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生きがいについて


我が主であるとき、その主体は自分自身である。そのものそのことを主体がすべてという判断をすればよい。普通の自分が普通であるようにすればただよいのだから。

生きがいの源泉、その対象を「生きがい」と云うらしい。生きがいを感じている精神状態を「生きがい感」と呼ぶらしい。心情には理性とは別な道理がある。生きがいを感じている人は他人に対して恨みや妬みを感じにくく、寛容でありやすい。それは自分より幸福な人々に対する密かな憎しみの念が入り込む余地がないからなのであろう。

もっとも多く生きた人とはもっとも長生きをしたひとではなく、生をもっとも多く感じた人である。本当に生きているという感じをもつためには、生の流れはあまりなめらかであるよりはそこに多少の抵抗感が必要である。したがって生きるのに努力をようする時間、生きるのが苦しい時間のほうがかえって生存充実感を強めることが少なくない。ただし、時間は未来に向かって開かれていなくてはならない。言い替えれば人は自分が何かに向かって前進していると感じられるときにのみ、その努力や苦しみをも目標への道程として、生命の発展の感じとして受け止めるのである。 結局人は無限の彼方にある目標を追っている

身を捧げるものが何もないということは、何という欠乏を感じさせるものだろう。幸福とは独立性にあると一見思われるかもしれないが、実際はその逆だ。

支え、それは将来の或ときを待ち望んでただ現在の苦しい生を耐え忍んでいなくてはならない人も、現在の毎日が未来へと通じているという、その希望の態勢に意感が生じる。自分の苦しい生もただ無意味に与えられているのではない。何らかの大きな摂理によって与えられたものだ。それを素直に耐え忍ぶことによってその摂理に参加しある意義を実現することだ、という意味感に支えられている。

生きがい感には幸福感の場合よりも一層はっきりと未来に向かう心の姿勢がある。今に暗澹を感じても将来に希望なり目標があれば、それに向かって歩んで行く道程として現在に生きがいを感じるだろう。反対にはっきりした使命感をもつ人などでは、現在の生活があまりにも幸福で、その幸福感が自分の使命感を鈍らせると感じれば、自我の本質的な部分ではかえって苦痛を覚えるということもある。

生きがい感は自我の中心に迫っているもの。幸福感は自我の一部だけでも感ずることもある。つまりは自我の中心にある幾つかの欲求が満たされるからであり、意識的にせよ、無意識的にせよ、価値の認識が含まれていることが多い。自分の存在は何のためか、誰かのために必要であるか。自分固有の生きていく目標は何か。有るとすれば、それに忠実に生きているか。この二つの内容が一致して、最も人間が「生きがい」を感じる由縁となる。


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