シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2013年05月14日
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カテゴリ: 軟弱日本を斬る!
 八切史観が興味深いのは、従来の通説とは全く逆の発想が思い浮かぶからである。特に戦国時代の三英傑とされてきた信長、秀吉、家康像が、従来とは全く異なってくる。

 特に信長は圧巻なので、八切史観を抜粋紹介するので、従来の通説による洗脳を自らで解放してほしい。

 ☆  ☆  ☆

 郭ムソウの率いる先発軍は白村江大勝の翌年五月に御所に入ってくる。それで則天字使用令、後に漢学といわれる唐の文字のことです。つまり唐の字と書くと、非常にあたりさわりがあるから、さかのぼって漢字といいます。そして縄文時代が弥生時代に変わるんです。

 要するに石の斧と貝殻の刃物しかもってない日本原住民が鉄製の鉾とか青竜刀でアッサリやられちゃったからです。それで、これから鉄文化になるんです。岡山の方へ行くと、鉄がいくらかとれるというけど、いまだって戦前の八幡製鉄だって全部、大治鉱山から入れ、今の新日製鉄だってクズ鉄以外は全部が輸入でしょう。金はあったけれど昔から鉄資源はない。

 だから 足利時代というのは、金を輸出して、向こうから鐚銭(ビタセン)を同量もらっていた。 表向きは二百万枚ですけど、大正時代の僕等の子どもの頃まで、あの穴あき銭は使ったんだから、その十倍か百倍ぐらいじゃなかろうか。それだけの金がみな向こうへ行ったわけです。だけど、日本では金はまったく使い道がなかったわけです。まだハングリーの時代だから金じゃ飾りだけで実用に何も作れなきゃ何も出来はしない。

 さて、金がなくて倒産することがあるけど、金があって倒産するってことはない。処が大坂城は落城の時には天守閣には、竿金とか分銅金は山ほど天守閣が傾くぐらいにまで積まれたままで、あっさりと大坂城は金があったのに落城してます。

 足利期からの蜷川体制で、幕末まで箱根以西では金はカネではなかった。後には三島を境にして、西は三島から全部が銀本位体制だから、西鶴ものや近松ものはみな銀何匁とでている。

 信長殺しにしても本当の原因は、マカオ貿易のため金本位体制に変えようとした為で、蜷川道斎の姪が、謀反随一の斎藤内蔵介の女房で、やがて、その末娘が於福で後の徳川家春日局になる。

 さて浪人を集めたものの、金があっても蜷川の権勢でカネに使えず、大坂城三の丸まで、かしまから四条にかけての遊女を二万人ぐらい収容。というのは、金もって表へ出て行って、金では何も通用しないということがわかると、浪人たちがみんなやめていく気遣いがあるから、大坂城の中で金が使えるようにしたのが大遊郭を作った理由で、大坂城は広いから出来たわけです。

 が夏の陣では外濠内濠も埋められたから遊郭は廃止。それで落城。従来の日本史は肝心な貨幣制度をカネとは阿堵物とでも卑しめる精神からか無視してかかる。それゆえ判ってもよい事が、さっぱりわからない侭なのであります。

----下克上のいわばピークに立ったのが織田信長とみれば、かなり荒っぽく、その既成の体制を破壊してますね。だから、藤原体制とか、御所の権力の側もかなり恐怖に陥ったでしょう。

----信長は、天下布武を一つの旗印に富士王朝復活をイデオロギーに、近江王朝の昔に戻そうと安土城を建てたんでしょう。何も記録は残っていませんが、いまでも織田信長のことをみな前右府などとの言葉を使うけど、天正六年に内大臣をやめたあと、天正七年に右大臣にされたけれども、半年でこれもやめ、それ以降は藤原体制に反撥し無位無冠になっていたわけです。

----信長は、律令体制の根幹というか土台をひっくりかえそうとする意図はあったんでしょうか。

----これは『フロイス日本史』にも出ているように、安土から京都までは幅四間の12メートルの軍用道路をつくって、もし藤原体制が背反すれば三時間で京都へ入れるようにしていた。だから、山科言継の日記をみると、天正十年五月二十九日に京都へ信長が早駈してきて本能寺へ入ってくると、真っ先に疎開したのは、誰あろう御所の女御たちです。大変事が御所で起きるだろうと周章狼狽したのでしょう。女御たちが衣装を牛車に積んで次々と逃げだしたくらいだから、至上も遭難をなされる筈だったと想像できえます。



 後に幕末の蛤御門の変の際、松平容保が御所を警備するために入ろうとした。彼は孝明天皇の非常に信任が厚い守護職。仙台というところは多賀城の後で中華系だから御所とは近い関係です。それでもなおかつ絶対に御所に実弾をもち込んじゃ困ると、公家衆はこぞって阻止したくらいです。当時の信長のデモは大変なものだったようです。

----僕は八切先生の歴史学というのは、やっぱり戦国時代ですね。ここに狙いをつけたというのが、僕はすごいことだと思っているんですけれども、やはり当時来日していたイエズス派史料の裏付けがあったからですか?

----日本史の裏づけになるものは魏史倭人伝に「契丹日本史」[日本シェル出版]と、戦国時代に日本へきていて本国へレポートを送りつづけていたイエズス派資料しかなく、「不可思議な国ジャポネ」で歴史学博士ケントの本を訳していますが、なにしろ錦県から引き上げてきた安土というところは当時は国鉄の駅があったけど、旅館がなかったんです。

 そこで總見寺に泊めてもらったんです。約一ヵ月おったんです。そうすると、夜の明け方か夜中に、ドカッと本堂の方じゃなくて、僕の寝てるところの縁側へ大きな肉の固まり、当時は貴重品です。同じように銀シャリと呼ばれた白米がドカッと置いてあるんです。食料不足の終戦時ですから薄気味悪くて、ある時、目ざとく追っかけていったら相手は何も言わないんですよ。

信長さまがあんなお寺に祀られる筈はない。 だから信長さまのお供えは、本堂へ出したくないから、彼処へみんなが置いてくるんだと、うつむいたまま早々に言い残して足早に立ち去った。

 物資不足の折柄、有難い話だが気味が悪くなったものの、今考えてみれば 反仏派の居付き部落からの密殺した牛や馬の肉で、米もそれとの交換品らしかった。 まぁ信長教といったものが彼らには根強く残っているようだ。

 前の戦争中に、またも負けたか三師団という言葉があった。名古屋の兵隊というのはあまり強くはないんです。 名古屋や京都の兵隊は昔から弱い兵隊で‥‥永禄四年から永禄六年まで三年間も戦争をやっても、美濃が落とせなくて、奥さんの奇蝶の実父の故まむしの道三のお陰で、謀略戦術で美濃三人衆を帳略買収し占領したぐらいです。

----近江の八田別所の出身で平氏であるから原住系であるとお書きになってる。あれはどういうことですか。普通われわれは越前の織田庄の出身だというふうに、普通の本には書いてありますけども。くい違っています。

----それは勝手に書いているので「上織田」と、斯波家に仕えていた前からの織田が本家です。信長の方は父信秀も勝幡城の城番に登用された時は八田信秀で、織田姓になったのは賜姓です。八田というのは弁天涯の、あの一帯をいまでもあのへんに住んでる人のことをヤッタモンっていうんです。

 安土城を作った弁天涯の絶壁八田なんです。越前から出るわけはなく下織田とよばれた信長は近江です。だから後に、信長が殺された後は、あそこの連中たちは追われて、近江乞食っていわれるんです。

 太田亮の『姓氏辞典』なんかみると、加賀に入った藤原氏が加藤であるとか大真面目に書いていますが、京をかためるのに精一杯の進駐軍が、わざわざ雪深い加賀へはゆきません。 浄土宗が加賀に入って一向宗道場を作った時の作り話です。

語源は簡単で仏教が浄土で上等なのに、反仏教徒のアウトローは下等の意味です。 なにしろ漢字は郭の時代から、みな当て字で自由に勝手に付けているので、文字通りに読んでゆくと、日本の歴史は、まったく判らなくなってしまいます。

 ☆  ☆  ☆

 というように、以前にも紹介したが、信長は米国でいうなら、アメリカ先住民のジェロニモのような存在といえる。





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Last updated  2013年05月14日 16時03分49秒
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