PR
Keyword Search
Calendar
Comments
Freepage List
人気blogランキングへ原爆許すまじ
浅田石二 作詞
木下航二 作曲
ふるさとの街やかれ
身よりの骨うめし焼土に
今は白い花咲く
ああ許すまじ原爆を
三度許すまじ原爆を
われらの街に
ふるさとの海荒れて
黒き雨喜びの日はなく
今は舟に人もなし
ああ許すまじ原爆を
三度許すまじ原爆を
われらの海に
ふるさとの空重く
黒き雲今日も大地おおい
今は空に陽もささず
ああ許すまじ原爆を
三度許すまじ原爆を
われらの空に
はらからのたえまなき
労働にきずきあぐ富と幸
今はすべてついえ去らん
ああ許すまじ原爆を
三度許すまじ原爆を
世界の上に
上に記した歌をご存知の方は、今どれ位おいでになるのだろうか・・・!!!?
私が、初めてこの歌を知ったのは、小学校六年生の修学旅行の道すがらであった。
島根県の田舎の小学校の修学旅行は、昭和42年頃としては、一泊2日のバス旅行が一般的であった。
島根県から一泊2日で行けるバス旅行と言えば、当時まだ高速道路も整備されていない時代であるから、せいぜい隣県の名所旧跡を訪る位が相場であった。
母校西日登小学校を出発したバスは国道54線を一路南に向かい、中国山地の峠越えを目指した。
赤名峠を越え三次の街に差し掛かる手前だったか、三次から広島へ向かう途中だったかに、バスガイドさんが、これから向かう、原爆記念館や原爆ドームの説明をする中で、東京オリンピック最終聖火ランナー坂井義則氏の事や原爆について説明される中で、歌って頂いた、小学生ながらも心にずっしりと響いて忘れられなくなった歌が上記の歌である。
52才になった今でも、一番の歌詞とメロディーは自然に湧いてきて、涙ぐむほどに胸を締め付けるものがある。
母校の日登中学校は、ちょうど国鉄木次線の日登駅の間近にあったことから、広島の原爆被害に遭った人々の野戦病院さながらの臨時治療施設と化し、当時を知る人は、その光景について語りたがらない。
私の母の伯父も徴兵され、満州で砲兵隊の一員として戦い、頬に銃弾を受け帰還し、治療の後再び応召され、広島に原爆が投下された頃、ちょうど広島にいるという知らせを姉である私の祖母が受けていたので広島に駆けつけたそうである。
たまたま、前日、四国に渡っていたため原爆の災禍には遭わずに済んだそうだが、このような話を持った方は、他にも多いはずである。
その伯父も、終戦後は防衛庁の事務官として大阪空港開設のため随分苦労(いつ殺されるか解らないと言っていたそうである。)したらしい。
伯父は49歳という若さで急死(病死)し、祖母も10年前に91歳で逝ってしまった。
戦争の事から、昔の様々な話を、ちょっとした先進的教養を持った祖母(昭和初期地主だった家は、働き手を失い、おまけに火事で家の殆どを消失したため、祖母は田畑を売り払い、大阪の池田でカフェを始めたそうである。)から沢山聞き、儒教的訓等を受けたつもりなのだが、性根を据えて聞かなかったのかどうか、今となっては、もっとちゃんと聞いて置くべきだったと後悔する事、頻(しき)りである。
今日は、長崎に原爆の投下された日(8月9日午前11時2分の事)であります。
修学旅行の在り方、戦争についての学習、人間としての在り方、日本人の本当の姿、諸外国との関係など本当に、この国を考えて行く事の出来る人間を創るために、昔を知る人々は、声に出して伝えなくてはならないと心から願うものであります。
ゴールの無い道標・・・!!! 2010.09.07
円安と国民の幸福・・・!!! 2010.09.06
退院しました・・・。 2010.09.06