるが、我々はいかに、神々に組し、悪魔を排除し、神々を見い出すのか?という問いが基本にあり、カルディア以前の、インドでは、この世は、マーヤ(幻想)であり、マーヤにとらわれずに、いかに天の神々を信仰するべきか?という問いが基本にあったようだ。
古代インドから現代まで、神殿で行われた探求課題を追っていくと、以下のようになる。
古代インド-幻想を脱却し、神々への信仰を見い出す。
→古代カルディア-神々への信仰のなかの虚偽(悪魔)を排除し、神々と共に生きる
→古代エジプト-自然のなかに神々は隠されていて、それを見つけ、法則として表現する。
→古代ギリシア-自らのなかに、永遠の命を見つけ、育成していく。
このような基本課題の移り変わりをみていくと、神殿の祭祀のなかから、救世主の理論体系が、構築されるのが容易に想像されるだろう。なんらかの神殿から分派した秘密結社というのは、そのような実践団体ともいえよう。神殿で研究されたものが、伝播されるにつれて、なんらかの具体性をおび、救世主の原型である普遍的理論が、隠され、消えていくのである。それらの多くが、神話として語りつがれ、わずかながらのその形態を残しているのがわかる。
神殿の賢者たちは、すでに、この普遍的救世主理論のなか、実際の救世主を、イメージだが理論的に、みていたといえる。
このようにギリシア時代に、神殿において、救世主理論が、全盛を迎えたとき、実際に、救世主イエス=キリストが、この世に現れ、神殿の賢者たちが称えた救世主理論を、現代の言葉で言うならば、実験ともいえるようなもの、つまり、実践を行っていったのです。
神殿の賢者たちが、救世主理論では、必然として想定され、預言されたことであるが、一般庶民には、まるで奇跡かのような、出来事を、そのひとりの男が、実際に、行っていったから、神殿の賢者たちは、驚愕したのでもある。賢者のなかで、イエスを、真の救世主だとするものと、救世主ではないとし、あくまでも秘密を守ろうとするものに分かれるわけである。そのどちらの立場であっても、一旦、死んで、復活するということは、必然であり、救世主として一致するところであるという。
キリストの敵対者は、救世主とは認めずに、それを行うキリストを抹殺しなければならない。キリストの従者は、キリストが、救世主理論にあるように、一旦、死んで復活する存在でなければならない。共に、キリストに現世での死を与えるのである。
これが、イエス=キリストが、十字架刑にかけられた理由のひとつであるという。
そして、救世主理論では、仏陀の死が第一の死であり、成仏は、神の入口、天国の扉であり、キリストの死が、第2の死であり、霊的復活を遂げる、天国そのものを想定していたという。
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