日々の祈り -アッシジのフランチェスコの道

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カテゴリ: カトリック
アドリミナでしっかり宣教するように言われ、高松教区では司教と信徒が裁判。その後を受けた司教の記事である。
mizobe

いささか不敬ではないか、と思わないでもないけれど、以下感想。

ああ、本当にずれてしまったのだなあ、と思う。知らしむべからず、依らしむべし、でOKなおばあさん方を前提にしたこの記事と、あらまし経緯を掴めるデジタル情報を出し入れする世代と。宣教するトップがこの意識だから、一番呼ばれるべき人達に声が届くわけもなく。これ位見事なギャップを感じさせる記事もなかった。いっそトリエントミサがどうしても忘れられなくて、スンモールムポンティフィクムで救われました、というのであったなら、どれ程の敬愛を受けただろうか。

高円寺教会の晴佐久神父はオウム真理教の林被告と同世代同じクラスだったとか。仰ぐべき師を間違えただけで、転地雲泥の差が出てしまう。

私達信徒も、慎重に司教を吟味する必要があるようである。

少なくとも司教様がNovus Ordoでもラテン語のミサをお挙げにならない(なれない)、というのは、悪い冗談以外の何物でもない。毎年秋にカテドラルで執り行われる荘厳ミサの盛況をみれば、ひとつの希望、指針がみえてくる。それすらも司教様のリードではなく、ある同志会(信徒側)によるものである。教勢の衰え、あるいは高松教区での成り行きを考えても、実は現在の日本にいる司教様達は自治能力、といって悪ければ、霊的な教会を経営する能力がない。これだけ魅力がないと一般から受け止められている(カトリック高円寺教会等一部例外を除けば)日本の各司教区の姿は、例えばヴァチカンとの共同司牧が相応しいのかもしれない。今の実力はその程度だと、そういった現状認識を示すことすらタブーなのか。

小教区、というのは、将に小さいので、こうした問題を、はみ出すことなく、現場でフィットさせていくのは、私自身の謙虚さと努力が必要なのだろうな、と思う次第です。





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Last updated  2008.06.08 18:13:46
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