シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2013年12月19日
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カテゴリ: 軟弱日本を斬る!
 前回の続き。

 ☆  ☆  ☆ 

世良田事件

 この事件は、徳川幕府崩壊後、初めての反徳川騒動である。徳川家は、明治三十年になって、徳川の由緒正しさ、出自の正当をことさらうたった「松平記」を創作して配布した。そして村岡素一郎の「史疑徳川家康」が出版されるや、徳川公爵家の権威で内務省警保局によって買い占めや発禁処分にし、この事件にも、ほおかむりの知らぬ顔を決め込んだ。よって今では隠匿され忘却の彼方である。

群馬県、上州新田庄世良田郷というのは、今も「徳川」の地名が残っている、昔は特殊村落である 。

 権現様(家康)は此処の出身だから前名は世良田二郎三郎を名乗り、代々新田の長史である岩佐家の系図を「お借り上げ」と称して召し上げ、その代わり岩佐家には新田郷の人頭税を取ることを許可した〔この新田家は幕末まで続き維新後は男爵となる〕此の地の人間は絶対に農耕をしないので、富裕ではないが「恐れ多くも此の地は神君家康公の生誕の地である」と、家康の御威光によって、近村から上納米を徴収して幕末まで徹底的に搾取してきた歴史がある。

 さて、現代でもこうした特殊村落出身の成功者ほど、その出身を隠したがると、いわれる元祖は徳川前公爵家かも知れぬ。勿論、家康の血統の尾張の継友を毒殺して、その弟の宗春の子供も一人残らず仕末し、すっかり根絶やしにして、三代家光からは朝鮮の血を引く徳川に変貌したせいもあるが、臆面もなく堂々と、「徳川家康は松平蔵人元康の改姓名」とするような徳川神話を作った。

 これは、皇室の藩塀たる華族会長の徳川の祖先が、特殊村落出身ではまずいということで、誤魔化しの発表である。故山岡荘八がその現代語訳の大河小説「徳川家康」をそっくりそのままで書いているので、今では松平元康=徳川家康が通説となっている。



 「よくもこれまで何百年も徒食していたな」と、積もりつもっていた積年の恨みが爆発して「二千の近在の者が、僅か二十四人しか住んでいない処へ乱暴して仕返しをした」のが、この世良田事件なのでである。

 此の事件で、徳川公爵家は見舞いどころか、全く我関せずと頬被りした儘なのが後の差別問題にも大きな影響を与える結果ともなったのである。そこで世良田徳川の者は鬼石やその他近くの部落に応援を求めて竹槍隊を組織しこれが全国水平社運動の始まりとなるのである。

【紹介者・注】

 この一事をもってしても、松平元康が徳川家康だとする説は嘘だと いうことが明白である。ここで留意したいことは、特殊部落から出て世間で立身した者はその前身を隠したがるのか、同じ部落出身者を酷く嫌う。現代でも有名な某会社等も、新入社員は興信所で身元調査を徹底的にさせているし、他の同じ部落出身の社長の処も会社側が極度に嫌っている。

 『此処で誤解のないよう断っておくが、差別を容認したり助長するのが目的でこの文を書いているのではない。むしろ全く正反対で、謂われ無き差別は、歴史を正しく理解すれば解消される、という立場だという事を強調しておくものである』

 徳川家も家光以降は、此の傾向の先駆であって、臭いものには蓋をしたがるゆえ有名な「三河風土記」は沢田源内の偽作であるし、大久保彦左衛門の「三河物語」は初めのものと大きく変わって、これも家康神話に迎合して彦左衛門の子孫が加筆した偽作である。

 何しろ「人間の一生は重荷を背負って・・・」の遺訓が、明治になって勝海舟らの旧幕臣らによって偽造された。が、これは「そんなことは嘘だ」と尾張徳川家ではバラしている。海舟にすれば、幕臣なのに、自分はいち早く徳川を見限り、新政府に巧く取り入った罪滅ぼしか、徳川家のための最後のご奉公だったのだろう。

 徳川家は小田原合戦後、それまでの三河遠江駿河を取り上げられ、関東に移ったが家康は世良田徳川の出身だから、同族である関東の地侍もみんな召し抱えた。領地が三倍に増え人手不足もあったろう。

 尾張の三河は、一向宗一揆の名目にはなっているが、国中が家康を目の敵にしたから、家康は生涯で半月も岡崎城には居らず、いつも浜松城にいた。だから、「三河譜代」と言うが、家康が召し抱えたのは関東の三河島衆のことで彼らを片っ端から旗本として召し抱えたのが本当のところである。

 「野史辞典」に、尾張三河の旗本は一家のみと出ているのはこのためで、旗本八万騎とは全部が三河島の地侍である。だが現地採用の彼らに箔をつけるため尾張三河出身と変えたのか、講談で誤られたか、広められて武鑑すらも間違えている。三河岡崎が家康の出身地なら、徳川家の直轄にする筈だし、家臣の水野五万石にするはずはない。

水平社運動



 江戸時代までは百姓は寺人別帳、町人は町人別帳として、それぞれの人口把握はなされていた。しかし、これらの何れにも属さない限定地に住む日本原住民の数は把握されておらず、この当時、お上は数十万人と軽視していた。所がそれは家長のみの数で、大正時代にはいると自らエタと誇らしげに叫ぶ原住民でさえ三百万。

 まだ身元を隠して都会などに流入している潜在人口を推定すると二千万に近いことが判明した。そこで叛乱を恐れた政府は慌てて「大和同志会」なるものを官費で各地に作って懐柔策に出た。この時出獄してきた松本治一郎が水平社を作り、小学校での差別や各企業での故なき解雇に対して、むしろ旗をたてて、人間は平等なり、の戦いを開始した。

 これが日本労働運動の嚆矢である。こうなると政府としては「大和民族は単一民族なり」とする看板に傷が付くのを怖れ、時の山本権兵衛内閣は己も同系の出身なのにも係わらず、国家機密費をもって、金で動く右翼を作り、それによって水平社退治を全国的に官憲の応援のもとでやらせた。

 「水平社運動史」の血生臭い各頁を見れば出ているが、縄文時代さながらに、竹槍で対抗する水平社の闘志に対し、日本刀や散弾銃、時には軍隊払下げ銃の右翼各団体が、一部落つぶせば何百万円の懸賞で襲撃した。当時奈良から岡山にかけては、殺されるのを恐れて部落民が各地区から次々と逃亡が続出した。

 妙な話だが、博徒系の右翼団体は歴っきとした日本原住民なのである。それか゛大正時代になってもまだ「夷をもって夷を制する」と藤原時代そのままで、金でつって戦わせたものらしいが、全く金が義理のこらえ性のない奴隷根性の民族性である。



 終わり

 引用参考文献・八切止夫著「天の古代史研究」、「謎の徳川家康」、幕末確定史資料大成・宮武外骨著「明治密偵史」日本歴史資料集大成明治史学会雑誌、松平記、徳川合戦史資料集大成

 ☆  ☆  ☆

 非常に面白いのが、以下のような自業自得のカルマが働いていることである。

 信長は今川義元を桶狭間で騙まし討ちし、天下統一を目指したが、今川領地の駿河で、被差別されていた家康により、本能寺の変で騙まし討ちにされる。

 家康は元康に成り代わるために、築山と信康と殺害するが、そのことで信玄により攻められ、信長にも疑われ、信長に狙われる前に、殺害を計画する。

 秀吉は、本能寺の変の後、事後収拾していた明智光秀に謀反の疑いをかけ、山崎で殺してしまい、光秀の将軍より上位の太閤となり、部落民であった日頃の境遇の怨みから大陸制覇に乗り出すが失敗し、大野治長と、織田の血をひく淀の子の秀頼に豊臣政権を譲り死ぬが、家康により滅ぼされる。

 家康は、斉藤利三を使って、信長を騙まし討ちにし、天下をとろうとしたが、秀吉に知られ、秀吉が死ぬまで、秀吉の奴隷になり、結局、本能寺の変は明智光秀がしたことにし、秀吉の死後、豊臣家を滅ぼすが、自分の子と思っていた家光が、明智光秀の孫の天海の子で、利三の娘春日局に徳川幕府は乗っ取られる。

 以上をみると、他人を使う者は他人に使われ、他人を騙す者は他人に騙される、ことがわかる。この世では勝ち逃げはできないようになっていて、カルマの法則が存在することに気づかされる。貸し借りがチャラになるように人生はできているようである。

 カルマの法則から考えれば、勝ち逃げはありえないから、歴史上の人物の伝説が嘘で、その実像があきらかになる。人は人の下に人をつくるが、天は人の上に人をつくらない。 





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Last updated  2013年12月19日 12時07分18秒
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