シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2013年03月18日
XML
カテゴリ: 軟弱日本を斬る!
 八切止夫作品を読んでいると、歴史の通説が如何わしいものに思えてくるが、もはやどの話が刷り込みなのか、訳がわからなくなってくるから、とにかく鵜呑みは非常に危険であることに気づく。

 例えば、宮本武蔵などの歴史上の架空の人物などが、話をややこしくしている。確かに武蔵のモデルとなった人物はいたかもしれないが、どうやら、いまでいうところのアニメの主人公のような存在で、水戸黄門と似たようなものだったらしい。

 そのような人物として、八切止夫作品から、千利休が挙げられている。千利休は、千宗易なる人物に朝廷から与えられた名だということになっているが、八切止夫作品によれば、どうも若干異なるようである。

 千利休の「千」は、先住民の「先」を表すそうで、戦国時代の堺は、夷(エビス)と呼ばれていたそうである。そのような興味深い話を八切止夫作品にみつけたので、抜粋紹介する。

 ☆  ☆  ☆

 【千利休】    

 千利休(1522~1591)父与兵衛亡き後19歳に与四郎の名から千宗易と改名。

 家業の乾魚問屋をつぎ、25歳の時長男道安をもうけ、後同年生まれの少庵を連れ子にした宗恩と再婚。

 天正19年に大陸遠征の後顧の憂いをなくすため山上宗二につぎ、家元の彼も秀吉に殺され、妻宗恩も石田三成の兄木工頭正澄に蛇牢で拷問死と「兼見卿記」には出ている。



 それまでの茶というのは、足利時代から卓を囲んでの茶は、中国渡来の唐茶で、道具類もみな明国の舶来品に限られていた。

 それ なのに、堺の皮屋松屋らが始めだした新しい茶湯を、千の宗易が引き継ぐに当たって「ささら衆」と呼ばれるヤ衆の者らに、竹細工で茶筅、なつめ、花挿し、まで作らせて売り捌きもした。だから茶道具商売の者らが、「ただみたいな竹で作った物を高値に売りおっが、死ねば儲けもふい、利は休みじゃろう」と冷やかして死後に付けた渾名らしく、「名利共休」とか「名利頓休」等と苦し紛れの引用もされるが、これらはみなこじつけにすぎない。

 利休居士の名を下賜された旨が「顕如上人貝塚御座所日記」にも出ているが、後年の加筆であろう。伝奏役でそうした扱いの担当官だった公家の、「吉田兼見卿記」には一行も出ていない。

 つまり、世界に比類なき宗教的とも 言える日本独特の家元制度。それは茶道具で儲ける商売人や、その御抱え歴史屋が結託して、勝手に虚像を開祖にして神聖化しているだけの話しである。

 現代の差別被差別制度が一般化したのは足利後期からである。だから当時としては「御先祖足利尊氏様の創業に反対し邪魔した悪党共の子孫を区別地に入れてしまえ」となったから、明治までの未解放地帯には、菊水とか楠木、湯浅、新田、足助の地名が何処にも残っている。

 ドイツ人アドルフ・リースによって指導された明治史学は、楠木正成らだけをスター扱いにし、銅像にもしたが、俄か歴史屋共の悲しさで、その子孫や郎党の末裔の解明は全くなされていない。さて、十五代続いた足利時代にあっては、旧南朝の方の子孫だけでなく、反仏教派の神信心派が居た。「祇」と呼ばれる拝火教徒も同じ扱いをされ「えびす」として区別していた。

 堺は今でこそ町名が普通についているが、幕末までは一括して「えびす島」と呼ばれ、町割りは東西南北を上に付け、各町ともにエビスがついてよばれていいたのは古地図で見ると明白である。つまり幕末までは特殊部落の土地だった。

 さて、今で言う官途にこのエビスの者が就こうとすれば、後年の踏み絵のごとく、頭を丸められてから「ナムアミダ」をくり返し唱えさせられてから、その名も○○阿弥、というように転向者と判るように付けられた。それでも警戒されて武士には登用されず、活花、画師、などの無難な役目に限られていた。

 何しろ自由人として商売するには、官界に渡りをつけるしかないのは、今も昔も変わりない、まこと体制べったりでなくては生きて行けぬお国柄が、この国である。

 堺の者は別に足利家に仕えるためでなく、足利家の三好衆によって阿弥名を貰い、商売をしていた。勿論限定職業である。 利休とよばれる宗易の祖父にしても「千阿弥」だった。「同朋衆」と呼ばれたのは、えびすから常人扱いされ、彼らも同胞並になった衆との意味である。しかし織田信長の出現で世の中は変わった。下克上という世変わりである。

 近江八田別所出身の後裔で、拝火宗の多い尾張を地盤にのし上がった彼は、商売の権利をヤ衆にだけ許可し、三好衆庇護で勝手に商売している堺に対しても、蜂屋頼隆らのヤ衆を差し向けて、これまで勝手に商売していたのはけしからん、と今までの落とし前に二万貫の請求をした。



 信長も後に堺とマカオ間に硝石輸入のため、海流を利用して年一回の定期航路を開くぐらいだから、堺衆が竹で茶筅を作り出すと、次男三七の後の信雄に「茶筅丸」と命名している。己の前頭部が禿げ上がってくると残りの毛を棒のように立て、茶筅髷と名づけて流行させた。信長としては「天下布武」の計画に彼らの協力を得るための、同族間の信頼獲得の手段だったろう。

 信長が死に秀吉の代になると、利休こと宗易宗恩夫妻を叛乱予備罪で刀狩りの後で始末し、その与党を区別地へ押し込んだ。ゆえに今でも岡山当たりでは未解放地を「茶せん」とよんでいる。

 堺衆の者たちが、かって心ならずも、先祖が阿弥を名乗ったのを恥じらい、詫びの茶を始めたので、信長は自分も応用する事にした。(現代はワビ、サビの茶として権威あるものとされる。が、虐げられ続けた原住民が、悪党と罵られながらも武者働きして、一城の主になったり、商人として成功し、店の一つも持てる身分となった。祖父や曾祖父の頃までは山間僻地で苦労してきた、その頃を忘れぬように反省し互いに協力し励まし合うため、侘びしく静かな、先祖を偲ぶ寂しい茶湯。この精神がワビ、サビの由来である) なにしろ戦国の世である。

 かっては忠誠を誓い、長子新五郎に信長の重臣明智光秀の長女を貰い受けた荒木村重でさえ、美童の万見仙千代を信長が奪ったとなると、叛乱してくる時勢である。

 「いくら血判を押させたり、神祇誓文を呑ませても口先だけの忠誠など信用できぬ」と信長は茶室から逃げ出さぬようにし「にじり口」と呼ぶ狭い出入り口を考案して、忠誠を申し出て来る者らを集めると、「わしが点てる青茶を服すがよい」と試験をするのに応用した。



 つまり茶席が今も厳粛なのは、死の儀式でもあったからである。 亭主と呼ばれる側は茶をたてるだけで、「乾杯」と絶対に一緒に呑まぬのは、茶席に招くのはなにも互いに親交を温める為でなく、御馳走するのでもない。ただ忠誠心をテストする試験だからである。

 さて緑茶はそれ程には猛毒ではないが、胃腸疾患のある病弱者は死んだ。伊達政宗が小田原陣へ降参をし、忠誠を誓いに行った時も、先ず底倉で青茶テストをされたが、若くて元気がよく無事であったという。

 それゆえ始めは本家本元の堺衆は順繰りに、茶頭の亭主役から、かって阿称名を貰った者やその子や孫が服用し、時に胃弱な者が、それでばったり急性で倒れたりすると「たたりじゃ」と先祖に対するお詫びの茶の意義を強めた。

 信長を真似た秀吉や家康も風流や数寄ではなく、あくまで自己保全のための信頼テストに利用し、やがて武家社会に広まったのだ。

 「わが母は亡き後奈良帝の寵を受け身ごもって尾張へ戻って産んだのが、この秀吉である」と時の正親町帝に譲位を求め、皇太子誠仁親王が邪魔だからと、はしかと言う事にし急死させた秘話は、奈良興福寺の多聞院英俊が書き残している。

 しかし、天変地変が次々と続いて「故親王の祟りなり」と山科言経に言われた秘話は私の「真書太閤記」「秀吉と女たち」に詳細。 秀吉も十六世紀では迷信には勝てなかったのだろう。「やむをえぬ」と親王の忘れ形見の後陽成帝を立てはした。

 だが折角京の中心を取り壊し、己の新御所にと建てた聚楽第が無駄になるからとそこで秀吉は大陸進攻を考えた。

 ☆  ☆  ☆

 文字数制限を超えるので次回に譲る。





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2013年03月18日 10時08分03秒
コメント(0) | コメントを書く
[軟弱日本を斬る!] カテゴリの最新記事


■コメント

お名前
タイトル
メッセージ
画像認証
上の画像で表示されている数字を入力して下さい。


利用規約 に同意してコメントを
※コメントに関するよくある質問は、 こちら をご確認ください。


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: