シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2024年11月29日
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カテゴリ: 軟弱日本を斬る!
ネットフーテンの寅さんをしていると、様々なネット界隈、特にオカルト系動画で、縄文時代に回帰すべきという思想に遭遇する。縄文時代といえば、以前紹介した遺伝子解析による縄文人遺伝子分布などから、大陸から渡来人が来る前は、大体8つの地域に分かれる、のを紹介したが、その8つの地域分布から、八切史観の八つの王朝の古代史を紹介したわけだが、改めて考えてみると、この国の政治体制の現状をみれば、中央集権化が破綻してきている、のがわかる。

以前紹介した理論物理屋の保江氏などは、日米地位協定を脱するために、東京都が独立すべきという、地域分権の、独立連合国家像を提唱している。保江氏は、東京都がバチカン市国のようになるのを想定している。それはともかくも、大きな周期的な時代の流れとして、火星紀から水星紀のアクエリアスの水瓶座時代が到来しつつあるので、この国はフレキシブルに変わっていく必然性が感じられてくるわけなんである。

被差別民による裏日本史の八切史観によれば、現代にもまだ残る上級国民による下級国民への差別が、そもそも大陸からきた弥生渡来人が持ち込んだ仏教カースト制度に由来するのがわかる。近年の身分制度を大まかに振り返れば、英国などの外国勢力による明治維新で、表面上は四民平等になったが、裏では明治政府による棄民政策で、庶民が臣民とされ、従来のお上の権力は、薩長閥らの官僚制として残ったが、日清、日露戦争と、植民地獲得に連れて、大日本帝国が拡大していくうちに、帝国陸軍の親ソ、海軍の親米で分かれて、分裂し、終いには太平洋戦争敗戦のポツダム宣言受諾で、占領軍GHQにより、米国憲法を経て、日本国憲法成立下に、臣民が国民となったわけなんだが、いまだに議員や官僚が上級国民として国民を支配しているのは否めない。

そして、八切史観の古代史から考えれば、白村江の敗戦で仏教カースト制度になり、明治維新で、薩長官軍藩閥制度になり、そして太平洋戦争敗戦で、GHQ統治下の米国風の国民制度になったといえるかもしれない。だから、縄文への回帰思想には、この国の住人にまだ、天下りや、お上意識がなかった古代人の意識に戻れという意味にもとれるわけなんだが、肝心要の、霊的な意識を回復させずに、物欲や権力志向の、唯物論者のままだと、かえって地獄に堕ちるだけでもある。

しかし、中央集権化による東京一極集中には、特に政治面で、限界を露呈しているようなので、そこで改めて道州制について考えてみたい。

2025 年道州制モデル





道州制 - Wikipedia

道州制とは? - 総合政策部地域行政局行政連携課

道州制 3 つの誤解|日本総研


道州制をググると、以上のような、サイトがみつかるが、ほとんどが道州を10以上にわけているのがわかる。現在考えられている道州制は、縄文時代を全く想定していないので、縄文回帰思想から考えるには、以前紹介した縄文人多型遺伝子分類を改めて紹介するが、以下のように8つにわけられる。

            ☆        ☆        ☆

図録 ▽ DNA から見た県民相互の類似性と縄文人・渡来人度



次に、各地方ブロックにおける特徴を整理した。意外なのは福島より山形の方が関東に近い点、埼玉が関東より中京圏に近い点、四国の中で愛媛が関西に最も近い点、山口は中国というより九州である点などである。


北海道
北海道は東北の北には位置せず、東北と近接もしていない。むしろ関東の一部のような位置に存する。アイヌの人々が含まれていないせいだが、基本的に明治維新以降に本土から広く開拓民が流入して開かれた地域なので、遺伝子的にも入植者の出身地の平均の位置となったのであろう。
東北

関東
関東各県は比較的にまとまった位置にあり、古くから相互交流がさかんだったことがうかがわれるが、埼玉だけは南にはずれており、むしろ岐阜に近い位置にある。関東の中では渡来人の入植が多かった影響なのかも知れない(うどん好きもそれと関係あるかもしれない)。
中部・北陸(福井以外)
関東と近畿の中間のこの地域の代表は、愛知と岐阜であり、位置的にも中間に存在する。これに対して、山梨と新潟はほとんど関東とダブっており、古くから関東との交流が密だったことが分かる。普通、北陸に区分される福井(23番)は近畿の一部の位置にある点に注意が必要である。また北陸の富山、石川はほとんど近畿と位置が接している。
近畿(福井を含む)
関東と同じように各県が比較的まとまった位置にある点と全国の中で渡来人的要素がもっとも強い地域である点が目立っている。京都と和歌山がエリアの南北端に位置するのも何となく納得できる。
中国
タテ軸方向では北陸や近畿と同じ位置にあるが、縄文人由来の側面がやや強い点が特徴の地域である。山口は、通常は中国地方とされるが、遺伝子的にはむしろ九州エリアに位置している点も目立っている。
四国
地理的にも文化的にも関西圏の一部と考えられる香川と徳島が近く、西半分の愛媛、高知が近いはずだという想定に反し、遺伝子的には、近畿に近いのは香川と愛媛、特に愛媛であり、この2県から一定の距離を置いて徳島と高知がほとんど同じ位置に存在している。
九州
タテ軸方向では近畿・四国と同じであるが、縄文人由来の側面が中国地方よりさらに強い点でまとまっている地域である。ただし、鹿児島だけは南方向、縄文方向に片寄っており、九州の他の県とはかなり性格を異にしている点が目立っている。
沖縄
縄文人由来の遺伝子がもっとも濃い点で他地域とはかなり異なった位置にある。

                ☆        ☆        ☆

この遺伝子多型から、歴史を探ると、薩長同盟の由来が、山口と鹿児島の縄文人度合の強さ、つまり縄文人分類からすれば、長州藩が実際は九州圏だったのがわかる。ただし九州のなかでは、大分が四国の影響でやや渡来系に偏っているので、福沢諭吉のような開国派の人物を出したのかもしれない。

また、大阪人と京都人の相性が悪いというのも、京都がほぼ渡来系なのに、大阪と兵庫にはやや縄文系の血が混じっているせいかもしれない。面白いのは、人種的には、ほぼ渡来系の京都に近いのが福井や和歌山、奈良、滋賀、そして四国の高知や愛媛、徳島で、やや縄文系が入っている、大阪や兵庫、そして四国の香川とは遠いところである。だから、京都人が大阪人を下品と感じるのは、縄文の土着の血を感じるせいかもしれない。

また面白いのは、東日本のなかで特に渡来系が多いのが埼玉で、周囲の県からダサい玉と差別されるのは、渡来系の入植民が多いせいなのかもしれない。現在ではクルド人の移住で話題になっているのも、埼玉が東日本で唯一の渡来系の土地で、縄文系の少ない、移住しやすい文化のせいかもしれない。

三富地域の歴史 - 埼玉県



だから、渡来系の近畿、四国、中部北陸の、俗に関西弁の、西日本の方言が、上方言語といわれるのは、大陸渡来の仏教カースト制度に影響を受けているものと思われる。面白いのは、渡来系と縄文系の中間が、中国、関東、北海道で、上方言語を打ち消してしまう標準語に近い訛りになっているところで、縄文系の九州、沖縄、東北は、上方言語や標準語とも全く無関係な言語体系を持つ、と考えられるかもしれない。

近畿方言 - Wikipedia



このように、日本語の方言からも、大まかに、渡来、縄文、その中間と3つに大別されるが、更に3つのなかで、フラクタル構造のように、3つに分けると、9つにわけられる。だから、まとめると、渡来系の近畿、四国、中部北陸、縄文系の沖縄、九州、東北、そして中間の、関東、北海道、中国となる。

これら遺伝子多型による縄文系-渡来系の分類を、更に全体像から、詳細にみるために、YAP遺伝子で有名なY染色体ハプログループの分布から以下のように改めて考えてみる。



以下に紹介するウイキのサイトから、「ハプログループD1a2は今より約45,000年前から約21,000年前までの間に日本列島にて発生したと推定される型である。」で、恐らくこの型が沖縄に多いので、縄文系のルーツとなる有名なハプロタイプDEのYAP遺伝子にみえる。また渡来系として伝来したと思われるハプログループC1a1(M8)の祖型の移動ルートは謎に包まれている。」らしい。

Y 染色体ハプログループの分布 ( 東アジア ) - Wikipedia

ハプログループ D1a2a (Y 染色体 ) - Wikipedia

ハプログループ C1a1 (Y 染色体 ) - Wikipedia


更に世界地図で示すと、以下になる。

ハプログループ - Wikipedia









ハプログループ O (Y 染色体 ) - Wikipedia



このように、遺伝子解析から、この国の政体を歴史的に遡ると、都会に出てきた人が、田舎に帰るように、明治政府により、上級国民と下級国民として差別化され統一化された中央集権化の基準も、8つ以上の政体に分権化でき、地方分権化への道標となるかもしれない。このように、この国の地方分権化への可能性を探るために、被差別民のサンカの縄文人から、裏日本史を解き明かすために、前回に続けて八切史観を紹介する。

               ☆        ☆        ☆

(前回紹介の続き)

 なにしろ各時代の権力者によって、日本歴史は都合よく美化され創作されているにすぎないのは、各会社が自費出版して得意先や関係会社へ配付している社長伝や社史と同じことである。それゆえ歴史を受けもち講義する者は、恩師に対し弟子として領分からはみ出さぬようにのみを心がけて、昇任昇給だけを望み、隠れたベストセラーともいえる文部省検定歴史教科書をだせるようになって、莫大な印税を得られるようになりたいとの願望だけのみであるらしい。
 それゆえ、騎馬民族は日本海を渡ってきて裏日本へ入ってきた潮流学を無視して、日本書紀に合せ鴨緑江をわたってクダラ人みたいな騎馬民族とし、体制に合わせ江上教授も発表した。大伴家持が飼戸の「四つ」の奴隷頭ゆえ、いくら働いても認められず癪にさわって飛び込み憤死したのを、日本書紀に辻つまを合わせてた梅原教授も、今では学長にまで昇任した。みなお利口さんは御用歴史作家であるが、彼らとて歴史の講義をする教授ではなく、他科目の教授である。というのは、いくら体制べったりにそっての、事なかれであっても、歴史畑であれば、恩師が言っていないことを発表するには、立場が拘束されていて、絶対に不可能のせいだろう。
 つまり監督官庁の文部省の指導方針にそい、恩師の口ききがなくては立身出世の途がひらけぬからである。他の考古学畑にしても、やはり親方は文部省で、宮内庁の権威が影についているから、少しでも日本書紀からハミ出しては、枠内からの落ちこぼれとみなされてしまう。世界最大の墳墓といわれる仁徳陵の発掘を、絶対に宮内庁が不許可にしているのも、日本書紀に記載されているのとは、どうも違う結果がはっきりしていて、はたして仁徳陵といっても、どなたが埋められているか判らぬといった危惧があるせいらしい。
なにしろ学校歴史では、「民のかまどは賑わいにけり」と高屋から望みみられたもうた御情け深い御方となっている。しかし、民のかまどから炊煙が絶えるくらいに搾取され、暴動を怖れて淡路島へ待避しておられたのが、浪花へ戻られ、また高所から民の有様をご覧になり、そうおっしゃられたというのは、恐らくまた戻ってきて、これなら課役が増やせて良いと、のたもうたのではあるまいか。
 広大な仁徳陵と称せられるような大規模なものになると、ブルドーザーもなかった昔ゆえ、何千どころか数万の奴隷が鞭打たれつ何年も働かされて構築されたものゆえ、古代史の中では、奴隷社会の始まりといえよう。もちろん同国人を奴隷にしてまで、ひどく酷使できる筈はない。となると、鉄製武器をもって渡来された方が、原住民である日本縄文人を捕え働かせたものとみるが至当で、珍、讃などと中国からよばれた五王の四世紀初頭の捕虜課役大工事だったろう。
 産業革命以来でも、主だった発明や発見は、みな専門分野の者ではなくて素人だったという。現在の天気予報でも、気象衛星まで使っているオカミよりも民間のお天気おじさんの方が確率がはるかに高いみたいに、天文学でも新星を発見するのは日本でも学者と自認する人たちより、素人で見つけている例の方が多い。歴史の分野でも、やはり保守的な日本書紀派より、畑違いの人による解明の方が、昇進とか教科書作成といった夢をもたぬだけに、きわめて大胆である。
 私にしても、父方と母方の宗旨違いで、亡兄の入籍に数年かかり、ようやく届出ができた時には、当人は小児急性肺炎で天野病院で亡くなっていたので、またもめるのは厄介だからと亡兄の戸籍をその侭で引き継がされ、名も生年月日も亡兄のもので、私には本当の名も生れた年も知らされていない、さながら透明人間みたいな存在ゆえ、たえずそれに悩み自殺未遂も何度もして、「真実とは、はたして実存するものか」と、過去の具象としての歴史を、まことに本当なのかと生まれてきた時よりの挫折感を、なんとかして打破しようとして取り組んできてしまった‥‥
 初めは当時の日本へきていたイエズス派資料という裏付けのある戦国時代から検討して入ってゆき、「信長殺しは明智光秀」するのも、光秀のライバルだった秀吉、本当の黒幕は家康だが、仏敵と信長光秀をみたて負けた石山本願寺の一向宗の今の本願寺派が説教節できめつけてしまって、日本全国の居付き部落に説教僧を送り込み、面白おかしく説教にして定説化しただけと判りもした。
 美化というか天下一の豪傑とされる山中鹿之助も、本当は殺人鬼みたいに毛利方を、片っ端から討ちとったのではなく、相手方がへばっていて「頼まあ(タンマ)」と声をかけ、「後日に銀一貫匁を支払うものなり」と矢立で紙にかきスタンプ印鑑のなかった時代ゆえ掌に墨を塗って押し渡したのが、約束手形の始まりで、首落し前の談合ゆえ「落し前(をつける)」という。
 紙がない時には口約束ゆえ、「武士の言葉には二言はない」といった用語も残される。江戸期に入っても外出の侍が「懐紙」といって夏でも白紙を大切に持ち歩き、今でも財布のことを「紙入れ」とよぶのも、万一の際に落し前の約手をかくための大切な用紙だった名残り。
 プロとは、今のプロレスみたいに、やたらに致命的な負傷などはせぬもので、山中鹿之助は約手をとっても集金せずだったから、彼を生かしておいては後に毛利の家中の者が迷惑すると、「約手のパクリ屋」なみの毛利方の者によって、上月落城後、備中合の渡しで殺されたのである。だから、その伜が大阪で鴻池の店を開くにあたって、約手の決済をしてなかった連中が銀を集めて送って開店させたのである‥‥といった従来の歴史とは相反する資料が得られたが、発表すると、勇ましい講談を頭から信じこんでいる人々からは、ただ意想天外とされたにすぎぬ。  しかし尼子方は滅亡しているから何も残っていないが毛利方の「吉田篭城記」によれば、「本日の合戦は、先手の者は石つぶてに当り一人傷つきたれば全軍とって返す」と、あまり殺生沙汰はなかった記述が多い。常識で考えても人口の僅かな時代に、とっては投げ突き刺して殺すみたいに派手にしていたのでは、みな死に絶えてしまって両軍とも戦う者がいなくなってしまう。
 美化というか勇壮化されて伝承されているものの、プロの武士道は、落し前をつけるだけのものが本当の処。となると中世紀の宗教戦である戦国時代の前は、どうなるかと問題になる。江戸期でさえ、「やつこさんは辛いね」とか「奴女郎」の名称があり、「町奴幡随院長兵衛」は勇ましく水野十郎左に突き殺されるが、奴とは寺の奴隷のことゆえ、寺奴で、仏教側のガードマン。
 とすれば後までそうだとなると、古代史とは、縄文日本人が権力者によって鉄製武器で征服された弥生時代が、日本の古代史つまり奴隷社会の始まりということになると、それへ突入し真実とは何かと逆のぼって解明していったのが、この入門書をかきだした私のノートともいえる。

何故に歴史を知りたがるか
「一文にもならぬ事は誰がする」といった国民性なのに、向学心ではなくて頗る歴史好きが多い。若い人では中学生ぐらいから、なにか歴史に魅かれだしてしまう人も相当にあるようです。そのうちに高校受験とか色んな口をあけて待っている世の荒浪に呑みこまれ、就職、生活と暮しにおわれて、それっきり歴史願望から離れてしまう人もないではないが、子供が一人前になって手放れしだすと、また歴史探求に取りつかれたように、戻ってくる人も、女性では多い。
 それに近頃の現象は、50代になり、ようやく我に返りはしたが、今さら華道や手芸でもないという女性が、何かしら生きざまを求めるみたいに真実をと歴史の中へ突入してくる向きもいる。もっと高年齢層で、死ぬ前に本当のことを知ってから、この世から別れてゆきたいという安心立命型の方も、そう沢山ではないがいらっしゃるのは、十万余枚の年賀状を熱心な読者から頂くが、その内の二百枚余りが、老人ホームの住処だったから、そう明確に、私は言えるのである。
 まあ父から祖父母の代まで逆のぼって判る自己の歴史は、せいぜい半世紀がよいところだろう。「あなたの御家系図をお好み通りに作製。古代錦仕上げ、虫くい桐箱入りは十万円にて」などという大阪の何とかの友社からの広告が、今でも歴史雑誌にはよく見受けられる。「死せる子は、みめよかりき」とか、大正から昭和までは身投げした娘は、実際は水ぶくれで、ふた目とはみられぬものなのに新聞記事は、故人に花をもたせて「水死美人」といった熟語を作った。
 だから「死んだら天国へゆける」と考えるみたいに、「飛び込めば、水死すれば美人になる。なにしろ新聞にでているくらいだから間違いない」と、生きていては死ぬまで美人と呼んで貰えぬ娘さんが整形美容の流行せぬ時代だったので、美人とよばれたい一心での投身自殺があまりにも数多く、処置に困って「水中美人」なる熟語の使用禁止を各新聞社では申し合わせたことがある。
「過去は‥‥過ぎ去った昔は美しい思い出である」と水中美人なみに歴史もかつては扱われた。中学生を対象とする歴史雑誌の読者欄などでは、まず女史中学生の沖田総司讃美、そして次は、「自分の先祖は、江戸時代には何々大名の城代家老だったそうです。何か御存じの方は御教え下さい」とか「太田姓をもつ方は集まって先祖の話をしましょう」などとあるのがすこぶる多い。
 ここまでくると日本の歴史は芝居や講談からのものだけだと、情けない想いにされてしまう。「城代家老」などという呼称は、仮名手本忠臣蔵が、時代設定を足利時代にし、大星由良之助をも架空のこうした肩書きにして、おかみの取締り逃れにしただけのものであって実存ではないもの。「城代」というのは武臣派で、野戦の時に城代りとなって殿を守って戦うため、師団長大隊長聯隊長中隊長といった具合に、組頭が下にあって、それぞれ戦場で生死を倶にする者らが堅に累っていて、浅野家でも岡林杢助が壱千石の城代で直属の部下二百名を擁していた。
「家老」は「お羽織衆」といって、作戦の際には、糧まつ、兵の食糧や馬糧をととのえ、勘定奉行を監督し年貢の取立てをするのが平時。赤穂では、お浜方の塩問屋木津屋などを取締まるだけの仕事。だから直属は若党二人に仲間一人で、士分の者など大石内蔵介にしても一人もついていない。まったく別個の役目のものを二つくっつけてしまっているのだから、赤穂浪士討入りの真相さえも、討入りを美化してしまって、今では判らなくなっている。岡林は旗本松本孫左衛門の弟で岡林家へ養子に入ったのだが、公儀では前京町奉行で当時は江戸南町奉行の松前伊豆守が、後で始末のつけやすい文臣派が本所松坂町周辺に町人に化けて住みつくのは黙認。(坂本勝説)
 しかし武臣派の者は岡林一人だけは入府を許したが、他は六郷川の先の川崎から江戸へは入れなかった。京へ昔からの大判小判を送り堺の中村内蔵介に胴を倍加させて元禄小判に鋳造し直させ、通貨を倍加させた張本人の柳沢吉保は贋金作りの秘密が露見するのを惧れ、急に隠居すると言い出した総宰領の吉良上野介を挑発し、抜刀させ処分しようと田舎大名の浅野をよんで、みづから当日の朝に言いつけ。失敗すると口封じに田村邸へ唐丸籠でおくりこみ、門内に入り駕をあけ首を出した処を背後から一刀両断。片岡源吾に引き渡された遺体も大紋姿の侭だった。
 吉良が上杉よりの弐万両で自費で建てた呉服橋の邸を柳沢は没取して、代りに騒動を起こしてもかまわぬ辺ぴな本所二ツ目の近藤登之助の古屋敷を与えた。剣呑なので吉良上野介は狸穴の上杉中屋敷へ妻三姫に匿われていたが、いよいよ米沢へと別れの茶会を催すのには上杉邸ではまずいからと、初めて本所へ行った。それを大高源吾に急報した四方庵山田宗偏は、京所司代から贋金作りの功で一万を加増されて老中にまでなっていた小笠原備後守の代々の家臣である。
当夜、神戸市刊坂本勝編の「赤穂浪義士事典」によれば、討入りにかけつけた細井広沢にしても、「殿よりの下されものの卵であるぞ、寒いゆえ精をつけて行かれるがよろし」と激励したが柳沢吉保の三百石の儒臣ゆえ、殿とは柳沢吉保のことで、やはり口封じに文臣派を斬りこませ、彼らをまた口封じに柳沢が全員へ賜罪。
それでもって一切が有耶無耶にされたゆえ、明治になると、「私利私欲をはからなかった、まこと清廉な政治家」として、追贈正三位にもなっているのは、「オの字忠臣蔵」「元禄泰平記」[共に八切氏の著書]の本に詳しく出ているが、江戸時代その侭なのが今の学校歴史。
 つまり江戸時代の事でさえ、明治に世変りした時に真実がみな明るみへ出てもよかったのに、明治大帝が華族令をしき、「皇室の藩屏なり」と勅を出され、華族会長に徳川公爵がなってしまい、学士会がその下に入ったので、何も解明されず江戸時代の事実も匿され通しで、徳川時代の侭。
 明治時代のことすら国民には知らす要はないと隠されている学校歴史しか教わっていないのに、一足とびどころか大飛躍して、古代史を探求したがる人が、きわめて多いのには愕かされる。日本史と対比できる唯一の史書として「魏志倭人伝」が、ひっぱりだされて、白髪三千丈的の誇大化を美化する国のものなのに、これをそれぞれがみな、自己流に解釈して一冊にしたものが、「耶馬台国はどこか」とか「ヒミコは美女だったか」、と興味本意で、ひどいのは知名度を利用して、「ヒミコが天照大神」といった類の本までが、訳けも判らぬままに、歴史まがいで次々と出版。
 書店の古代史部門のコーナーへゆけば、こうした類の本の羅列である。いくら頭の良い方でも、こうした本から読んでいったのでは、とても真実への追求など無理な出来っこない話である。日本書紀も古事記も今日われわれが拝しうるものは江戸時代に、焚書に次ぐ焚書で消滅していたものを、屏風や襖の下張り用紙とし残存し関西で発見されたものを下敷きにしたものであるとは、詳しく後述するけれど、西での発見ならば、これは第三次勧学院のものであってトウ[唐]製である。
 第四次第五次の日本書紀は鎌倉できだから、東で発見の筆写本の残片でなくては、判る筈はない。が鎌倉が北条九代で終わってしまった後は、足利体制は「白旗党余類」の名で、室町文書に書き残されているよう蘇民の源氏を、みなアミかけで散所奉行によって居付き(五木)部落へ、今いう橋のない川のゲットーへ連行収容。その居宅は家ごと燃されているから写しの残存もない。
「せっかく大同団結して富士王朝、回復をめざしたものの、追われた日本原住民の蜂起(年号では宝亀)は、後の平氏、平民で『八つ』とよばれた太平洋沿岸に這い上がった西南よりの俗にいう古代海人族は、今の田子浦から江尻、大井川まで、アイウエオ(秋田、胆(夷)沢、宇賀、江刺、雄勝)を先登に逆攻」日本海をベーリング親潮寒流で沿海州から六時間、白頭山の羅津からなら四時間で能登半島や新潟につく。
崇神王朝の曾孫ヤマトタケルノミコトが、伊吹山中で、竹内宿弥の廻し者に供された中国産のチン毒にて歿せられてより、騎馬民族ゆえ四つ足とか四ツとよばれた連中は箱根越えに進攻。藤原王朝が身代わりにたてたクダラの桓武帝は天険の長岡へまで待避されたが、やがて富士山の大噴火によって撃退できると、先住民を限定の囲地のセンゲンに封じ込めにした。
 今では信州のアサマと同じ浅間の当て字がつけられている。このセンゲンは、出雲節にでてくる安来千軒と同じで、幕末の黒駒の勝蔵が金を掘りに行った千軒とも同じことで、先住民の収容地で先住日本人の隔離収容地のことではあるが、橋のない川の土地ゆえ出入りは不許可だから、「居付き」ともよばれる。
歌手の五木ひろしにしても、徳間音工に入社してから歌が巧くなってレコードが売れだしたのではなく、五木と39回目の芸名を変えたから、かつてイツキに収容されていた人々の子孫がレコードを買いだし、それで大人気歌手になれたし、「厳戒令の夜」をかいた作家も、やはりその苗字で人気がある。昭和初期までは、井口は山手樹一郎。藤野は山岡荘八。清水姓が山本周五郎と大衆に信頼されるヤ印の筆名にし韓国人の立原正秋も日本名でかいた。
 しかし全人口の一割や五分が奴隷では、残りの人々の食糧増産など出来ようわけはありえぬ。西暦663年に郭将軍が御所に入って、藤(とう)原鎌足と日本名をつけて、藤原王朝をたて則天文字つまり漢字強制当て字令をだした頃は、彼らの軍隊ははじめは二千に人夫や軍属。それに一旗組として渡海してきた者を含めて二万人だけ。レジスタンスをしていた連中や山や海へ逃げ込んでシノガラのサンカになった人々の他はみな降参させられ、日本原住民は奴婢にさせられた。
 七世紀に日本列島には何人いたのかの記録はない。しかし白村江の戦いに連行されていった日本原住民の「四つ」の飼戸の民。つまり戦奴が二万七千とあるから、水軍奴隷として伴われた「八つ」の海人族も別に半分はいただろうから、計四万が総動員数。明治36年の町村役場兵事課に対しての軍部よりの動員計劃では、老幼を含めた人口百に対して壮丁一人の割合だから、その割で逆算してゆくと人口四百万になるが、それを半分と押さえてみても二百万人の者が奴隷として、「クダラぬやつ」「クダラぬことを言うな」と、人間扱いされなかった働き蜂非人だった事になる。
 それにクダラが敗戦して日本列島のクダラ人も奴婢にされたから四百数万となるが、新しい主人となったのが二万ゆえ、奴婢の割合は、5パーセントや10パーセントは余りにも過小評価で、二百の奴婢で一人の御主人さまに仕えたのが正しい。のち桓武さまの時より、クダラ人は、貴賎の大宝律令の中で良に格上げされ、戦国時代からは「四つ」の騎馬系の戦国武者がブシン(不信)と蔑まされていたのを「ン」をとって武士とよぶ新興階級にのし上がったから、非人とされる奴婢階級は半減し百対一ぐらいになった。
 が大岡忠相の貞亨年間に、現在のアメリカの各州なみに、各大名領ごとに国法が違っていたのを、五街道で一斉に取締まろうと「八つ」の海人族の流し行商や旅芸人の道(堂)の者らに朱鞘の公刀と捕縄をわたしてハイウェイパトロールなみに道中探索の御上御用を命じた。後には街道ごとに縄張りを決め合って、鉄火場を開帳してあがるテラ銭で費用にあて、「御用ッ」「御用ッ」と捕物をやらせ、日没になると、彼らに「お客さん遊んでいらっしゃい」と客引きに使う。つまりテレビや講談で悪くいう二足草鞋が、実は公認の本可打ちで本物なのである。
 のち幕末近くになると、抜刀禁止令の法破りしだしたので、うっかり召捕りにゆけば怪我をするからと、分久二年までに各地の親分は朱鞘の公刀を返上し縄張りをして、香具師に総転業。そこで空き巣狙いみたいに、半可打ちとよばれていた素人(ねす)あがりの連中が、その縄張りの奪い合いで、清水次郎長や天保水滸伝になっていったのは、私の<仁義と任侠>の本に詳しい。
 つまり、彼らは明治までは非人扱いだったから、殺されても殺され損だと本可打ちは転業した後でも、やくざの喧嘩の殺生沙汰は寺人別には入っていない連中ゆえ、犯罪にはならなかった。つまりテレビや映画では郵便制度がなくても、郵便法で戸口配達のためみたいに、クマさんハッツァンの表札まで長屋の木戸口に掲げてあるような暮しぶりを見せるが、前途亨保年間の大岡忠相の道の者の街道目付ができるまでは、八つぁんの部族は居附部落に入れられて農耕、海浜では漁撈や製塩の課役奴隷だった。しかし同じ「八つ」の「道の者」が街道目付になると、目こぼしで街道へ出してもらえた。つまり、それまでの今の庶民はみな各地のゲットーに入れられていた。
 領主や代官にとっては、住民をみな居付き部落に入れて働かせ、逃げ出せば逃散の咎で斬罪にできたから都合がよく、殆どが今いう部落であった。私の祖母の先祖も、この貞亨年間に、尾張の徳川継友が将軍吉宗の御庭番村桓左太夫に毒殺され、弟の奥州梁川三万石の宗春が後をついだが、やはり睨まれ家康の曾孫の彼が、「家康は世良田の次郎三郎だった」と公表したので隠居処分にされた混雑にまぎれて名古屋へ住み着いたのだと口伝えに大正の末に教えてくれた。
 なんの生産もない江戸に人々が集まり、天保年間には人口百三十万の世界一の都会になった謎も、祖母の先祖らと同じで、道の者の街道目付の目こぼしで居付き部落から出てきた為らしい。しかし、どっと出てきても身体一つが元手ゆえ、馬方みたいな「四つ」は白褌。馬をつかわぬ駕かきや蓮台の川越人足は赤褌で「八つ」と、一見してる色分けで稼ぎをした。
 江戸体制は、「四つ」の騎馬系の弾左衛門の下に「八つ」の車善七を、その下に四谷者。またその下に谷津者と交互に組み込んだ。相互に牽制しあって夷をもって夷を制させるのが治安維持の方法だったが、幕末になって、「八=弥次」「四=北=喜多」、今では簡単に野次馬とよぶが、反目しあう日本原住民どうしの両者の融合を狙ったのが弥次喜多道中記で、東海道膝栗毛の題名で濡れ場もないものなのに、貸本のベストセラーとなり、御一新の大衆動員の起爆剤となったのは今では余り知られていない。
 幕末になっても限定地のまだ居付き部落に入れられ、界化の非人と差別されていた庶民が全人口の半分は越えていた。貞亨年間から部落抜けをして町人別や寺人別を銭で購って町人になっていた者を加えれば、総人口の八割以上はヤジとキタの日本原住民の末孫だったと考えられるのである。両親が認知すれば嫡子だが、父親だけしか認めねば庶子。つまり庶民とは、テレビ[ドラマ]の「ルーツ」みたいに、白人の旦那が奴隷女に産ませたのは、やはり奴隷として露骨に売るよりは、日本の方がましみたいに勘違いされるが、日本では徹底して全部がみな奴婢だったのである。

古代史入門  3

受難の日本書紀
 学校歴史の古代史は、北条政子の歿った西暦1225年までを一括して、安易に教えている。という事は、七世紀の世変りを匿しこんでしまう意図から、十三世紀まで引っぱって延長した期間を、アミカケ方式で制定している。「日本人の歴史好き」というのは、なにも向学心の現れや、真実追求のものではないらしい。
「侵略」を「進出」と変えてしまって、韓国や中国から抗議を烈しく浴びているくらいで、日本の歴史は、「臭いものには蓋をしろ」と、なんでも自分に都合よく過去は美化してしまう伝統がある。それまで幕末までは各地方面に、民間に口から耳へと伝承の歴史があったのを、東京を首都とし中央集権制度をとったから、日本全国を一つの検定した教科書で洗脳するみたいに統一教育を歴史にまで及ぼして、他の国ではディスカッションして覚えさせているものをば、暗記物にした。
 だからして学校で教わる歴史では、さっぱり、どうにも呑みこめぬ人々が多く、そこで何とかして己れのルーツを知りたがるのが多く、これが歴史好みというか探求型にもなるのである。近江八幡で「解放」を発行している西川秀夫氏は、祥伝社、大倉精神分化研究所、日本シェル出版、光文社、琵琶湖研究会、新泉社、オリジン出版、秋田書店の出版物を名ざしでピックアップして古代史入門の手引にと並列している。しかしである。それらの本の中で注意したいのは、「日本書紀」や「古事記」を信用してか、それを参考にしている本だけは、絶対に除外してほしい。
 なにしろ学校歴史で「西暦720年五月に、日本書紀三十巻成る」と教えているからして、さも、(いま活字本で廻っている日本書紀は、西暦八世紀初頭の編纂された唯一の日本史である)と誤っている方が多いが、私の「天の古代史研究」に詳しく解明してあるように、その六十年後に河内より高野新笠の御子を迎えて、人皇五十代桓武さまとなし、日本書紀をつくったトウの人々が昔の中ツ国、今の中国地方の岡山へ財宝をつんだ牛車の群れをひいて逃避行をしたあと。
「彼ら弁髪は日本原住民どもが一致団結して富士王朝復活のため清見潟(今の田子浦)まで、怒涛の進撃をなして攻めてきたのに惧れをなして逃げてしまったのゆえ、もはや構ったことはない」とおおせられて、それまでトウ一族が、自分らが中国大陸から渡来とするよりも(遥かに高い天から下ってきた、選ばれた民族)とした方が恰好がよいから、おおいに美化するために創作した処の日本書紀だけでなく、六国史と称される他の史書類もみなことごとく一切合財を集めさせて、山のごとく各地で積み上げ皆これを燃やしてしまった。世にこれを「桓武焚書」といわれる。
 富士王朝のアラビア文字を縦書きにしたような歴史書も、悉く集めて燃やしてしまい、オンモン日本書紀というような、ハングル文字の桓檀古記をタネ本にして、桓武さまの御先祖さまが高千穂峯におりてきたという、クダラ人に都合のよいように美化されて纏め上げられてしまい、ここに第二次の全面改訂の日本書紀の新版が出来上がったのである。
 一時は長岡の山の中にまで逃げたが、賎から良に格上げしてもらえたクダラ兵は勇戦敢闘し、原住民を撃退、この時代が本当のナラ時代だが、彼らは威張って、「クダラ人にあらざれば人にあらず、非人である」と、教科書の「侵略」よりもひどい傍若無人。しかし驕る何とか久しからずである。
 今でも「クダラぬやつ」とか「クダラぬことを言うな」といった言葉が残っている程ゆえ、桓武さまの血脈の続いた時代は日本原住民は討伐され奴隷に皆され、シラギやコマ系は、「蕃族」として追討された。現代のシラギが慶尚道人で朴前大統領もそうだが今の全大統領や金日成父子やその他南北の軍部も同じである。金大中はクダラ系だから釈放されても国外追放。
 日本列島における確執だけでなく朝鮮半島でも、馬韓、辰韓、弁韓の昔から殺し合ってきた民族闘争の原点が桓武さまの時代でも、光州事件の現代でも続いているだけで、民族の血の流れというのは、二千年や三千年たっても変らないものである。ナチスのユダヤ人狩りでも判る。もちろん現代では、ユダヤがイスラエル建国以来アメリカのユダヤ勢力を後楯にして極めて強力である。
 さて西南に向けて潮流が変り、瀬戸内の海から鉄製武器が、どしどし送られてくるようになった。初めは護身のための、影武者のようなつもりで王位につけたクダラ系にも援助して勝たせはしたが、やがて延暦十三年の富士の大爆発で、せっかく復活に団結して攻めこんできた日本原住民が、クダラの坂上田村麿に追われ谷底に生き埋めにされ、根つまり死の国へ皆送りこまれた。
 ほっとして牛車をつらねて戻ってきたトウの人々は、もはや治安が回復したので、影武者の必要もなしとみた。そこで桓武さまの御孫の嵯峨さまの代になると、せっかく苦労して創作されたのを全部燃やしてしまったのである。が、トウの日本書紀は焚書後四十年も既にたっていたから、「勧学院」をもうけて、武器と共に渡来した医師や漢学者たちに、もう一度改めて「日本書紀漢学版」の作り直しをさせた。
しかし一ヵ所だけでは、すっかり燃やされてしまった日本書紀を復元するのは難しく、藤氏一門は勧学院。和気氏には弘文院、王氏に奨学院といったのを、次々と設立させて、百済史の焼き直しの桓武日本書紀を集めて悉く燃やし、第三次の新々日本書紀は、高野山の中国渡来僧たちの綜芸種智院にも協力させ、バビロニア史の漢訳とも対比して今では、言われるごとく司馬遷の史記の中よりも、当てはめられる個所はそっくりいただいて作り上げた。
 かくして第三回目の「日本書紀」は西暦833年の「令義解」ができた前後に書きととのった‥‥「桓武焚書」の一件は、南北朝時代の北畠親房の「神皇正統記」にも、はっきりと明記されている。が、これが今日そのまま残されている日本書紀ではない。藤原道長の全盛期をへて、前九年後三年の役、ついで、平清盛の時代にまた焚書されて、第四回目の新々日本書紀が、熊野権現で書き直され、新平氏こそ日本開祖の民族であるとしたものを作らせたが、これは壇の浦合戦で水没した事になっているが、この時の一部の書き直しが梶原景時の手に入り、北条政子に献上された。
 頼朝を落馬死という事にし、ついで梶原、畠山、和田、と源氏の主だった連中を粛清してのけた北条政子は、鎌倉をオール平氏一色にしてしまうと、承久三年五月には、京へ大進攻をさせた。「阿魔将軍」と恐れられた彼女みずからが、陣頭にたって押し寄せるわけだったが、大切な北条平氏の女大将が、みづから鎌倉を離れては後が気がかりであると、甥の泰時が代って出陣した。
 美化したがる通俗歴史は、夫の頼朝が急死したので、貞婦ニ夫にまみえずで、髪をおろして「尼将軍」になったとしているが、日本では仏教をもちこんだトウの者の他は、男も女も、坊主や尼の官忍の得度は受けられなかった。平氏の政子が尼になろうとしても、有髪の比丘尼だし、男は法界坊、法印の大五郎、日光の円蔵みたいに、くるくる坊主になれずで、吉原でゴザを敷いてカッポレを踊っていた梅坊主一座にしろ、剃刀をあてて奇麗に坊主に頭が剃れたのは明治御一新からである。政子が比丘尼になるわけはないから、古代史の最後を飾る彼女の画像は、後世の儒教時代の想像画で、それが今では歴史教科書の挿絵に使われだしたので、本当らしく誤られる。
 富士王朝の残党ともいうべき北条政子は、夷頭(伊東)に逃げ、潮をくんで製塩。漁撈をして塩魚にして銭にかえ、トウ派遣軍には非人扱いされていた積年の恨みの積み重ねの報復として、藤と名乗る公卿の主だった者を斬首。後鳥羽上皇は鳥も通わぬといわれる隠岐の小島の石牢。順徳上皇は佐渡が島の土牢。土御門上皇は土佐へ流罪。
そして京御所を監視するため六波羅探題を南北におき見張り侍所をおいた。平政子は生前に大江広元に命じ、かつて梶原景時が入手した平の清盛の第四回目の日本書紀をもとに改訂第五回目の日本書紀は出来上った。しかし北条時宗の時に、(かつて沿海州から親潮で佐渡や能登へ渡り、蘇我氏として栄えた末孫の源氏を、北条平氏は打倒藤原のために、頼朝を担ぎだし散々に働かせた後、使い棄てみたいに主だった者を皆殺しにして天下を北条平氏のものとした。だから、沿海州から中国本土を席巻して、元の国をたてた騎馬民族にしては、占領した朝鮮半島の高麗水軍に命じて、源氏の仇討ちに失地回復のための進攻なり)と壱岐対馬の守護代より急使が鎌倉へ駆けつけてきた。
 文永五年(1268)には、その噂通り、元の兵部治郎黒的を高麗人の案内で、正月十八日には太宰府守護の少弐資能に対して、高圧的な態度でのぞんできた。なんでも今では美化して恰好をつけたがる学校歴史では、このことすらも、「国信使をもって、元の国書や方物を献上し通交を求む」といった具合に「世界は一つ人類みな兄弟」みたいなことを記載している。だが翌文禄六年三月七日の条になると、はっきりと、「猛子使用黒的は、高麗人と共に対馬に立ちより、掠奪暴行の限りをつくし、降参した島民の手の甲に穴をあけ鎖を通して舷側に吊し曳行す」とある。
通交の為にきた国使のすることではない。挑戦でしかありえない。やがて五年後の文永十一年十月、壱岐対馬から太宰府へ十万の元軍が高麗水軍に護衛されて来攻。守護代宗助国、平景隆は一族と共に、青竜刀や鉄ぼこに取り囲まれて玉砕、少弐、菊池の救援軍も苦戦したが、たまたま台風の目が突如として来襲。元軍十万の木造船は大暴風のために海底。
時間稼ぎに翌1275年夏に、訪れてきた朴世忠ら五人の元の国使を、鎌倉龍ノ口で並べて斬首。翌年は再度来攻に備えて九州の筑前海岸一帯に石をつんで防塁を建造した。新興元が高麗水軍を先頭に攻めこんできて台風で悉く沈んだにしても、損害は高麗や新羅の捕虜兵だけなので、改めて来攻してくるのは眼にみえていた。
それゆえ時の執権北条時宗は、(元が又も懲りずに攻めてくるというのは、北条開祖の政子さまが、散々に源氏を戦わせて平定すると、もはや馬のりは無用の長物と使い棄てに殺したり、双方で戦わせたことへの仕返しに意地になって失地回復に攻めてくるのだから、もしもの用心に、すべての証拠の書類は燃やすべし) 間柱所文書から、大江広元に書かせた改訂第五次日本書紀も、まさか次の次の弘安四年の来攻の十万の元兵も、台風で又しても海の藻屑になってしまうとは、神ならぬ身の知るよしもなく、万全を期して片っ端から文字のでている物は、みな集めことごとく焼き払って灰にしてしまった。「時宗焚書」というのがこれである。学校歴史では、元寇の実際も明白にしていないが、今もハバロフスク民族館の正面入口の扉の上には、沿海州人の民族章として大きな円形の笹りんどうの紋章がレリーフで掲げられている。つまり元は、日本では源であって、同じ民族なのである。
 明治時代の内田弥八の「義経再興記」つづいて小谷部圭一郎の「ジンギスカン義経説」は、源氏の風俗や言語が、沿海州人の元の民族とまったく同じなのが裏日本から入ってきた源氏ゆえ、そこから連想されたもので、ここが判らなくては元寇の意味も判らぬし、ジンギスカン義経説の由来も、ただ奇をてらうものとしか想われないかも知れぬ。
 が、バイカル号でハバロフスクへ立ち寄った者なら、源氏の笹りんどうの紋や、パンダがその笹を囓っているマークも見ている筈である。

復活日本書紀の捨て石
 古代史の範囲に入る平政子の時代の改訂第五次日本書紀は、元寇で上陸された時の用心に、北条時宗によって焚書されてしまったから、西暦720年に作成されたものとは全然、似ても似つかぬものとはいえ、日本書紀らしいものは第五回の書き直しの分で消滅してしまった事になる。
「南朝こそ正しい皇統である。北朝とよばれる足利体制は、昔の耶馬台国と同じで親大陸政権どころか、中国より属国扱いをされているではないか」と厳しく論評した北畠親房にしても「神皇正統記」は残しえたが、桓武焚書によって当初の日本書紀は燃されてしまった事実を述べてはいるが、第三次、第四次、第五次の日本書紀にふれていない処をみると、どうも、
A
第二次桓武製オンモン日本書紀は長岡京から、中国人が坊都とし造営した平安京つまり今の京都へ移る時に、写しはもっていったが原文は匿し長岡京の何処かに埋めてきたらしいこと。
B
勧学院の第三次漢字版日本書紀は高野山の中国僧たちまで手伝って藤原氏全盛時代にすっかり初めから新しく書かれたものの、平清盛の時に、熊野権現で別個に書かれたものと入れ換わる。
C
その第四次日本書紀は、清盛の歿後に福原で消滅したか、安徳帝と共に海底へ沈んだもので、その写しだけは鎌倉へ届けられたとみられる。でないと大江広元の記録所の書役で、平政子の第五次反藤日本書紀が、そう易々と、平氏側日本書紀に書き直されたものとは想えぬからである。
D
この政子が校閲したと伝わる第五次改訂版日本書紀は、その侭でもし伝わっていれば、これは反藤思想のサンカの倫理とまったく同じで面白いものだろうが、北条時宗の時に元寇を懲りずに繰り返して来襲してくる敵の真意が判り、もし元軍に上陸されて読まれでもしては、それこそ大変である、と問注所文書や記録所文書と共に、惜しくも北条時宗に燃されてしまっている。
 つまり「時宗焚書」とか「元寇焚書」といわれて第五次までのものは燃やしては次々となくしてしまい、代った権力者の立場によって新しく、滅ぼしたのを蘇られてきたのが日本書紀。が国難の元寇による焚書の時は、もしもの時は殺されるとそれぞれみな探し、写しさえも残されていない。
 江戸時代に伊勢の古い神官に保管されていた第四次のものらしい日本書紀を、珍稀本として刊行されたのが公儀の摘発する処となって、版元手錠で絶版にされ、関係したイザナギの神官はみな流罪処分にされた事件があった。戦前の三省堂の「日本歴史年表」には三行程だがでている。
 まったく消え去ってなくなってしまった筈の日本書紀が、昭和の初めになると、皇国史観の黒板勝美によって、突如として蘇ってきて、活字本となって、大八州出版株式会社創立事務所より発刊されて、旱天の慈雨のごとくに軍や官だけでなく各学校からも求められた。売行の凄まじさに吉川弘文館が目をつけ版権の譲渡をうけ、歴史物出版社としての今日の大をなす基礎ともなった。出版制限の戦争中でさえも国民精神作興教育のため次々と刊行された。
 そして、「神典」として、おおいに一般には、かつての教育勅語のごとくに普及。今も、吾々が手にとってみられる印刷された日本書紀の本はこれである。魔術のように、ない筈のものが、突如として、「神は蘇りたまえり」と、前半は神話で後半が史書という奇妙な体裁だが、現実に皇国史観黒板勝美のものとして、堂々というか、出廻っていて、今では唯一確定的なものとして拝読されている。
 という事は、日本以外の国の郷土史家というのは、それぞれ地方の伝承や古記録によって、己が郷土の歴史を探求しているので、それを綜合してゆくと地方別に明確な史資料が一つに纏まって、国の正しい歴史が形成されてゆく‥‥といった積木細工式ゆえ、隣接した他国との歴史とも対照していっても、その接している地方ごとの郷土史で真実はかなり明白になりうる。
 処が日本ではそうではない。今ある日本書紀が元本となり、金科玉条のごとく、動かし難いものとされているから、郷土史家のものも、その地方の伝承や古記録を、いかにして今の日本書紀に結びつけてゆくかの方向にだけのみ専念して、まったく他をかえりみようとはしていない。「鵜飼歴史」とでも言うのか、一羽ずつの鵜がてんでに皆ひっぱられ舟の上へ戻され、頚をつかまれしごかれて吐き出させられたものは、鵜匠の手によって一つの魚籠の中に集められてしまう。どの地方の古記録も、みな今の日本書紀の内容に合うようにされてしまう。そして、それが正しいことに、官学の東大閥に認められ、他は黙殺されているのである。
 だから日本の郷土史家は零から出発するのが歴史の解明なのに、今の日本書紀を原点とし、それを一としニ、三と研究の展開をしてゆく。しかし困った事に考古学という分野があって、整地の際に土を掘ったりするからして、今の日本書紀では「大化の改新の舞台であった板葺宮は、その後火災にて忘失」とあるのに、さて発掘してみると敷石にも焦げた痕もないのに驚かされて、今の日本書紀は怪しまれる。すると築地へ新築移転前のA新聞が稲荷山古墳で十余年目に121個の文字が発見。これをもってしても、今の日本書紀はまったく正しいものであるとマスコミが証明。
 それでも効果があまりないとみると、手を代え品をかえて、大安万侶の木牌が炭やきがまの奥から見つかったから、西暦712年に完成された古事記も正しいものだと大新聞が連日発表。
 古事記については後で解明するが、今の日本書紀が大新聞の権威によって、戦後も、「高千穂峯に天孫降臨」と、よし外国では相手にされないものであっても人民共への国体護持の、「聖典」というか「神典」とあがめられて、日本歴史の聖なる原典とされているのだが、なにも720年当時のものが、今までそっくり、ゼロックスコピーでとられ、伝わってきている訳ではない。
 前章にも述べたように、第一次から第五次まで。その時々の体制によって都合よく作り変えられて、北条時宗の時までは実存した。が元寇の騒ぎで第五次のものは完全に燃やされた。「黒板勝美日本書紀」は「国史体系」として、編修された第一巻であるが、その序言にまず、「旧国史大系の時は寛文十三年に木版刷りで出版された松下見林のものを原底本となして、それに伴信友のものを参考にして編修をなして完成した」が、そののち大正三年に到りては、『国史大系六国史』の第一巻として刊行なした時は、八代将軍徳川吉宗が元文元年(1748)[1736?]二月六日に三の丸の紅葉山書物奉行に校訂させた「類聚国史」をも入手しえたので、これを参考にしてなんとか定本を作らんことに努めたり」と、徳川時代の原本なりとある。
 つまりこれをみると、第六次日本書紀は北条時宗の時に消滅したのが、南北朝時代、足利時代、戦国時代には浮かび上がらず、390年後の江戸時代になって、西暦1673年の寛文十三年九月より延宝元年にかけて、大阪人の松下見林によって、ようやく再生された事があきらかになる。
 彼は、日本書紀を四世紀ぶりに世に出したことよりも、「異称日本伝」「公事根源集釈」「職原抄参考」の著だけが、さも代表作みたいな扱いにされているのは、彼のごとき無位無官の者が再生させたのでは、日本書紀のせっかくの権威にかかわるとされたのか、明治以降は、故意に敬遠というか黙殺され遠ざけられて、匿されてしまっている傾きがないでもない。
 なお大阪人ゆえ、近くの京の公家より出た故紙の中からでも底本になるものを見つけだし、それを下敷きにして書き上げたものらしいが、出処が京の公家つまりトウ『唐』の堂上かたとみれば、これは桓武焚書後に、主として勧学院で作り出された第三次の、則天(漢字版)日本書紀の反古紙で、何かの内張りになっていたものを、襖の下張りか、掛け軸の内ばりにするため京の故紙商が、かためて購入してきたものを、よってみて大阪の松下見林の許へ、「先生は、四角い文字のものがお好みだと伺いましたによって、ひとつ値良う買うて頂けませんどっしゃろか」と下張りにするよりは、高値にて儲けようと、持ち込まれでもしたものらしい。
 版行に先だって大阪町奉行所は事前検問に京所司代に提出し裁断を乞うた。堂上公家の冷泉家を呼んで読ませたところ、トウ製のものゆえ別に反対や異存もなく許可がでたらしい。江戸表でも、だから、この第三次日本書紀は復刻なみと別にお咎めもうけずに済んだらしい。
 さて伴信友は、若狭小浜の藩士で、本居宣長の死後に入門し、本居太平の教えをうけ、幕末の弘化三年までは生きたが多才博識。軟派では、「ねやのひめごと」の黄表紙本から、三百余の著作で、「長等山風」「神社私考」などの硬派本まである。もっとも有名なのは、水野忠邦の倹約令で江戸三座が今の浅草松屋よりずっと入ってゆく聖天町とよぶ弾左衛門地の草原に移された時、「先生、わしら芝居者を助けると思って、今までとは違って駕でさえ滅多に入らぬ草深い所へ移された江戸三座の為に、なんとしてでも、どかっと客が来るようなものを書いて下さらんか」と懇願されて筆をとったのが「両島英雄記」である。なにしろ当時の芝居の舞台は間口2メートル半しかなく、両袖のロウソクが照明だった。濡れ場ものなら、この広さでも出来るが、これは倹約令で御禁制。
 そこで宮本無三四と佐々木小次郎の両雄が、九州巌流島で決闘の芝居をかいた。なにしろ槍をもって舞台へ出ては、それだけで一杯になって身動きができぬが、刀をもたせ、「雪月花」とよぶ躍りの拍子でチョンがチョンと、上段、中段、下段のからみで、しかも宮本無三四には両手に刀を持たせ、裏日本や東北でいう処の「張(チャン)バラ」を派手にやらせてみたのである。
 これが江戸中の大評判になって、黄表紙本の方も売れに売れた。昭和になって軍部が、「明治時代は、桃中軒雲右衛門の赤穂義士銘々伝で、召集兵員の在郷予備教育はできたが、いつまでも大石内蔵介でもあるまい」と、国民精神作興に躍起になっていたので、吉川英治の書き直し、「宮本武蔵」は、おおいに剣だ剣だという尚武の敢闘精神で満州事変から大流行をしだした。
 なにしろ主人公の武蔵は慕うお通さえも拒んで剣一道の武芸者で性 的不能の変質者みたいだが、ポルノは全面発禁の世の中なのに、同じ村出身の本位田又八の情事場面が二頁おきぐらいに、汁粉の逆塩どころか全体の半分も入っていたから、おかみの意向とは逆に心なき国民の中の青少年は、オナ ニー用に求めたものだ。少年だった私もその不心得者の一人だった覚えがある。
 伴信友が演劇界救済のために書いた宮本武蔵が大当たりをとると、抜け目のない連中が放っておくわけはない。もっともらしい五輪の書までが、生まれたりして、いつか実在の人物化された。「人の一生は重荷を背負うて坂を登るがごとし」といった家康遺訓集は、明治になって徳川家を見殺しにしてしまった勝海舟らが、徳川公爵家の要請で創作したものだとは、名古屋徳川家で思い切って公表したのは、最近の新聞に大きく掲載されていたからご記憶の方も多かろう。
 しかし吉川英治は徹底的によく書き込んだからして、国民大衆文学として完成されたから、「二刀流は彼の草案」と思い込む人も多いが、文藝春秋の故池谷信平が京城の陸軍学校へ行き、「壬辰の役(文禄の役)に、進路の倭兵を防ぐ韓国軍」という二百号大の油絵が正面階段の上に掲げられているのをみると、日本軍はみな両手に刀を握っていたので愕いたという話は、故海音寺潮五郎も「文学建設」に書いてはいたが、武蔵がいつの間にか二刀流開祖にされてしまった。すっかり舞台上の産物が、本当にされてしまったのである。
 応仁の乱の時に、鉄資源のない国なので、外国のように鉄の楯は作れず、といって、木の楯は重たくて一人では、とても運べぬから、足軽とよぶ、狩り出してきた山者に両手に竹をもたせ、「ししっぱらい」とか「露よけ」と先駆けに使った。関白一条兼良は、反仏派で寺を荒し廻る彼らを、「悪党」ともよんだが、青竹を二本もって人間楯として突進してゆくよりは安全と、戦場で落ちている刀を拾い持ち、生き残れた者は両手に握って、とんでくる矢を打ち払って後の戦国武者。
 つまり源平合戦から戦国時代大坂夏の陣まで、当時は雑兵とよばれた者達は、みな両刀づかいだったのだから韓国の画家は正確に描写されているのである。講談歴史とか浪花節歴史とよばれる日本の方が間違っているのである。吉川英治の作では関ヶ原合戦に出ているから、見よう見真似で二刀持ちを他に見習ったといってもよい。
 戦争目的に、鉄資源不足を知らせぬ為の学校の歴史の教育を上の指示でされてきたのだから、伴信友の作り出した宮本無三四を吉川英治の宮本武蔵にまで勇ましく作らせたのは、まったく意企的な軍部の指図だったらしい。
 元禄初期に書かれた尾州藩鉄砲頭の天野信景の「塩尻百巻」に、細川家の重役間に確執がきわめて甚だしかったの風聞が書かれているから、伴信友は、それに今いうヒントを得て創作したらしい。
 さて、芝居の両島英雄記や、黄表紙本を数多く出している彼が、本居太平の許で筆写したのを底本に書いた「日本書紀」では、いくら士分の者の筆になったものとはいえ、問題にならぬと、「伴信友校本」は、「ねやのひめごと」の作者ゆえ、リース門下や黒板勝美にも参考にされたが、軽くみられたらしい。後世の伴信友の三百余の著書目録にも、日本書紀の権威のために削除されて、その書名が全く出ていないのは、こうした理由からであるのだろう。
 江戸初期の松下見林や幕末の伴信友は、日本書紀復活に貢献して、それぞれが書いているが、黒板勝美は「国史大系」の下肥えか、縁の下の力もちにされ、彼らの仕事は有耶無耶にされている。つまり第七次第八次ともいえる江戸時代の松下や伴の日本書紀は、それぞれ木版で刊行されはしたが、明治になってすべて回収され、まったく今では跡かたもなく消滅させられている。

後西さま著日本書紀
 さて、日本書紀の底本として「第六次改訂新訂増補の黒板勝美日本書紀」を刊行できたのは、宮内省も国民教育にその必要を認め、軍部よりの要請もあったので、宮内省図書寮所蔵の、「京都御所東山御文庫」と称せられる渋紙表紙張りの粗末な巻子本だが、五十巻と纏まっている後西院天皇の御直筆が 貸与されてこれを底本にすれば、天皇さま自らが書かれたものゆえ、松下見林や伴信友のものと違って、おおいに有り難られようと、これを定本としての第九次を刊行。これが今日吾々が神典として扱い、日本歴史の原点としている処の、今の「日本書紀」なのである。
 まさか黒板は、すっかりこれにオンブしたとは書きにくいので、他の物も名をつらねているが、みな断片的な第三次のものばかりで、実際は後西さまの50巻本がそっくり現代訳になり黒板が、教え子の弟子や学生を動員して書き直させて、それで昭和九年に完成したものであることは間違いないと断言できるものである。
 しかし、皇室の歴史でさえ江戸時代には、京所司代が検閲加筆訂正したのを「皇運招運録」として、公儀に都合よく、すべて書き直した上で、千代田紅葉山書物奉行に保管させていたから、この後西さまの五十巻も「無題」のままだったゆえ、何だか判らず辛うじて危うく助かったのである。この「皇運招録」という徳川家で製作された御所記録が、いかにいい加減なものであったかは、初代文部省修史局長重田定一の「謎だらけの日本史」(日本シェル出版刊3800円)にも詳しい。
 さて学校歴史で義務として教え仕込まれる歴史と、実際は相違し過ぎている。黒板勝美は、天皇自らの宸筆として、さも錦の御旗をたてたように、定本の基礎としているけれど、この時代の実際を歴史屋のくせに何も知っていない。五十巻ものを後西さまが書かれた経緯も彼は何も知らぬというか勉強していなかったゆえ、そっくりそのままの第九次日本書紀が刊行ができえた。また展開が飛躍するみたいだが、黒板勝美日本書紀の下敷きになった巻子本が、いかにして成立したのかと謎ときがまったく、これまではなされていないのである。解明したのは私だけであろう。
 つまり当時の時代背景を学校歴史には出てないが、先に判って頂いておかない事には、「古代史入門」には入ってゆけないのである。まず気の毒な後西さまがいかにして書かれ給うたか?子供は嬉しい事しか書かぬものだが、大人は、口惜しいこと悲しいことしか書かぬものである。つまり巻子本五十巻は、後西さまの怨みつらみの労作のものであると先に判ってほしい。
 「謎だらけの日本史」(日本シェル出版刊)には、長州お抱え歴史家アドルフ・リースの門下三上参次や小川銀次郎は開明学校のちの東京帝国大学出身だが、リースの大和民族単一説に対して、「幕末のシーボルトは長崎鳴滝の塾で、赤ん坊を集めてきて尻を並べ、蒙古班の青いのは日本海からの沿海州よりの騎馬民族系の末孫。そうでないのは、大陸系。やや黒ずんでいるのは太平洋沿岸に流れてくる黒潮にのってきた西南系と書生に教えた」と、師リースの説に異見を述べた為に、著者の重田定一は東大閥から村八分にされ、文学博士にもしてもらえず、当時は賎役の文部省の初代修史局長に放り出された。
 だからして彼としては、あまり面白くなく「史説史話」として、「後西院天皇の謎」を書き、何故に歴代の天皇さまで、後西さまにだけ「院号」がつけられているのか?
江戸時代の御所の記録である「皇運紹運録」によれば、帝の治世に度々大地震が続き、京の民が、これは帝の不徳の致すところと大挙して御所内に乱入し退位していただいた、と宮内庁に保管されている公式記録にはでているが、群集が大挙して御所へ押しかけ帝を無理矢理に退位させるような事が、従順な日本人として、はたして江戸期でも有り得ることだろうか?
 なお帝の在位中に大地震などは一度もなく、明暦三年に江戸に振袖火事。万治三年に大坂城に落雷があったきりで、いくら京所司代牧野親成が徳川家のためのデッチあげでもおかしいと、「謎だらけの日本史」には、対比表までつけ「院」を何故に生前からつけられていたか判らぬと、その本には暴露している。だから重田定一が亡くなるのを待ちかねたように、東大閥はすうっと問題の後西さまの院号をとってしまい、すっかり何も今では判らなくしてしまっている。
 さて何故生前に院号をつけられたか。西暦1654年に後水尾帝末子18歳の良仁親王さまが徳川秀忠の娘和子の産み奉った明正帝につぎ寛永二十年十月の後光明帝のあと、後西帝として即位なされたかというと、公儀としても皇位継承者が、もう他にはいなかったからであるらしい。
 当時、徳川家は七百万石から八百万石の台所入りがあったのに、御所は二万石。徳川秀忠の娘和子を女御として無理矢理に入内させた時に、化粧料として持参金の壱万石で計三万石。「春日局と家光」や「将軍徳川家光」の日本シェル出版刊の私の本にあるように、実際は春日局の子として京伏見城で本当は生れた家光は、元和九年六月に二代将軍秀忠と共に上洛した。
 家康の遺言で家光が二十歳になったら将軍職を譲るように言われていたので、小御所へ参内。慣例どおり節刀を賜り征夷大将軍の宣旨をうけ、慣例どおりに京五山へ銀百枚ずつを納めて、秀忠はまだピンピンしていたが家光が三代将軍となり、また寛永三年八月に彼は秀忠と共に上洛して二条城に入り、後水尾帝の行幸を仰ぎ馳走申しあげた。
 六年後に秀忠が亡くなり、駿河大納言忠長を土井甚三郎に後顧の憂いのないように始末させ、本当に一本立ちになって寛永十一年七月に上洛したが、この時に伝奏中院通村を通して、後水尾帝は家光に対して、「三万石にては御所の賄いは、まことに困難至極、せめて山城一国二十万石を」と仰せられたのに、「はあ」と家光は気軽に承諾してしまった。
 話をきいた土井甚三郎利勝は、とんでもないと急ぎ家光を伴って江戸へ戻ってしまった。しかし、後水尾帝にしてみれば、いやしくも江戸の将軍家光が確約したのに、なんの応答もない。そこで立ち会った中院通村を掛け合いに下向させた。当惑した江戸では伝奏屋敷に彼を閉じ込め、正保四年七月付で伝奏の身分から異例の抜擢で摂家の身分でもないのに、内大臣にして懐柔。慶安元年正月に毒害するまで江戸の権力で押さえつけた。
 なんの音沙汰もしない侭に慶安四年四月二十日に家光は死んだ。そこで学校歴史には全然出ていないが、徳川の血を引く明正女帝に無理に譲位させられ、仙洞御所へ入っておられた後水尾上皇は、山城一国二十万石の約束をはたせようと、討幕の院宣をかねてから次々と出しておられ、島原の乱をも起こさせ失敗されていたが、十四年間の隠忍自重も、もはやこれまでと家光の死をきかれると、この機を逸しては三万石の侭である、せっかく確約させた二十万石は画餅になると、改めてどんどん討幕の院勅をだされた。
 由比正雪、別木庄左ヱ門らも後水尾さまの密勅を受け、討幕のために兵をあげようとしたのである。そこで内大臣をやめさせていた生き証人を幕閣では始末することにした。歴史年表に、「承応二年(1653)二月二十九日前内相中院通村頓死す」と明記されるのも、この裏書である。
 さて公儀でも、いくら皇位継承者がないとはいえ、反幕的な後水尾上皇の末子を人皇第百十一代に迎えるのは難色もあったが、誰にも他にいなかったので、やむをえずとなったのである。初めから厳しい目で後西さまは、京所司代や江戸表から監視されていたのである。
 というのは後水尾さまは徳川秀忠の娘和子を押しつけられた後も、みぐしの局をご寵愛なさり、その間に生まれたもうたのが後西さま。京所司代の圧迫で、みぐしの局の実家は飯米にもことかき、局の実妹は銀二十貫で身売りして伊達政宗にかわれ、その子の忠宗の側室となり綱宗を生んだ。
 さて伊達家も当主になるべき者が次々と若死して、綱宗の代となった。さて後光明帝が崩ぜられ後西さまが即位されると、従弟の伊達綱宗が仙台青葉城主になっているときき、「なにしろ御所の内緒むきは苦しいゆえ‥‥」と姉小路伝奏を無心に使いに出した。
これが公儀の公安局にあたる柳生俊方にさぐり出されて幕閣に報告された。そこでまず吉原が明暦の振袖火事の前で移転していなくて今の東京シティターミナルの葭の原っぱにあり、土手八丁を通ってゆくのではなく、今のコールガールみたいに呼ぶだけの時代なのに、講談では誤って、吉原流連不謹慎のせいとす。が、実際は伊達政宗以来の蓄財を吐き出させる為、飯田橋から市ヶ谷までの外濠工事を命じ資材購入にすっかり伊達家の金を出させてから綱宗を隠居処分にしてのけた。
 そして三年後の寛文三年(1663)正月に、二十七歳になられたばかりの後西さまを、十歳の霊元帝に換えた。仙洞御所に入ってもらっては、ずっと竹矢来をはるのに出費が掛り過ぎると、今の京都御苑の北隅に「後西帝凝華洞祉」の棒杭のあるあたりに、二間四方程の小屋をたて外側に竹矢来をかけたから、外観は竹籠のごとくみえた。つまり後西帝は従弟の伊達綱宗に、御所の勝手許不如意を訴え、献金を求めただけなのに、でっちあげで謀叛通謀とされてしまったのである。
「何人でにてあれ、大公儀に対し異心を抱かれるにおいては、かくの如し」と、見せしめの為に、京所司代の立札が立てられた。そして、この年から貞享二年二月二十二日に四十九歳で崩ぜられるまで二十三年間も、ずっと閉じ込められた侭だった。
 その間に家光の末子上州十万石綱吉は、生母が京都の八百屋の娘の於玉とされているが、当時京坂には多く住まっていた済州島の出身だというので、大老酒井忠清と水戸光圀が反対して、京の有栖川幸仁親王を五代将軍に立てようとした。
 三田村鳶魚の考証にも詳しくでているが、下馬将軍と全盛をほこった酒井は江戸屋敷まで没取され閉門、御三家だが光圀も、水戸の西山とよぶ特殊な居付き地に押し込まれ、竹矢来で出入りを監視された。春日局の孫娘の夫、堀田正俊が大老、前夫稲葉正成と春日局に産まれた子の孫が、若年寄筆頭の稲葉正休と、幕閣が春日局の孫や外孫によって固められていたから、下馬将軍も水戸光圀も、彼らの勢力には勝てずで追い落されて、綱吉が迎えられて五代将軍になったのだ。
 「赤穂義人纂書」に鍋田晶山が詳しく書いているように、済州島の血をひくゆえ、日本人よりは貴種であると、やがて綱吉は千代田城を朝廷とよび幕閣を公家と称するようにさせた。よって京よりの勅使は大納言とか侍従といった官位をひとまず返上。前大納言、前侍従となり無位無官で遠慮して江戸の伝奏屋敷に入り、京へ戻ると前官にまた復していたものである。
 「元禄忠臣蔵」で真山青果が「恐れ多くも勅使下向されて、お戻りになる日に松の廊下での刃傷沙汰は、京のみかどに対しても不敬のきわみ」と書くのは、皇国史観での誤りである。
 さて、「都にては近頃は雀を大籠に入れて‥‥」と始まるこの時代の「京雀」の一巻は、後西さまを憐れんで江戸への当てこすりだったが、それに対しても公儀は神経をとがらせてしまい、「京雀とは、口さがない者が、詰らぬことを言いふらす流言ひがごとなり」ときめつけてしまった。
 さて幽閉された侭の後西さまは、おおいに立腹され、灯油は僅かゆえ夜明けより日没まで、「京こそ体制側であり、江戸は反体制である」と反対立証なさるため、宮中に散逸していた勧学院派の日本書紀の断片を集めてこさせて、改めて、なす事もないから巻子本五十巻に纏められた。
 つまり後西さまは、江戸が朝廷にすり変ってしまった事への憤りから、自分らの方こそ正しいのだと、せっせと口惜しさに書き上げられたのが、今も残る東山文庫所蔵本の成立である。黒板勝美は歴史屋なのに、こうした時代背景をすこしも調べていないから、その巻頭に、「天地に墨界を施し一行十数字の外題なしの渋表紙巻子本五十巻を特に御聴許をえて、東山文庫の貴重なる御本を拝観するを得たるは、無上の光栄とするところなり」と有難がってだけいて、ものを書く衝動とは、憤りか何ともならぬ悲しみと口惜しさだけだとも、てんで気づいてはいない。
 つまり今われわれのみられる日本書紀は、西暦720年のものではなく、江戸時代の五代綱吉の頃の、恐れ多くも後西さまの徳川家に対しての怨みつらみで、よせ集めて書かれた悲しみのもの。「大正三年刊の国史大系の日本書紀」は、やはり江戸時代の松下見林や伴信友の書いたものから作り直した黒板のものなのだが、その後の第九次日本書紀は、後西さまのものなのである。だからして、学校で教わったままでゼロックスもない八世紀のものが、その侭と思い込んで信じている人の書いたものでは、日本書紀の原本が実際は江戸期製とも知らぬための著作ゆえ、それを読んで参考にしては、解明どころか、かえって誤りのもとといえる。

(いまのところ次回に続ける予定だが、長すぎるので断念するかも)





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Last updated  2024年11月29日 17時25分13秒
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管理人様へ  
平安なる毛利夢海 さん
管理人様へ。
肺癌疑い
ステージ2Bの診断を
受けて肺の四分の一を
切除手術することに
なりました。

五年後生存率58.1%
とのことでした。

今の内にネッツ内に
居場所を与えてくれた
ことに感謝を表明します。 (2024年11月30日 10時47分00秒)

ヒポクラテス  
遥かなる毛利夢海 さん
管理人様、
お疲れ様です。

医学の父、と呼ばれる
ヒポクラテスの全集を
読むってのは
どうでしょうか。

私も読みたいものですが、
私はもう生活で
お金の余裕がないのですが。 (2024年12月03日 01時24分25秒)

Re:ヒポクラテス(11/29)  
5dolphin  さん
遥かなる毛利夢海さんへ

こちらもいろいろコメントいただいて、ある意味励みにもなっています。

肺癌ですか、恐らく転移がなければ、5年生存率約60%を余裕で越えるので、3年ぐらいは確実に生きられるわけですから、その間にやりたいことをやるべきです。自分がもし、余命数年の病気にかかったら、それまでやりたいことをやりますね。そして、癌患者に希望を与えるような闘病記を書くと思います。

大体人間の半分は癌でなくなります。自分の母親も大腸癌で告知には耐えられないと思い、告知もなく緩和ケアで亡くなりました。やりたいことをできたのかはわかりませんが、来世で出会うことを願っています。母親には感謝しかありません。

父親は癌ではなく、脳梗塞で寝たきりになって生きているのもわからず亡くなりました。父親は全く我儘な人で、母親には散々苦労をかけて、我儘な人ほど植物人間のようになっても、長生きするのだなと思う典型でした。父親にはもう会いたくないです。

人間は独りでは生きられません。最後は周囲の人に感謝して死にたいものです。自分もいつ交通事故や火災事故など、天災で亡くなるかわかりませんし、今の自分で生きれるだけ生きるしかないです。頑張らずに、自分が思うように生きるべきです。 (2024年12月03日 22時38分47秒)

Re:ヒポクラテス(11/29)  
5dolphin  さん
遥かなる毛利夢海さんへ

ヒポクラテスの体液説は、無料で読めますよ。ただし、現代訳では意味が不明になるので、シュタイナーが、人智学的医学で、エーテル説として現代語訳にして、紹介しています。有名なヒポクラテスの木とは、人間の神経網のことで、人智学のアストラル体を表現したものです。

ヒポクラテスの医学は、唯物論に洗脳されている西洋医学では読み解けません。だから、現代の医学で解釈すると、トンデモ論になります。ヒポクラテスの黒胆汁のみが、肉体を意味し、物質を表します。

だから、血液、粘液、黄胆汁、黒胆汁の4種類を人間の基本体液とする体液病理説はそのまま、人智学の自我、アストラル体、エーテル体、肉体の4つの体の恒常性を意味します。ちなみに癌体質になるのは、エーテル体が、肉体に巧く浸透できずに、肉体が勝手に振る舞い、増殖するためといわれています。とどのつまり、自我が弱いために、肉体を上手く制御できずに、エーテル体が浸透できないのです。早くいえば、新陳代謝不足で、運動不足ですね。適度に日光にあたり、光を人体の太陽神経叢に貯蔵しないと免疫抵抗力がつきません。あとは睡眠不足がよくないです。運動し、睡眠を十分にとる事です。ストレスを溜めると、運動不足、睡眠不足になります

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E4%BD%93%E6%B6%B2%E8%AA%AC (2024年12月03日 23時07分37秒)

リンパ節に転移  
遥かなる毛利夢海 さん
ステージ2bは
リンパ節に転移しているから
だそうです。

私に起きた色々な不思議現象、
前回ぐだくだと
書きましたけど
あれようやく簡潔に
書くことができましたよ。
それは
回心体験と
火と聖霊による洗礼と
悪魔降魔の三つです。
そしてカトリックとして
秘蹟も受けました。
信頼している司祭は
宗教の自由を
分かってくれています。

そして私は
シュタイナーの気質の本を
読んだことがありますよ。
私は自分のことを
粘液質だと思いました。
そして
粘液質にとって、
運動することが
修行になる、とも
書いてありましたね。

でも私、
運動、好きじゃないんだよ、
なー。

あと睡眠不足に関しては
睡眠薬飲まないと
二時間毎に目が覚める
ようになってしまいました。

最近は、8時頃に
睡眠薬で寝てますが
0時頃にまた目が
覚めてしまいます。 (2024年12月04日 02時49分35秒)

やりたいこと  
遥かなる毛利夢海 さん
やりたいことって
もうあんまりないんですよね。
しいていうなら
盛り皿頼みたいですね。

粘液質らしく、
食べることは
好きなので。

運動は嫌いですが。

肺癌という場合、
手遅れになってから
食欲不振などの
症状が出るようで
その前までは無症状な
ようですね。 (2024年12月04日 02時55分02秒)

探究の成果  
遥かなる毛利夢海 さん
私の探究の成果をここで直接、管理人様にご報告申し上げますね。
諸法無我について。これは独立した実体はない、ということですが
お釈迦さまはこのことをどこかで、鼻が目より偉いことはない、みたいな表現をしていたかと思います。これは肉体表面で表現された構成要素の階層構造でしょう。つまり結局、人智学や神智学の
肉体、エーテル体、アストラル体、メンタル体、コーザル体のことでキリスト教では
霊魂体のことを言います。

そして真言宗になりますと
五輪として
地水火風空になります。

また南無妙法蓮華経も
これは知性と生命の
階層構造及びその一体性を
強調したものでしょう。

そして華厳経の
事事無碍法界というのは
物質的宇宙もまた階層構造を
確認でき、
人間の肉体の起動原因も
思考、感情、言葉/意志として
三段階からなる
階層構造をしている、
ということでしょう。

そうしてこの
諸法無我の教えは
生きているものとして
真言宗では
曼荼羅の如来の体として
表現しているかと
思います。

そして諸行無常の教えは輪廻転生とカルマですが仏教ではそれを教えて人智学でもその教えはあります。そして新約聖書においてもエリヤとバプテスマのヨハネを巡る話の中で輪廻転生を暗示しています。また新約聖書の中にもカルマの教えは普通に書いてあり、
たとえば飢えているものは幸いである、満たされるからである、
と書いてあります。
そしてつまり諸法無我も諸行無常も自然界でも人間の肉体としてもどちらでも実際に確認できるわけです。

そしてこのことを覚った人は
楽になり覚らない人は
苦しいことをもって
涅槃寂静と一切皆苦と
呼んでいるかと思います。
以上をもって四法印という
絶対的真理となります。
そしてでは
一切皆苦から涅槃寂静への
道はどうしたらいいのかという
のが苦集滅道で、道において
八正道、となります。 (2024年12月04日 03時16分01秒)

五蘊無我  
遥かなる毛利夢海 さん
そして諸法無我を
人間に適用したら五蘊無我に
なります。
それは数は問題ではなく、
肉体、エーテル体、
アストラル体、自我の
四つやあるいは霊我生命霊霊人
などとして
人間は構成要素から
形成されているので
無我、ということでしょう。しかし、この構成要素の中に霊我などとして真我が含まれているので、真我と無我にしても見方が違うだけということです。 (2024年12月04日 03時21分49秒)

神の世界と人間の世界  
遥かなる毛利夢海 さん
そして
世界観として、
神の世界と人間の世界、
とがあります。キリスト教が言う神と仏教が言う、神は
違っていて
世界観は次のようになります。
欲界色界無色界とがあって
ここまでが人間の世界、で
あります。
ここまでにおける神と呼ばれる
存在も結局は人間です。
キリスト教が言う神は
無色界を超えたところにある
天使大天使権天使
能天使力天使主天使
座天使智天使熾天使、
そして最後に
聖霊、子なる神、父なる神の
三位一体の世界のことを
キリスト教は神と
言ってるわけです。

以上の見解の根拠は
ルドルフシュタイナーが
お釈迦さまのことを
天使となったと言ってた
ことにあります。

すなわち、
無色界の上には
天使の世界、があるわけです。
それは、
存在する世界、であります。 (2024年12月04日 03時46分16秒)

真我と無我  
遥かなる毛利夢海 さん
人間は構成要素の一部分として
真我を持ちますがつまり全体として見れば階層的構成要素から形成されしものに過ぎないので諸法無我というわけです。 (2024年12月04日 07時20分02秒)

管理人様の言うとうり  
遥かなる毛利夢海 さん
私の肺癌の原因、そもそも管理人様の言うとうり運動不足なようです。それ以外に思い当たることがないし、シュタイナー医学で語られてることが、現代医学や伝聞的経験則でも太った人、運動不足な人は癌になりやすい、という結果が出てます。

でも、私、
体動かすこと
そんなに好きじゃないんで
スポーツもしたくないんですね。
まあ食事は好きですが。

昔は、スクワット千回
してた時期がありはしますが。 (2024年12月04日 13時46分10秒)

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