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憑依による生活妨害で困ってます。

最初に憑かないようにしてほしい。

最低でも直前で止まれるかどうかだと、過去の憑依者が言っていたが、もっとずっと手前で止まることが重要。 憑依霊は何メートルも離れたところでも意識憑依があるので、その結果として思考妨害だらけであり、直前では近すぎます。


憑依被害で読書妨害もあってどうにもならないため勉強不足ではあるけれど、現在わかる範囲でいいから、見解を書いておこうと思う。





■憑依についてのある種の新しい見解

憑依というものは太古の昔から人類にはあるようだが、古代ギリシャや古代インドに限ったことではないが、憑き物があると祈祷をしたり、新興宗教のように祈祷師が朝まで踊り明かして治療をしたり、言葉や価値観は違えども同様の対応をしてきたと思われる。

シャーマンは魂の存在を知ることができるとして貴重がられただろうが、憑き物がある人の場合はそれが善か悪かがポイントで、また憑かれた人がまともかどうかも重要な判断基準だったと思われるけれど、背景に政治的なものがあることもあり得たので、慎重な扱いが望ましい。

科学的ではなかった時代に病は精神的なところで回復できるかどうかというものだっただろうし、インドのアーユルヴェーダでは生活や呼吸を整えたりリラックスをすることが中心で、もちろんハーブ治療もあっただろうけれど、基本的には自己免疫を最大限に活用したようだ。

もちろん漢方薬などにより治療するということも東洋人はしていたが、憑き物などの精神の病に関しては現代であっても、本質的な治療法は確立していないのではないかと思う。

フロイトが精神分析を発明して患者の無意識の領域で何が問題であるかをつきとめる手法により、神経症を治療するのは少し前までは当然の手法だったようだが、トラウマ研究で過去の経験を想起することによりトラウマの再発が問題になっていたり、認知行動療法などの新たな心理療法が開発されており、その結果として精神分析はいまはあまり使われなくなっている。もちろん心の問題の本質を読んで深い理解から精神の問題を考える姿勢は大切で、それをしないで前向きに誘導したり薬物治療ばかりになる弊害もあるかもしれないが、患者本位の治療を前提にするとプラグマティズム的な効果は否定できない。

憑依というものに関しては前近代的な精神疾患で、フロイト時代の用語でもあるヒステリー性のてんかんを含む症状としても理解されたかもしれないが、いまの時代はかつてとは異なり村社会的な素朴さのなかにいるわけではないためヒステリーという見方より解離性同一性障害の一種と捉えられるものである。
解離性障害とは心が自分自身から離れてしまうようなものであって、自分の周りにベールができて現実が遠くにあるかのように感じられる離人症の感覚が基本だろうけれど、やがて様々な精神症状が現れる。そのなかに多重人格といわれる解離性同一性障害が存在する。

解離性同一性障害は多重人格とされるように、同じ人のなかに複数の人格が存在するものだが、一般人がペルソナを使って本音と建前を使い分けるようなものは自己同一性が維持されるので、自身でその対人対応をコントロールできるのに対して、解離性同一性障害の場合は、本人が記憶という面を含めて別人格を認識できないということがおき得る。では憑依は解離性同一性障害と同じかというと、実際のところは似た側面はあるが、憑依を自己が認識する場合と、周りの第三者が認識する場合とで異なると思われるものの、多重人格でも同様のことがいえるかもしれない。



統合失調症と異なるのは論理性が抑制はされても崩れないので支離滅裂にならないこと、および現実見当識が維持されることだが、しかし解離性同一性障害よりも重いとされる統合失調症の要素があるのだから、ある意味では解離性障害より難しい可能性があるわけで、そういう意味では解離性同一性障害である多重人格において用いられる手法としての人格の統合は、多重人格で問題とされる黒幕との対話によるようだが、そういう手法での人格の統合が可能なのは、黒幕が対話可能で理解があるケースと思われるうえに、臨床現場では統合はうまくいかないという話もあり、憑依の重い被害においては、黒幕と対話して改善して人格を統合する手法がもしかしたら適切ではないかもしれない可能性がある。

近代医学が導入される前の時代、精神疾患は家庭で隠され座敷牢に入れられるか、僧院に入れられるかというものだったようだが、そういう意味では仏教思想は認識論であると同時に臨床心理学、精神医学の類いでもあったと思われる。

もともと仏教は釈迦が梵天(ブラフマン)と自我の魂(アートマン)を同一化するインドの修行(梵我一如)を激しくした結果、どこにも魂など見出すことはできなかったので梵我一如など不可能であることに気付いて、その修行のなかでありのままの状況を観察することから、時間と空間を認識してバランスをとることにより身体や意識が何であるかを、悟ることが可能だとわかったことにはじまる。その結果として、正しく見て正しく認識し考え話し正しく努力し生活して正しい修行と行動すること(八正道)を奨励した。

しかし「正しい」という表現は非常に難しいものであり、人によって「正しさ」が異なることが当然であるケースが多々あるだろうことを考えると、何をもって「正しさ」を定義していいのか分からなくなるものである。

カントは定言命法として他者と自分の人生哲学を同じものに揃えることが「正しさ」であるという構図で定義しているが、集団に歪みがあるケース(ポピュリズムなど)で難しくなりかねない懸念があり得る。

それより遙か昔の釈迦の時代に、何をもって「正しさ」としたのかということだが、釈迦入滅後に釈迦の言葉を後世に残そうと弟子たちが経典に書き留めるようになり、その結果それを検証することが可能になったがために、その後の数百年に亘って仏教学者が議論をして論蔵(アビダルマ)がつくられている。

最も整理された論蔵としてアビダルマ倶舎論があるが、そこでは五位七十五法というかたちでダルマ(法)が煩悩論としてまとめられている。そこには五蘊、十八界、五位という構図による認識論に基づいた六因、四縁、五果というダルマの関係性による特性が因果論として、時間も絡めて(説一切有部では時間を扱う)記されておいる。

また、煩悩の基本である十随眠が、それぞれの欲界、色界、無色界の三界ごとに苦集滅道(四聖諦)で存在する構図により分類されている。

それに基づいて煩悩(随眠)の数を計算すると、一見すれば 10×(3×4)=120 となる。しかし我執、極論への執着、正しくない戒律を奉じることは苦集滅道の四聖諦のうちの苦聖諦しかなかったり、煩悩の大部分を占める理知的な随眠とは異なる、情における随眠の枠が別に存在しており、実際は98随眠となっている。

さらに実際のところは前述の主要な十随眠以外の煩悩やダルマ(法)がたくさんあって、五位七十五法としてまとめられているようだ。これはまるでフロイトの防衛機制や認知行動療法における認知の歪みかのようであり、2千年近く前にこのような手法を見出したということに感心するばかりだ。

例示すると、フロイトの防衛機制には、五位七十五法にある75のダルマ(法)うちの12が当てはまると思われる。



慚と愧が重複するようなので説明を入れておく。

「慚」:自らを観察することで己の過失を恥じる→他者の徳に対する恭敬

「愧」:他者を観察することで己の過失を恥じる→自己の罪に対する畏怖


アビダルマ倶舎論による論理だと、間違った考えや感情を避けるという手法で、「正しさ」を見出すということができるようになる。

フロイトの防衛機制では人が自分を守るために心に防衛網を張っているということがわかるだけだし、認知行動療法は患者個人の判断により問題と自分が思っている思考を改善するだけなので、そこに普遍的な正しさを見出すことができるとは限らない。



世親(ヴァスバンド)は説一切有部を批判的に論蔵をまとめた倶舎論を書いているが、その後に唯識派であった兄のアサンガに影響されて、説一切有部におけるダルマ(法)よりも、唯識派における識の方が矛盾なく正しいのではないかと考えて、大乗仏教の唯識派に移る。

世親(ヴァスバンド)の時代には現代の科学はなかったわけだから、非常に聡明な世親は数百年の議論を倶舎論としてまとめあげたあとに、デカルトの方法的懐疑やフッサールのエポケーのように、ダルマ(法)の存在を疑って、認識(識)があるだけという唯識派になったのだろう。

現代に生きる我々はニューラルネットワークを含めた脳の構造とそれがつくりだす意識の存在を知っているわけだから、そのあり方をどう解釈するかは自由にしても、より賢明な認識をすることが可能と思われる。

科学がなかったがために、原子論を回避して認識論だけにすることで矛盾のない論理を組み立てた唯識派を前近代の学者が選ぶのは当然かもしれない。釈迦の時代であっても、(釈迦は快楽も苦痛も間違いであり中道を選ぶべきであるとしていたが同時に)二律背反に応じない方針を徹底したシッダールタ(釈迦)が、仏陀として矛盾のない正しい立場をとることが可能になっているのと同様だろう。

説一切有部においては、ダルマ(法)は瞬間瞬間のものとされた。それは過去、現代、未来という三世という時間の存在と、因果の関係に、矛盾がない理論を組み立てるのに必要なものだからであるが、これは原子論や唯物論的な現代科学におけるニューラル・ネットワークを前提とした場合には、認識論としても原子論としても正しい可能性がある。

ニューラル・ネットワークにおいては、イオン回路であるニューロンが神経間隙を通じてネットワークを張り巡らせているが、その動作は瞬間の連続であり、その都度前の状況に応じて因果関係かのように、ネットワークの繋がりが変化することで、何らかのものを認識しているからだ。

それは長期記憶の回路であると同時にその瞬間瞬間における認識の回路でもある。それだけではあらゆる認識を記憶するわけにはいかないし、あまりの情報量の多さにより記憶ができるわけもないので、重要なものだけを記憶するための機能として海馬というものが大脳辺縁系には存在する。

それでは仏教理論として記憶はどう認識されているのか。

唯識派には「阿頼耶識」という記憶の貯蔵庫が想定されているが、説一切有部におけるアビダルマ倶舎論の五位七十五法には「念」という記憶のダルマ(法)がある。

アビダルマ倶舎論の五位七十五法における記憶の作用は「念」としかないため、一時的に記憶を保管して重要なものを大脳新皮質に移す役割の海馬のことまでは書かれていないが、唯識派における記憶の貯蔵庫として、阿頼耶識だけでなく末那識というものもあって、解釈をどうすれば矛盾が少ないのかは分からないけれど、海馬の機能を表現するためにはその概念を補足として用いる必要があるのかもしれない。

しかし実際の記憶は、大脳新皮質にニューラル・ネットワークとして保存されており、リアルタイムの認識と過去の記憶は同じニューラル・ネットワークの再現の仕方の違いとして表現されるのだから、説一切有部の三世(過去、現在、未来)の因果における瞬間瞬間のダルマ(法)が点滅しているという認識像は、ニューラル・ネットワークの動作と重ね合わせてみると、脳科学としては正しいといえるのかもしれないし、その中に記憶として「念」があることも正しいように思う。

アビダルマ倶舎論は、認識論でありニューラル・ネットワーク論でもある可能性が感じられる。ということは唯心論であり唯物論でもあるのだが、同時にそれらは人の意識を扱うものでもあり、よって心の問題を煩悩論とした心理学、精神医学でもある。

人は生きて生活している限りにおいて、瞬間瞬間に様々な意識や感情が次々と浮き上がっては消えていくものだが、そのなかに強すぎる欲望である煩悩が含まれたときに、その都度で煩悩を滅するという抑制を適切にする必要があるということになる。

しかし人間である限りは煩悩のすべてを完全に滅することなどできないので、その苦悩のなかで四苦八苦して生きていくものであるから、何事も極論になることを避ける中道のあり方を模索し続けることが望ましいと釈迦は悟ったのだ。

説一切有部や倶舎論においての煩悩は、瞬間瞬間に因果の結果として発生する一時的なものなので、強過ぎる欲望である煩悩に関しては、それが生じたときに滅するという手法が好ましいとされる。

中道者であり極論を遠ざける釈迦は、普通の生きていくために存在する欲までは問題視しておらず、故に問題がある煩悩だけを遠ざけることが、認識論においても心理学としても、社会的実践においても求められる。

その結果として顕れる「正しさ」を理解し表現することが悟りということになるのではないか。


ここで憑依という古代から現代まである精神疾患の一症状においてどう対応すべきかということに戻る。

問題がありすぎる煩悩を遠ざけることは正しいということで、解離性同一性障害において多重人格だから人格の統合をするというスタンスでは、強い煩悩を自己のものとして(跳ね返すのではなく)受け入れてしまうことになってしまう問題に再び辿り着いて困り果てるのではないか。

やっぱり解離性同一性障害の治療としては、臨床現場の声にもあるように、人格の統合は避けた方がうまくいくのではないか。

強すぎる欲望である煩悩を表現する人格に関しては、統合ではなく遠ざけることが必要ということになるだろう。

しかし、人間とは罪深いもので、煩悩という強い欲望を制御することなど、そんなに簡単にできるものではないらしい。

だから親鸞も「悪人正機」として「罪深いから理念(仏)による救いの手が必要である」という種類のことをいっている。








■お願い



憑依による生活妨害で困ってます。

最初に憑かないようにしてほしいのです。

最低でも直前で止まれるかどうかだと、過去の憑依者が言っていたが、もっとずっと手前で止まることが重要。 憑依霊は何メートルも離れたところでも意識憑依があるので、その結果として思考妨害だらけであり、直前では近すぎます。





本来は漫画を描く人ですが、憑依による生活妨害で本当に困っています。一人暮らしなのに、他者の声でいっぱいなのは、憑依者が勝手に喋っているからだけれど、幻聴なので他者には聴こえないのに、誰かが聴いているのか、憑依者が勝手に他者の意識を自分のものかのようにしてボケ防止をしているのだけれど、僕が憑依者を説得しても憑依者御自身が僕を説得しているつもりになるらしく、奏功していない相手が残っているか、卑怯でボケ防止をしたい憑依者が残るのか、それ以外かかのような状況です。

漫画の実力が十分にあるので、プロとして活躍したいのですが、憑依者が意識に24時間介入しているので、ストーリーをつくるための思考すらできないでいます。自分にはストーリーを生み出す才能が非常に高いレベルであるので困り果てます。

漫画界はプロが多く、トッププロでない限りは収入は高くないので、普通はアシスタントを雇うことなどできません。時間内にどこまでできるかという世界ですから、成功した人ほどアシスタントを複数つけて有利になります。

ですからアシスタントを複数つけている漫画さんと比較されても困ります。

アシスタントなしで連載できるレベルは以下です。


もし成功してアシスタントを雇えば、連載ペースでも以下のような仕上げが時間内に可能になります。


大成功しなくてもいいから、何とか憑依者による妨害を避けて、生活再建をして、活躍するつもりです。




大切なことなので、もう一度書きますが、憑依関係者に対してのことばです。


憑依による生活妨害で困ってます。

最初に憑かないようにしてほしいのです。

最低でも直前で止まれるかどうかだと、過去の憑依者が言っていたが、もっとずっと手前で止まることが重要。 憑依霊は何メートルも離れたところでも意識憑依があるので、その結果として思考妨害だらけであり、直前では近すぎます。



関係ある人がいる場合は、お願いします。





もう少し詳しい説明が必要な場合は以下をご覧ください。
https://plaza.rakuten.co.jp/akejy/diary/202502230000/





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最終更新日  2026.04.12 20:51:38
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