シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2015年05月01日
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カテゴリ: 軟弱日本を斬る!
 前回の続き。

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世良田二郎三郎のこと

 現在徳川物で広く流布されているのは、山岡荘八の「徳川家康」ですが、これの底本と言うか、 下敷きになっているのは「松平記」です。これが問題なのです 。 政権が変わると前体制の悪政を暴露するのが通常です。家康も豊臣の生き残りを九州へ送り(豊臣松園)といった特別部落名さえ今も残ってます 。

 だから 徳川慶喜は「明治の世代わりになっても、徳川期のことや、家康が部落出身だったことは絶対に蓋隠すること」を条件に、金のない新政府に三回にわたって献金した 。

 さて、 明治になって新政府は徳川慶喜に対し「汝その祖崇の地へ戻るべし」と駿府七十万石に戻され、やがて公爵になり、華族会の会長になる。「華族は皇室の藩屏となす」との明治大帝の勅によって明治十六年七月七日から徳川はまた権勢を回復してしまう

 それまで徳川時代の真相を暴露しておけば良かったが、何しろ 新政府は学のない軽輩ばかりで天下を取った喜びで酒食に溺れ、明治七年の佐賀の乱からは治安維持に追われていた 。 現代でも政権党になれば、地元に国家予算を分捕り、利権に預かる政治屋が多いのは慨知のことで、この国は明治以来政治体制はちっとも進歩していません 。

 閑話休題。

 だから徳川時代の事を調べ直す暇もなく神祇省廃止で当時の歴史家に当たる国学者も追放され関知出来ずでした。 長州御傭い学者リースが、日本での博士号設定の時、学士会が設立され、これに権威を持たせるため華族会の下に入れ、その指示を受けるようになった 。

 だから筑摩書房の「明治史論書」にも入っている村岡素一郎の「史疑徳川家康事蹟」が明治三十五年に徳富蘇峰の民友社より刊行されるや狼狽し、 宮内省華族会によって買い占めて絶版となった 。だがこの本も大変な労作だが「三河後風土記」よりの引用が多すぎる。

 しかもこれは贋本、贋系図造りの名人、元禄時代の沢田源内のもので 、「松平記」も源内作だからこれを根本史料とした山岡荘八の「徳川家康」はまるで実像が違います 。さて前段が長くなりました。本題に入ります。

世良田二郎三郎が徳川家康なのです

 「本多元孝譜」に「永禄四年十一月一日には元康の御名で手紙類を出されていたが、翌五年八月二十一日よりの送信や文書からは家康と改められた」と、当時の秘書役に当たる「物書き方」だった当人がはっきり書き残しているし、これは徳川家公認の指出系図を集めたものだから「 まだ徳川初期の寛永年間にあっては、上州新田郡世良田村の二郎三郎という者が、神君東照権現にならせ給うまで、初めは元康と名のられたが、直ぐ翌年夏からは松平家康。次ぎに上下とも変えて徳川家康とならせられた 」というのは 公認されていた事実 のようである。

この徳川という姓は、上州新田別所出身の新田義貞の生き残りの一族が、世良田、新田、日光、徳川と分かれ、元禄年間より本家は、新田を蔭姓として岩松と変わったが、代々、徳川家へ系図を貸してやり、手当を貰っていたが、幕末、皮肉なことに徳川家が倒れると今度は本家の岩松満次郎が先祖の功により「新田男爵」となった 。



 一人の松平広忠に二つの法号は変だが、同じ岡崎の松広寺にも広忠の墓があって、そこでは「成烈院大林寺居士」とあるし、その他にも「滋光院大林居士」の法号もある。

一人の死者に狭い岡崎の内で四つも戒名が有ると言うことは複雑すぎる 。 これは松平元康が徳川家康になったという元禄以降の仮説をもっともらしくするためには、「元康の墓や戒名が在ってはいけないから、四つの戒名を一つにして広忠にしてしまった」のだろう 。

これでも家康と松平元康は別人だということが判る。つまり本物の元康は家康の前身とされてしまったばかりに、戒名も墓も判らなくさせられている 。

 俗史では家康が三河へ入ると一向一揆がおきて、三河武者の大半がそれに荷担して家康に反抗したとなっているが、この真相も、「他所者を追い払おうとした当時のレジスタンス」であろう。

何しろ家康になってからの二郎三郎は松平一族の長老の松平蔵人信孝を明大寺村で殺し、鵜殿康孝も殺し、松平好景も明丹宮で殺し、松平一族は殆ど全滅させている。そして全然無縁の連中に改めて松平姓を付けて糊塗したり、やがて本物の元康の子の「岡崎三郎信康」が成人すると、これに三河一国を返すのが惜しくなり、武田へ通謀ということにして、うるさい築山御前と共に始末している 。

俗史では、信長が、我が子に比べ三郎信康が利口なのをやっかんで、家康に命じて殺させたと言うが、本当の妻子だったら家康も殺すはずがないし、信長もそんな命令など出す訳がない 。

 (俗史の通りだとしたら、嫡子を殺されて黙っている家康がおかしいし、家康は信長の直属の部下でもないのに、親の手で殺させる命令を出せるわけがないし、出せたとしたら、信長に謀反を起こすのが筋である。)

 この岡崎三郎は信長の猶子、つまり養子身分になって、 信の字を名に付けて貰ってる位だから、これを信長か殺せと言う訳がない 。

 天正二年に家康は鍛冶屋の服部平太の娘”あい”に作らせた長子秀康が、天正七年には後、二代将軍となる秀忠も生まれた。もうこうなると、 信康やその母の築山御前は邪魔だから、産後のひだちが良好で自分の子達がよく育つとみきわめがつくや、親子とも始末した 。勿論色々と体裁を作って誤魔化したろうが、 これが信長に知れる 。

 と言うのは一介の土民から身を起こし、世良田二郎三郎と名のっても、尾張の名門の出の信長と違い 基盤となる領地がない二郎三郎は三河に目を付け、松平元康が死んだ後、後見人と言えば恰好がいいが、本人になりすましたのである 。どうも、奇計を持って元康を殺したらしい。これは外国の推理小説に良くあるパターンである。

 現在家康モノを経営の手本とする本が出回っているが、この実像の家康を企業経営の手本としては” 殺しの経営戦略 ”となってしまう。そして後に、松平蔵人元康として清洲城で信長と盟約を結んだ。この時人質として信長に取られていた本物の元康の子三郎信康を取り返し、三河と尾張が手を結ぶ一種の平和同盟である。

 そして取り決めの誓紙二通に松平元康として署名捺印する。これはまさしく欺瞞、詐欺である。今で言えば私文書偽造だし、他人名義を詐称しての取り決めなどなんの効力も発生しないのは、当時であれ決まりである。これがばれたら信長に殺されるのは明白である。だから以後、信長の言うことを良く聞き、守ったのである。

こうした後ろ暗い負い目があるから、戦国時代には珍しく堅い同盟が続いたのである 。だが「 永禄四年に取り交わした誓紙の松平元康名が詐称だった」ことがばれそうになった。そこで慌てた家康は、五千両を持って天正十年五月十五日に、安土城へ命乞いにいった 。

半額だけ受け取ってもらえてその場は納まったが、家康が京へ行くと五月二十九日に信長は小姓三十騎を連れ、突如として上洛してきた。家康は慌てて船便を求めてその日堺へ逃げた。しかし堺取締の信長の家臣松井友閑は一隻の船も自由にさせず、家康一行を軟禁した 。

六月二日本能寺の変が起きた。そこで「フロイス日本史」では「三河の王(家康)を討たんとして信長は兵を集めた。しかし集まった者は裏切って、信長は髪毛一本残さず吹っとばされた」とある伊賀山中を越え、必死もっしの難行苦行で逃げ戻った家康は、直ぐ大軍を出して愛知県の鳴海に本陣、前衛を津島まで出した 。

 しかし秀吉が十三日ライバル光秀を山崎円明寺川で全滅させてしまった。ところが家康はその五日後に至るまで鳴海で頑張っていた。

 勝った者向かいといった勝ち抜き戦の有様なので、この時家康は秀吉を討ちたかったらしい。

 しかし情報網を張り巡らしていた秀吉に 信長殺しは家康の差し金 という弱点をつかまれていたので、やむなく二十日に陣払いして戻っている。そして、 他へ知られたくない急所を握られていたばっかりに、秀吉の在世中は諾々とその命令下にあったらしい 。

 なにしろ 用心深い秀吉は、三河衆の筆頭石川数正を引きぬきして、いざという場合に備え生き証人にしていた 。その他にも 岡崎三郎の長女の夫小笠原兵部少輔秀政と次女の夫本多美濃守忠政の二人も秀吉の臣となってしまったので、これでは家康としては「信康殺し、信長殺し」と続けてボロが出てしまうので、鳴くまで待とうホトトギスと、時節到来まで辛抱していたのだろう 。

 だから秀吉が死ぬと直ぐ、大阪城を焼いて天下を取った。そしてその間に信長殺しをさせた斉藤内蔵介の娘阿福が他へ嫁し四人まで子があるのに、これを伏見に引きとって子をしこませ、やがて産まれた子と共に江戸の秀忠のもとに送り込んだ。

 家康としては、信長の異母妹於市の産んだ達子の 子国松には、織田の血脈が流れているから 「あれに徳川の家を継がせるなど、もってのほかである」と 於福(後の春日局)に産ませた子の竹千代(後の家光)をもって三代将軍家光とした 。

 秀忠も老いた父の家康から信康殺し、そのためやむを得なかった信長殺しの顛末を聞かされると「徳川家の恩人斉藤内蔵介の娘の子」つまり異母弟にあたる家光が二十歳になるのを待って直ちに将軍職を譲ってしまった。家康は己の晩年の子の家光を三代将軍に決めて駿府へ戻ると安心したのか翌年に大往生をとげた。

 しかし 三河の人間でないから駿府の久能山へ葬るよう遺言した 。所が 家光は「自分を将軍にしてくれた父家康の恩に報いるため」まず織田家の血を引く名目上の弟の駿河大納言忠長を上州高崎で殺させ、その母の達子は押し込め同然にした 。

 ついで 家光は世良田村の奥に日光別所があるのに目をつけ、ここへ今も現存する日光東照宮を建てた。戒名も墓も判らぬ松平元康に比べると、二郎三郎家康は幸せである 。

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 次回に続く。





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Last updated  2015年05月05日 01時15分13秒
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