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神風特別攻撃隊
仰いだ夕焼け南の空に 未だ帰らぬ一番機
神風特別攻撃隊
フィリピン・レイテ沖海戦より行われた特攻作戦
南溟(なんめい)散った英霊に捧
海 ゆかば 水漬く 屍
山 ゆかば くさむす 屍
大君の 辺にこそ しなめ
かえりみはせじ
作歌 大伴家持
作曲 信時潔
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第一神風特別攻撃隊 敷島隊
昭和19年10月20日、第一航空艦隊、大西瀧治朗司令長官は諸般の状況を判断して、神風特別攻撃隊の編成を発令した。
連合艦隊フィリピン・レイテ湾突入に際し、支援の為
関 行男海軍大尉を隊長して組織されたのが、第一神風特別攻撃隊・敷島隊・大和隊・朝日隊・山桜隊であった。
その後も続々と各隊が組織され、米艦隊へと突入し、散華して逝った。
神鷲の忠烈萬世に燦たりと新聞は報道した。神の戦闘機は忠義を尽くし、壮烈に散った。この世で最高の活躍をしたと言う様に報道されたのでしょう。
死んで、称賛されても仕方の無い事である。当時軍部はこの様に国民に報道し、高揚をかき立て負け戦を隠した。本来なら先に出撃して行った久能好孚(こうふ)海軍中尉が、此処に掲載されるべきなのだが、初めから筋書きは
出来ていたとしか思えません。どちらにもお気の毒と思いますが、軍部の
兵学校出と、学徒の予備仕官の差が此処で露呈したのである。本来ならば
10月21日に出撃し帰らなかった久能好孚中尉が先で、10月25日突撃した
関 行男大尉が2番手に成るわけなのだが、そうは成らなかった。
この報道すら、4日遅れで豊田副武連合艦隊司令長官から、全軍へ布告された
死んだ人間に何の意味があるというのかと思うのは、私だけか?
第一神風特別攻撃隊・敷島隊、関 行男海軍大尉、海軍兵学校七十期出身が特攻、第一号に成るには裏が有ったとしか思えない。
出撃は10月21日より行はれ、この日は敵機動部隊を補足できずに帰投した。
しかし、この日フィリピン・セブ島の基地から飛び立って行った久能好孚(こうふ)海軍中尉(予備学生十一期出身)敵機動部隊を補足出来ない時は
レイテ湾へ行くと言い残して、250キロ爆弾を腹に抱いた零戦は、砂塵を巻上げながら、セブ基地を発進して第一神風特別攻撃隊、大和隊隊長、久能好孚海軍中尉はついに還らなかった。
この敷島隊の出撃は、セブ基地を発進した久能好孚海軍中尉指揮する大和隊
の慌ただしさとは違い、敷島隊のそれは、荘厳な儀式を眺めるおもむきが
したと語られている。それに、この出発の瞬間を日本国内に報道するため、
海軍報道班の腕章を付けた従軍記者達が、敷島隊の特攻第一陣の出撃の栄誉を伝える手はずに成っていた。しかし、この日も敵機動部隊を補足出来ず
帰投し、国民的英雄にとなるべき関大尉は、司令部が予測もしなかった結果を招いたしまった。
敷島隊は10月23日にも出撃したが、敵機動部隊を補足出来ずに帰投した。
この日、セブ基地の佐藤肇上飛曹(丙飛四期)を隊長とした大和隊も出撃、
隊長機だけが帰らなかった。
そして迎えた10月25日ようやく敷島隊は、全機敵空母に突入、戦果が記録されたのである。
敷島隊の戦果は、米、護衛空母・セントロー(撃沈)/サンガモン/スワニー/サンチー/ホワイト・プレーンズ/カリニンベイ/キトカンベイが損傷
一方、21日の久能中尉、23日の佐藤上飛曹の特攻出撃は、ともに戦果確認のないまま、未帰還と報告されただけであった。
しかし、10月25日の出撃が「一号」ならば、その四日前に21日に出撃して
還らなかった久能中尉は、何と呼べばいいやら戦後の実情は、変わっていたようである。
しかもその背景には、海軍兵学校出身の者(関行男大尉)と、海軍予備学生出身(久能好孚(こうふ)海軍中尉)との間にある「差別意識」が微妙に
絡まって、感情的に論議されている様である。
特攻全体、戦争全体から見れば、どちらが「一号」であれ大きな問題ではないにしろ、海軍兵学校出身と海軍予備学生出身という確執が生んだ問題なのか?
今と成っては分からないままであるが、私には、海軍兵学校出の面子に掛けても、海軍兵学校出身者を第一号にしたかったのは、間違い無さそうである。特攻に関しての著作物を読む限り、そう思えて成らない。誰が仕組んだのかは判らないが、基地の上官たちは、殆ど例外、無く海軍兵学校出身者
で占められているので、当然、このような結果に成っても何の不思議はないので有るが、只、戦果確認が出来ないと言うだけで、此れだけの差別が付くのは、あまりにも不自然で成らない。
この件に対し、関行男大尉、久能中尉の両名には何の罪も無いので有るのだが、戦後特攻の話に成ると、両、出身者から出る話のようである。
関行男大尉も有る面で、犠牲者なのである。元々戦闘機乗りではなく、艦爆機乗りで、台南空から201空に赴任するまでは、霞ヶ浦航空隊で、練習生の教官をして、
新婚の妻と土浦に住んでいたが、フィリピン・マバラカット基地へ赴任が決まり、それが本土との最後の別れとなった。海軍兵学校出身者であったばかりに、白羽の矢が立ったのだが、上層部は海軍兵学校出身者なら誰でも良かったのでは無いかと思えて成らない。201空には、関行男大尉と同期の菅野直大尉が居たが、戦闘機乗りで、エース級のパイロットであったため、温存して置きたいと言う意思が伺える。特攻の人選をする前に、上層部は彼に本土へ新しい戦闘機のテストと、受領を兼ねた一時帰国をさせている。
マバラカット基地へ菅野直大尉が帰った時には、一先ず作戦は終はっていた。
菅野直大尉は、開口一番、関のところは俺が遣るんだったがなと言った。
どうせ遣るなら、一番が良いと言った様である。この菅野直大尉は、この後
昭和20年には、本土防衛のため編成された、源田実大佐、率いる当時の新鋭機、紫電改で編成した343空所属と成り、隊長として大いに活躍したが、戦闘中、20ミリ機関砲の筒内破裂で、主翼を飛ばされ帰らぬ人と成った。
この菅野直大尉を書いた本が、最後の撃墜王という題名で出版されています。著者と出版社は忘れました~図書館でお借りしたもので、見過ごしました。
話は戻り、結局戦後もこの問題の結論出ていない。
要するに筋書きは初めから出来ていて、誰が先に行っても、海軍兵学校出身者なら誰でも良かったとしか思えない。
久能好孚(こうふ)海軍中尉の母しずさんの読んだ詩
靖国の 宮にみたまは 静なるも をりをり帰れ 母の夢じに
神風特別攻撃隊の援護も空しく、栗田中将率いるも艦隊も、レイテ湾突入寸前に謎の反転をし、引き返したが、これはいまだに謎である。この作戦を捷1号作戦と言う。此れは
事実上の水上特攻のである。連合艦隊を破滅への序章であった。
航空機を持たない艦隊は、自殺同然の作戦を強いられるのである。
この時は、空母に飛行機も無くお飾りであった。飛行機の搭載されない
航空母艦は、殆ど防御作が無く結局この海戦でも、多大な犠牲を出している
地上部隊の航空機が僅かに支援しただけである。これはと言うのも
地上機を温存する為に取られた処置と思われる。
小澤中将の搭載機無しの裸同然の機動部隊で囮に成り、米機動部隊を引き付けたが、栗田艦隊との連絡も儘ならず、栗田艦隊はレイテ湾には突入はせずに謎の反転をして引き返した。戦艦武蔵を昭和19年10月24日シブヤン海で米軍の集中攻撃に合い、10月24日午後7時半前後にシブヤン海の海の藻屑と化した。その他、大和、長門なども損傷を受け、戦いには参加したが、その他多数の艦船を失った。
事実上、連合艦隊の組織だった作戦は不能となり、特攻に頼る他無くなってしまった。エンガノン岬沖で囮に成った小澤艦隊も、空母・瑞鶴などを失ったが、小澤艦隊の任務としての作戦は成功したと言える。空母・瑞鶴が沈んで行く時に、斜めに傾いた甲板で万歳三唱をしながら、エンガノン岬沖に沈んでいった。此れにてエンガノン岬沖海戦は終結した。多くの犠牲を払い
死を覚悟の囮作戦も幕を閉じたのである。囮と知りつつ豊後水道を通かしていく時の、乗員の心中や計り知れないものが有ったと思われます。
結果、作戦は成功したが、栗田艦隊がシブヤン海での攻撃を凌ぎ、サンベルナルジノ海峡を通過する一昼夜の間、栗田艦隊の行動を容易ならしめた。
その結果、小澤艦隊の代償は決して軽くは無かった。損失は多大な物で有り
航空母艦の全部4隻と軽巡洋艦2隻、駆逐艦2隻を失った。
この、レイテ沖海戦での日本側の被害は、正規空母1隻、軽空母3隻、戦艦3隻
重巡洋艦6隻、軽巡洋艦3隻、潜水艦6隻、計30隻を失った。
敵に与えた損害中、撃沈明らかなるものは改装空母2隻、内1隻は神風特別攻撃隊の攻撃によるもの。他、駆逐艦2隻、護送用駆逐艦1隻にすぎない。
収めた戦果のはなはだ少なきに反して、払った犠牲の如何に多かったかを
見るべきである。全艦隊4艦隊の将兵はこの特攻作戦で、死を覚悟したであろう。が、当の連合艦隊司令長官・豊田副武(そえむ)海軍大将及び参謀長・草加龍之介海軍中将は本土の連合艦隊司令部・神奈川県日吉に在って全作戦を指揮していた。お気楽なものである。山本五十六連合艦隊司令長官などは、南方の最前線まで視察に行って戦死しているのに、この豊田副武(そえむ)海軍大将というお方は、何万もの将兵を特攻に駆り出しておいて、当の御本人は本土でのうのうとソファーに座っていたと思うと、空しさを感じて成らない。確かに最高司令長官が最前線に立つ事は無いとはいえ、もう少し、戦場に近い所にいて欲しかったものである。此れは飽くまでも私の意見であるが。最高司令長官と参謀長が死の命令を出すのですから、それなりの覚悟でいて欲しかった物です。この方も戦後何のお咎め無しでした。
此れでは、死を覚悟の将兵たちは浮かばれません。
連合艦隊は事実上消滅し、昭和20年に大和の沖縄水上特攻で大和も沈没し、此れで完全に消滅状態となった。
しかし、栗田艦隊のレイテ湾突入寸前の謎の反転は、私は評価されるべきかと思う。このお陰で、多くの人が救われたのだから。この時点でレイテ湾に停泊していたのは、殆どが物資を陸揚げする艦艇ばかりだった。この艦艇の
一隻にマッカサー連合軍最高司令官が居た。このまま突入すれば、マッカーサー司令も犠牲に成っていた事だろう。主力機動部隊は、小澤艦隊の囮作戦に誘い出され、小沢艦隊をエンガノン岬沖で、集中攻撃していたのだから。
最後の時を迎えて、傾斜した飛行甲板で万歳三唱を唱える空母・瑞鶴の乗組員。小澤艦隊は空母4隻の犠牲をはらってオトリ任務を達成した。しかし、
米機動部隊誘致の通報は、栗田艦隊には届かなかった。
しかし、栗田艦隊が謎の反転をしたお陰で、確かに多くの人が亡くなったが
生き残れた人も数多く居たのだから、少しは救われれた。若しも突入していたら、両軍に多大な被害が出ただろうし、間違ってもマッカサー連合軍最高司令官が亡くなっていたら、日本はドイツと同じ末路を辿った事であろう。
国が二分すると言う。飽くまでも私の推測だが・・・
このレイテ湾突入寸前の謎の反転は、栗田建男中将が一身に責任を背負った
形になった。その後、戦後も黙して語らず謎のままである。
中将とは言へ戦争が終われば只の人、大変生活は苦しい思いを成されたようで、色々な仕事をし生計を立てたようです。
戦後、1度だけ雑誌、丸の主催で、作家、山岡荘八氏との対談で、謎の反転について、こう述べている。人間というものは、1分でも1割でも生きて帰れる望みのある戦いなら十分な働きも出来るが、生きて帰れないと成ると、話は別だと答えていた。それ以上は語らなかった。その後は又SILENT・NAVYの
まま世を去っていた。私に言わせれば、大勢の人を救った偉い人に見えるのですが、如何な物でしょうか?如何にレイテ湾に第七艦隊だけが、砲弾や
魚雷不足で不利な常態で、物資のの陸揚げの護衛をしていたとしても、
連合艦隊が湾内に突入していれば、両軍に相当の被害が出たのは確かである
。米、高速機動部隊は小澤艦隊を本機動部隊と思い込み、攻撃していたのですから。
特攻攻撃は、始めはこの作戦に限って行われる予定であったのだが、連合艦隊があれだけの被害を出した割には、殆ど戦果も上がらなかったので、又特攻攻撃が再び行はれる様になり、昭和20年8月15日まで行われた。特攻なら
飛行機に250キロ爆弾抱かせて、突入させるだけで済むので再び再燃した。
若き青年たちの心が純心なだけに、更に痛ましかった。
昭和20年も後半になると、飛行機の数も残り少なくなり、旧型や練習機まで持ち出すようになり、敵に届くまでに故障したり、レーダーに見つけられ
待ち伏せされて、全て撃墜という事が殆どだった様である。
思い爆弾を抱いた飛行機では、戦いには成らず殆どが落とされてしまった。
最後には500キロ爆弾を抱いていく飛行機も出て来て、会敵した時などは
動きがとれず、バタバタと落とされていった様である。
その頃には、特攻機も誘導護衛機の援護も無く、単独で突入していく様になり、途中で殆ど目的を達しないまま、撃墜されていった。
昭和19年10月20日、第一航空艦隊、大西瀧治朗司令長官の命令の下に開始された神風特別攻撃隊は、第一神風特別攻撃隊・敷島隊、関行男海軍大尉を隊長とする第一神風特別攻撃隊から始まった特攻攻撃は、翌年、昭和20年8月15日ポツダム宣言受諾後、第五航空艦隊司令長官・宇垣纏中将が、中津留達雄大尉を隊長とする、彗星隊の彗星艦上爆撃機七機に便乗し、昭和20年8月15日午後五時に大分航空基地飛び立っていった。大西瀧治朗中将も、大詔を拝した夜、従容と腹一文字にかき切って自刃した。10ヶ月続いた作戦も此処に幕を下ろした。しかし、矛盾に満ちた作戦であったと言うか、俺も後から続くと言って命令を下した参謀や飛行長は、戦後も責任も取らずに生き永らえた。
関行男大尉は、母一人子供一人で有った為、戦後学校の用務員をして生計を立てて
お墓を作って上げようとした様だが、それも叶わず他界したそうです。
その願を戦友達が、その後、叶えて上げたようであるが。
遣らせる時には、一言、遣ってくれるかで、戦中は神の様に扱われて戦争終われば、皆知らん顔、何と酷い話であろうか。
命じた者と命じられた者の、この戦後の差別を。十死零生を命じた者は後の世を生きながらへ。命じられた者の家族との差は、何なのであろうか。
陸軍・海軍 合わせて正確な数字は定かではないが、約4.000強の特攻隊員
が、若き命を萌やし、南溟の空に海に散華して逝った。
敷島の 大和心を人 問はば 朝日に匂う 山桜花
本居宣長
第一神風特別攻撃隊の名は上記のこの大和魂を詠んだ古歌にちなんで
「敷島隊」「大和隊」「朝日隊」「山桜隊」
と各隊命名され指揮官海軍大尉関行男以下二十四名を以って編成
その後も「菊水隊」「若桜隊」「葉桜隊」と続。
この特攻攻撃に対し、責任を詳しく糾弾すべきで有ったが、何も成されていない様である。第五航空艦隊司令長官の宇垣纏中将などは、ポツダム宣言受諾後の8月15日天皇の玉音放送を聞いた後の夕刻、中津留達雄大尉らを道ずれに、沖縄に彗星艦爆に搭乗し特攻攻撃を実施した。此れは停戦協定違反である。お気の毒なのは、道ずれにされた隊員たちである。家族の怒りは計り知れないものが有ったと思います。特攻戦死なら二階級特進なのに、敗戦後の攻撃だったため、其れも認められなかった。結局、最後は全て大西瀧治朗中将が、特攻生みの親として一身に責任を転化された形で終結した。
しかし、もう何を言っても遅いのである。半世紀以上もの時が経った今、
如何する事も出来ないのである。昭和16年12月8日の勝利が間違いのだったのかもしれない。昭和12年の日中戦争が間違いの始まりであったのかも知れません。アメリカは、巨大化した小さな軍事大国が、目の上の瘤になり経済封鎖や、軍縮などと言いながら、日本を締め付けていったのも事実だと言う事を忘れないで欲しいものです。ルーズベルトに真珠湾攻撃で、日本を潰す
大義名分を与えてしまったのですから。しかし、この大戦とても矛盾しています。糾弾されなければ成らない人間がのうのうと戦後、(源田実大佐などは何の責任も糾弾されずに、参議院に出馬したり、航空自衛隊の幕僚に成った。)結局泣いたのは下の人達だけだったのです。学生まで駆り出して特攻攻撃をさせ、特に中間幹部などは、戦後何知らぬ顔で余生を送ったようです。中には戦後真珠湾攻撃の第一航空艦隊(空母赤城の飛行隊長)淵田美津雄少佐などは、この戦争を悔いて後にクリスチャンになり、世界を布教活動して歩いて巡った。
大西瀧治朗中将の遺書
特攻隊の英霊に日す 善く戦ひたり深謝す 最後の勝利を信じつつ肉弾として
散華せり
然れ共其の信念は遂に達成し得ざるに到れり 吾死を以て旧部下の英霊と其の
遺族に謝せんとす
次に一般青少年に告ぐ 我が死にして軽挙は利敵行為なるを思ひ 聖旨に副ひ
奉り自重忍苦するの誡ともならば幸なり 隠忍するとも日本人たるの矜持を失
ふ勿れ 諸子は国の宝なり 平時に処し猶克く特攻精神を堅持し日本民族の福
祉と世界人類の為 最善を尽くせよ
辞世
これでよし 百万年の仮寝かな
この源田実大佐は真珠湾攻撃時から、連合艦隊航空参謀をを勤めこの艦隊は
南雲忠一中将率いる機動部隊であったが、まるで源田大佐が指揮をしている
様なので、別名、源田艦隊と陰口を叩かれた。南雲中将は只の飾りのような物だった。機動部隊の航空参謀たる者が、用意周到な作戦計画を立て、かつ
それを、戦略戦術の諸原則をに従って慎重に実施すべきでであったのに、
ハワイ作戦後は驕り(おごり)りと先入観と独断から他人の適時適切な
意見具申はいっさい無視して、拙劣きわまる作戦を強行した。その結果、
ミッドウェー海戦では帝國海軍の戦力の中心であった第一線空母四隻と
飛行機約三百二十機、将兵約三千六百名(うちベテラン搭乗員五百名)を失って、敵に対して再び優位に立てなくした。この点について、彼は潔く自分の責任を認めていない様である。
戦後、源田が航空幕僚長として次期主力戦闘機をグラマン、ロッキードの二機種のうちから選定しなければならなくなった時、彼は「もしそれロッキードを採用するならば、航空自衛隊は平時にして壊滅するであろう(従ってグラマンを採用すべきである)と国防会議において堂々と所信をを発表した。にもかかわらず、しばらくすると、平然としてロッキードを採用した。源田の変節と無責任ぶりに防衛庁内はただ唖然とするばかりであった。
ミッドウェー海戦では敵のほぼ倍する航空兵力で、どう見ても負けることない兵力で作戦に臨んでおきながら、参加空母(四隻)と多数のベテラン搭乗員を喪失した。国運を傾けるような敗北を喫した機動部隊指揮官に対して
、山本長官は其の責任を追及しなかったばかりか、そのままの陣容で作戦続行を許可している。如何に、いい加減な作戦が行われたかが此れでわかる。
この海戦でも源田大佐が采配を振るった様なものであった。南雲中将は元来
水雷屋で航空関係は全くの素人であったがゆえに、判断に迷い爆弾だ、魚雷だと決断に迷い、結局最後は特攻に頼らなければ成らない様な戦局にしたのは、この戦いの敗戦が最後まで尾を引いたと言っても過言ではない。
泣くもくも笑うも大将の決断一つできまるのである。
この戦いにおいて、連合艦隊本体は数百浬後方で山本長官以下は日和見を
していた。この時全てを投入していれば、勝敗の行方は違った物
になっていた物を、此れは単に山本長官の責任と問われても致し方の無い事である。なぜこの作戦で最後まで残って奮戦した空母・飛龍の山口多聞少将を指令にしなかったかが悔やまれる。
散々南雲中将の旗艦、空母赤城に意見具申したが、受け入れられなかった。航空機に関しては、山口多聞少将のが専門で、南雲中将よりは数段上であったが、日本の悪い体質である年功序列主義が災いした敗北であった。
結果、最後まで奮戦した山口多聞少将は、飛龍と共に海底へと沈んでいった
責任者である南雲中将や草鹿龍之介参謀長などは生き残った。
山口多聞少将に作戦を取らせていれば、この戦い勝ち目は有ったと思う。
その後、南雲司令官と草鹿参謀長の「復習をしたい」との希望を入れて、彼らに再編成された第三艦隊を(機動部隊)の作戦指揮を許可した山本長官もさすがに源田をそのままにはしておくわけにはいかなかった。
しかし、日本の国運を決めるような大敗北をきっした司令官と参謀長を又作戦に起用する事自体、山本長官の心意読み取れないし、如何かと思う。
この作戦で、生き残った飛行搭乗員はこの作戦の失敗を隠す為に、南方各地のに分散させられ一時本土帰還も許されなかった。
しかも、この作戦自体を国民が知ったのも終戦後だった。
私に言わせれば、山本長官はカリスマ性はあったかもしれないが、作戦に関しては、名将とは言えない。
一度は源田実大佐を、昭和17年7月、瑞鶴飛行長に左遷したが、短期間の第十一航空艦隊臨時参謀を経て、早くも同年十二月には、軍令部第一部第一課の航空作戦計画担当幕僚に栄転している。それ以後、彼のたてた航空作戦が次から次へと失敗して、ついに昭和19年10月には第一航空艦隊指令長官の大西瀧治郎中将をして・統率の外道・だと嘆かしめた、体当たり特攻作戦を採用せざるを得ない状況とならしめた。
その後、源田実大佐は昭和20年1月15日、軍令部員から紫電改戦闘機隊の
第三四三航空指令に転任した。当時は飛行訓練が百時間少々の、飛行機を
何とか操縦できるレベル達した。春秋に富む若者たちが、重い爆弾を抱えた特攻機で、よろめきながら、毎日のように敵艦めがけて体当たりしていた。
此れより三ヶ月前の昭和19年10月15日、台湾沖航空戦の際、第二六航空戦隊指令官(航空機整備担当)の有馬正文少将は、「戦争では年をとった者が先ず死ぬべきである」との固い信念から、参謀たちの制止を振りきって攻撃隊と一緒に出撃し帰ってこなかった。
源田大佐は、源田サーカスと賞讃された程に、抜群の戦闘操縦技量を持っていた。体力の方は戦後、昭和三十四年、年齢五十五歳で航空幕僚長となった時でも、ジェット戦闘機F-86を操縦して世間を驚かせる程の頑健さだった。
それならば、せめてそれまでの罪滅ぼしに、源田大佐は、なぜ終戦前の半年間、紫電改を駆って隊員の先頭に立ち、B-29迎撃に舞い上がり、敵機を一機でも撃墜しようとしなかったのだろうか。
それとも、彼が多年にわたり心血を注いで習得した航空技術は、単なる平時の曲芸飛行ショーの為だけのものだったのだろうか。
この源田大佐は、実戦経験は一度も無い。そんな人間に、日本海軍は振り回されてしまったのである。他の指令や参謀たちが戦後は静かな余生を送ったのに引き換え、日本の行くへを左右するような作戦の失敗繰り返し、大勢の搭乗員を死に追いやり、最後の指揮を取った第三四三航空隊でも優秀な搭乗員たちを戦死させた。それでもなんの責任も問われず、戦後は自衛隊幕僚長、その後、参議院議員にまで成っている。此れを許した政府も政府である。
若くして逝った若者たちに対し、慰霊の心が有ったのか疑ってしまう。
靖国神社の春の梢に花開いた神雷桜
平成15年9月25日(記)
第一神風特別攻撃隊・敷島隊長 関 行男海軍中佐 享年23歳
教え子へ(第42期飛行学生へ)
教え子は 散れ 山桜 此の如くに。
第一神風特別攻撃隊・敷島隊3番機 谷 暢夫海軍少佐 享年20歳
親を惟ひ 国を憂ふる心あらば 身を桜花となりて 散りゆかん
子を思う御国の母は有難し 千里万里もわれを訪ぬつ
山よりもはるかに高し 海よりもはるかに深き 親の恩かな
はじめありて終わりあるもの鮮し
永らくのご厚意を謝す。何一つ
親孝行らしきことなき小生も、
最初の最後の親孝行を致します。
忠孝一致、とは古人、実によく云ったものと関心します。御両親の長寿を切に祈ります。
日の本の空征くものの
心なれ 散るを惜しまぬ 桜花こそ
辞 世
身は軽く つとめ重きを思ふとき 今は敵艦に ただ体当たり
身はたとひ 機関もろとも沈むと
も
七たび生まれ 撃ちてしやまん
第一神風特別攻撃隊・敷島隊4番機 永峰 肇海軍飛行兵曹長 享年19歳
遺 詠
南溟(なんめい)にたとひこの身は果つるとも いくとせ後の春を思えば
平成15年10月02日(記)
学徒出陣予備仕官の句
特攻と散り征く桜 花吹雪 晴れの初陣 生還は期さず
特攻と散り征く桜 花吹雪 幸ある御代に 良くぞ生まれり
平成15年10月02日(記)
(おお) (友)
犬に芸 教え果せて 特攻兵は行き
散るために 咲いてくれたか桜花 散るこそ者の見事なりけり
この詩を読んだのは、鹿児島、知覧特攻基地近くで軍指定の食堂を営んでいた。特攻の母と隊員達から慕われた鳥浜トメさんの詩です。最近では高倉健
主演の、映画・ホタルのモデルに成った人です。
平成15年10月02日(記)
雲湧(くもわ)きて流るはての青空のその青の
上わが死に所
下着よりすべて換ゆればあたらしき我が
命も生まれ出づるか
あと三時間の我が命なり只一人歌を
作りて心を静む
ふるさとの母の便りに強き事
云ひてはをれど老ひし母はも
古川正崇 奈良県出身
神風特別攻撃隊振天隊隊長 海軍中尉(少佐)
昭和二十年五月二十九日
沖縄本島周辺の海上に於いて戦死 逝年二十四歳
特別攻撃隊九軍神
君の為何か惜まん若桜
散つて甲斐ある命なりせば
泣くな、なげくな必ず還る
桐(きり)の小箱に錦(にしき)つけあひ(い)に来て呉れ九段坂
照夫
身はたとひ(へ)、青海のしたに水くとも
遠久(えいきゅう)にいきるは大和魂
昭和十八年八月十日 平野照夫 十七歳
お母上様 兄上様
十有余年の御礼を 今御返へし致します
さようなら
もののふの 誉れなりけり日の本の
神風となり 身は砕け散るとも 銀河(ぎんが)
神田一飛曹
神田爲雄
富山県東砺波(となみ)郡出身
四○六空、神風特別攻撃隊 菊水部隊・銀河隊 鹿児島出水航空隊
一等飛行兵曹
昭和二十年三月二十一日 。
九州東南海面域に於いて戦死
逝年十九歳 (没後、海軍少尉)
御母上様
君のため尽くす命は惜しまねど唯気(ただき)にかゝる国のゆくすえ
たらちねのちゝはゝ迎へん靖国に
明日はゆくなり南冥(なんめい)の空
明日早朝攻撃に向ふ
二千六百年の光輝(こうき)ある歴史
皇国の隆昌(りゅうしょう)を願ふのみ
生前(せいぜん)今日(こんにち)迄(まで)御養育(ごよういく)を謝し(しゃ)
正通は「にっこり」笑って敵に突込む
遥か母上様の御健康を祈る昭和二十年一月三日 出撃前夜 二四〇〇
於比島基地
福山正通
奈良県山辺郡出身
神風特別攻撃隊第十九金剛隊
海軍中尉
昭和二十年一月六日 フィリピン・リンガエン湾に於いて
戦死。 逝年二十二歳
なつかしき故郷よさらば
国家多難の秋 吾(われ)悠久(ゆうきゅう)の大義(たいぎ)に生きんとす
なつかしき故郷よさらば
父上、母上始め皆様に御自愛を祈る
川田茂久
海軍上等飛行兵曹長(少尉)
昭和十九年、神風特別攻撃隊・疾風隊で攻撃中、戦死
逝年 二十歳
あれから一月経った。楽しき夢は過ぎ去って、
明日は敵艦に殴り込み
ヤンキー道ずれに三途の川を渡る
悠久の大義に生えて比の国を
永く護らん醜(ひこ)の敵より
陸軍特別攻撃隊
第五十一振武隊隊長
荒木少尉
昭和二十年五月十一日 知覧基地より出撃し
沖縄方面にて戦死
嗚呼神風特別攻撃隊
無念の歯がみ こらえつつ
待ちに待ちたる 決戦ぞ
今こそ敵を 屠らんと
奮い起ちたる 若桜
この一戦に 勝たざれば
祖国の行くて いかならん
撃滅せよの 命うけし
神風特別 攻撃隊
送るも往くも 今生の
別れと知れど ほほえみて
爆音高く 基地をける
ああ神鷲の 肉弾行
神風特別 攻撃隊
神雷桜花特別攻撃隊
神風特別攻撃隊には、特攻専用に製作された特攻機が合った。
其れが、桜花(ロケット特攻機である)
住友金属鹿島製鉄所敷地内・神乃池基地跡
桜花公園にて撮影
掩体壕内のロケット特攻機・桜花11型
800キロ爆弾を機首に胴体内に装備した、機体事態が爆弾であった。
自走で離陸出来ないため、一式陸上攻撃機の胴体に抱かれ、敵前6000~10000メートルより切り離されて、突入していった。ロケット噴射は6~7秒程度で
後は推進力だけで飛行した。一度、一式陸上攻撃機に搭載されたら、二度と
機体からは出る事が出来なかった。一式陸上攻撃機が撃墜されたら運命を
共にしなければならなかった。何と惨い兵器を作った物か、悲惨としか
言いようの無い飛行機である。其のわりに戦果は上がっていない。
「桜花 練成之地」
碑文
平成15年10月17日撮影
太平洋戦争も一段と熾烈を極めた昭和十九年十月一日、祖国日本の興廃をその一身に背負おうと志願して
きた紅顔の若者達は海軍百里原航空隊で、特別攻撃隊桜花隊を結成。同年十
一月七日この神之池に訓練
基地の設置をみた。やがて神之池基地で至難な訓練を受けた若者たちは九州
最南端の鹿屋の野里村に移
り、鹿屋を特攻基地として祖国の国難に殉じて行ったのである。云わば神之
池は特別攻撃隊発祥の地として
わが日本国民として忘れてはならない、祖国の存立を護った尊い大和魂の故
郷である。
作家・山岡荘八氏書
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