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以前から haseusagi062029141 さんよりお奨めのあった
上野は不忍池際 下町風俗資料館 の入館料の300円は非常に安かったです
何となく深川の 江戸資料館 にも少し似た雰囲気もありますが
私にとっては実体験のある昭和の雰囲気が感じられるこの場所は
予想していた以上に、価値のある空間でした
大正から昭和のこの時代は、いまのように便利な世の中ではなく
物を大切にする習慣、というよりか物がないから大切に使うしかなかった
それなりにいい時代だったのでしょうねぇ・・・
私は昭和30年代・40年代の経済高度成長期に育った世代ですから
だんだんとこのような古き良き生活様式は失われてゆきながらも
年々生活が電化され、日に日に良くなってゆくのが肌で感じられた時代でもありました


▼うちにもこのような裸電球の街灯がありました。 母が暗くなるとスイッチを入れるのが日課でした


うちは一応水洗のトイレでしたが、どこへ行ってもこのような汲み取り式いわゆる「ぼっとん便所」▲ 紙は良くてちり紙なんかがあれば良い方で、普通は新聞紙が切って積んでありました 。物を落とすと大変なことに…
▼よく見ると、電球以外は江戸時代の生活にも似てるような気がいたします。電球はこんな商売屋さん以外は明るいものを使っている家は殆ど無かったのではないでしょうか。とにかく暗い電球が多かった記憶があります。




▼昔はとにかくゴミが出なかった。このようなゴミ箱を隣り近所数軒で共用してました。包装・容器のゴミは殆ど皆無だったですから生ゴミが中心であったような記憶が。 もちろん毎日ゴミを回収しにくるわけではないですよ

▼明治23年浅草に高さ52mという当時としては東洋一の驚異的な高さを誇る八角形の赤煉瓦づくりの凌雲閣(通称・浅草十二階)。大正12年の関東大震災で8階からポッキリ折れてその後爆破解体される運命に。東京のどこからでも見ることができたそうです。いま風に言うと浅草のランドマークタワーということでしょうかね。


昭和7年に森下仁丹が東京進出の際、東京で一番人出の多い浅草に建てた広告塔▲19年に解体。戦後29年に再建の時浅草に馴染みの凌雲閣十二階を模して建て浅草の名物に、その後昭和61年解体。ちなみに中学校時代は毎日のようにここの前を都電に乗って通ったもんです。路線番号は「30番」始発は墨田区の寺島(東向島)広小路を出ると上野・秋葉原を通って終点は千代田区神田須田町でした。定期券は中学生の学割で300円~400くらいだったような記憶が…。
▼大正初期の浅草六区の興行街には劇場、映画館、寄席などが20軒近くも軒を並べていたそうです。


▲昔の仲見世 今の方がお店がせり出していて通路が狭く感じられますね 今の仲見世▼

昭和40年代前半くらいでしょうか、浅草が高度成長期から取り残されて
一時さびれた時は、仲見世に行くとシャッターが閉まっている店が多くあった記憶が…
その後観光で盛り返し、現在は平日・休日問わず賑やかな町に甦りました