シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2016年05月17日
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カテゴリ: 軟弱日本を斬る!
 日本史はわりと好きな方で、特に安土桃山の戦国と江戸幕末は好物なのだが、八切史観に出会って、通説をそのまま鵜呑みにしていた自分の愚かさに気づかされた。

 八切史観の凄いところは、日本史を、古代史から大まかな流れでまとめることができるところである。

 それは差別をした権力者側の歴史観ではなく、差別をうけたサンカといわれる原住部落民側の歴史観を炙り出したところにある。

 さて、日本史の人物で人気が高いのは、織田信長で、信長が死んだ本能寺の変については非常に謎が多いという話を以下に紹介する。

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容疑者が多すぎる
http://my.shadowcity.jp/2016/05/post-9398.html

 本能寺の変の謎、というんだが、ひとつ言えるのは、「手口が違う」という事。戦国大名の戦いというのは、基本、正面から全力でブツカルわけで、こういう「暗殺」という形は珍しい。むしろ、天皇家とか公家とか、そっち系の手口だよね。飛鳥時代、奈良時代から、天皇家周辺ではそういう暗殺はいくらでも例がある。それで、明智光秀の背後に朝廷が黒幕でいたという説が出て来るわけだが、それにしちゃ、その後の展開がグダグダだ。

・「本能寺の変」で信長を殺したのは誰だ!?


 単独犯説が疑われる理由は2つある。1つは当時、最も信長が恐れていた敵は、一体誰なのか? もうひとつが、わずかな手勢でなぜ信長は本能寺に泊まったのか?

 宿敵・武田家を滅ぼした後、信長が最も恐れたのは、おそらく同盟国ながら着実に力をつけてきている徳川家康ではないか。

 この家康を暗殺するために、信長は家康を安土城に呼び、もてなした後、京の宿泊先・本能寺に誘う。

 わずかな手勢で泊まったのは、家康を安心させるために違いないというのだ。そして、この暗殺計画をともに考えたのが明智光秀ではないか。

 ところが光秀は信長に「唐入り」を命じられるのが嫌で、この計画を家康に打ち明け、信長暗殺に誘う。

 妻子を信長に殺された経験のある家康は、うすうす信長の殺意に気がついていたため、光秀の「信長暗殺」計画に乗った、つまり信長暗殺の黒幕は家康だったというのだが、真実やいかに。

 あるいは、外国勢力のしわざという説もある。信長は世界征服まで考えていたので、それを恐れたキリスト教勢力が信長を潰したという、コレは確かに「動機」としてはあり得るが、宣教師がどうやって明智を動かしたかというのが弱いところだ。まぁ、色んな意味で織田信長はやり過ぎで限界だったんだろう。秀吉も家康も、事前には知らなかったとしても、「ああ、やっぱりね」と思ったんじゃないかw

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 八切史観によると、上の疑問はほぼ解決する。信長が家康を恐れていたというよりも、信長は政権を信忠に譲るにあたり、一番邪魔になりそうな相手とみていたのである。

 尾張派筆頭の信忠に政権を譲るにあたり、信長が信忠体制に目障りな家臣を追放しはじめたことは通史でもわかる。実際に主力となる家臣を安土から遠くに追いやっている、柴田勝家は上杉の防波堤、羽柴秀吉は毛利、滝川一益は北条、丹羽長秀は四国討伐。

 そして光秀だけは別格で丹波という近くに置いているところをみると、信長は光秀をよほど信頼していたようである。



 信長は以前から何度もしつこく家康を安土に来いと誘っていたが、家康が武田家を理由に拒否していたそうである。しかし武田家が滅亡し、穴山梅雪相続となったため、穴山共々、家康を誘き出す必要があったため、自分は丸腰ですよ、とでもいうような形で本能寺に宿営したそうである。

 後に太閤となった秀吉に大阪城まで会いに来いといわれても、家康が生命を奪われるのを恐れ、秀吉が実母を差しだすまでに会いにいかなかったのは、このときの経験が物語っている。

 八切氏によると、信長が家康を殺す大義名分は、信康殺しにあるという。信長は自分の一字「信」を与える位、信忠共々、信康を寵愛していたというのである。自分の娘の五徳を嫁がせたのがその証拠だが、家康は、松平元康になり替わったのが露見するのを恐れ、武田家謀反の疑いをかけて、信康と、元康の妻の築山御前を殺してしまったそうである。

 通史では、信長が信康の才気を妬み家康に命じて殺したとなっているが、跡継ぎの息子を殺されてまで同盟を守る武将は皆無である。人質として息子を差し出し、離反した場合に殺すのが慣例で、自分の子を父自身で処分させることなど不可解であり、辻褄があっていない。

 人質として生きているから差し出した家臣は心服せざるを得ないわけで、もし信長が信康を殺すなら、まず信康をこちらに引き渡せと命じるはずである。



 その場の手勢のなかに、家康がいたというのである。桶狭間の後に信長と同盟を結んだのは、この家康とで、松平元康ではなかったという。元康は今川家の家臣で、家康は家臣ではない。家康の出自は現日光市近くのトクガワ村という部落であったという。

 つまり、家康が信長と同盟を結んだ後で、戦に紛れて元康を謀殺し、元康に成り替わって、それがバレないように、信康と築山御前を殺したというのである。だから家康は岡崎城には近寄らずに、浜松城を居城としたという。武田氏との三方が原の戦いも、信康、築山御前を殺されたとわかった岡崎城の三河衆たちが家康に離反し独立するために、信玄に家康を攻めてくれと懇願した戦いというのである。

 だから信長は、桶狭間の生き証人と思われ、織田家家督相続のときから嫌っていた平手氏を抹殺するために、平手汎秀を援軍に送り、捨て殺しにしたのである。家康に援軍を送るから、桶狭間の件は黙秘しろと、家康側の証人を戦場に出させて殺させたという。

 武田信玄が上洛を狙っていた、というのは後世の創作で、信玄は、家康を討伐し、浜松城に逃げ帰らせ、ある程度三河を抑え、三河衆を満足させると、さっさと引き上げて甲斐に帰ってしまった。

 さて、本能寺の変だが、八切氏によると、信長暗殺の黒幕は家康だという。実行犯は斉藤利三で、家康は、利三の娘のお福に徳川政権を譲ることで、利三に決意させたという。利三には他にも動機があり、信忠体制の織田家中のなかでは、美濃派は左遷の憂き目にあるが、かつては特に美濃筆頭の奇蝶は、道三の娘で、美濃の方言の「たわけ(他分け)」殿と田舎大名の信長を馬鹿にしていて、信長は奇蝶に頭が上がらなかったほどである。

 その奇蝶が信長の美濃派家臣追放に危機感を抱いていたことや、実は、信長が、父道三を子義龍に、道三の子ではないという風評を美濃で流させ、離反させ、美濃を信長に譲る、という証文を道三に書かせ、援軍せずに捨て殺しにしたことが奇蝶に伝わり、それを通報した安藤伊賀が信長に追放されたことに猜疑心を抱いていたことなどが挙げられる。

 そして重要なのは、当時の朝廷を中心とする経済体制が銀資本であり、特に神道吉田家と蜷川家が体制を築いていたところに、信長は部落民が有利となる金資本を持ち込んで、朝廷体制を終焉させようとしていたことで、四国攻めがその手始めで、四国の長宗我部家には、斉藤利三の妹が嫁いでいて、利三は信長の四国攻めに大反対していたことが大きい。

 だから、朝廷も絡んでいるし、信長は、中国由来の朝廷を廃して、原住民復活の王朝をつくろうとしたそうである。信長、秀吉、家康も全て、部落民出である。だから、八切氏は、信長をアメリカ原住民のジョロニモと称している。

 つまり、当時の日本は、中国の傀儡国家だったわけで、朝廷は進駐軍で、進駐軍が持ち込んだ仏教から律令カースト制度がつくられ、それまで日本列島に住んでいた先住民=原住民は攻め込まれ、捕虜とされ寺の奴隷となったのが農民で、山間に逃げ込んで、人とされなかったのが、サンカである。

 中国人だけではサンカを取り締まれないので、朝鮮、特に百済から討伐隊を引き入れたのが、中国人には不信(油断ならない)に思われブジンが訛ってブシ=武士となったという。

 信長は、朝廷を討伐した勢いで、大陸まで侵出しようと考えていたようだが、家康の離反にあい、イエズス会の中国大陸進出の邪魔にもなったようで、恐らく金資本になると、金に価値が生まれてしまうので、イエズス会が金を海外に持ち出すのが自由にできなくなるのと、兵器と引き換えの奴隷取引もできなくなる。

 だから、信長の野望は挫折せざるをえなくなり、秀吉が引き継ぐが、秀吉は、朝廷を大陸に返し、日本王になって、日本を当時のマカオのような商業国家にすることを考えていたようであるが、イエズス会との軋轢を生み、志半ばで、逝ってしまい、家康になると、イエズス会追放は決定的になり、敵対するエリザベス女王と交易することになる。

 随分と本能寺の変から話が逸れてしまったが、八切氏によると、信長の本能寺は、利三に囲まれて、マカオ経由の最新の爆薬で爆殺されたとのことである。光秀にはアリバイがあり、家康討伐の資金を借りに愛宕山に行っていて、大雨に降られ、本能寺の変当時は下山不可能だったそうである。

 ちなみに織田家では当時の軍資金は自前で、吉田神道が金融をやっていて、愛宕山が窓口だったそうである。軍資金を借りて、戦での褒賞で返すのが当時の慣習で、信長はどこどこを攻めよと命じても、軍資金は出さなかったそうである。つまり、部落民の王朝を再興する名目なので、金銭よりも名誉だったそうである。

 だから、家臣は皆部落出である。兵農分離などではない。はじめから兵農分離だった。ちなみに千利休で有名な宗易は茶人ではなく、信長の仲間の部落民の頭目だったそうである。

 秀吉の時代になると、命令とともに軍資金も出したという。家康は、軍資金を家臣に貸し付けたらしいから、家康がケチといわれるのは、このせいかもしれない。

 とても、本能寺の変は、短く要約できないので、八切史観のリンクを貼っておく。 

八切止夫作品集
http://rekishi.info/library/yagiri/

 八切史観で日本史をみると、まるで現代劇をみているようでもある。





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Last updated  2016年05月17日 22時41分42秒
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