気がつけば、今日も私の詩に「手」という言葉が使われている。
ほんと、飽きもせずにせずに「手」について書き続けているものだと思うが・・・。
それでは、なぜ「手」なのかと考えてみる。
たしかに美しい手は人の目を惹くし、さわり心地もよさそうだ。
残念なことに、私は自分の手が好きではない。
だから美しい手にあこがれているというのもあるのだろうが。
若い女性が気にする男性の身体の「パーツ」が、目とか口とか胸板とかお尻・・・
なんて答えるのに対して、年齢が上がると、「手」と答える女性が増えるのだとか。
やはり、「手」は人生を感じる・・・からかな^^;
ごつごつした男らしい手には、その人なりの人生が、
しなやかできれいな手には、また別の人生が・・・なんて風に。
女性にも同じことがいえるのでしょうが・・・
昔、小森のおばちゃま(古っ!)が、4~5センチはありそうな
大きなデザインリングをしていた。
いぶし銀のようなリングが、しわのある手によくなじんでかっこよかった。
若い頃は似合わないものが、年齢を重ねると似合うようになるってかっこいい。
たとえば、真っ赤な口紅のように・・・
・・・話がちとずれました。
「手」の話ですが、「手」は、つまり、顔以外で一番目に触れやすい素肌であり、
実際に触る可能性が高い素肌でもあるのだから、相手の手をとってみれば
なんだかその人の温かさとか、気持ちが伝わるような感じがするのかもしれない。
私はもちろんのことながら手を繋ぐのが大好きで、単に見詰め合うだけでなく、
手を繋いで見詰め合ったら、きっと心まで通じるような気がしてる。
今日も友達と握手をしてきた。
何も言わなくても彼女のいいたいことが解るような気がした。
言いたいことが言えないときでも、手を伸ばしてそっと触れてみれば、
(たとえそれが、アクシデントを装った故意のタッチでも)
その時に相手の目を見れば、なんとなーく相手の心もわかる気がする。
そんな風に思っているのは、わたしだけ? (笑
2019.06.30 2019.06.30
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