シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2010年01月21日
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カテゴリ: 神秘体験空間
 一見、鉱物が破壊されたように見えるとしても、それは、爪の一部が切り取られて、有機(肉)体から切り離されるのと同じように、(地球という)大いなる有機体から引き離されているに過ぎない。鉱物の破壊は死ではない。というのも、鉱物は、自身で生きているのではなく、むしろ、鉱物を1つの構成要素とする大きな有機体のうちに生きているからである。

 もし、植物の本性に関する人智学の講義を思い出せば、植物もまた独立した存在ではない、ということが分かる。植物も地球有機体の構成要素だが、鉱物とは異なり、大きな有機体の一部というような形ではない(鉱物は、太陽系を含む大宇宙の一部だが、植物は、地球の一部という意味)。

 人智学的観点から言えば、個々の植物の生について語ることに意味はなく、むしろ、地球有機体について語るべきだが、それは、植物が、地球有機体の至る処でその一部になっているからである。植物の「死」については、指の爪を切るときの状況に似ている。「指の爪が死んだ」、とは言わない。植物に関しても同様である。

 何故なら、植物は地球全体に等しい大きな有機体に属しているからである。地球は1つの有機体である。それは春になると眠りにつき、器官である植物を、太陽に向けて送り出す。秋には、再び目覚めて、自らのなかに、植物を精神的に取り戻すが、それは、植物の種子を、(地球という)存在内部に受け入れることで行う。

 植物を個別の存在として見るのは無意味である。それは、たとえ個々の植物が枯れても、総体としての地球有機体が死んだわけではないからである。人間の髪が白くなっても、人間が「死なない」のと同じである。たとえ、白髪を、何らかの自然な方法によって、黒くできなくても、「死ぬ」ことはない。

 勿論、人間は植物とは異なる立場にある。しかし、地球は、白髪を黒髪に戻せる人間に喩えることができる。地球自体が死ぬことはない。萎れる植物の中に見てとれるのは地球の表面で生じている過程である。植物は萎れるが、それでも、植物が真の意味で「死ぬ」と言うことはない。

 動物もまた、人間が「死ぬ」ような形で「死ぬ」とは言えない。というのも、個々の動物は真の意味では存在していないからである。動物の集合魂が超感覚的な世界(霊界)の内部に存在し、真に動物といえる存在は、アストラル空間上において、集合魂としてのみ存在している。個々の動物は、その集合魂から濃縮されて出てくる。そして、その動物が「死ぬ」と、それは集合魂の構成要素として置かれ、そして、(同種の)別の動物に置き換えられる。

 だから、鉱物、植物、動物界において、「死」として遭遇するものは、見かけ上のもので「死」という幻想に過ぎない。現実には、人間だけが「死ぬ」。それは人間が個別性を発達させ、(自我が)肉体の中に下降するまでになっているからである。

 人間は、その肉体の中で、地上的な存在性を担うことで、現実的存在になろうとしている。「死」に意味があるのは、地上に存在している間の人間だけである。



 というのも、他の全ての存在たちにとって、「死」は見かけ上のものに過ぎないからである。それは本当には存在していない。もし、人間性を越えて、高次のヒエラルキア存在たちにまで上昇するならば、高次の存在たちは、人間的な意味において「死」を知らない、ということが分かる。

 (人間だけが、「死」を体験できる。)

 真の「死」、すなわち物質的領域での「死」を経験できるのは、物質空間上での存在性から何かを引き出す必要のあるような存在たちだけである。人間は、物質的な文脈の中で、自我意識を達成する必要があるが、それを「死」なしには見つけることができない。

 人間より下位のランクに位置する存在たちにとっても、上位に位置する存在たちにとっても、「死」について語ることに意味はない。

 他方、人間が「キリスト存在」と呼ぶ存在の地上における最重要行為が無効になることはない。実際、「キリスト存在」に関しては、ゴルゴダの秘蹟(「死」に対する生の勝利)が、あらゆる出来事の中で最重要な出来事であったのを見てきた。

 そして、死に対する、この勝利はどこで遂行されたのか?

 それは高次世界の中で行われ得るものか?

 そうではない!

 というのも、鉱物、植物、動物の領域での低次存在たちに関しては、「死」について語ることができないが、それは、これらの存在たちの真の存在(自我)が、感覚(物質)世界を超えた高次世界の中にあるからである。そして、高次の存在たちについて語ることができるのは、「死」ではなく、変容、変態に関するだけである。

 (高次の存在たちは、物質性をもたないために、「死」がなく、永遠に変容する存在なのである。)

 「死」と呼んでいる、生への切断が生じるのは人間だけである。そして、人間が「死」を経験できるのは、物質的な文脈の中だけである。もし、物質空間の中に入って行かなかったら、人間は「死」を知ることはなかった。



 もし、「キリスト」が死を通過するなら、物質空間に降る以外なかった! 何故なら、キリストが「死」を経験できるのは、物質空間だけだからである。

 (ニーチェの「神は死んだ」というのは、神は死なない存在なので、下降して、人間になり、「死を知った」という意味である。キリスト=イエスの十字架刑を、ゾロアスターが預言したことを記した。)

 このように人間の歴史的発展から、高次世界の現実(真実)が、マーヤの中で驚くべき形で働いているのを見てとれる。歴史的な出来事に関して正しく思考するなら、確かに、それは物質領域の中で生じているが、その源泉は精神世界の中にある、ということに気づくはずである。

 (ゾロアスターは、太陽をみて、太陽の黒点に気づく、太陽の黒点は、キリストという太陽霊が降下したことを示す。キリストが、地上に降臨する予感を感じ、ゾロアスター自らが、その受け皿となるべき、つまり聖杯になるべく準備を行い、実際に、イエスという人間に転生したという。そして、ヨハネの洗礼により、イエスは、キリストを降臨させた。)

 この事実はあらゆる歴史的出来事について言える。ただし、唯一の出来事を除けば!



 しかし、他全ての歴史的出来事に関して存在しているような(精神的な)元型は、ゴルゴダで成し遂げられた事柄に関しては存在しない。ゴルゴダの秘儀は物質領域の中でのみ生じ得た出来事だった。

 人智学はその証拠を提供することになるだろう。例えば、これからの三千年にわたって、ダマスカス(ゴルゴダ)で生じた出来事の新しい事例が多数見られるようになるだろう。

 この事実について、しばしば言及してきたが、パウロがダマスカスで見たように、人間は、アストラル空間上で、エーテル形姿の「キリスト」を見る能力を発達させるだろう。

 (高度の霊能者には地上で活動するキリストの存在を感じとれるという。)

 高次の能力を通してキリストを知覚する経験は、これからの三千年期を通して益々発達するが、それは20世紀から始まる。現代(1911年)以降、これらの能力は徐々に現れ、次の三千年期を通して多数の人々が身につけるようになる。

 それは、多くの人々が、「高次世界を覗き見ることで」、「キリスト」が現実であるということ(キリストが生きているということ)を知るようになる、ということである。多くの人々がキリストを知るようになるが、それは「キリストが現在も生きている」からである。

 多くの人々が、キリストが現在生きていることを知るだけでなく、また、パウロのように「キリストは一度死に、そして復活した」、ということを確信するようになる。けれども、この事実の基礎を、高次世界ではなく、物質空間上に見つけないといけない。





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Last updated  2010年01月26日 16時57分09秒
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