シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2013年03月01日
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カテゴリ: 軟弱日本を斬る!
 八切止夫作品集を読んでいると、現代の問題の歴史的経緯がよくわかる。例えば、いま体罰の問題が、巷で話題になっているが、それは、日本のスポーツが、ギリシア哲学を起源とする西洋のスポーツとは異なり、武道を起源としているからでもある。

 そもそも、オリンピックは、ギリシア哲学の場だった。オカルトでいえば、ギリシア哲学とは、全身全霊で、神々(の言葉)を表現することだった。だから、かつては、裸で哲学を行っていたのだが、だんだんと精神が腐敗するにつれて、全身全霊の裸ではなく、肉体の特定の一部しか動かさなくなって、弁論大会になり、哲学が口先だけの演説になってしまったそうだ。

 だから、本来の哲学とは、いまでいうところの全身の表現、ヨガやダンスや自由な体操だったのである。

 なにより、自由な動きや動作、所作を尊ぶ精神性のものだった。

 どちらかといえば、型破りなところを重要視したわけで、これは、中世に流行ったリベラルアーツの源流でもある。

 しかし、日本の武道は、これとは全く逆で、型を体得することに重きをおく。

 八切止夫作品集を読むと、なぜそうなったのがわかる。日本の武道は、実はニセモノで、日本の武道は、捕物だったことがわかるからである。

 ニセモノというのは、武というのは、本来、身体を動かすことで、精神向上を図るもので、肉体からの束縛の解放であるからだ。捕物でも、確かに極めれば武道になるが、捕物は相手を捕縛し、優劣をつけるという意味において、権威に従うので邪道といわざるを得ない。

 権威側に寝返った裏切りものが使う詐術なのである。いまでいえば、官僚言葉や、国民騙しのことを指す。



 ☆  ☆  ☆

武道は誰のために

 さて、これに対して被捕物側である一般大衆はどうであったかというと、天正16年(1588)に秀吉の刀狩が施行されたが、江戸期においては「道中差し」の名目で旅行用服装時に限り、帯刀は一般にも黙認されていた。

 そして幕末の天保から慶応にかけて黒船騒ぎや国内事情の悪化で護身用の目的から泥棒を見て縄を綯う如く武道が流行した。さて、こうなると極めて職業化され生計がなりたったから、プロが輩出したのである。

 「徳川実記」にもこの記載がある。そして、それに便乗して「本朝武芸小伝」「新撰武術流祖録」の類が木版本で後に刊行された。そして、さも戦国時代から何世紀にもわたって武道というものが隆盛を極めたものとしてこれをうたい上げた。だからして現代では相当の知識人であってもほとんどの人に、「江戸時代というのは侍は元より町人でさえ腰に刀を帯びていた。

 だから各地に道場があって、皆剣の稽古をしていたもの」といった概念があるらしい。それ故「道場の門弟が跡目を望んだり、道場主の娘を狙って争う」といった、武家に実際には有り得ない設定のものや(三田村鴛魚著「大衆文芸評判記」(中央公論文庫)参照)、「殿様の前で刀と刀の御前試合があった」、「15歳から町道場へ通った」、などという天保以前の太平の世では有り得なかった荒唐無稽さが、講談やテレビの影響で抵抗なく受け入れられているらしいが、もし一般大衆である被捕物側がそんなに武道鍛錬を励んでいるならば、これを逮捕する側が棒と十手だけで太刀打ちできたものだろうか。

 それによく「刀は武士の表道具」などというから幕末に輩出したプロは皆武士階級出身である筈と思うのだが、比較的知られている連中を挙げていっても、

 千葉周作=馬医者(猿飼部族)の家筋
 男谷精一郎=検校の倅
 斎藤弥九郎=商家の丁稚上がり
 土方歳蔵=日野・松坂屋の小僧

 浅利又七郎=千葉松戸・農業

 と、有名剣客で士分の身分の家柄は案外に誰もいない。これははたして何を意味するのだろうか。「本を買い込んでつんどく」のと「読む」のというのは違うというが、300年来刀を腰に差している階級から剣客が出ずに、他の階級からそうしたプロが生まれてきた事は、これは動かし難い事実であり、これまでの概念とは違い三代将軍家光以降は幕末まで各大名屋敷に「武術師範」と称された存在はない。また「何々道場」等といったものも、今では常識化されているが、実際のところ一般化されていたのは虚構ではないか。

 これは前述したことの反復であるが、忠臣蔵で有名な浅野内匠頭は、松の廊下で吉良上野に刀を抜き2度まで切りかかっているが、その「浅野内匠頭分限牒」には、播州赤穂三万五千石の家臣団が足軽小者から医師や女中の末に到るまで書き出されていて、「槍奉行」や「御膳方」「餅奉行」といった役職までずらりとあるのに、「武術方」「武道師範」というものは全然ないのである。

 講談で有名な高田馬場十八人斬りの堀部安兵衛も、分限牒では無役である。勿論安兵衛が内匠頭に師範をしていたら、まさか2度も刀をふるって擦過傷という事もなく、吉良上野を惨殺していただろう(あるいは他に理由があったにせよ・・・八切氏は、柳沢が浅野に吉良に抜刀させるよう挑発させたのだという。影丸)。すると赤穂義士の討ち入り事件も起こらず、忠君思想の宣伝材料もなく、その後の朱子学の儒臣も困ったろうと想われる。

 つまり、各大名家では幕末になって流行のように学校や塾を設立し、そこで武道鍛錬をさせたが、それ迄は公儀よりの叛乱予備罪の嫌疑を恐れてか師範など置いてはいない。



 では、存在していたのは何かというと、これは捕物側のものだけである。これはかつてGHQによって武道禁止をされた時、警察関係だけは特に許されて存続してこられたのと同じかも知れぬが、現在は群馬県多野郡吉井町になるが、昔は上州多胡の馬庭村で、そこに有名な「樋口家の馬庭念流」の大きな道場があって、江戸京橋太田屋敷、神田お玉ヶ池、小石川の3ヶ所に出稽古の道場まであった。といってこれは一般大衆の青年が習おうとしても行ける所ではなく、南町奉行所北町奉行所、小石川の方は火附盗賊改め番所の委託制で捕物の側の指南所であったのである。

 後に幕末に剣道が大衆化して今日の各種学校のように入学金と月謝で採算がとれるようになると、馬庭念流の樋口定伊は「矢留術」を看板に神田明神下から和泉橋通りに一般用の道場を進出させ経営にあたった。それまで馬庭念流が上州で長らく存続し得た理由は「岩鼻代官所御用」と「大江戸関所御用」の二つを拝命し、そこの捕物側の訓練にあたり、また出役に人手不足の時には、西部劇の補助シェリフの如く門人を出して代官御用を勤めていたからこそ、その道場はさし許されていたものである。

 つまり、武道というものは、権力に反抗する恐れのあるものとされていたから、伝承のように武士階級によって護持されてきたのではない。耐えずそれを役目柄必要とされてきた治安維持担当の捕物側によって江戸期には受け継がれてきた。

 明治35年刊の「日本武術名家伝」にも、はっきり「捕手は竹内流の小具足の中に起こり、我々より仕掛けて敵の不意をうち、これを捕りひしぐの術にて、関口流、川上流、一伝流らみな捕り方を主となし、制剛流も必ず捕手術をもって、その武芸の髄となす」とある。

 普通の概念でいけば、武芸とは「刀槍でもって相手を倒す事」と大衆文学的にどうも考えられがちであるが、それらは「武門の意地を立てるため」とか「剣の使命によって」などと、漠然とした曖昧模糊の観がないでもない。極めて非実用的である。

 ところが、そういう観念をかなぐり捨て改めて「捕手術こそ武芸である」とすると、治安維持上目的意識が明確になるし、これはは極めて実用的な技術であるから、捕縛方がこれに励み伝承する事にも、その意義が認められてくるというものである。今でも剣道の道場が何処にもあるのは警察ぐらいなものであろう。

 ☆  ☆  ☆

 というわけで、江戸期には、武士道はあっても、本当の武道はなかったことになり、江戸期の武道とは、捕手術であって、それは徳川幕府に反抗するものを捕獲し、処罰する手段だった。だから、幕府が認める武術以外は名目上あり得ないから、権威主義になるわけだ。 





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Last updated  2013年03月04日 09時03分11秒
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