シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2007年01月22日
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カテゴリ: 神秘体験空間
 なんでも、あるある大辞典という番組で、捏造があったらしい。所詮、TVなのに、なぜそれほど、むきになるのかが、私には理解できないところである。TVのいうことを、真に受ける方がどうかしていると思うからである。

 関西テレビを訴えた、テレ朝の報道番組でもかつてヤラセがあり、NHKでもヤラセがあるし、何も今回が初めてではないだろう。ヤラセは謝れば終わりで、人々が忘れてしまえば、今度は他を告発でもして誤魔化すのだろうか? それでは、悪徳政治家とまるっきり同じである。

 しかし、TVは共通の話題になることが多いので、結構、TVのいうことを真に受けている人が多いから、「TVがこういっているよ」っと、ワザとらしくいうことで、その発言を利用することはある。わかりやすく、人を洗脳しやすいからでもある。

 TVは人類が悪徳を学ぶための一種の必要悪といえるだろう。

 大体、TVに出ようなどという目立とう精神からして、ガゼネタの匂いがする。なぜなら、真実や真相は、表に出ないからこそ、価値があるのである。そもそも、100%真実というものは、この世には存在しない。100%真実と言い張ることこそ、真っ先に疑わしいものなのである。

 これは、科学雑誌の場合はインパクトファクター(一種の索引件数)なるものになり、大学入試のいわば偏差値のような一種の架空の基準である。多種多様のものを、一緒くたに、点数評価する概念こそが、競争の原理に他ならない。遡ると、ダーウィンの進化論、人はサルから進化した説につながるのである。

 これらは、誰かが陰で、その評価基準を下に、人を物質化して、自己の立場を優越視することに利用している手口なのである。他を欺き、他の不幸の下に、自らの幸福を追求している悪魔の仕業といえるだろう。

 これらは「儲け話があるから、ちょっと乗らないか?」の勧誘の手口そのものである。振込み詐欺が巧妙化しているだけである。この基準によると、君は努力する必要があるといって、他を落としめるのである。ただ、ただ他の不安や恐怖を煽るやり方である。



 報道というが、報道が大衆を煽り、世論を左右し、何千人を地獄に送り込んできたか? 戦中の扇動報道の反省もないままに、前政権でも、無能な総理大臣を生み出した責任をもいまだ反省していないのである。一度問うてみるがいい。知る権利といいながら、被害者の神経を逆なでにし、何人もの人達を自殺に追い込んできたか?、考えてみるがいい。

 報道が使命というのならば、せめて一般サラリーマンよりは安い賃金で、なかばボランティアでやってみたらよいと思う。現実はさにあらず、一般サラリーマンの平均賃金の何倍もの給料を貰って、偉そうなことを言っているだけなのである。

 イラク戦争だって、煽っておきながら、戦場に派遣した報道機関は皆無で、現地の記者を雇って、お茶を濁す始末なのである。報道のうたい文句は何処吹く風といったところだろう。

 なにしろ、一方で、フィクションのドラマをやり、他方で、科学的な実証番組をやろうなどとは、人間で考えれば、どういう神経か、所詮、精神分裂病さながらの変節ぶりというべきものだろう。

 TVなどを信じる大衆がどうかしているとしかいいようがないのだが、残念ながら、日本国民はどんどんTVに流されている現状である。

 広告業界に資金を提出して貰った点で、制限が加わり、自由な表現なぞできるわけがなかろう。真実というのは、多くの人間に残酷さ、過酷さを与える性質をもつものだからである。

 報道は、道を報ずるという字のようだが、その道すらわかっていないのである。

 道とは、先入観に囚われない、独自の判断を築く助けになる情報である。モラルの確立である。

 人間いかに生きるかということを自覚させるものである。

 少なくとも商品を売ったり、流行を追っかけたりするものではない。

 それでは、単なる新興宗教と同じである。



 だから、TVのいうことなぞ、お笑い番組のように真に受けてはならないのである。こんな人やこんな出来事も世の中には存在するのだという特異事例の教訓にすべきものだろう。

 真に正しきものは、自ら人生を真面目によく生きることで、得られるものである。他に頼る気持ちこそ疑ってかかるべきものである。騙される側にも、一瞬の下心の隙があることを見逃してはならない。マスコミなど、騙されて訴えても無駄な苦労である。マスコミとは、生まれてこの方、ろくでもないことしか行ってこなかったからである。





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Last updated  2007年01月22日 23時08分23秒
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Re:TVと科学はもはや一種の新興宗教である(01/22)  
武侯仁従  さん
科学は一種の信仰になったとE・フロムが「悪について」で書いている。
私は科学を知るものは論理的であるべきで「身の程」を知っているものこそが、「科学者」といわれるべきだが、変な全能感をほとんどの科学者・科学従事者にはびこっているのが恐ろしい。まっとうな科学者は存在するが「優曇華の花」ほどに稀有だ。

>報道というが、報道が大衆を煽り、世論を左右し、何千人を地獄に送り込んできたか? 戦中の扇動報道の反省もないままに、前政権でも、無能な総理大臣を生み出した責任をもいまだ反省していないのである。一度問うてみるがいい。知る権利といいながら、被害者の神経を逆なでにし、何人もの人達を自殺に追い込んできたか?、考えてみるがいい。

日本は報道・マスコミと司法がなんら検証機関を持たないアンタッチャブルな「重危険性」な存在になってしまった。
マスコミは善も行ったが、悪も巨多に行っている。
あと自分のブログで「2チャンネル」も私は苦言を呈しているが、表現の自由や知る自由は大切だが、それだけに慎重に扱わないといけないが、その慎重さや「肌身の感覚」が少ないのが、恐い。
(2007年01月24日 12時31分45秒)

狂っているか。  
武侯仁従  さん
納豆・寒天にしろ、正気の沙汰ではない。てれびで放映されて、京都の「紅葉の穴場」が人まびれとか類似の愚行よく欲見聞する。

穴場自分で探してナンボですが・・・。

あー呆れます。再見! (2007年01月24日 12時35分09秒)

Re[1]:TVと科学はもはや一種の新興宗教である(01/22)  
5dolphin  さん
どうも現代孔明こと武侯仁従さま
 科学はなぜ一種の信仰になってしまったのかの根底に、知識が単なる信仰になってしまった背景があります。
 我々は、自分の内面の状態と、外界から感知可能な状態を、結びつけ、その状態結合の連鎖を、言葉として知識に置き換え、記憶しています。そこでは、もはや、言語の範囲、つまり、外界の感知能力に、知識は負っているといえるでしょう。
 にも関わらず、人間の内面は、外界とは大きく異なって、思考や感情、意志の状態をもつことができます。そのうち、外界と同一視できるものだけが、普遍的検証を通して、知識ツールの言語となるわけです。この言語表現からなる知識にいかに信頼性をもたせるかが、現代の課題といえるでしょう。
 かつては、知識が現実を生んでいたのです。なぜなら、端的にいって、人類は寝ているときも、いわば、いまでいう起きている状態でいれたからで(ただし、ボヤケタ感覚しかなかった)、霊的ないわば道徳ともいえる法則が、世界を支配していたからです。
 つまり、道徳の法則でいう真善美の知識がそのまま、反映したものになったわけです。善の意志がそのまま形となって現れたわけです。善いことを思えば、善い結果と現れるわけで、仏典でいう善因善果なわけです。 (2007年01月24日 14時24分25秒)

Re[2]:TVと科学はもはや一種の新興宗教である(01/22)  
5dolphin  さん
 仏教の説く教えは、端的にいえば、この霊的な道徳の法則に再び立ち返るために、再び霊的な言葉、真善美を反映した言葉を使うように心掛けようということなのです。
 つまり、科学が信仰になったのは、自然法則といういわば、嘘をもつけるような言葉を人間がもてるようになったからであるといえるでしょう。これは自然を外見的な力の作用、物体の機械的な動力学で模写して捉える抽象的な思考法が身についたせいでもあるのです。
 端的にいえば、信仰は堕落した意識である知識に帰するといえるでしょう。意識を向上させると、知識はもはや信仰でなくなり、実際、知識そのものが未来を構築する元の霊的な源になり、道徳の力の発現につながるものとなるはずです。
 このことが真の知識の存在、浸透する叡智である神々の存在と、太古にいわれていました。つまり、信仰は、知識という形に堕落してしまったのです。だから、太古では、神々の存在を否定することはそれこそ、天変地異よりも想像の及ばない絶対的なものだったのです。 (2007年01月24日 14時24分55秒)

Re:狂っているか。(01/22)  
5dolphin  さん
現代孔明こと、武侯仁従さま
 これからの科学の課題は、何をもって科学と定義するかだと思われます。いままでは、似非宗教があったので、それを山車にして、科学的という言葉が、権威をもったのですが、実は、科学の土台も、怪しく、統一見解もできていない現状なのですから。宗教では統一見解というのが話し合いである程度可能ですが、科学では、何をもって普遍的検証とするのか、これは人類の意識の問題なのです。科学は、自らを科学する科学が必要なのです。
 実は、このような問題に対する処方論は、宗教の顕教でよく現れるものに類似しています。常に統一見解を要請する必要があるわけです。 (2007年01月24日 14時43分10秒)

Re[1]:狂っているか。(01/22)  
武侯仁従  さん
5dolphinさん
>現代孔明こと、武侯仁従さま
> これからの科学の課題は、何をもって科学と定義するかだと思われます。いままでは、似非宗教があったので、それを山車にして、科学的という言葉が、権威をもったのですが、実は、科学の土台も、怪しく、統一見解もできていない現状なのですから。宗教では統一見解というのが話し合いである程度可能ですが、科学では、何をもって普遍的検証とするのか、これは人類の意識の問題なのです。科学は、自らを科学する科学が必要なのです。
> 実は、このような問題に対する処方論は、宗教の顕教でよく現れるものに類似しています。常に統一見解を要請する必要があるわけです。
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そうそう、科学は自身を検証する「科学」をもつことが必要ですよね。あと王陽明が「知識」を「わかる」という感触が必要で、それを体感することを重視しましたがね。
どうもそれが、ないがしろです。おそろしや! (2007年01月24日 17時14分19秒)

Re[2]:狂っているか。(01/22)  
5dolphin  さん
どうも現代孔明こと武侯仁従さま
 陽明学の王陽明に至るとは、流石、現代孔明ですね。学問を血と肉にしなければ、ガラクタといえるでしょうね。
 学問は他者を裁くものではなく、自らを律する、自己の器を開拓、確認する道具といえるのでしょう。
 現代の科学は、他者を裁き、単なる自らの欲望、金や地位等の欲求を満たすための道具になりさがっています。だから、平気で他者を騙す捏造などの巧妙な手口が生まれるのでしょう。
 これは競争原理が持ち込まれたのが第一の要因です。 (2007年01月24日 19時33分00秒)

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