シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2017年06月13日
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カテゴリ: 神秘体験空間
久しぶりに書きたい。悪魔ルシファーたちの日本会議のために、この国は沈没船のように地獄へと下降していっている。まさにハーメルンの笛吹きのようで、この国の少子化問題は更に深刻である。

 何度も言うが、この国の政治が激しく歪みだしたのは、加藤の乱の売国奴ノナカ辺りからだった。当時、ノナカは安政の大獄の井伊のような権力者だったが、井伊が権力への私利私欲で江戸幕府を潰したように、党利党略で、国よりも党が大事と、この国の民主主義を破壊しはじめた。

 幕末は、安政の大獄への反動で、攘夷運動が盛んになったが、それはイノナカの加藤の乱鎮圧の辺りから台頭したコネズミの偽改革と同じで、黒船メリケンに植民地として完全に搾取されはじめた。開国という名の物質文明による権力支配体制の確立である。

 欧米はアメとムチで支配する。

 明治維新では、西郷などが途中で気が付いたが時すでに遅しで明治帝はガータ騎士団傘下に組み入れられ、欧米の走狗とされた。それはコネズミ以降のこの国のリーマンショックまでの流れをみれば一目瞭然だろう。

 しかし、アジアにしたことはカルマの法則で欧米に返ってくる。

 この国が性懲りもなく何度も騙されるのは、この国の精神が中世以来代わり映えがなく、バカな奴が権力を握るからである。

 例えば、ゴミ売りが恥さらしな人格攻撃の記事を書いて、人間としての謝罪もなしに、言い訳がましい糞記事をまた垂れ流したが、ジャーナリストにあるまじき行為で、このような記事をもし欧米で書いたとしたら、その新聞の不買運動が起こるだろう。

 政権に対する国民の監視が行き届かずに、自浄能力を完全に失って暴走しているわけである。



 なぜ平和憲法が与えられたのか考えてみればわかる。

 平和憲法を研究すれば、当時の情勢が浮かび上がってくる。当時の情勢を知るには、この国の中世の精神にまで遡り、幕末に問題があることに気づかないとダメである。明治帝は長州の玉で、傀儡であることは、この国の歴史を深く研究すれば明らかである。

 長州は、徳川幕府への恨みから、国を乗っ取ったわけだが、長州一藩では賄いきれないので、薩摩など長州に敵対しない外国に通じた藩を仲間に入れたのは明らかである。

 その際に歴史を書き換え、その歴史を現実にするために、周辺国を襲って歴史書を焼いたか書き換えたのである。そのための日韓併合である。国よりも長州藩が大事で、藩よりも立身出世が大事と考えた愚か者たちが明治をつくり、戦争をして金儲けに走った。

 日本の農奴は解放されたが、日本古来のわびさび文化を失った。現代の職人に残るわびさび文化は、本物のわびさびの遺物でしかない。

 その堕落腐敗した明治の精神をみれば、かつての従軍慰安婦をもみ消すのと、昨今のインチキ悪逆非道政権の御用学者のレイ プをもみ消す手口は同じと言わざるを得ない。

 八切史観から、いかに歴史の書き換えが行われてきたかがわかる。都合の悪いことはもみ消すというのは悪魔の手口である。悪魔は決して謝罪しないばかりか被害者を罵倒する。

 この国の悪魔は、玉という看板を利用して悪逆非道をやりつくすというのが、明治維新である。西郷は途中で気が付いて失敗だったと悟り、薩摩国を独立させようとするが、大久保らの裏切りで、乱として鎮圧されるのは、加藤の乱とよく似ている。

 平和憲法をみれば、皇軍とされた大日本帝国軍がいかに悪逆非道だったかを物語っている。軍人ではない一般市民が竹槍のような無駄な武器をもたされ洗脳され戦地に送られたのである。その洗脳の手口は、いまのテロリストの洗脳と同じである。

 平和憲法は、まず皇軍の神格(悪魔)化を人格化しないといけないので、天皇を象徴にする。それは実際に、昭和帝の戦犯問題が挙がったときに、国体=天皇制をいかに存続させるか、がこの国の無条件降伏のなかでの連合国への唯一の希望だったからである。

 それは昭和帝自身も、東洋のローマ法王になろうとした平和社会への希求だった。



 だから、天皇の人間宣言があり、戦争放棄のための平和憲法九条がある。

 これが敗戦で得たこの国の平和への叡智だったのである。これに逆行するのは、悪逆非道となるだろう。東洋のローマ法王は絵に描いた餅とされるだろう。

 そこでルシファーの日本会議は相変わらず地獄堕ちの連中なのを、お馴染みのサイトから紹介する。

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安倍一狂
http://my.shadowcity.jp/2017/06/post-11260.html

 日本会議は、今の左巻き天皇を廃止して、日本会議系の竹田宮を復活させ、あるいは天皇の娘と結婚させて、歯茎竹田を天皇にしようと考えている。だから、女性天皇とか女系天皇に反対なんですね。歯茎竹田は日本会議好みのネトウヨ体質なので、何としてでも天皇にしたいらしい。

 未だに知らぬ存ぜぬを通し、ほおかむりをしたまま自分の過去に向き合おうとしない連中がいる──塚本幼稚園に群がったいわゆる「保守系文化人」たちだ。
 塚本幼稚園で講演したのは、安倍昭恵氏だけではない。曽野綾子、櫻井よしこ、村上和雄、渡部昇一、中西輝政、竹田恒泰、青山繁晴、高橋史朗、八木秀次各氏などなど、数多くの保守系文化人もあの幼稚園で講演している。

 アベシンゾーを始めとする今の日本会議にとって、戦争嫌いでどちらかというと左巻き体質の、昭和天皇、今上天皇は気に入らないようです。戦争するには、戦争嫌いの天皇をいただいていては出来ない。

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 幼稚園で講演とは、ヒトラーユーゲントならぬアベラ―ユーゲントでもつくろうとする目論見なのか? 全く理解に苦しむが、この人たちは偽ユダヤに洗脳されていることに気づいていない。

 どうも、日本会議は、オウムを思い出させるんだよね。宗教を都合よく利用している。こういう連中は無神論者だから、平気で神や宗教を利用しようとするんだろうが、おバカちゃんだよね。

 神様は本当にいるし、悪魔もいるし、あの世もあるし、天国や地獄はある。

 第一、神様がいなければ、人間だっていないよね。知識だって、誰かが知識をつくらなければありえないわけだし、なんだってそう。

 そういうおバカちゃんと関わっていると碌なことはないんだが、こういうおバカちゃんを少しでも自覚させないと、この世に生きている意味もないから、なんとかしないといけないわけだ。

 とにかくこういうおバカちゃんは、視野が極端に狭く、非常に画一的なので、もっと色々多数の意見を聞いて見聞を広めてほしい、としかいいようがない。とにかく唯物論から解脱してほしいね。

 口が一つで耳が二つなのは、他者の意見をよく聞くようにという神様の配慮というのを思い出してほしい!

 さて、前回は唯物論を土台として思想構築している現代人には難解な話を紹介したが、まとめると、キリストの愛は、その教えにあるのではなく、その行いにあり、キリストの行いをした人に愛が芽生え、霊魂を浄化でき、永遠の生命を授ける天国に行ける、ということである。

 もっと簡単にいえば、キリストはその行いを地上に記録したので、誰もがその行いをすることで、キリストの愛を体験できる、というわけなのである。

 キリストのように行うかどうかが問題なのである。

 だから何もキリスト教に入る必要はなく、教義を唱えるだけ無駄で、ただキリストの行いをするかどうかなのである。キリスト教に入ることが目的となっているキリスト教徒は偽物で偽善者である。

 キリストを招き入れるかどうかなのである。それは本人の自由意志に委ねられている。

 反キリストの悪魔を招き入れたければ、入れればいいのであり、それは本人の自由なのである。キリスト教をこの世の栄華や御利益に使いたければ使えばいいが、それはキリストではなく、アンチであることを知るべきである。

 というのは、キリスト自身がキリスト教に入っていないし、布教もしなかったし、弟子にも裏切られているからである。それに、この世は仮の世界であって、神の国は並行宇宙にあるからである。見えるものが全てではない。

 キリストの弟子が裏切ったというのは、弟子がキリストの行いをしなかったせいである。弟子たちでさえ、永遠の生命である霊魂を信じなかったわけである。キリストの話を身近で聞いていた弟子でさえ、死を恐れた事がわかる。

 死を恐れるというのは、それだけで、既に霊魂の永遠性を信じていないことになる。

 ソクラテスは死を恐れずに毒杯を飲んだが、それはソクラテスが死を、人間に恐怖心を与える悪魔の誘惑であることを理解していたからである。

 人間の霊魂は死なない、変容するだけで、死とは、霊魂の仮の姿である、肉体を失うだけなのである。難儀なのは、霊魂は、肉体で表れないと、自覚できないところにある。肉体は霊魂の鏡なのである。

 だから、古代ギリシアの哲学では、「汝とは何なのか?」が主題となった。人間の霊魂が、肉体を纏うことで、自分を知ることができる。つまり、肉体という作品をつくることで、作品から作者である自分を知るのである。

 以前、安岡正篤氏の陽明学の、「自得」というのを紹介したが、どんなときにも自分を知っていれば、周りに流されることはないというアレである。

 孫子の兵法にも、敵を知り、己を知れば百戦連覇というのがある。

 さしずめ、悪魔を知り、悪魔に誘惑されやすい自分を知れば、誘惑されないという風に捉えることもできる。

 肉体の死を知り、死を恐れなければ、永遠の霊魂に目覚めることができる。

 というわけで、前回の難解なシュタイナーの話の紹介をまた続ける。

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 ルドルフ・シュタイナー
 「キリスト存在について」 その3

 さて、時代の流れのなかでの、特別な瞬間に、最も気高い天使(かつては太陽と結びついていたが、今度は、自我の中にまで霊聴=霊言で働きかける霊)を、自我の中に受け入れるのに選ばれた個人(イエス)が立ち現れた。

 自我は血を通じて、自らを表現する。血が自我の物質的表現であるように、血の熱、或いは火(体温)は、古い土星の火の名残りだが、自我の霊的表現である。

 この自我の天使は、二重の形で、自らを表現しなければならなかった。火という霊的表現で、燃える林と、シナイ山上の稲妻において、自らをモーゼに告げ知らせた。

 この自我の天使は、人間の自我の中に浸透し、燃える林とシナイ山上の稲妻や雷鳴から、モーゼに霊聴で語りかけた。

 この自我の天使は、その暁を準備した後、血に浸透された体、つまりナザレのイエスの体の中に現れた。この太陽霊は、地上の個人の中に入り込んだ。人間の自我はそのとき、自我に浸透した力に益々満たされ、飽和するだろう。

 人間の自我が太陽霊に満たされる事で、人間の自我は、自力で、引きずり下ろそうとする力の影響を次第に克服できるようになるだろう。というのも、人間の自我に浸透した、この太陽霊は、以前、地上に下降し、肉体、エーテル体、アストラル体に魂を吹き込んだルシファーの性質とは全く異なるからである。

 そこで、古代の聖なる導師(リシ)たちを考えてみる。以前述べたように、高次の霊は、導師のエーテル体の中に住んでいたが、偉大なアトランティスの祖先たちのエーテルの中に、崇高な霊が住み、聖なる導師(リシ)たちが引き継いだためである。

 高次の霊の住むエーテル体は、聖なる導師(リシ)に引き継がれたが、エーテル体から霊聴=霊言を通して流れてくる内容を、当時の自我とアストラル体では理解できなかった。時代から時代へと続く流行などは、理解できない霊聴=霊言のようなものだった。

 人間は霊聴を受け取ってきたが、霊聴を受け取るときには常に自分のなかに、何かしらの力を経験した。霊聴とは、今でいう、才能で掴むようなものだったため、自力で何とかする(努力)という、今では普通にある力は当時衰えていた。

 当時の人間が進化し、向上するには、より完全な高次の霊からの霊聴を受ける必要があった。宗教の創始者たちは皆、霊聴を受ける必要があった。天上の戦いを超越していた高次の霊たちが、宗教の創始者たちの中に霊聴を吹き込んでいたために、人間たちは自力に頼らず、努力するようにはなっていなかった。

 しかし、キリストという、以前とは全く異なった本性が現れた。キリストは、全く何も強制しなかった。キリストへと導くのに、強制力を全く行使しなかった。この事は重要である!

 例えば、キリスト教の伝播を考察すれば、キリスト教の布教について、キリストは生涯、何もしなかった、という生き証言を見つけるだろう。

 また、古代の宗教創始者たちを考察すれば、確かに偉大な人類の教師たちである。彼らは、人類の進化の、ある特定の瞬間から教えを伝え始め、そして、その教えは圧倒的な力をもって人類に働きかけた。

 では今、改めてキリストについて考えてみる。実際、キリストは、その教えを伝え続けたのか?

 キリストの主要な貢献が、その教えにある、と考えるなら、キリストを真に理解していない。

 少なくとも第一義的に、キリストは、その教えではなく、その行いを通して働きかけた。

 そして、キリストの最も偉大な行いとは、彼の死により行いが終わった事である。その行いに実際の終止符が打たれた事だった。この事が重要である!

 キリストは行いを通じて働きかけた。

 そして、キリストの行いについての知識が、世間に広まり始めたとき、もはやその行いは物質的には存在しなかった。この事がキリストと他の偉大な宗教創始者たちとの根本的な影響の違いである。

 この違いの理解は困難だが、重要である。

 キリスト教の教えは記述でき、その教えは他の宗教の中にも見つけられる。この事は否定できない。確かに、キリスト教の教えの本質は、他の宗教にも含まれている。

 しかし、キリスト教が広まったのは、その教えの内容を通してなのか?

 キリスト教を広めるのに多大な貢献をした人物は、その教えに頼ったのか?

 そこで、使徒パウロについて考えてみる! 

 サウロからパウロへと、彼の変化が生じたのは、聖書の中に書かれている教えによるものだったのか? 

 彼は、十字架上で死を遂げた人物が雲の中から彼の前に現れるまで、つまり、パウロ自身が、キリストは「生きている」という事実を、神秘的に体験するまで、キリスト=イエスの追従者たちを迫害していた。

 キリストの死や、キリストの行為の影響を、実際に体験する事が、サウロから、パウロへの改心となったが、その事が問題である。

 (シュタイナーによると、サウロはダマスカスで熱に魘されたときに、「エーテル体の」キリストと実際に会ったという。私のなかのキリストという意味で、パウロに改名したという。)

 他の宗教体系は、その教えを通して働き、その教えはキリスト教に見つかるのと同じだが、キリスト教では、教えは重要ではない。

重要なのは、キリストの「行い」にある 。

 キリストの行いが、ある人に実際に働きかけるのは、その人が、キリストの行いを決意したとき、つまり、個人の自我がもつ絶対的に自由な意志と、その行いとが、1つに結びついたときだけである。人間のアストラル体にキリストがいるだけでは不十分である。

 キリストを、真に理解するには、自我の中にキリストがいないといけない。そして、自我は、キリストの受け入れを自由に決断しなければならない。この事が重要である。

 自我をキリストに結びつけた結果として、自我は、キリストの現実の行いを、つまり、単なる教えではなく、神の力を獲得する。

 だから、キリスト教の教えは既に至る処に見つかるが、その教えが本質でないのを何百回でも示せる。

 キリスト教の本質は、より高次の霊界(天国)への、自我の自発的な上昇を通じてのみ、自我が獲得できるキリストの(救済)行為を意味する。

 (キリスト教徒と語りながら、キリストの行為をしない嘘つきインチキが沢山いるが、偽物というわけである。そういうのはこの世と同じでインチキで、自分から死後地獄に堕ちる。)

 人間がキリストの力を受け取るには、キリストの行いを喜んで行うからで、自発的に行わない人は、キリストの力を受け取れない。キリストの行いが人間に可能になったのは、キリストが地上で人間となってから、つまり、キリストが地上の人間として召還されてからである。

 (キリストは、この世にキリストの行為を記録したわけである。この世自体がいわば聖書なのである。だから口でキリストの教えを語ろうが、行わない限りは反キリストなんである。

 喜んで救済活動を行う人に、天はその能力を与える、ので、天は自ら救う者を救う、というキリストの言葉の意味である。つまり、自主的に人を救おうとする人は天国に行ける、という意味である。) 

 しかし、ルシファーとして月上に住むようになった墜ちた天使たちの立場は違う。実際、堕天使たちは「古い月」の上で、人間の段階を卒業すべきだったが、その進化の途上で落第し、取り残された結果、人間のアストラル体には浸透できるが、自我には接近できない。

 堕天使たちは、進化から逸脱した異常な状況にあり、多少、学者ぶった風情に見えるかもしれないが、自我をもたないので、実体のない感情の起伏を伴った幻想のイメージで表現できる。

 例えば、古代レムリア期の人間のアストラル体を、エーテル体と肉体は無視し、円で表現してみると、人間の自我は、進化とともに徐々に、このアストラル体の円の中に入っていき、この円内に包み込まれた。

 次に何が起こったのか? 

 古代レムリア期を通じて、ルシファーの力が、あらゆる側から、アストラル体に忍び込んで来たが、その活動を通して、人間に浸透するようになった。ルシファーの力は、人間のなかで低級な感情(怒りや妬み、恨みなど)として表現される。

 間違いや悪を犯す可能性が、アストラル体の中に組み込まれた。つまり、ルシファーの悪の腐敗した精神が、人間に、その可能性を植え込んだ。

 もし、ルシファーの腐敗した精神が、人間のアストラル体に浸透しなかったら、人間は決して間違いを犯すことも、悪を行うこともなかった。そして、人間は、高次の霊界へと上昇し、障害的な影響を受けない自我を受け取っていただろう。

 しかし、ルシファーが干渉した状況において、人類の偉大な指導者たちは、アストラル体に深く沈み込んでしまわないように、人類を守った。

 そして、キリスト事件が起こった。キリストを自発的に受け入れた人を取り上げてみる(勿論、キリスト教はまだ初期の段階だが、理想的状況を取り上げる)。

 つまり、人間の自我が、完全な自由意志によって、キリストの力を自我に流れ込ませた場合を考えてみる。

 自我が進化してキリストに浸透されるまでになったとき、キリストの力はアストラル体を照らし出し、そこに注入されていたルシファーの力を中和するために流れ込む。

 では将来、何が起こるのか? 

 キリストの助けによってのみ、人間はルシファーから浸透した、アストラル体の中の、低級な性質を打ち消せるようになり、同時に、そのルシファーの力を、徐々に解放できるようになる。ルシファーの力は、人間の自由のために、地上のより低次の段階へと沈んでいったため、地上ではキリストの力を経験できなかった。

 そのルシファーの力が、人間を通じて、キリストの力を経験し、救済されるときが来る。人間が適切な形でキリストの力を受け入れるなら、ルシファーも救済できる。

 その結果、人間は、そのルシファーの力を受け入れなかった場合に比べて、より強くなっているだろう。

 もし、人間がルシファーの力を受け取っていなかったらどうだったろうか? 

 キリストの力は流れ込んでいたが、ルシファーの妨害には出くわさなかっただろう。人類は、これらの相殺的な力を一度は克服する必要が生じた事で、現在、可能となった程度にまで、善、真理、そして叡智などにおいて進化できなかっただろう。

 人間はヒエラルキア(天使)の1つの位階だが、他の天使とは異なっている。

 セラフィーム(熾天使、愛の霊)、ケルビーム(智天使、調和の霊)、トローネ(座天使、意志の霊)、キュリオテテス(主天使、叡智の霊)、デュナミス(力天使、運動霊)、そしてエクスシアイ(能天子、形態霊)、アルヒャイ(権天使、人格霊)、アルヒアンゲロイ(大天使、火の霊)、そして、アンゲロイ(天使、薄明の霊)の一部とも異なっている。

 (人類に関わるのはトローネからアンゲロイまでの7大天使といわれている。逆に創世記の宇宙をつくった7大天使は、セラフィームから、アルヒャイまでで、俗に、宇宙は7日でできた、といわれているが、日ではなく、天使の間違いで、宇宙は7大天使によってできた。)

 未来を覗き見て、人間は、次のように考えるようになった。

 「私は、自分の行いに向けた意識を、自我のなかに追求する。例えばセラフィームのように、神の意志からではなく、自分の意志から行う。」

 キリストは、従わせるような形で働く神ではない。人間がキリストに従うのは、ただ本人の理解から自由に行うときに限られる。キリストとは、様々な方向に進化しようとする、自由で個人的な自我を妨げる事を決してしない神である。

 キリストは霊言の意味で、次のように言う。

 「汝は真実を知るだろう。そして、真実は、汝を自由にするだろう。」

 そして、ヒエラルキアに属する天使たち、悪を行う可能性のあるルシファーたちは、人間の力によって、再び救済され、自由にされるだろう。

 このように、宇宙の進化は単なる繰り返しではないことがわかる。新しい要素が入ってくる。人類が経験するような人間の進化段階は、以前の天使、大天使、権天使が人間だった段階で見られたようなものではない。

 人類は成就すべき全く新しい使命、上述したような使命を有している。人類が地上に降って来たのは、この使命を達成するためである。キリストは人類の自由を支援するためにやって来た。上から働きかける神ではなく、多くの神々の中で、最初に地上に生まれた存在としてやって来た。

 ヒエラルキアを構成する一員としての人類の尊厳と重要性を十分に把握できるのは、以上のような考察だけである。より高次のヒエラルキアたちの高貴な本性と栄光を見上げると、次のような結論に至る。

 「天上のヒエラルキアたちが、いかに力強く、賢明で、善(真の道から逸れない)であっても、自由と、自由とともに、地上の言葉の真の意味で、愛と呼ぶものをもたらせるのは人類だけで、人類の偉大な使命なのである。」

 というのも、自由なしには愛の存立は不可能だからである。

 特定の情動=意志に従うしかない天使たちは従うが、自由が可能な人間にとって、自由を可能にする唯一の力がある。その力が愛なのである。

 自由と愛は相対する2つの対極なのである。

 愛が、地上の世界に入ってくれば、特定の情動=意志に従わないのが可能となるのは、自由、つまり、ルシファーと、ルシファーに打ち勝つ者(人間を救済する者でもある)、つまりキリストに負う。

 地球が愛と自由の宇宙である、のは、この理由によるが、重要なのは、人類を、謙遜により、ヒエラルキアたちから遠ざけようとするのではなく、西洋の秘教で絶えず知られてきたような一連のヒエラルキアたちに精通するようになる事である。

 セラフィーム、ケルビーム、トローネは神の眼下で伝達される直接の意志に従う。キュリオテテス、デュナミス、エクスシアイは、より高次の力にまだ密接に結ばれているため、人間の進化を可能にするための反抗命令を受け取らなければならない。

 大天使や人格霊でさえ、間違いを犯せず、自らの自由な決意によって悪に陥ったりできない。人間の直上に位置するヒエラルキアたちは、預言者たち、或いは大預言者たちと呼ばれるが、それは、天使たちが、自分の仕事を成し遂げるのではなく、上方から受け取った命令を遂行するだけなのを示している。

 一方、人間は自分の仕事を遂行するように、徐々に成熟していくヒエラルキアなのである。木星紀、金星紀、そしてヴルカン星紀の進化を通じて、人類は自己の意識の成就に向けて、徐々に成熟していくだろう。今日、この目標はいまだ遙か遠くにあるとはいえ、いつか人類はその目標を達成するだろう。

 では、ヒエラルキア(進化の階層)とは何なのか? 

 セラフィーム、ケルビーム、トローネから始める。第1位階の天使は神から受け取った意志を遂行する事で権威を確立する。次の第2位階のデュナミス(運動霊)は、上方から受け取った力に負う。それはエクスシアイ(形態霊)にも当てはまる。

 もし、上述の天使たちが悪の存在になるなら、神界の決定の結果として、悪の存在になる。

 そして第3位階の、人間のすぐ側にまで降りてくる権天使(人格霊)、大いなる御使い(大天使)、そして御使い(天使)に至る。

 人間は、どのようにしてヒエラルキアの位階に組み込まれるべきなのか? 

 大天使と天使(大いなる御使いと御使い)の後に続いて、ヒエラルキアの位階に置かれるべきなのは、「自由の霊」、或いは「愛の霊」とでも呼べるような天使である。上から下に数えるなら、この天使は「10番目のヒエラルキア(天使)」となる。

 この「10番目のヒエラルキア(天使)」はいまだ発達途上にあるにも関わらず、霊界のヒエラルキアに属している。

 宇宙は単なる繰り返しで進化するのではない。進化の1つの周期が完結する度に、新しい要素が導入される。そして、その新しい要素を組み込むのは、常に一番下の人間の進化段階にあるヒエラルキアの仕事なのである。

 今回の講義では、人間の意味と重要性を、宇宙の意義から考察することで、推し量ろうとした。人間の意義に関する霊的な質問を、少なくとも、ある程度投げかけた。そして、秘儀の教えに従って、宇宙の中心にある人間の重要性を確立しようと努めてきた。

 人間の重要性を確立する中で、宇宙の中心の謎、つまり人間の謎を、宇宙から解明しようとした。宇宙を円とすると、その円周上にある霊界の観点から、中心点にある人間の謎を解こうとした!

 円周から中心点の謎を解く事で、その知識を、地上の現実に置く事になる。つまり、この事が、真の人智学的知識が、現実的で、具体的な知識でもある、という本質である。言い換えれば、人智学の知識が、宇宙と霊的なヒエラルキアの像を、地上に直接つくり出す。

 人間は宇宙の中心にいる。

 ★         ★         ★

 人間は善と悪の中心にいる。善になるのも、悪になるのも、人間の自由なのである。





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Last updated  2017年06月13日 22時19分13秒
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