世界最強の零戦隊・ラバウル航空隊

世界最強の零戦隊・ラバウル航空隊










さらばラバウルよ また来るまでは しばし別れの涙が滲む 恋し懐かしい
あの島見れば ヤシの葉陰に十字星と、歌に歌はれしラバウルとは
ヤシの木と、火山灰の舞い散る基地であった。
位地的には、ニューギニア(現パプア・ニューギニア)の東方に位地した
ビスマルク諸島、ニューブリテン島の北東に位地し、日本名・花吹山という200メートル程の火山から、常時黒い煙を噴出す地獄のような基地がラバウル基地であった。歌の文句ほど良いイメージでは無かった様である。


ラバウル航空隊の誕生


東京から南へ3200浬の南太平洋に浮ぶ釜の刃の方をした緑濃い火山の島ニューブリテン島は、第一次世界大戦で敗戦国となったドイツから引き継いだイギリスが、連邦の一員であるオーストラリアの委任統治領としていた。


この島の東北端の、ガゼル半島に位置するラバウルは良好な港湾を持ち、政庁の置かれた緑濃い静かな港町で、二度と歴史の表舞台に登場する事はないと思われていた。しかし、欧州での対戦に続く太平洋戦争の勃発が、いやおう無しにその存在をクローズアップさせる端緒となった。


当時、日本軍はオーストラリアの北に連なる東部ニューギニア、アドミラルティ諸島、ビスマルク諸島、ソロモン諸島などを含む戦域を総呼して「外南洋」あるいは「南東方面」と呼び、大本営はこの南東方面が敵の反政正面になる可能性が強いと考えた。そこで膨大な生産力を持つアメリカが底力を発揮する前に、これらの地域を押さえて、不敗の態勢を整える必要があり、
ニューギニアのポートモレスビーから ソロモン諸島のガダルカナル 島に至る一連の地域に対する攻略作戦が開始された。


この南東方面攻略作戦の目標として選ばれたのがニューブリテン島の ラバウルで、ラバウル占領はニュージーランド、ニューギニア、オーストラリア
への連合軍の補給を妨げた。彼らをドミノ式に倒す拠点になると期待されたからである。。


ビスマルクおよびソロモン諸島の守りはオーストラリア軍の担当だったが、
ニューブリテン島の約1400人の守備兵と、ラバウルにあったわずかな数の飛行機ではとても守リ切れなかった。昭和十七年(1942年)1月22日夜半から始まった日本軍の上陸に対して、ほとんど抵抗する事も無く退却し、翌23日には東と西にあった二つの飛行場を占領されてしまった。


ラバウル攻略にあたってはハワイ空襲で名を上げた空母赤城以下の第一航空艦隊が支援したが、一航艦の零戦隊はほとんど抵抗の無いラバウル上空で、横転、宙返りなどをやって見せたといわれ、それほどに余裕のあるラバウル攻略だった。


しかし、連合軍も手をこまねいていたわけではなかった。日本軍の占領直後から早速ラバウルの夜間攻撃を開始した。ニューギニアの基地を発進した少数の大型機によるもので、数日おきのゲリラ攻撃であったが放っておいては
勝利者の沽券にかかわる。とはいえ作戦に協力一航艦が去った後のラバウルの航空兵力といえば、第四艦隊に所属する水上機母艦聖川丸(きよかわまる)の水上機だけで、どうにも手が出なかった。


ルーツ誕生


一日も早く戦闘機の進出を、との要望に答え、滑走路の整備を待って最初にラバウルに進出してきたのは、千歳航空隊の河合四郎大尉が指揮する九六式艦上戦闘機4機で、航続力短い所から空母祥鳳に搭載して運ばれ一月末にラバウル沖で母艦から発進して海岸沿いの飛行場に着陸した。


ここを日本軍は「東飛行場」と名ずけたが、この後千歳航空隊長岡本晴年大尉指揮の九六艦戦隊もカビエン経由でラバウルに進出し、二月一〇日に河合隊とともに新編成の第四航空隊に編入されてラバウルの防空任務につくことになった。


しかし、この時点で東飛行場にあった戦闘機は岡本隊、河合隊あわせてもわずかに九機、それも固定脚に風防は開けっ放しの旧式な九六艦戦と有って荷が重く、夜間来襲する敵の邀撃に上がっても戦果はさっぱりだった。


四空は二月一〇日の改変で、トラック島で新しく生まれた井上知美中将の
第四艦隊第二十四航空戦隊に属し、陸上攻撃機と艦上戦闘機の混成部隊であった。定数はそれぞれ二十七機ずつで、先に進出していた戦闘機隊に続き
、陸攻隊は二月一四日以降、少数機に分かれて次々にラバウルに到着した。


陸攻隊が着陸したのは、市外後方の丘陵地帯にあるブナカナウ飛行場で、ここは飛行場も広く大型機の使用に適し、戦闘機の東飛行場に対して西飛行場
と呼ばれるようになった。


ラバウルに待望の零戦隊到着したのは二月一七日で、空母祥鳳で六機が運ばれた後、次第にその数をまし、ラバウルの防衛および攻撃能力がました。


最初の陸攻隊が到着した二月一四日、二十四航戦司令部も一緒に進出し、
二月末日までに横浜航空隊の九七式飛行艇十二機、水上機母艦神威とその
その搭載水上機隊など二十四航戦の全力がラバウル地区に展開した。

後年、ここを基地として作戦する部隊を総称して”ラバウル航空隊”というようになったが、そのルーツがここに誕生したのである。


史上最強の台南空ラバウルに進出


二十四航戦司令部が進出直後の二月二十日、哨戒機がラバウルの七五度、約四〇〇浬に空母1~2隻、戦艦1隻を基幹とする敵機動部隊が、西方に航行するのを発見した。まだ開戦早々でソロモンやニューギニアに有力な基地を持たなかった連合軍にとっては、空母の艦上機こそが唯一の強力な攻撃航空兵力だったのである。「すは好敵出現」ラバウルの陸攻隊はふるい立った。


開戦3日目の昭和16年12月10日、マレー沖でイギリス戦艦プリンス・オブ・ウェールズおよびレパルスを撃沈して以来の、陸攻隊にめぐってきた久々の大チャンスであった。


四空の陸攻十七機は、初の出撃とあって基地全員の熱狂的な見送りの中を次々に離陸し、上空で旋回しながら編隊を組むと東の空へ消えた。しかし、零戦は掩護に同行出来なかったのに加え、航空魚雷も未到着とあって水平爆撃と成ったため、陸攻隊は帰ったのはわずか四機という大きな被害をだした。しかも爆撃の成果もゼロであった。


それから四日後の二月二十四日、陸攻九機を祥鳳運ばれてきた最初の零戦六機で掩護してポートモレスビーを攻撃したが、敵機との遭遇は無く、二十八日、三月十一日にも進行、そして三月十四日にはオーストラリア東北端のホーン島に攻撃をかけた。


陸攻八機を掩護した河合四郎大尉指揮の零戦十二機は、攻撃してきたP40ウォーホーク戦闘機と空戦をまじえ八機(うち不確実二機)を撃墜したが、零戦二機が未帰還となった。


第二十五航空戦隊の進出


四月一日、再び航空隊の改変があって四空は陸攻隊だけの航空隊となり、それまでの戦闘機隊は台南航空隊(台南空)に編入された。台南空は同じ台湾の高雄を基地としていた第三航空隊(三空)とともに、緒戦の日本快進撃の牽引役をうけたまわった輝かしい戦闘機隊だが、四月に中旬にその本体が到着するとラバウルがパッと明るくなった。


四空から台南空に移った戦闘機パイロットのなかには、日本海軍のナンバーワン・エースとなった西澤広義一等飛行兵曹(戦死後二階級特進で中尉)がいたが、台南空本隊には、後に西澤一飛曹とともに”ラバウル三羽烏”として有名になった笹井醇一中尉や坂井三郎一等飛行兵曹らもいた。彼らによる華々しい撃墜競争はこの後の事に成るが、台南空に先立って第二十五航空戦隊(二十五航戦)司令部もラバウルに進出し、短期間に戦力を消耗した二十四航戦代わってラバウルの主役となった。


二十五航戦は台南空の戦闘機、四空の陸攻、横浜航空隊の飛行艇などで構成されていたが、陸攻隊には一空の一部と元山航空隊の九六式陸上攻撃機なども加わり、精鋭台南空の掩護によって、おりから開始された東部ニューギニアの要衝ポートモレスビーに対する全力攻撃を開始した。この攻撃が功を奏し、この方面の制空権を握ったと判断されたので、モレスビー攻略に向かう
陸軍南海支隊を乗せた輸送船団は、第六戦隊の重巡と空母祥鳳の掩護下にラバウルを出港した。


これとは別に第五航空戦隊の大型空母・翔鶴もソロモン諸島の南側を行動して作戦を支援し、モレスビー攻略は疑いも無く成功と思われたが、暗号解読によって日本軍の行動を知っていた。


日本のモレスビー攻略企画を粉砕すべく、アメリカ側はなけなしの空母2隻、ヨークタウンとレキシントンを出動させたが、日本側の唯一の情報を得る手段であった索敵機の敵機動部隊の発見が遅れ、五月七日午前、攻略部隊の掩護に同行していた空母祥鳳が撃沈されてしまった。


翌く八日になって五航戦はやっと敵機動部隊を発見し、レキシントン大破
(あとアメリカが処分)ヨークタウン中破の損害を与えたが、こちらは祥鳳を失ったほか翔鶴損傷、飛行機約100機と祥鳳30パーセント、翔鶴40パーセントの搭乗員の喪失と言う大きな被害うけた。そのうえポートモレスビー上陸作戦は延期されてしまったので、実質的には敗北ひとしい結末と成った。


これがいわゆる「珊瑚海海戦」であるが、このために五航戦の翔鶴と瑞鶴が作戦に使えなくなたことが、1ヶ月後に起きたミッドウェー海戦に微妙に影響したことを考えると、因果といわざるを得ない。


攻撃逆転の”最初の兆し


珊瑚海開戦に続く二度目の空母同士の決戦と成った(日本側は敵空母の出現を疑問視していたが)ミッドウェー海戦で、日本海軍は五航戦の二隻の空母欠いた残りの四空母を移動させ、アメリカ軍の三空母と対戦したが、米側ヨークタウン一隻を喪失に対し、日本側は赤城、加賀、蒼龍、飛龍の四隻を一挙に失われたしまった。


このミッドウェー海戦を境にして日米の攻守が入れ替わる事になるのだが、その最初の兆しが、連合軍による八月七日のガダルカナル島上陸であった。
ガダルカナル島はビスマルク諸島に続くソロモン諸島の東寄りに位地する大きな島で、アメリカとオーストラリア間の連絡や補給を脅かすには絶好の場所だったので、日本軍は密かに飛行場を建設しつつあったが、其れを知ったアメリカ軍は飛行場完成寸前にこれを奪い取ってしまった。


この時期、ラバウルは基地機能も拡大され、東(ラクナイ)西(ブナカナウ)南(トベラ)北(ケラバット)の四飛行場が有り、台南空を中心とした約六十機の零戦、ほぼ同数の九六式及び一式陸上攻撃機、それに二七機の水上機と横浜航空隊の九七式飛行艇があったが、敵の上陸初日からガダルカナル島の敵上陸地点に対する猛攻が開始された。


珊瑚海海戦で海からするポートモレスビー攻撃をあきらめた日本軍は、陸路による攻略を企画して大規模な作戦を開始していたが、ラバウルからも戦爆連合の攻撃隊が盛んに出動して空からの支援を行った。


八月七日、この日はニューギニア南東端にある敵航空基地ラビを空襲すべく準備中の攻撃隊に、ガダルカナル沖の敵輸送船団撃滅の命令が下った。しかし、ラバウルから敵船団のいるルンガ泊地までは片道五六〇浬(往復二一〇〇キロ)もあり、一人乗りの戦闘機にとっては大変つらい行動となる。この日を境にラバウル航空隊の損害が急速に増大していったが、すでに六〇機以上を撃墜し、ラバウルの撃墜王争いの頂点にあった坂井三郎一飛曹が発日に負傷し戦列を離れ、八月七二六日にはラバウルのリヒトホーフェンをめざしていた笹井醇一中尉も戦死してしまった。(リヒトホーフェンとは第一次世界大戦で撃墜王であったドイツのパイロット、通称・レッド・バロン)


第六航空戦隊の誕生


四月一日、航空隊の改編で四空の戦闘機隊が陸攻隊と分かれて台南空へ編入されたが、その同じ日、内地の千葉県・木更津基地で新たに戦闘機の第六航空隊(六空)が編成され、第二六航空戦隊に編入された。六空は第一段作戦を終えて内地に帰った緒戦の立役者台南空および三空熟練搭乗員を基幹とし、あとは大部分が経験の浅い若年者で占められていた。


この六空がラバウルに進出し、消耗した台南空に代わって主役の座を占めるのはそれから半年後のことになるが、この間の六空のがたどった道は紆余曲折に富んだものだった。その初陣は以外に早く、空母から発進した一六機の
B-25ミッチェルの爆撃機による四月一八日のいわゆるドーリットル空襲の時で、飛行隊長新郷英機大尉指揮の零戦一二機が加賀の戦闘機隊とともに陸攻隊を掩護して出動したが、めざす敵空母を発見する事無く引き返した。


二度目の出動はミッドウェー作戦で、六空戦闘機隊はミッドウェー島占領後、飛行場に進出する大役を割り当てられ、別に1部をもってアリューシャン作戦にも参加することになっていた。六空は二手に分かれ、指令森田千里大佐、少し前に新郷大尉と変わったばかりの新飛行隊隊長兼子正大尉らの六機が赤城、飛行長玉井浅一少佐らの十機が加賀に、三機ずつが蒼龍と飛龍に搭載されてミッドウェーに先任分隊長宮野善次郎大尉引き入る一二機がアリューシャン にそれぞれ向かった。


アリューシャン組みは、ダッチハーバー攻撃の第一日は悪天候で引き返したが、第二日目も攻撃を掩護して宮野大尉と尾関行治一飛曹の二機が参加し、迎撃してきたP-40戦闘機を宮野大尉機が一機、尾関行治一飛曹二機それぞれ撃墜した。また、空母の上空哨戒に上がっていた岡本重造先任搭乗員と平啓州一飛曹が、敵の哨戒飛行艇PBYカタリナをそれぞれ一機ずつ撃墜して六空戦闘機隊の名を上げた。


ミッドウェー組みも負けていなかった。空母赤城上空直衛に上がっていった兼子飛行隊長、岡崎正樹一飛曹倉、内隆二飛曹は、空母を雷撃にやって来た
B-26マローダー爆撃機六機をそれぞれ二機ずつ、全機を撃墜する目覚しい活躍した。空母に乗って活躍したベテラン搭乗員に対して、経験の浅い搭乗員たちは整備員と一緒に輸送船に乗ってミッドウェーに向かっが、四空母の喪失で引き返し、トラック島経由で内地に戻った。ミッドウェー進出の夢も破れて再び木更津で練成を開始した六空であったが、戦局の急速な展開は六空の速やかな前線進出を強く促した。


三二〇〇浬の大遠征


兼子正大尉に代わって小福田租大尉が六空飛行隊長として着任したのは八月初め、ちょうど連合軍のガダルカナル上陸のころだった。小福田租大尉は練成が終わった時点で六空の行き先は単に南方とだけしか聞かされていなかった。其れが急にラバウルと決まったのは連合軍のガダルカナル進行で急遽増援が必要と成ったからだが、六空のラバウル進行にはいろいろ問題があった。


当時、六空に早く六〇機の零戦と100名くらいのパイロットが居たが、練成半ばの若年者が多かったので、部隊としての戦闘はおろかラバウルまでたどり着けるかどうかさえ危ぶまれる状態であった。といって空母で運ぶには離着艦の訓練が必要で、先に熟練者だけが小福田隊長の指揮で空路先発する事になった。八月一九日、選抜された熟練者ばかりの六空零戦隊一八機が、総員「帽降れ」の見送りの中を、ラバウルに向けて飛び立った。


一式陸攻の誘導で、硫黄島、サイパン島、トラック島を経由して約1週間でラバウルに着いた。トラック島出発後故障で引き返した二機を除き全機無事だったが、約三二〇〇浬に及ぶ単座戦闘機隊空中移動のこうした例は勝手なく
、これが以後内地からラバウルへの戦闘機隊進出の前例となった。


空中移動の先発隊に約1ヶ月以上遅れたが、森田指令や宮野大尉を指揮官とする後発の搭乗員たちは、零戦二七機とともに空母瑞鳳で九月末から一〇月初めにラバウルに到着して戦闘出撃していた先発組みと合流した。だが空路トラックからラバウルに飛んだ先発隊が、故障機も含めて全員無事だったのに対し、空母瑞鳳で行った後発隊からは三名の犠牲者を出した。トラックとラバウルの中間あたりで、瑞鳳から発艦した二七機のうち一機はエンジン故障で海上に不時着、他の二機はニューアイルランド島の手前に立ちはだかる雲にさえぎられて行方不明になったもので、空母を発進して洋上を三時間も飛ぶことはまだ彼らにとって無理だったようだ。


飛行機隊とは別に、整備隊や基地隊員たちは、基地物件を満載したりおん丸と慶洋丸に分乗して九月九日木更津を出航、サイパン経由で一〇月七日ラバウルに付いた。この二隻の船には戦闘機隊である六空のほかに、陸攻たいの三沢航空隊の(後の七〇五空)の隊員たちも乗っていたが、そもそも彼らの行く先は建設中だったガダルカナル島飛行場であった。しかし、ガダルカナルに敵が上陸したため、ラバウルおよびブーゲンヴィル島ブインんき目的地が変更になったのだ。こうしてみると、最初行くはずだったミッドウェーは敗戦で駄目になり、次の目的地であるガダルカナルも敵に飛行場を取られて進出不能と成るなど、二度まで行く先を失った六空のラバウル進出は因縁づくめであったといえる。


ガダルカナル攻防戦


六空進出前後のラバウルは大変な状況にあった。ちょうど連合軍がガダルカナル島に上陸する前日の八月六日艦上爆撃機と戦闘機で編成された第二航空隊が到着したが、消耗する機材の補充が追いつかないため、約1ヶ月のうちに
戦力は半減してしまい、二空より先住民である台南空も、常に二〇機前後にとどまるか動機の少なさに悩まされた。


ことにガダルカナル攻防戦が始まってからは、ラバウルとガダルカナル中間に飛行場を作らなかった不手際から、戦争機隊は往復1000浬以上の長距離進行を強いられる羽目になり、飛行機の損害とともに搭乗員の疲労もその極限に達した。このため前途のように六〇機以上撃墜の記録を持つ坂井一飛曹や笹井中尉が負傷あるいは戦死したのをはじめ、高塚寅一飛曹長、羽藤一志二飛曹、国分武一二飛曹といったエースたちが戦死した。


そんなラバウルに到着した小福田大尉指揮の六空先遣隊は、到着早々からニューギニアのラビ、ポートモレスビー、ソロモンのガダルカナルへと、疲れた二空、台南空に代わってこの方面の主役の座についた。そして後続の本隊の到着をを待って本格的な活動が開始されたが、敵との交戦よりパイロットとたちにとっての難事は、艦隊や船団上空直衛の任務であった。


ガダルカナル島への我が増援部隊および物質の輸送は、足が遅いため犠牲の多い輸送船を避けて高速の駆逐艦で行われていたが、駆逐艦でも明るいうちにガダルカナルに行くとやられるので、日か暮れてから着くようにしなければ、ならない。このため六空戦闘機隊はガダルカナルにいくらか近いブカ島の基地に進出し、日没までの時間を四交替で駆逐艦部隊の上空直衛に当たる事になった。


急増飛行場であるブカには夜間着陸の設備が無いので、帰投夜間になる四直の零戦は基地に帰ることが出来ず、薄暗くなるギリギリまで掩護したのち駆逐艦の近くに着水し、搭乗員だけを集容するという無理を強いられた。四直には熟練パイロットが当てられたが、彼らの技量をもってしても薄暮の着水は極めて危険で、特に着水面が荒れていたり高度設定が困難な状況では犠牲者がでた。


森田指令以下の本隊がラバウルに進出して4日後の一〇月一一日陸軍第二師団の兵員および軍需品をつんでガダルカナルに向かう巡洋艦二隻と駆逐艦六隻の上空掩護を、六空零戦隊が担当した。この作戦に呼応した基地航空部隊によるガダルカナル攻撃もあって艦隊は敵機の妨害を受ける事無く揚陸に成功したが、六空は悪天候のため二直の三機が行方不明に、海上に着水した四直六機のうち高い波浪に二機が飲まれ、宮野隊長ともう一人が重傷を負うと
いう大きな損害を出した。優秀な搭乗員を一挙に五名も失い、そのうえ宮野隊長を含む二名負傷という悲報を聞いた森田指令は、急増の指揮所折椅子に身を沈めて涙を流していたという。戦場の常とはいえ、無理と犠牲を承知であえて部下に困難な任務を強いなければならない指揮官の苦衷は察するにあまりあるものであった。



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