シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2014年05月02日
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カテゴリ: 軟弱日本を斬る!
 前回の続き。

 ★  ★  ★

 さて家康も部落解放だが三代家光から反対になった徳川だが、松平元康ではない世良田の二郎三郎が松平元康だと偽って、守山崩れで元康が殺されたあと築山御前から頼まれ、人質になって熱田の加藤図書頭のところへ行っていた後の岡崎三郎信康を、清洲城へ受け取りに行った時に、熊野権現の誓書を書いて、信康を取り戻すために彼は松平元康として欺き通した。

 しかし家康は信長に露見していると後には気づき、何事も彼の言いなりに臣従したが、天正十年五月には、許しを乞うため首代として金五千両をもって安土へ行った。

 しかし信長は許すといわず京へ送った。だからカリオン神父は六月二日早朝に本能寺に集まった一万三千の丹波兵は、家康を討つためだといっていたと本国へレポートを送っている。もちろん家康も戻された黄金を斉藤内蔵介にわたし、五月二十九日の夕刻に信長が上洛するや挨拶にもゆかず即刻京を逃げ出している。堺から船で逃げようとしたが、堺の政所松井友閑にとめられ、やむなく伊勢のカブト山越えに服部半蔵らに守られ白子浦まで逃げ、渥美湾へでて本国へ戻り、すぐさま兵を集め斉藤内蔵介救援の軍勢を、酒井忠次を先手にして津島まで出しているのである。

 しかし秀吉が早手廻しに光秀の娘婿の細川忠興の山崎円明寺川畔の勝竜寺城で、まんまと瞞し討ちにして光秀勢を始末し、京に入ると、謀反随一の斉藤内蔵介を討ちとった。

 まぁ和平交渉は相当早くしていないと、六月二日に本能寺の変があった翌日に、備中高松を開城させられぬ。早々に姫路城へ戻った秀吉が、どうも信長殺しの黒幕としては、やはり臭い‥‥と言われたのも、あまりにも早手まわしのせいである。

 明智光秀が庇っていた時の正親町天皇の後継ぎの誠仁親王を秀吉がホウソと称し殺したと、「多聞院日記」の中にも明白にでている。そして、である。

 今までの御所では狭苦しいと京の中央の人家や社寺を取り払って豪華な聚楽第を建て、己が新御所とし、自分は後奈良帝の遺児なりと帝位を求め、自分が日本国は統治するからと、兵を出し中国を征服して、御所にはお里帰りをしてもらおうと進言し、御所には中国の中央にて四ヶ国、各公家にも、それぞれ一ヶ国ずつ進呈しますといって‥‥承認をうけているのです。



----中国よりの藤原政権に苛められた仕返しだと思ったんでしょう。フランシスコ派から新開発のチリー新硝石を入手できるものと九州の名護屋で自分も渡海するため待機していたんです。

----中世の仕上げをなした権力者は、三人ともアプローチは違うわけですか‥‥

古代史解明の必要

----日本シェル出版で刊行している「徳川合戦資料集大成」の中に全文収録されている処の、根岸直利の『四戦紀聞』によれば、信長が桶狭間でしたのは裏切りです。和平交渉が進んでいるのに裏切ったんだから、この時の生き証人は佐脇甚八、山口飛騨守らの側近の四人だが、全部、第一線にもってゆき棄て殺しにしようとしているのに、彼ら四人は気づき、家康のところへ逃げ込んだ。

 信長には弱みのある家康は、いざという時の生き証人として彼らを庇護したわけです。ですから、高天神城合戦の時などは、信長はいくら求められても援兵を出さずゆえ、この四人を仕方なく家康は第一線へ出して殺してしまって、はじめて信長は生き証人の四人が死んだのを確認してから、ようやく本腰を入れて長篠の合戦で、武田方を三段構えの鉄砲隊で信長は討ちとり、家康の味方をして勝ってのけたのである。

 秀吉は後奈良帝の遺児と自称した程ゆえ千の宗易に味方するササラ衆を「茶せん」とし部落へ収容したけれど、信長に次いで部落解放を部分的だが敢行したのは家康であったといえる。

 このことの裏づけとして、小田原征伐後関東へ移された家康は、江戸の荒川というのは、現在の川幅の四倍ぐらい大きい川だったわけで、そこの中州島には武蔵七党のくずれ、つまり騎馬民族の「四つ」の三河島衆が前述のごとく何千と押しこめられ居付限定地の橋のない川の処だった。

 領地が三倍から四倍に増えて、人手もない時だから、これを全部、御家人とか旗本にしたわけです。『野史辞典』をみると、三河譜代は太郎左と与五郎の二人になっている。これはいつの間にか、三河譜代というのは島の字を抜いたせいで、本当は江戸創業に働いた三河島譜代です。

----最初に『日本原住民史』という本をお出しになりましたね。それで、公けの今までの歴史に対し、日本原住民史というのがあるんだということを打ち出された。最初はこんがらかるから、白対黒という一つの対立として出したけれども、実は白といっても、原住民の中には白と赤と、それから雑色とかに分かれるのですが‥‥そうなると、日本原住民の中の最も純粋な、最も頑強に抵抗したのがサンカという‥‥ことになるのでしょうか。

----それを庶民と分けて、日本純民と名付けたわけです。今でこそ、庶民は容貌が落ちるからとか何とかいって、子供一人か二人のところが多くても、総人口の八割五分おるけど、片っ方は十人以上の子供を作っているわけですから、何年かたてば比例は違ってくる。

 だけど、かつてナポレオン戦争の時にオランダがナポレオンに負けて、世界中どこにもオランダの旗は立っていなかったのに、日本の出島だけがオランダの旗を立てていた歴史があるが、唐が契丹に滅びても、唐は藤原氏として、日本では厳然たる勢力を発揮しておったのです。



 だから田原藩の家老渡辺華山が、「慎機論」や「西洋事情御答書」を書いて、蛮社の獄に連座して割腹。つまり半島全体が、江戸時代にあっては特殊地でした。それに、家康四天王の大久保一族の出身地で半島の中間にはバス停で兵助畑っていうのがあるんです。大久保彦左衛門が若い頃、女の子を引っ張ってレイプしていた畑だといいます。

----兵助というのは大久保彦左衛門の若い頃の名前ですか。講談で有名なので、バス停留所名‥‥

----日本では古代史はテレビや芝居であまりしないから、判らぬ侭で今になってます。

 が書かれているからといって全然ひどすぎるものが多い。徳川時代の朝廷の歴史を書いたものに『皇統紹運録』という本があるけれど、これは監督官庁の京都所司代の検閲のものだから全部デタラメです。「謎だらけの日本史」[日本シェル出版]の本に詳しいけれど、華族令が出た時に、畏れ多くも明治大帝が、華族は皇室の藩屏なりと仰せられ、為に徳川時代の歴史は何ひとつ解明されず、みな嘘ばかり今もまかり通っている。

 明治の歴史屋は華族さま御抱えゆえ解明もしてない。ローマのバチカン法皇庁の法皇みたいに至上は今では象徴でいらっしゃるから、たとえば自民党の世の中だと自民党の天皇でいらっしゃるのは仕方のない話です。



 といって、またアトムを落としてしまうよりは、アメリカの国益のために活かして使おうとするのだろう。そのうちには海外派兵も命じてくるだろう。敗戦国民ゆえ「ノー」とはいえまい。その時に、まさかアメちゃん万歳と叫んで死んでゆけぬ。どうしても昔通りだろう。

 今は敗戦の結果、国ぐるみでアメリカの奴隷だが、日本の古代史をよく見直せば、やはり、原住民古代史は、どうしても奴隷史といえよう。となると、せめて外国の為に戦死せねばならぬ者たちの為にも、隠さない真実の日本の古代史を、よく知っておかない事には、殺される日本人の彼らとしても、どうしても、やはり死んでも死にきれまい。

 さて、「クダラにあらざれば人にあらず」とされて、今でもクダラヌ奴とかクダラナイ事とされている桓武時代は、みな金大中の全羅南道の百済だが、周防とか安芸のように岡山に接近している中ツ国の近くは、魏の時代に多く移ってきた中国大陸人に接収されたから、大内の多々良も鉄屑精練をしていたことで大陸系であるが正しい。

 なにしろ皆だれも黄色人種ゆえに区別をはっきりさせるのは、当て字の逆転しかないだろうとは、タタラを踏むの言葉からの考究である。

 皇国史観の頃は、えらいさまの歴史ばかりなので帰化族などといっても、日本列島にきた進駐権力に対して帰化帰順したのが正しく、白村江の戦いで母国を喪失してしまった百済人らがそうで、彼らは忠誠を示そうと高麗系新羅系を蕃族と日本原住民を追討目標にして人間狩り。

 よって高麗系は遥か昔の移住では日本書紀に合わないというのが、これまでの日本の古代史である。それに五代将軍の徳川綱吉の神仏混合令によって生まれた吉田習合神道が、異也を夷也としてしまった。が、今では稲荷で、狐とされている。伏見稲荷の神官荷田春満は出府して、赤穂の討入りを当局のヤラセとはみずに、加担するようは反体制志向に走ったのも、やむにやまれぬ原住民の血の流れであるといえよう。

 つまりこれまでの古代史はみな作為されている。

 また淀川畔に幕末まであった淀姫宮の御神体はサマとワカとオノさまの御三体で、貝原益軒の紀行文には、淀殿と秀頼と大野修理の木像三体が、ご神体として信仰をあつめているとある。いわば、この信仰は女上位の原住民のもので、オカミのいう賎民の臭いがつきまとって興味深い。同時に信長は部落解放をしたが秀吉は部落差別を非常に強化したゆえ、淀どのは大野修理の子をうんで、日本原住民系の世にしようとしていた謀みでもあったわけらしいとみられます。

----部落出身の人は出自を隠すためか部落の人を非常に嫌うものです。いま何とかリサーチとかいうところで、部落別の判る本を何万円で売ってるとかっていって、騒ぎまくっているが、部落出身の社長は、絶対に己が会社には部落の人間は採用したがらぬ方針のゆえだそうです。

----前の己が素性を隠したがるわけです。しかし案外と民間では随筆などで明記しているようです。初めは部落解放をした家康も、大坂落城後は豊臣一族の再起を恐れ死期が近かったせいか、主だった生き残りを集め、九州に「豊臣松園」といった新しい部落さえも作っています。

 さて、蘇民将来すらも訳もわからずに、俳句の季題にさえも奇麗事にされて今は入れられている。が、それならば伊勢二見ヶ浦の「蘇民将来 来福之守」などという御札は、現代でも配布されていて、伊勢市の各戸の入口に掲げられ出ている筈はないのにも気づかないらしい。

 「蘇民将来とは、後に源氏系になる蘇我の民の後裔をさすもの」と、真実を解釈しなくては、てんで辻つまが合わぬ。それを疫病除けなどとゴマカシはコジツケも甚だしいもので、ただ兄弟だなどと美化したり恰好づけだけしていては、てんで話にも何にもならぬ。

 己れらの生まれ育った国は、愛し護ってゆかねばならぬ。それには明治大正みたいな押しつけの義務教育では駄目。いいころ加減なゴマ化し歴史で恰好づけなどせず、真実の古代史をはっきりさせるべきだろう。七世紀からはトウ政権に苛められた。今度も、ベトナムみたいに国内戦にもちこんだら枯れ葉作戦をやられたかも知れぬが、結局は勝てたかも知れなかった。

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 昔は中国の植民地で、いまは米国の植民地というわけです。日本史は日本奴隷の歴史というわけです。





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Last updated  2014年05月02日 16時44分34秒
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