不定期だけど不真面目ではない程度にこの楽天HPを続けてきて、
これが100回目の日記記入となる。
ナントカ記念日とか、キリ番何番とかに対して
「何がそんなにうれしいの?」と思ってしまう私が
こんな100回目の日記記入にこだわるのは
可笑しなハナシではあるけれど。
でもいい区切りなので、
これまで一度も書いたこともないし、
ダンナ以外の他人とは話し合機会の少ない「死」について
ちょっとだけ。
「死」について考えたことのない人は、多分まずいないと思う。
なのに何故私達はそれについて語ることを避けてしまうんだろう。
身近な人の死を思い起こさせて、傷つけてしまうから?
私は自分の父親が「死に至っていく過程」を歩んでいた時期、
一番他人と語りたかったのは「死」についてだった。
どうして人間は死んでいくのだろう。
この体中の細胞がどのように変化していくのだろう。
唯一確かな「自分」という精神は、肉体が滅んだ後どうなってしまうのだろう。
死の瞬間というのはどのような感覚なのだろう。
死んだら「私」はどこに行っちゃうんだろう。
なんで私達は「死」をこんなに恐れているんだろう。
10歳くらいの物心ついた時から「?」だったこの疑問は
今でも私の中で疑問のままだ。
「その時がきたら、こんな疑問がクリアになっちゃうんだろうか。
だとしたら、ちょっとだけ待ち遠しいな」
なんて不謹慎なコトも考えたりして。
「死」は真摯に受け止めなければならない?
「死」はタブー化されている?
「死」は日常生活からは抹殺されている?
そんなに特別なことですかね?
誰にでも平等にやってくる「死」は言い換えれば
誰もが毎日の日常で普通に接していくものなんじゃないの?
ただそれが、ニュースで伝えられる死者数だけだったり
死体なき惨状の現場、その事件の背景説明、嘆き悲しむ親族
そんな形でしか、情報でしか体験できないからリアル感がない。
今の日本で接する「死」は、
棺に収まった「眠ったように動かない」死んだおばあちゃん
せいぜいそのくらい。
私は「死」が怖いのかな?
それとも単純に自分の「死」を信じられないだけなのかな?
もしくは世界中で繰り広げられている惨劇に対して
こんなに冷静でいられてしまう自分がもどかしいからなのだろうか?
不安だから読む本:「チベット死者の書」「臨死体験」「死の瞬間」「死への準備日記」
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