シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2015年09月08日
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カテゴリ: 神秘体験空間
 TVは広告業から収入を得ているので、広告代理店の不利益になる情報は流さない営利事業、つまり商業主義の権化であるから、ほとんどすべてが洗脳であることはダマスゴミという言葉からもネットでは既に定説となっているのに、いまだにドラマがフィクション(虚構)であることに気づいていない馬鹿がどうでもいいクレームをするのは一体どういうことなのか?

 随分前にはドラマ終了時に、「このドラマはフィクションであり実在の人物…」というテロップを流していたのに、最近はやめてしまったせいなのか、しょーもないクレームをする輩が多いのは、ドラマをみる視聴者に馬鹿が蔓延しているせいであろうか。

 それでもときたまバラエティ番組では、例えば、「ほんまでっかTV」などは、終了時に、番組での意見があてはまらないこともあります、というような当たり前のテロップが流されるのを見ることがあり、タイトルからもわかるが、情報の裏付けは自分でとりましょうね、という基本事項すら理解できていないお馬鹿視聴者が巷には盛り沢山のせいなのだろう。

 馬鹿がTVをみて鵜呑みにするのか、TVをみて馬鹿になるのか、どちらが先なのかは、卵と鶏の問題のようである。

 そういうクレームを聞くと、子供の時、水戸黄門のドラマをみて、道にタイヤの跡があるとかのあら捜しをしたのを思い出す。ドラマのような人物の水戸黄門が江戸時代に実在したと信じるのは、当時の子ども心でもウルトラマンと同じで野暮で、どちらかというと、当時の老人のほうが騙されていたように記憶している。

 そもそもドラマのような単純に勧善懲悪の世界が現実にあると思う馬鹿な人はある程度日常生活で経験すればいないはずなのに、どうしてそのようなクレームが出るのか不思議である。もし半沢直樹の倍返しが現実に通用していたら、今頃、倍返しでバブルもあちこちで破綻だらけだろう。

 そもそもTVは娯楽がメインであって、真実を伝えることはほとんどないと思うべきである。真実というのは自分のアタマで考え、知性をもって到達するものである。それに真実は取り方や立場に応じてみえにくくなる。あらゆる立場やあらゆる思想を経験してみて、はじめて到達できる。

 ドラマ相手に一々目くじらたててクレームするのは真実到達の障害であって、真実探究作業の放棄でしかない。

 さて、そのようなクレームとは、以下のサイトでみつけた他愛もないものである。



2015-09-08 有田芳生先生、産経を「歪曲」報道と叱るの巻!!
http://d.hatena.ne.jp/kibashiri/

 (要点を抜書き)


 http://www.sankei.com/affairs/news/150903/afr1509030029-n1.html

 これを受けて、拉致被害者の家族会と支援組織「救う会」は4日、TBSに対して、文書での説明を求める要請文をファクスで送付いたしました。

 ★         ★         ★

 人は本当のことをいわれると激怒する、という法則みたいなのを聞いたことがあるが、たとえフィクションでも真相をついていることに腹を立てたのだろうか?

 あまり深くは考えたくないが、ドラマには原作者が考える人物のモデルとなった実在者がいる場合もあり、その人物がつけていたんだろうか、というように考えるのは成り行きだが、ノンフィクションに近いとされる山崎豊子の小説も、ネットでは悪人と判明している人物が脚色されて善人になっていることなどがドラマの世界では日常茶飯事みたいなもんで、一々チェックしてたらドラマなど楽しむ余地がないだろう。

 ドラマにクレームつけるよりも、いっそのことTV番組を牛耳っている広告代理店にクレームすべきである。でないと強者には何をいえない弱者ばかりを痛めつける、強い米軍には何も逆らえずに言いなりで、この国の平和人道主義を唱える弱者だけを痛めつける糞アホ政権と同じだからである。



 流石にいまのアホ政権がタケちゃんマンをパクっているとクレームするような人はいないだろう。

 ドラえもんも現実には存在しないが、なぜだか、ジャイアンとスネ夫は現実に存在し、ジャイアンは米国戦争屋で、特にスネ夫はこの国のモデルとなっているから不思議である。「ドラえもん」の漫画の世界は現実の構図を縮図として巧く表現している。

 ドラマや漫画も営利活動であるから、営利には営利で対処すべきだろう。そもそもドラマをみなければいいだけの話でもある。みてしまった自分を責めれないのなら、そのようなドラマで視聴者を洗脳している広告代理店を責めるべきだろう。

 ドラマにクレームするというようなお馬鹿を生む背景、つまりドラマを現実と錯覚させる洗脳の一端は大河ドラマにあるようにも思える。歴史を研究すれば、大河ドラマこそインチキで出鱈目なものはなく、そもそも歴史上の人物があんな美男美女だらけであるはずがない。

 つまりドラマは虚構と割り切ってみるべきである。でなければそのうち勧善懲悪のドラマで悪役の現実性、具体性がなくなり、誰も悪役をやるものがいなくなってしまうだろう。全く馬鹿らしいクレームである。



 伝承されてきた人物が過去に実際にいなくても、現実につくりだすこと、近づくことはできる。

 例えば、救世主のキリストが過去にいようがいまいが、キリストという人物が人類や人間の理想とされるのなら、そのような人物に将来なればいいのである。

 宗教というのは人類の理想、見本となる人物を説いているわけで、過去にいるいまいはそもそも直接関係ないことで、そんなことを一々クレームするのは野暮で、その理想、見本に近づく努力が重要である。

 それが悪から善への転換であり、悪人正機説といえる。善が独善となると悪になる。だから独善となった悪を再び善に帰すには悪を救うことが肝要というわけである。

 というわけで、悪の話の紹介の続きに、2つの悪を均衡するキリストの話を紹介する。

 ★         ★         ★

秘教によるキリスト論の持つ意味

 シュタイナーは霊視力を用いて、キリストを巡る出来事の隠された意味を明かしている。キリストの出来事は人類が経験した最高の霊の恩寵であり、人類進化の根源で原動力になっている、とシュタイナーは考える。

 それは2000年前に生まれ、その後キリスト教徒の間で受け継がれてきた信仰という単純で唯物的な見方では済まない、人類進化計画の隠された意味をもっている。

 キリストの教えは4つの福音書のなかに残され、その教えは神父や牧師の口を通して人々の心の中に広がっていきながら、聖書に述べられている言葉の正確な意味が、地道な聖書学によっても研究されている。

 その教えから、高次の存在に対する敬虔な思いと隣人への愛が生まれ、聖書学からは、言語学的な誤謬が正され、正しい意味が理解できるようになれば、キリストについて、それ以外の関わり方は不必要に思えるかもしれない。

 本当にそれだけで敬虔な思いや真実の愛に目覚める人も少なくないだろう。しかしシュタイナーはそうした関わり方だけでは、その目的に到達しないばかりか、却って誤謬が入りこむ可能性すらあるのが、現代であると考えている。

 福音書が書かれたのは、当時、キリストの出来事を直接霊視できたルシファーの独善的な叡智と、均衡を保つ目的で人々に与えられたと、彼は言う。

 それを、2000年後の唯物論の時代にそのまま受け取るだけでは、言葉の表面(唯物)的な意味にとらわれ、アーリマンの態度を生む恐れもある。表面的な言葉の違いに拘ることから生じる、宗派の分裂は まさに、人々の間に分裂と反目を起こそうとするアーリマンの思惑にはまっているわけである。

 しかし彼が、これまでは特別な秘儀参入者にしか知られていなかったキリストの出来事の隠された意味を人智学という形で人々に伝えようとしたのは、単なる古代の叡智への回帰ではなかった。

人間の自我は、今では2000年前とは大きく異なっている 。

 現段階の自我の進化の形で、キリストの出来事の隠された意味を知るべきと彼は考える。現代の通常の理解の形とは別に超常的な形で突然訪れる霊の映像といったものも、キリスト教の歴史の中では繰り返されてきたが、シュタイナーは、そのような映像を可能にする霊視力を意識的に制御し、しかもその内容を論理化できた人だった。

 人智学に基づいたキリスト論が、その霊視から生まれた。彼は、キリストが地球の進化に関わった経緯や、アーリマンやルシファーの悪の働きの隠された意味を、現代人が明確に知るべきだと考えた。明確な覚醒意識をもつ自我による理解が誤った道に迷いこむことから人間を守るという。

 人智学は、霊の内容を、覚醒状態を失った潜在意識への没我状態、つまり霊媒状態で手に入れようとする太古の方法とも決別し、その内容を明確な覚醒意識による自我で咀嚼することが、自我の更なる霊的発達に必要とする、という現代の唯物論的科学の基本にも沿った考えをもつ。

キリスト論は主に1906年から 1918年にかけて行なわれた

 彼がキリストを前面に出して論じ始めたのは1906年だった。1900年に霊視力から壮大な宇宙の進化についての秘密を知ってから、特に1902年以降次々と重要な認識を獲得した彼は1906年に至って地球進化の中核であるキリストの出来事について語り出した。

 この1906年から1907年にかけてが、シュタイナーにとって1つの転換期であった。その後、1908年から1912年にかけ て行なわれた四福音書論を経て、おおよそ1918年まで様々な主題でキリストが論じられた。

 1919年以降は、社会への働きかけが活発となり、教育や社会論に重点が移るが、これはキリスト論から逸れたのではなく、むしろその叡知を地上に具体化しようと試みたと考えられる。キリストの前面にあって人類に直接関わっている大天使ミカエルについて「ミカエルの使命」の連続講演が1919年に行なわれたのもその1つの表明と考えられる。

 シュタイナーが逝去する前年の1924年8月、「個々の人間と人類進化の内に働くカルマ」(「カルマ的諸連関の秘教的考察」6巻シリーズの最後の第6巻、全集240番 所収)で、キリストを再び具体的に述べている。以上述べた講演等に基づいて次回シュタイナーのキリスト論を展開する。

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 キリストを信じる信じないは別として、伝承されているキリストの人物像は人類の良き手本であることに疑いの余地はないだろう。つまり将来人類皆がキリストになればいいのである。だから人類はキリストの子なのだ!





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Last updated  2015年09月09日 10時23分45秒
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