シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2016年01月20日
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カテゴリ: 軟弱日本を斬る!
 制作スタッフが同じなのか、まるでISIS団のビデオかと思わせるようなSMAP存続生会見が巷で噂になっている。

 SMAPとは「Sports Music Assemble People」の頭文字らしいが、どうもGHQのSports Screen Sexの3S政策を彷彿とさせてしまうのは私だけではないような話を以下に紹介する。

 ★         ★         ★ 

SMAP解散回避とポール・ボネさん 3S政策の闇は深い 常識のおさらい(3)
http://golden-tamatama.com/blog-entry-2220.html

 さて、昨日は長野は大雪でした。
 ヒャッハーーー!!
 しばらく雪かきをしつつ庭を走り回ってました。
 いや、雪かきは運動になる。


 雪かきしつつ、こんなバカな記事を書いて一体ワタスは何をやってるんでしょうか。

 雪かきとジャニーズ事務所。
 生活と何の関係もないではないですか。
 バカバカしいので、もうこれ以上書くまいと思ったのですが。

 これは昨日の動画のようです。
 (動画はリンク先参照してくだされ)

 うーん。
 なんか皆さん脅されながら撮影したみたいで歯切れが悪いですね。
 キムタクさんだけネクタイの色が白ですが、これは何かを意味してるんでしょうか。

 今回の騒動は、

 メリー喜多川の愛娘の藤島ジュリー藤島 VS SMAPの育ての親飯島マネージャー。

 ジャニーズ事務所に残ったキムタク。

 なんだか派遣さんと派遣会社の話に似てますよね。

 以下、ジャニーズ事務所がマスコミに圧力をかけてるようです。

 メリー副社長「I女史と4人のメンバーは絶対に芸能界で仕事をさせない!」
 http://www.news-postseven.com/archives/20160115_377873.html


 http://blog.esuteru.com/archives/8473749.html

 独立した4人は、事務所に謝罪して、今後は100kmマラソンで詫びさせるとか。
 なんともえげつない。。

 芸能関係者「SMAPの騒動はシナリオ通りに進んでいる。最終的には解散せず劇的な復活を遂げる」
 http://blog.esuteru.com/archives/8473248.html

 【SMAP解散騒動】ジャニーズのメリー副社長「あの4人は必死で謝ってくるだろう。その時は24時間テレビで100kmマラソンさせる」
 http://blog.esuteru.com/archives/8474166.html

 これは飯島マネージャーが苦労してSMAPを育てたという記事。

 飯島マネ今月退職決定!でも恩知らずはメリー副社長のほうだ!SMAPだけでなくジャニーズが今あるのも飯島のおかげ
 http://lite-ra.com/2016/01/post-1896_2.html

前にも書いた通りGHQの3S政策は、日本人をパッパラパーにする作戦です

 ジャニーズはその中の一つです。

 何度も書きますが、 芸能事務所はヤクザ事務所

タレントさん達はいつでも切り捨て可能な派遣社員なのです

 ジャニーズと言えば紅白に多数のグループを出演させる芸能界の最大手事務所です。

北朝鮮で言うと男版喜び組の事務所です

 (38度線を引いたのは偽ユダヤたちが原爆を売るために冷戦状態をつくるため。当時の北朝鮮の領域に日本陸軍が開発した原爆施設があり、その情報が米軍にもれないために、マッカーサーは解任され、米軍の進軍は国連から退けられた。清、ロシア帝を倒し、アジアを東西で支配するために共産陣営と資本陣営をつくりだしたそうである。)

 だから、この問題は、もっと奥が深いのでした。

 皆様は、ポール・ボネさんという在日フランス人作家をご存じでしょうか。

 こんな本を書いてた人でした。

 (不思議の国ニッポン 在日フランス人作家ポール・ボネの画像)

 まぁ、 この人はフランス人じゃなくて本当は日本人なんですけどね
インチキ在日フランス人作家なのでした

 Wikipedia ポール・ボネ

 ポール・ボネ(Paul Bonet) は、在日フランス人で、日本で長期の経験を積んだビジネスマンと自称した作家。代表作は『不思議の国ニッポン』など。経歴未詳。実際は作家・評論家であった藤島泰輔のペンネームとされる。

 ポール・ボネさんというのは藤島奏輔さんのペンネームです。
 で、この人がなんでジャニーズ事務所と関係するかというとメリー喜多川と結婚した人だからですね。

 以下はその家系図です。

 (家系図はリンク先を参照してくだされ)

 藤島泰輔さんのお父さんは、日本銀行の幹事の藤島敏男さん。
 そしてその父上は藤島範平さん 日本郵船の専務です。

 藤島泰輔さんの母方のお父さんは三菱造船参事の川原五郎さんです。
 藤島さんは、昭和天皇のご学友であり、もう、なんというか、

完全、支配階級の人なんですね

 で、その藤島さんがなぜだか四谷三丁目のバーでメリー喜多川と知り合って、ジュリー藤島を生んだのでした。

Wikipedia 藤島泰輔(ふじしま たいすけ)

 後妻はジャニーズ事務所副社長のメリー喜多川。メリーは1950年代から四谷三丁目の円通寺坂入口右手の角にあった「スポット」という名のカウンターバーを経営。バーの客であった藤島(当時東京新聞記者)と結婚。作家仲間の間ではおしどり夫婦として知られたという。

 ジャニーズ事務所社長のジャニー喜多川は義弟。藤島は草創期のジャニーズ事務所を経済的にバックアップし、マスコミ・政財界関係者など自身の知己も紹介、ジャニー社長の業界関係者への人脈拡大を手助けしたといわれる。

 長女はジャニーズ事務所副社長兼ジェイ・ストーム社長の藤島ジュリー景子。景子は2004年(平成16年)に芸能界とは無関係の一般男性と結婚。男性は婿養子として藤島家に入った。景子は2004年(平成16年)暮れ、泰輔・メリー夫妻の孫となる女児を出産している。

 もう一つ載せときましょう。

 皆様はロッキード事件で「記憶にございません。」そういう名言を残した方を覚えてるでしょうか。
 その言葉はその後、ギャグとして使われましたよね。

 その言葉を残したおっさんは、あの国際興業の小佐野賢治さんです。
 あの名門、帝国ホテルの会長です。

 この人はずーっとジャニーズ事務所のスポンサーでした。
 というか、この人の奥さん(堀田英子さん旧伯爵家=下総佐倉藩主の娘)がスポンサーですね。
 堀田英子さんと藤島さんがご学友だったのです。

 ぇええ?
帝国ホテルの会長がジャニーズのスポンサー?

 この話はちょっと長いのですが、安倍首相のお爺さんの代の話からになります。
 安倍首相のおじい様の岸信介さんは皆さんご存じですね。

 (省略)

 これはもう常識なので詳細は省きますが。

 岸信介さんは第二次世界大戦中、中国大陸で満州帝国国務院でアヘン密売会社「昭和通商」に勤務する工作員でした。

 で、戦後は巣鴨プリズンに収監されたA級犯だったのです。

 で、 殺さないで~と命乞いをしてCIA職員として雇われたんですよね

 で、そのアヘン密売で稼いだ売上を管理してたのが山種グループです。
 山種グループというのは、安倍首相の奥さん明恵さんのお母さん。
 その姉妹の夫、山崎誠三さんの父、山崎種二さんが作った会社です。

 山種グループはタクシー会社を経営していて、その名が国際自動車という会社でした。
 そして、小佐野賢治さんはこの国際自動車を買い取ってビジネスをスタートさせた人でした。
 小佐野賢治さんは満州帝国で軍需物資の輸送業をやって稼いでた人なんですね。

 それで、その後、終戦になります。

 終戦後、小佐野さんは東急グループの創始者 五島慶太さんからバス会社を譲り受けて米軍兵士の輸送業務をやったりします。

岸さんがCIAに雇われたりしたのですから同じ流れです

 で、小佐野さんの国際自動車は、国際興業という名前になるのでした。

 国際興業は、戦後、土地ころがしで巨万の富を築きます。

 東急の五島さんから教えてもらった手法(事前に政府から公共事業の計画を聞きだしてその土地を事前に買収してそれを政府に高値で売りつける)で大儲けしました。

 帝国ホテルの買収はもちろんハワイの名門シェラトンホテルなどを買収したことで有名です。

 ちなみに国際興業のホテルや土地の買収資金は、あの英国の名門ベアリングス銀行から融資を得てます。

 ベアリングス銀行というのは、あの軍事商社ディロン・リード社の経営銀行です。

 で、その当時このベアリングス銀行、ディロン・リード社を経営してたのが

マッカーサーの上官のウィリアム・ドレーパーさんという人です

 (省略)

このドレイパーさんは、日米安保条約を作ったり、米軍の日本駐留を永久化したりした人でした

 (米軍が日本に駐留することで東西冷戦をつくった。ロスチャとロック、南半球はオッペンハイマー領とされた。)

 という訳で、 岸信介、小佐野賢治さんは、単純にそのまんまの戦後GHQの手下だったということでした

 という訳で、ポール・ボネと知り合ったメリー喜多川。

 帝国ホテルの小佐野賢治さん(正確には奥さんの堀田英子さん)がスポンサーになったりしたメリー喜多川。

戦後、GHQの3S政策末端組織が形作られて行った

 その過程でジャニーズ事務所も誕生したというお話です。

 まぁ、以上、常識と言えば常識なんですが。
 先日書いた話を詳しく書くとこうなります。

 という訳で、 現代も続く3S政策

奴隷商人のドレイパーさん達に、パッパラパーにされてしまった奴隷日本人

若者を商品として扱って生き血をチューチュー吸うヤクザ芸能事務所

刃向かった派遣さんを切り捨てるパソナと同じ構造

どう考えても40代が89歳に謝罪会見なんておかしいでしょう

 ったく。
 メリーとかジャニーとか。
 もっと大きな支配システムに気づけ!!

 そして、ジャニーズからの独立組。中居君達。

 こんな汚らしいヤクザ事務所のメリー喜多川なんかに謝罪なんかするな。

 大人の世界。
 おぬしも悪よのぉ~
 ぐっししし。
 もうそろそろ、そういう世界から抜け出せ。

 ファンは中居君、キムタク、スマップが好きなのであってヤクザ事務所のジャニーズなんか知ったこっちゃない。

 職場で良く働く派遣さんが好きなのであって、ピンハネ屋の派遣会社なんか消えてなくなった方が良い。

 中居君達が独立して、例えばテレビじゃなくて、ネットメディアなどyoutubeなど、ニコニコ動画なんかで出たらファンは全力で応援するでしょう。

 むしろそっちの方がインパクトがあってメディアがひっくり返るかもしれない。

もう戦後の体制を覆す時です

ヤクザ老人達に黙って生き血を吸われてる場合ではない

 いい加減若者よ反旗を翻せ!

 以下、最後に、力強い先輩の例を紹介しておきましょう。

 今や、ラスボスとして名高い小林幸子さんです。
 やっぱり同じように大手芸能事務所から追い出されてもたくましく復活したとのことでした。

 (後略)

 ★         ★         ★ 

 HEROならぬ仲間を売る自己保身のクズ野郎が生会見で中央でしゃしゃり出てあきらかになった。他の4人は人質にとられた奴隷のようだった。その理由が以下の話でよくわかる。

 ★         ★         ★ 

SMAPは死んだ! そして裏切り者はやっぱりキムタクだった! メリー氏が自ら“木村家にお呼ばれ”を告白 http://lite-ra.com/2016/01/post-1902.html

 (以下要点を抜粋)

  改めて解説しておくが、今回の独立劇は、いま報道されているように飯島氏が「密かに独立を画策した」というような話ではない。昨年1月、メリー氏が「週刊文春」(文藝春秋)のインタビューに応じた際、飯島氏を呼びつけ、「SMAPを連れて出て行け」と面罵したことが始まりだった。

 そこで、飯島氏が独立を考えざるをえなくなり、会社側と正式に交渉。昨年8月時点で飯島氏とともに5人そろって円満独立することになっていた。ジャニーズ事務所側も双方納得のうえ、移籍先もバーニング系のケイダッシュと決まっており、権利関係の配分など、弁護士を立てて細かい条件を詰めている段階だった。

 「SMAP」というグループ名についても、独立したらジャニーズの許可がなければ使えないのに、中居らはそんなこともわかっていなかったなどと盛んに報じられていたが、使えるようにするということで話はついていた。

 キムタクは一貫してジャニーズ残留でブレていないなどと報じられているが、この時点ではキムタクははっきりと意志は表明していなかったものの、独立を前提としたキムタク関連作品の権利配分についても話し合いがなされていた。

 ところが、12月になって、突如、キムタクが「ジャニーズ残留」を言い出す。キムタクの翻意のため、「5人一緒に円満退社」という前提で進んでいたSMAP独立計画は土壇場で崩壊。飯島氏はもちろんのこと、4人も行き場を失ってしまったのだ。

 つまり、SMAPがこういう状態になったのはすべてキムタクの責任であり、謝罪すべきはキムタクのほうなのだ。

 しかも、キムタクの翻意はSMAPとジャニーズ事務所の間で悩み、板挟みになっていたという話ではない。実は木村はかなり前から、メリー喜多川副社長と通じ、連絡を取り合っていたフシがあるのだ。

 「飯島さんやSMAPがメリーさんから疎まれている中で、木村さんはひとりメリーさんと妻の工藤静香さんもふくめ家族ぐるみの付き合いをしていました。そういう関係になったのは、静香さんがきっかけだったようです。静香さんは当初、メリーさんから結婚を反対されていたんですが、結婚後、必死でメリーさんにアプローチをし続けた。その結果、メリーさんに気に入られるようになり、他の4人には内緒で、定期的に食事したり、家に呼んだり、行ったりするような関係になったようです」(ジャニーズ事務所関係者)

 ★         ★         ★ 

 まるでドラマ水戸黄門の「キムタクお主も悪のよぉ」のセリフの悪代官と「いやいやメリーさんにはかないません。ジャニーズあってのキムタクです。」のセリフの越後屋ではないか?

 ヒーローが悪役だったとは?

 あんなに独立志向の高かった若者が、いまや子飼いの社畜ぶりなのだから、あんなのをみせつけられたファンは興ざめで白けてしまうのも無理はない。

 先週放映された大河ドラマ「真田丸」のまるで小山田信茂ではないか?

 ドラマでは、小山田は主君諏訪(武田)勝頼を裏切り、織田側に寝返ったが、寝返り方が気に入らない信長に斬首されてしまう。

 小山田役は温水洋一氏だったが、それがキムタクだったとは? 

 温水がキムタク?

 恐らくドラマのようにキムタク株は現在の株価のように暴落するだろう。

 SMAPにはキムタクファンとSMAPファンがいるそうだが、キムタクファンは馬鹿にされ、白けて分裂してしまうのではないかな。

 いずれにしろとんだ茶番をみせつけられて気分がすこぶる悪いのに変わりはない。

 このようなパッパラパーの奴隷から自らを解放するために、歴史を学ぶに越したことはなく、だからして八切史観の紹介を続けるわけである。

 ★         ★         ★ 

何故に歴史を知りたがるか

 「一文にもならぬ事は誰がする」といった国民性なのに、向学心ではなくて頗る歴史好きが多い。

 若い人では中学生ぐらいから、なにか歴史に魅かれだしてしまう人も相当にあるようです。

 そのうちに高校受験とか色んな口をあけて待っている世の荒浪に呑みこまれ、就職、生活と暮しにおわれて、それっきり歴史願望から離れてしまう人もないではないが、子供が一人前になって手放れしだすと、また歴史探求に取りつかれたように、戻ってくる人も、女性では多い。

 それに近頃(1980年代)の現象は、50代になり、ようやく我に返りはしたが、今さら華道や手芸でもないという女性が、何かしら生きざまを求めるみたいに真実をと歴史の中へ突入してくる向きもいる。

 もっと高年齢層で、死ぬ前に本当のことを知ってから、この世から別れてゆきたいという安心立命型の方も、そう沢山ではないがいらっしゃるのは、十万余枚の年賀状を熱心な読者から頂くが、その内の二百枚余りが、老人ホームの住所だったから、そう明確に、私(八切氏)は言えるのである。

 まあ父から祖父母の代まで逆のぼって判る自己の歴史は、せいぜい半世紀がよいところだろう。

 「あなたの御家系図をお好み通りに作製。古代錦仕上げ、虫くい桐箱入りは十万円にて」などという大阪の何とかの友社からの広告が、今でも歴史雑誌にはよく見受けられる。「死せる子は、みめよかりき」とか、大正から昭和までは身投げした娘は、実際は水ぶくれで、ふた目とはみられぬものなのに新聞記事は、故人に花をもたせて「水死美人」といった熟語を作った。

 だから「死んだら天国へゆける」と考えるみたいに、「飛び込めば、水死すれば美人になる。なにしろ新聞にでているくらいだから間違いない」と、生きていては死ぬまで美人と呼んで貰えぬ娘さんが整形美容の流行せぬ時代だったので、美人とよばれたい一心での投身自殺があまりにも数多く、処置に困って「水中美人」なる熟語の使用禁止を各新聞社では申し合わせたことがある。

 「過去は‥‥過ぎ去った昔は美しい思い出である」と水中美人なみに歴史もかつては扱われた。

 中学生を対象とする歴史雑誌の読者欄などでは、まず女子中学生の沖田総司讃美、そして次は、「自分の先祖は、江戸時代には何々大名の城代家老だったそうです。何か御存じの方は御教え下さい」とか「太田姓をもつ方は集まって先祖の話をしましょう」などとあるのがすこぶる多い。

 ここまでくると 日本の歴史は芝居や講談からのものだけだと、情けない想いにされてしまう

「城代家老」などという呼称は、仮名手本忠臣蔵が、時代設定を足利時代にし、大星由良之助も、こうした架空の肩書きにして、おかみの取締り逃れにしただけのものであって実存しないものなのである

「城代」というのは武臣派で、野戦の時に城代りとなって殿を守って戦うため、師団長、大隊長、聯隊長、中隊長といった具合に、組頭が下にあって、それぞれ戦場で生死を倶にする者らが堅に連なっていて、浅野家でも岡林杢助が壱千石の城代で直属の部下二百名を擁していた

 「家老」は「お羽織衆」といって、作戦の際には、糧まつ、兵の食糧や馬糧をととのえ、勘定奉行を監督し年貢の取立てをするのが平時。赤穂では、お浜方の塩問屋木津屋などを取締まるだけの仕事である。

だから直属は若党二人に仲間一人で、士分の者などは大石内蔵介にしても一人もついていない

 まったく別個の役目の名を二つくっつけてしまっているから、 赤穂浪士討入りの真相さえも、討入りを美化してしまって、今では判らなくなっている

 岡林は旗本松本孫左衛門の弟で岡林家へ養子に入ったのだが、公儀では前京町奉行で当時は江戸南町奉行の松前伊豆守が、後で始末のつけやすい文臣派が本所松坂町周辺に町人に化けて住みつくのを黙認した。=坂本勝説

 しかし 武臣派の者は岡林一人だけは入府を許したが、他は六郷川の先の川崎から江戸へは入れなかった

 京へ昔からの大判小判を送り堺の中村内蔵介に胴を倍加させて元禄小判に鋳造し直させ、通貨を倍加させた張本人の柳沢吉保は贋金作りの秘密が露見するのを惧れ、急に隠居すると言い出した総宰領の吉良上野介を挑発し、抜刀させ処分しようと田舎大名の浅野(内匠頭)をよんで、当日の朝に言いつけた。

 (浅野が)失敗すると口封じに田村邸へ唐丸籠でおくりこみ、門内に入り駕をあけ首を出した処を背後から一刀両断し、片岡源吾に引き渡された遺体も大紋姿の侭だった。

 吉良が上杉からの弐万両で自費で建てた呉服橋の邸を柳沢は没取して、代りに騒動を起こしてもかまわぬ辺ぴな本所二ツ目の近藤登之助の古屋敷を与えた。

 剣呑なので吉良上野介は狸穴の上杉中屋敷へ妻三姫に匿われていたが、いよいよ米沢へと別れの茶会を催すのには上杉邸ではまずいからと、初めて本所へ行った。それを大高源吾に急報した四方庵山田宗偏は、京所司代から贋金作りの功で一万を加増されて老中にまでなっていた小笠原備後守の代々の家臣である。

 当夜、神戸市刊坂本勝編の「赤穂浪義士事典」によれば、討入りにかけつけた細井広沢にしても、「殿よりの下されものの卵であるぞ、寒いゆえ精をつけて行かれるがよろし」と激励したが柳沢吉保の三百石の儒臣ゆえ、殿とは柳沢吉保のことで、やはり口封じに文臣派を斬りこませ、彼らをまた口封じに柳沢が全員へ賜罪とした。

 それでもって一切が有耶無耶にされたゆえ、明治になると、「私利私欲をはからなかった、まこと清廉な政治家」として、追贈正三位にもなっているのは、「オの字忠臣蔵」「元禄泰平記」[共に八切氏の著書]の本に詳しく出ているが、江戸時代その侭なのが今の学校の日本史である。

 (要するに赤穂浪士は柳沢吉保の贋金つくりの吉良の暴露の口封じに利用され殺された。赤穂浪士といっても利用されたのは、大石ら文臣派で、いまでいう事務官が利用された。武臣派を使うと軍隊なので反乱になるのを恐れた。)

 つまり江戸時代の事でさえ、明治に世変りした時に真実がみな明るみへ出てもよかったのに、明治大帝が華族令をしき、「皇室の藩屏なり」と勅を出され、華族会長に徳川公爵がなってしまい、学士会がその下に入ったので、何も解明されず江戸時代の事実も匿され通しで、徳川時代の侭の日本史となっている。

 明治時代のことすら国民には知らす要はないと隠されている学校歴史しか教わっていないのに、一足とびどころか大飛躍して、古代史を探求したがる人が、きわめて多いのには愕かされる。

 日本史と対比できる唯一の史書として「魏志倭人伝」が、ひっぱりだされて、白髪三千丈的の誇大化を美化する国のものなのに、これをそれぞれがみな、自己流に解釈して一冊にしたものが、「耶馬台国はどこか」とか「ヒミコは美女だったか」、と興味本意で、ひどいのは知名度を利用して、「ヒミコが天照大神」といった類の本までが、訳けも判らぬままに、歴史まがいで次々と出版された。

 書店の古代史部門のコーナーへゆけば、こうした類の本の羅列である。いくら頭の良い方でも、こうした本から読んでいったのでは、とても真実への追求など無理な出来っこない話である。

日本書紀も古事記も今日われわれが拝しうるものは江戸時代に、焚書に次ぐ焚書で消滅していたものを、屏風や襖の下張り用紙とし残存し関西で発見されたものを下敷きにしたものであるとは、詳しく後述するけれど、西での発見ならば、これは第三次勧学院のものであってトウ[唐]製である

 第四次、第五次の日本書紀は鎌倉製だから、東で発見の筆写本の残片でなくては判る筈はない。が鎌倉が北条九代で終わってしまった後は、足利体制は「白旗党余類」の名で、室町文書に書き残されているよう蘇民の源氏を、みなアミかけで散所奉行によって居付き=五木部落へ、今いう橋のない川のゲットーへ連行収容し、その居宅は家ごと燃されているから写しの残存もない。

 せっかく大同団結して富士王朝、回復をめざしたものの、追われた日本原住民の蜂起は、年号では宝亀におこった。

 後の平氏、平民で『八つ』とよばれた太平洋沿岸に這い上がった西南よりの俗にいう古代海人族は、今の田子浦から江尻、大井川まで、アイウエオの秋田、胆(夷)沢、宇賀、江刺、雄勝などの姓の民族を先頭に陣をつくり逆攻した。

 日本海をベーリング親潮寒流で沿海州から六時間、白頭山の羅津からなら四時間で能登半島や新潟につくが、崇神王朝の曾孫ヤマトタケルノミコトが、伊吹山中で、竹内宿弥の廻し者に供された中国産のチン毒にて歿せられてより、騎馬民族ゆえ四つ足とか四ツとよばれた連中は箱根越えに進攻した。

 藤原王朝が身代わりにたてたクダラの桓武帝は天険の長岡へまで待避されたが、やがて富士山の大噴火によって撃退できると、先住民を限定の囲地の センゲン に封じ込めにした。

 今では信州のアサマと同じ浅間の当て字がつけられている。このセンゲンは、出雲節にでてくる安来千軒と同じで、幕末の黒駒の勝蔵が金を掘りに行った千軒とも同じで、先住民の収容地で先住日本人の隔離収容地のことで、橋のない川の土地ゆえ出入りは不許可だから、「居付き」ともよばれる。

 歌手の五木ひろしにしても、徳間音工に入社してから歌が巧くなってレコードが売れだしたのではなく、 五木と39回目の芸名を変えたから、かつてイツキに収容されていた人々の子孫がレコードを買いだし、それで大人気歌手になれたし 、「厳戒令の夜」をかいた作家も、やはりその苗字で人気がある。

昭和初期までは、井口は山手樹一郎。藤野は山岡荘八。清水姓が山本周五郎と大衆に信頼されるヤ印の筆名にし韓国人の立原正秋も日本名でかいた

しかし全人口の一割や五分が奴隷では、残りの人々の食糧増産など出来ようわけはありえぬ

 西暦663年に郭将軍が御所に入って、藤(とう)原鎌足と日本名をつけて、藤原王朝をたて則天文字つまり漢字強制当て字令をだした頃は、彼らの軍隊ははじめは二千の人夫や軍属に、一旗組として渡海してきた者を含めて二万人だけである。

 レジスタンスをしていた連中や山や海へ逃げ込んでシノガラのサンカになった人々の他はみな降参させられ、日本原住民は奴婢にさせられた。

 七世紀に日本列島には何人いたのかの記録はない。しかし白村江の戦いに連行されていった日本原住民の「四つ」の飼戸(馬飼育)の民。つまり戦奴が二万七千とあるから、水軍奴隷として伴われた「八つ」の海人族も別に半分はいただろうから、計四万が総動員数となる。

 明治36年の町村役場兵事課に対しての軍部よりの動員計劃では、老幼を含めた人口百に対して壮丁一人の割合だから、その割で逆算してゆくと人口四百万になるが、それを半分と押さえてみても二百万人の者が奴隷として、「クダラぬやつ」「クダラぬことを言うな」と、人間扱いされなかった働き蜂の非人だった事になる。

 それにクダラが敗戦して日本列島のクダラ人も奴婢にされたから四百数万となるが、新しい主人となったのが二万ゆえ、奴婢の割合は、5パーセントや10パーセントは余りにも過小評価で、 二百の奴婢で一人の御主人さまに仕えたのが正しい

 のち桓武さまの時より、クダラ人は、貴賎の大宝律令の中で良に格上げされ、戦国時代からは「四つ」の騎馬系の戦国武者がブシン(不信)と蔑まされていたのを「ン」をとって武士とよぶ新興階級にのし上がったから、 非人とされる奴婢階級は半減し百対一ぐらいになった

が大岡忠相の貞亨年間に、現在のアメリカの各州なみに、各大名領ごとに国法が違っていたのを、五街道で一斉に取締まろうと「八つ」の海人族の流し行商や旅芸人の道(堂)の者らに朱鞘の公刀と捕縄をわたしてハイウェイパトロールなみに道中探索の御上御用を命じた

 (警察の民営化である。)

 後には街道ごとに縄張りを決め合って、鉄火場を開帳してあがるテラ銭で費用にあて、「御用ッ」「御用ッ」と捕物をやらせ、日没になると、彼らに「お客さん遊んでいらっしゃい」と客引きに使う。つまりテレビや講談で悪くいう二足草鞋が、実は公認の本可打ちで本物なのである。

 (各街道に公営のギャンブル場をつくった。アメリカのマフィアの世界の前身ともいえる。アメリカでは非合法だったが)

のち幕末近くになると、抜刀禁止令の法を破りだしたので、うっかり召捕りにゆけば怪我をするからと、分久二年までに各地の親分は朱鞘の公刀を返上し縄張りをして、香具師に総転業した

 (芸能界のルーツともいえる。ちなみにヤクザは893ではなく、被差別部落民の八の屑=やのくず⇒やくず=やくざ、となったという。)

 そこで空き巣狙いみたいに、半可打ちとよばれていた素人(ねす)あがりの連中が、その縄張りの奪い合いで、清水次郎長や天保水滸伝になっていったのは、私(八切氏)の<仁義と任侠>の本に詳しい。

 つまり、彼らは明治までは非人扱いだったから、殺されても殺され損だと本可打ちは転業した後でも、やくざの喧嘩の殺生沙汰は寺人別には入っていない連中ゆえ、犯罪にはならなかった。

 (メーソンは八の民族に目をつけ、CIAはヤクザを日本占領策に利用する。) 

 つまりテレビや映画では郵便制度がなくても、郵便法で戸口配達のためみたいに、クマさんハッツァンの表札まで長屋の木戸口に掲げてあるような暮しぶりを見せるが、前途亨保年間の大岡忠相の道の者の街道目付ができるまでは、八の民族は居附部落に入れられて農耕の奴隷。

 海浜では漁撈や製塩の課役奴隷だった。しかし同じ「八つ」の「道の者」が街道目付になると、目こぼしで街道へ出してもらえた。つまり、それまでの今の庶民はみな各地のゲットーに入れられていた。

 領主や代官にとっては、住民をみな居付き部落に入れて働かせ、逃げ出せば逃散の咎で斬罪にできたから都合がよく、殆どが今いう部落であった。

 私の祖母の先祖も、この貞亨年間に、尾張の徳川継友が将軍吉宗の御庭番村桓左太夫に毒殺され、弟の奥州梁川三万石の宗春が後をついだが、やはり睨まれ家康の曾孫の彼が、「家康は世良田の次郎三郎だった」と公表したので隠居処分にされ、混雑にまぎれて名古屋へ住み着いたのだと口伝えに大正の末に教えてくれた。

 なんの生産もない江戸に人々が集まり、天保年間には人口百三十万の世界一の都会になった謎も、祖母の先祖らと同じで、道の者の街道目付の目こぼしで居付き部落から出てきた為らしい。

 しかし、どっと出てきても身体一つが元手ゆえ、馬方みたいな「四つ」は白褌。馬をつかわぬ駕かきや蓮台の川越人足は赤褌で「八つ」と、一見してわかる色分けで稼ぎをした。

 江戸体制は、「四つ」の騎馬系の弾左衛門の下に「八つ」の車善七を、その下に四谷者。またその下に谷津者と交互に組み込んだ。

 相互に牽制しあって夷をもって夷を制させるのが治安維持の方法だったが、幕末になって、「八=弥次」「四=北=喜多」、今では簡単に野次馬とよぶが、反目しあうどうしの両者の融合を狙ったのが弥次喜多道中記で、東海道膝栗毛の題名で濡れ場もないものなのに、貸本のベストセラーとなり、御一新の大衆動員の起爆剤となったのは今では余り知られていない。

 幕末になっても限定地のまだ居付き部落に入れられ、非人と差別されていた庶民が全人口の半分は越えていた。貞亨年間から部落抜けをして町人別や寺人別を銭で購って町人になっていた者を加えれば、総人口の八割以上はヤジとキタの日本原住民の末孫だったと考えられるのである。

 両親が認知すれば嫡子だが、父親だけしか認めねば庶子。つまり庶民とは、テレビ[ドラマ]の「ルーツ」みたいに、白人の旦那が奴隷女に産ませたのは、やはり奴隷として露骨に売るよりは、日本の方がましみたいに勘違いされるが、 日本では徹底して全部がみな奴婢だったのである

 ★         ★         ★ 

 その後、イギリス白人に雇われた明治帝傀儡長州政権は、奴隷史を隠すために、棄民政策を行い、奴隷を開拓民や兵にして未開地や戦場などに送る。かつてのイギリス白人が米国の偽ユダヤにかわっただけで、奴隷政策は続いていることが昨今の騒動からわかる。

 芸能界の騒動をみてもわかるが、この国には中世の奴隷差別がいまだに横行し、続いているのである。 





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Last updated  2016年01月20日 18時05分18秒
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