シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2013年02月05日
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カテゴリ: 軟弱日本を斬る!
 ネットでは、どうも体罰問題だけがクローズアップされ、悪しき方向に進んでいるが、部活での体罰と、日常生活や学生の学習姿勢での体罰では、意味合いが異なるのに、体罰で一緒くたに語るところが、体罰問題への理解力の貧困さを物語っている。

 まず、規則を守らないのは、社会では、違反者とみなされ、罰則が与えられることを明確にすべきである。罰則に体罰を用いるのかどうかが議論の分かれるところである。違反者本人が体罰を認めるのなら、体罰によって処罰することも止むを得ない。

 つまり、規則を無視して違反ばかりする、俗にいう不良に対しての体罰と、部活での練習態度に身が入らなかった生徒での体罰では、その意味合いは180度異なる。

 違反者となった本人に、理由を聞いても、なんらの反省の色がなければ、生活の監督者である親の責任となり、親の指導力が問題となるから、親を呼び出して、本人の代わりになんらかの処罰を下さないといけない。

 繰り返し規則違反する者に対しては厳しい態度で臨むのは、どこの社会でも同じである。教育の場であっても、業務妨害として捉えられる。体育教師が、生活指導として、その役を担当するケースが多いのだろう。そこで、厳しい態度に体罰を含めるのかどうか、であり、保護者が体罰容認者なら、その立会いの下で、体罰を行うのなら、問題とはならないはずである。

 最近の問題は、教師の指導力の欠如も問題だが、親の指導力の欠如にもある。経済が右肩上がりで育った世代の親が多いので、苦労知らずの世代ともいえる。特に団塊の世代は、自分たちの価値観を強要しようとする傾向にある。経済的地位に恵まれたのを盾にして、なかには、教師という職業を愚弄する拝金者さえいるとも聞く。

 教育における、戦前と戦後の大きな違いは、教師の地位だろう。戦前は、教師は尊敬すべき職業だったが、戦後は、子どもに最も身近な職業となってしまった。戦前の教育が決してよいとはいえないが、この日本という国のために多くの尊い生命を犠牲にしていった魂に対しては、尊敬の念を禁じえない。

 戦後の教育が荒んだのは、尊敬の念を若い頃の成長期に教えないことにある。だから楽して儲けようとか、インチキをして伸し上ろうとする輩の悪行が蔓延る。渡る世間は、罰当たりばかりで、神様への信仰心は皆無で、似非教祖ばかりの拝金教が流行る。

 体罰を行うことで、解決できるのなら、問題にはならない。戦前の教師は、尊敬されるべき地位だったので、体罰が罷り通ったわけである。ある意味、過激な思想だが、悪いことをすれば、殺されても仕方がないくらいの愛国思想が植えつけられていたわけである。



 日本の柔道には、そのような戦前の過激な思想体制が僅かながらに残っていたのだろう。それは大学の柔道部の話を聞けばよくわかる。似非右翼の思想も、この流れのなかにある。

 戦前の教師の神格化は、進駐軍に木っ端微塵に破壊されてしまった。

 その過激な思想体制は、経済発展とともに、占領軍に利用され、陰に隠れて歪な形となり、現代の部活での体罰として表面化してきた。柔道は、3S政策のスポーツとされ世界に紹介され広まったが、日本では、体罰だけが、戦前の思想体制として残った。

 そもそも柔道は、古武術の柔術を基に発展したヨガの一形態だと、私は解釈している。「柔よく剛を制する」というのは老子の文言でもある。「虎穴にいらずんば虎子を得ず」というように、相手の懐に入って、同化することで、内側から揺さぶる。オカルトの「柔らかい波は、硬い波を砕く」の波動の力学を用いた、土台から揺さぶる地震の原理を応用した術だ。

 柔道とは、相手の懐、つまり精神のなかに入って、内面から感化する術で、およそ上っ面の外面的なものではなく、体罰云々の肉体上の問題ではない。相手の霊魂に澱みがあるなら、それを肉体側から揺さぶる術なのである。

 いかに体罰で、相手を誅罰しようが、精神を感応させなければ、柔道とはいえない。相手に尊敬の念を起こさせる。相手に、「参った」、「悪かった」、「済まなかった」と思わせる。相手に良心や尊敬心、神仏心や宗教心を目覚めさせることが主眼である。勝敗云々ではない。

 だから、柔道は、日頃の心理戦ともいえる。あらゆる格闘技は本来は心理戦でもある。

 最低限、自分のした行為が、周囲にどのような影響を与えたのか、行為の責任の所在を理解させることが必要である。社会は、大勢の人間が、様々な価値観をもって暮らす世界なのだから、秩序やルールや仕来りを守ることが、平和に暮らすために必須となる

 秩序を守れる能力をもちながら、守る意志がなければ、社会不適格者となり、なんらかの保護監督下で暮らすしかない。

 柔道とは、精神の教えであり、本来、体罰とはなんら関係のないもので、武士の柔の精神論から発展した武士道に近いものである。 





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Last updated  2013年02月05日 11時48分02秒
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Re:ネット情報の活用法 その124(02/05)  
忠武飛龍  さん
体罰の問題の一因は「殴る側・指導側の恣意で、その刑罰の当否・量刑が、左右される」ということに思えます。

その法が明確に示されず、量刑が指導側の勝手に決めれる。

これは、法の公正さ・公明正大さを損ない、さらに指導者の尊厳を指導者が自分で貶めている行為なのですが、暴力で震え上がらせて、「沈黙」をさせているので、一度不満・義憤が吹き上がると止められません。

自律してない人が、処罰をするのですから・・おかしくなります。

再見! (2013年02月05日 11時41分38秒)

Re:ネット情報の活用法 その124(02/05)  
忠武飛龍  さん
>柔道とは、精神の教えであり、本来、体罰とはなんら関係のないもので、武士の柔の精神論から発展した武士道に近いものである。

柔道に「やわらの精神」など、今は見かけるのは無いと思えます。

やわらの精神・「道」は、むしろ、合気道とか太極拳の方こそ、今は残っていると思えます。

無論合気道も太極拳も「競技武術化」して、骨抜きになっている面もありますが、真摯に「道・実践的」なものを求めている人もたくさんいますし、柔道よりも「やわらの精神」が、活きているのは確実に思えます。

力を入れたら負け。と太極拳も合気道も。

太極拳の「捨己従人」は、ともとも柔道にもあったと思えますが、なにかそれを失ってまで「柔道」というのは、看板違いに思えます。

参考に
http://syugorei.blog24.fc2.com/blog-entry-440.html

http://yumetown.net/benriya/syaki-jyunin.htm

再見!  (2013年02月05日 11時48分55秒)

Re[1]:ネット情報の活用法 その124(02/05)  
5dolphin  さん
どうも忠武飛龍さま
>体罰の問題の一因は「殴る側・指導側の恣意で、その刑罰の当否・量刑が、左右される」ということに思えます。
>その法が明確に示されず、量刑が指導側の勝手に決めれる。
>これは、法の公正さ・公明正大さを損ない、さらに指導者の尊厳を指導者が自分で貶めている行為なのですが、暴力で震え上がらせて、「沈黙」をさせているので、一度不満・義憤が吹き上がると止められません。
>自律してない人が、処罰をするのですから・・おかしくなります。
>

結局、相手の心理が読めていないことが問題ですね。心は体を表すはずです。心を掴みとることが柔道でしょう。 (2013年02月05日 11時53分26秒)

Re[1]:ネット情報の活用法 その124(02/05)  
5dolphin  さん
どうも、忠武飛龍さま

>無論合気道も太極拳も「競技武術化」して、骨抜きになっている面もありますが、真摯に「道・実践的」なものを求めている人もたくさんいますし、柔道よりも「やわらの精神」が、活きているのは確実に思えます。
>力を入れたら負け。と太極拳も合気道も。
>太極拳の「捨己従人」は、ともとも柔道にもあったと思えますが、なにかそれを失ってまで「柔道」というのは、看板違いに思えます。
>
>http://syugorei.blog24.fc2.com/blog-entry-440.html
>http://yumetown.net/benriya/syaki-jyunin.htm

合気道、太極拳、柔道は、全てヨガの一派だと思っています。合気道は、主に幽体に、太極拳は、主に霊魂に、柔道は、主に肉体に作用して、心身ともに健康を高める術でしょう。
(2013年02月05日 11時57分14秒)

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